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兵法経営塾第3回

2012年12月07日 | Weblog
統率・統御

 『上州箕輪*7)の城主、長野業政(なりまさ)*8)とその子業盛(なりもり)がひとしく武田信玄に対し、同じ場所で、同じ部隊をもって戦い、業政は大勝し、業盛*9)は大敗して滅亡した事例を引いて、統率力において、子は父に遠く及ばなかった』とある。

 解説によれば、当時の豪族は中核となる城を持つだけでなく、周囲に幾つもの砦を持っていた。主力部隊同士が睨み合い戦闘する状況に応じて、砦の役割も変化し機敏に的確な役割を果たせるかが大きな組織力の差になる。すなわち一国一城の主は、これら組織全体を統率する力量を持たねばならない。すなわち同じ部隊が同じ戦闘の布陣を布いたとしても、周囲の砦群まで一瞬の隙もなく統率する力量がなければ、巨敵に勝つことは難しい。統率力の差が父子の勝敗を分けたというのだ。

 衆院選挙戦が始まり、いつものごとく立候補者の世襲が問題になったりする。破れかぶれの政権党は、兎に角、野党の弱みを突くことに必死だけれど、急に世襲を禁止しても素人政治が蔓延るだけだ。政治の世界の世襲を必ずしも正義とは思わないが、立候補するのは個人の自由で、選ぶ権利は国民にある。国民の判断を信じるしかない。しかも世襲には子供のころから帝王学を学べる良さがある。すべてを排斥するのは、どこかの馬の骨の横暴である。

 口先だけの人材を育成した感のある松下政経塾が成功したとは思わないが、各政党が同様の政治家養成機関を持って、世襲に頼らない資質ある人材を育成する必要はある。政党助成金は人材育成のためにも使うべきだ。
 
 長野業政、業盛親子も当然に世襲であったが、業盛も武勇に優れていたといい、世が世なら後継者として不足はなかったのではないか。子が父の天賦の才の全てを受け継ぐのは難しく、また経験の不足は大きい。父と同様の統率力を持つには若すぎたに過ぎない。

 とはいって重要な「統率力」でありながら、『かつての我が国の陸軍士官学校や海軍兵学校に於いてもリーダーシップを専門とする講座はなく、陸海軍大学校は参謀養成学校であったため当然にそれはなかった。結果、統率や指導の理論化ができておらず、とくにその定義がはっきりしていないため、議論しても噛みあわず結論が出ない』。

 兵法経営塾では、この統率・統御・指揮に定義を与える。さらに「号令」、「命令」、「訓令」などの違いについても明確にしているのだ。

 『我々は本能的に「命令」を嫌う傾向があるが、それは「命令」というものを理解していないためで、真剣に仕事をしていないことによる。・・・「命令」は、受令者にあることを実行するように要求するとともに、その結果起こり得るトラブルについては、一切発令者が責任を負う保証なのである。・・・上司は命令すべきものであり、部下は命令を歓迎すべきものである。・・・「命令」の二大要件は「命令者の意図と受令者の行うべき任務」である。受令者の任務だけを示したものは「号令」であり、逆に発令者の意図だけを示して、実施方法を受令者に一任するのが「訓令」である*10)。・・・(「号令」も「訓令」も命令であることに変わりなく)、いずれの方式をとる場合でも、それを実行した結果については発令者の責任である』。

 では、「統率」とは、『「人事権にもとづく強制力を持つ者」が行うのは、それを意識して行使するとしないとを問わず統率であり、それを持たないものが行うのは指導である。・・・統率とは、統御し、指揮することである。・・・統御とは部下にやる気を起こさせることであり、指揮とは部下のやる気を生かすことである。・・・指導とは人びとの支持を得て、これを誘導することである』。

 「統御」のための社会的勢力として、①報酬勢力、②強制勢力、③正当勢力、④準拠勢力、⑤専門勢力の5つがあり、それはリーダーシップの源泉であるとされた*11)。この兵法経営塾の理論では、統御の法則として、第一法則、成功する。第ニ法則、利益(賞)を与える。第三法則、恐怖(罰)を与える。第四法則、感情を刺激する。となっている。

 なかでも賞罰のさじ加減は難しい。グローバル化が進行した昨今、日本企業でも欧米並みの成果主義が取り入れられたが、単なる賃金抑制策の一環として導入された趣もあり、結局定着しなかったのでないか。この頃では、終身雇用や年功序列という安心感が、却って全体としての成果を高めるという説もある。企業の業務内容だけでなく、その国の文化や風土によっても人事管理手法は異なって当然であり、賞罰も要は程度問題であろうと思う。






*7) 現在の群馬県群馬郡箕郷町
*8)長野業政(1491~1561)。業正と表記している場合もある。隣国の武田信玄から6回にわたって城を攻められたが、これをいずれも僅かな兵で撃退したと言う。
*9)長野業盛(1546-1566)。父、業政の死によって14歳でその家督を継ぐ(兄はすでに討ち死にしていた)。武田軍に敗れ自害した時は19歳であった。<By Wikipedia>
*10)『この他、相手が高級者である場合には、「情報」を伝えるにとどめる方がスムーズに事が運ぶ。』(本文から)
*11)中小企業診断士基本テキスト「企業経営理論」2006年TAC中小企業診断士講座による。

本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊に基づき構成し、『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています。

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