中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

ものづくりへのオマージュその11

2008年07月29日 | Weblog
団塊世代の矜持

 エチレングリコール(以下、グリコールと略す)は沸点がほぼ198℃と高いため、常圧での蒸留精製は困難であり、10mmHg*6)の所謂真空蒸留を行っていた。この真空を得るため、10m以上*7)の蒸留塔の上にスチームジェットとそのコンデンサー(バロコン)の組み合わせからなる多段の真空装置を備えていた。コンデンサーには海から汲み上げた海水をそのまま使用するのだが、夏場工場の海水使用量が増えると供給量が落ちる。途端に精製塔の真空度が怪しくなる。まず、グリコール製品の等級変更のため製品タンクへの現場送液バルブを手動で切り替える。そして10mの精製塔へ猿梯子を駆け上がり、真空装置の状況を確認する。海水の出が悪い時は、プラントの海水入口のストレーナー(フィルター)切り替えが必要で、大きな手動バルブを大至急操作する。ストレーナーを逆流させて掃除すると、大きな魚が掛かっている時もあった。夏場の夜間、これらの操作を繰り返した入社1年目の夏には、66kgの体重が瞬く間に62kgまで激減した。

 海水圧が問題であれば一過性だが、コンデンサーが海水で侵食され穴が開いていると厄介で、目に付きにくい箇所の穴に気付かないと正常に復さないから大変である。ここらあたりを心得て発見が早いと、神様になれる。

 また、グリコールはエチレンオキサイド(以下、オキサイドと略す)に約10倍量の水を接触させて生成させると先に解説した。グリコールの精製の第一段階は、この過剰な水*8)の除去である。3段エバポレータ(蒸発缶)によってほとんどの水を分離するが、分離した水は再び反応槽に還される。しかし、オキサイド中にはアルデヒド等不純物が存在する*9)ため、これが分離された水*10)に濃縮されてくるとグリコールの品質が悪化する。第1等級のグリコールは当然ポリエステル繊維原料向けであるが、この規格には紫外線吸光分析値という非常に感度の高い厳しいものがあった。従って、当時世界でも最高品質のグリコールを作っていたのではないかと思う。反応原料水の悪化は製品グリコールの紫外線吸光度に途端に影響する。グリコール反応器へのエバポレータからの還流水を排して、高純度水を供給する。この操作は水の有効利用とのトレードオフであるが、これを手抜きせずしかも適切に操作できれば神様になれる。

 同じ製造装置でものを作っても、従業員がいかにプロセスの変動に速やかに対応するか、またコスト意識を持って行動するかで、品質・コストは大きく左右される。われわれ団塊世代は、太平洋戦争時の海軍で鍛われたような先輩世代からの薫陶もあり、ものづくりには当然に真摯に取り組んだ自負がある。


 
 *6)常圧(1気圧)は760mmHg。10mmHgとはすなわち0.013気圧。
 *7)ほぼ真空状態では、海水シールのピット水は10m吸い上げられるため、真空蒸留等の高さは10m以上必要となる。
*8)グリコールはオキサイドと等モルの水から成る。従って10倍量の水のうち90%は過剰である。
    (CH2-CH2)-O + H.OH → (CH2-OH)2             
   エチレンオキサイド  水   エチレングリコール
 *9)オキサイド生成の折に副生する微量のアルデヒド類は、オキサイドプラントの最終精製工程でも完全分離は難しいため、アルデヒドをほとんど含まないオキサイド(オキサイド製品として外販)とアルデヒドを残したオキサイドに分けられる。このアルデヒドを残したオキサイドがグリコールの原料として使用される。
 *10)その後エバポレータからの還流水は、イオン交換樹脂で処理して反応器に還されるようになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものづくりへのオマージュその10

2008年07月27日 | Weblog
神様降誕

 エチレングリコールプラントの担当になって3年もすると、筆者は職場で「グリコールの神様」と言われるようになっていた。もっとも当時、冷やかし半分以上の洒落で褒め言葉を口にするのが流行っていた。流行っていたというより関西の文化かもしれない。同じ時期、職場で方眼紙を使った五目並べが流行った。NHK大河ドラマ「篤姫」で、篤姫が将軍家定と立派な碁盤で遊ぶ、あの五目並べだ。筆者は五目並べも将棋同様子供の頃から親しんでいたので、考えどころくらいは分る。途端に仲間内では「読みのきよし」となった。その程度の「神様」である。

 しかし、この洒落で褒めるような関西の文化は、筆者が管理職になって大勢の主婦のパートさん達と仕事をした折、大いに役立った。別に洒落で褒めたわけではないが、身についた習慣は自然な形で吐露される。いくら一生懸命仕事をしても、パートの賃金は世間相場を出ず、昇進・昇格などはあり得ない。しかし、文句を言われながら仕事をするのと、褒められながら、「いつもありがとう」と心から言われながら仕事をするのでは気分は180度違う。暗くなりがちな単純な検査作業や、窮屈なクリーンルームでの洗浄作業は、その効率を倍加させてくれた。

 エチレングリコールのプラントは、規模やプロセスの単純性からも工場内で最もオペレーションの容易なプラントの一つであったように思う。ただ、手動操作の部分も多く残されており、単なる監視業務とはゆかず、夜中でも駆けずり回ることが多かった。そんなことで、比較的短期間に諸々のトラブルにも対応できるようになったことが、初心者に毛の生えた神様を生んだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものづくりへのオマージュその9

2008年07月25日 | Weblog
石油化学のものづくり

 筆者は、中小企業ではないが、企業の中でものづくりに従事した経験がある。先のプロジェクトZにも触れたけれど、石油化学プラント*4)で三交代勤務によるものづくりである。

 入社して1ヵ月半の新入社員集合教育を経て、配属された職場はエチレンオキサイドとエチレングリコールを製造するプラントであった。ここでも1ヶ月の座学研修の後、現場で三交代実習を経て本方勤務を任された。この頃日本の石油化学は、その技術をアメリカから導入してからまだ9年しか経っていなかった。工場の奥の間に位置する職場にはエチレンオキサイド、エチレングリコールそれぞれ3基ずつのプラントがあったが、それぞれ3番目のプラントは2年前の昭和39年すでに自社技術で建設している。

日本の石油化学工業は、住友化学新居浜と三井石油化学(現、三井化学)岩国・大竹を発祥の地として、昭和32年に最初のエチレンプラントが稼動している。これらのプラント建設には、戦艦大和を建造し、ゼロ戦を作り上げた日本の戦前からの高度な技術力が基盤にあった。高圧の反応器には大砲の砲身*5)を作る技術が応用されたであろうし、操船、操縦装置の技術もプラントの各種制御機器に転用されたのではないか。

 エチレングリコールは、車のラジエーター不凍液用として米国などでは昔から生産されていたが、石油化学で量産する目的は、当時急速に需要を伸ばしていたポリエステル繊維用だ。ポリエステル繊維とは東レテトロン、帝人テトロンの名でよく知られている代表的な化学繊維だ。現在は、繊維用ばかりかペットボトル用として需要が高い。エチレンオキサイドは、一部そのままで界面活性剤原料として出荷もされていたが、主にエチレングリコールの原料だ。

 エチレンオキサイド(酸化エチレン)は、エチレンを気相酸化して作られるが、エチレンの2個の炭素原子に酸素原子が又割き状態で1個ぶら下がっている構造のため、不安定で非常に危険な物質のひとつだ。触媒下、気相の有機反応を高温・高圧で行うことの危険性もさることながら、だからその製造プラントは工場の一番奥に設置されたと聞くが、精製した製品を保管、輸送するのもひと苦労だ。その点エチレングリコールは、非常に安定な化合物で、飲み込んだりしない限りあまり害はない。エチレンオキサイドを10倍量程度の水と静かに接触させて生成させ、後は蒸留するだけだ。



  *4)プラント:反応器やポンプ、蒸留塔などが組み合わさった工場施設、工業装置。
  *5)戦艦大和の主砲世界最大46センチ砲は、最大射程4万メートル、撃つたびに砲身内には約3300気圧の圧力がかかったとある
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものづくりへのオマージュその8

2008年07月22日 | Weblog
続、あるビールつくりの話

 『協同商事2代目朝霧重治氏は、当時社会人2年目であったが、自社の中小企業ならではの欠点を見抜いていた。ものつくりには自信があっても、市場や顧客の分析、販売戦略やブランド構築といった視点に乏しい。すなわちマーケティングの欠如だ。重治氏は社長を説得し、現場の職人を説いて既存の商品を一度すべて捨て、新たに統一したブランドを作って売り出すことにした。しかし、多くの人が居酒屋に入るなり「とりあえず生(ビール)」と銘柄さえ気にしない日本で、しかも大手4社による寡占市場では困難な取り組みにも思えた。そんな中、重治氏は挑戦を続ける。

 コンセプトは、「その日の料理や気分によって違うビールを楽しむ」。そのためには1種類だけでは物足りない。職人たちは重治氏を信じその意向を汲んで5種類の全く異なる味わいと風味を持つビールを完成させた。しかし、そこから従来品の10倍以上のカネと3年以上の開発期間を要したブラント構築のためのデザイン改革があった。新進気鋭のプロダクトデザイナーに依頼してのビンからラベルまでデザインの改革を行ったのである。そして「モンドセレクション」での5種類すべてが賞を受ける栄誉を手にする。その中の2種類は最高金賞であった。

 重治氏は、97年一橋大学商学部を卒業後重工メーカーに入社していたが、たまたまガールフレンドの父親の会社すなわち(株)協同商事の拡販イベントなどの手伝いをしていたことで、社長である朝霧幸嘉氏の目に留まる。「うちで働いてみないか」結婚が決まっているわけでもない中、ガールフレンドの父親からの要請に一瞬躊躇はあった。しかし、自社製品を開発し続けるベンチャー型企業を経営する幸嘉氏に興味を覚え、重治氏は力強くうなずいた。』とある。

 絵に描いたような現実のドラマがある。人と人との縁(えにし)がある。そしてものづくりの伝統が進化しながら引き継がれていく。拡販イベントの手伝いに来た娘のボーイフレンドに「うちで働いてみないか」と言える社長があり、それに期待以上に応えた青年がいたのだ。



本稿につきましても、日経ビジネス2007年8月20日号「ひと劇場」からの引用(『 ~ 』)で構成しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものづくりへのオマージュその7

2008年07月20日 | Weblog
あるビールつくりの話

 2007年8月20日号の日経ビジネスの記事からの紹介です。日本のものづくりというと、どうしても機械やその部品づくりを連想します。精密で故障が少なく耐久性に優れる。そんなイメージがあります。しかし、食品分野のものづくりでもカップヌードルなどに代表されるように、日本は優れた技術を発信しています。また、見て美しく食べておいしく、しかもヘルシーな和食が世界中でブームとなっているように聞きます。日本の食文化、この場合はものづくりとは言わず、文化なのですが、この伝統も日本の誇りです。ただし、ここに紹介するのは和食ではなく、ビールづくりの話です。地方の中小企業のお話です。

 『2007年食のノーベル賞と言われるほど権威の高い、「モンドセレクション」に5種のビールを出品し、すべてが賞を受賞した*註)埼玉県川越市のメーカーがある。株式会社協同商事、協同商事コエドブルワリーである。

 (株)協同商事は社長の朝霧幸嘉氏が82年に設立し、地元で獲れる有機野菜を市場や小売店に産地直送していた。その後幸嘉氏がドイツで製法を学んでビール作りを決意し、「地ビール」ブームが到来した1996年から本格的に地ビールの製造を始めた。製造にはドイツから本場の醸造職人を招いてその技術を受け継いだ。自社製品ビールだけでなく100種類を超えるOEM(相手先ブランドによる生産)での受託生産も行った。

 しかし、98年をピークに「地ビール」ブームは去り、多くの醸造所が撤退し協同商事のOEM製造販売量も低下した。ビール事業は赤字が絶えなくなった。この窮地に立ち上がったのが、2代目重治氏である。自社ビールを「地ビール」とした土産物という一過性のものではなく、1つの製品として完成させたい。元々協同商事のビールは、本場ドイツ仕込みで味や香り、コクには自信がある。しかし、これを世間に認めさせる努力が欠けていると重治氏は考えた。抜本的なブランド改革が必要なのだと考えた。「地ビール」には大企業による大量生産品とは違う存在価値があり、すみわけできるはずである。「脱・地ビール」への挑戦であった。』



  本稿は、本文でもお断りしています通り、日経ビジネス2007年8月20日号「ひと 劇場」からの引用(『 ~ 』)で構成されています。
 *註) なお、2008年度 第47回モンドセレクションにも2品種出品し、
   最高金賞と金賞を受賞している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものづくりへのオマージュその6

2008年07月17日 | Weblog
応援団長
 唐津一氏のことは、以前から主に品質管理関連の雑誌でそのご意見を拝聴していたので、お会いしたこともないけれど親しみを感じていた。日本のものづくりにおける品質管理の素晴らしさをいつも高らかに論じておられる。まさに日本のものづくりの応援団長さんだと思う。数年前は日経ビジネスの「技術者の眼」や「終わらない話」にも登場されていた。
 氏はまた、東京都大田区の「国際コールセンター」の発案者でもある。これは大田区の中小企業について、あらゆる種類の問い合わせをワンコール(1回の電話)ですまされるよう、企業紹介等を行うもので、2000年に設立されている。石原東京都知事の提案による、大田区の中小企業振興策についてのアイデア募集に応じたものだ*1)。
 氏の日本の製造業が中国に負けない理由はたくさんあって、実は一冊の本になっている。「中国は日本を追い抜けない」*2)がそれであるが、その2年後出された「日本のものづくりは世界一」*3)には、日本の製造業の実力を知らず悲観論ばかり垂れ流すマスコミや評論家を厳しく糾弾されている。まさに応援団長面目躍如の感がある。
 氏の論旨を要約すれば、『中国で行っている「ものづくり」は、日本やドイツのマザーマシン、すなわち「機械をつくるための機械」を使用しているもので、第1級のマザーマシンを作りうる技術こそが「ものづくり」の実力なのだ。マスコミがことあるごとに「追いつかれる」と叫ぶ中国の製造業であるが、いい製品を作っている工場で稼動しているのは、日本製製造設備であり、その製品の心臓部には日本のハイテク部品が使われている。また、製造技術をゼロから築き上げるのには膨大なエネルギーとものづくりの才能が必要である。しかし、中国は時間を節約するために、製造設備を海外から導入し、その使い方を習って製品を作っている。したがって、技術の蓄積がないため、新しいものを自分たちで開発することはできない。』これだけの引用では十分ではないが、「ものづくり」の本質として唐津氏が言いたいことが、また中国に負けない理由が伝わったであろうか。
   
   *1)橋本久義著「町工場が滅びたら日本も滅びる」PHP研究所2002年5月刊 より。
   *2)唐津一著 PHP研究所 2004年10月刊
   *3)唐津一著 PHP研究所 2006年10月刊
   各引用には、筆者の編集が入っていることをお断りしま
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものづくりへのオマージュその5

2008年07月14日 | Weblog
元、通産官僚の述懐

最近は霞ヶ関の官僚に対する風当たりが強い。天下りの問題からタクシーチケットの問題まで、果てはその能力まで取り沙汰されている。マスコミや一部政治家の過度の喧伝もあるのだろうが、庶民には実態は分り難い。ただ、明治の建国以来、高級官僚と言われる能吏の手によって極東の小さな島国の日本が、ここまで来ていることも事実であろう。間違いは正すべきだが、評価すべきは正当に評価すべきだ。

 元、通産官僚であった橋本久義氏は、氏の歩んだ道から日本の中小企業のために国が果した役割を述べておられる。そして同様のことはほかの国では真似られないのではないかとも言っている。

 そのひとつは、「中小企業の組織に関する法律」である。この法律によって中小企業団体中央会が、都道府県ごとにつくられ、小さな団体作りに貢献した。工業会や商工会である。これによりライバル会社間でも情報交換が行われるようになり、切磋琢磨が進みものづくりの技術が進歩していったというのである。

さらに通産省があるときは権威によってまとめ役になり、細かくフォローをおこなった。具体的には、政府系金融機関の融資は工業会に入っていないと受けられないとか、技術的に高い目標を設定した技術開発費用に補助金を出し、融資し、税金も安くするような仕組み作りである。ライバル同士が競い合い協力し合って共に発展できるように仕向けたのだという。

また、チャンピオンを育成するということも一生懸命やってきたという。戦後自動車産業は国の基幹産業になれる可能性があるため、これを育成しなくてはならない。そこでだが、通産省は部品屋さんが強くないといい自動車は作れないから、部品産業の育成をしましょうと決めたという。ほかの国では自動車産業そのものを育成しましょうとは言っても、部品屋さんをとは言わない。そのときの基本的なやり方は、重点2社とか3社のチャンピオンのベアリングならベアリング企業に、とにかくいいものを作って貰って、補助金を出して、どんどん大きくなって貰う。ほかの企業は、チャンピオン企業を模範として技術を磨いていく。これをテント理論というらしい。テントの真ん中すなわちチャンピオン企業を持ち上げれば、まわりの裾野も持ち上がるという。

通産省は、ほかにも基本的に企業の自主性を重んじながら、技術導入の許認可権などもうまく活用しながら、民間企業をうまくコントロールしてきたというのだ。


     註!通産省は現在の経済産業省
     この稿は、「町工場こそ日本の宝」2005年8月刊/PHP研究所
     岡野雅行、橋本久義共著を参考にさせていただきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものづくりへのオマージュその4

2008年07月11日 | Weblog
危惧

 唐津氏も橋本氏も日本人のものづくり労働者の質の高さを認め、誇りにさえ感じておられる。だからこそ、今後も日本はものづくりの伝統を大切にしなくてはならないと訴えておられる。世界の中で日本が勝負できるのは、日本人の資質からも、その最大の強みである「ものづくり」をおいてないと述べている。

 しかし、最近の日本企業の経営のあり方には、そのものづくりに黄信号を灯すような明らかな変調が見られる。一つは、QC活動における時間外手当の支給、不支給の問題が出てきたこと。二つ目は、名目だけの管理職問題。三つ目は派遣社員の問題。四つ目は年功査定を縮小した成果主義、能力主義的給与体系の問題。他、株主優先の考え方等々である。

 これらはすべて経営者が、アメリカ的経営手法である短期的な業績評価を重視した考えにより生じた結果である。確かに日本人は欧米人や中国の方々よりも、良い製品を作る努力を、その報酬如何によらず当たり前のようにやって来た。しかし、このところの企業経営のあり方を見た場合、そのような労働者の気質を利用するだけで、見返りを可能な限り節約しているように感じる。成果主義や能力主義への偏重は一部のエリート社員には手厚いが、その他大勢は置いていかれる。そうすることが、合理的な企業経営であると信じているようだ。しかしそうなれば、労働者が従来どおりの仕事のやり方を続けるであろうか。

QC活動は仮に時間外手当はなくとも、年功賃金で先の生活が保証される前提があり、頑張って昇給・昇格に結びつくなら成立する。管理職に抜擢してくれた。時間外手当がない分手取りは減るけれど、やりがいは増すし、次の昇格・昇給に結びつくのではないか。下心といえば悪く聞こえるけれど、働く者の側にも長期的な当然の期待感があって不思議ではない。

しかし、そのような期待を経営者側は無視する制度に切り替えていった。だから一部で法廷闘争にまで発展する。法廷闘争事例は氷山の一角である。人件費の変動費化は、財務的にはいいかも知れないが、長期的な人材育成に結びつかない。こんなことをしていては、日本のものづくりはある日突然瓦解しないか。そんな危惧を持ってしまう。

 なぜなら年金問題。社会保険庁の杜撰な仕事が問題になっているけれど、ものづくりではないにしても、社会保険庁の職員も同じ日本人であった。いかに日本人でもマネージメントが悪いと業務の品質が悪くなることを、それは証明しているのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものづくりへのオマージュその3

2008年07月08日 | Weblog
中国に負けない

 先に紹介した「町工場は日本の宝」の著者のお一人である橋本久義氏は、日本の製造業の「応援団長」である唐津一氏と同様に、「日本の製造業は中国に負けない」と言われている。「応援団長」と筆者が勝手に名づけた唐津氏は、個人でデミング賞も受賞されている品質管理において日本の第一人者である。唐津氏、橋本氏共に東京大学工学部のご出身のようだが、その後のご専門の分野の異なりから中国に負けない論理の切り口は違う。

唐津氏が品質管理を含め技術的論点に対して、橋本氏は国の仕組み作りの観点から述べておられる。ただお二人に共通だと思われるのは、日本人の心のありようが、ものづくりには欠くことのできぬ資質であり、同じ機械で作るものさえ、作る人の心根によって差がでるものとの見解である。

 『いいものをつくる能力は、中国の人には間違いなくあると思う。だが、それは仕事の質が金額に応じて変わるというお金の関数になりがちだ。日本人は儲からなくても、自らを鍛えるために能力を発揮していこうとするところがある。どうせつくるならいいものをつくろうとする。だから、日本人の意欲というものは、あるところから「収入の関数」ではなくなる。・・・』のように橋本氏は先の著書の中で述べておられる。

 唐津氏も、『日本人は世界で一番ものづくりに向いている国民である。良い製品を作るために努力することを当たり前と感じ、会社から要求されている以上のことを、当然のようにこなしてしまう。しかも融通が利き、臨機応変な対応が自発的にできる。』とその著書「中国は日本を追い抜けない!」2004年10月刊/PHP研究所、で述べられている。一方で唐津氏は、中国人は1級の商才の持ち主であるが、ものづくりには向いていないと断言されている。

『商売においては、ものづくりではあまり重要視されない駆け引きのうまさが決定的な要素となる。この「駆け引き」は日本外交に象徴されるように日本人には不得手な部分だ。しかしものづくりは、駆け引きとは対極にある「謙虚さと好奇心」が必要だ。日本人はこの点に非常に優れた民族特性を持っている。謙虚であることで、観念や常識を変更しやすく自分たちより優れたものを認める。好奇心からそれらを徹底的に調べて学ぶ。好奇心から「なぜだろう」が生まれ、改善行動に駆り立てられる。日本のものづくりの基盤がここにある』と唐津氏は述べておられる。


  註!本稿、唐津氏の著書からの引用には、誌面の都合上筆者の編集が入っていることをお断りさせていただきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものづくりへのオマージュその2

2008年07月05日 | Weblog
嬉しい話
 最近になって岡野工業(株)岡野氏の「町工場こそ日本の宝」2005年8月刊/PHP研究所、を読んだ。岡野氏のというより元通産官僚であった橋本久義氏との対談本で、各章に橋本氏のコメントが入っている本だ。橋本氏については、恥ずかしながらこれまで筆者は全く知らなかった。氏のことは次号以下で紹介させていただきたいと思う。
 岡野工業(株)はプレス機の金型を作っていた。精密な金型であればこそ仕上げの部分は職人の感性の領分で、「ここを心持ち削ってくれ」と言われ、「手前の心持ちと俺の心持ちじゃあ違うよ」などと言い合いながら、潤滑油が微かに濁る頃合で金型を削るそうな。今の岡野氏の代になって本格的にプレス加工も手がけておられ、その創意工夫と精巧な技術、たゆまぬ精進が痛くない注射針に代表されるような新しい製品を生み出している。
 はっきり言って技術論議は、ただすごいとしか分らないが、この本には岡野氏のもっと素敵な話が語られている。いわば「美しいはなし」だ。岡野氏曰く「嬉しい話」だ。中学で不登校になった一人息子を抱えるお母さんが、岡野氏の著書「俺が、つくる!」(中経出版)を読んで感激されて、岡野氏に「ウチの息子を預かってもらいたい」と依頼されたそうな。岡野氏は何度も断ったそうだが、お母さんも半端ではない。結局岡野氏は少年と会うことにする。顔が見たいというわけだ。会ったとき、岡野氏は「なかなかいい顔をしている。これはたいしたもんだ」と思ったという。いろいろ話をしたその3ヵ月後に少年から直接電話があって、「おじさん、俺、学校に行く。学校に行って工業高校に入って、卒業したらおじさんのところで使ってくれるか?」と。その後中学は皆勤で卒業し工業高校に合格したとの報せがあったそうだ。
 もうひとつ、岡野工業(株)には毎年10校くらいの中学の修学旅行生が訪れるそうだ。いまの修学旅行は、東京までは一緒に来るけれど、東京での見学先はグループで好きな所に行く。中学生の中に「岡野工業に行きたい」というのが居るらしい。10人くらいで、時には女の子も交じって事務所に上がりこんで、いろいろ岡野氏の話を聞くらしい。みんなやる気になって帰っていってくれるという。子供たちが家に帰ったあと、お母さんからよく電話がある。「ウチの子供が、やる気になって帰ってきました」みんながそうらしい。その後子供たちからは「高校に受かりました」と連絡があったりする。子供たちのピュアな感性には、岡野氏の職人技に陶冶された人間性まで視えるようだ。

 註!本稿岡野氏の著作の引用部分には、筆者の編集が入っていることをお断りさせていただきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする