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この国の風景Ⅳ第10回

2015年12月28日 | ブログ
2度の政権交代

 引き続き、今月号の文藝春秋の大型企画「日本を変えた平成51大事件」から引く。

 平成に入って2度の政権交代があった。平成5年の細川連立政権と記憶に新しい平成21年の民主党政権である。似たような為体(ていたらく)であった。反自民だけの寄せ集め政権であったことが共通項であり、傾いたマンションではないが、基礎がなっていなかった。すなわち国家観の乏しい政治屋が、単に権力を弄んだに過ぎない。

 平成5年の政変は、小選挙区制への政治改革が大義のように訴えられていたけれど、われわれ庶民からは単なる自民党内のそして竹下派の内紛の結果と見ていた。竹下派を小渕氏が継承することになり、前年まで自民党幹事長であった小沢一郎氏を先頭に、大蔵大臣経験者であった羽田孜氏なども同調して自民党を出た。

 小選挙区制への政治改革など、いかにも錦の御旗ごときの建前であったけれど、最近では中選挙区制を懐かしがり、元に戻すべきとの真剣な意見も聞かれる。確かに制度の巧拙はあって、より良い制度への変革は必要であるが、実は運用面の問題であることも多い。制度の中で生きる人々が本当に真摯に制度と向き合っているのか。正しく運用しているのかが問われるケースも多いのである。

 政変当時の首相は宮沢喜一氏。長く首相候補と言われ、また報道関係者などから首相に相応しい期待される人物として常に上位ランクされていた方である。池田勇人総理の名秘書官として名を成し、政界入り後も大蔵大臣や官房長官など政権の要職を歴任し、遅ればせながらではあるけれど、満を持しての登場でもあった。しかし、組織のNo.2やたとえ名参謀であろうと、ずば抜けた補佐官であろうが、トップリーダーとの間には、目に見えぬ大きな隔たりがある。

 宮沢内閣は天皇訪中、官房長官河野談話など、歴史に禍根を残す実績のみを残したに過ぎなかった。挙句、権力の使い方を知らず、野党からの内閣不信任案に自党の小沢一派の同調を許すことになって敢え無く沈没した。そして登場したのが熊本の殿さま細川護煕氏であった。しかしこちらは所詮小沢氏の傀儡政権であり、あっさり転覆。政権奪還になりふり構わぬ自民党が社会党の村山富市氏を擁立して自社連立のウルトラCを演じた。しかし、こちらの基礎工事もなっていない政権であったため、自慮史観を首相自らが訴える談話を残しただけで、阪神淡路の震災対応も後手を引いたと言われるだけの政権に終わった。

 2度目の政権交代は、小選挙区制での典型的な政権交代となった。ただ、こちらも小沢一郎氏の手になる傀儡政権で、しかも民主党そのものの体質が、この国にとって非常に危険な要素を含んでいた。多くの国民は一度変えてみようとのマスコミ扇動に無責任に応じたけれど、外国人参政権などが現実味を帯びる政権でもあったのだ。

 前原氏や野田氏の外国人献金問題は結局その後忘れ去られたごとくになっているけれど、本人の確認不足で済む問題ではなかろうと思う。実は以前の民主党は外国人であっても党員になれて、代表選挙などに投票できたそうなのである。

 韓国はわが国の竹島を不法に占拠する未だ敵国であると主張する説もある。敵国でなかろうと、外国人を党員に認める国家の公党が他にあろうか。そこら辺りの機微も弁えず政治家になり、政権を取るなどという暴挙が許されたという、この国の不安定な風景を醸し出した政権交代でもあった。




本稿は文藝春秋新年号大型企画「日本を変えた平成51大事件」平成5年「細川連立政権」」を一部参考にしています。

この国の風景Ⅳ第9回

2015年12月25日 | ブログ
平成3,4年

 前回に続き、今月号の文藝春秋の大型企画「日本を変えた平成51大事件」から引く。平成3,4年と云えばバブルが弾けた頃。四半世紀ほど前になる。私はというと、研究所から引き続いた化学実験業務から品質管理課に転属になり、今の仕事のきっかけとなった固有技術から管理技術への転換の時期であった。ただ眼病のため、数か月ほど会社を休むことになった時期で、会社人生最大のピンチの時期でもあったかもしれない。

 だから自分の人生の修正に手いっぱいで、今ほど政治・経済・社会の現象や動向というものを捉えていたとはいえず、今回の文藝春秋の記事で、「そういえばそんなことがあったなあ」と認識する程度である。

 平成3年「悪魔の詩」殺人。『平成3年7月11日未明、イスラム教を冒瀆する内容とされたサルマン・ラシュディの小説「悪魔の詩」の日本語翻訳者の当時筑波大助教授(44歳)であった五十嵐一氏が大学構内で頸などを切られて殺害された。犯人は特定されないまま時効が成立し、真相は藪の中だ』とある。真相が分かっていないのに「悪魔の詩」殺人とあるのも不思議だけれど、1989年2月にイランの最高指導者のルーホッラー・ホメイニーは反イスラーム的を理由に「悪魔の詩」の発行に関わった者などに対する死刑宣告を行っており、事件直後からイラン革命政府との関係が取り沙汰されていたことによる。

 それにしても当時から、イスラム教関連では血なまぐさい事件がわが国でさえ発生していたのだ。まさに現在の「イスラム国」を名乗るテロ集団とも重なる。今年1月には拉致されていた湯川遥菜さん後藤健二さんの二人の日本人がイスラム国に処刑されたが、五十嵐助教授(当時)はその四半世紀も前の犠牲者であったのだ。米国共和党の大統領候補トランプ氏が、イスラム教徒の入国禁止を訴えたりすることが、一部に支持されたりも仕方がないことであろう。

 捜査当局は五十嵐一助教授が殺害された翌日、犯人とおぼしき外国人が出国したのを確認していたが、政治的配慮もあって犯人逮捕に至らなかったような話もあるようだ。フランスなどのテロへの報復としたイスラム国への空爆をみて、マスコミには「報復は報復を生む」と懸念する人が必ず登場するけれど、言っていることは間違ってはいないのだろうけれど、物事は都度きっちりとけじめをつけておかないと、罪なき人々に繰り返し被害が及ぶものだ。

 平成4年(1993年)には「天皇訪中」があった。この訪中に櫻井よしこ氏がするどく切り込んでいる。平成4年は確かに日中国交回復20周年の節目の年であり、友好親善は悪いことではない。しかし、3年前の1989年に中国は世界から大ブーイングを受けた天安門事件を起こし、世界からの経済制裁で経済成長が損なわれる懸念が大きかった。そこで中国は、国際社会への復帰の足がかりに日本に目を付け、天皇のご訪中を利用したというのだ。

 『それは、中国にとっては友好のためなどではけっしてなかった。そのことは、1992年(平成4年)2月に尖閣諸島などを中国領とする「領海法」を制定。さらに翌年に「愛国主義教育実施要綱」を制定し、歴史問題を中心にわが国に強硬的な姿勢を取り始めていたことでもわかる』。と櫻井氏は指摘する。

 その後の中国の対日発言や行動をみても、日本を舐めきっている。日本には必ず呼応する親中派という分子がそれなりに強い力を持って存在していること。わが国に日米同盟がなければ、中国に対応する軍事力はなく、国民は戦える精神を持っていないと踏んでいるからであろう。
 
 天皇訪中は「天安門事件に免罪符を与えた」だけとする櫻井よしこ氏の主張は、善意が通じない国との外交交渉に警鐘を鳴らしている。




本稿は文藝春秋新年号大型企画「日本を変えた平成51大事件」平成3年「悪魔の詩」殺人及び平成4年「天皇訪中」を参考にして、『 』内は直接の引用です。

この国の風景Ⅳ第8回

2015年12月22日 | ブログ
消費税

 司馬先生の「この国のかたち」から離れる。今月号の文藝春秋の大型企画「日本を変えた平成51大事件」。なぜ51件なのかは知らない。年間の十大ニュースのように読者からの投票で決めたとかではないようだ。平成元年から年次毎に数件程度に絞って順次掲載しているのだけれど、なぜか平成12年と17年の事件はなく、13年は5件もある。

 確かに時代を画したと思われる事件も多いけれど、単に不幸な事件もある。提供側(出版社)もいろんな読者を想定し、また政治・経済・社会とジャンルを考慮しながら型に嵌らない選考を考慮したものであろう。

 この51の記事のトップが平成元年に始まった「消費税」であり、これは時代を画すものだ。そして今、平成29年4月に行われる消費税10%に向けて、軽減税率の問題が議論され、クローズアップされている。この30年近い年月をかけて3%の消費税は、いよいよ2桁に乗る。

 共産党の、消費税増税分は企業減税にまわっているとの指摘もあながち空論ではない。事実安倍政権でも、消費税増税とセットで法人税減税が実施される見込みだ。成長戦略の一環として、外国からの投資を呼び込む方策として、他国の法人税並みに低くすることは必要かもしれないが、ここ十数年、大企業は投資先を見極められず内部留保を蓄えていた。法人の減税が必要とは思えない。

 海外からの投資は結構だけれど、お隣韓国のサムスン電子は、発行株式の半数以上を外国人が保有しているそうで、実質韓国企業ではないという見方さえできるようだ。国内企業が栄えても、結果自国民は潤わないシステムとなるのは如何なものかとも思う。

 話が逸れた。10%に増税時には食料品を中心に軽減税率を導入すべきとは、公明党の長年の主張で、ここは公明党も譲れないところ。当初麻生さんなどは、兎に角面倒だと拒否の姿勢だったけれど、安倍政権は乗った。そのことを大阪の橋下さんは、「安倍さんは人間が大きい」というような表現で、一方自分など「ひよっこ」だと、体よく政界から身を引く言い訳にさえしていたけれど、橋下さんの言い分は、安倍さんには、ここは公明党を立てて憲法改正実現を確かなものにする思惑があるという。

 確かに安倍首相は、憲法改正に公明党との連立政権は必要条件と考えているであろうが、先立つアベノミクスの成長戦略に消費税はあまり好ましくなく、せめて軽減税率によって、庶民の財布の紐をこれ以上固くはさせたくないのが本音だと思う。

 どこの国の政権も経済の悪化は、その継続を危うくする。米国なども中国との関係において、中国の米中両大国による世界分割統治的な発言を、オバマ大統領は即刻「ノー」と言わねばならなかった。南シナ海がここまでの状況になってからでは遅かったとの批判がある。米国、民主党の支持基盤は航空機などの機械系企業が多い。ぎりぎりまで、経済優先で中国に軍事的には口出ししたくはなかったものであろう。

 米ソ冷戦時代にはなかった両大国の経済交流という前提が、欧米の人権主義を後退させている。そこにわが国の立ち位置の危うさがある。また消費税ひとつでも、政治の思惑、駆け引きとその難しさが滲んでいる。



この国の風景Ⅳ第7回

2015年12月19日 | ブログ
天領のごとく

 司馬先生の「この国のかたち」も第2巻に入る。26「天領と藩領」。天領とは幕府の直轄領である。『江戸期、全国の石高はざっと三千万石だった。そのうち天領は、旗本領を含めて800万石。純粋な天領は400万石ほど*5)で、幕府という政府はまかなわれていたのである。それらの天領の管理と行政・司法のためにはわずかな人数の役人がいるだけで、軍事力といえるようなものは持っていなかった。幕府の軍事力としては旗本八万旗(実際には二万旗ぐらい)が江戸に集中して居住しているだけで、税収のあがる地方(天領)は、無防備だったのである』。

 江戸幕府の権勢が全国津々浦々まで行き届いていた時代は、無防備であった天領にあっても安泰であった。『たとえば、大和(奈良県)の大半は天領だった。そのうちの南大和7万石の行政・司法に任じていたのが、五条にあった小さな代官所だった。7万石といえば、大名なら、足軽・小者を含めて1500人以上――つまり歩兵1個連隊――の人数を抱えた軍事力を持っていた。ところが五条代官所では、せいぜい10人くらいの吏員がいるにすぎなかった。

 幕末、この五条代官所が襲われた。・・・打ちこんだのは総勢百数十人で、世にいう「天誅組」である。・・・前年に赴任した温厚で公正な代官を斬殺し、“姦物”として首をさらした』。

 江戸時代は初期を除いて、諸侯の財政は苦しく、農民は酷税に苦しんだ。当初四公六民で米の収穫6割が農民の取り分であったものが、大名領では藩によれば八公二民にまで増税されていたという。しかし、天領においては四公六民が守られた。前述の南大和のごとく7万石を十人で賄っていたことによる。

 そして、大和のよさは古寺にあるけれど、それが白壁・大和棟といった大型農家に囲まれていたからこその景観美にある。『白壁・大和棟は、天領の租税の安さの遺産と考えていい。・・・天領のゆたかな跡を訪ねるとすれば、奈良県のほかでは岡山県の倉敷がよく、また大分県の日田もいい。いずれも農村の風がのんびりしていて、町方は往年の富の蓄積を感じさせる』。

 現代のわが国をめぐる情勢の中で、これだけの広大な排他的経済水域を有しながら、海上保安庁の予算は平成27年度1876億円余り、28年度概算要求でも2042億円程度で賄われている。破綻の前兆はすでに、中国漁船による小笠原海域の宝石サンゴ略奪に見られる。

 尖閣防衛の緊迫感から宮古島や石垣島はじめ離島にも自衛隊を派遣するまたは増強する計画があり、地元では反対運動もあると聞くけれど、日米安保が強固であり、かつ米軍の力が絶大であることを前提とした小規模の計画である。

 国家予算の中でGDPの1%の国防費で賄ってきたことで、その分国民は豊かさを享受した。それは日本人すべてが、江戸時代でいえば天領に過ごしていたことになる。

 『――幕府というのは、いざとなるとシツケ糸一筋抜くことであっさり解体するようになっていたんだよ。そんな意味のことを、明治になって旧幕臣勝海舟がどこかで語っている。・・・実際そうだったし、またそういう結果にもなった。・・・もし明治以前の日本がぜんぶ天領(清や李氏朝鮮のような中央集権制)だったとすれば、19世紀あたり、ヨーロッパ勢力のために植民地にされてしまったにちがいない』。

 16世紀にポルトガルやスペインがこの国に手出しできなかったのも領国大名の統治能力が充実しており、かつ武力が存在していたからだと司馬先生は言う。『また武士人口の多さは、精神面でもいい影響をもたらした。武士という形而上的な価値意識を持つ階層が、実利意識のつよい農民層や商工人の層に対し、いい按配の影響を与えたのである。その点、武士に接する機会がないか、まれだった天領では、百姓文化というものは、格調のある精神性の要素が少なかった』。

 現代のわが国の国体は、日米安保というシツケ糸が抜ければ解体する危ういものであることを知っておく必要があろう。



*5)他に、鉱山や商業地・港湾からの収入はあった。
本稿は、司馬遼太郎著「この国のかたち」文庫第2巻、1993年文藝春秋刊を参考に編集
し、『 』部分は直接の引用(編集あり)です。

この国の風景Ⅳ第6回

2015年12月16日 | ブログ
宗教

 現代のわが国においては、宗教に関心を持つ人は少なく、日常生活が宗教的色彩で影響を被ることもほとんどないように思う。一方、世界の国々ではキリスト教徒は日曜に教会に行く習慣があるようだし、イスラム教徒であればラマダンとかの習慣を結構守っているようで、宗教が日常生活にしっかりと組み込まれている印象がある。

 わが国でも新年の初詣は今も盛んだけれど、意識的な信仰による印象はない。葬式や法事にはそれぞれの家の宗派による寺からお坊さんを呼んで、お経を上げて貰う。お盆には先祖のお墓参りをする。仏壇や神棚を家庭に置く家もそれなりにはあると思う。しかし、宗教に日々の生活やその精神が拘束を受けることはほとんどないように思える。イスラム教徒のように特定の食材を禁ずるなど決してなかろう。お隣さんが仏教の何宗であろうがクリスチャンであろうがお互い全く意識しないし関与しない。

 この時期では街にクリスマスの飾り付けがされ、11月はハロウィンだ、2月にはバレンタインだと騒ぐかと思えば、結婚式は教会で挙げた二人も、お宮参りだ、七・五・三だと子供の成長は神式で祝う風習も衰えてはいない。この宗教に対して雑多な感覚が、この国が明治維新後急速にヨーロッパ文明に追いつき、戦後は日常の工業製品において欧米を凌駕した要因のひとつと思える。

 それにしても、私だけかもしれないけれど、仏教でさえもその何たるかもほとんど知らずに生活している。

 『本来の仏教というのは、じつにすっきりしている。人が死ねば空に帰する。教祖である釈迦には墓がない。むろんその十大弟子にも墓はなく、おしなべて墓という思想すらなく、墓そのものが非仏教的なのである。

 仏教には一大体系としての教義がなく、霊魂も怨霊も幽霊も嵩りも存在しない。しかも本来の仏教には神仏による救済の思想さえない。解脱こそ究極の理想なのである。解脱とは煩悩の束縛から解きはなたれて自主的自由を得ることである。ともかくも、本来の仏教はあくまで解脱の“方法”を示したものであって“方法”である以上、戒律とか行とか法はあっても、教義は存在しない。

 本家離れしてキリスト教に似た救済性をもったのは、鎌倉仏教の代表格である親鸞における浄土真宗(教団の成立は室町時代)からである。解脱と救済は、原理においてたがいに別系統のものであるかのように述べたが、親鸞においては救済をのべつつ、解脱の原理からすこしも踏みはずさないという微妙な、きわめて仏教の本来的態度をとっている。

 かれにあっては“光明”は絶対的に人間を救済してくださるとしながら、人間は“光明”の前で自己否定しつくして透明化する方向を示唆している。この透明化こそ、釈迦のいう解脱である。鎌倉というのは、一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった』。

 この混沌とした仏教の世界が、日本人にあらゆるものを等しく許容して一つの神に集約しない素晴らしい諦観を生んだのではなかろうか。




本稿『 』部分は、司馬遼太郎著「この国のかたち」第1巻、21「日本と仏教」1990
年文藝春秋刊からの直接の引用(編集あり)です。

この国の風景Ⅳ第5回

2015年12月13日 | ブログ
多様性

 『私は日本の戦後社会を肯定するし、好きでもある。・・・あたりまえのことをいうようだが、戦後社会は敗戦によって成立した。それより前の明治憲法国家は、わずか4,50年で病み、60年に満たずしてほろんだ。・・・私など、その時代(の末期の異常な時代)から戦後社会にもどってきたとき、こんないい社会が自分の生きているうちにやってこようとは思わなかった。・・・しかしその社会も成就しはじめたいまとなれば、それがこんにちの私どもを生んだ唯一の母胎であるといわれれば、そうでもないと言いたくなる。いまの社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。また文化の均一性。さらにひとびとが共有する価値意識の単純化。・・・これが戦後社会が到達した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか』。

 司馬先生の「この国のかたち」第1巻も14に進んでいる。ここでは今日のこの国の有り様を生んだ母胎かも知れない江戸時代の多様性を取り上げている。

 司馬先生が江戸時代の多様性を感じる第1は『江戸時代の商品経済の盛行が、主として商人や都市付近の農民たち(社会の実務層である農・工・商)のあいだで合理主義思想をつくりあげさせたと思っている』こと。第2に『思想的なことはさておき、幕府と諸般といった武士階級において、三百ちかくあった藩のそれぞれの個性や多様性についてである。・・・江戸期は日本内部での国際社会だったのではないかとさえ思えてくる。・・・文化の均一性がないわけではない。とはいえその均一性は宗教改革以前のヨーロッパ諸国の均一性程度のものだったのではあるまいか』。

 例えば、教育や学問の面で、そのありかたは藩によって違っていたようだ。『各藩は江戸中期ごろから競って藩校をもち、その充実をはかったが、将軍の家である徳川家の場合、それに相当する旗本学校を瓦解までついに持たずじまいだった。要するに江戸の旗本・御家人の子弟は、勝海舟の父小吉がそうだったようにぶらぶらと無学のまま生涯を送ることができた。一方佐賀藩では、江戸末期、人間の漬物でもつくるように家中の青少年を藩校という大桶に入れ、勉強漬けにした』というのである。

 結論として、『このように士族の教育制度という点からみても江戸期は微妙ながら多様だった。その多様さが――すこし抽象的な言い方になるが――明治の統一期の内部的な豊富さと活力を生んだといえる』。

 江戸期の多様性について、司馬先生が指摘されている第1と第2、すなわち身分制度と大名による国家の分割統治。このタテヨコの多様性が重要である。

 わが国は先進諸国の中で、大学への進学率は上位ではないようだ。2010年の統計でOECD*4)各国の平均が62%に対して、わが国は51%で世界22位。オーストラリア96%、米国74%。韓国で71%、わが国より低いのがイタリアの49%、ドイツ42%くらいである。職人の国ドイツの面目躍如であると思う。

 進学率が相対的に低いわが国への懸念として、将来科学技術等で世界に遅れをとるのではないかというのがある。杞憂であると思う。国民の半数が大学に行っておれば十分ではないか。これ以上勉強が好きでもない人を大学に押し込んでも、投資/効果は小さい。国家において大切な知識や技能を学び身につける機能は学校だけにあるわけではない。強いて云うなら、良く知りはしないが、進学率より大学の教育内容を改善すべきであろう。

 そもそも、企業などでも各分野の博士を集めてプロジェクトを組むという多様性だけでは、成功はおぼつかないのではないか。実は彼らは、専門分野は違っても同じような境遇で育ち受験戦争を勝ち抜いたというエリートが多い。子供のころから生きるための数多の泥臭い経験を積み、遊びの中にさえ工夫を凝らし創造してきた経歴の持ち主は少なかろう。実は多様性には幅だけでなく深さが必要である。まさに江戸時代は、才能があっても身分制度の壁によって世にでなかった英才が農・工・商の中に相当数居たであろう。その多様性こそ明治に生きたのではなかろうか。



*4) OECD(経済協力開発機構)はヨーロッパ諸国を中心に日・米を含め34 ヶ国の先進国が加盟する国際機関である。

本稿は、司馬遼太郎著「この国のかたち」第1巻、1990年文藝春秋刊を参考に編集し、『 』部分は直接の引用(編集あり)です。


この国の風景Ⅳ第4回

2015年12月10日 | ブログ
似非

 「この国のかたち」第1巻の12に進む。『テゲテゲ(大概大概)という方言が薩摩にある。テゲだけでもいい。・・・薩摩の旧藩時代、上級武士にとって配下を投御する上で、倫理用語ともいうべきほどに大切なことばだった。上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごまとしたさしずはしないという意味である。・・・戊辰戦争のときに薩軍をひきいた西郷隆盛や、日露戦争のときの野戦軍の総司令官だった大山巌、また連合艦隊を統率した東郷平八郎という三人の将領(いずれも薩摩人)の共通点をみればわかる。かれらはみなテゲを守った』。

 そして、長州人であった児玉源太郎は、同じ長州の山県有朋(自分を頂点とする権力構造をつくるについては名人だったが、こまごまとしたことを配下に指示し、人を竦ませるようなところがあった)を忌避し、薩摩の大山巌を担いだ。児玉は大山の参謀とはなったが、台湾総督の地位には留まり、現地にいた後藤新平(無私で、理想肌でありながら現実を洞察する力をもち、しかも自分と同様、智謀湧くがごとしといった人間であると児玉は知りぬいていた)に印鑑をわたし、すべてを委任した。『児玉は長州人でありながらテゲを心得ていた。・・・テゲは薩摩の風土性というよりも、日本人ぜんたいの風であるらしい。テガが有効に機能する状態において組織は安定する』。

 しかし、日露戦争頃までの軍組織の成功が、後に『人を得ずに単なる型になった。その後の日本陸軍は、くだらない人間でも軍司令官や師団長になると、大山型をふるまい、本来自分のスタッフにすぎない参謀に児玉式の大きな権能をもたせた。この結果、徳も智謀もない若い参謀たちが、珍妙なほどに専断と横暴の振る舞いをした』。結果、この国は大きな犠牲を払うことになったことは言うまでもない。

 このような事例は現代の組織、企業にも多く見られるのではないか。パラハラの逆のような現象である。大山型をふるまっているわけではない。気の弱さから単に現場を知る部下に阿っているだけである。高度経済成長によって必要な管理ポストはいずこも急速に増えた。伴って大学の進学率も上がったが、多少の学識を得たところで、すべてがリーダーの資質を持てるとは限らない。

 急成長したスーパーマーケットや居酒屋チェーン店などでも、店舗数が増えると収益性を悪化させて、店舗閉鎖などということはよくあること。店長に相応しい人材養成より早い店舗数の拡大は当然に問題を生じさせる。一時飲食店などのバイト生がネットにあるまじき行為の写真を投稿して世間を騒がせたが、人事管理のイロハも心得ぬ店側の責任が大きい。

 政治家と官僚の関係にも言える。政治主導を唱えた民主党政権であったが、当然に短期政権に終わった。『政治主導の困難を思い知りました』とは、この新年号の文藝春秋での鳩山由紀夫氏の弁*3)だが、権力構造の頂点では、どれだけすさまじい嵐が吹き荒れているかも知らずの政権交代で、一国が担えるわけなどなかろうと思う。出来上がっている慣習を是正するには死に物狂いのエネルギーが必要なのではないか。

 この国の風潮が、やさしさと弱さを混同し、厳しさと横暴を履き違え、犯罪者や怠け者をのさばらせることが人権主義と勘違いしていること。この風景も描き換える必要があるように思う。



 
*3)日本を変えた平成51大事件。21年民主党政権「官僚は政治家よりも頭が良かった」
本稿は、司馬遼太郎著「この国のかたち」第1巻、1990年文藝春秋刊を参考に編集し、『 』部分は直接の引用(編集あり)です。

この国の風景Ⅳ第3回

2015年12月07日 | ブログ

独裁を排す

 「この国のかたち」第1巻の11に飛ぶ。信長について書いている。『信長の思想は、同時代の人間とは違っていた』。と司馬先生は言う。一つは配下の武将の門地を問わなかったこと。このことは、百姓出の藤吉郎を登用したことで現代人にもよく知られているが、門地を問わず登用したのは秀吉だけではない。信長の『生涯の後期、野戦軍を5個師団にわけていたが、5人の長のうち、侍らしい筋目をもっていたのは、最古参の柴田勝家と丹羽長秀だけだった。滝川一益は忍びで甲賀者であり、明智光秀も信長が土のなかから見出した人物で、流浪の浪人であった。光秀は美濃の明智家の出ということになっているが、その痕跡は明瞭ではない』。

 信長の実力主義は、現代の品質経営(TQM)などにいう人間尊重に基づいたものではない。『信長は、結局、人間を道具として見ていた。道具である以上、鋭利なほうがよく、また使いみちが多様であるほどいい。・・・秀吉は早くから信長の本質を見ぬいていた。・・・いつの時期からか、秘かに自分の天下構想を持つようになった。信長は、その死まで秀吉のそういう面に気づかなかったにちがいない。道具が構想をもつはずがないと思いこんでいた』。

 信長が同時代の人間と違っていたその2。『当時は封権の世で、武家が武士をつかって天下をとるとき、この時代、封建制をとるしか考えられない。大将たる者は、配下の武功の多寡を吟味して領地をあたえ、その領地の“王”にしてやる。武士たちはそれによって励む。・・・どの大名のもとでも、家臣たちが陣触れに応じて戦闘序列につくとき、所領の大小に応じて、自前の家人をひきい、自前の米で参加する』。

 信長も当然にそのような方法も用いて武将を鼓舞し、幾多の戦場を駆け抜けていった。しかし、究極として天下を取った時、江戸時代のような大名制はとらなかったのではないかと司馬先生は言う。『かれは――中国の皇帝制のような――中央集権・郡県制に似た体制を夢見ていたのではないかと思えるのである。・・・もし信長が、考えていたとすれば――きっと考えていたろう、それは-諸将にとっておそるべきことになる。天下を分かつのではなく、天下をひとりじめにするということではないか。・・・

 信長の末期、これも確かな資料のないことながら、かれは光秀から(彼がせっせと磨き上げ、百姓本位の政治をし、万が一の飢饉対策をするなど、当時としては理想に近い封建政治を布いた)丹波を召しあげて他に大領を与えることをほのめかしつつ、光秀に毛利攻めの応援を命じたかのようである。信長としては光秀を官僚としてあつかっているのだが、封建主義の光秀にとっては拠って立つべき領国が消滅する。その結果として本能寺の変がある。日本史は、独裁者につよい反撥を持った歴史といっていい』。

 現代はわが国も民主政治である。選挙で国会議員を選び、国会議員が内閣総理大臣を選ぶ。地方の県や市の首長も同様なことで、すべて成人一人一票の選挙で選ばれる。問題は国家レベルで対応する外交・防衛の重要な施策に、地方の県知事が、県民は自分を支持したと国家の方針に真っ向反対し、長年築き上げた計画を抹殺出来るか否かである。どうもある県の県知事は、封建時代の大名にでもなったつもりで、この県は自分が選挙で切り取った領土であると勘違いしているのではないか。国家の好きにはさせないと独立運動でも起こしかねない言動を為す。

 明らかに地方自治の悪用であるけれど、どうもこの国の多くのマスコミや左翼政党は権利に伴う義務は忘却し、国家の根幹を成す安全保障の重大性の認識が欠如している。ゆえに、そんな巨大なマスコミ権力を後ろ盾にすれば、己の架空の権力が誇示できる。それは国民全体からみれば、一首長による国家への独裁権力の行使のようにさえ映る。そはこの国の歴史や美しい風景に沿うものではなかろうと思う。



本稿は、司馬遼太郎著「この国のかたち」第1巻、1990年文藝春秋刊を参考に編集し、『 』部分は直接の引用です。




この国の風景Ⅳ第2回

2015年12月04日 | ブログ
革命の果て

 司馬先生の「この国のかたち」第1巻の6に基づく話を前回したので、次に7話を視て見る。小題は「明治の平等主義」。明治維新が四民(士農工商)にとって根こそぎの社会を変えた徹底した革命だった一面を述べている。但しそれは、『ブルジョワジーのためのフランス革命や農奴のためのロシア革命とは同日に論じられない』という。『封建制が一挙に否定されたために“階級”として‘とく’をしたものはなく、社会全体が手傷を負いつつ成立したのである』。

 『明治維新は、国民国家を成立させて日本を植民地化の危険からすくいだすというただ一つの目的のために、一挙に封建社会を否定した革命だった』。中心となった雄藩がたまたま300年近く前の関ケ原の戦いに敗れた薩長であり、薩長の殿さま筋から見れば、関ケ原の報復戦とも捉えていた気配もある。事実、島津久光など維新後の大久保や西郷のやり方に憤懣やるかたなかく、『西郷や大久保を心底憎んだと言う。大久保、西郷の二大巨頭が、革命の成立後、笑顔を忘れたかのようであったのは、主筋から人格もろとも否定され続けたことによる』。

 明治の平等主義について、司馬先生は例えば、藤堂明保さんという東大紛争の折に東大教授の職を捨てた中国音韻学の大家をあげる。『藤堂家は伊賀上野の城代の家柄であり、松尾芭蕉は藤堂家のご先祖の下っ端の家来だった。それでも先の大戦では中国戦線に駆り出され、終戦時の階級は軍曹。また旧久留米藩主で伯爵、農林大臣を父に持ち、皇族である北白川家から出た母を持つ作家の有馬頼義氏は、関東軍の古参上等兵だった。そういう家柄の子があっけらかんと一兵卒として徴兵されるなど、同時代のヨーロッパでは考えられないことで、明治国家が作った平等主義が苛烈なほどに継承されていた』。と司馬先生は書いている。

 その平等主義が、国民すべての力を富国強兵政策に向かわせる大きな力となり、日清・日露戦争に勝利することもできた。しかしその勝利が、帝国憲法の字面解釈の果てに戦略を誤り、国家存亡の危機に追いやったのである。

 再び、戦後の混乱を経て、経済大国として復興出来たことは、多くの幸運が味方してくれたこともあろうが、世界を敵にまわしても戦うという民族の誇りがあったればこその底力ではなかったか。

 しかるに、平成維新を謳って一時政権さえ奪った政党が、安保法制を戦争法案だと揶揄し、無責任な文化人や学者、多くのマスコミ、一部の経済人まで擁して、この国の分断を狙う勢力に媚びるなど、維新の歴史さえ知らぬ無知蒙昧の所業としか映らない。この国の哀しい風景である。




本稿は、司馬遼太郎著「この国のかたち」第1巻、1990年文藝春秋刊を参考に編集しています。

この国の風景Ⅳ第1回

2015年12月01日 | ブログ
憲法論議

 「この国の風景」は、司馬先生の著作である「この国のかたち」*1)をモチーフにして、
それに沿った形で話を進める予定であったが、「続、この国の風景」(2011年12月~2012年1月)で、第6回「機密の中の国家」までを引いたところで停止していた。「この国の風景Ⅲ」(2013年10月)では触れていない。

 この第6回の小題の「機密」とは、『統帥綱領・統帥参考』の中に書かれている内容である。それぞれ昭和3年と昭和7年に参謀本部が本にしたものとのことで、最高機密として特定の将校にしか閲覧が許されないものであったという。当時の帝国憲法下においても、天皇の国務については、国務大臣が最終責任を負う(輔弼する)ことになっていた(憲法には明記されていなかった)。しかし、統帥綱領等では、統帥権(軍隊に対する統治)は別であると断定した内容になっていたのだ。天皇の統帥権は、平時・戦時を問わず三権(立法・行政・司法)から独立し続けている存在だとしたのである。

 当時の帝国憲法解釈では、美濃部達吉東大教授の「天皇機関説」が支持とされており、学校教育現場においても美濃部博士の立憲主義的憲法学に拠っていた。しかるに昭和10年、美濃部学説(天皇機関説)は当時の内閣から葬られ、軍部の独裁的横暴によって大戦への道を突き進むことになる。天皇の統帥権は戦後、帝国憲法の欠陥であったという主張が主流のように聞こえているが、その解釈においては、当時の天皇の権限にさえ立場による違いがあったのである。

 先の安保法制論議で、マスコミ、野党や憲法学者の多くは、憲法違反の法律であるとの主張を繰り返した。一方与党自由民主党は、1957年の砂川事件*2)における最高裁判決を論拠として、『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然』とした。平和憲法の下においても、自衛のための戦力の保持や同盟国軍隊の駐留、相互依存などは国家固有の権利であるとの見解である。

 現代に美濃部博士が健在であれば、果たしてどちらを是とするかは空論に過ぎないが、今回の安保法制の論議を聞いていると、戦前とは全く逆のことが現代に行われているように見えて仕方がなかった。多くのマスコミや憲法学者の憲法違反論者こそが戦前の軍部であり、憲法を字面解釈で「違憲」と言っているに過ぎないと思える。それは帝国憲法の天皇主権の拡大解釈と同根である。与党の論は、憲法9条といえど、(明記はされていないが)主権国家が持つ自衛権は否定していないとするもので、まさに高度な政治判断に拠る解釈であろう。

 司馬先生は『昭和10年から同20年までのきわめて非日本的な歴史を光源として日本史ぜんたいを照射しがちなくせが世間にあるように思えてならない』と「この国のかたち」第1巻の6に記しているが、その「世間」こそ現代の多くのマスコミ等に巣くう「自慮史観」一派ではなかろうか。



*1)「この国のかたち」1990年第1巻~1996年第6巻、司馬遼太郎著、文藝春秋刊
*2)砂川事件:1957年7月8日、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件。東京地方裁判所は、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下した。
しかし、最高裁判所は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定して
おらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として原判決を破棄し地裁に差し戻した。byウキペディア