中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

閑話つれづれパートⅡその10

2009年09月28日 | Weblog
柔道と私(5)

柔道に限らないけれど、どんな天才にしても一人で上手くなったり強くなったりできるわけではない。優れた先人の技があり、手ほどきをしてくれた先生、先輩そして練習相手として、良きライバルとしての仲間がいる。

私が就職した工場は創立10年の若い企業で、柔道部も創設されて数年しか経っていなかった。すべてに若く元気があった。創設者であり幹事を務める先輩(23歳)と前年の全国青年大会の重量級個人戦でベスト8に進み、その年の全日本実業団柔道大会の「トヨタ自動車愛知」との対戦では、左体落しで貴重な1勝を挙げた先輩(22歳)が弐段。高校時代レスリングの国体選手であった先輩(26歳)が三段で最高段位。会社に入って柔道を始め、近隣の柔道名門企業の道場への出稽古で強くなった先輩(21歳)と、その先輩といつも一緒の先輩(20歳)が初段だった。等々。

段位はあまり違わなくとも、彼ら諸先輩に入社1年目投げられるだけ投げられた。大外刈、体落し、内股そして背負い投げ。社会人柔道のレベルの高さを思い知らされたものだ。もっともその先輩たちにとっては20歳から26歳の最も脂の乗り切った旬の時期であったこともある。その意味で私は恵まれていた。

先輩達には柔道以外でも学ぶことが多かった。特に先輩の多くは酒が強かった。当時は若者に車などなく、携帯電話もインターネットもない時代だ。お金を使うのはもっぱら飲み屋街であった。遠征試合に行っても実業団の全国大会では流石に遠慮していたけれど、県レベルの大会だと前の晩は宿泊地のバーやキャバレーに必ず行ったものだ。試合を終えて帰って来た地元駅前で「なつかしいなあ」などと、陽のあるうちからまた飲み始める始末だった。私などは後ろからついて行っただけで、その後時代が変わったこともあるけれど、主将や幹事になっても諸先輩方の真似はできなかった。人間のスケールが違っていたように思う。

入社当時の同期では弐段の一人と、初段に二人私より強いのがいた。3人とも軽量クラスで、特に上背は私が3人をかなり上回っていたが、柔道では不利だった。しかし、私は3交代勤務の傍ら仲間の誰よりもよく練習した。街を歩けば、すれ違う人達を頭の中で投げ飛ばしていた。仲間には負けなくなっていった。

そんな私が投げ飛ばせない人に出会う。工場の補修期間に入構していた作業員の中に、両足が足場に吸い付くように立っている男を見とめた。「俺は鳶(とび職人)だよ。若い頃には100mくらいわけなく駆け上ったものよ」と話してくれた。入社当時の社長さんもニコニコされていたけど到底技は懸からなかった。けっして満足がゆくまで修業できたとは今も思っていないけれど、その換わり柔道は私に理を超えた多くのものを授けてくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話つれづれパートⅡその9

2009年09月25日 | Weblog
柔道と私(4)

 日本では、国の隅々にまで、囲碁や将棋の高段者が居る。そして剣道や柔道にも高段の先生は居られるものだ。囲碁や将棋は古来日本人の豊かな感性と創造性、論理性を育んできた。そして武道は体力と精神力を陶冶し、相俟って民族的資質の向上に貢献してきたのではないか。

私が入社した工場を含め周辺には、城下町として古来武道を受け継ぐ先生方や、戦後の柔道に尽力した企業の師範の先生方がおられた。私の工場柔道部の師範は、京都武専のご出身で、戦前は台湾で警察官の師範を務めておられた達人。西隣の市の企業の師範は、柔道師範としてその企業に招かれて社員となられた先生。海軍経理学校に学ばれ海軍時代には、全海軍柔道大会で準優勝するほどの実績を持ち、早くに八段に昇られた猛者。この先生には私は近隣のよしみもあって活法、指圧、古流柔術の手ほどきを受け、柔道の高度な形を教えていただいた。

柔道の形は、初段から昇段試験に必要なため、「投げの形」くらいは一般に教えて貰えるのだけれど、それ以上の形はめったに教わる機会はない。教えられる指導者も居ない。先生には「固めの形」、「極めの形」、「柔の形」、「講道館護身術」や「精力善用国民体育の形」まで教えていただいた。「精力善用国民体育の形」とは、城山三郎「落日燃ゆ」のドラマで広田弘毅首相がやっていた「拳突き体操」を思い浮かべていただければいい。

東隣の市の柔道名門企業には、昭和29年第3回全日本学生優勝大会の決勝戦で、日大の大将を得意の左内股に破り優勝に導き、その年の第6回全日本東西学生対抗では、勝利した東軍の大将を務めた*2)、そんな往年の大選手がおられた。

私が入社して配属された職場に、地元高校で柔道部だったという先輩がいた。小柄だったけれど、がっしりした体躯で、何より極端なガニ股だった。高校時代その工場の柔道場によく練習に行ったそうで、その時に見聞した話を聞かせてくれた。先の学生柔道大会を制した大選手を迎えたその工場柔道部には黒帯が30人ばかりいたそうである。一堂に集まった30人を向こうにまわして、連続して29人までを右の内股に仕留め、最後の一人、大将だけを得意の左内股で投げたという。学生時代には、東京の繁華街を治める親分に見込まれ、バーで飲むのにお金は要らなかったそうな。しかし、練習は過酷で主将であっても、練習をサボルと皆から徹底制裁を受けたという。神永先生やそして現在講道館を率いる上村春樹先生の大学の大先輩にあたる方だ。

その先生は、我々の工場対抗柔道大会には審判等で必ず見えていたが、私の工場師範からすれば大分若かったわけで、しっかりと礼を尽くしておられる姿が印象深い。一度だけ声をかけていただいた事がある。柔道が出来なくなってチームの応援で出向いた試合場で、一言「強かったのにな」と言って下さった。勿論強さの定義はいろいろである。ただ、一生懸命取り組んでいた姿を認めていただいたものと嬉しかった。


*2)工藤雷介著「秘録日本柔道」東京スポーツ新聞社版 昭和50年9月刊
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話つれづれパートⅡその8

2009年09月22日 | Weblog
柔道と私(3)

初段のまま実業団柔道界の片隅に踏み込んだ。そして分かったことは、全日本クラスの選手以外はあまり昇段を目指さないことである。相当に強い連中が、高卒で企業に入った連中だけれど初段のままやっていた。当時はいろいろな柔道大会は体重別ではなく、段位分けが普通だったためもある。団体戦ではチーム5名で合計段数10段以内というような制限がついた。低段位のまま強いメンバーを揃えたチームが有利だったのだ。

西隣の市内の柔道大会では個人戦は初段以下と弐段以上に分かれていた。就職して昇段試験を受けなかった私は、その初段以下の部に出場し昭和43年から45年まで3年連続優勝を果した。その前年までのチャンピオンは、市内企業の体重100kgを超える選手で、その方が転勤で居なくなったこともある。その選手は数年後、転勤先の地区代表として全日本選手権に出場されている。そのレベルの人が初段で試合していたのだ。

一方東隣の市にある柔道名門企業は、県内柔道有力高校から柔道選手に試合をやらせて採用すると聞いたが、その企業の若い選手も段位は大抵初段だった。柔道有力高校で抜群の者が、東京はじめ各地の柔道で名をなす大学に進学して技を磨く。高卒のまま企業に就職した者はその点落ちこぼれに思えるが、その時点の実力で、普通の大学の柔道部で三段を取って卒業した者より強いはずである。入社数年後には、初段のまま大会に出て現役の5段を投げ飛ばした猛者も居た。

入社試験で柔道の試合をやらせるというのは、私の先生(柔道師範)の奥様の話である。「あの会社の道場には練習に行ってはいけませんよ。怪我をさせられます。あの会社は柔道選手に試合をさせて採用するのですから」。豪の者を多く見ておられる先生の奥様からすれば、上背はあっても細身の私がさぞひ弱に見えておられたことだろう。しかし私の入社3年目、再開された近郊工場の柔道大会で私は彼らと同等以上の闘いを演じることになる。さらに昭和45年の西日本柔道大会には、私は主将としてチームをベストエイトに導いた。準々決勝の相手はその大会の優勝チームで、全日本実業団大会でも常勝のチーム。そのチームの先鋒は高卒の初段だったけれど、その後世界選手権軽量級で2連覇を果した当時からすでに有望視されていた選手だった。わがチームの先鋒は、見事な足払いに数秒しか持たなかった。勿論相手は違うが、私だけは5分間戦った。

その年の秋、柔道を断念せざるを得なくなるまでの入社5年間の対外試合の成績は116勝34敗26引分け。勝率.773であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話つれづれパートⅡその7

2009年09月19日 | Weblog
柔道と私(2)

 結局白帯のまま、夏休み瀬戸内海の小島にある他校の分校での合宿に参加した。白帯同士後輩の1年生と炊事番をやった。屈辱の日々にさえ思えた。秋の新人戦にも選手の候補にさえなれず、同期の仲間の試合を柔道場の外から見学した。そして三度目の昇段試験に臨んだ。その頃、偶然に覚えた内股が懸かるようになっていた。大腰といって腰を深く入れて投げる技から変化して、腰を入れたところで、足を相手の股間に跳ね上げると技の効果が倍増することを発見していた。これが自分流の「内股」になった。

 初段の昇段試験も3人戦って2勝が合格ライン*1)。昇級試験のような積み上げはない。その日も1人と引き分け1勝1分け。3人目が勝負だった。ここで得意の内股が出た。勝負を終えて道場の脇に下がって座ったけれど、止め処なく流れる涙と汗を柔道着の袖で幾たびも拭った。ようやく憧れの黒帯になれるのである。ところがである、審判の先生からまた指名があった。再び対戦が組まれたのである。冗談ではない。もう一度試合して負けでもしたら、初段が吹っ飛ぶかもしれない。ここは抗議した。「もう3回試合しました」。ご年配の審判先生は自分の非を咎められたとでも思ったか、猛然と怒った。結局試合はやらされたのだが、これも簡単に勝った。やはり合格する時には、ちゃんと実力が備わっているのである。

 高校のクラブ活動では、6月の総合体育大会が終わると3年生はほとんど練習に来なくなる。けれど私の同期は10人くらいが卒業年の1月まで後輩の練習に付き合った。県警機動隊の4段の先輩が指導に来てくれており、夜遅くまで後輩に付き合ったものだ。我々が練習に参加し続けた効果で1年後輩は、春の県スポーツ祭で準優勝に輝いた。物事にはターニングポントがある。それまで県大会の1回戦ボーイの柔道部が、その後ベスト4くらいまでの常連になったようである。

同期の仲間は自身2段の昇段試験を受ける目標もあったけれど、兎に角みな柔道が好きだった。工業高校では当時夏休み前に就職は決まる。進学のための勉強はなかった。そして目ぼしい仲間は2段になったのだけれど、また私は取り残された。


*1)初二段では、実技試合の合格者に投げの形(手技、腰技、足技)の試験が課せられる。試合に勝つだけでは昇段できるわけではないが、形はほとんどの者が合格するし、仮に不合格でも来月「形」だけ再チャレンジできた。三段では、投げの形の真捨て身技、横捨て身技が加わる。
  1級までは地元県レベルの柔道協会が免状を交付するが、初段以上はすべて講道館から允許される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話つれづれパートⅡその6

2009年09月16日 | Weblog
柔道と私(1)

私が高校に進学して柔道部に入り柔道を始めたことは、昨年の「閑話つれづれ」に書いた。柔道を始めた者は誰もまず黒帯を目指す。黒帯に憧れて柔道を始める人も多いのではないか。兎に角「柔道三段になりたい」。それが当時の夢だった。宇宙飛行士だとか、お医者さん、大実業家、科学者などからはチョット遠い。今の少し増しな少年なら柔道に憧れるにしても「オリンピックで金メダル」くらいは言うかもしれないけれど、良くも悪くも欲はなかった。

当時漫画本の「ダルマ君」という題だったと思うのだけれど、柔道漫画があってそれで柔道に憧れた。相撲は仲間内ではそこそこ強かったけれど、柔道は誰かに習わないと受身ひとつ分からない。当時中学にさえ柔道部はなく、町道場もなかったから高校にあがるまでお預け状態だった。

 柔道の黒帯になるためには、まず1級の昇級試験を受けて合格することから始めなくてはならない。級位者は茶帯を締めることを許される。先輩の2年生には茶帯の人が居た。しかし、当時から茶帯はあまり締めない。黒帯までの期間は短いのが普通だから、わざわざ茶帯を買うのは不経済だった。

 柔道を始めて半年余り、1級の昇級試験に臨むことになった。11月の勤労感謝の日だった。日頃より早く起きてテレビを点けると、突然にジョンFケネディー暗殺のニュースが飛び込んで来た。事件直後のニュースだったように記憶する。全米は勿論全世界に衝撃が走った大事件が、私の柔道のその日のページに焼きついた。

 昇級試験は、兎に角受験者同士3人と試合して、1勝でもすれば合格だった。その後早い時期にこれは改正されて、1勝だけなら3級、2勝で2級、全勝で1級となった。ただ、3級の者は次回受験して兎に角2勝以上すれば1級になれる。2級者は1勝でいい。

 この日は試合に臨み恐れはなかった。払い腰を掛けて相手が踏ん張って堪えるところを大内刈(相撲の内掛けに近い技)や大外刈で倒して寝技で仕留めた。寝技といえば、ある先輩に随分と鍛えていただいた。居残り練習である。ただ、私が2年生になる頃には負けなくなって、勝つまで止めない先輩に、已む無く手を抜いたりしたものだ。その先輩は卒業後一般企業に入ったけれど、柔道がやりたくて警察官になったと聞いた。昨日のことのように思うけれど半世紀近くが経ってしまった。先輩とは卒業後一度もお会いしていないけれどお元気であろうか。

昇級試験は、とんとんと勝って2勝1分けで難なく1級になった。ただ、隣の会場で行われていた初段への昇段試験を垣間みることになり、そこに昇級試験にない殺気を感じ、段違いの強さのイメージが刷り込まれた。2年生になって5月、7月と2度の昇段試験を1勝1敗1分けの成績で落とすことになる。7月にはどうしても合格したかった。同期の仲間の目ぼしい者はすでに黒帯を締めている。夏休みの合宿に白帯のままで行きたくなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話つれづれパートⅡその5

2009年09月13日 | Weblog
柔道

 競技スポーツとしての柔道は、投げ技と固め技のうち、身体に重大な危険を及ぼす恐れのある技を除いたものであるけれど、武道としての柔道にはこれに当身技と活法が加わり、投げ技や固め技の危険とされる技も加わる。活法には柔道整復術も含まれると考えられるし、柔道には種々の型もあって、これらのすべてに精通することは容易ではない。

 一般には若いうちは競技スポーツとしての柔道を練習し修業し、昇段試験等を通じて高度な型を修得する過程で当身技を身に付けてゆく。ただ日々の練習で絞め技において、相手が「落ちる」という状態になる場合があるため、これを蘇生させる初歩的な活法は初期の段階で身に付けておく必要はある。高校の柔道部ではわざわざ絞め落として、活を入れて蘇生させることを趣味としていた先輩がおられた。実に器用に一瞬で絞め落としては、直ちに蘇生させていた。昔は荒っぽい練習で関節を外すようなことも間々あったことで、器用な柔道家は基本的な整復術も自然に身に付けていったと思われるが、現在ではそれは中々難しい。

街中では救急医療体制も整い、また無資格者の施術は避けられるため、特別に柔道整復の学校に通って資格を取る以外施術の練習はできない。競技柔道が強いことは、必ずしも整復術に精通することではない。柔道整復師の資格でも柔道の段位は要らない筈である。しかし、特に昔の柔道の高段者には柔道整復師の資格を持った先生が多かったことも確かだ。私なども子供たちに柔道を教えていた関係もあり、骨折かどうかの診断くらいできるようにと、整復師である柔道八段の先生から、整復師の学校で使うテキストを使って、解剖学から始めてそのイロハを教えていただいた。

 一方狭義の活法は、絞め技または当身技による失神状態を回復するためのものであるが、溺れた人を救命する一般的な人口呼吸法も含まれて、私が講義を受けたものでも7法ある。人工呼吸法に限ってもマウスツウマウスはじめ一人で行うもの3法、二人で行うもの2法の計5法あると聞く。人工呼吸法は夏休み前の学校など、一般的にも講座が開かれており、酸素欠乏危険作業主任者技能講習などでも実地講義がある。
 
 柔道はまさに医療技術の一部まで担ってきた日本の伝統文化である。世界選手権やオリンピックの勝ち負けに関わらず、日本に残したい伝統遺産であることは間違いない。試合では禁止されるような技も含め、投げ技、寝技から当身技、活法までも網羅した柔道大観本の新たな編纂出版が望まれるところである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話つれづれパートⅡその4

2009年09月10日 | Weblog
柔道世界選手権

 衆議院議員選挙戦の後半の期間、オランダのアムステルダムでは柔道の世界選手権が行われていた。先の世界陸上では女子マラソンで銀メダルがあったけれど、柔道でも日本勢は完全に女性上位で、男子は国際大会初の金メダル0に終わったけれど、女子は金メダル3個。特に63kg級の上野選手の技の切れは他を圧倒して、柔道の素晴らしさを改めて世界にアピールしてくれた。

大外刈りは比較的反されやすい技なのだけれど、彼女の低い大外刈りは相手にとっては奇襲を受けたような感じで、気づいた時には仰向けにされているのだ。立ち技から寝技への連携も見事だった。今後世界は彼女を徹底研究してくることだけれど、彼女にとっても目標はロンドンオリンピックのことで、怪我をしないようにさらに精進して貰いたいと思う。

 今回の柔道世界選手権、私は女子では中村選手、男子では穴井選手に注目していた。中村選手は北京では銅メダルだったけれど今度は大丈夫金メダルだろうと予想していた。彼女のようなアイドル性のある選手は、柔道ファン拡大のためには得がたい存在だと思う。穴井選手は日本選手権を制したとはいえ、テレビ映りにしか分からないのだけれど、体力面で若干の不安があった。プロに転向した石井選手のような、外人にも負けないくらいの体力、馬力がないと万分の1秒の油断で持っていかれる危険がある。不安が的中してしまった。

 お家芸の柔道の世界選手権で、男子に金メダルがなかったことは確かに日本柔道界には深刻な問題であろうけれど、発祥国が忘れ去られるくらいグローバル化が進むことこそその発展の証であり、喜ぶべき傾向かもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話つれづれパートⅡその3

2009年09月07日 | Weblog
政権交代で日が落ちて(下)

今回の総選挙では、自民党政治の問題点として、弱者切捨てで一部大企業や富裕層は良くなったが、派遣労働者や母子家庭、後期高齢者に生活保護世帯、中小企業に地方とあらゆるところにしわ寄せがゆき、社会的格差が拡がったこと。官僚主導で官僚は国のためというより自分たちの組織を守るために仕事をしている。これは社会保険庁の杜撰な年金管理や厚生省の薬害問題等に現れている。外交においては米国追従で、非核三原則も守られていなかった事実が隠蔽されている。さらに総理総裁が短期間にその任務を放り投げた。

それらの原因の多くは小泉構造改革による行過ぎた市場原理主義にある。郵政民営化は間違いだった。民営化すればすべてが良くなるようなことを言っていたが、結果は全く逆ではないか。

確かに一部当たっている部分もあるかもしれないけれど、それら批判はほとんどが感覚論で、しっかりした世界情勢分析、国内分析による評価とは程遠いと思われる。郵政民営化はこれからで、その果実はまだ青い。経済が悪くなったのは、アメリカのサブプライムローンに端を発したリーマン・ブラザーズの破綻による金融危機で世界的大不況が到来したためで、小泉元首相の構造改革の所為などではけっしてなかろうに。

国の政治を司ろうという者たちが、曖昧な感情論を政争の具にして国民を煽っていいのだろうか。特に小泉改革なかりせば、日本の現状はさらに深刻なものになっていたのではないかと私などは考えるけれど、多くの政治家やマスコミ便乗型評論家諸氏は咽喉下過ぎればで、少し景気が上向いたところでの小泉内閣終焉とともに、緊縮財政の当然の結果を誇大に振りかざした。未だ国の借金は増え続けているというのに。

小泉構造改革は自民党議員の多くも異議を唱えていた。その理由の多くは彼らの権限の下にあった既得権益の失墜にあることと推測される。郵政民営化に代表されるけれど、350兆円とも言われる膨大な資金が財政投融資に流れ、そのおこぼれは多くの政治家や一部官僚OBに流れていたことも想像に難くない。

実は、1999年に財政投融資改革が始まり2001年には郵便貯金の財政投融資への預託は禁止されていた。近年財政投融資の額は相当に削られていた。それでも財政投融資の闇にせまった代議士が、暴漢に襲われて殺害される事件が2002年に起こっている。勿論関連は不明で、こちらも事実は闇の中である。

前回の郵政選挙では、民営化反対自民党議員の離党が相次ぎ、その内紛の後遺症も今回の選挙における自民党の大敗につながったことは間違いない。従来の族議員官僚支配政治を政府主導に切り替え、財政健全化を目指した小泉改革は、内から外からの目先の言い分によってほとんど崩壊した。民主党政権は脱官僚を合言葉に政治家が官僚を統治すると喚いているけれど、結局多くの族議員を新たに誕生させ、「天の声」を方々に生むことになるだけではないのかと思ってしまう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話つれづれパートⅡその2

2009年09月04日 | Weblog
政権交代で日が落ちて(中)

 近くのいろいろお騒がせの国の美女軍団なるものが、一時いろんな機会に評判になりましたけれど、それを思わせる何とかガールズ。中にはそこそこのキャリアもいることで、いちいち経歴までも見ていないけれど、ベテラン議員を叩き落してはしゃいでおられるようですが、真にお国の為になるのでしょうか。選挙に勝つことと政治が出来ることの相関性はかなり低いことは、歴代のタレント泡沫候補で懲りていることなのに。先の参議院選挙では「○の虎退治」などと馬鹿なマスコミガ囃し立てるものだから、有為の人材を国会から追い出して、その反省もこの国の選挙民にはないようです。

 確かに自民党も賞味期限が切れたのでしょう。しかし現在の選挙で、外交・安全保障、日の丸、靖国といった国体を守り日本人の民族的伝統を守る部分が、ほとんど票につながらず、子供手当て、高速無料化そして農家戸別所得補償などの現金バラマキという国民を舐めきった選挙対策が見事に功を奏すところは、マスコミに乗せられた、加えて拝金主義に堕してしまった民意の衰退としか言えません。日の丸、靖国などと持ち出せば「右翼だ」と言われてしまう始末です。

 小沢前代表の「天の声」問題も全く解明されていません。鳩山代表の故人献金疑惑も闇の中です。明らかに不正を行っているから問題視されている。そんな人たちが率いる政党にこの国を任せていい訳は無いのだけれど、勝てば官軍とはよく言ったものです。

 先般韓国の金大中元大統領が亡くなられた折、北朝鮮から弔問団が韓国を訪問したけれど、その代表の方が素晴らしくいい顔をされていたのに驚いた。北朝鮮の政治体制や、拉致の問題、核やミサイルなど、やって来たことやっていることは顰蹙ものであることは論を待たないのだけれど、その上層部で政治に当たられている人の日々の覚悟を見る気がした。

 それは幕末の頃、日本の侍が欧米を訪問した折、その凛々しさから賞賛を浴びたことに似ているようにさえ思った。当時の日本はまだ封建社会でしかも貧しく、文明で欧米に大きく水を開けられていたけれど、政治を司った武士階級は厳しく己と対峙する精神があったのではないか。

 しかるに現在のわが国の政治家にそのような精神は伺えない。ほんとうにいい顔の方は少ない。鳩山代表は選挙演説で、「マニュフェストが実現出来ない時は潔く身を引く覚悟で取り組みます」のように言われていたけれど、個人資産が100億円近いといわれる大富豪が、総理にまで行き着いて後に政治家を辞めたとしても、何の痛痒があろう。漢字を読めないと揶揄された総理がおられたけれど、責任という言葉の意味を解しない総理もこの国には誕生する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話つれづれパートⅡその1

2009年09月01日 | Weblog
政権交代で日が落ちて(上)

 4年ぶりに行われた衆議院選挙は、事前の世論調査からの予想通り民主党の大勝に終わった。麻生首相をして「ケタ違いのバラマキ」と言わしめた、選挙目当ての新手の選挙買収に国民はやっぱり乗っかった。いや私でも二人の子供がまだ小さければ、何の苦労もなしに急に月に5万円も収入が増えるとなれば、主義主張は一度棚上げにして、やっぱり民主党に投票したかもしれないから偉そうなことは言えないけれど、それってほんとうに法に照らして、法が無いなら道義的に問題ない選挙公約なのだろうか。

「一度代えてみる」というのも、今回民主党支持者の言い分だったようだけれど、それはあまりに無責任な投票行動ではないのか。天下の公党なのだからどちらに転んでもこの国のかたちに変わりはないだろうという、お上信奉の強い国民性ならでの発想だろうけれど、国家の根幹に係わる安全保障、教育のところに、全く考え方の異なる人々が屯する政党が、天下の公党と言えるのかどうか。しかも先々の代表選挙でも示された一部の強面の恫喝で、何も言えなくなる議員ばかりの政党である。

高速道路無料化も問題は大きい。受益者負担の考え方が消える。用も無いのに高速道路に繰り出す輩のために、高速道路が暴走危険地帯になることはないのか。当然渋滞はさらに多発し、良かれと思われた物流会社のトラック輸送にも支障を来たすことは、休日1000円でさえ問題になった。ガソリン税の撤廃とも併せて、二酸化炭素排出の増大も懸念される。

ただでさえ借金800兆円以上といわれる財政状況の中で、それらがほんとうに優先順位の高い施策だとはどうしても思えない。無駄を排して、それらの予算が捻出できるというなら、もっとお金の使い方はありそうなものを。やっぱりあくまで選挙目当ての哲学無き政策なのだ。

弱者の味方は誰も反対できないけれど、それは一歩誤れば国民の自立心を損ない、何でも行政に頼り、叶わねば文句をいう怠け者国家を形成する。民族は活力を失い侵略者の横暴に手も足も出せない精神構造に追いやられる。それを画策している隣国があり、その先棒を担ぐ輩がかの政党に居ないことを願う。

原子力潜水艦を日本近海に配置し、ガス田開発と称して領海線を破ろうとするかの国は、さらに軍事費を増大させ、航空母艦も建造するという。公害の垂れ流しはすでに九州地方に光化学スモッグをもたらし、黄砂には今や多くの有害化学物質が含まれと聞く。そんな国がお隣さんなのだ。同盟国アメリカとの対等な関係はいいけれど、歴史認識をかの国と共有し、ウイグルやチベット問題や公害問題には口出ししない。それで、首相が靖国に参拝したら文句を言われる。かの国とは対等でなくていいのですか。まあ元々靖国に行く気はないからいいのですか。          
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする