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俳句の街松山の句碑巡り 1

2013年09月26日 | 伊予松山歴史散策
正岡子規は東京・根岸の自宅で明治35年9月19日午前1時、自宅で亡くなり享年36歳でした。子規の祥月命日の9月19日、松山子規会(会長:井手康夫)主催の法要と記念講演会が 子規の遺髪を埋葬した松山市正宗禅寺で開催され記念講演もありました。講演は、子規会副会長和田克司氏が行い、正岡家の最新情報を織り込まれた素晴らしい内容でありました。
私は俳句の嗜みは全く無い者ですが、和田先生の講話を聞き市内に建立してある句碑を巡って見たい気持ちに駆り立てられ、カメラ持参で数回に区切り独断と偏見で巡り歩く事にしました。松山ゆかりの代表的な俳人は、正岡子規・高浜虚子・河東碧梧桐・夏目漱石・種田山頭火・野村朱燐洞・石田波郷・中村草田男・篠原梵・柳原極堂であるがその他多くの俳人ゆかりの句碑があります。先ずはその第一弾です。松山市内に句碑が500基位建立されているのでは??子規の句碑だけでも55基あるそうですから・・全部巡るのは大変です。


先ず始めに、句碑と言えば何をさておいても、一番は、「春や昔十五万石の城下哉」JR松山駅前にある松山を代表する俳句である。
子規は新聞「日本」の記者でしたが、明治27年に勃発した日清戦争に従軍記者として参加することを志願し、周囲の反対を押し切って明治28年、中国へと旅立ち、この句は、従軍の前に松山へ帰郷した三月中旬に詠まれたと言われいている。伊予松山藩は、江戸幕府の親藩であることを子規は、誇りに思っていた。十五万石の城下町も今は昔となってしまった。故郷松山を慈しみ、目に焼きつけようとするかのような句である。 現在、JR松山駅前の広場に句碑が建てられ、松山を訪れる人々を出迎えています。松山には、「春や昔十五万石の城下哉」の句碑が三ヶ所に建っている。一つがJR松山駅前、二つ目が子規記念博物館の横で、三つ目は、松山市勝岡町の松山発電所記念公園にある。


句碑は、JR松山駅前の松山東警察署JR松山駅前交番の前に建立してある。


「春や昔十五万石の城下哉」の句碑裏面で、昭和37年5月建立・・松山市長 黒田政一、寄贈 創立50周年記念 松山信用金庫理事長 そして施工者、石工サン達の名前が刻印されている。


二つ目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑で、この句碑は、3回移転されている。最初に建立されたのは、昭和24年4月4日で、場所は、国鉄松山駅前(現JR松山駅前)次に、昭和28年松山市駅前ロータリー東端、そして昭和52年城山公園野球場前に移転され、平成11年3月現在地(子規博)横に移転され現在に至っている。句碑石は、正宗禅寺(子規堂)にあった自然石(伊予青石)である。句碑裏面には、昭和24年4月4日  松山市観光協会 後援 井関邦三郎、越智日新、明比森行と刻印されている。
以上、写真と資料は、松山コンベンション協会所属・松山観光ボランティアガイドの会、元役員 増山正則氏提供。


子規記念博物館正面で、「春や昔十五万石の城下哉」の句碑は右手に再建立されている。


三つ目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑で、場所は、松山市勝岡町の松山発電所記念公園にある。この句碑は昭和48年に造られて、平成15年9月18日、開園記念として四国電力が移転建立。揮毫者は不明。
公園の面積は、松山坊っちゃんスタジアム3個分程度と広々としている。この地は、元四国電力松山火力発電所の跡地である。


松山市勝岡町の松山発電所記念公園・松山太陽光発電所の表示板。
松山発電所記念公園は、正面玄関管理事務所に申し出ると利用出来る。(公園利用規則に基づいて)


松山太陽光発電所の発電パネル。


現役当時の、四国電力松山火力発電所で、昭和33年9月1号機が稼動、出力6万6千KW、2号機が昭和35年8月稼動、出力7万5千KW、で稼動していたが、平成13年3月その使命を終えた。・・この画像は松山発電所記念公園に設置してある。
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