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愛媛大学医学部付属病院

2012年02月17日 | 伊予松山歴史散策
愛媛県の医療中枢センターである愛媛大学医学部は東温市にある。
最近検診に行く事が多くなった。今日も行ってきた。
医学部は、昭和44年に設置され、同48年に開校、同51年10月付属病院外来診察開始され現在に至っている。

全国的に見て愛媛大学医学部設置は遅いと思う、私的な考えだが伊予松山は寛永12年(1635)第3代将軍・徳川家光は伊予松山城主を、桑名藩城主11万石の松平定行(徳川家康が伯父)を15万石で転封させ四国及び瀬戸内海沿岸の外様の監視役とした。以後伊予松山藩は親藩として明治維新を迎える。

伊予松山藩城主第14代松平定昭は若くして気性が強く衆にすぐれており幕府の期待するところ大きく老中に抜擢された。しかし松山藩はこの多事多難の時期に当たり老中就任は喜ばないものが多く大政奉還後職を辞するようにすすめ老中就任一ヶ月足らずで辞した。

鳥羽伏見の戦いが始まり戦いに参戦したが、会津藩・桑名藩は老中辞任を不愉快とし阻害した。松山藩は藩士を率いて伊予に帰国した。伊予松山藩は幕府からは阻害され、朝廷側からは朝敵となりその後土佐藩預かりとなり伊予松山藩は軍費15万両の上納を課せられ明治を迎えた。

朝敵となった松山住民は誰からも助けが無く、一心に勉学に励み学問で身を立てた。そのためであろうか??秋山好古・秋山眞之・正岡子規・勝田主計・河東碧梧桐・・高浜虚子・安部能成・加藤恒忠・新田長次郎・井上要・等々の人物を輩出した。

時は流れ昭和戦後、他県よりも遅れ昭和44年にやっと松山に医学部が設立された・・これは親藩として維新を迎え、幕末に幕府の命により四国軍の先鋒となって長州征伐に参戦したため愛媛大学に医学部設置が遅れたのか??

平成20年5月9日東北に旅行した時某県は戊辰戦争で最後まで朝廷側と戦ったため医学部設置が遅れたと聞いた。・・松山もそうかも??


東温市志津川にある愛媛大学医学部付属病院・正面玄関


診察病棟の南側にある入院病第一病棟


第一病棟8Fから見た風景・遠くの山麓は、砥部町・松前町方向


付属病院受付・・愛大医学部付属病院は先生、看護士さんの患者さんとの応対が大変親切で全国でも有名な病院である


図書室、入院・外来患者が利用できる


病院レストラン


診療病棟から入院病棟に通じる廊下に飾られている雛壇・・患者さんの気持ちを和らげられたらとの思いやりで職員さん達が行っている
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