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星岡表忠之碑「土居通増・得能通綱と星ノ岡の戦い」

2010年01月20日 | 伊予松山歴史散策
星岡表忠之碑「土居通増・得能通綱と星ノ岡の戦い」

仙波太郎は、陸軍中尉時代に、土居氏・得能氏の功績をたたえて、明治15年に星岡山山頂に「星岡表忠之碑」を建立した。

表忠之碑は、鎌倉時代の末期、幕府の力が弱まってきたころ、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取りもどそうと討幕を計画し戦いを起こした。 

1333年3月12日に伊予の国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれ河野一族の久米郡(松山市土居町)の土居通増(みちます)と桑村郡得能(西条市丹原町)得能通綱(みちつな)は宮方についた。 

瀬戸内の宮方の取り締まりに来ていた幕府方の長門探題長官、北条時直は、2月2日越智郡の石井浜(今治市近見)に上陸、土居氏・得能氏と戦い共に敗退した。 

軍を立て直し3月12日に水居津(松山市今出か三津付近)に上陸した北条時直は宮方の中心である星ノ岡城を占領したが、土居・得能らの連合軍の攻撃開始で激戦となり戦線は平井付近まで及んだ。
「東温市下林の築島神社に南北朝古戦の塚がある。」

その時の戦場になったのが、宮方の土居氏の館から2Kmはなれた「星岡の戦い」で宮方が勝った。此れが全国に波及して1333年12月北条高時は自殺して鎌倉幕府滅んだ。
 
北条時直と伊予の朝廷方の旗頭土居・得能軍との戦いの場所は、現在の石井・久米・小野地区に及ぶ大合戦で、此れが星ノ岡の合戦である。

土居氏の古蹟地に土居・得能勤王之碑・土居兵庫守霊廟・土居通増公供養等・五輪墓がありますので一度行って見て下さい。(松山市土居町・土居遊園地)

画像は、この時の戦いを後世に伝えるために仙波太郎が建立した「星岡表忠之碑」である。場所は、松山市星岡一丁目町1番「星ノ岡山頂」

註:秋山好古揮毫写真集P22掲載の忠魂碑は得能通綱の戦歴と御霊を祀りしの碑である。



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