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実録柔道三国志 第10回

2020年08月28日 | ブログ
“最後の鬼”

 「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とは、「姿三四郎」の著者富田常雄が往年の木村政彦を称えた言葉という。講道館四天王富田常次郎を父に持つ富田は、幼いころから講道館の名人、達人、豪傑や“鬼”たちを見ており、それでもなお木村より強い柔道家は居なかったと言っているのである。さらに今後もこんなに強い柔道家は出ないだろうと言ったのである。

 その木村政彦(1917-1993)を育てたのが木村の同郷の先輩でもある牛島辰熊(1904-1985)である。その圧倒的な強さから徳三宝に続く、講道館3人目の”鬼”と呼ばれた男(9段)である。大正14年(1925年)明治神宮大会で優勝し一躍九州の猛虎の名を全国版としたが、その後当大会3連覇。昭和4年の天覧試合では決勝で栗原民雄六段(後の十段)に僅差判定で敗れたが、昭和6年第2回全日本柔道巽士権で日本一となり、翌7年大会と2連覇した。往年の徳三宝とどちらが強いかなどと言われた当時最強の柔道家である。

 現役引退すると自宅を牛島塾と称し、木村政彦を自宅から拓大に通わせて鍛えた。木村は他人の3倍稽古をモットーに一日9時間の練習をした。うさぎ跳び1kmに始まり腕立て伏せ1000回、立木相手の打ち込み1000本も含まれる。これを1年365日、睡眠時間は1日3時間だったという。結果、神宮大会の大学高等選手権では、鎮西中学から拓大予科入学した昭和10年の第8回大会から連続5回優勝している。

 そして木村は、昭和12年の第7回全日本柔道巽士権の決勝を迎える。その控室に、江戸川区の小松川に道場を構えて後進の指導にあたっていた徳三宝当時7段が激励に現れる。

 ふところから古ぼけた黒帯を出した。「木村君、これはな、ワシが若いころに締めた帯だ。牛島君から君のことを聞いて、いつか君にやろうと思っていたものだ。ごみみたいなもので申し訳ないが、宜しかったらうけとっておくれ。君とはなかなか会えないからな」ところどころ擦り切れてまだらになった古い黒帯である。

 木村はこの帯を巻いて決勝戦を勝ち抜いた。以降昭和14年大会まで3連覇。戦争に阻まれ、記録は途絶えたが、昭和15年には師の牛島が成せなかった天覧試合も制した。当時大相撲の双葉山定次、将棋の木村義雄十四世名人と並び無敵の王者として並び称された。

 戦後、食べるために闇屋を、妻の病気の薬代(結核治療のストレプトマシイン)のため、プロ柔道へ、そしてプロレスラーに。ブラジルではグレイシー柔術の創始者エリオ・グレーシーを腕がらみでTKO勝ちを収めている(1951年)。そして力道山との一騎打ち(1954年)があり、力道山の前に空手チョップで敗れる。しかしそれは、両者が合意した試合前の筋書きを、力道山がショーの途中から一方的に真剣勝負に切り替えたものに見える。

 広田弘毅が東京裁判で文人としてただ一人絞首刑とされたが、広田は講道館入門前福岡の玄洋社の道場で修行していた過去が災いしたと言われる。玄洋社は政治結社(大陸侵攻派)で、伊藤博文なども玄洋社からの襲撃を回避するため、玄洋社出身の有力な武道家内田良平(講道館5段、昭和12年63歳没)を用心棒にしていたという話がある。

 後に、力道山は昭和38年(1963年)やくざに刺されたのが因で、39歳の若さで亡くなるが、木村の師匠である3代目鬼の牛島の人脈(牛島の師、飯塚国三郎十段は内田良平の親友であった)が手を回したのではないかという噂は消えない。牛島は戦中、東条英機暗殺計画に組みし逮捕され不起訴になった過去がある。

 横山-三船。佐村-徳。牛島-木村。良き師弟あり、壮絶たる鍛錬の日々があり。最後の”鬼”は誰よりもやさしい男であった。愛する妻のため、柔道を見世物にし、プロレスでピエロを演じ、エリオ・グレーシーとの戦いの中で、腕折れてなお闘うエリオの身を案じる言葉をエリオに掛けている。だからエリオは、木村との一戦を懐かしく誇りを持って振り返っている。 



本稿は原康史著「実録柔道三国志」東京スポーツ新聞社昭和50年刊及び「秘録日本柔道」工藤雷介著 東京スポーツ新聞社昭和50年刊ほか、木村政彦著「鬼の柔道」(講談社)、「わが柔道」(ベースボールマガジン社)等を参考に編集しています。



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実録柔道三国志 第9回

2020年08月25日 | ブログ
“鬼”の系譜

 徳三宝が講道館に入門したのは明治39年5月、京都で佐村に連れられた徳が武徳会の大会で京都に居た嘉納師範と三船三段に会ってのこと。三船久蔵23歳、徳三宝19歳だった。

 徳は中学を卒業していなかったため、嘉納師範の口添えでまずは神田錦町の錦織中学に編入した。徳は中学に通いながら講道館で本格的な柔道修行を始めた。175cm、88kgの体格は当時の柔道家としても巨体だった。そして恐ろしいほど強かった。

 入門の年の暮れ、徳は浅草で鉄道馬車を停めて御者を怒らせ、勢い周囲の火消しの兄いや地回りの若い者を巻き込み大乱闘を起こし、十人くらいを立て続けにぶん投げると、講道館まで逃げ帰った。

 「徳つ」横山に呼ばれた徳の脳裏に“破門”の二文字がよぎった。「徳、このことはオレの胸にしまっておく。だがこれだけは肝に銘じておけ。おまえは第二の西郷さん(西郷四郎)になってはいかん。講道館のために、日本柔道のために、オレはおまえの才を惜しむんだ。わかるか徳」「はいつ」徳はがっくりと首をたれて両手をついた。横山の温情がズーンと胸にしみた。

 横山は、そんな徳の姿に若き日の自分の姿を見ていた。お茶の水の土手で湯島に根をはるやくざの一家を相手に大立ち回り。警察の厄介になった時、嘉納師範からこんこんと諭された十数年の昔を思い出していた。

 「徳つ、道場へこい。久々に稽古をつけてやろう」横山は7段となっていたがすでに42歳。しかし、初代“鬼”の強壮な肉体とその技は健在だった。大きな徳を得意の払い腰で叩きつけた。「くそツ」叩きつけられた徳の胸に、本来のすさまじい負けん気の闘志が燃え上がり、もう相手が横山であることも忘れて死に物狂いで飛びついてゆく。結果、徳は足腰が立たなくなるまで百本以上投げられた。さすが鬼の横山、42歳にして投げも投げたり、そして鬼の二代目徳三宝、よく投げられたものである。この事件は徳三宝を開眼させ以前に増してすさまじい荒稽古に打ち込んだ。

 翌、明治40年1月の鏡開きで徳は初段を許され、その年の9月に2段。明治42年には三段になった。三船はその年5段に昇段している。講道館で三船久蔵と徳三宝が新しい竜虎としてクローズアップされた頃、京都武徳館では、礒貝、永岡両六段の指導のもとに田畑昇太郎がめきめきと腕を上げ4段となっていた。三船、田畑、徳 日本柔道はこの男たちの時代に移りつつあった。

 徳は、明治43年講道館鏡開きでの三船(後の十段)との凄烈きわまりない乱取り、その年の5月には京都武徳館での田畑(後の十段)との壮絶無比の勝負など講道館史に残る名勝負の伝説を残した。また東京高等師範時代には、 練習試合を申し入れて来た、ブラジル水兵の大男たち11人を一人で手玉に取り、怪我をした水兵もいたことから外務省からクレームがあり、講道館を一時破門される逸話を残している。

 昭和20年3月、東京大空襲の夜、江戸川区小松川の自分の道場も焼け落ち、荒川放水路まで逃れたがそこで水死、波乱万丈の56歳の生涯を閉じる。講道館は9段位を追贈してその功績を称えた。


本稿は原康史著「実録柔道三国志」東京スポーツ新聞社昭和50年刊から抜粋編集したものです。


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実録柔道三国志 第8回

2020年08月22日 | ブログ
徳三宝

 『三船が講道館に入門を許されたころ、南の鹿児島で、鹿児島二中の帽子をかぶった容貌怪異?の中学生が大暴れをしていた・・・・・後に講道館最強の男といわれた徳三宝である。

 講道館に入門を許された三船久蔵は勇んで講道館に通い始めた。仙台二中3年生の頃には中学に敵はなく、二高の道場に出稽古に行って、高校生相手に互角の勝負をしていたというから、天分の才があった。

 当時の講道館は、津軽の産、早稲田の前田栄世(後に改名して光世)三段、佐竹信四郎三段、松代林太郎三段、轟聡太三段らが猛稽古の中心だった。彼らと同じ時期に講道館に入門していた寝技の佐村嘉一郎(竹内三統流師範佐村正明の長男で、講道館入門時18歳、すでに竹内三統流免許皆伝の腕前だった。後の十段)は、明治32年に礒貝に乞われ京都にあった。前田三段は永岡五段が京都へ去ったあとの講道館の花形であり、西郷四郎の再来といわれたほどで、三船も前田には歯が立たなかった。前田は3年後富田の補佐役として渡米、コンデコマとなった人物であることはすでに述べている。

 三船は明治39年の鏡開きで三段になり、その年訪米した前田、佐竹両4段の後継として講道館のエースとなる。一方京都ではのちに三船の宿命のライバルとなる田畑昇太郎(後の十段)もメキメキと頭角を現し、明治39年の11月には三船と同じ三段となっている。

 この三船と田畑の間に物凄い奴が飛び込んでくる。本稿の主役徳三宝である。徳は明治20年9月、鹿児島県奄美大島に生まれた。三船より4つ、田畑より3つ若い。小学校を終えた徳は鹿児島に出て県立二中に入った。すばらしい体力と剛毅な性格。そして抜群の運動神経に恵まれ、競技と名の付くものすべてに抜群の才能を示した。少年のころから空手をやり、二中に入った最初は示現流の剣道を修行、2年生ですでに教師と互角の勝負をしいてという。

 鹿児島では奄美出身者を“島人(とうじん)”と呼んで蔑んだが、徳はそう呼ばれると上級生であろうが、物も言わずに殴りつけ、投げ飛ばした。それは学校だけでなく町中でも同じこと。相手が誰であろうと、ひとたび徳が怒り、暴れだすと必ずケガ人が出た。当時の暴れん坊揃いの鹿児島二中でも徳はアンタッチャブルであった。

 鹿児島県立二中には当時、元細川藩士で元陸軍大尉、示現流の剣と竹内流の柔の心得のある藪十次郎という教師が居たが、すでに60歳近い老境にあり、懲らしめようにも逆に徳に投げ飛ばされる始末。藪は七高に赴任していた講道館の佐村嘉一郎と面識があり、徳を佐村に委ねることにした。「徳、七高に行け!」

 佐村は当時23歳、講道館三段。大日本武徳会教授の椅子を捨て、自ら志願して七高に赴任した若き柔道教師だった。“熊本五高との対抗戦も近い、今日はみっちりしぼりあげてやるか・・・・・”といつものように道場に来てみれば、道場には異様な光景が展開していた。三十人近い七高柔道部の猛者たちが、一人の大きな男を囲んでいたのだ。筋肉隆々、身長170cmぐらい、真っ黒い顔にうっすらと口ひげをはやした到底中学生には見えない男は、五高の回し者と見られていたのだ。

 七高柔道部の猛者5人が次々と徳に投げ飛ばされ、黒帯の主将が出たところで、佐村が止めた。「強いなあ、君は、いったい何者だ。わたしは師範の佐村だ」怪中学生はまた独特の不敵な笑いをもらした。「佐村先生ですか、わたくしは、二中の生徒で徳三宝といいます。藪先生から紹介状を持っています・・・・・」佐村嘉一郎と徳三宝の運命的な出会いである。


本稿は原康史著「実録柔道三国志」東京スポーツ新聞社昭和50年刊から抜粋編集したものです。


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実録柔道三国志 第7回

2020年08月19日 | ブログ
三船久蔵の入門

 『講道館柔道は東に西に発展の一途をたどり、明治34年末、講道館は門弟6000人を超えた。有段者は221人。その筆頭は横山作次郎、山下義韶の両6段。5段は西郷四郎、富田常次郎、戸張滝三郎、永岡秀一、礒貝一、飯塚国三郎の6人が名を連ねていた。

 明治35年には山下義韶6段が渡米し、明治37年にかけてボクサーやプロレスラーの大男をねじ伏せ、米国に静かな柔道ブームを起こしていた。

 明治36年夏、”鬼”の横山作次郎(1864-1912)も初老を迎えていた。この頃の横山6段は道場のすぐ傍らに家を借りて住んでいた。礒貝や飯塚、永岡などの四天王に続く逸材が講道館の門下となったのは、一昔前の明治24年、そして26年、彼らを徹底的に鍛えた鬼も、4年前に一回り若い永岡秀一4段との新年の鏡開きの模範試合で敗れている。彼の生涯の1度の敗戦だった。』

 私見であるが、この世界の10歳違いは段位で2段差あると思っている。当時4段の永岡が当時6段の横山と戦うことは年齢差を考慮して同格の取り組みであるが、若い永岡に分があることは容易に推測できる。講道館と柔術諸派との争いでも優劣を勝負の結果のみでは論じ得ない。西郷や横山が20歳前後の伸び盛りに、良移心当流の中村半助など円熟味を増したとはいえ、すでに30歳台も半ばにあり、一瞬の隙が生じることは致し方なかったと思われる。

 『小柄だが眉目秀麗な少年が講道館の玄関前で書生と押し問答している姿に、横山は目をとめた。横山6段は午後の稽古を終えて、井戸水をかぶると、わずかにさっぱりした顔で、玄関に戻ってきたところだった。

 「紹介者がなければ入門はできない・・・・・それが規則です。横山先生もお目にはかからんつ」当時、講道館は門人が溢れ、入門者を制限していたのだ。「お願いしますつ、岩手から講道館に入門するために出てきたんです。横山先生にお取次ぎ下さいつ・・・・・お願いしますつ」

「脇坂君・・・・その少年はわたしのお客さんかね」横山はのっそりと玄関へ出ると声をかけた。眼光けいけい、相手を射すくめる“鬼”の目でじっと少年を見る。

 「あつ横山先生」少年は声をあげた。講道館6段横山作次郎の豪勇は、天下に轟いており、およそ武道に興味を持つ青少年ならば、誰でも名前を知っているし、雑誌や新聞で写真を見て、八の字ヒゲを生やした横山の顔を知っている。

 「先生つ、私は岩手県久慈の産・・・・・三船久蔵と申しますつ・・・・・慶應義塾の学生ですつ・・・・・・入門をお許し下さいつ・・・・・お願いしますつ」小柄だったので中学生に見られたが、三船はこの時、仙台二中を卒業して慶應義塾の理財科に入学していた。

 「横山先生つ、先生の弟子にして下さい、お願いしますつ」少年はペコリと頭を下げた。「弟子入り志願か、誰かの紹介状を持ってきたのか?」横山は少年の顔をのぞき込む。「ありません」「困ったな・・・・・」横山は言ったが、目はいたずらっぽく笑っていた。

 当時講道館に入門するためには、有力な紹介状を持ってきたものか、あるいはよほど有望な資質が見られない限り簡単に入門は許可されなかった。講道館柔道もそれなりの格式と権威を持ってきたのだ。

 三船久蔵と名乗る、岩手県生まれの慶應義塾の学生は、体も細く、小柄で一見少年のように見えた。横山作次郎が“紹介状”を求めたのもそのせいだった。

 「横山先生、紹介状はあります」少年はきっと顔をあげるといった。「ある?・・・・・早くそれを出しなさい」横山は熱心な少年に愛着を覚えはじめていた。

 「これです」少年が白い薩摩がすりのふところから取り出したのは、一冊の雑誌だった。表紙には『国士』と書いてある。「これは雑誌ではないか」「横山先生・・・・・わたくしはこの『国士』によって横山先生のことを知りました。また講道館柔道の精神にも触れました。この雑誌がわたくしを横山先生に紹介してくれたんです・・・・・お願いします。弟子にして下さいつ」少年は、じっと横山の目をみつめた。

 「うーむ・・・・なるほど・・・うーむ・・・・」とうなっていた横山はニヤリと笑った。「なるほど、立派な紹介者だ。君の名前は何というか?」「三船久蔵・・・・岩手県久慈の産・・・・・当年20歳になります」三船は少年に見えたが、堂々たる青年だった。

 時に明治36年7月、即日入門を許されたこの眉目秀麗の少年にみまほしい青年こそ、後の十段、講道館指南役“空気投げ”で一世を風靡した三船久蔵である。

 横山は、三船を直弟子としてとりたてた。横山と三船のこまやかな師弟愛は、横山が不帰の人となる大正元年(1912年)まで続く。』


本稿は原康史著「実録柔道三国志」東京スポーツ新聞社昭和50年刊から抜粋編集したものです。


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実録柔道三国志 第6回

2020年08月16日 | ブログ
富田常次郎

 『講道館四天王のうちでも最古参なのが富田常次郎である。講道館が入門者に署名させる「誓文帳(せいもんちょう)」を作ったのは、上二番町時代の明治17年であるが、門人の署名は明治15年の永昌寺時代に遡って行われ、常次郎が署名筆頭者である。

 この誓文帳は第1巻から講道館に大切に保管されているが、ひも解くと明治31年には後の内閣総理大臣で、敗戦後の東京裁判で文人唯一の絞首刑となった広田弘毅(広田丈太郎)の名がある。

 さて、嘉納師範と富田常次郎の縁であるが、嘉納師範の父、治郎作希芝という人は、灘の造酒家・菊正宗の出で、明治維新後は、海軍省の管材課長であった。そのころ、伊豆・天城山の御用材の伐採をやらせていたが、1年のうち2,3回は現地を視察していた。伊豆韮山には伐採事業をやる人達のための病院が設けてあって、嘉納治郎作は、ときどきこの病院で中食をとったり、休んだりしていたが、この病院長夫人の弟にあたる腕白小僧の山田常次郎(当時14歳)が気に入って「どうじゃ、東京へ出てわしの倅と一緒に勉強しないか」といい、とうとう東京へ連れ出して嘉納家の書生としたのである。山田姓から、後に富田姓となったのは、伊豆の回船問屋富田家の養子となったからである。

 講道館で富田に引き立てられた子安正男九段は、富田のことを次のように語っている。

 「富田先生は、柔道家タイプというより学者肌の人、柔道も一流だが頭もよく、勉強もされており、アメリカで数年間柔道を指導されたこともあるので、英語も達者で、大正の初期には東京・溜池に東京体育倶楽部を作って、柔道のほかに、日本では初めての重量挙げやボクシング、射撃の道場を経営された。講道館四天王のうち、一番技がすぐれていたのが西郷四郎。だがこの人は富士見町時代で脱落、柔道家としては未完成であった。技も光り、人格識見ともすぐれた柔道家として大成したのは山下義韶であり、抜群の強さはあったが、やや人物として難点があったのが“鬼”横山。柔道の技倆では西郷、山下、横山に一歩譲るが、嘉納師範のよき伴侶として講道館の発展に最も功績のあったのが富田常次郎である」

 明治19年7月、常次郎21,2歳の頃、日本橋八谷道場の道場開きで、期せずして柔術界の猛将良移心当流の中村半助と戦うことになり、祝い酒の入った相手とはいえ五分以上の戦いぶりであったという。中村半助が正式に講道館と戦うのはその秋(警視庁武道大会)のことで、横山作次郎と55分の死闘を繰り広げ引き分けている。西郷、山下、横山に一歩譲るとはいえ、往年の富田の実力は四天王の名に恥じないものであった。

 明治39年、富田は当時6段で前田光世、佐竹信四郎という両4段、当時の講道館のエースを引き連れてアメリカに柔道普及に赴く。特に前田は西郷四郎の再来かと言われたほどの実力者だった。富田はすでに40歳を超えていた筈であり、前田か佐竹に任せておけばいいものを、責任者は自分だと大統領の御前試合で、194cm、159kgという巨漢のフットボール選手と対戦し、両肩をむんずと押さえつけられ、なすすべなく敗れてしまった。』

 「花の命は短い」というけれど、真剣勝負の格闘技の世界でトップを維持できるのは20歳から30歳台前半くらいまでではなかろうか。柔道の世界でも40歳も超えれば、「当身」を徹底修行しなければ、巨漢や複数さらに武器を持った暴漢に対処できない。

 しかし、その事件をきっかけに前田光世はそのまま世界を行脚し、164cm、70kgの普通の体格ながら1000回以上の外国人との異種格闘技を戦い負けを知らない。コンデコマの称号と共に南米アマゾンに没するまで、日本に帰ることはなかった。こういう荒っぽい男がいなければ、海外の柔道は盛んにならなかった。

 富田常次郎の二男であった富田常雄の著となる小説「姿三四郎」は不朽の名作であり、幾たびも映画、テレビドラマ、歌謡曲となり講道館柔道に大きな貢献を果たした。父としても常次郎の面目躍如である。


本稿は主に「秘録日本柔道」工藤雷介著 東京スポーツ新聞社昭和50年刊から引用編集したものです。


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実録柔道三国志 第5回

2020年08月13日 | ブログ
“講道館の鬼横山”の伝説

 『明治24年、秋も深まった頃の講道館。当時は本郷・真砂町にあった。11月の東京の風は痛烈に肌を刺す。「こらあつ・・・もっと気合を入れて稽古せんかつ!」道場の羽目板をぶるぶるとふるわせるような凄まじい怒声が、奥から響いてきた。

 「あつ、講道館の鬼がまた怒鳴っている、嘉納先生もいないし、いまはあの鬼の天下だ。講道館は」通りがかりのそば屋の出前持ちが、恐ろしそうに首をすくめた。

 この頃、嘉納師範は熊本の第五中学(後の五高)の校長として赴任。西郷四郎は九州に放浪生活をおくり、富田常次郎は伊豆の講道館分教場へ。山下義韶は警視庁へ出向しており、講道館の居留守役は宗像逸郎四段、だが事実上の師範代として凄まじいにらみをきかしていたのは“鬼”といわれた横山作次郎五段(当時)である。

 この秋、宮崎県延岡から上京してきた礒貝一、栃木県三鴨から飯塚国三郎、2年遅れて岡山から永岡秀一が入門。いずれも後の講道館十段となる逸材が入門している。講道館柔道は、西郷、横山、山下、富田の四天王の時代から、若い彼らの時代に突入してゆく。

 礒貝一は父親が関口流柔術の達人といわれた礒貝恒久であり、すでに関口流の免許に近い実力を持っていた。講道館で面接した宗像逸郎四段には“だいぶん天狗になっているな”という印象を持たれる18歳だった。礒貝は入門手合わせに出てきた講道館の白帯(入段手前の者)門人3人を次々に投げ飛ばす。しかし、宗像居留守役が指名した湯浅松之助二段には手も足も出ず捻られた』。当時の講道館有段者の実力が偲ばれる。

 『次代を背負うヤングパワーに対する“鬼”横山の稽古は凄まじかった。礒貝や飯塚は横山に「こいつ・・・」とにらまれるとすくみあがった。向かっていけば、力一杯・・・・・青い畳に、さらには羽目板に向かって叩きつけられた。「礒貝つ、投げられて悔しいかつ、礒貝だけじゃあないつ、貴様らあつ、この俺に勝つようになれつ、死ぬ気で稽古しろつ!」横山はヤングパワー達を散々叩きつけたあとで必ずそう怒鳴った』。

 『横山作次郎は元治元年(1864年)、東京・中野で生まれた。生家は広く、農家を営む家の次男坊。子供の頃からケタはずれのいたずらで、“末恐ろしいガキ”といわれていた。13歳の時には自宅に侵入した強盗を日本刀で大けがを負わせ捕らえたという。

 15歳の時に下谷同朋町の天神真楊流、井上敬太郎道場に入門、凄みのある荒業師として聞こえた。西郷が嘉納にスカウトされたころ、井上道場で、「真剣勝負をやらせたら西郷より強いかもしれぬ」といわれていた。後に講道館四天王といわれ、警視庁や海軍兵学校で柔道を教授するようになり、人格的にも磨かれて大人の風格を持った横山だが、二十歳ころまでの横山は手のつけられぬ暴れん坊だった。少年のころから“任侠の気風”を持ち、いわゆる“遊侠渡世の人々”と交わり、この世界では“隅田の作次郎とも呼ばれていた』。

 『任侠渡世の花が咲いた明治中期の東京で、作次郎は井上道場で柔術をやりながら、東京のあっちこっちの鉄火場にも出入りして、その腕っぷしの強さと生来の豪胆を恐れられ、当時の東京の名だたる親分衆にも一目置かれていた。20歳の頃には水道橋の畔で渡世人相手に大喧嘩をやってのけ、20数人をことごとく神田川に叩き込んだというエピソードが残る。

 25歳の頃には、旗本松平右京亮の宏大な屋敷跡で、茫々たる原っぱであった右京が原で、講道館の門人も被害にあった辻投げの唐手使いを退治した話。30歳では、隅田川の花火大会の日、“兄弟分”であったやくざの大親分、武部申策と柳橋の料亭の2階で一杯やりながら花火見物と洒落ていた時、その座敷に遺恨で武部を狙った4人の日本刀を持った刺客が乱入したが、横山は抜き身を持った暴漢を4人とも涼み台から庭へ投げ落としたという。

 4人は士族崩れの壮士で揃って剣術の“目録”以上の腕前を持つ剣客だったという。“鬼”の横山の名はますます巷間に高まっていった』。 


本稿は原康史著「実録柔道三国志」東京スポーツ新聞社昭和50年刊から抜粋編集したものです。

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実録柔道三国志 第4回

2020年08月10日 | ブログ
山下義韶

 『明治17年8月、19歳の青年が嘉納師範の内弟子として入門してきた。山下義韶(やましたよしかず)と名乗る白皙(はくせき:色白)の理知的な風貌を持った青年であった。

 小田原藩主、大久保家の柔術指南役の家に生まれ、嘉納が東京帝国大学に通っている頃、神田三崎ケ原にあった山下家によく出入りし、少年山下を嘉納はよく知っていた。当時山下は、正岡子規によって「野球」と命名されたベースボールに夢中で、治五郎ともキャッチボールをしたというエピソードが残る。

 少年時代にすでに柔術を手ほどきされていた義韶は講道館に入門すると、先輩の富田、西郷らと凄まじい稽古に明け暮れた。1年間1万本が目標という凄さだった。生真面目で一本気な義韶は、この努力と熱心さで、富田、西郷の実力に迫った。

 創設時代の講道館四天王の一人、下谷同朋町天神真陽流井上敬太郎道場で師範代をつとめ“鬼”と呼ばれた暴れん坊、横山作次郎は2年後の明治19年4月に講道館の門を叩いている。富田、西郷、山下、横山と四天王が揃った。講道館は四たび移転して富士見町(現在の千代田区富士見町)に移り、門人は百人を超えていた。』

 古流柔術対講道館柔道の争いは、すでに他流試合という形での私闘があったが、正式な対抗戦は明治18年ころから警視庁で行われていたという武道大会におけるもの。当時警視庁の武術師範として良移心当流の中村半助や戸塚楊心流の照島太郎、関口流の久富鉄太郎などが拝命していたが正式なものではなかった。明治19年、三島通庸が警視総監となると、講道館柔道と柔術諸派の代表との決戦によって正式柔術師範を決定することにした。

 新興柔道が檜舞台に躍りでるか、古流柔術が生き残るかという天下分け目の決戦である。講道館はこの決戦に西郷四郎と横山作次郎を出場させたが、柔術諸派の代表はいずれも豪勇をうたわれた戸塚楊心流の照島太郎、そして良移心当流の中村半助であった。

 まず、中村半助(33歳、174cm、94kg)と横山作次郎(21歳、168cm、75kg)が戦い55分の熱闘の末引き分け。決着をつけたのは西郷の山嵐の大技だった。153cm、53kg の小兵が172cm、84kgの当時としては巨漢の柔術の豪傑戸塚楊心流の照島太郎を投げ飛ばしたのだ。しかし、それで柔術と柔道の戦いが決着したわけではなかった。柔術側に引導を渡した人物こそ、山下義韶であった。

 翌明治20年の秋の警視庁武道大会で、リベンジを期す柔術側は、戸塚楊心流の照島太郎も凌ぐ実力者となっていた門下の好地円太郎を立てて死に物狂いのリターンマッチに挑んだ。山下義韶23歳、162cm、56kg。好地円太郎29歳、178cm、75kg。

 両者必死の攻防の末、山下得意の一本背負いが決まり、勝負あった。講道館柔道は再度、柔術との大決戦に勝利を得た。それまで柔術界の主流をいっていた戸塚楊心流(楊心流 戸塚彦介が主宰)は大きな打撃をこうむり、中央から一歩引きさがることとなった。

 “柔術”にとどめを刺した山下義韶(当時4段)は、西郷ほどではないにせよ小兵ではあるが、筋肉はひきしまって軽快そのもの、左右なんでも自在という“業師”だった。しかも富田常次郎と共にインテリであり、柔術の統一を成し遂げた講道館が国内的に、さらに海外へ雄飛して行くのに大きな役割を担う。横山、西郷は強すぎるほど強かったが経倫の才はない。山下と富田は嘉納を助けて講道館を運営してゆく“将器”であった。

 山下は明治35年5月に渡米、当時のアメリカ大統領ルーズベルトの面前で大男のレスラーを投げ飛ばし抑え込んだ。柔道が米海軍兵学校に取り入れられることになったのである。

 その後、前田光世(コンデコマ)、佐竹信四郎などの渡米の先駆けとなった。山下は昭和10年71歳で他界したが、嘉納治五郎は講道館葬で送り、初の講道館十段を追贈した。

 
 本稿は原康史著「実録柔道三国志」東京スポーツ新聞社昭和50年刊から抜粋編集したものです。一部「秘録日本柔道」工藤雷介著 東京スポーツ新聞社昭和50年刊も参考にしています。


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実録柔道三国志 第3回

2020年08月07日 | ブログ
西郷四郎

 西郷四郎の旧姓は志田、嘉納治五郎に入門したこの年に会津の上席家老 西郷頼母の名跡を継いだ。会津(福島県)津川の生まれ、少年時代から津川藩士(会津藩の支藩)であった父の志田貞次郎から柔術の手ほどきを受け、14歳で上京、井上道場に入門してから、腕を上げ、その柔術家としての才は天才的という評判を得た。現代の将棋界に藤井棋聖が登場し、AIを凌ぐ読みの力を認められるほどだが、明治初期の“柔”の世界にそのような天才が居ても不思議ではない。

 嘉納は自分の考えている“新柔術”を世に出す時、必ず柔術諸流の抵抗があり、実力で争わねばならぬ時がくることをはっきりと予知していた。それには人材が欲しかった。そんな時に四郎は治五郎の目にとまったのだ。

 四郎は嘉納が天神真陽流柔術の基盤の上に相撲、レスリングからボクシングまで研究して工夫に工夫を重ねた“新柔術”をかわいた砂が水を吸い込むように吸収していった。“この少年は自分の考えている新しい柔の道の最高の実践者になれる”と見込んだ嘉納の目に狂いはなかった。

 明治14年天神真陽流の磯正智没後はその伝書を受け継いだ後、嘉納治五郎の最後の師は起倒流飯久保恒年であった。もっとも飯久保は嘉納にとって師というよりも“柔の道”の完成を共に志す同士であり友人と言えた。

 「飯久保先生は立ち技の名人で払い腰と横捨て身技は独特の妙技であった。そして、形はもとより、乱取りにおいても単に攻撃、防御の実用的というよりも、むしろその域を超脱して一種芸術化した気品の高い稽古ぶりであった」と嘉納は後に書き残している。

 飯久保は明治21年に不帰の人になったが、嘉納の理想と人格に惚れ込み、起倒流の伝書の全てを嘉納に与えて死んだ。飯久保恒年が嘉納治五郎にあたえた“起倒流伝書”が講道館「古式之形」として現在も講道館に残されている。

 明治16年5月、永昌寺の奥の玄関脇に12畳のこけらぶき(薄い木板の屋根)の小さな道場が完成した。この道場開きに飯久保恒年が四郎少年に声を掛ける。「四郎、道場開きだ。いっちょくるか」

 飯久保恒年はこの時、48歳、起倒流 竹中元之進の高弟で江戸の産。少年のころから有名な起倒流の名人 竹中鉄之助について柔術を学び、やがて麻布の日ケ窪に道場を開いたが、その実力を幕府に認められ・・・幕末には講武所の教授となり、この時代一流の柔術家だった。

 その飯久保を儀礼的な稽古とはいえ、見事な隅落としで投げ落とした四郎の実力はすでに相当なものであった。「四郎強くなったなあ・・・・」「楽しみですなあ、嘉納流の将来は・・・・」爽やかな空に爽やかな笑い声があがった。

 この天才児は153cm、53kg の小兵ながら、17歳になりその実力は講道館ナンバーワン。力と術では師の嘉納以上という評判すらあった。講道館柔道を代表して名人 西郷四郎の柔術諸派との戦いが始まる。


本稿は原康史著「実録柔道三国志」東京スポーツ新聞社昭和50年刊から抜粋編集したものです。



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実録柔道三国志 第2回

2020年08月04日 | ブログ
講道館柔道の産声

 それは、明治15年(1882年)東京・下谷(現在の台東区の西部にあたる)の永昌寺において上がった。

 『嘉納治五郎は明治10年、東京帝国大学文学部に入学、と同時に日本橋の大工町にあった天神真陽流の福田八之助に入門して柔術の手ほどきを受け、12歳のころから嘉納家にいる書生の常次郎(山田常次郎のちの富田常次郎:小説「姿三四郎」の著者富田常雄は二男)も福田道場に入門させた。』

 『・・・明治12年8月、福田師範が52歳で不帰の人となると、福田道場の伝書をことごとく受け継ぎ、神田お玉が池の同流の家元、磯正智師範に師事している。当道場の高弟であった井上敬太郎は、治五郎の師の一人であるが、明治14年磯正智の没後は、何かと治五郎の相談相手となり、治五郎の“野望ともいえる新しい柔の道の夢”を理解していた。』

 『その天神真陽流、下谷同朋町の井上敬太郎道場に14歳で会津から上京し、住み込みで修行していたのが志田四郎(後の西郷四郎:小説姿三四郎のモデル)であり、明治15年7月に久しぶりに井上道場へ寄った嘉納の目に留まった。「先生、お願いがあります。あの少年を譲っていただけませんか」井上敬太郎は治五郎の目論見を察し、四郎の将来のためにも嘉納の下で修行させた方が良いと判断した。当時、井上道場には後の講道館四天王、鬼の異名を持つ豪勇横山作次郎(当時17歳)も居たが、15歳の四郎少年はすでに互角の勝負をしていたという。』

 『卒業して5か月後、嘉納は学習院の教師の傍ら、書生の常次郎とともに永昌寺の12畳の一室に移り住み二人で熱心に“柔術”を研究していた。嘉納23歳、常次郎18歳。永昌寺の12畳の大部屋は、嘉納治五郎とその弟子山田常次郎の“新しい業”の研究の場であった。・・・』

 『明治15年7月某日、夕方になってややしのぎやすくなったが、降るような蝉しぐれだった。東京市下谷北稲荷町、現在の台東区松ケ谷になる。そのあたりは一歩裏通りにはいると、人気もなく昼間でも静まりかえっていた。少年は下谷同朋町から歩いてきた。汗を吸った白がすり、色あせた袴はほこりまみれてところどころ黒いしみをつくっていた。・・・少年は永昌寺の冠木門を胸をはって朴歯(ほおば)の音をカランカランとさせながらはいっていった。正面玄関に立つと大きな声で「頼もう」とどなった。「大きな声じゃな」少年の後ろでおだやかな声がした。庭で紫陽花の花を切っていたこの寺の住職の声である。浄土宗の高僧で朝舜法(あさひしゅんぽう)といった。

 「嘉納先生はどちらにおられますか」少年はぶっきらぼうにいった。朝舜法和尚は少年をすかすようにして見ると、黙って庭の奥の離室を指さした。・・・少年はずかずかと12畳の部屋へはいっていった。「お頼み申します・・・・」今度はさっきよりやや言葉遣いがていねいになっていた。』・・・そして少年西郷四郎は、そのまま嘉納治五郎の2人目の弟子となったのである。

本稿は原康史著「実録柔道三国志」東京スポーツ新聞社昭和50年刊から抜粋編集したものです。



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実録柔道三国志

2020年08月01日 | ブログ
プロローグ

 本来なら、今頃東京オリンピックの真っただ中で、多くの競技会場は熱気に包まれていたことだろう。思えば56年前(1964年)の10月、皇居北の丸の真新しい日本武道館で、オリンピックの正式種目として初めて柔道競技が行われた。その前年、高校生となった私は憧れの柔道を始められることに興奮していた。

 入学式を終え、部活動の説明会場に行って驚いた。会場は新入生の入部希望者で溢れていた。柔道がオリンピックの正式種目となることが決まり、柔道ブームが起こっていたのだ。

 しかし、古い校舎の教室跡を転用した柔道場は狭く、打ち込み練習も乱捕り稽古も新入生は3列くらいずつに並んで順番待ちだった。

 その後も、テレビドラマの影響等で柔道ブームは起こり、柔道人口は子供から大人まで、その後女性の柔道愛好者も増え、増加していたように感じていたが、近年指導者からのセクハラ、パラハラに無謀な稽古で負傷した生徒の重症化など多くのトラブルがあり、柔道熱は冷めていったように感じる。

 数年前、母校(工業高校)の柔道部の同窓会に初めて参加したが、一時期県のトップクラスの成績を残していたと聞いていたのに、今は選手5人の確保が精いっぱいと聞いてがっかりしたものだ。

 柔道は正しく練習すれば、非常に柔らかい筋肉が付き、転んでも受け身を取ることで、ケガを最小化できる。護身術としても優れた要素を多く持っている。スポーツにして武道であり、柔良く剛を制し、精力善用自他共栄で社会生活を正しく全うするに適した競技でもある。

 ただ、オリンピックで全世界に広まった光の部分とともに、勝負に拘るあまり本来の武道精神や形の美しさやその立ち居振る舞いの優雅さを失っていないか。

 手元に原康史(本名 桜井康雄(1936-2017))氏の著作である「実録柔道三国志」同・続という昭和50年(1975年)に東京スポーツ新聞社から出た2冊の本がある。小説「姿三四郎」のモデルといわれる西郷四郎が講道館柔道の創始者嘉納治五郎先生のもとを尋ねるところから始まり、「武道としての柔道を実践した最後の柔道家」と著者が記す木村政彦師範までの柔道家列伝である。

 日本が、中共ごときに恐れて媚びて、低レベルの親中・媚中議員に支配される情けない国に成り下がる前の数々の柔道の名人、達人のエピソードに触れ、柔道の魅力をさらに堪能いただきたいと、しばらく本稿で「実録柔道三国志」を辿ってみたい。



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