中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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プロジェクトZ第20回(最終章)

2008年05月30日 | Weblog
プロジェクトZ

  プロジェクトZの‘Z’はチーグラー触媒のZである。カール・チーグラー博士が発見し、その種をI社長が持ち帰り、K博士に至るM社研究陣が大木に育て上げた。青年は23歳から35歳までの12年間に子木がジャックと豆の木のように一晩で大きくなる様を見ることができた。振り返ればまさに世界に誇れる一大プロジェクトであった。

  しかしそれは、青年が柔道で網膜剥離にならなかったら体験し得なかったものかもしれない。寮での話や、研究室閑話、スポーツ少年団のことも、それらがなければこのプロジェクトは青年の中で成立しない。風の中のすばるや草原のペガサス、街角のヴィーナスにさえなり得はしなかった。

  青年は、網膜剥離を乗り越えて寮友会を変え、職場を変え、町の子供たちに武道の心を伝えようとした。しかし転勤となってかの地を離れたことでそれらの痕跡は消え、忘れ去られたかに思えた。

  転勤の時、筆者の長女は小学校入学の時で、息子は2年保育の幼稚園入園の時であった。長女は筆者が子供たちに柔道を教えていることを良く知っており、自分から見れば大きなお兄さんたちに柔道を教える筆者を誇りに思っていたようだ。息子はまだそのことを理解する歳でも、また関心もないと思っていた。その息子が転勤から3年近くもたった小学1年のおり、已む無い病で入院・手術を受けた際、付き添っていた筆者を主治医に「お父さん柔道の先生だったんだよ」と紹介したのには驚いた。神がもたらした筆者への何よりの報酬であった。

  長女はその後桐朋学園大学にピアノを学び、子供たちにピアノを教えている。息子は東京学芸大付高に学び東京大学大学院を経て、先端技術者としてさるベンチャー企業にお世話になっている。青年の残した足跡は忘れ去られても、目に見えぬ襷はしっかりと受け継がれていたのである。

                        プロジェクトZ 了

プロジェクトZ第19回

2008年05月27日 | Weblog
感性を育むもの

  亀井勝一郎氏の「現代人生論」(株)青春出版社は、初版昭和40年1月15日で、筆者が購入した昭和41年1月1日版は、第44刷である。1年間で44刷。当時の若者がいかに真摯に人生を考えていたかが伺われる。読者の多くが日本の高度経済成長を支えてきた企業戦士、無名の地上の星たちであったかもしれないと思う。高度経済成長と無縁ではないようにも思う。

  その「現代人生論」の中に、「教養」について述べられている章がある。氏は理想の教養人に、あらゆる意味での熟練者をあげておられる。熟練性こそ教養だと言われているのである。筆者には、この教養を得るための熟練に至る訓練の繰り返しが、すなわち感性を育むものではないかと思える。換言すれば、あらゆる訓練は努力は感性を磨くためにあるのではないか。
  
  僅か9歳の年、小学校を中退し母親と別れ大阪に奉公に出た松下幸之助氏が、幾多の苦難を乗り越えて経営の神様とまで言われる人になられた。プロジェクトXに登場する日本ビクターVHS開発試作機に対峙した幸之助氏は、その説明を聞きながら試作機に顔を近づけたといいます。頬ずりしてビデオに問いかけるようだったとあります。昭和50年の9月のことです。その後、開発責任者高野氏の「幸之助氏はえらい人だ、えらい人だ」と何度も何度も奥様に言っていたとの挿話に繋がります。

  感性を育むものとしてもう一つ、良いものにいかに触れるか、見るかの体験を挙げたい。優れた人、素晴らしい芸術、心癒される風景でもいい。恋愛でも友情でもいい。なるべく若いうちに良いものにしっかりと接することが重要だと言われている。

扇谷正造氏は、著書「君よ朝のこない夜はない」昭和59年講談社版の中で、教養についてズバリ「真の意味における教養というものは、女性にとっては男を見る目、男性にとっては女を見る目ということにつきる。」と述べておられる。それはすなわち教養とは優れた感性だと言っているのではないか。



  亀井勝一郎(1907年-1966年) 文学評論家、執筆家、菊池寛賞受賞、芸術院会員
扇谷正造(1913年-1992年) 評論家、編集者(週間朝日編集長)、ジャーナリスト
                 菊池寛賞受賞
 この稿は、松下幸之助著「道は明日に」昭和49年毎日新聞社版および
 NHKプロジェクトX制作班編「プロジェクトX 挑戦者たち1」平成20年幻冬舎版
  も参考にさせていただきました。

プロジェクトZ第18回

2008年05月23日 | Weblog
コンピテンシーモデル

  コンピテンシーとは、高い業務成果を生む行動特性のこと。その行動特性をモデルにした人事評価手法がアメリカで開発され活用されていると聞く。K研究員(のちの博士)の研究グループがなぜ高い業績を残せたのか。ひとつのコンピテンシーモデルとして私見を述べたい。

1.高い理想、あくなき挑戦

    高性能ポリエチレン触媒の開発に成功した時、K研究員らが手放しで喜んでいたかと言えばそうでもなかったように感じる。また会社もせいぜい研究所長賞程度で済ませていたようだ。彼らには高分子の分子設計を自由に行えるような触媒を探求し続ける高い理想があった。

  2.簡潔な目標

    難しいことをより難しく考えて悩むのが一般的である。K研究員などは、難しい理論は後回しにして、兎に角このような触媒が欲しい。というしっかりした目標設定の上に、補助者にも分りやすい指示を出すことで定評があった。

  3.衆知を集める

 研究者が考える人、補助者は確かな実験を行って間違いの無いデータをレポートす
ること。これが一般的であり、知識量からしてそのような分業システムが効率的と考
えるのが一般的。しかし、K研究員の研究チームは、ある時期以降ほぼ全員がブレーンとなって活動した。補助者の裁量を大幅に容赦し、いいところはどんどん取り入れる懐の深さがあった。

M社の研究所では、当初から高卒の補助者に対しても高いレベルの仕事を要求し、専門教育に力を入れていたことも事実である。高卒者といえど英文の専門文献を読みこなす者も多かった。そのような企業風土がM社のその後を支えて来たように思う。

  4.エコノミーな研究活動

    余分な物は買わない。兎角研究とはお金の掛かるものとして、設備から身の周りの
ものまで充実させることが、研究成果に繋がると考える向きがある。その考えを必ずしも否定はしないけれど、一種の迷信のような気も筆者にはする。少々不便をしているくらいが工夫も生まれ、ハングリー精神も維持できる。K研究員の研究チームは質素であった。残業は少なく時間内によく働いた。考えることは会社でなくても出来た。

  これらの4項目に加えて、研究チームメンバーの感性が優れていたであろうことは言うまでもない。誤解の無いように補足させていただくけれど、優れた感性によることと勘に頼るということは次元が異なる。勘とかひらめきも感性の一部ではあろうが、それらは感性の1発露に過ぎない。

プロジェクトZ第17回(全20回)

2008年05月21日 | Weblog
世界への触媒

  昭和47年、若かりし日のK博士(K研究員)が発明した高性能チーグラー触媒は、直ちに実用化され従来の触媒系から切り替わっていく。触媒が変われば、生成するポリエチレンの性状も変化するため、社内各部署でそれぞれ相当の苦労があったことは事実である。しかし、その苦労も新触媒があってこそであり、従来通りを踏襲しておればいずれ企業は沈没する。

  新触媒の現場化のため、K研究員は奔走する。その間、青年はさらなる触媒開発目標を指示されただけで、日々の実験はほとんど自分で考えてやるようになる。そして、成果を出す。周囲の研究者、補助者もその姿に動かされる。補助者は単なる実験者ではなくなってゆく。研究室全員が考える集団となる。

  その後M社の触媒開発パートナーなったヨーロッパの業界の超ブランド企業の研究所では、研究者を頂点に、実験計画者、実験者、実験監視者、器具洗浄者のように階層的に人が配置されていたと聞く。青年たちの研究室ではこの階層が全く無いに等しかった。すべての研究工程を研究補助者一人で行うこともあった。そんなことが、人員数で10倍規模のブランド企業と対等以上に渡り合えた要因ともなった。

  青年はポリプロピレンの触媒合成法の改良を指示される。M社のポリプロピレン用高性能触媒はすでに実用レベルにあったが、合成過程に物理的処理が必要であった。これをすべて化学的処理で行い、さらなる性能向上を目論んでいた。青年は先のK研究員からの指示で合成したポリエチレン高性能触媒の製法をポリプロピレン触媒にも応用した。青年が研究所に異動して5年目、昭和50年のことだ。その触媒自体は直接実用化まではならなかったが、青年をセカンドネームとする海外26カ国特許となり、開発パートナー企業の目にとまり改良が加えられる。その改良処方の応用によって新たな触媒開発の方向性が生まれ、その成果の上にK研究員チームの緻密な実験力と相俟って、世界に冠たるポリプロピレン用高性能チーグラー触媒が生み出される。

  これらの成果は、ポリエチレンやポリプロピレン製造コストの大幅な削減と環境負荷の低減をもたらし、M社に技術輸出によるロイヤルティと触媒販売による収益をもたらし続けた。そして20年後の触媒科学国際シンポジウムへと繋がったのである。

プロジェクトZ第16回(全20回)

2008年05月18日 | Weblog
研究室閑話

  青年が研究所に異動した当時、ポリエチレン触媒の研究室の職場雰囲気は、お世辞にも良い状態ではなかった。研究者と補助者の部屋は区切られ、それぞれが自分の任務を黙々と果していた。飲み会をやっても歌さえ出ないと言われていた。

  そこに異物が紛れ込んだ。実験は下手な癖に自信満々で、上司の留守をいいことに好き勝手に実験を行い、大声で話し歌謡曲を放歌する。傍目には鼻つまみにさえ思えるそんな青年が、職場の空気を一変させる。

補助者7名の部屋で休日にドライブを企画する。そこに青年の一工夫が入る。野郎ばかりで遊びに行っても楽しくないので、近隣の職場から女性を勧誘してくる担当は人事係。昼の食事は現地で自炊することとし、それらの準備を行うのが資材係。会費を徴収するのは会計係。という風に会社組織に仕立てたのである。業績を上げた係の担当者は、係長から課長、部長、取締役と出世していくシステムも、暗黙のうちに当然のごとく青年の手により運用された。社内人事権は青年にあった。社長には部屋の最長老になっていただいた。勿論この会社にお金となる収益はない。1円の給料が支払われるわけでもない。出世したからといって、権限が増えるわけでもない。それでも業績を上げ評価されることは、バーチャルな世界と知りつつ何故か楽しかったのだ。若かりし頃のK博士ら大学出の研究者の多くも、関連会社社員だ、業者だと言われながらこれらの行事に積極的に参加してくれた。本気と冗談と遊び心の曖昧な隔たりをみごとに認識してくれる仲間にも恵まれていた。

  7名ではじめた遊びの会社は、職場の雰囲気を明るく変えて10年近く存続し、職場旅行の盛り上がりにも貢献する。何よりそうした職場の活気は当然業績にもつながり、プラスのサイクルが後々までも回り続けた。

プロジェクトZ第15回

2008年05月16日 | Weblog
寮友会のその後

  寮友会は、寮生活を寮生自身がより良くしていくための自治会であり、会長はその纏め役である。寮生の希望を集約して会社に伝える役割もあった。会長を補佐するために5~6名の委員も選出される。青年が会長になって第1回目の委員会では、寮友会解散論まで出た。生活の向上やマイカーの普及は、連帯感を削ぎ個人主 義に傾くそんな時節であった。

  青年は、毎度寮の食堂の掲示板に自筆の意見書を掲示した。自分たちが何のため にこのような活動をしているのか。やはり同じ釜の飯を食う仲間として、今を共有 する必要があるのではないか。青年の熱意は徐々に寮生の多くに浸透していった。 寮委員からの口コミもあった。人事課長との話し合いの席で、会長は身を賭して主 張すべきを主張したと。特に青年が会長になった年に入寮していた最も若い層は鋭 敏に反応した。諸々の寮友会の行事に率先して参加してくれた。大先輩からも、よ くやっているというお褒めの言葉を直接いただいたこともある。寮友会は往年の活 気を取り戻した。

  青年は1期1年で会長を辞したが、その1年後寮友会始まって以来と思われる会 長選挙が行われた。青年が苦しみながら搾り出すようにして訴えたことも、現れた 結果だけ見れば周囲には楽しくにさえ映ったようだ。何はともあれ、後に続く者が 続々と出てくることは、期せずしてではあるがその先導者となって、これに優る喜びもなかった。

  青年は喜びを得たけれど、その成果は青年の為したものだったのだろうか。青年に対して、「君しかいない」と断言した根拠は聞いてこそいないけれど、そう言えた先輩会長の感性が為した成果ではなかったか。その感性に感服する。

プロジェクトZ弟14回

2008年05月13日 | Weblog
研究補助者として

  昭和46年6月、青年はM社K博士の若かりし頃の同じ研究室に異動した。高性能ポリエチレン触媒開発チームに属することになる。

  当時のM社の研究所では、大学の主に修士課程修了者の研究者に、通常工業高校卒の補助者を付けた。補助者は研究者の指示を受けて、正確な実験を行うことが任務である。青年は高校を卒業後化学実験には5年のブランクがあった。しかも元々アバウトな性格である。製造プラントから研究所に異動になる際、プラントの先輩からその点を危惧した言葉を聞いたけれど、青年には先輩からの愛惜の言葉程度にしか受け止めていない。

  確かに青年の実験精度は相対的にそれほど良いものではなかったかもしれない。元々M社は高卒とは言え地方の工業高校からトップクラスを採用する。当時の工業高校はまだ公立中学の成績上位者を集めていた。その中の精鋭を研究所に配属する。5年も現場をうろついていた青年とはレベルが違った。

しかし、人間には付いて回る運というものがある。若かりし頃のK博士にも運気があった。後で考えれば重要な触媒合成実験を青年に託した。後の大博士の業績を運と呼ぶのは、あまりに不遜とのお叱りを受けるかもしれない。しかし、運こそその人の努力の集大成であり、並み居る実業家の多くも運を重視する。運の背後に感性がある。「お前がやって出来た触媒だから現場化が容易だった」。青年は周囲の実験者達からそう揶揄されたけれど、神がたまたま偶然に青年を選んだとしたら、後に続く成果は生まれていない。

プロジェクトZ第13回

2008年05月10日 | Weblog
柔道スポーツ少年団

  同じ時期、青年は町の体育協会の幹部である同じ会社の大先輩から、町にスポーツ少年団が結成されるにつき、その指導員をとの要請を受けた。二度と柔道着を着ることはないかもしれないと悲嘆していた青年に、小学生相手の新たな柔道復帰の道が開けた。青年の心に強い光が差し込んで来た。

  少しして、テレビの桜木健一「柔道一直線」が大ブレークした。町の柔道少年が急増する。青年は一人ひとりに柔道着の着方から帯の結び方を教え、体育館の床に畳を敷きまた収納する作業までをこなした。ボランティア活動という言葉が今ほど定着していなかった当時、そんな青年の活動を、期せずして直接視る機会に出くわした会社工場幹部から、甚く評価されたりもした。

  青年の若さは子供たちにも魅力的である。休みの日には子供たちが幾たびも青年の寮に押しかけたりした。ある卒業生の母親からは英語講師を依頼された。中学生になった息子は英語が苦手で困る。先生の指導ならば必ず喜んで英語を勉強するようになるという。しかし、これはお断りするよりなかった。国、数、理、社なら兎も角、外国語は苦手中の苦手であったから。

  子供たちへの指導は23歳から転勤でかの地を離れる35歳までの12年近くに及んだ。しかし、思えばいやなこと悔いることも多々あった。ボランティアがために協力者は拒まずの町や青年の姿勢が、初心者程度の技量の指導員も生んだ。青年の柔道とて未熟であった。そんな自分が指導を続けたことは、良いことだったのか振り返ってみれば疑問も湧いた。所詮自己満足に過ぎなかったのではないかと。ただ、子供たちに日本の武道の心の幾許かでも伝えたかった。その一心は紛れもない事実であったのだけれど。

プロジェクトZ第12回

2008年05月08日 | Weblog
一筋の光(独身寮の親睦会)

  青年が退院復帰して間もない頃、青年の住まいである会社の独身寮の親睦会会長が青年
の部屋にやって来た。2年先輩の親睦会会長は言った。「今、親睦会(寮友会)は窮地にある。次期会長を任せられるのは君だけだ。」

 青年が入寮した当時、すなわち入社した昭和41年当時、寮生所有の所謂マイカーは寮に3台しかなかった。3%の乗用車保有率であり、しかもすべて軽乗用車(当時は360cc)であった。比較的高賃金であった財閥系大企業の独身貴族達でさえその程度であった。それが、日産サニー1000、トヨタカローラ1100と続々と大衆向け普通乗用車が市場に送り出される従い、急速に乗用車が一般家庭にも普及した。青年が病に伏した昭和45年には、日本各地に公害問題が噴出する一方、交通事故死亡者もピークに達し、交通戦争*4)の造語を生んだ。日清戦争の戦死者が1万人程度*5)であったが、交通事故死亡者が年間で1万人を越えた。その犠牲者に若者が多かったことも戦争と呼ばれる所以となった。

 寮生の楽しみは、仲間との飲み会、夜のネオン街、麻雀やパチンコからマイカーによるドライブにその一部をシフトさせた。寮友会の親睦会行事などすでに時代遅れになっていたのだ。会長を任せられるも何も、会長に成り手もなかったのかもしれない。

 青年は、以前寮友会の委員は1期(1年)務めたことがあった。しかし、先輩会長から次期会長の要請を受けるまで、寮友会会長など夢にも思わなかった。しかし、乞われてみれば何か必然と思えた。自分でも自分しか居ないのではないかと思えた。暗闇を波に揉まれて進む小舟は一筋の光を見つけた。


     *4)交通戦争は正確には1955年~1965年当時に広まった言葉
     *5)日清戦争(1894年7月~1895年4月)10ヶ月の死者は、ある統計によ
れば約1.3万人とある。

プロジェクトZ第11回

2008年05月06日 | Weblog
時代

 チーグラー触媒特許の導入をI社長が決断した昭和29年(1954年)とは、筆者ら団塊世代の先頭集団が小学校に入学した年である。まだズックなどは普及しておらず、下駄をはいて通学していた。百万長者と言えばお金持ちのことで、100万円もあれば豪邸が建てられると聞いていた時代のように記憶する。家庭に水道もなく、ガスも無く、白熱電灯やラジオがある以外は江戸時代とさして違わない生活ではなかったかと思えるほどである。

 最近幻冬舎からNHKプロジェクトX制作班編「プロジェクトX-挑戦者たち」の文庫本1、2巻が刊行されている。その第1話は、富士山頂に気象レーダーを建設する話で、完成が昭和39年(東京オリンピックの年)9月の物語である。この建設予算が2億2,000万円とある。I社長の決断したチーグラー特許の独占契約料4億3,200万円がいかに莫大な金額だったかが伺われる。因みに昭和29年の国家予算は総額1兆円とある。

 昭和29年の出来事を蛇足ながら付け加えれば、米国がビキニ水域で水爆実験を行い、第五福竜丸が被災した年であり、日本各地に放射能の雨が降った年。また陸海空3自衛隊が発足した年であり、当時、世界の海難事故史上タイタニック号沈没(1912年)に次ぐ規模の青函連絡船洞爺丸(3,898t)遭難が発生した年でもある。年末には第5次吉田内閣が総辞職し、鳩山一郎内閣が成立している。

 このような時代、己の感性を信じ日本の高度経済成長の扉を力強くこじ開けた男が、化学業界にもいたのである。



 この稿は、毎日新聞社版「戦後日本経済史」1993年エコノミスト創刊70周年[臨時創刊号]を一部参考にさせていただきました。