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日本100名城紀行 小諸城

2010年09月16日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 小諸城
 
9月5日新潟市歴史講演会、6日新潟市江南区沢海地区の慰霊祭も無事終わり午後1時に北方文化博物館の館長様にお別れの挨拶を済ませ神田さんの見送りを受け帰路に着いた。

これからが日本100名城紀行である。
磐越道新津ICから磐越道に乗り、新潟中央JCTから北陸道経由、上越JCTで上信越道に乗り更埴JCT経由して小諸ICで降り小諸城に着いた。

小諸城見学して再び小諸ICから上信越道下り線に乗り長野IC近くの今夜の宿である松代に向った。

小諸城
天文23年(1554年)に竣工し、武田信豊が入城した。
武田氏が滅んだ後は滝川一益、ついで徳川氏が所領し、小田原攻めでの功労が認められ5万石で大名に再び列せられた仙石秀久が天正18年(1590年)に入城した。秀久は関ヶ原の戦いでは東軍についたが、その後も元和8年(1622年)に2代忠政が上田城へ転封となるまで居城した。

江戸時代には小諸藩の藩庁が置かれ、その後は松平氏、青山氏、酒井氏などが封じられたが、元禄15年(1702年)に牧野康重が移封された後は国替えは行われず、牧野氏10代康済の時に明治を迎えた。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(28番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
現在は、当時の建造物は石垣と現在の懐古園の入り口の三の門、市街地に存在する大手門のみが現存している。これら2つの門は共に国の重要文化財に指定されている。その他、天守台、石垣などが現存する。

現存する三の門は1615年に建てられたが、洪水によって崩壊し、現在のものは1765年に再建されたものである。大手門は近年まで民家として利用されていたが、平成20年(2008年)に再び門として修復、復元された。
また、種田山頭火が佐久市岩村田を訪れた際にこの歌碑に触れた文や俳句を残しおり、両文人の愛好者が訪れる名所となっている。

現在残っている城跡の元になったものは信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられているが、根拠となる史料はない。
と頂いた資料には記載してある。
小諸城は、日本100名城第28番目の指定で、私は61番目の紀行である。

画像は、小諸城大手門で、慶長17年(1612年)当時の藩主、仙石秀久が築いた。二層入母屋造りで石垣と門が一体化してない事や、一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、二階は居館形式をとっている事など多くの特徴がある。

この門を建てる時大工は江戸から呼び、瓦は三河(愛知県)から運んだとされ、当時は瓦屋根は珍しかったため「瓦門」と呼ばれていた。明治維新後は民有となり小諸義塾の仮教室となり、また料亭として利用されたが、平成20年江戸時代の姿に復元された。青森県弘前城とともに大手門の双璧と言われている。

国指定の重要文化財に指定されている。
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