“最後の鬼”
「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とは、「姿三四郎」の著者富田常雄が往年の木村政彦を称えた言葉という。講道館四天王富田常次郎を父に持つ富田は、幼いころから講道館の名人、達人、豪傑や“鬼”たちを見ており、それでもなお木村より強い柔道家は居なかったと言っているのである。さらに今後もこんなに強い柔道家は出ないだろうと言ったのである。
その木村政彦(1917-1993)を育てたのが木村の同郷の先輩でもある牛島辰熊(1904-1985)である。その圧倒的な強さから徳三宝に続く、講道館3人目の”鬼”と呼ばれた男(9段)である。大正14年(1925年)明治神宮大会で優勝し一躍九州の猛虎の名を全国版としたが、その後当大会3連覇。昭和4年の天覧試合では決勝で栗原民雄六段(後の十段)に僅差判定で敗れたが、昭和6年第2回全日本柔道巽士権で日本一となり、翌7年大会と2連覇した。往年の徳三宝とどちらが強いかなどと言われた当時最強の柔道家である。
現役引退すると自宅を牛島塾と称し、木村政彦を自宅から拓大に通わせて鍛えた。木村は他人の3倍稽古をモットーに一日9時間の練習をした。うさぎ跳び1kmに始まり腕立て伏せ1000回、立木相手の打ち込み1000本も含まれる。これを1年365日、睡眠時間は1日3時間だったという。結果、神宮大会の大学高等選手権では、鎮西中学から拓大予科入学した昭和10年の第8回大会から連続5回優勝している。
そして木村は、昭和12年の第7回全日本柔道巽士権の決勝を迎える。その控室に、江戸川区の小松川に道場を構えて後進の指導にあたっていた徳三宝当時7段が激励に現れる。
ふところから古ぼけた黒帯を出した。「木村君、これはな、ワシが若いころに締めた帯だ。牛島君から君のことを聞いて、いつか君にやろうと思っていたものだ。ごみみたいなもので申し訳ないが、宜しかったらうけとっておくれ。君とはなかなか会えないからな」ところどころ擦り切れてまだらになった古い黒帯である。
木村はこの帯を巻いて決勝戦を勝ち抜いた。以降昭和14年大会まで3連覇。戦争に阻まれ、記録は途絶えたが、昭和15年には師の牛島が成せなかった天覧試合も制した。当時大相撲の双葉山定次、将棋の木村義雄十四世名人と並び無敵の王者として並び称された。
戦後、食べるために闇屋を、妻の病気の薬代(結核治療のストレプトマシイン)のため、プロ柔道へ、そしてプロレスラーに。ブラジルではグレイシー柔術の創始者エリオ・グレーシーを腕がらみでTKO勝ちを収めている(1951年)。そして力道山との一騎打ち(1954年)があり、力道山の前に空手チョップで敗れる。しかしそれは、両者が合意した試合前の筋書きを、力道山がショーの途中から一方的に真剣勝負に切り替えたものに見える。
広田弘毅が東京裁判で文人としてただ一人絞首刑とされたが、広田は講道館入門前福岡の玄洋社の道場で修行していた過去が災いしたと言われる。玄洋社は政治結社(大陸侵攻派)で、伊藤博文なども玄洋社からの襲撃を回避するため、玄洋社出身の有力な武道家内田良平(講道館5段、昭和12年63歳没)を用心棒にしていたという話がある。
後に、力道山は昭和38年(1963年)やくざに刺されたのが因で、39歳の若さで亡くなるが、木村の師匠である3代目鬼の牛島の人脈(牛島の師、飯塚国三郎十段は内田良平の親友であった)が手を回したのではないかという噂は消えない。牛島は戦中、東条英機暗殺計画に組みし逮捕され不起訴になった過去がある。
横山-三船。佐村-徳。牛島-木村。良き師弟あり、壮絶たる鍛錬の日々があり。最後の”鬼”は誰よりもやさしい男であった。愛する妻のため、柔道を見世物にし、プロレスでピエロを演じ、エリオ・グレーシーとの戦いの中で、腕折れてなお闘うエリオの身を案じる言葉をエリオに掛けている。だからエリオは、木村との一戦を懐かしく誇りを持って振り返っている。
本稿は原康史著「実録柔道三国志」東京スポーツ新聞社昭和50年刊及び「秘録日本柔道」工藤雷介著 東京スポーツ新聞社昭和50年刊ほか、木村政彦著「鬼の柔道」(講談社)、「わが柔道」(ベースボールマガジン社)等を参考に編集しています。