オリピックまで1年
この月末で2度目の「東京オリンピック」開幕まであと丁度1年となった。テレビでは建設中の新国立競技場などの紹介から、当時のオリンピックの映像、関連エピソードを題材としたドラマなども流されていたが、1964年(昭和39年)に生まれた人が今年55歳。2017年の統計によれば55歳以上の方は国民の39.89%。すなわち、初回東京オリンピックは国民の4割近い人々には懐かしい思い出ではなかろうか。
われわれ団塊世代の先頭集団は高校2年生。17歳だった。地方の陸上競技場で聖火歓迎マスゲームを行った。10月10日からのオリンピックでは修学旅行と重なり、東京、日光、鎌倉行きは九州1周のバス旅行に代わった。「円谷(男子マラソン銅メダル)頑張れ」は長崎で、東洋の魔女の金メダルは宮崎ではなかったか。思い出は自身の青春時代へと飛ぶ。
3年後、東京オリンピック開会式の行われた代々木の国立競技場は、全国青年大会柔道の広島県代表として入場行進でその土を踏むことができた。
柔道は東京オリンピックで正式種目となり軽、中、重量級と無差別級の4階級で行われた。オリンピック柔道の歴史に刻む初めての金メダルは軽量級(68kg以下)の代表として出場した当時明治大学4年生の中谷雄英(たけひで)選手(現、講道館9段)の胸に。
中谷さんはその後三菱レーヨンに入社され、広島県大竹市の工場にも勤務された。岩国・大竹地区の工場親睦柔道大会の個人戦決勝で、三井石油化学岩国・大竹工場に勤務していた私が、三菱レーヨンの選手と戦った時の主審を務めていただいた想い出がある。昭和43年の秋のことだ。普通、所属チームの選手が戦う時にそのチームの関係者に審判はない。しかし、オリンピックのゴールドメダリストが田舎の大会で審判をやってくれるだけで十分光栄な事。判定勝負になったが、中谷主審の手は私に挙がった。
当時三菱レーヨン大竹には中谷さんや上村春樹現講道館長の大先輩にもあたり、全日本学生優勝大会で昭和27年の第1回大会から昭和29年の第3回大会まで選手として明大3連覇に導いた山尾英三さんという凄い柔道家もおられた。ありがたい環境で青春の日の柔道を精一杯やれたことは幸せであった。
来年の東京五輪では、暑さ対策、交通渋滞やテロ対策が重点課題であろうが、亰アニ事件で思い知らされた銃はなくとも手直に大量殺りく方法があることで、ガソリンスタンドでの携帯容器への販売は規制が掛かる。当然である。劇毒物管理と同様であっても良い。
暑さと多湿は食事の衛生管理、イスラム教でのハラル(ハラール)や最近では食物アレルギーの問題もあり、選手村の厨房は警備と同様大変な仕事だ。
日本を訪れる外国人が日本に好感を持つ点として、街の清潔さや食事のおいしさと共に人々の他人へのリスペクトを上げる。
古来、日本武道は礼に始まり礼に終わる。勝った者もガッツポーズなどしなかった。囲碁や将棋のプロの試合も同様である。相手への尊敬があり、それは普通の生活習慣の延長であったのであろう。
オリンピック。確かに勝つための努力、獲得メダルの数も大切だけれど、参加国、対戦相手へのリスペクトは忘れてはなるまい。