中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

世の中の常識を疑おう その10

2018年07月28日 | ブログ
所有権

 わが国には土地神話というのがあって、特にあのバブルの頃はこれが凄まじかったけれど、狭い日本、土地を所有するという縄張り争いは、戦国時代に激しく、とにかく米が幾ら穫れるかがその勢力の目安だから、所有する地べたの面積は広い方がいいに決まっている。

 だからかどうか、わが国の土地に対する個人の所有権の強さは、聞くところによれば世界にも類をみないという。何事も過ぎたるは何とかと言う。

 この地千葉県に来た頃には、成田闘争の余韻もあってか、裏通りではあっても公道に、私有地と思われる畑が出張っており、車は避けて走っていたものだ。その地主は市の道路計画に最後まで協力しない姿勢を貫いていたのかどうか。聞いていないがそんなところだったのだろう。

 確かに自分の所有地を行政が勝手に道路計画に盛り込んでも、納得いかないケースもあろう。明け渡しの条件が折り合わないことも当然にある。どこまでが個人の権利で、その権利は公共のためにどの程度までの制限を受けるものか知らないけれど、この国では個人の権利が過剰に強いように感じている。個人の所有権をないがしろにし、行政の好きにさせては共産独裁国家のようになるけれど、国家社会では、個人の権利をどこまでも認めるのも問題なのである。

 相続の問題もある。相続税は0にしろという意見もあるらしいけれど、本来所有権は本人のもので、その子や孫までにも及ぶと考える方がおかしいように思う。子供は社会のものだから、子供手当を払い(但し、扶養家族にはカウントしないとのこと)、老人介護は個人だけの負担で行うには限度があるから、介護保険制度(年金生活者にも高額の保険料を自動的に納入させる)を設けて社会全体で看ましょうよ。それで、その人の遺産は親族だけで山分けというのも虫のいい話ではないか。

 夫婦で住んでいた住居にあっては、相続税の対象から外して、残された家族も引き続き住めるようになったようだが、その程度の優遇はいいけれど、個人の遺産は本来国家にすべて返納が原則ではないか。そうは言って億にも満たぬ財産や小規模企業の承継くらいは直接の家族のものであって構わない。しかし、一度手に入れた土地の所有権は子々孫々まで継続する不変の権利であるという常識は捨てた方がいい。そこに相続税の意味がある。

 所有権で大きな問題は、先祖からこの国に住んでいる日本人だけにその権利があるのではなく、日本国籍さえ取得していない外国人にさえ、お金さえ出せば土地まで買えることである。大分以前から国会議員の中にもこの案件に問題提起している方がいたけれど、WTO(世界貿易機構)か何かとの約束事で、日本は土地取引に関しても自由のように取り決めているらしい。それなら修正すれば済む話ではないのか。現政権は中国や韓国との関わりから、うるさくクレームを付けられることを恐れて不作為を続けているように感じる。

 「出馬なら処遇されないよ」と安倍首相は総裁候補と目されていた方に言ったそうだが、それは日大アメフト部も顔負けの「パラハラ」ではないのか。かくのごとく現政権は、外に弱く、内で権力の私物化、独裁化に奔走する紛い物に見える。民主国家においては国の所有権は一政権のものではない。




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世の中の常識を疑おう その9

2018年07月25日 | ブログ
平和主義という欺瞞

 わが国には、未だに平和憲法とやらを奉りたがる勢力が大きく、この憲法のお陰で戦後70数年世界各地の紛争にほとんど関わらず平和に暮らせた、ゆえに今後もこの憲法を守ることがこの国の平和に貢献するだけでなく、世界の平和の範となるべき憲法であると信じているようだ。確かに米国は日本を武装解除し、二度と自分たちに逆らえないようにした。しかし、数年後朝鮮戦争の勃発により、共産勢力の砦としての地政上の役割もあり、憲法を無視する形で自衛隊の創設を許した。しかし、この憲法が足枷となり、米国はベトナムにもイラクにもアフガンへも戦闘要員として自衛隊を引き連れてゆくことはできなかった。

 わが国は、米ソ冷戦の狭間で経済に集中投資でき、経済的成功を納めることができたことは間違いない事実であり、平和憲法を逆手に取った戦後わが国の指導者の功績である。

 しかし、時代は米ソ冷戦から米中の覇権争いと変化している。時代はいつの世にも変化する。過去の成功はそのままで未来に通用するものは少なかろう。憲法の戦力放棄、戦争放棄の条文だけが改正の対象ではなく、これだけ情報化が進んだ現代に相応しい憲法が必要であり、何より日本人による日本人のための憲法が必要である。

 その時代の変遷を無視して、憲法改正はすなわち戦争への途として、かたくなに憲法改正を阻止しようとする勢力があることは、イグノーベル賞を模し「イグ(あさましい)世界の7不思議」のひとつではなかろうか。

 独立国家として、その前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」は受け入れ難い。9条2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」も現実との乖離が甚だしい。安倍自民党は、この9条2項を残したままで3項に自衛隊の存在を明記するという憲法改正案を進めようとしているようだが、それでは自衛隊は「災害救助隊」となってしまう。憲法のその他条項を現代に適応するように改める方策として、連立与党公明党に配慮し、党内親中派そして多くの無党派層にも賛同が得られるようにとの思惑のようだが、自分たちが発議し新たに制定しようとする憲法が、矛盾に満ちたものにすることは将来に大きな禍根を残す。加憲ならやらない方が益し。憲法は改正することが目的ではない。改正後のこの国の指針であり、この国の再構築が目的である。

 正々堂々と「自衛のための必要な武力、戦力はこれを保持し、他国の侵略から領土領海は国民の総力をあげて防衛する」と憲法に明記すべきである。

 平和論者はたとえ外敵がこの国を侵略してきても戦わず白旗を上げなさいと言っているように聞こえる。その後のわれわれの子孫の苦しみなど知った事ではない。今生きている自分たちが生き延びればいいと言っているのだ。単に、無責任極まりない連中である。

 米国がいつまでもわれわれを守ってくれる保証はない。そうなってからでは遅すぎる。現実にもすでにそれなりの自衛力は有してはいるが、恐らくそれは短期的で局地的な戦闘能力であり、本格的な侵略に備えるには不十分と感じる。正常性バイアスの強い最近の日本人は、危難から目を背けているけれど、脅威は確実に増大しているのではないか。




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世の中の常識を疑おう その8

2018年07月22日 | ブログ
優秀という欺瞞

 民主党が政権を取る前後、テレビなどでよく聞かれた話に、「優秀な官僚は自民党でなく民主党を選ぶ」というのがあった。官僚から政治家になる場合にどの党から出馬するかと言う話。

 確かに、まず国家官僚に成れるというのはある意味優秀だったからだろうから、その官僚の職を擲って、国家のためかどうかは兎も角、リスクのある選挙に出る。有力政党の有力政治家からの引きもあってかどうか。地元選挙民の期待があってかどうか。事情はいろいろだろうけれど、どうも「優秀」という言葉に引っかかる。

 確かにまず一流大学に進学するには優秀でなければ叶わない。同じクラスの友達が、東京工業大学に入りたくて叶わず、理系の国立大学に入って後、修士でも東工大を受けたが失敗した。英語でも数学でもわれわれから格違いの実力があった者だったにも関わらずである。

 大手企業で研究所に配属になってみれば、東大、京大、阪大、九大、東工大、名大、北大、東北大と名門国立大学の修士以上の卒業生がひしめき合っていた。彼らがわれわれ高卒者より優秀なことは誰が評価してもその通りである。しかし今70歳も過ぎ、「優秀」とは何かを考えてみるに、若い頃とは異なった景色が広がっている。

 確かに受験競争を勝ち抜いた彼らはその面において優秀なことは間違いない。しかし、彼らが官僚となって、そこでもそこそこ評価される優秀さを持っていたとしても、それなら彼らすべてが政治家としても優秀かどうか。人間として素晴らしいかどうか。

 学歴はなくても今太閤、コンピュー付ブルドーザーと言われた政界の代表田中角栄氏、片や経済界では経営の神様松下幸之助氏。家柄も学歴もない彼らが、世に認められるまでどれだけの苦労があったかなど問題ではなく、優秀という評価に、分野ごとのそれぞれの物差しがあるということを知らしめている。

 物書きで少々名が知れていても、たまたま書いた本が売れたとして、確かにその分野での優秀性は認めよう。しかし、テレビのコメンテーターとして登場し、彼らが生きてきた世界とは全く異なる世界の人間模様を的確に評論できるとは思えない。勿論、中には全く異なる世界の一流人が的確な評論を行う姿にも接する。世間に見えない部分で人間性を磨き苦悩しておれば、そのような総合的な判断力を有するようになることはある。当然誰でもではない。テレビの報道番組は軽々にコメンテーターを選びすぎる。

 ただ、外国語に堪能で、元財務官僚で、早い出世を目論んで野党から出発した人物が、国家のため民衆のため、心底働く心根があるとは思い難い。従って優秀な政治家には成りえない。この国や世界の歴史を知り、ささやかな幸せに日々の己の仕事に取り組む庶民の姿が見えてなければ、優秀な政治家などに成れはしない。

 人々は簡単に「優秀」と言うレッテルを安売りするけれど、学校制度の中の優秀などたかがしれたものと知るべきである。多くは優秀という欺瞞、嘘、虚像なのである。少なくても優秀には人間性は考慮されていない。





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世の中の常識を疑おう その7

2018年07月19日 | ブログ
亀の甲より歳の功

 昔は、年配者は偉い者ということになっていた。それだけ長く生きることが難しかった時代が続いた。もっとも昔から姨捨山などの伝説もあり、年寄りがすべて尊敬され遇されていたわけではない。それでも現代と違い「人生50年」の時代に古希70歳は長老である。

 最近は長く戦乱がないこと。食べ物が豊富で栄養状態が良くなったこと。冷房暖房が行き渡ったこと、内風呂が普通となり衛生状態も向上した。加えて日本では手洗いの習慣など昔から衛生観念は強かった。諸々の要因で日本人の平均寿命は世界のトップクラス。男性でも80歳を超えた。

 右も左も老人が増えたと言うより、老人ばかりの世の中になると、やっぱり価値が落ちる。希少価値であるからダイヤは尊いが、道端に石ころと同じようにダイヤがあれば、価格は暴落する。すなわち価値が落ちる。歳の功より亀の甲(鼈甲)となる。

 企業などでもよく「老害」という言葉が聞かれる。経営者が引退せずに居座る。会長に納まって経営の実権は手放さない。業績が伸びているうちは、周囲も株主も引きずりおろせない。

 日経ビジネス2018.07.09号にユニー・ファミリーマートホールディングス前社長の上田準二氏が言われている。『世の中には、ヨレヨレなのに元の会社で跋扈している人もいます。「引き際が難しい」なんて話もよく聞く。でもね、当事者からすると難しい話じゃない。トップとしての権力、名誉、トップだからこそ築けた交友関係。そこから離れたくないだけです。・・・』

 政界なども、一旦権力の座を掴むと離したくない。民主党政権時の菅総理などのみっともなかったこと。次の野田さんは民主党政権の限界を感じたのでしょう、あっさり負けると承知の解散を行った。議員定数などの削減を安倍総裁と約束して。しかし、この度安倍自民党は参議院定数を6つも増やす法案を通した。対、中国・米国対応として、EUとのEPAは良いとしても、抱き合わせで国民の信を問うという、人気商品と不良商品の抱き合わせ販売で、公正取引委員会からクレームが出るようなやり方だ。

 ここまでやっても首相の座は維持したいのである。二言目には「全力で」というけれど、遅々として進まぬ拉致、そして北方四島返還交渉。次々と起こる自然災害。わが国の排他的経済水域に堂々と調査船を送り込む中国。竹島の高校教科書への記述に堂々と抗議する韓国。嘘で固めた隣国に対する外交は全く昔のまま。

 長生きする人が増えると、どうしても老人特有の欠点が大きく露出される確率が高くなる。老人の運転する車の逆走やアクセルとブレーキの踏み間違いや「眠ってしまいました」という暴走。切れる老人。介護女性にセクハラ。論語に言う40にして迷わず、50にして天命を知る、60にして耳従う(人の話を受け入れる)、70にして心の欲するところに従って矩をこえず。




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世の中の常識を疑おう その6

2018年07月16日 | ブログ
清貧の教え

 竹林の七賢人ではないが、物欲から解き放たれて人間は心の充実を得る。これは嘘です。
一般に貧しい人は単に怠け者のことが多い。職場でもマメな人とそうでない人が居る。10年後20年後、通常マメな人はささやかであっても出世しているものだ。出世すれば多少でも給料は増える。子供を上の学校にやることができる。

 もっとも職場に前提がある。上司や経営者がやっぱり働き者で真面な人であることが条件ではある。どんなに一生懸命働いても、あいつはマメな「性格だから」。怠け者に対しても「性格だから」で済ますような職場は辞めた方がいい。ただ通常労働者は、次の仕事を探すのが大変だから問題の多い職場でも辞めるわけにもゆかない。もっと深刻な問題は若者が非正規社員の資格で働かざるを得ないこと。大企業でさえ人を育てるという企業の使命を捨てていること。

 働き方改革などというけれど、残業が減っては困ると言う労働者は多い。もっとも残業しても手当を出さない企業も結構あるのではないか。勝手な残業に本来手当を払う必要などないが、残業しなくては出来ない量の仕事を与えて、手当を払わない経営者があれば、それは事業を継続する値打ちなどない経営者だ。廃業すべきである。

 貧しい人が清らかというのは根拠がないけれど、金持ちに清らかな人も少なく、ずるいのが多いから要注意である。「金持ち父さん貧乏父さん」という本がヒットしたことがあった。確かに一面の真理はあろうが、それをすべてと受け止めると大きな過ちを犯す。企業でもモノづくりの本業から金貸しにシフトさせると一時期総合的には儲かっても、元々の本業が駄目になって企業ブランドを損ねることが多い。

 米国のGEの末端の関連会社に出向になった頃20世紀末のこと。ウェルチ氏現役の頃で、GEは金貸し事業が儲けの中心のようだった。日本でもレイクなどというサラ金まで始めた。しかしその後、GEはモノづくりに回帰して金貸し事業から足を洗ったようだ。

 ソニーだって、いろいろ手を出し、本業のモノづくりが相当痛んだが最近は改心して業績が持ち直している。

 人間やっぱり、汗を掻いて稼がねばならない。働き者が栄える世でなくてはならない。それはモノを獲ってくるか、栽培するか、原材料を加工してモノを作るか、作った物を売るかという世の中の人々の生活に直に役立つ仕事を一生懸命やるということだ。本来、芸能などは生産性が無いから低級な職業と思われていた。現代に職業に貴賤はないし、それぞれ意義のある職業だから、芸能人やプロスポーツ選手を憧れの目で見ることはあっての蔑みなどしない。

 多くの人々は、特殊な世界で生き抜ける才能を持ち合わせていない。こつこつと何かを生産する業務の一員として汗を流すことしかない。その中で、マメに働くことで、運も巡ってくる。楽をしていて収入が少ないことを、社会や政治の所為にしても仕方のないことだが、働いても働いても恵まれない世にしてはならない。




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世の中の常識を疑おう その5

2018年07月13日 | ブログ
衣食足りて礼節を知る

 戦後、われわれ団塊世代が物心ついた頃、この国は貧しかった。だから盗みなどの犯罪も多かった。「人を見れば泥棒と思え」や「衣食足りて礼節を知る」という格言は至言と思えたものだった。しかるに今は平均的には豊かになった。子供の貧困が問題になったりするが、それは親のお金の使い方の問題だろうと思う。子供が勝手に産まれてきて、勝手に貧困になるわけではない。

 問題なのは、富裕層の人間の体たらくが多い事。昔から政治家の程度は知れたものだが、医者、弁護士、芸能人などの犯罪も散見される。教師や警察官の破廉恥犯罪も多い。顔の見えにくいネット犯罪など、昔に言う学歴も教養もなく犯罪者にしかなれなかった人種では不可能な犯罪である。

 もっとも人間の欲望には限りはないから、この程度の豊かさでは満足しない。「足るを知る」ことを知らない。もっとも足るを知ってしまえば人類の進歩はない。もう進歩などしなくてもいいようで、この度のように大雨で百人2百人規模で亡くなる人が出る。難病で苦しむ人も多い。都合の良い所だけの進歩はない。一方で、車が発達すればそれを使った犯罪が増える。インターネットは便利だけれど、これまた犯罪の温床、吹き溜まりのようになる。

 要は、便利なものは便利なだけにリスクも大きい。スーパーなどの陳列は手に取りやすいだけに万引きも増える。衣食足りてもそれに合わせて犯罪も膨らむ。社会的に地位の高い立派な人だと信用などできない。裏で何をやっているか分かったものではない。やっぱりどこまで行っても「人を見れば泥棒と思え」は至言である。

 一つには、教育と言うものがお金持ちに成るための手段となり、すなわち徳育の部分が希薄になったことが原因なのである。高学歴の人は徳があるという常識は現代では通用しない。単にこの世でうまく生きてゆく方策に長けているに過ぎない。だから大企業の不祥事も絶えない。こんなことを繰り返しておればブランドというものも全く信じられなくなる。

 以前、デベートという言葉が流行った。議論して負けない法などという本もあった。国会の党首討論などでも批判が出ているが、相手の質問にまともに答えない術で「はぐらかす」「かわす」「さばく」、イライラさせる。時間切れに持ち込む。一国のリーダーが小手先の術法で当面の都合の悪い案件を乗り切っても、天は地震や豪雨でもって人民を苦しめ、見ていることを告げる。せめて国のリーダー層の面々は、礼節を知って欲しいものである。
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世の中の常識を疑おう その4

2018年07月10日 | ブログ
宗教

 宗教に関連する大きな出来事が最近連続して起こった。一つは「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産(国内22件目)に選ばれたこと。ひとつは、オーム真理教の元幹部(麻原彰晃以下7名)が処刑されたこと。

 徳川幕府がキリスト教禁止令(1613年)を出し、1637年に島原の乱があった。それから約400年の月日が流れた。

 坂本弁護士一家殺害事件(平成元年、1989年11月)から29年。松本サリン事件(平成6年、1994年6月)、地下鉄サリン事件(1995年3月)から23,4年が経って、ようやくひとつの区切りを迎えたのだ。

 日本人は、宗教観からの戒めによる倫理観より恥や名誉を重んじる気風が強い。自然現象を神と捉え、豊かな自然と共存してきた。それでも戦国時代、織田信長が一向宗門徒や比叡山の勢力と死闘を繰り返し、結果比叡山を焼き討ちした。そのことは現代にあって、人道上許されることではないとの批判はあろうが、庶民の信仰を盾に、栄耀栄華の宗教団体の跋扈に目に余るものがあったことも事実であろう。

 自然と共存してきた人々にとって、収穫の多寡から貧富の差が生まれ、武力が権力となり、身分制が強まっていった時代に、取り残された人々が信仰に救いを求めたことも分からぬでもない。庶民が信仰を求めた鎌倉時代に多くの新しい仏教の宗派が生まれた。しかし一方で庶民の味方のような顔をした宗教界の跋扈は現代にも健在である。

 なぜかわが国では、「あの人は敬虔なキリスト教の信者だから」など変な信用が生じていたりする。そんな常識は捨てた方がいい。ヨーロッパで過去に宗教対立によってどれだけの人々が虐殺されたか。日曜日に教会に行く人々が、どれだけ戦争を繰り返して来たか。アジアを植民地化する先陣として、宣教師を送り込んだ話は有名で、徳川幕府は遂にキリスト教を禁じ、鎖国を開始した。送り込まれた宣教師たちも、どうも他のアジア諸国と日本では、その民度も武士の精神性も桁違いに高く、植民地にすることは無理であると認識したようだ。

 一般の日本人は、正月は神社やお寺に初もうでに出掛け、結婚式はある人は神社で、ある人は教会で挙げ、子供ができれば神社に宮参り。死ねばわが家は真言宗だから浄土真宗だからあのお寺さんからお坊さんを呼んでと、俄か仏門信者となり、バレンタインデーでチョコレートをあげたり貰ったり、クリスマス前から家の周囲にイルミネーションを飾り正月前には正月飾りに変える。宗教とのみごとな距離感が素晴らしい。宗教にのめり込むなどこの国では風流ではない。それぞれの心にそれぞれの神があればいい。

 若い頃街で、米国の宗教家とおぼしき人物から笑顔で集会に誘われた。「宗教は人生からの逃避だ。逃避とは逃げること」と言ったら。急に真顔になり「英語はできるか」と来た。この時は英語が出来なくて良かったと思った。
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世の中の常識を疑おう その3

2018年07月07日 | ブログ
民主主義

 中国は自由経済活動で富が多くの人々に行き渡れば、いずれ西側諸国と価値観を同じにする民主化への途を歩むであろうと考えていたとは、米国などの有識者の弁だが、それは詭弁か、はたまた中国人を知らない幼稚な思い込みに過ぎなかった。詭弁とは、そのような言い訳で13億の民を消費者として、安い労働力として儲けられるうちに十分稼ごう、後は野と成れ・・・との算段でしかなかったわけだ。

 中国は民主化するどころか、独裁色が一層強まり、そこではITもAIを駆使して反体制派、民主活動家を取り締まり、一般の人々に対してもあらゆる面で統率を強めているように見える。「上に政策あれば、下に対策あり」の国だから、中国人は富を運んでくる政府は良い政府で、元々人民に国家意識など薄い。近隣諸国に脅威を与え、ある時は略奪しようが、国民全体が「文句があれば掛かっておいで」という面構えである。

 実は中国が、これほど短期間に経済成長し、それに伴って軍事大国ともなれたのは、民主国家ではなかったからで、また世界の倫理観にも背いて来たからである。貧しさを売り物に先進国からの経済支援と技術援助を請いながら、他国の知的財産権を犯し、取れるだけ取った後には、感謝も何もない国民性が寄与している。

 鄧小平が訪日した際、松下幸之助氏に素晴らしい家電製品の作り方を教わりたいと助力を請い、幸之助氏は喜んで中国に尽くした。その後、尖閣を国有化するや中国人たちは、中国国内のその松下さんの店舗まで打ち壊した。トヨタ自動車は、中国の砂漠化を防ぐ植林事業を長く主導してきたが、同様の仕打ちを受けた。

 それでは民主国家日本の現状はどうか。特に地方自治体の首長や議員選挙の投票率は驚くほど低い。誰でもいいと考えている人があまりに多いのだ。国政選挙でも投票したくなるような人物が候補者に居ないというのもあろうけれど、折角の民主政治も形無し状態である。現政権は良くなくても野党がさらに良くなければ、民主政治の良さは消える。

 現在の自由民主党内だって、自分たちのトップがベストと考えている人は今や少ない。しかし、取り換えた時に今の自分の身分が危うい。長く現政権を支える立場にある人は当然である。菅官房長官なども初めの頃は自信を持って政治に取り組んでいたけれど、この頃は如何に言い訳を考えるかに腐心しているように見える。

 それでも今更別の人をとも言えないのである。中国と同じで経済が良ければ、人間の信義や道徳は置いておかれるようになってしまったのだ。数の論理は儲け第一主義の人間に都合の良い民主主義という建前に堕しているように見える。中身は共産党一党独裁国家に近づきつつあるのかも知れない。
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世の中の常識を疑おう その2

2018年07月04日 | ブログ
スポーツマンの堕落

 「健全な精神は健全な肉体に宿る」。昔、スポーツマンは人類の理想のようであった。スポーツはルールで成り立っている。世の中も法律というルールで成り立っている。スポーツマンは疑似的ではあるが、社会ルール遵守のスポーツマンシップがある。しか~し。

 日経ビジネス2018.06.25号の巻末「賢人の警鐘」にキッコーマン取締役名誉会長の茂木友三郎氏は言う。『スポーツには爽やかさやひたむきさを期待するものだが、残念ながら最近のスポーツの世界ではそうでないこともみられ、気になるニュースが相次いでいる』

 わざわざここで例証しなくてもアメリカンフットボールに大相撲、日本レスリング協会の事と知れるであろう。

 茂木氏は、現代の『スポーツ選手の行き過ぎたタレント化や、商業主義が強すぎる大会運営といった競技のあり方には疑問を感じる』とも述べておられるが、まさに同感である。

 今まさにFIFAワールドカップが佳境であるが、過去には熱狂するあまりオウンゴールの選手が射殺される事件があったようだ。国によってスポーツは賭け事の対象であり、賭けたチームの敗戦は自身の破産を意味したのかどうか。もっともこれはスポーツマンの問題ではない。

 また、アメリカンドリームは結構だけれど、日本でプレーしていた時と桁違いの報酬を得るプロ野球選手は、それで夢を叶えたことになるのだろうが、米国社会の歪を増幅させている要因でもある。

 本当は、「そだねー」ともぐもぐタイムを楽しんでいるくらいが一番幸せではないのだろうかと思う。競技によっては海外遠征費にも事欠くくらいは当たり前で、普段はコンビニでアルバイトしながら練習するといった女子選手の話もあった。

 スポンサーが付きだすと一変するのだろう。現役選手は頑張れるのは若いうちだけだと割り切ってひたすら練習するわけで、それはそれで結構なのだけれど、堕落は指導者層に多い。協会幹部が会のお金を私物化したり、世界大会規模では開催国の決定に多額の賄賂をと取ったりする。

 この度の日大のアメフトの監督など、スポーツ界の闇をみごとに衆人の前に曝け出した。前代未聞の不祥事であるけれど、実は密かに他でも似たようなことは多分に行われていた気配はある。

 女子バレーボール界のセクハラは有名だったし、柔道界でもあった。いろんなスポーツで監督やコーチのセクハラ・パラハラは日常茶飯事であり、この度の国民栄誉賞を受けた選手に対するレスリングの件で、ようやく闇に隠れた部分に陽があたったと見るべきかもしれない。

 さらに醜いのは大相撲の現役横綱で、前人未到の記録を残しているからと、関取の身分で協会の親方連中より偉そうぶってどうするの。それを止められない協会幹部や横綱審議委員の体たらくは、この国の情けなさの一面をよく表現しているものだ。韓国や中国に言いたい放題言われて、諾々と報復処置の取れない政治家連中とダブるのである。



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世の中の常識を疑おう その1

2018年07月01日 | ブログ
人権
 今年も半分終わった。今日から7月である。1年は12か月だから6ケ月が終われば半分が経過したことになる。しかし6月までの前半は2月が28日しか無かったりで、後半より3日ほど少ない。その意味では明日7月2日が、丁度1年365日の中間日となる。

 くどくど当たり前のことを書いた。世の中には何でもないことでも思い込みや常識と思って疑わないことに落とし穴がある。

 囲碁などはAIの登場で、これまでのプロの常識の一部が変化したようだ。「そんな手を打つようでは田舎に帰れ」と師匠から言われたような手をAIは打つことがあるらしい。それで勝ちきれば、これまでの常識はそこで終わる。勿論打たれた相手の技量にもよる。一回の勝負で結論は出せない。

 「人権」という言葉があって、「人間の命は地球よりも重い」などと言われたりする。それにしては、軽すぎる命の如何に多い事か。5歳の女の子が両親からの虐待で悲しみのうちに亡くなった。東京都は児童相談所増設の要望を受けて、鋭意検討すると言う。役人が増えて、それなりの見かけ上だけの仕事で、多額の報酬を得る人間が増えるだけのようにも思う。それは思い込みだろうか。

 これまで児童相談所に相談しながら救えなかった命はどれだけあるか。ひとつには家庭の中に他人が踏み込めないジレンマが役所側にある。虐待されているかもしれない両親にも人権がある。個人の家庭は治外法権的なところがある。だから虐待に限らず身内の犯罪がやたら多い。

 犯罪者は特に、被害者に比べて人権が守られる。殺され損が多い。冤罪などではけっしてなく、確かに殺人を犯したことがバレバレの場合の弁護士の常套手段が精神鑑定。これで無罪。放免とまではいかなくても無罪を勝ち取れば、担当弁護士は箔がついて、仕事が増えてお金儲けができる。

 精神異常で殺人を犯すような人間に本来人権など在ろう筈はないが、現代社会でではそうはいかない。私のような一般人が何を云おうが影響力は皆無だから、問題にならないが、代議士先生などがこんなことを云えばマスコミの餌食にされる。しかし、ジャーナリストや弁護士などで本当に人権を理解している者はどのくらい居るのだろうか。

 犯罪者にあっても裁判で刑が確定するまでは容疑者であり、取り調べに際して拷問など許されるものではない。それはそうだ。しかし、これだけ人権がやかましく言われている時代でも権力者の都合で、冤罪者を捏造することは出来そうである。テレビドラマなどで、警察や検察の上層部と結託する犯罪が描かれることはよくある。

 首相への忖度で、公文書改ざんという重罪を犯し、それを苦にしたのであろう担当の官僚が自殺して果てても、その人権には見向きもしない人々は、未だに国会で空疎な詭弁を弄して権力維持に奔走する。
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