海軍兵学校跡石碑
明治19年(1886)10月30日、眞之は尊敬する兄、秋山好古の了解を得て東京築地、この地にあった海軍兵学校に入学した。
兵学校の起源は明治2年創設の海軍操練所で、翌年海軍兵学寮と改称、さらに明治9年に海軍兵学校と名前を改めたが明治3年海軍兵学寮に入学した生徒から第一期生とした。
明治16年東京で初めての赤煉瓦造りの生徒館が落成、この建物は東洋一大きな2階建ての堂々たるもので、あと海軍大学校の校舎となる。
明治21年8月13日兵学校は江田島に移転する。
秋山眞之、「第17期生・明治23年7月17日卒」は江田島への移転を強く訴えたその理由とするところは
第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ海軍の志操を堅実ならしむるに在り。
第二,生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け精神勉励の一途に赴かしする に在り。
第三,生徒の志操を堅確ならしむるため繁華輻輳の都会を避くるを良策とすと いうのであった。
眞之が江田島に移転した海軍兵学校は未だ教室は完成しておらず、軍艦で授業を受けたとある。
1.碑 文:海軍兵學寮跡・海軍軍醫學校跡
2.所在地:東京都中央区築地五丁目1番1号
国立ガンセンター内
画像は、平成17年9月12日、国立ガンセンター管財課の許可を得て撮影した。
明治19年(1886)10月30日、眞之は尊敬する兄、秋山好古の了解を得て東京築地、この地にあった海軍兵学校に入学した。
兵学校の起源は明治2年創設の海軍操練所で、翌年海軍兵学寮と改称、さらに明治9年に海軍兵学校と名前を改めたが明治3年海軍兵学寮に入学した生徒から第一期生とした。
明治16年東京で初めての赤煉瓦造りの生徒館が落成、この建物は東洋一大きな2階建ての堂々たるもので、あと海軍大学校の校舎となる。
明治21年8月13日兵学校は江田島に移転する。
秋山眞之、「第17期生・明治23年7月17日卒」は江田島への移転を強く訴えたその理由とするところは
第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ海軍の志操を堅実ならしむるに在り。
第二,生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け精神勉励の一途に赴かしする に在り。
第三,生徒の志操を堅確ならしむるため繁華輻輳の都会を避くるを良策とすと いうのであった。
眞之が江田島に移転した海軍兵学校は未だ教室は完成しておらず、軍艦で授業を受けたとある。
1.碑 文:海軍兵學寮跡・海軍軍醫學校跡
2.所在地:東京都中央区築地五丁目1番1号
国立ガンセンター内
画像は、平成17年9月12日、国立ガンセンター管財課の許可を得て撮影した。