中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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続、この国の風景その10

2011年12月28日 | Weblog
危機管理

 「最低の危機管理だ」という見出しがあった。27日の読売新聞朝刊である。原発事故調査委員会の中間報告を受けて、避難生活を余儀なくされる福島県の人々からの怒りの声が上がった。とある。

 不安を募り危機感を煽ろうというわけではないが、現在の日本はその歴史上元寇*21)以来730年ぶり*22)に大陸からの侵略が懸念される状態にある。このため防衛省は、島嶼(とうしょ)防衛部隊の増員と訓練の充実を図っているらしい。今年2011年、列島は1000年に一度言われるマグニチュード9クラスの大地震と大津波に襲われた。禍は忘れた頃にやって来る。歴史は繰り返えされる。

 海岸からの美しい大海原を見て、この海がまさか防波堤を超えて押し寄せる大津波になるとは日頃考えまい。そこに油断がある。まさか現実に他国がこの国の領土を武力で奪いに来るとは考えない。しかし、それは世界の非常識で、平和に慣れきって祖国防衛に脳死状態の日本人だけの想いなのだ*23)。事実北方四島だって竹島だって、ロシアや韓国は「やるなら来い」という武力で威圧して*24)居座っている。

 テレビの報道番組で放映された島嶼防衛部隊の訓練レポートを受けて、その席にいたコメンテーター氏が、「まるで戦争を始めるかのようだ。国家間の諸問題は、まず外交を充実することで解決を図ることが先決ではないか」の趣旨の発言を行ったのには、同席していた取材レポーター氏も複雑な表情であった。このコメンテーター氏の一見正論とも思える発言なり考え方が、戦後のこの国に蔓延した念仏的平和論ではなかろうか。こちらが仕掛けない限り戦争は起こらないと思っている節もある。

 先の大戦が、わが国の真珠湾攻撃に始まったとの印象が強烈だったことや、戦後の米国による日本軍部の暴走による開戦との喧伝が浸透した結果である。さらに戦後教育によって、祖国防衛などの国民の義務は教えられず、民主主義とは個人主義であるかのような国家不在の教育が浸透した。

 だから米国も中国も同格とした外交を展開しようなどと言う鳩山政権当時の日米中正三角形外交などと言う能天気の外交論が堂々と闊歩する。一党独裁で人権も不十分な国と、民主的な同盟国が同等であろう筈はなかろうに。

 来年は日中国交正常化40周年の節目だそうな。日中は外交努力によってその戦略的互恵関係とやらを深化させねばならないというが、かの国がさらに自国有利の要求をエスカレートさせてきた場合、どのように処するというのか。ただでさえ尖閣諸島は中国領だと世界に公言している国なのだ。一方的な強権圧力によって、わが国の国益を損なわされる事態に陥る恐れが強い。

 だからこそ、この政権下でさえ島嶼防衛部隊の増員と訓練の充実を図っているのだ。この機に及んで、真剣にわが国の核武装の必要性を説く専門家もいる。現政権によって大幅に毀損した日米同盟。米国が経済的な理由から日中を秤にかける事態でさえ一応想定しておく必要がある。事が起こってから「想定外」というみっともない言い訳はしてはならない。

 このたびの震災や原発事故、タイ国の水害などの被害が産業界に与えた影響は大きく、あらためて企業に事業継続計画(BCP)の重要性が問われている。中国の経済、軍事の大国化によって、「安全と水はタダ」という神話はすでにこの国に存在し得ない。危機管理能力こそ、政権に国家の指導者に求められる第一の役割であり資質である。一昨年の政権交代の愚がここでもこの国の風景に不安の影を大きくしている。








*21)1274年文永の役、1281年弘安の役
*22)ロシアからの脅威はあったが、朝鮮半島や満州をめぐる攻防であり、わが国への直接的な侵略にまでは及んでいないとみる。
*23)北朝鮮のミサイルや核開発、中国の軍拡、昨年の尖閣での中国漁船の海上保安庁艦艇への突撃などを受けて、日本国民の国防意識は相当に改善はされているが、なお、憲法改正や核開発の喫緊の必要性の認識には至っていない。
*24)1982年にイギリス(首相:サッチャー)とアルゼンチン(大統領:ガルチェリ)の間で、フォークランド諸島の領有権をめぐって起きた、フォークランド紛争を見るがいい。軍事力が強いほうが勝つのである。
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続、この国の風景その9

2011年12月25日 | Weblog
罪悪史観の後遺症

 12月17日韓国の李明博(イミョンバク)大統領が来日した。あらためて従軍慰安婦問題の補償を求めるということだったらしい。今に至っても韓国がこの問題を持ち出してくることは、自国内向けの不満分子への大統領のパフォーマンスもあろう。

 しかし、先の戦争によって被害を被った者は数知れない。原子爆弾を落とされて亡くなったのは日本人だけとも限るまい。東京大空襲をはじめ、地方都市でも無差別の大空襲を受け、どれだけ無垢の子供たちまで犠牲になったことか。生き残った者も家を焼かれ全財産を失った者も多かったであろう。それら被害者への補償を国家といえどすべて出来ることではない。

 しかも日本と韓国は、1965年の日韓基本条約によって、すべての補償は解決済として両国で合意済である。また、従軍慰安婦としての強制性の証拠は存在しないと言われている。慰安婦が日本軍に強制されたというのは濡れ衣*20)というのが真相のようだ。

 ただ、現政権は韓国に対して隙が多すぎる。在日韓国人などから献金を受けている(献金者が日本国籍を取得していなければ明確に違法な献金である)政治家が多く、人道上の見地からという名目で基金などの準備をしているような話がある。日本では人道上と考えても、先方には後ろめたいから基金を出すと思われて、却って決着を遅らせる気がする。

 昨年日韓併合100周年に当たり、当時の首相であった菅氏による談話も、朝鮮半島の植民地支配が韓国の人々に多大の損害と苦痛を与えたと、全面的に韓国に阿(おもね)る表現になっていた*21)けれど、併合当時の極東地域の安全保障という面から考えれば、日本の行為は已む得ないものと映る。

 独立国家としてソ連などの脅威に立ち向かう十分な国力がなかった韓国を放っておけば、朝鮮半島はソ連の実質支配下になる。そうなれば日本も危ない。だから日本は朝鮮半島を併合して、彼らから搾取したのではなく、帝国大学まで作るなど基盤整備に尽くした。

 朝鮮半島の人々の中には、日本支配に命を掛けて抵抗した人も当然居たであろう。日本よりソ連がいいという人も居たかもしれない。歴史にイフは意味がないが、その意見に従っておれば、朝鮮半島は今頃全土が北朝鮮のようになっていたに過ぎないのではないか。あらためて謝り朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重図書について渡した挙句が、今回の事態だ。

 罪悪史観の後遺症が戦後66年を経てこの国の風景に燻っている。






*20)強制されたという一方的な申し立てだけによって、犯罪行為が現実に行われたと立証することには無理がある。
*21)もっともこれは、自民党政権時からのことで、日韓問題について史実に基づくコメントをすれば、大臣など首が飛んだ。1986年中曽根内閣の藤尾正行文部大臣の「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任がある」等の発言により、大臣を罷免されたことは印象深い。


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続、この国の風景その8

2011年12月22日 | Weblog
デフレ

 デフレとかデフレスパイラルとかいう言葉をよく耳にする。物価が下がってゆく現象。そのことで企業の収益が落ち、従業員の給料を下げざるを得なくなる。給料が下がれば購買力が落ちてさらに物価が下がる、という負のスパイラル。国内経済の規模が縮小していく、すなわち不景気ということになる。ただ、デフレそのものは生活者にとっては、同じ物を買って出てゆくお金が少なくなるから当面助かる感覚がある。

 物価が下がるデフレ現象の産業界に与える負の影響は、逆を考えればよく分かる。日本の高度経済成長時代は明らかなインフレーション(インフレ)が続いた。設備投資が続き、雇用も増大する。今年1億円で買った同じ機械がインフレで数年後には1億2千万円するかもしれない。通常機械設備は年数と共に減価する。この価値が下がり難いことになる。含み益のようなものだ。

 企業は通常設備投資は銀行などからの借入金で賄う。これは当然に返済しなくてはならないが、インフレは貨幣価値を下げているようなものだから、借金をしている人にとっては有利なのだ。但し、インフレ状態にある時は借入金の金利も高い。もっとも金利以上の収益が見込めるから投資している。

 これが、デフレでは逆になる。経済活動が縮小し企業は新たな投資や雇用を控えるため、新卒者の就職難が生じる。生活者にとっても住宅ローンなど組んでいる人は負担増しになると言われている。ただ、バブル時代、宅地を買うのに借入金の利息は10%未満であれば得だとさえ言われたものだ。今は1.数%(変動型)。しかも宅地はバブル期に比べ、多くの所で大幅に安くなった。バブル期、一般サラリーマンが年収の5倍程度でマイホームが持てるようにとの政府に目標があったが、現在は十分満たしたのではないか。バブル期に比べて生活者にはいい時代ともいえる。しかし問題は若者の就職難である。就職難は雇用条件の悪化をもたらし、派遣労働者など不定期就業者にしわ寄せがくる。大企業の経営者を中心に企業の社会的責任を自覚して欲しいものだ。

 バブルの時代からみれば随分と下落した不動産価格は消費者物価指数に入っておらず、デフレの概念に含まれない。それでも世の中デフレだというので、消費者物価指数の推移を調べてみる*19)。戦後のハイパーインフレが終息後の1950年を100とした指数が、バブル期の1991年に800となり、2009年でも約800である。一番消費者物価指数が一番高かったのは1999年頃で約830程度。こ時点からみれば現在まではデフレ傾向にあったと言えそうだが、それも10年でたかだか4%に満たない下落幅。バブル期からの20年、物価はほぼ横ばいで推移して来たといえる。

 最近の物価動向をみても灯油などは、数年前まで18リットルで800円前後だったけれど、現在1500円くらいする。JRや路線バスなどの交通運賃も下がっていない。砂糖や小麦を原料とする菓子類は、1ドル360円の時代からすれば、所得に比して安くなった感じがあるけれど、これは円高の恩恵である。原材料だけでなく、近隣諸国の工業の発展によって安価な部品、製品が入ってくるようになり、国内の流通、生産やサービスの効率化と相俟って物価が下がっているけれど、価格競争における企業努力もあり、自由競争社会のメリットともいえる。騒ぐほどのデフレではない。

 今後の人口の本格的な減少が、国内経済の衰退を懸念する声も高い。確かに高度経済成長時代の国家モデルではそうかもしれない。それならばこそ過去の延長線上ではない、政治経済の在り方が問われるのだ。国家財政、年金や税制、国際金融に周辺有事の懸念など、この国の風景には悲観論が満ちているけれど、縮こまっていないで、「ピンチはチャンス」と今こそ前向きに見方を変える発想が必要な時ではないか。




*19)Garbagenews.comから


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続、この国の風景その7

2011年12月19日 | Weblog
南極大陸

 「南極大陸」というドラマをTBSがやっていた。フィクションとはなっているが、多くは史実を基に作られていたと思われる。南極観測船「宗谷」も「昭和基地」もわが国の南極観測が開始された当時よく耳にし、子供心にこの国の誇りとして強く記憶に残っている。氷海で立ち往生した「宗谷」が当時のソ連の砕氷船に救われた話、カラフト犬「タロ、ジロ」も当時随分と話題になった。このドラマには昭和30年代初頭のこの国の風景がある。

 第一次南極観測隊が出発したのは、昭和31年とあるから、団塊の世代昭和22年生は小学3年生当時となる。今回のテレビドラマに出てきた美人先生(高岡美雪:綾瀬はるかさん) の教室で、赤ちゃんを背負った男子児童と同世代だ。もっとも私たちの学校に、弟や妹を背負ってまで来る児童は居なかった。しかし、遠足の弁当を満足に作って貰えない仲間は居た。貧しい時代であったことは身に浸みていたが、南極観測を始めるにあたっての関係者の苦労や、資金集めに国民が寄付金を供出した話は知らなかった。

 昭和30年代当時、紅白歌合戦の司会をやっていたNHKの宮田輝さんというアナンサーは、毎年「宗谷」や「昭和基地」から歌合戦の会場に届くという電報を紹介していた。少しとぼけた味の宮田アナの例の調子で、「(南極の)周りは白一色です」と白組の応援フレーズとしていたことを、この時期懐かしく思い出す。

 昭和31年というと、第三次鳩山一郎内閣、米国大統領はアイゼンハワー、ソ連の首相はフルシチョフ。その年の6月に東海村原子力研究所が発足し、11月1日には東海道本線全線電化完了とある。またこの年、日本の船舶建造高は、175万総トンで世界1位となっている。政府が「経済白書」で「もはや戦後ではない。・・・回復を通じての成長は終わった」と発表した年でもある*17)。敗戦後僅か11年目の年、若者は戦後の暗黒史観や罪悪史観に覆われていない。戦後初代世代のリードの下、ひたすらにあらためて坂の上の雲を黙々と目指していた時代と思える。

 それに引き換え、弱者の味方ぶった選挙に勝つためだけのビジョンなきポピュリズム政策が横行するこの国の現在の風景には、坂道をすべり落ちている人々の姿が見えるようで仕方がない。

 昨年の「はやぶさ」の快挙や毛利さんに始まり*18)最近の古川さんまで日本人宇宙飛行士の活躍、スパコン世界一の「京」、なでしこジャパンやイチローも居る。現在の子供たちにもこの国に生を受けた誇りとして、印象深いものとなっているであろう。
 
 無い袖は振れぬ。年金も医療、介護も各種給付金も公務員の給与水準も国家の財政能力に合わせて切り詰める政策を断行する必要がある。抜本的行財政改革によって、この国の風景を南極大陸に初めて挑んだ時代のように、貧しくとも未来志向の夢ある風景に変える必要があるのではないか。






*17)エコノミスト臨時増刊号「戦後日本経済史」毎日新聞社1993年5月17日号による。
*18)スペースシャトル計画において1992年日本人初飛行。日本人で最初に宇宙に行ったことでいえば、当時ソ連のソユーズに搭乗(1990年)した秋山氏(当時TBS社員:宇宙特派員)。
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続、この国の風景その6

2011年12月16日 | Weblog
開戦記念日

 12月8日は米国との太平洋戦争の始まりの日である。今年は丁度70年の節目にもあたる。毎年終戦記念日ほどではないけれど、先の大戦を振り返る機会となり、いろんなところで論評が見られたりする。工業力、軍事力に圧倒的に差のある米軍との無謀な戦争になぜ突き進んだのか。海軍は緒戦で勝利し早期講和に持ち込むことを算段し、陸軍は三国同盟国のドイツがヨーロッパ戦線で勝利し、米国さえ挟み撃ちにできると考えたのであろうか。

 日清日露の大国相手の戦争を勝ち抜き、第一次世界大戦でも勝者側になったことで、軍や国民の多くに慢心があったことは否めない。日露戦争は現在NHKで「坂の上の雲」が佳境であり、12月4日、11日の放送では旅順要塞への攻撃や203高地の攻防がリアルに表現されていたけれど、機関銃掃射の露軍に対してまさに日本軍は肉弾戦。多くの死傷者を出した上のギリギリの勝利であった。それも月日が経てば、勝ったという結果だけが独り歩きする。

 テレビの脚本は、司馬遼太郎の言う「戦下手」の第三軍司令官乃木希典に代わり、児玉源太郎が指揮を執るべく現地に赴いた時のやりとりを、原作*15)に忠実になぞっている。児玉大将は第三軍参謀長の伊地知少将に対して、罵声を浴びせかける。児玉にすれば、「この無能な参謀長のために死なずに済んだ兵がどれだけむざむざ敵の銃弾に倒れたか」との想いがある。現代の倒産企業にもありそうな話だ。私たちに事実は知り得ない。しかし、その後児玉の執った作戦によって、短時間に敵を制圧できた結果をもってすれば、司馬遼太郎の小説での考察が事実に近いものであろう。

 なぜ重要拠点の戦いの司令官に乃木を立て、伊地知を参謀長にしたのか疑問もある。軍はこの国の中で大きくなっていったが、その崩壊の兆しは、この203高地での戦いに見られるのではないかと思う。そして、「坂の上の雲」で司馬遼太郎が言いたかったことも、ともすれば戦争という究極の機能性が求められる状況の中でさえ、経歴とか人格とか二次的評価で人事を行い、専門家という権威が過去の型に執着するこの国の統治習性を糾弾したかった*16)のではないか。

 現在の日本に置き換えれば、先にも書いた大阪秋の陣の風景を思い浮かべればいい。橋下氏の猛りは児玉大将のそれとダブル。この機に及んで既得権者をのさばらせておれば、近くこの国は滅ぶ。大阪だけの改革ではないのだ。203高地への進攻は、バルチック艦隊に備える海軍のためでもあった。ここで失敗すれば旅順のロシア艦隊は温存され海軍の勝利も覚束ない。そして国は滅ぶ。

 日頃選挙に行かない政治に無垢の人々は勢いに乗る。投票率は上がり橋下氏は勝った。ただ、橋下氏の戦いはこれから始まる。この機に及んでも政府は国民が喜びそうな景気対策を名目にした補助金や減税などは先行させ、既得権者への手入れは先送りした。

 太平洋戦争に突き進んだ当時のこの国の指導層にも当然反戦派はいた。しかし、アジア諸国を植民地化し、大陸はじめその多くの権益を手中にした自分達は正当化し、日本の進出に異を唱える欧米各国への反発は強く、北にソ連の脅威あり、石油を止められては、日本は生きてゆけないという恐怖が、民衆にさえ浸透した大きな流れは止めることはできなかったのであろう。

 あまりに大きな犠牲を払った戦争であったけれど、もし日本が戦わなければ白人のアジア支配はさらに長く続いたであろう。戦後教育の中で、太平洋戦争を含む近代史を子供たちに多面的に伝える必要があった。マスコミなどを通じて一方的にこの国の過ちばかりが強調されてきた感がある。そのことが現在の無能の左翼政権を生んだ素地であり、この国の風景を悲しい色に染めている。そんなことを想う70年目の開戦記念の季節である。







*15) 司馬遼太郎著、「坂の上の雲」第四巻(全六巻)「203高地」、文藝春秋社昭和46年刊
*16)『・・・専門家にきくと、十中八九、「それはできません」という答えを受けた。・・・「諸君はきのうの専門家であるかもしれん。しかしあすの専門家ではない」』と作中*15)で児玉に言わしめている。
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続、この国の風景その5

2011年12月13日 | Weblog
公に殉ず

 3.11の大震災は、多くの殉職者も出した。消防士、警察官、市や町村の職員など、子供を避難させるための教職員の殉職者も居たのかもしれない。先の殉職消防士の合同慰霊祭には、ご退院後間の無い天皇陛下に皇后陛下もご臨席された。結婚を控えていたという一人息子を亡くした母親は、寂しい時は未だに声を出して息子に呼び掛けるという。両陛下のお悔やみでさえその哀しみが癒えることはないであろうが。公職にある人にさえ命を捨ててまで名を惜しめとは求めはしないけれど、いかなる勤めも公への奉仕の心あってのものだ。

 野田総理は所信表明演説に、被災地の町の広報スピーカーで避難を呼びかけ続け、自身の避難が遅れて犠牲となった女性の話を盛り込まれていたけれど、足下の閣僚はそのような公に殉ずる強い気持ちを持った大臣で構成されているのだろうか。ブータン国王晩餐会宮中行事を欠席して仲間の行事を優先した大臣が居た*10)。一発アウトと思うけれど、党内融和優先の総理はこれを罷免するつもりがないという。国家の大臣は公人中の公人でなければならない。公務をキャンセルして仲間のパーティーを優先するなど、大臣としては職を辞するに余りある行為だと私などは思う。武士の世ならば切腹ものだ。今は上に立つ者への懲罰が軽すぎるから緊張感がない。だからいい仕事ができない。

 昼夜を問わず家に明かりが灯り、テレビが見れる。朝起きれば朝刊が届いており、仕事で出かけるバスや電車は定時に運行され、駅のトイレは清掃されている。ほとんどは民間企業で働く人々の仕事のお陰で、中には最低限の時給で働いている人も居ろうけれど、彼らが勤務中に事故死しても単なる労災に過ぎなくとも、それらを利用する人々に不都合はめったに起こらない。

 公労協や日教組など、特権階級よろしくそれらのドンと呼ばれる政治家を立て、自らの既得権を守るために国家の財政など知ったことではないようだ*11)。足らなければ増税せよとの意向らしい。現政権の「国民の生活が第一」のキャッチフレーズは、「公務員の生活が第一」に聞こえてしまう。

 司馬遼太郎の小説に「世に棲む日日」*12)という、幕末を舞台に吉田松陰(幼名、寅次郎)と高杉晋作を描いた物語がある。吉田松陰が幼少の頃に学んだ玉木文之進は、松陰の父親の末の弟にあたる。すなわち叔父であるが、その指導は熾烈であった。読書中に頬に止まった蠅を追った寅次郎をなぐりたおし、起き上がるとまたなぐり、突き飛ばした。たまたま見ていた松陰の母親は、気絶した息子が死んだと思ったほどである。文之進によれば、『侍の定義は公(おおやけ)のためにつくすものであるという以外にない、ということが持論であり、極端に私情を排した。学問を学ぶことは公のためにつくす自分をつくるためであり、そのための読書中に頬のかゆさを掻くということすら私情*13)である、というのである』。

 『しかし、ここまでの極端さは、やはり一種の狂気としか思えない』。と司馬遼太郎も書いているけれど、緩めればどこまでも緩くなるのが人間でもある。折檻を奨励しているわけでも、正当化しているわけでもない。況(いわん)や幼子を虐待する親など許されるとは思っていない。ただ、極端であっても玉木文之進の持論の一片は日本人のDNAに残っておればこそ、仕事における公の部分にしっかりと応える国民性がこの国の風景を支えている。公の要職にある者にあらためて言いたい「組織は頭から腐る」*14)と。





*10)「私はこちら(政治資金パーティー)の方が大事だと思って来た」とまで発言している。
*11)政府の公務員給与7.8%削減案は民主党幹事長の采配でゼロ回答。人事院勧告は無視する代わり、公務員の交渉権拡大を主張した連合に対して、人事院勧告重視(人事院勧告減給案+7.8%の削減案を主張)の自民党と調整がつかなかった。
*12)文藝春秋社昭和46年5月第1巻刊(全三巻)
*13)「痒みは私(わたくし)。掻くことは私の満足。それをゆるせば長じて人の世に出たときに私利私欲をはかる人間になる。だからなぐるのだ」
*14)本HPエッセー平成23年11月7日「マネジメント第13回」参照
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続、この国の風景その4

2011年12月10日 | Weblog
秋風に誘われて

 晩秋のテレビでは、旅番組が視聴者を紅葉の名所へ誘う。紅葉するのは勿論日本の木々だけではないのだけれど、その種類の多さからくる色彩(いろどり)の美しさは世界に冠たるものであるらしい。春は桜の名所が至るところにあり、秋は紅葉を愛でる観光スポットに事欠かない日本列島の我々住人は恵まれている。そんな秋風に誘われて、二度目の上高地へ、そして初めての立山黒部アルペンルートをツアーで巡った。

 10月末日、朝の上高地は小雨がぱらついた。前回個人で来た時は、河童橋から上流へ明神池あたりまで歩いたが、今回は大正池を巡り河童橋まで歩いた。小雨の大正池は風情がある。木道など整備された遊歩道が楽しい。しばらくして小雨も止み、昼弁当の頃は薄日も射した。昼食時間を入れて丁度二時間、高原の秋を満喫した。澄んだ空気と清らかな水の流れ、川岸の20mの高さと思える林立する薄茶色に染まった木立の壮大さには打たれた。

 その夜は、長野県の北西の端、富山県と新潟県の県境に近い白馬温泉。ホテルは長野市の善光寺から車で90分とある。善光寺には2度ほど行ったことがあるが、ここまで足を運んだことはなかった。翌日の朝の出立が早いため、夕食、朝食とツワー客でごったがえす食堂でバイキングを詰め込むのが精いっぱい。周辺散策も何もできなかったけれど、温泉にはゆっくりと浸かった。

 翌朝早く雲海の広がる高原の道をツワーバスは下り、糸魚川に沿って日本海に出る。晴天。短区間にトンネルが200以上もあるという北陸自動車道で富山へ南下。山間の富山地方鉄道立山線の立山駅からいよいよ立山黒部アルペンルートに入る。まずは、立山ケーブルカー。昭和38年の黒四ダム完成に向けて、多くの資材の運搬に活躍したという。急こう配を7分、標高977mの美女平に到着。ここには伝説の美女杉があり、立札にある歌*8)を3度唱えることで恋が成就するという。

 立山高原バスに乗り換えてアルペンルートを登る。昨日の雪で化粧された立山連峰(雄山3015m)の雄大で美しい姿が見えてくる。バスに揺られて50分標高2450mの容堂に着く。運が良ければ雷鳥にも会えるという高原をしばらく散策。韓国から来た若い女性の二人連れからわれわれ夫婦に「写真を撮りましょう」と声をかけて貰う。観光地でカメラのシャッターを押す役は頼まれるが、「撮りましょう」としかも外国からの観光客に声を掛けられたのは初めてだった。

 容堂からは立山トンネルをトロリーバスで2316mの大観峰に出る。土産物売り場の若い女性に、どうやって通勤するのかと問うてみれば、売店の寮から通っているとのこと。辺境の寮生活では大変だろうと思うけれど、それも仕事なのだ。景観保護のため支柱の無いロープウェイ、日本唯一全線トンネルのケーブルカーを経て黒部ダムに出る。

 北海道に行けば、その開拓史の苦労話が心にしみる。黒部ダム建設の困難さは映画でも有名であるけれど、秘境にそびえるこの巨大ダムが完成して48年。このアルペンルートが全線開通して40周年*9)。この頃はいろんなところで、40周年、50周年があるけれど、戦後の復興期の数あるプロジェクトXのここも偉大な一つであり、象徴でさえあろうとさえ思う。現代人の将来への遺産でもある。そして戦後復興期の先輩諸氏の逞しさを見る。

 秋風に誘われて来た高原で、日本の美しい風景が、けっして自然の造形だけに依存するものでないことを教えられる。






*8)立山を開山した佐伯有頼の許婚者の美しい姫の「美しき御山の杉よ心あらばわがひそかなる祈りききしや」という歌。姫は有頼に会いたい一心で、立山に登ってきたけれど、有頼は山を拓くまで帰ることはできないと、すげなく姫を追い返した。姫は仕方なく下山の途中に一本の杉に願いを託したのである。後日二人は結ばれたという。
*9)昭和29年8月立山ケーブルカー営業開始。昭和31年8月黒部ダム建設開始。昭和38年6月黒四建設工事の竣工式。昭和46年6月立山黒部アルペンルート全線開通。平成23年6月全線開通40周年。

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続、この国の風景その3

2011年12月07日 | Weblog
決められないシンドローム

 代表格をTPP(環太平洋経済協定)として、財政再建に絡む消費税を含む増税案や年金問題。政府与党内で賛成反対が真っ向対立。野党自民党内もどちらに付くべきか右往左往する議員でまとまっていない。国政選挙における一票の格差是正問題や中選挙区制に戻そうという意見についてもそうだ。民主主義の世の中、個人の信念は、たとえ自分が所属する組織の意向に反しても主張していいと思うけれど、あまりにまとまりがない。調整能力のある人物不在である。

 「離党だ」「新党だ」、という暗示による恫喝も流行りで、結局何も決め切らない。勿論決める前に十分な議論が必要なことは言うまでもないが、意思決定が遅いということは、時代の潮流からどんどん離されて組織は衰退するのが通常である。

 兎に角反対のための反対は止めなくてはならない。農業保護といって最終的に戸別補償増額で決着させては、わが国の農業はさらに改革の機会を失うであろう。これまでも農業保護には相当のお金をつぎ込んで来た筈だけれど、一体誰が潤ったのか。結果として農業従事者の高齢化は進み、耕作放棄地が増えただけで、国としての投資/効果は大きなマイナスと思う。歴代政権党の選挙対策だけが優先するビジョンなき政策であると言わざるを得ない。

 農業や漁業の振興には、農地の流動化を促すなど、先祖代々の土地保有や漁業権ではなく、これからは誰でも農漁業の好きな人が農漁業を出来るようにすること。農業も漁業も企業化を進めること。ここでも自由化が求められる。

 年金問題なども既得権者優先の趣がある。我々団塊世代が働き手であり、年金の強制的投資者とされた時代の制度からの脱皮が遅すぎた。現在、団塊の世代を逃げ切り世代として世代間不平等を強調する報道がされているが、それは間違い*3)。われわれ世代から支払いの保険料率はどんどん引き上げられ、ボーナスからも天引きされるようになっていた。受給年齢は引き上げられ受給額も下げられている筈だ。団塊世代と先輩世代との世代間格差なら現存する。

 厚生年金は未だ相当額の積立金*4)がある。このまま行けば近い将来にこれがなくなるということで、さらなる受給年齢の引き上げなどが検討されるだけだ。企業の定年制を廃止や引き上げすることが出来れば、受給年齢の引き上げは可能である。減額するなら支払額の割に多く受給している世代の減額幅を多くし、将来に亘って納入額比例の受給額均一化を図るべきだ。後からの世代にだけへの減額や、現役世代へのさらなる保険料率を上げる*5)ことがあってはならない。そう考えれば改革はそんなに難しいことではなかろうが、減額される世代の反発を怖れ、選挙を恐れるわが身優先の議員集団が抵抗勢力となり、決められない。

 消費税など、元々自民党は10%と言っており、与野党抗争より現与党の党内抗争が激しい。増税反対派は景気への悪影響と歳出削減を優先すべしと強調する。所得税など直接税の増税では、一層正直者が馬鹿をみることになる税制運用上の問題もある。所得の申告漏れなどは摘発されるのは氷山の一角に過ぎないのではないか。「上に政策あれば、下に対策あり」は中国だけではないのだ。

 歳出削減には徹底的な公務員改革が求められるが、公労協の支援を受ける現政権では無理。また急激に増え続ける生活保護給付など、弱者保護との反対し難い正義が乱用されると国は滅ぶ。公務員改革や福祉政策の適正化は喫緊の課題である。

 国の貸借対照表を持ち出して、日本の財政は大丈夫。財務省の計略に乗ってはいけないとする増税反対論には、論点が現在時点に留まっており、歳入40兆円で歳出90兆円が続くことが、あと何年許容できるのかが語られない。議論に時系列を無視した詭弁が見られる。徹底した歳出削減に加えて歳入増加策*6)が必要な財政状況であることは間違いないと思える。

 結構単純な問題も中途半端に賢い連中が議論すると、自分の知識をひけらかして話を難しくし、本質を外す。裸の王様を指摘した子供のように、一度まとった観念論を解いて、謙虚に議論すべき。協議の末、参加する組織が決めたことは、不満があっても従うことは必要。イエス時代のサンヘドリンの規定にあるという「全員一致の審決は無効」*7)の意味を噛みしめたい師走日本の風景である。






*3)団塊世代の先頭集団である昭和22年生は、64歳からが満額支給。その厚生年金額は月額税込総額22.6万円程度(妻帯者加算を含む、報酬比例部分は上限額と思われる)。これから所得税5000円余り(確定申告で還付される見込み)、市町村民税や国民健康保険料、当然固定資産税なども徴収されるため、現役時代の貯えが相当額あるか別途収入がないと苦しい。もっとも国の年金制度は、現役時代の貯えを前提にそれを補填する性格のもののようだ。
*4)約144兆円(2010年)
*5)半額を支給する企業側の負担も増え、さらに企業の国際競争力を低下させる懸念がある。
*6)景気向上策、免税されているところ(宗教法人や特殊法人など)への新規課税、市街化調整区域の耕作放棄地などへの課税強化、脱税し難い仕組みの構築など。
*7)「日本人とユダヤ人」イザヤ・ベンダサン(山本七平)著、山本書店1970年刊による。新約聖書の記述では、「イエスへの死刑の判決は全員一致だったと記されているから当然無効である」。当時のキリスト教徒はほとんどユダヤ人であり、彼らはイエスの処刑は違法であると言いたかったのだ。
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続、この国の風景その2

2011年12月04日 | Weblog
大阪が映し出した風景

 11月27日の大阪府知事、市長のダブル選挙の結果を受けて、翌日のテレビの報道番組は久しぶりに活気づいた。菅政権末期では、いつその首が落とされ、後継総理に誰がなるのかとの興味が報道番組を引き立てていたけれど、野田政権では話題性に乏しく、TPPも増税、年金問題もなぜか色褪せていた。

 そんな中、政治の世界に久しぶり劇場型ヒーローが登場し、しかも「独裁だ」「口先だけだ」、挙句氏素性まで云々されたけれど、結局大阪秋の陣を大差で勝ち切ったのだ。私はほとんどこの手の週刊誌を読まない。橋下氏曰く、「バカ文春」に「バカ新潮」は、見出しだけしか見ていない私が言うのも憚られるけれど、その通りではないか。この国のジャーナリストの質の低下を如実に物語るものでしかない。

 ロクに勉強もせずに大学を出た連中が、出版社にでも入るかレベルで入社し、やがて社内で勢力を得て、のさばっている程度のものではないのか。どこにも似たレベルで幅を利かせている連中が居る。上に居る連中はわれわれ世代の戦後の三代目。部下さえ叱れない連中が多い。

 でなければ、何でこのたび橋下氏の父君などの経歴を上げ、足を引っ張ろうとしたのか訳が分からない。単に庶民の関心のレベルを低く見積もって己自身のレベルで記事を作ったのではないか。もっとも利権に絡み、それを奪われたくない連中の差金との説も有力ではある。

 反橋下陣営を支援した自民党も民主党も共産党も、幹部は総退陣しないといけない。完全に庶民の信を失っている。府知事選でさえ擁立した候補が大差で敗れたのだ。各政党府連のやったこと、一大阪地方の問題ではなかろうと思う。

 後付けで「現在の閉塞感云々」と分かったようなことを言っているけれど、戦後の高度成長期に形作られた官僚組織や政治形態が、完全に時代遅れとなり、大きく変革しなければならない状況にあることを心底に認識していない。自身の保身と目先の利益しか考えない為政者や役人が多いのではないか。だから政権交代してさえ、却って状況は悪くなった。もう根本から変えるという強い意志が必要で、従わない官僚や地方公務員は民間企業に移ればいい。使い物にはならないだろうけれど。

 橋下氏が猛った「暴力団結構毛だらけ、坊っちゃんに何が出来る!」その通り。日本の政治もジャーナリズムも死の床にあるのではないか。

 麻生政権の折、当時の麻生首相が仕事を終えてくつろぎの時間を過ごすバーにテレビのリポーターが訪れ、こんな庶民感覚から遠い高級な場所で、彼は酒を飲んでいるといった報道をする。馬鹿ではないかと思ったものだけれど、そうでもして政権交代させたかったのだろうが、そして現れた宇宙人総理がどうであったか。その次は?コメントさえする気に成らないではないか。いかに扇動した連中の罪の深さが知れようというものだ。そして今もあっけらかんと彼らは報道に従事している。

 北に北方四島、韓国との竹島問題あり、北朝鮮との拉致の問題、そして南に中国がまず狙いを付ける尖閣諸島。そしてこの国の経済状況は悪化の一途。新しい政権が何か一つでも好転させたか。この国の風景を悪くしている元凶は寄せ集めの、何もまとめ切らない、皇室行事より党内優先、売国奴とさえ揶揄される人物の多い集団の現政権にあることは明らかであり、野党自民党も腑甲斐無い。

 橋下氏の情熱の焔があらためて映し出したのは、この国のみっともない政治を巡る風景であった。
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続、この国の風景その1

2011年12月01日 | Weblog
日本という名の惑星

 テレビ東京に「和風総本家」という番組がある。その名の通り、日本の今に残る伝統文化から日本人のものづくり職人の凄腕などを紹介する番組と理解しているが、私は、毎回見ているわけではないので確かではない。外国人が登場する「初めての日本」のようなテーマの時に限ってつまみ食いする視聴者である。

 今年8月には、アフリカ南東部の国マラウイ共和国*1)の最大都市ブランタイヤにある、テレビ放送局MBC取材班4名*2)が、日本紹介番組制作のためやってきた際の模様が放映された。日本の当該テレビ局の「日本紹介番組を作りませんか」という誘いに応じてくれたことによる取材であった。

 『マラウイ共和国での日本車使用率は50%~70%とも言われ、日本の技術力がマラウイ共和国でも認知されている。またマラウイ共和国には、日本が協力して作った道路や有名な橋もあるため、日本の知名度は高い。しかし、日本の食べ物などは余り知られてなく、MBC総力を上げて日本の取材を決めた。マラウイ共和国からは飛行機を2回乗り継ぎ、約30時間かけての初来日となった』。などがまず紹介された。

 『マラウイには海はないが、海のように巨大な湖があり、そこで獲れる魚はすべて少量の油で揚げて食べる。けっして生で食べることはない』。恐らく、淡水魚には寄生虫などの危険があるための先祖の知恵であったろう。そのため『日本人が、魚を生で食べると聞いて驚愕した』という。

 そこで取材班はまず、日本の魚文化を伝えるために築地市場を訪れた。『タコに興味を持ち、魚をさばく様子が見たいと、築地場外市場のお店に向かう』。その取材ではご主人の好意で、スタッフは作り立ての刺身を振舞われる。27歳女性ディレクターであるトーコ女史は『無理だ!』と敬遠する中、カメラマンのウイリアム氏は率先して食し、『醤油の効果を、調理をしたような味に変わる』との絶妙のコメントを残した。

 彼らは、魚市場で見たウナギにも興味を示し、鰻の調理法を取材するため浅草に移動。創業150年という老舗の「行列の出来るかば焼き屋」を訪れ、鰻を焼くところから撮影する。ここの御主人は和風総本家ではお馴染みの人物とのことで、江戸っ子の職人気質。少し怖いと聞いていたトーコ女史は、恐る恐るの取材だった。『料理をどのようにサービスするか出して貰いたいけれど、食べたことのない物だから食べ残すと失礼だから少しでいいの』と。

 しかし、御主人はそんな彼女を一目見た瞬間から気に入った様子で、何でも協力するという気持ちが溢れていた。確かに全編を通じて、この若い女性ディレクターの魅力が番組を引き立てていた。

 築地を出た取材班は表参道を訪れ、様々なファッションを取材すると共に、着物について取材した。お気に入りの刺繍の入った着物を羽織ったマラウイNo.1リポーターのティンプンザ氏は、その着物の値段が2万円と聞いて、いそいそと脱いだ。2万円はマラウイの人達の平均的な年収額なのだそうな。

 その後、日本のモノ作りの代表として江戸切子の工房を訪れたり、ガラスを作っている現場を取材したが、ここでは仕事中に指示されずに働く職人たちに感心したらしい。マラウイでの紹介放送では、『職人たちの働きが日本の経済を支えている』と説明していた。・・・

 ・・・

 翌日、取材のラストカットを撮影するための渋谷では、取材班は道行く人にピースサインを送り、人々がピースを出す瞬間を狙っていた。彼らは、笑顔で迎えてくれた日本人の優しさが今回の取材で一番印象に残り、それを象徴するのがピースサインだったという。

 マラウイで放送された日本を紹介したテレビ番組では。日本を『太平洋の宝石』と讃え、『日本は素晴らしい国です。日本人は平和を愛し、とても勤勉に働きます。彼らは自分の持つ能力を最大限に活かそうとしています。彼らが経済大国であるのは不思議なことではありません』、さらに『豊かな文化と観光地、暖かい人々で満たされている国である』とも紹介している。

 貧しくとも純粋で豊かな感性と知性を持った彼らの見た美しい日本の風景が、何よりピース(平和)がいつまでも続くように、願わずにはいられない。





*1) アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。旧称はイギリス保護領ニヤサランド(Nyasaland、ニアサは湖の意)。首都はリロングウェ、最大の都市はブランタイヤ。アフリカ大地溝帯に位置する内陸国であり、マラウイ湖の西岸にある南北に細長い国。東西の幅は90-161km、南北の長さは900kmに及ぶ。国土はほとんど高原上にあり、マラウイ湖が大きな面積を占める。人口1,528万人(2008年) Byウィキペディア
*2)MBC300人以上の従業員を束ねる最高責任者マロパ氏(38歳)以下4名

本稿は、2011年8月放送のテレビ東京「和風総本家」の「日本という名の惑星」を録画したものから起したものです。誌面の都合上、神戸牛の「すきやき」やステーキを味わうシーン、新大久保でのペットショップ、宿泊先の和風旅館での等々は省略しています。
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