富士川
清盛が病死した前の年の十月『頼朝は、富士川西岸における平家との決戦を二十四日に予定し、先鋒の甲斐武田軍に対して、―――それまでは抜け駆けせぬように。と申しきかせてある。かくて公称数万騎をひきい、十八日に箱根山を越え、黄瀬川の宿についた。
『山木ノ判官攻めの挙兵(八月)からまだ六十日たらずしか経っておらず、ふとわれにかえると、いまの自分が現実(うつつ)とは思えない。古来一介の流人が六十日後には忽然と大軍のぬしになり、時の政府軍を数において圧倒するにいたるなどの例はないであろう。本朝にもなく、唐土にも絶無である。おそらく後世にもあるまい。(なぜ、こうなったか)・・・頼朝はこの点、利口な男であった。かれら東国武士の不平のありかを知っていた。武士、つまり荘園の非合法な所有者たちは、自分の私有地につねに不安を感じている。自分の土地でありながら、しかし土地公有を原則とする律令国家の体制のなかではその私有が不完全にしか認められない。それを権力者によって保護してもらおうと思い平家の傘下に入ったが、その平家が地方武士の保護者たるべき自覚をうしない、公卿化し、一門の奢りにのみふけり、逆に武士どもを圧迫さえし、諸国の目代(平家官僚)を通じて徴税と労役を強化した。
「いっそ東国は独立すべきだ」ということが意識ではなく気分として村々に満ちはじめていたとき、にわかに頼朝の決起があり、それによって噴火し爆発によってむくむくと天にのぼる噴煙に乗じたといっていいだろう。・・・・
前線の富士川東岸に滞陣中の甲斐源氏の棟梁武田信義から急使が来陣し、――――平軍が、野から消えた。という。消えた、としか言いようのない逃げ方だという。むろん源氏と一戦にも及ばない。・・・源氏先鋒の武田軍の一部で抜け駆けを策する者あり、夜陰ひそかに川を渉ったところ、・・・幾万となく水鳥が棲んでいる。その鳥どもが人の気配におどろき、一時に翔び立った。・・・西岸から蒲原一帯にかけて宿営している平家の耳には源氏の夜襲と聞こえた。・・・
諸将が祝賀にやってきた。「追撃して京までのぼられよ」と人々はいった。が頼朝は賛同しなかった。凶作と飢餓の上方へ攻め入れば、こんど敗北せねばならぬのは源氏であろう。それよりも鎌倉に府をつくり、関八州を律令国家から独立させることが急務だと思った。』
義経は平泉で、頼朝の決起を知る。居ても立っても居られず、秀衡に暇乞いをして、留めるも聞かず、昔、坂東で盗賊だった二十五、六の手足の逞しい男(伊勢三郎義盛)に駄馬二頭をひかせ、平泉を去る。
義経は箱根を越え、伊豆に入ったあたりで、富士川の平家退却を知る。頼朝もすでに黄瀬川までひきあげ、その地の寺を宿舎とした。寺の山門の前で義経は馬を降り、源家の九郎であることを告げたが、勝ち戦側の利権にあやかりたい流人や渡り神主の類と思われ、なかなか頼朝まで取り次いで貰えない。
頼朝は今一族を持たない、北条氏の婿殿の他力本願の立場だ。縁者を慕う心は強い。奥州の義経はきっと来るという期待があった。頼朝は夕餉の後、側近から山門の若者の話を聞き、九郎であろうと直感する。
本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。