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司馬遼太郎「義経」を読む 第40回

2022年08月28日 | ブログ
平家滅亡

 『壇ノ浦の合戦は、義経にとって四度目の成功である。成功というより、ほとんど魔術的ともいうべき勝利であった。平家五百艘の水軍を西海にほろぼし、おもだつ敵の武将たちを海底にしずめ、その総帥の宗盛父子を捕虜にし、三種ノ神器のうちの神剣をのぞく二種を得た。この日、寿永四(1185)年三月二十四日であった。源氏はこの日をもってその武権を天下にうち樹てたというべきであろう。・・・』

 平家は滅んでも、この義経の物語は続く。白拍子「静」とのこともある。最後は、「義経こそ賊である。追討せよ」との法皇から頼朝への院宣によって、義経は、諸国の山河にかくれ、転々としつつ、朝廷と鎌倉から追跡され、ついに奥州の平泉まで逃げ、追い詰められ、最後に衣川の持仏堂に逃げ入り、自害した。その首が酒漬けにされて鎌倉へ運ばれてきたとき、頼朝は、「悪はほろんだ」といった。それを聞き及んだ世間の人々は、「悪とは、なんだろう」ということを一様に考えこまざるを得なかった。後世にいたるまで、この天才の短い生涯は、ひとびとにその課題を考えさせつづけた。と、司馬遼太郎さんはこの物語を終わらせている。ここまで、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にしています。『 』内は直接の引用です。

 ここからは、この物語(小説)の個人的な想いのようなものである。この物語は1966年2月から1968年4月まで、「オール讀物」に連載され、原題は「九郎判官義経」であったそうな。単行本「義経」は1968年発刊されたとある。司馬遼太郎さんが、あの「竜馬がゆく」を出されたのは1963年のことで、ほぼ同時代である。明日に後期高齢者となる私が高校を卒業して就職したのが1966年のこと、その2年前(高校2年生)東京オリンピックがあった。また大阪万博は昭和45年(1970年)だった。高度経済成長の下、その時代の影響を受けた形跡はこの小説にない。ただ、平家の没落、源氏の台頭の歴史の中に、司馬さんは、情報の重要性、現場現実主義、スピード、過去の事例や因習は、目先の戦略には邪魔であり、踏み越えてゆかねばならないものとして、新規戦略性の重要性を訴えている。太平洋戦争に従軍した人間からの(経営)戦略への教訓が込められているように思える。

 「竜馬がゆく」は坂本龍馬ファンを全国に産んだ。私より2学年若い、金八先生こと武田鉄矢氏など、自分のバンドグループ名を「海援隊」としたくらいだ。また孫正義氏も龍馬の熱烈ファンのお一人だ。各地や企業内にも「龍馬会」がたくさん出来たほどだ。

 一方、この「義経」は人間的に未成熟で、好色で、天才にありがちな片端的な人物として描いており、「京の五条の橋の上・・・」と童謡に歌われた「牛若丸」のイメージ、その身体能力の素晴らしさはそのまま描かれてはいるが、龍馬のように多くの絶大なファンを呼び込むような人物には描かれていない。

 幼帝(八歳)と平家の最期の武将や貴婦人たちは壇ノ浦に沈んだが、清盛の娘で幼帝の母である建礼門院(平徳子)は、源氏兵に海から救い上げられて生き残った。今年6月25日放送のNHK「ブラタモリ」では、建礼門院がその後を生きた、京都大原が紹介されていた。「恋に疲れた女がひとり」訪れる癒しの里、京都・大原・三千院。この歌も小説「義経」と同時代に生まれ大ヒットした。永六輔作詞、いずみたく作曲、歌、デューク・エイセス。因みに「恋につかれた」は「疲れた」ではなく「憑かれた」であるそうな。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第39回

2022年08月25日 | ブログ
海戦・壇ノ浦

 義経が、敵の船頭や水夫を射殺すという禁断の作戦を立てておれば、知盛も九郎義経を打ち取る為、囮(おとり)作戦を立てる。御座船の中身をすり替えて、主将の義経をおびき寄せて討つという。御座船には、幼帝が三種ノ神器とともに座乗し、幼帝の御生母であり、知盛にとっては妹にあたる健礼門院、そして知盛らの生母の二位ノ尼と前内大臣宗盛が大勢の女官とともに乗っている。御座船は、東シナ海を渡って渡宋出来るほどの大船で、作りかたは唐船であり、どこから遠望してもそれと認識できる。

 御座船から帝以下のひとびとを他の船に分乗し、御座船には雑兵を容れておく。勇を好む義経は必ず御座船に近づいてくる。そこを打ち取るという作戦である。

 二十四日の朝八時、平家の陣形は整っていた。全軍を三段に分け、先頭は北九州の水軍として知られた山鹿秀遠、第二陣は肥前松浦の松浦党、第三軍は平家一門で構成された本軍であった。「押せや」知盛の号令で全軍が浦を発進し、激流に乗り入れ、一斉に東進を開始した。潮の流れはまだゆるやかである。

 源氏は、櫛崎港の沖の二つの岩礁(満珠島、千珠島)の水域で待ち構えていたが、平家が動いたとみるやほとんど同時にともづなを解き、船を進めた。しかし思うようには進まない。そこへ平家軍がなだれ込むように突入する。源氏軍は陣形をずたずたに引き裂かれ、早々に統一指揮ができなくなった。しかし義経は騒がない。陣形が四分五裂しようと、この六時間を乗り切ればよい。そんな中、軍艦梶原景時は独自の戦い方で貢献する。流れの緩やかな岸辺に船を寄せ、中央から外れてくる平家船を熊手で引き寄せ、乗り移って斬りまくった。平家もその対応に船を岸に寄せれば、義経が陸上に配備していた騎射隊の出番である。

 乱戦の中、知盛は義経の乗船をさがし、目星を付けて弓上手に射こませた。両軍遠矢競う中も乱戦であり、源氏は潮流にどんどん押される。―――勝ったわ。と平家の誰もが思った。知盛は攻め太鼓の皮も破れるほどに打たせ、急攻を命じ続けた。

 しかし、平家軍から寝返りが出た。阿波の豪族の田内成良(でんないしげよし)の船団である。義経の屋島乱入のときにその子、教良(のりよし)が源氏に降伏しており、この戦場では父子が敵味方にわかれていた。知盛からみれば、田内は敵に通じているとしか思えない動きを察知していた。事前に斬ろうと考えたが、宗盛に証拠がないと阻まれていた。

 知盛は、優勢を保ちつつも決定的な痛撃を与えられないまま、時が過ぎることに(九郎は、潮を知っているのではないか)と、思うようになった。あきらかに義経は時をかせぐ戦い方である。知盛はこのあたりで敗北を予感し始めた。ついに陽は三時に傾き、潮目が逆転した。

 義経は激しく攻め太鼓を打たせ全軍を突撃させる。義経は田内成良から平家の御座船のからくりを聞く。田内はさらに貴人の乗り換えた船をいちいち指さして義経に教えた。源氏軍は猟犬のように目標に向かって進み始めた。防ごうとする平家船は、船頭、舵取、櫓漕ぎが射殺され、波間に漂うようになった。知盛は一門に覚悟をせまるべく最後の行動に出る。彼の母である二位ノ尼はじめ身支度を始めた。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にしています。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第38回

2022年08月22日 | ブログ
壇ノ浦の義経

 義経が最後の当錨地である周防大島を離れたのは二十二日の早朝である。追い風に恵まれその日のうちに下関海峡の東口に着いた。この長門(山口県)海岸に、櫛崎(くしざき)の港がある。義経はここを海戦の本営とした。ただ、港は狭くすべて船は入りきらず、沖の岩礁の間に舟懸かりとしてともづなを結びあい、帆柱をつらね、白旗をかすみのごとく吹きなびかせた。壮観である。この海岸から、平家の田ノ浦までは五キロそこそこしかない。

 その間を壇の裏の潮流が音をたてて流れている。義経はこの流れをはじめて見た。さすがに声をうしない。(これほどの流れか)と思った。それでも最急潮時からみればさほどの速さではないという。義経のそばには、周防の船所(先祖代々の周防の海上官)五郎正利が居る。海事知識にくらい義経を補佐した。

 軍艦の梶原景時は、相変わらず開戦をせかせたが、義経は慎重であった。正直、この目で現実の潮流を見たとき、驚きと不安が胸中に渦巻いた。(いま一日、この潮流をみたい)そう思った。(知盛は、この潮流をよく知っている。当然にこれを利用してくるだろう)出来ればそれをうわまわるだけの知識と作戦を考えたうえで漕ぎ出したい。

 この夜は、碇をおろしたまま宿営した。双方の船篝火の物凄さは戦士たちの心を夜が明けるまで慄わせ続けた。夜明け前に義経は八艇櫓(はっちょうろ)の早船を出させ、潮を見た。「今少しかなたへ漕げ」潮流知識の教師である船所正利はこれを激しく咎めた。潮流に船を入れてしまえば敵の方角に流されてしまう。

 義経は、時間ごとに船を出しては、終日観測した。高潮、落潮、低潮、漲潮、高潮、落潮、低潮―――と昼夜繰り返してゆくこの変化の凄まじさはどうであろう。潮から潮へのあいだがまた微妙であるが、義経はただ、一日のうちどれが勝つための潮かという単純なかたちで整理した。それは午後三時からの潮とみた。この時間に潮は一旦停止し、速度は零になる。その状態を過ぎると、潮流は変化し、いままでの東流が西流に変わり、東方の源氏船が潮に押されて進み、平家船が潮に流されて退く形となる。その速度は午後五時四十分ごろに最も激しくなり、源氏船はどんどん進んでゆく。(その時間に勝ちを決せねばならない)

 知盛は平家にとって都合のいい東流の時間を選んで来るであろう。義経は当然受けて立たねばならない。時間にして六時間あまりの間、源氏船八百艘は流され続けてゆく。平家船五百艘は労せずして進みに進む。苦戦になる。この六時間をなんとか持ちこたえて敗れるまでに至らねば、午後三時以降において逆転できる。

 この六時間をどう保(も)たせるか。そのため陸地に遠矢を飛ばしうる者を選抜した騎射隊を置く。加えて当時の海戦においては、敵船の船頭や梶取りを狙い射ることは不文律であったが、義経は直参の伊勢三郎義盛を使いとし、「それが水軍の常套手段でござる」と全軍の諸将を納得させた。

 知盛は奇襲と急襲の好きな義経が、一日動かなかったことに疑問を持ったが、まさかこの一日を潮流の研究に充てたなど、彼にとって他愛なさ過ぎて思い至らなかった。知れば二十三日に押し出したであろう。知盛は攻撃日を二十四日とした。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にしています。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第37回

2022年08月19日 | ブログ
壇ノ浦

 義経が出航したのは、三月二十日の早暁である。伊予今治から来島海峡を抜け、斎灘(いつきなだ)で帆をいっぱいにあげて西に向かって航走した。この船団は百艘である。しかし味方は、小舟をとりまぜて八百艘。しかし、平家五百にわが軍八百。義経はよく行って互角とみている。この戦の平家は、新中納言(知盛)の指揮の下、その水軍の中核は、玄界灘で鍛えた北九州の精鋭である。筑前(福岡県)山鹿秀遠三百艘、肥前松浦半島一帯の海上武士団である松浦党百艘が、坂東の馬乗りに潮のからさを味わわせてやると待ち構えている。

 義経は二十一日、周防大島の海港に入ると、すでに先着の船が碇をおろして待っていた。上陸して土地の寺を陣所として休息していたところに、源氏範頼軍の有力な将の一人である三浦介義澄が船十艘を率いて義経軍に合流した。範頼軍が九州にわたるとき、義澄は周防の守備を命じられて残っていたのだ。義経は大いに喜び義澄を歓待した。この度の海戦には、小舟一艘、軍兵一人でも多く得たかったのである。しかも周防の守備をしていてかの海峡の地理に明るい三浦介は、この海戦の源氏軍先陣に相応しい。翌朝、源氏の船団はいっせいに碇をあげ、纜(ともづな)を解き、壇ノ浦に向かった。

 『源氏の水軍が接近している。平家は、田ノ浦のみなとに軍船五百艘を集結させてそれを迎撃しようとし、待機していた。・・・「新中納言さえおわすかぎりは」・・・平家はこんどこそ勝つ。勝たねば日本六十余州のうち、平家のゆきつくところがない。・・・しかしその知盛が、ここ数日、めだって無口になった。ことに源氏の水軍が八百艘であるとの諜報を得たとき、(とても勝てない)と思った。・・・(かえすがえすも)と、知盛は悔やんだ。かれの無念は、讃岐の屋島をうしなったことであった。屋島をうしなうまでは平家は瀬戸内海の制海権もっていた。瀬戸内海の両岸の山陽道と四国の水軍はほぼ平家を盟主とたのんでいた。しかし屋島の本営をうしなったことで、かれらは、―――もはや平家はこれまで。とみきりをつけ、そのほとんどが源氏に味方をしてしまった。その結果が、源氏の八百艘であった。・・・敗因は、他にない。平一門の当主である兄宗盛の人間離れのした臆病さと無能さによるものであった。・・・』

 源氏の水軍が、周防の大島で最後の碇伯(ふなどまり)をしたことを聞いた夜、知盛は平一門第一の猛将であり、知盛の従弟にあたる能登守教経(のりつね)にこの度の海戦の作戦を語った。肝は、この日本でもっとも潮流の激しい壇ノ浦に源氏をおびきよせたこと。この潮流を利用して勝つ。知盛は、この壇ノ浦の潮流の性格を、地元の漁師から聞いて諳んじている。平家の基地港を豊前(九州)側の田ノ浦においたのも、潮流を考えた上のことで、田ノ浦のそばの潮流はこの水域でも最大の流れで、しかも田ノ浦港の前でゆるゆると大きく旋回している。この流れに乗って源氏水軍を圧迫し、三方から源氏軍を包囲して一挙に壊滅する。

 ただ、潮流は一日うちで気ぜわしく変化する。朝の八時半頃、大河のごとく、沈々とゆるやかに流れる落潮が東に向かって流れ始める。平家船は自然に進み、源氏船は自然に退く。その潮は時と共に速くなり午前十一時過ぎにもっともはげしく、一気に源氏を圧迫できる。ただ、午後三時に、潮の流れは逆転する。それまでに勝敗を決せねばならない。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫から、『 』内は直接の引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第36回

2022年08月16日 | ブログ
源氏八百艘

 『ニ月二十四日は、瀬戸内海一帯に細雨がふった。朝は霧が海峡をとざし、本土の山も九州の山も見えない。「かような日こそ、用心をせよ」と、彦島の知盛は、配下の哨戒部隊に手きびしくいましめた。九州の源氏が知盛の封鎖の網をくぐって本土とゆききすることを知盛は警戒せしめた。「笹舟ひとひらをみつけても、舟の中をあらためよ」と、知盛は哨戒船に命じていた。この知盛指揮下の兵は、屋島平家とはまるで別の平家かとおもわれるほどに士気がするどく、戦意もさかんであった。かれらは知盛の将才を信じていて、知盛の戦略構想の信者であったし、知盛がいるかぎり平家が勝つと信じきっていた。

 この日、霧は午後になって霽(は)れた。ところが海峡の哨戒船は意外な船団が近づいてくるのを発見した。巨大な唐船もいる。東からこの海峡に入ってくる。・・・「あれは帝の御座船ぞ」・・・「まさか」と、知盛はおもい、望楼へのぼってみるとなるほど兄宗盛の船団であった。・・・』

 知盛は、宗盛に九郎がどのように屋島に侵攻し、その水軍は、兵の数は。問えど宗盛の返答は的を得ない。ただ、屋島で九郎と対峙した平家の侍大将から概要を聴くことができた。噂によれば数艘の船に乗り、わずか百数十人をひきい、暴風雨に乗じ、讃岐屋島(香川県)の後背地にある阿波(徳島県)に上陸し、陸路騎走し、屋島の背後にこつねんと現れ、火を噴くように攻めてきた、という。突如のことでもあり、平家は敵の奇襲隊の人数を過大に評価し、総帥の宗盛が本営を捨て、帝や婦人をつれて浜へ走り、船に乗った。その体たらくに四国の土豪たちが平家を見限り源氏に加担したという。

 『屋島は雨である。義経は、まだ四国に居つづけている。屋島の平家本営を転覆したあと、「御曹司、なにをぐずぐずしておられる。すぐにでも沖へ漕ぎだし、平家のあとを追いましょう」と、軍艦の梶原景時がせきたてた。・・・』

 義経は、景時に大いなる不信感がある。鎌倉への報告に、義経の手柄は一行もなく、すべて鎌倉殿の御威光による戦勝としている。今回の屋島本営壊滅に景時は遅れて参戦し、何の戦功もないが、引き続いて平家を追えば、そこでの戦果を報告に大いに盛り込むであろう。

 表向きの理由は天候である。天候による出陣延期を鎌倉の府も認めている。この間、義経は四国をはじめ、瀬戸内海一帯の水軍に対ししきりに軍使を出して船数を得ようとしていたのだ。屋島居座りの理由である。平家の水軍は無傷である。地の利があり、操船にも長けている。勝つためには平家に倍する軍船が居る。

 義経は、屋島から磯づたいに西へ航海した。伊予(愛媛県)へ根拠地を移すためである。敵に近いし、移動航海中に船の指揮にも馴れる。燧灘(ひうちなだ)を西へつっきり、伊予今治に入った。ここは伊予水軍の一派来島氏の根拠地である。来島海峡は潮流がすさまじいことで知られている。さらに激しく渦巻く壇の浦での海戦に備えて、海技に馴れる意味がある。

 義経の密使伊勢三郎義盛の説得で周防の船所五郎正利が櫛崎船五十艘を率いて味方にはせ参じた。平家五百艘に対して、小舟をとりまぜれば八百艘を得たことになる。それぞれがほうぼうの浦を発って周防大島に集まる。小組にわかれているのは平家を欺くためだ。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫から、『 』内は直接の引用です。        



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司馬遼太郎「義経」を読む 第35回

2022年08月13日 | ブログ
平知盛(たいらとももり)

 『翌日も、宗盛は海上から、義経は陸上から戦った。この日は平家はやや分がわるく、屋島からひきあげ、その東方の志度湾に入った。

 この形勢を一変させたのは、その翌二十二日午前八時、北東の沖にあらわれた源氏の軍船のむれであった。その数は百四十隻で軍艦梶原景時が指揮し、ことごとく白旗をなびかせている。さらに同時、東南の沖からも熊野水軍の先発船隊があらわれ、さらに伊予方面から河野道信のひきいる三十隻の水軍もあらわれたため、平家はこの方面での戦闘の継続をあきらめ、その巨大な船団の待っている下関海峡をめざして四国を離れた。・・・』

 相国入道(清盛)の血をもっとも濃くうけているといわれてきた男が、平家に健在である。平知盛、三十をいくつかすぎた男盛りである。武将としての能力が、公家化した平家貴族のなかでずばぬけている。清盛のもつ政治的才腕はうけついでいないが、その武将としての能力は清盛をはるかに超えているとうわさされていた。清盛の第四子であった。母は、ニ位ノ尼である。尼は平時子といい、公家の出である。清盛の二度目の妻に入り、宗盛、知盛、重衡をうんだ。

 「知盛どののうまれぞこねよ」と、ニ位ノ尼がいつも言っていたというが、芸術の才にめぐまれた平家一門にあって、その道には凡庸であり、わかいころ彼の名は御所の女官の口の端にのぼることもなかった。しかし、平家が難境に立つにしたがって、「新中納言(知盛)さまの胸のうちはいかに。いくさの駆け引きは新中納言さまに問え、と平家の侍どもがいうようになった。事実、合戦に出ればこの色白の大男は他の平家貴族のたれよりも落ち着いており、たれよりも部下の統御がうまく、戦場ではたくみに兵を進退させ、しかもたれよりも勇敢で、その証拠にかれが担当した戦局はほとんどが勝っている。

 源氏の最初の旗揚げであった源三位頼政の乱、その旗揚げに呼応して近江で乱を起こした山本義経の一騎をたちどころに鎮圧している。養和ニ(1182)年には源氏の謀将新宮十郎行家と美濃で交戦し、大いに破って潰走させている。のち、木曽義仲が京にせまったとき、兄宗盛は狼狽し、一族もろとも京を捨てて西に逃げたが、知盛ひとりは、退くなと主張していた。唯一の敗戦は一ノ谷であった。義経の奇襲に城内が混乱し、やぬなく海へ逃れた。

 その知盛は、今回の合戦で屋島の本営にいなかった。義経はこの知盛をよほど意識し、屋島を占領すると平家の捕虜を呼び出し「屋島本営には新中納言どのは在(おわ)したか」と、きいた。「壇の浦で三河守(源範頼)どのをいじめておわす」捕虜は顔をあげ昴然と言った。知盛の存在は、平家雑兵のはしばしにまでに誇りであるようだ。

 かれは彦島を本営とする別動隊を指揮し、下関海峡を封鎖していた。彦島は海峡の西のはし、九州に上陸した範頼以下の源氏軍を海上で封鎖し、その輸送路を断つことで、範頼軍を干しあがらせるのが目的である。瀬戸内海の東方屋島に、兄宗盛が駐屯し、大阪湾の制海権をたもちつつはるか京を圧迫し、西方では知盛が下関海峡をおさえ、東西連携して源氏の遠征軍をひぼしにしようとしたのである。「瀬戸内海そのものが平家の海城なのだ。源氏がこの中に入れば海のもくずにならざるをえない」知盛の樹てた戦略の大きさは史上類が無い。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫から、『 』内は直接の引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第34回

2022年08月10日 | ブログ
屋島の戦い

 屋島は、島ではあるが陸地とは運河のような海峡でへだてられているにすぎず、海峡はいたって浅く、干潮の場合は馬の腹がつかるかつからぬかの浅さであるという。

 平家は本営を島の東部海岸の近くに置き、行在所として幼帝を抱え、清盛の娘であり、幼帝の生母建礼門院、そして平家の総帥平宗盛もそこにある。ただ、平家は兵力を分散させているだけでなく、もっとも有力な地元勢力の三千騎が伊予に出向いており、本営守備隊は千騎あまりしか居ない。しかも源氏は海上からくるものとみて、その防衛配置はすべて海上にむかっていた。まさか背後の山を越えてくるとは夢にも思っていない。

 義経は、手勢百五十騎を二手に分け、八十騎を義経自身がひきいて、別動隊には屋島対岸の二つの村の焼き討ちを命じた。

 この朝、平家が最初に異変を知ったのは、対岸の二村の方角に突如沸き上がった黒煙によってであった。義経の予想通り、本営の宗盛は、源氏が数万も来襲したと感じた。「海へ」それしか宗盛の行動はない。宗盛は船に移ることを命じ、陸地の本営を捨て、ことごとく浜辺を走り、ことごとく乗り、纜(ともづな)を解いて海に浮かんだ。幼帝も建礼門院以下の婦人も同様であった。

 宗盛は船上から初めて源氏武者を見た。彼らは馬をあおらせつつ磯伝いに駆け浅瀬を見つけて海に乗り入れてきた。宗盛はその数の少なさに驚いた。これが一ノ谷の城を壊滅させた鎌倉軍であろうか。その先頭を駆けているのは遠目にも小兵の大将であった。その華麗な鎧装束で逞しい馬に乗って、宗盛の指揮船まで馬を寄せつつ、「一の院(後白河法皇)の御使、検非違使の五位の尉(じょう)、源義経」と、すずやかな声で名乗った。(これが義経か)宗盛は、一ノ谷で平家を潰走させた源氏の飛将軍が、このように色白で年若な、しかも骨細の男であるとは意外であった。

 この間、源氏の一手は屋島に上陸し、行在所と本営に火を放っていた。その黒煙は天に沖し、平家の軍勢の肝を凍らせた。すでに帰るべき本拠がない。

 『この間、高名な那須与一の扇ノ的の挿話がある。源平ともに戦いつかれ、平家は沖に、源氏は浜辺で休息したとき、沖の平家から一艘の小舟が漕ぎだされてきた。舟に女官がひとり乗り、そのそばに長いさおが立てられ、その頂に扇面―――地は赤、日ノ丸は金泥―――が結びつけられている。・・・平宗盛はこの勝敗を、この扇子で占おうとした。もし源氏がこれを射落とせなければ神意は平家の勝ちということであり、「その神意により、大いに戦おう」と、宗盛は諸将にも誓っている。宗盛が海上から遠望していると、海浜の源氏武者のなかから萌黄おどしにも揉烏(もみえ)帽子をかぶった若い武者一騎があらわれ、海中に馬を乗り入れて、重籐(しげどう)の弓をとりなおし、矢をつがえ、・・・矢は鏑矢であるために浦を鳴りわたって飛び、扇の要を射切ってくだき、扇面を空高く舞いあげた。・・・』

 この夜、義経は自陣の兵の少なさに、この若者にしては珍しく、敵を調落している。頭目が伊予に出向いている地元最大の豪族の留守を預かる息子に、父親はすでに源氏に味方したと嘘を言って籠絡した。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫から、『 』内は直接の引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第33回

2022年08月07日 | ブログ
渡海

 『平家は、讃岐(香川県)の屋島にいる。屋島は四国の東北角にあたる。「平家も、豪胆である」と、京の宮廷人たちはみなおもった。平家は屋島を海上要塞とすることによって瀬戸内海をおさえ、かつ、大阪湾に征矢(そや)をうちこむような姿勢をとることによって京都回復の気力をまんまんとみなぎらせている。

 義経は、それを覆滅しようとした。この若者が京都出発にさきだち、いとまごいのために院ノ御所に同候したのは寿永四(文治元=1185)年正月十日であった。・・・』

 義経はわずか百五十騎ほどを率いて、とりあえず渡辺ノ浦に身をおいた。この漁村は、淀川の下流が大阪湾にそそぐあたりにあり、後世の大阪市である。当時は街などなく、葦のしげる低湿地であった。このあたりを差配していたのは、摂津源氏(嵯峨天皇から出た)渡辺党で、現在一党を率いているのは、平治ノ乱で義経の亡父義朝に属して勇戦し破れ自害した悟(さとる)の子、渡辺学(まなぶ)であった。

 義経は学に、大阪湾のむこう、淡路島よりさらにむこうの讃岐屋島の平家の動静を探索させ、軍船を集めることを要求した。大阪湾から南にさがった紀州の、さらに南へさがった熊野地方を根拠地とする熊野水軍は、船も巨大で水夫の練達度も日本一をほこっていた。「熊野水軍をひきよせよ」

 その本拠を支配する水軍大将は清盛の頃から平家であり、熊野三山の別当湛増である。湛増を味方に付ける工作に、渡辺学みずからが出向き、武蔵房弁慶が加わったが半月を要した。。弁慶は湛増の庶子である。近畿南海道の武士の多くが源氏になびいている世の趨勢が、義経側に味方した。軍船二百隻が提供される。一方、伊予(愛媛県)水軍に働きかけていた梶原景時も、河野氏の説得に成功し、軍船五十隻を確保した。

 正月が過ぎ二月となった。京の法皇から見れば、熊野や伊予が加担しても平家の水軍に及ぶ所ではなく、今後の宮廷を鎌倉から守るために義経の命を惜しんだ。法皇は側近を摂津へ派遣して義経の説得に当たらせたが徒労に終わった。

 義経が、五隻の船に軍兵と馬匹を積んで渡辺ノ浦を発したのは、十八日の午前二時である。この日、陽が落ちた頃から大阪湾を吹く風の方向(むき)が一変した。北風に転じ、雨をまじえ、刻々風速が強くなり、樹木を激しく鳴らしはじめた。たしかに北風は阿波航路の風である。しかし暴風雨である。水夫たちはしり込みする。「船を出さぬなら射殺す」船頭以下顔色を変え叩頭した。

 帆は一杯上げれない、上げれば帆柱が折られるであろう。しかし、平家に制海権がある以上凪の日に渡海すれば、途中で迎え撃たれ、打ち散らされる。敵の平家は、源氏の敵前上陸に備え、讃岐・阿波二国の海岸線に警戒部隊を分散させており、屋島の本営には千騎ほどしか守備兵がいないことを、義経はすでに諜報を得ており、それらのことを勘案しての捨て身の奇襲作戦であった。義経一行は阿波の勝浦に着くと、すぐさま北進を開始した。兵は疲労しきっていたが、敵の虚をつくには味方の休養は犠牲にせねばならない。眼前の山脈が阿波と讃岐の国境であり、超えれば讃岐の海である。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫から、『 』内は直接の引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第32回

2022年08月04日 | ブログ
屋島へ

 秋が深まるにつれ、範頼の遠征軍は悲惨な状態に追い込まれつつあった。安芸まできたときには全軍の統一も困難なほどに疲労していた。補給難であった。山陽道に食がない。無理もなかった。山陽道の田舎に数万の兵が押し寄せたのだ。

 『安芸のむこうは、周防・長門(山口県)である。範頼は最初、「周防にゆけば食があるだろう」と、そればかり軍議でいっていた。もはや源氏軍は合戦をするよりも食をあさる集団におちぶれており、軍議ではその話題しか出なかった。しかしその周防が前年から今年にかけて、ひどい飢饉の状態にあると知ったとき、範頼の落胆ははなはだしく、軍議さえひらかなくなった。かれは十一月十四日付けで、鎌倉へ飛脚便を送った。「もはや一軍崩壊しようとしています」という範頼の手紙に接したとき、頼朝のおどろきは石橋山の敗戦のとき以上であった。このままでは鎌倉の府そのものがほろびざるを得ない。・・・頼朝ははじめて補給という課題を知らされた。遠征軍を発するにあたり、補給のことを考えなかったのは頼朝の不注意というよりも、この国の戦史にその経験がなかったためである。・・・』

 源氏は自滅する。というあせりが、鎌倉の頼朝の思案を飛躍させた。義経を、この局面救済に起用することをであった。ただ側近からは異論が出る。ひとりの武将が一代で三度も、それも容易ならぬ大功たてる例は、古来いや唐土でさえまれなことで、義経がもし三度目の大功をたてれば、法皇はえたりとばかりに、義経の官位を昇進させ、鎌倉の対抗勢力としてかつぎあげる恐れがある。

 しかし、範頼の遠征軍をこれ以上すてておき、遠い国の野路で白骨にさせるわけにはいかぬ。頼朝は断を下した。あとのことはあとのこと。いまはあの魔法のような軍事的才能を活用するしかない。

 『鎌倉の急飛脚便が六条堀川の館に入ったのは寿永四(文永元=1185)年正月―――都はまだ春の寿の気分のさめきっていないころである。「本当か―――」義経は、信じられぬ面持ちであり、やがて頭髪から血の噴きだしそうなすさまじい形相になった。(憤っておわす)と、一座は息をのんだ。・・・「ありがたや」と、声をわななかせた。もともと感情の根が婦人のように深く、異常に恨みぶかい性格であるため、ここ当分の鎌倉の仕打ちがこの若者をそこまで鬱屈させていたらしい。―――ありがたや。と叫んだのは、鎌倉にいる兄の頼朝に対してであった。義経はこの不遇のなかでもなお兄頼朝の自分への愛情を信じぬいており、・・・いつか頼朝がわかってくれると思っていた。・・・』

 義経にはすでに構想がある。かれは範頼の戦略がふしぎでたまらなかった。なぜ懸軍万里、山陽道を西へ西へとすすまねばならぬのか。なるほど海上の平家軍は瀬戸内海一帯に浮かんでいる。しかし、その本営は讃岐(香川県)の屋島にあり、総大将の宗盛も、幼帝の行在所もある。屋島は大阪湾の湾外、四国の東北角にあり、もしここに十艘の船でもあれば、そして死士を百騎でも乗せればその本営を覆滅できるではないか。(この簡単なことを、鎌倉どのも範頼どのも、その幕僚の和田義盛や北条義時なども、なぜわからぬのか) 

 枝葉を枯らすべく長大な瀬戸内の岸辺を駆けまわるのではなく、屋島を衝けばいいのだ。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫から、『 』内は直接の引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第31回

2022年08月01日 | ブログ
義経の嫁

 『「鎌倉への挑戦である」・・・ともあれ、頼朝は使者を送った。「汝は、勝手に公家になった。そのことは、鎌倉との絶縁を宣言したにひとしい」と言わせ、頼朝の代官としてのその地位を解任し、鎌倉軍から追放した。義経は、ただの個人になった。(なんのことだろう)この若者は、ぼう然とした。義経にとって世間とはまるで魔法の世界のようなものであろう。自分にかわってあの無能きわまりない範頼が、頼朝の命により平家追討の総大将に任ぜられたのである。・・・義経は、憤るよりすべてがわからない。わからぬままに、毎日、都大路を牛車に乗って院の内へ参上した。都は、すでに秋である。・・・』

 ただ、頼朝にも懸念が生まれた。義経への薬が効きすぎて、法皇の下で義経に「京都源氏」を名乗らせ、源氏勢力を両分する。まさに法皇の策略に自ら加担することになることである。頼朝は側近と謀り、義経に妻女を持たせ監視役とすることを思いついた。

 頼朝は、自身もっとも大切な女性の一人である比企ノ尼を呼んだ。頼朝の乳母である。比企氏は武蔵国比企郡(埼玉県)に広大な荘園を持つ大族で、関東を制した頼朝はまずこの尼を鎌倉に呼び、尼の養子である比企能員(よしかず)を鎌倉の府で重用していた。尼の縁につながる年頃の娘を義経に添わせようというのである。

 『範頼の平家追討軍が、行装も美々しく都に入ったのは八月の末である。都は、源氏の常勝軍の到来に沸き立った。が、都の治安担当官である義経はそれを京の郊外の粟田口に迎えただけで、あとは姿もみせず、風邪と称して六条堀川の館にひきこもり、範頼にも会わなかった。・・・ともあれ、範頼軍は、数日京に駐留し、朝廷から平家追討の官符を受け、あわただしく山陽道へくだって行った。・・・

 義経の嫁となるべき河越重頼のむすめ郷御前が京にのぼったのは、九月十四日のことである。「鎌倉どののご媒酌である」というそのことに重みあり、京における鎌倉の御家人や義経の郎党たちは山科まで出むかえに出かけた。・・・(存外に美しい)と、義経はひそかに安堵した。・・・「早く京に馴れることだな」と、義経は平凡な教訓をあたえた。ところが郷にとってそれがよほどの懸念なことであったらしく、肩を急に小さくした。泣きはじめた。・・・ほんのこのあいだまで田の螺(にし)や小川の鮒をとって遊んでいた坂東のむすめが、にわかに公家の生活をするのである。・・・

 「三河守さま(範頼)はいまごろどのあたりにおいででございましょう」と、郷はふと話題がないままに、源氏傘下の者としてはごく当然なつもりでいいだした。・・・「かれらは負けるだろう」・・・「かならず負ける」と義経がいうのは、かれの軍事的直観力の結果であるにすぎない。「犬が、鯱と喧嘩をするようなものだ」鯱は海にいる。犬は陸にいる。犬がいかに咆えようとも海の鯱にとびかかわるわけにはいかない。・・・』

 義経との生活の中で、(このひとも、自分と同じように)公家めいたことはなにもご存じないのではあるまいか、と郷はふと思った。その色白で華奢な骨柄だけでなく、全体がひどく子供じみていて無理に大人になっているような、なりぞこなって戸惑っているような感じを受けた。はじめてこの若者への愛が沸き起こってきた。


 本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫から、『 』内は直接の引用です。



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