平家滅亡
『壇ノ浦の合戦は、義経にとって四度目の成功である。成功というより、ほとんど魔術的ともいうべき勝利であった。平家五百艘の水軍を西海にほろぼし、おもだつ敵の武将たちを海底にしずめ、その総帥の宗盛父子を捕虜にし、三種ノ神器のうちの神剣をのぞく二種を得た。この日、寿永四(1185)年三月二十四日であった。源氏はこの日をもってその武権を天下にうち樹てたというべきであろう。・・・』
平家は滅んでも、この義経の物語は続く。白拍子「静」とのこともある。最後は、「義経こそ賊である。追討せよ」との法皇から頼朝への院宣によって、義経は、諸国の山河にかくれ、転々としつつ、朝廷と鎌倉から追跡され、ついに奥州の平泉まで逃げ、追い詰められ、最後に衣川の持仏堂に逃げ入り、自害した。その首が酒漬けにされて鎌倉へ運ばれてきたとき、頼朝は、「悪はほろんだ」といった。それを聞き及んだ世間の人々は、「悪とは、なんだろう」ということを一様に考えこまざるを得なかった。後世にいたるまで、この天才の短い生涯は、ひとびとにその課題を考えさせつづけた。と、司馬遼太郎さんはこの物語を終わらせている。ここまで、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にしています。『 』内は直接の引用です。
ここからは、この物語(小説)の個人的な想いのようなものである。この物語は1966年2月から1968年4月まで、「オール讀物」に連載され、原題は「九郎判官義経」であったそうな。単行本「義経」は1968年発刊されたとある。司馬遼太郎さんが、あの「竜馬がゆく」を出されたのは1963年のことで、ほぼ同時代である。明日に後期高齢者となる私が高校を卒業して就職したのが1966年のこと、その2年前(高校2年生)東京オリンピックがあった。また大阪万博は昭和45年(1970年)だった。高度経済成長の下、その時代の影響を受けた形跡はこの小説にない。ただ、平家の没落、源氏の台頭の歴史の中に、司馬さんは、情報の重要性、現場現実主義、スピード、過去の事例や因習は、目先の戦略には邪魔であり、踏み越えてゆかねばならないものとして、新規戦略性の重要性を訴えている。太平洋戦争に従軍した人間からの(経営)戦略への教訓が込められているように思える。
「竜馬がゆく」は坂本龍馬ファンを全国に産んだ。私より2学年若い、金八先生こと武田鉄矢氏など、自分のバンドグループ名を「海援隊」としたくらいだ。また孫正義氏も龍馬の熱烈ファンのお一人だ。各地や企業内にも「龍馬会」がたくさん出来たほどだ。
一方、この「義経」は人間的に未成熟で、好色で、天才にありがちな片端的な人物として描いており、「京の五条の橋の上・・・」と童謡に歌われた「牛若丸」のイメージ、その身体能力の素晴らしさはそのまま描かれてはいるが、龍馬のように多くの絶大なファンを呼び込むような人物には描かれていない。
幼帝(八歳)と平家の最期の武将や貴婦人たちは壇ノ浦に沈んだが、清盛の娘で幼帝の母である建礼門院(平徳子)は、源氏兵に海から救い上げられて生き残った。今年6月25日放送のNHK「ブラタモリ」では、建礼門院がその後を生きた、京都大原が紹介されていた。「恋に疲れた女がひとり」訪れる癒しの里、京都・大原・三千院。この歌も小説「義経」と同時代に生まれ大ヒットした。永六輔作詞、いずみたく作曲、歌、デューク・エイセス。因みに「恋につかれた」は「疲れた」ではなく「憑かれた」であるそうな。