中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

実戦柔道第10回

2014年10月28日 | ブログ
姿三四郎

 この小説*19)を読むのは何度目であろうか。高校2年生の折に古本屋で文庫本を入手して、中間テストか本試験で練習が休みの期間に読んだのが最初だった。試験終了後の練習では少し強くなったような気分がしたものだ。

 全体の構成は、「序の章」に始まり「落花の章」で終わる全19章(上巻10章、下巻9章)より成るが、前4章に姿三四郎は登場しない。ここまでの主役は、嘉納治五郎をモデルとした矢野正五郎である。高校時代に入手した文庫本は5章「卷雲の章」から始まり全1冊にまとまり、矢野正五郎主役部分はなかった。

 東京オリンピックの年(昭和39年)、テレビドラマの「柔」が大ヒットとなり、主題歌であった美空ひばりの「柔」*20)は翌年の日本レコード大賞(1965年第7回)とまでなったが、ドラマの主人公は矢野正五郎であり、小説「姿三四郎」の前段と登場人物は重なる(姿三四郎の作者富田常雄*21)の「柔」が原作であったとのこと)。

 姿三四郎は、何度もテレビドラマ化され、歌にも歌われたので、われわれ世代の多くはある程度内容を知っているのではないかと思う。庶民に愛された武人を描いた小説として、吉川英治の「宮本武蔵」と双璧ではなかろうか。黒沢明の映画監督デビュー作(昭和18年)がこの姿三四郎でもあった。

 姿三四郎は、匕首で迫るヤクザ者との争いに始まり、柔術家との決闘、米人拳闘家とはリング上で、唐手との死闘、一刀流免許皆伝の刺客、清国の手裏剣を操る忍者もどきの間諜との格闘など、今に云う数々の異種格闘技戦を戦いぬく。まさに実戦柔道を地で行く主人公の活躍を描いているけれど、その闘争シーンの描写の見事なことが、単なる創作の域を超え、読者に現実感を与えている。さらに読者は、彼を憎悪し殺そうとさえする敵に勝利しても恨むことなく、敗者に寄り添う主人公に、日本武道の精神を感じて共感するのである。勝ち負けを目的としない求道精神の高邁さが物語に深みを与えている。

 時は、明治20年前後~講道館柔道もわが国新政府も黎明期、文明開化、富国強兵の時代。

 『支那に対する諸外国、殊に欧州諸国の清国に対する利権争いは英国がその尖端を切ったものである。

 英国は東洋侵略に於いて最も早くから着手し、香港を略奪してから着々歩を進め、各港における利権を占めたばかりではなく、支那の中央たる揚子江の権力をも占めようとし、又、印度(インド)から延長した鉄道は追々ビルマを経て支那の四川雲南に隣接することを計画している。蓋(けだ)し、英国の今日支那に対する政略は、実に清国政府を援助し、交際を厚くし、それに依って露西亜(ロシア)を防ぎ、東洋に於ける権力を保持しようとするにあることは十目の見るところである。だが、もし油断すれば将来印度の覆轍を踏むに至るべきは測るべからざるものがある。・・・

 露西亜に至って、その雄図を展べようとする方略は日に急であり、最も恐るべきものがある。中央亜細亜(アジア)は大半その有に帰し、一方、アフガニスタンを越えて印度を衝こうとし、一方、支那の新疆(しんきょう)、蒙古、満州、それに朝鮮と境を接し、これを略取して遂に支那本部に入る計画は日々歩を進めている。シベリア鉄道は近く黒竜江を経て浦塩斯徳(ウラジオストック)に連接するだろうし、中央亜細亜鉄道は数年ならず新疆に達するだろう。かくすれば、露西亜が大兵を出して支那に入ることは容易であり、現在の清国の兵備ではとても防御できるものではないのである。・・・』(姿三四郎/愛染の章より)

 まさに西洋列強によってアジア諸国は植民地と化し、支那さえ虫食いのようになっていた時代背景が小説には綴られている。

 姿三四郎の時代から約125年。中国の台頭によって攻守所を変えた感があるだけで、世界に紛争の種は尽きない。国家に国防の備えが必要であることは論を待たないが、わが国は高い経済力と共に、武道精神など奥深い精神文化を維持することが肝要であることは時代を超えて普遍である。




*19)小説「姿三四郎」(作者:富田常雄)初出は、1942年から45年にかけて出版されたとある。本稿は昭和45年株式会社講談社から出版された単行本上下巻を参考にしています。
*20)日本コロンビア1974年11月、作詞:関沢新一、作曲:古賀政男
*21) 富田常雄(1904-1967):講道館四天王最古参、富田常次郎(七段)の次男。直木賞作家。講道館柔道五段。byウキペディア
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実戦柔道第9回

2014年10月25日 | ブログ
古流柔術「神道無双流」

 「神道無双流」は、帝人(株)岩国(山口県岩国市)の柔道師範を務められた牧野富之助ハ段が宗家である。私は縁あって師範が帝人を退職後、元々の帝人の門下生に交じって、師範が言われるところの「柔道大学」(寺小屋的柔道教室)で教えをいただいた一人である。

 師範は、大正6年山口市の生まれで、昭和九年に海軍入籍。海軍経理学校高練を卒業、終戦時は海軍主計曹長であったとは、師範の著書「夢幻の海」*18)の著者略歴にある。師範は、全海軍の柔道大会で準優勝されたことがあるというほどの猛者で、海軍経理学校在校中の昭和15年(推定22歳)、講道館で昇段試験を受けて5段に列せられたという。段位がそれほど権威を持たない現代でも、22歳で5段は相当の実績(実力)がなければ允許されないのではないか。師範の談によれば、当時講道館には大相撲の幕下あたりの力士もよく稽古に来ていたが、跳ね腰で投げ飛ばしていたそうだ。

 その牧野師範(以下先生と略称)が、終戦間近の作戦行動(本土決戦準備)の四国山中において、神道白雲斉と名乗る老人と出会う。翁の懇請によりしばしば翁宅を訪問していたところ、古流柔術の廃絶を憂う翁は、先生に神道無双流伝書と刀剣を与え、宗家伝承を委託されたという。

 先生からいただいた青焼きの資料には、立合形33、これにそれぞれ初伝、中伝、奥伝、免許、皆伝の階級で習得すべき対処技(形)が記されている。マトリックスの横が立合形33項目、縦に5階級、これに全部対処技を入れると165となるが、空欄もあって138の技が記述(複数回登場の技も多数ある)されている。なお、初伝の前に切紙という階級があるが、この階級で習得せねばならない技は初伝と重なりその数が少ない。

 講道館柔道の形には、複数の敵を想定したものがなく、柔道が一対一の実戦力に比し、複数の敵に対しては急激にその力を落すと云われる原因ともなっている。しかし、「神道無双流」の形には「二人捕」、「四方敵」があり、「四方敵」対応の皆伝では最大15人捕まである。

 一応私は、当流派の奥伝を允許されているため、神道無双流立合形の允許部分までの一部を紹介したい。
1.打下:敵、吾が側頭部に拳にて打ち込み来るを、手刀受、(1)切紙、初伝では水月突、背負投。(2)中伝では、水月突、小手返投。(3)奥伝では、釣鐘蹴、脇固。免許、皆伝技略。・・・
4.斜打:敵、拳にて斜打ちに来るを、側足を引き外し、霞打ち、(1)切紙、初伝では、小手外返。(2)中伝では、立腕緘(うでがらみ)。(3)奥伝では、立腕挫。免許、皆伝技略。
5.突掛:敵、吾が顔面を突き来るを、かわし、顔面突き、(1) 切紙、初伝では、腹固。(2)中伝では、裸絞落。(3)奥伝では、小手返投。免許、皆伝技略。・・・といった具合。当身が縦横に使われていることが分かる。

 複数の敵に対処する形では、23項目目に「二人捕」がある。その解説には、『前方の敵二人、吾が両手を制し来るを、釣鐘蹴、右踏み込み廻り両名逆小手』とある。また24項目目の「四方敵」では、『前後左右より打込み来る敵を、①前敵受打、浮腰で投げ、②右敵受打、小手返、③左敵受打、大外刈、④後敵受打、背負投、⑤前敵霞打、小手返、⑥後敵足当、後抱投、⑦右敵両脇当、首絞返、⑧左敵受打、肩車』で以上「四方敵」奥伝までの対処技(八人捕)である。

 これらの形を繰り返し錬磨することで、実戦に対応できる「技」、「術」、「略」を会得し、肝を錬える。温故知新、柔術の技を知ることは、柔道の実戦力の向上に利するところ大であり、柔道の奥の深さを知ることとなる。その精神と共に長く伝承されるべきものと思う。




*18)牧野富之助著(自費出版)、昭和55年12月発行。太平洋戦争に散った若き海軍潜水艦乗員兵士の『暗い戦乱の谷間の時代を、彼等がいかに生き、悩み、苦しんで死んでいったか、その生きざま死にざまを、一部フィクションの部分を含めて、見聞した事実と交織して再生を願った』小説である。『 』内は「夢幻の海」“はじめに”より。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実戦柔道第8回

2014年10月22日 | ブログ
柔道の形

 講道館柔道の形には、「投げの形」、「固の形」、「極の形」、「講道館護身術」、「柔の形」、「古式の形」、「五の形」及び「精力善用国民体育の形」がある。先に三船十段の書に「投業裏の形15本」があることを紹介した(実戦柔道第6回)が、これは講道館柔道の形の中には入っていないようだ。地方の古流武道振興会の柔道演武で、演じられるのを見たことはある。

 「精力善用国民体育の形」は一人で行う単独動作であり、体育的効果を主眼としながら、当て身の「当て」、「突き」、「打ち」、「蹴り」の基礎を身につけるための形ともなっている。「柔の形」は投げ技、固め技を使うが、投げは抱えた状態で止めるから受け手は受け身の必要はない。畳がなくとも広い空間がなくとも、どこでも誰でも練習できる形として考案されたとある。柔道技の真髄は盛り込まれており、女子柔道に乱取り試合がなかった当時は、女子部でよく練習されていたように聞いた。

 「古式の形」や「五つの形」は高段者が演じることが多い。全日本柔道選手権などの決勝戦の前の空き時間などに演じられるのを見る。投げの形は三段までの昇段試験で必須となる為、柔道を志した者は大抵が練習する機会がある。高校生当時同じ試験会場で三段受験者の形試験の演武を見たが、見事なものが多かった。三段の受験者は大学生や社会人であるが、流石に立ち居振る舞いから立派で、柔道に対する憧憬をさらに強くしたものだ。

 固の形は、いわゆる寝技の形で、実戦柔道にとって非常に重要であるが、寝技は、当て身と異なり、日頃の乱取り練習の一環として十分練習するため、改めて形として練習することは少ない。ただ、試合で禁止されている下肢膝関節を取る技が含まれており、一通り確認しておくことは柔道を志す者には必要である。

 当て身、締め、関節を駆使した形に、「極の形」と「講道館護身術」がある。「講道館護身術」は刑務官などよく練習されているようだ。その形の披露を見たことがある。昭和31年に制定されたものであるが、制定するにあたり講道館は、「講道館護身術制定委員会」を設け、永岡秀一十段、三船久蔵十段、佐村嘉一郎十段、小田常胤九段、栗原民雄九段(当時)など25名の錚々たるメンバーを委員に3カ年の月日を要し、完璧を期したと伝えられる。短刀、棒(杖)に加え拳銃までに対応する捌きを盛り込んで、実戦的である。

 「極の形」は、古流柔術の流れを汲み、長刀(日本刀)、短刀に対する捌きがあり、畳の上で相対して正座の状態からの攻防となる「居取」があって趣がある。技の名称は攻撃側の仕掛け動作のものであるが、これをかわして当て身して投げ、またはさらに関節技や締め技で極めるというまさに実戦的柔道である。この形の練習では、日本刀の取り扱いや初歩的な「居合」までを学んだ。

 講道館柔道は「礼に始まり礼に終わる」と言うが、「形」は立礼、座礼、立ちあがり方などの所作を学ぶにも好適である。また衆目の前で演じるのは、試合とは異なった緊張感の中、すがすがしい武道の精神が心に溢れてくるものである。空手道など、組み手の試合と並行して必ず形の競技があるようだが、柔道でももっともっと形を普及させる方策が必要であるように思う。






 本稿は、九段(当時)小谷澄之、ハ段(当時)大滝忠夫共著、昭和46年株式会社不昧堂出版刊「新版柔道の形全」、を参考にしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実戦柔道第7回

2014年10月19日 | ブログ
当て身の修業

 柔道の当て身は、相手の急所を打つ、蹴るまたは突く。そのためには、まず人体の急所の位置を知ることが必要である。人体の急所図は、一般の柔道教本にもある。「極の形」や護身術の解説には必要となるからである。もっとも数百ともいわれる人体急所の一部分(20数カ所程度)しか示していないのが一般的である。

 少し古いが昭和45年に発行された栗原民雄師範*15)の「柔道入門」*16)の図はまとまって簡便である。急所を多く表示しているのは、私の蔵書の中では、大山倍達「ダイナミック空手」*17)の方が詳しい。

 急所は人体の前、後ろ共にあるが、まずは人体の中心に沿って存在する。天道(天倒百会)、烏兎(うと:眉間)、人中(鼻と上唇の中間)、秘中(喉仏)、水月(みぞおち)、明星(丹田)、金的(睾丸)などが代表的である。そして左右対称に両眼(眼星)を筆頭にこめかみ(霞)やわき腹(右:電光、左:月影)などを代表として存在する。左右の下肢、両腕にも存在する。書によって多少名称が異なることもあるが、実戦的には呼称は問題にならない。

 次に必要な知識として、多くの柔道本にもあるのが、拳の種類と用法。こちらは前回紹介した牧野富之助ハ段の「拳法要訣」のものが優れる。1.正拳、2.裏拳、3.拳槌(けんつい)、4.一本拳、5.手刀、6.背刀、7.背手、8.貫手、9.底掌、10.猿臂(ひじ鉄)、11.腕(わん)、12.握拳。以上が上腕によるもので、足を使うものに、1.虎趾(こし:足底)、2.足刀((横蹴りや回し蹴りなどで使う部位)、3.円踵(えんしょう:かかと)、4.背足、5.膝槌(しっつい)がある。さらに手足の使えない時は、頭、額、肩など利用できるものはすべて使えるように平素から鍛錬をするように書き残しておられる。

 極の形や講道館護身術には、受け(やられ役)が取りの後ろから抱き抱える(後捕、後締め、抱取)攻撃があるが、この際受けは、頭を相手の肩の下あたりの背中にぴったり付けろと教えられたものだ。安易に後ろから組みつくと頭を振って頭部を逆襲される恐れがある。受け役といえど武道の定石を外してはならないとの教えであった。

 実戦として当て身が使えるためには、当然相応の訓練が必要で、単なる知識だけではどうにもならない。まずは、形によって相手の打ちこみを捌きながら当て身を行う。相手を捕縛して後、当て身を行う。または相手が組みつこうとする瞬時を捉えて当て身を行うなどである。しかし、これも単なる殺陣や舞踊では仕方がない。当て身が一撃で功を奏すには、拳を鍛えておく必要がある。

 貫手のために砂から始め、砂利に進むなど聞いた話だけれど、空手の人はやるでしょう。正拳を鍛えるためには巻藁など工夫するが、これがなくてもコンクリートや木の床での拳突き腕立て伏せも効果的である。数回から始めて、いくらでも回数を増やせばいい。柔道では、当て身は急所を打つので、そこまで鍛える必要がないのだ。などと高を括らず日頃から鍛えておくことは、寝技などで手の甲が激しく擦られることもあり、試合でも無駄は無い。

 当て身の一番の狙いどころは、相手のわき腹(電光、月影の急所)である。ここを裏拳で打つ。手首のスナップを利かせて当てる瞬間は正拳部分で当てる。裏拳の正当ではないが、柔道の乱取りをやっていると手首が相当に強くなっているので、これをやっても手首を挫くことはないし、却って威力は増すと考えている。なぜわき腹かといえば、構えることなく最も早く当てられること。ポイントを少々外しても効果がそれほど落ちない。すなわち的が大きいので外し難い。従って複数の敵に囲まれた際にも対応し易いと考えるからである。




*15)栗原民雄十段(1896-1979)兵庫県出身、大日本武徳会武術専門学校(卒)教授。オランダのヘーシングの師である道上伯は教え子。増田俊也氏の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」には、昭和4年の第1回武道天覧試合(柔道専門家部門)の決勝戦で、後の木村政彦の師となる柔道の鬼と呼ばれる一人牛島辰熊を破った戦士として記録されている。
*16)昭和45年8月、株式会社鶴書房刊
*17)(改訂新装版)1976年(第13刷)、大山倍達著、株式会社 日貿出版社刊
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実戦柔道第6回

2014年10月15日 | ブログ
当て身

 『当身技とは、相手の急所を打ったり叩いたり突いたり蹴ったりして即死即倒または相手の気勢を挫く方法をいう。敵を遠距離に投げるのは、投げ技では巴投げだけであるが、当身技を軽く施して押し倒せば、数間の距離に倒すのも容易である。所謂、一時殺し、一時竦みまたは何年殺しなどはみな当技の応用である。』

 これは、私が活法、指圧、整復などのイロハや各種柔道の形、古流柔術などをご指導いただいた近隣帝人岩国(山口県岩国市)の柔道師範であった、故・牧野富之助先生(講道館ハ段)の書(神道無双流「拳法要訣」)にある。当時の寺子屋柔道教室のような風情で共に学んだ先輩方に、配付するための資料を青焼で作成するため、私が先生の原稿をお預かりして複製したものの冒頭にある。

 すでに40年近い歳月が流れ、青焼きの資料は劣化しかかっている。このまま埋もれるのはもったいないものとも思うが、全国の武道愛好家の先達が、独自に工夫研究して書き留めた資料で、人目に触れず消えていくものは数限りなくあろう。しかし、それらは文化の厚みであり、人知れず伝承されるものでもある。

 当て身技に関する解説は、一般の柔道教本にはない。昭和29年に発行された三船十段の柔道教典「道と術」にさえ載っていない。ただ、この立派な装丁(昭和31年に再版されたもので、地方価格955円)の柔道教典*10)には、「投業裏の形15本」*11)が解説されており、巻末の4ページを割いて「活法大意」として初歩的な活法の解説があることは特筆される。

 昭和54年(1979年)に複刻版*12)が発行された小田常胤六段(当時)*13)の「柔道大観上・下」(昭和4年5月、尚志館出版部刊、定価各巻参円50銭)には、流石に当て身の項があった。下巻の第六編(當身業の部)に総論として次のような記述がある。(一部、現代漢字に変換)

『當身業は単に當といって、柔道に於ける一大眼目であって、頭、額、肘、膝、爪先、手、足等にて敵即ち相手を突き、打ち、蹴る、撲るかして其の場に昏倒若しくは気絶殺傷せしむる一般的方法を云い、柔道最後の極致秘訣である。現代に到るも危険弊害を慮かり、その乱用を慮れてか勝負の數に加えて居らぬのである。・・・・欧米に於ける拳闘の発達が実に著しいかと想えば、唐手術も斬く台頭し来たり、茲に武術勝負の戦国時代が出現したと云うても決して過言ではない。當身技の研究は柔道に取って最も急務中の急務、普通乱取り勝負を研究する以上重大である。・・・・

 當身業は、相手が立て居ようが、倒れて居ようが、何時如何なる場合にあっても、掛け得られる特長を有つてゐ護身術として有効なる事に就いては、今更喋々するまでもないのである。・・・・

 然かも當身業は、打っても打ち放しにせず、突いても突き放しにせず、蹴っても蹴り放しにせず必ず元の位置に敏速に戻し、相手如何に依っては次の行動に出づべき準備と身構えを必要とする。斯くしてこそ効果もあり価値も存在するのである。』

 昭和4年に『當身技の研究は柔道に取って最も急務中の急務、普通乱取り勝負を研究する以上重大である。』としながら、以降柔道は益々当て身技から離れていった趣*14)がある。体育的見地からすれば、確かに実戦的かどうかは大きな問題ではない。しかし、格闘技が最終的に実戦において価値なきものに堕すれば、衰退の道を辿るのは必然ではなかろうか。




*10)三船久蔵著、誠文堂新光社刊、初版は昭和29年5月。昭和52年5月、古本市で2,500円で入手。
*11)相手の技の裏をとる、返すまたは後の先の技を繰り出して相手を倒すための形
*12) 小田常胤六段(当時)著、「柔道大観上・下」複刻版、昭和54年11月発行。株式会社梓川書房。上下で、1454頁の大作。
*13)明治25年3月山梨県生まれ。昭和33年九段。寝技の達人で、元祖「寝技の鬼」と呼ばれたという。
*14)ただし、昭和31年1月。講道館は従来の「極の形」に加え、新極の形とも言える「講道館護身術」を制定している。当て身の錬磨を促すものとして意義があり、講道館は実戦柔道の維持を放棄していたわけではないようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実戦柔道第5回

2014年10月13日 | ブログ
力道山と大山倍達

 この二人の格闘家のことは、先の増田俊也氏のドキュメンタリーに詳しい。二人の虚実は増田氏の取材に足すことも引くこともなかろうと思う。

 力道山はわれわれ団塊世代が小学生の頃のヒーローだった。それはテレビの普及とも相俟って、戦後の一時代を象徴する一大ブームであった。近所の友達のおばあちゃんなど、テレビの力道山の出るプロレス中継に大興奮していたものだ。

 小学5年生の折、県内の山のお寺の宿坊に1泊する小旅行があり、先生に引率されて山道を登った思い出がある。夜には住職から説教があった。和尚はその話の中で、力道山を喩えに上げたほどだった。「力道山は強いけれど、恐くはないでしょう」というような話しをした。まこと医者や坊主は信用ならない。

 いくらプロレスブームで力道山の人気があっても、当時私はプロレスに興味はなく、大相撲の鏡里(4年生の時に引退)、野球は川上(5年生の時に選手引退)、そして漫画の「ダルマくん」に触発されたと思われるのだが、柔道に憧れがあった。

 力道山がヤクザ者との喧嘩がもとで亡くなったのは、1963年12月というから私は高校1年生。刺された腹部に手術が必要だったのだけれど、日頃の酒の飲み過ぎで麻酔が効かず、手術中痛くて暴れるので、適切な処置が出来ずに死に至ったというような風聞があった。高度経済成長初期、今ほど情報量は多くない。ネットなど当然にない。もっともこの事件、死因の真相はもとより、ヤクザとの偶然のトラブルなのかそれとも意図があったものか、諸説あるのは仕方がない。

 会社に入って初めての職場は工場の一番端っこ。石油化学プラントの中でも最も危険なプラントと言われたていた所だったけれど、地元採用で中途入社の個性豊かな先輩たちに恵まれた職場だった。この職場に情報通の先輩が居り、力道山の話しもしてくれたものだけれど、悪行ばかりだった。

 その先輩の義理の弟さんが大学の空手部だったとか。遊びに来た折に地元の数人のチンピラ相手に喧嘩をし、難なく片づけはしたのだけれど、そのままでは済まない。地元の親分に中に入って貰い料亭で手打をやったけれど、その時に集まったチンピラのボコボコにされた顔が面白かった。そんな話もしていたけれど、地元のその筋の親分に顔繋ぎができるくらいの方だったので、力道山の話もその筋から聞かされていたものだったかも知れない。

 一方、大山倍達師範は空手界の革命児というイメージがあり、梶原一騎氏の「空手バカ一代」さえ読んでいないが、私も尊敬する武道家のひとりである。極真空手の創始者として、またその流儀の実戦力に関心があり、師範の自伝本を読み、私の格闘技研究の一環で著作「ダイナミック空手」*8)も入手した。

 彼の著書(自伝本)には、柔道の木村政彦師範への憧憬が書かれており、そのことにも好感を持った。増田俊也氏の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」*9)には、大山倍達師範の虚の部分についても有り体に書かれているが、結論として世界で認められるほど強かったことは間違いなかったのではないか。その精神も武道精神に適うものではなかったかと思っている。




*8)(改訂新装版)1976年(第13刷)、大山倍達著、株式会社 日貿出版社刊
*9)平成23年9月、株式会社新潮社刊。平成26年新潮文庫(上、下)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実戦柔道第4回

2014年10月10日 | ブログ
オリンピックと柔道

 今日、10月10日は元々体育の日だった。連休を作る為、10月の第2月曜日となったが、1964年第18回の近代夏季オリンピック東京大会の開会式があった日だ。あれからすでに半世紀が過ぎた。

 このオリンピックでは、初めて日本伝講道館柔道が正式種目として登場した。その会場として建てられた日本武道館も、今年50周年ということで、天皇皇后両陛下の御臨席も得ての記念祝典があったようだ。皇居北の丸という最高の立地で、わが国の世界に誇れる建造物の一つではないか。2020年のオリンピックにも柔道会場となる予定という。

 初回のオリンピック柔道の問題は無差別級にあった。1961年のパリでの柔道世界選手権では、すでにオランダのアントン・ヘーシングが無差別級を制しており、誰が出ても厳しい試合が予想された。結局ヘーシングがオリンピック柔道の無差別級初代王者となり、日本柔道は本家の面目を失った。しかし、ヘーシングが勝ったことで、柔道が世界のスポーツとして認知されたとも言える。敗者は常に屈辱を味わうけれど、その屈辱が大きいほど、その道の隆盛に寄与することもあり得るのである。木村の屈辱*5)がプロレスブームを興したように。

 勝者のヘーシングは、『勝利を決めた瞬間、興奮したオランダの関係者が畳に駆け上がるのを、厳しく手で制した。自身には笑顔もガッツポーズもない。敗者への敬意と挙措(きょそ)に、多くの日本人はこの柔道家が「本物」だと知った・・・』*6)。

 一方、敗者の神永昭夫師範は、明治大学から上村春樹(現、講道館長、全日本柔道連盟会長)を見出し、オリンピック王者(1976年モントリオール柔道無差別級)に育てた。その後は、山下、斉藤*7)時代があり、日本柔道界は隆盛であったが、いつの頃からか、本家日本の柔道選手が国際試合でも派手にガッツポーズをするようになった。オランダのヘーシングが身につけていた日本柔道の精神を忘れた。

 そして、ここ数年柔道界に不祥事が相次いだ。稽古での事故も頻発した。わが国で柔道を志す若者は減少している。オリンピックなど国際大会のメダルの数が問題視されるが、修業する初心者層に始まる指導者への指導が疎かになっていたように思う。メダルの数も必要ではあるが、試合に勝つことは最終の目的ではなかろう。それはいかなるスポーツも同様である。修業の手段として試合がある。その勝利に心血を注ぐことは修業の過程として重要であるが、真の意味で勝者となるためには、体力と技の錬磨と共に高邁な精神が求められることは言うまでもない。




*5)本稿「実戦柔道第3回」(木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか)参照下さい。
*6)天声人語。2010年8月30日「東京オリンピック無差別級金メダリスト、ヘーシング氏の訃報」より
*7)斉藤仁(現、7段)、ロサンゼルスオリンピック95kg超級及びソウルオリンピック無差別級金メダル。1988年全日本柔道選手権優勝。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実戦柔道第3回

2014年10月07日 | ブログ
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」

 この小題は勿論、平成23年に新潮社から刊行された増田俊也氏の力作のドキュメンタリーのタイトルである。大宅壮一賞、新潮ドキュメント賞をダブル受賞されたというが、まさに価値ある作品である。確かになぜ木村(ドキュメンタリーに倣い、「木村」と敬称を略させていただきます)が直接力道山に復讐しなかったかの理由のようなものが、最後の方に書かれてはいるが、全篇を流れるのは、厳しい修業に明け暮れ、他の追随を許さぬ実績を残し、それほど強かった最強の武道家が、なぜ力道山ごときに敗れたのか。その謎に迫るドキュメンタリーではないか。作者は、木村の地平に立ちその悔しさを共有しているように感じる。それにしても、「・・・なぜ力道山に敗れたのか」という本であれば、多くの読者は書店でこの本を手にすることはなかったかも知れない。

 力道山とのプロレス日本一決定戦と銘打った一騎打ちの顛末は、木村政彦の自伝「鬼の柔道」*1)、「木村政彦わが柔道」*2)や大山倍達「ケンカ空手」*3)、「大山倍達わが空手修行」*4)にもあり、これらを読んでいた私は、所詮興行上の勝負であり、力道山の約束違反であったと理解していた。

 当時は戦後間もない時期で日本人の血もまだ十分に冷却されておらず、このような興行が民衆に受けた結果、その勝敗がそのまま両者の力のごとく映り、プロレスは凄いというプロレスブーム(力道山ブーム)に火を付けたことは間違いない。興行的には大成功であったが、木村政彦の屈辱は計り知れない。

 木村の敗因は、油断であろう。そこに至る前に横たわった戦争があった。柔道家としての厳しい鍛錬を中断せざるを得なかった。戦後の混乱期のこと、生活もあってプロレスラーとなれば、その世界の慣習に支配される。木村は、力道山があくまでショーとして戦い、両者勝ち負けの後、引き分けとの約束を全うすると思い込んでいた。一方力道山は、チャンスがあれば木村を潰すことを当初より目論んでいたのではないか。

 木村と力道山の対決は昭和29年(1954年)というから私はまだ小学1年生。私が柔道を始めた高校への進学は昭和38年(1963年)の春であった。翌年に東京オリンピックを控え、その種目に柔道が入るというので、一種の柔道ブーム、クラブ紹介の柔道部教室は新入生で溢れていた。

 柔道を志しながら木村を初めて知ったのは、高校2年生の修学旅行だった。例年東京、日光、鎌倉が定番だった修学旅行は東京オリンピックと重なり、宿泊所が確保できず、九州一周旅行に替わった。「円谷頑張れ」は、長崎のクラバー亭で、ソ連を破った女子バレーの快挙は宮崎の宿で聞いたように記憶する。

 木村の話は、熊本県下を走るバスの中で、木村の故郷の町を抜ける道すがら、バスガイドさんが、木村が力動山に敗れ姿を消した話を紹介した。その時まで木村という柔道家さえ知らなかった。しかし、木村は昭和35年の2月から母校拓殖大学の柔道師範となっていたというから、当時すでに柔道界に復帰していた。しかし、私がそれらを知るのは昭和45年の春、木村政彦自伝「鬼の柔道」*1)を書店で買って読んでからである。

 

*1)昭和44年、木村政彦著、株式会社講談社刊
*2)1985年(昭和60年)、木村政彦著、株式会社ベースボール・マガジン社刊
*3)昭和47年、大山倍達著、スポーツ日本新聞社刊
*4)昭和50年、大山倍達著、徳間書店刊
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実戦柔道第2回

2014年10月04日 | ブログ
最強の格闘技「柔道」

 今年8月には世界選手権柔道があり、9月にはアジア大会があった。日本柔道選手の活躍はテレビで放映されたものはほとんど観たけれど、ルールの変更が頻繁でついてゆけないところがある。北京オリンピックの頃だったか、確かにレスリングのように組み合う前からの足とりが流行していた。これが禁止となっており即反則負けとなる。オリンピックでは、他の競技との差別化やスピーディで分かり易い試合運び、すなわち観衆視点の試合運びが要求されるため、今に始まったことではないが、本来の柔道とは異なる趣がある。すなわち、組み合って「間」を測りあう動きの無い駆け引きはほとんど姿を消した。

 プロボクシングやプロレスは元々興行用だから、見る側の視点で発達したが、柔道や空手、剣道など日本の武道は、個人の修業の立場から発達した。これに一般の観客を惹きつけるためには、兎に角技をどんどん掛けさせるために、また大会運営上の制約もあって試合時間を短くして「指導」を連発する(現在指導4つの時点で負け、但し3つまでなら勝負判定では技での得点が優先される)方法が取られる。大相撲のようにルールは分かり易く勝負が早く、ガチンコ勝負となればこれは興行としても成り立つ。一時期プロ柔道なるものもあったようだが、柔道は前述の性格上興行向きではない。

 オリンピック種目にまでなったことは結構だけれど、それによって失われるものもある。しかし、世界に普及して、若者の心身の鍛錬に貢献できることは悪いことではない。戦国時代でもあるまいに、実戦的かどうかはあまり大きな問題ではないのだ。

 徒手空拳格闘技における実戦的という観点では、小説「姿三四郎」での唐手(空手)の檜垣兄弟との戦いにあるように、柔道と空手の戦いが代表的なもので、切磋琢磨の関係ではなかったかと思う。

 空手に転向した工場柔道部の後輩が、当時柔道界の頂点にいた山下泰裕(現、八段)をして、「空手のトップと対戦したらサンドバックにされる」。などと話していたが、私程度と柔道をやっていて得た柔道の感触と、当時の山下選手では富士山と里山くらいの差がある。当時の山下選手に対峙した時、空手のトップクラスの選手でも容易に殴りかかれるものではなかったろう。

 柔道の重量級の選手には、山下八段など一般人から見れば関取に近い体型の人が居るため、空手家などのいかにも俊敏な動きに比して緩慢な印象を持つかもしれないが、それは大いなる誤解である。トップクラスの柔道家は、普通の人なら体に触れたかどうかの瞬間に投げ飛ばすくらいのスピードがある。

 また以前、柔道、剣道、空手など多くの武道に有段者となった女性が何かに書いていたが、女性にとっては柔道の練習が一番大変だったという。寝技によって耳をつぶす者も多いが、見えないところはもっと大変で、私でさえ、たかだか高校3年間の柔道で、両足下腿の脛骨はボロボロになっていた。乱取り練習では用もないのに蹴られるし、大内刈りを掛けられた時には、こちらは足を引いて外すものだから、相手の踵が思い切り脛骨に当たるのである。練習して帰宅後、両足にメンソレータムを塗るのが日課だった。会社に入って工場の職場対抗駅伝大会の練習をしたのだけれど、走っている間はいいけれど、終わると痛めた脛骨部が痛くなり、足を引きずりながらでないと歩けなかったものだ。

 足の裏は甲羅のごとく硬くなり、社会人となった頃には真冬に雪の積もったグランドを裸足で走れるくらいになっていたけれど、冬はひび割れて、これがまた痛い。会社に入って5年目の秋に網膜剥離で入院した時に、足裏の皮がごっそり剥がれたのには我ながら驚いたものだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実戦柔道第1回

2014年10月01日 | ブログ
最強の格闘技

 徒手空拳で戦う格闘技の中で、最強の種目は何か。極真空手か柔道(古流柔術を含む)か否グレーシー柔術か、はたまたレスリング(プロレスを含む)、相撲、サンボ、ボクシング、キックボクシング、拳法(少林寺拳法を含む)、合気道、テコンドーと格闘技もいろいろある。ただ、グレーシー柔術やサンボは柔道から派生した(柔道が起源)ものと聞く。

 近年、プロレスに飽き足らない連中が異種格闘技を企画し、プロレスラーとボクサーや柔道家などをリング上で戦わせた。その後興行としての総合格闘技(K-1)に発展し、重量級の戦いでは、大相撲出身者や柔道家が、それなりの訓練を積んで参戦している。しかし、それらの結果は、最強の格闘技を決めるものにはならない。大相撲の元横綱など、引退後に参戦しており、最強の時代を過ぎているからである。柔道の100kg超級北京五輪金メダルの石井慧六段などは、まさに絶頂期に転向した感があったが、その後の戦積については知らない。

 興行として異種格闘技を行う場合、ローマ時代の奴隷同士を戦わせるように、それこそ「敗者は死んでもらいます」と言う訳にはゆかず、一定のルールを定めるから、武蔵と小次郎のような生死を賭けた決闘にはならず、従ってこれをもって最強決定戦とはならないと思う。プロの闘士に転向した柔道の石井六段の活躍が広く話題にならないことは、世間もすでに興行としてのやり方では、真の最強者を捉えられないと知っているから、都度の勝敗に意味を感じない為であろう。

 また、プロレスやボクシング用のリングでは、柔道などの投げ技の効果が半減され、従って打撃中心の格闘技が有利となる。その意味でも公平な条件下での対決にならない。昔、私はボーリング場のレーンであった所に畳を敷いて、柔道の投げの形の受け手(投げられ役)を演じたことがあるが、受け身を取ってもこれは体に堪えた。リングのマット上ではなく、せめて丈夫で堅い木の床で戦えば、結果は変わってくる可能性もある。

 実は理論的ではあるが、最強の格闘技は「柔道」なのである。なぜか。柔道は投げ技、寝技(固め技、絞め技、関節技)、そして当て身技と、徒手空拳におけるすべての攻撃手段を持っていること。修業の初期の段階から受け身を繰り返し練習していることも実戦的である。但し、柔道の試合では当て身は当然に禁じ手であるから、当て身を練習する者はまれで、現実的には空手などの方が実戦的で強いような印象を持つことも間違ってはいない。さらに実戦となれば少々の技の巧拙より体幹の強さ、すなわち体力がものをいう。修行者のトップテンくらいの平均値で捉えるという優劣にすれば、現実的にはプロレスラーなどが優勢かもしれない。

 寸止め空手修行者もそうなのだけれど、柔道家はボクサーやプロレスラーのように打たれ慣れていないことも弱みである。実戦柔道を目指す者は、敵の打撃を微妙にかわし、打たれても急所を外すことで捕縛する力を残し、投げ落し当て身または寝技(関節技、絞め技)で仕留める訓練が必要である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする