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土居通増・得能通綱の活躍

2010年01月22日 | 伊予松山歴史散策
土居通増・得能通綱の活躍

土居氏・得能氏の功績
1333年12月北条高時は自殺して鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇の理想とする王政の政治体制が復活したが、公家と武家のへだたりは無くならず国民の期待を裏切る事が多く信頼をつなぐ事は出来なかった。

当時、武家最高の家柄と最大の実力を持った足利尊氏は、北条時行が乱を起こしたのを好機に鎌倉に下り武家政治の再興を呼号した。鎌倉に居た伊予の河野通盛は意を決して、尊氏に付きその部下となり旧領であった伊予の総領職にした。

通盛は、伊予に帰郷し武家勢力の拡張をはかり、尊氏は一度京都を制圧したが宮方の軍に阻まれて大失敗し海路九州に逃れた。軍を建て直し東上しこの時、郷里伊予に居た通盛は、部下の村上水軍を送り、尊氏の水軍と合流させた。朝廷では新田義貞を救援するため楠木正成を遣わし尊氏軍を阻止した。

土居通増・得能通網は、新田義貞の軍中にあって尊氏の大軍と戦ったが防戦出来ず、ともに戦った楠木正成は戦死した。・・これが湊川の大合戦である。

尊氏は、再び京都を占領し天皇は、新田義貞・土居通増・得能通網・忽那義範・忽那重勝らの擁護で延暦寺に幸した。義貞は北国に赴く途中深雪寒風のなか尊氏の大軍と遭遇、後陣にいた土居通増は戦死、義貞は難を逃れ1337年3月、金ヵ崎城で足利尊氏の大軍の猛攻をうけ得能通網も壮烈な戦死を遂げた。

河野通盛は、尊氏と行動をともにしていたが同年7月以降、伊予に在国し河野氏の発展に尽力した。
以後室町幕府が開かれるのである。

画像は、この戦いで戦死した土居通増・得能通網が後醍醐天皇に尽くした勤王の石碑であり(松山市土居町:土居遊園地)、秋山好古揮毫石碑写真集、P22記載の忠魂碑は得能通綱の戦歴と御霊を祀りしの碑である。
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