中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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石油化学工業第9回

2013年02月25日 | Weblog
立体規則性

 私がポリエチレン用触媒の研究室での仕事を始めた当時、隣の研究室ではプロピレン用触媒の改良研究が行なわれていた。ポリプロピレンの製造では、脱灰と共にアタクチックポリマー(立体規則性でない)を除去する工程が必要であった。無脱灰化に優先して脱アタクチックポリマー(脱アタ)工程をなくすため、高立体規則性を得る触媒の開発に注力していた。

 ナッタ博士の三塩化チタンによる立体規則性ポリプロピレンといって、そのままでは実用レベルのポリプロピレンは得られない。工業的にはアタクチックポリマーを除去するという工程を設け、敢えてモノマーロス、すなわち歩留まりの悪さを容認するしか方法がなかったのである。

 エチレンと異なりプロピレンは、エチレンにメチル基が一個ぶら下がっている。このメチル基がポリマー中に規則正しく並ぶ(立体規則性を得る)ためには、プロピレンモノマーが活性点であるチタンに接触する際に、同じ方向から入り続ける必要がある。三塩化チタンは表面の凹凸によって、プロピレンモノマーの侵入をメチル基のぶら下がっている逆の方向に規制出来たので、立体規則性ポリマーを得られたが、どうしても凸部分のチタンに触れたプロピレンモノマーは不規則なアタクチックポリマーを生成させるのである。

 この対策として、酸化エチレンの選択率を上げるために、インヒビターを投与していたように、触媒毒を少量添加することで、触媒活性は犠牲にして凸部分のチタンの活性をなくすという方法が取られていたが、未だ十分ではなかった。

 勿論、三塩化チタンの改良に留まらず、ポリエチレン用高活性触媒の知見も取り入れながら、高活性でしかも立体規則性に優れた触媒の開発も進めており、その後チーグラー触媒系の研究は同じ研究室で行うようになり、私もポリプロピレン用の触媒に関わることになる。  

 現在も使われていると思われるポリエチレン用の高性能触媒がラボで最初に合成されたのは昭和48年5月。翌年の5月には、この触媒を使用した新製造技術の開発発表がされている。同時期ポリプロピレン用高性能触媒も課題を残しながらも実用化レベルに達していた。

 ここら辺りの話は、このホームページの最初のコラムである「プロジェクトZ」に書いた。2008年4月から5月の20回に亘り掲載しているうちの9、10、11、14、17回が該当する。今回繰り返している部分もあるが、記事一覧からぜひ検索していただきたいと思う。
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石油化学工業第8回

2013年02月22日 | Weblog
連続重合と無脱灰プロセス

 ポエチレン工業化の初期は、実験室と同じバッチ重合(回分式)であり、重合終了後は都度手作業で内部に生成したポリマーを採りだし、重合器内部を洗浄して次の重合に備えた。人手は掛り環境負荷も大きく、これを連続化する検討が触媒改良と並行して鋭意進められた。そのプラントは連続装置ということで、Continues ProcessでCPプラントと名付けられたが、開発段階では社内でCrazy Process(クレージープロセス)と呼ばれていた。触媒やモノマーを連続フィードし、ポリマーパウダーのスラリーを連続的に抜き出し、次の脱灰工程に送る。今からみればそれだけのことだけど、何でも初めては大変で、周囲からは「できるわけない」と思われていたほど、完成までには格段の苦労があったようだ。

 研究室での触媒改良の大きなターゲットは触媒の高活性化で、これによって脱灰工程をなくす、すなわち無脱灰プロセスにすることであった。そのヒントは酸化エチレンの銀触媒同様に担体を用いることにある。個体の三塩化チタン触媒は有効に働くチタンが限られているため、チタン単位当たりのポリエチレン生成量が少ない。担体表面にチタンを分散することで、チタン単位当たりの効率を飛躍的に上げることが出来ると考えたのである。

 この担体の探索とその合成条件の研究によって無脱灰を可能にする高性能触媒が生まれた。しかし担体上のチタン担持量があまりに少なかったため、スラリー重合で得られるポリエチレンパウダーの嵩比重が低く、反応器の効率が悪いだけでなく、スラリーの流動性が連続運転できないほど悪かった。

 対策として、ポリエチレンの溶融重合があった。反応器の温度をポリエチレンが溶融する温度まで高温にすれば、スラリー重合のようにパウダーの嵩比重を問題にする必要もなく、活性的にも有利である。私が研究室に転属になった(昭和46年6月)時期すでにこのプロセスは完成しており、このノウハウを基に、米国の有力企業と合弁で米国に会社を設立していた。

 当時の研究課題は、担体付きの高活性触媒で生成するポリエチレンの分子量分布を大きくできる触媒の開発。新たな担体やその組み合わせを変える探索研究を中心に検討が行われていたのである。

 結局、重合器を多段にするなどプロセス面からの対策で分子量分布を制御できる見通しが立って、触媒改良からのアプローチは中断された。そんな中、米国有力企業との共同事業は、米国の独占禁止法に抵触するとか何とかで事業は継続できないことになった。技術が流出しただけの大きな損失を被り、担当役員は降格され、間もなく退任に追い込まれたようだ。現代、かの国との間には珍しくない出来事であろうが、結果として1970年代の米国でも後から自国の法律を盾に契約を反故にするようなことが行われていたことになる。もっとも当時の真相は知る由もない。

 溶融重合の分子量分布の制御に目途が立って、我々のターゲットはスラリー重合の無脱灰化を達成する触媒の開発に向かった。触媒活性を飛躍的に向上させることと、生成パウダーの嵩比重をこれも実用レベルに向上させる必要があった。手掛かりは溶融重合に使用する担体付き触媒であり、この改良に挑んでいた。



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石油化学工業第7回

2013年02月19日 | Weblog
続、チーグラー触媒

 『チーグラー法とは、アルキルアルミニウムと四塩化チタンを触媒としてポリエチレンをつくる方法で、これはチーグラー博士が1929年(昭和4年)にハイデルベルク大学で始めた有機リチウム化合物の研究に端を発している。博士はその後も有機金属化合物の研究をつづけ、1949年(昭和24年)、アルキルアルミニウムが約100℃でエチレンを付加してしだいに炭素鎖を形成し、高級アルキルアルミニウムを生成することを発見、さらに1952年(昭和27年)には、周期律表の4・5・6A族の遷移金属化合物*10)とアルキルアルミニウムの組み合わせで、常圧でポリエチレンが生成することを発見し、この結果を全世界に特許出願したものである』。

 私がポリエチレン触媒の研究室に転属になったのは、昭和46年の6月であり、チーグラー触媒の研究(工業化、改良)を開始してすでに15年が経っており、初期の苦労については全く知らない。社史によれば、もともと「チーグラー特許を購入したのは三井化学であり、三井石油化学工業は設立後間がなく、研究者も設備もなかったため、三井化学の技術陣がこれにあたり、パイロットプラント実験を経てチーグラー法ポリエチレンの工業化ノウハウを確立したとある。このノウハウを三井石油化学工業が三井化学より3億円で購入して工場建設に間に合わせ、昭和33年4月から三井化学を通じて販売を開始していた」とある。

 チーグラー触媒はアルキルアルミニウムと四塩化チタンの組み合わせというけれど、両者を反応させれば四塩化チタンは還元されて三塩化チタンとなる。前もってこの三塩化チタンを合成しておき、重合時にはそれを使用する方が、生成するポリエチレンパウダーの嵩比重が高く(低いと大きな反応器を必要とする)、処理のハンドリングも良いなどということであったのであろう、初期の段階から三塩化チタンが使われていたようだ。

 ポリエチレンに限らないが、高分子化合物は一部の例外を除き、個々の分子の分子量が異なった混合物で、分子量はその平均値である。平均分子量の目安として、簡易的にポリマーのMFR(メルトフローレシオ)*11)を測定して相対的に表すが、工業化にあたれば、これを現場でコントロールする必要がある。兎に角初期段階では、触媒の構造変化でMFRをコントロールしようとしたらしい。これは徒労に過ぎた。反応器内に水素を添加してその分圧でMFRが制御できたのである。このことを米国か何かの特許で知り、ロイヤリティーを払う羽目にもなったらしい。

 個々の分子の分子量が異なるということは、同時に合成したポリエチレンもその合成条件によっては分子量の分布状態が異なるということである。仮に平均分子量が同じでも分子量分布の違いによって、物性が異なり、成形性に差を生じるため、この分子量分布の制御も触媒の構造の違いで試みた。こちらは、私が転属になった研究室の成果として、三塩化チタンを得る際に使用するアルキルアルミニウムの違いによって、また、重合時鼻薬を添加することによって制御を成功させていた。

 しかし、工業化は成功していたものの、一定のポリエチレンを得るためには相当量の触媒が必要で、相変わらず出来上がったポリマーはコーヒー色(触媒単位当たりのポリエチレン生成量が少ない=触媒活性が低い)で、ポリマー中から触媒を抜く脱灰という工程が必須であった。






*10)主にTi(チタン)、Zr(ジルコニウム)、V(バナジウム)、Cr(クロム)、Mo(モリブデン)を指すものと思われる。TiとVがチーグラー触媒として実用化され、Crはフィリップス触媒、Moはスタンダード触媒としてそれぞれポリエチレンを生成する(但しこれらの触媒は、30気圧程度の圧力下で重合を行うため中圧法と呼ばれる)。
*11) 測定器で融解させたポリマーに一定の荷重を掛け一定の径のノズルから一定時間に落下する量の違いを測定する。

本文中『 』は、「三井石油化学工業30年史」から直接の引用です。
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石油化学工業第6回

2013年02月16日 | Weblog
チーグラー触媒

 三井石油化学工業が我が国石油化学工業の先陣を切って設立された大きな理由のひとつに、チーグラー触媒による低圧法高密度ポリエチレンの企業化があった。ポリエチレン自体は第二次世界大戦前にすでにイギリスで工業生産されており、その良好な電気絶縁性からレーダーなどに利用されていた。我が国は大戦中撃墜した敵の戦闘機などからその存在を知ったといわれている。ただ、このポリエチレンはエチレンを1000気圧以上に圧縮して微量の酸素を開始材として得られるもので、所謂高圧法ポリエチレン*8)であった。

 このポリエチレンを常圧でも合成できる触媒を見出した(1953年)のが、ドイツの化学者カール・チーグラー博士であった。1000気圧以上の圧力が必要なポリエチレンの製造が常圧でも可能になる。当時としては夢のような話であった。後にイタリアミラノ工科大学のジュリオ・ナッタ博士が、この知見を活用して立体規則性ポリプロピレンの合成に成功し、1963年両名はノーベル賞を受賞している。このことで、チーグラー触媒はチーグラー・ナッタ触媒と呼ばれたりする。

 チーグラー博士の触媒が全くラボ(研究室)レベルであった時に、三井石油化学工業の初代社長となる石田健氏との出会いがあった。『この時の石田社長(当時三井化学社長兼三井鉱山副社長)の決断が低圧法ポリエチレンを我が国で最初に工業化する栄誉を三井石油化学工業にもたらした』。とは、三井石油化学工業20年史にあるが、1企業の栄誉に留まらず、我が国の化学業界に果たした貢献は計り知れないものがある。まさに我が国の高度経済成長を牽引した偉大なプロジェクトXのひとつであったと思う。

 『三井化学(後の三井東圧化学)は昭和16年4月に三井鉱山の化学部門を分離独立して設立されていたが、戦後、その経営は多難をきわめており、石田健は、三井鉱山副社長のまま三井化学社長に就任していた。そして昭和29年11月、当時の石炭化学の最先端といわれたフィッシャー法による高級アルコールの企業化を検討するため欧米に出張した。

 渡欧した石田社長は、西ドイツの石炭化学を調査中の同年12月、マックスプランク石炭研究所のチーグラー博士が画期的なポリエチレン製法を発明し、英米仏各国に特許権を譲渡している事実を聞き、さっそくその研究室を訪問、製造過程を見学したうえで三井化学への特許権譲渡を申入れた。石炭化学の調査に出かけて石油化学の先端技術に遭遇したわけである。石田社長自身、このときのことを「全く予期せぬ処に予期せぬ事が持上り候・・・」と書信に記している。他社からの工作を考慮して、その場で特許権譲渡の申入れを行ったこの決断は、驚嘆にあたいする。・・・

 当時、高密度(低圧法)ポリエチレンは世界のどこでもまだ工業化されておらず、実験室での成果として発見されたばかりだった。当然、工業化のノウハウもなかった。研究室で合成したポリエチレンはコーヒー色に着色しており、はたしてこれでモノになるのかと石田社長側近の技術者も訝しく思ったが、チーグラー博士は、「これを真っ白なポリエチレンにするのは、企業のやることである」と言われたという。

 ノウハウなしの技術導入は、それまでの我が国にはほとんど例のないことであったが、石田社長はそれを決断、昭和30年1月6日付けでオプション契約を締結した。先方の提示した猶予ない契約の優先期限の1日前であった。
 独占契約金は、ライセンス料105万ドル、オプション料15万ドルの合計120万ドル(邦貨で4億3,200万円)で、当時発足したばかりの三井石油化学工業の資本金2億5,000万円を上回る莫大な金額*9)であった』。




*8)同時期石油化学工業を興した住友化学は、この高圧法ポリエチレン技術を導入し、我が国初の低密度ポリエチレンを昭和33年4月に生産開始している。
*9)5年後の昭和35年、日本を巨大台風から守るために計画された、富士山頂レーダーの気象庁から大蔵省に提出された昭和36年度予算が2億円であった。昭和37年3度目の要求で2億2千万円がようやく了承されたとある。(NHKプロジェクトX制作班編「プリジェクトX 挑戦者たち1」平成20年4月初版より)
 当時の億単位の貨幣価値の大きさが分かる。なお、『当時総合石油化学工業会社の設立に奔走していた三池合成の「修正岩国計画書」によれば、その建設所要資金は約57億円、運転資金を含めた総所要資金は77億円にものぼる膨大なものであった』。(三井石油化学工業20年史)

本稿は、「三井石油化学工業20年史(1955~1975)」(昭和53年12月1日発行)および同30年史(1955~1985)」(昭和63年9月30日発行)を参考にし、『 』内は直接の引用ですが、勝手ながら一部編集しています。
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石油化学工業第5回

2013年02月13日 | Weblog
続、EOGプラント

 夢には見たが、プラント在籍5年間に致命的な火災・爆発事故はなかった。それでも数々の危険には遭遇した。初めての職場での仕事は、プラント運転条件などもそうだけれど、出来事の多くを結構鮮明に覚えているものだけれど、公にしていいかどうか疑わしい事例は書かないでおく。

 今年の冬も寒かったけれど、私は夜勤で、マイナス6℃を経験した。山口県の瀬戸内側ではめったにない気温である。この時、オキサイドプラントのエチレンフィード量を測定する流量計オリフィスの検知管に巻かれたスチームトレースがまず凍りつき、検知管に溜まっていたドレン水も凍って測定不能となり、プラントは自動的に緊急停止した。

 岩国は、岩の国と書く通り岩盤がしっかりしているため地震の被害は少ない所で、そのことは石油化学コンビナートの好立地ともなったのだけれど、それでも地震でオキサイドコンプレッサーの安全装置が作動して緊急停止したこともある。

 反応機の破裂版が劣化によって破裂し、猛烈な音と共にプラントは緊急停止したこともある。ローカル監視所に居た担当者は腰を抜かさんばかりだったが、速やかな対応に抜かりはなかった。これら予期せぬトラブルがそれ以上に拡大することはなかった。

 年月が過ぎて、私が管理職に登用された時の昇格者研修は、社外施設で教育・研修専門のコンサル会社の下で行われた。多くの方が一度くらいは受けたと思われる、例のタイタニック号沈没事件に模して、船長の採るべき対応の手順を問う問題が出た。開けて見れば、われわれの答えがあまりにばらばらで講師に呆れられた。講師は、先に大手○○会社でも同様の研修を担当したが、この問題は全員正解であったと言うのである。確かにQCストーリーにも似たトラブル対応の定石くらい、大企業の管理職なら一応知っておくべきもので、大手○○会社の新任管理職に比べて、われわれの能力の欠如は確かである。しかし、その話を聞いて私にはその○○会社に一抹の不安を抱いた。

 元々想定外という言葉自体が言い訳に過ぎないのだけれど、そのような大きなトラブルが仮に起こったとしても、けっして致命的に拡大しないような知恵を持った人材が古来我が国の企業には結構いた筈なのだ。それは当然に優れた現場のリーダーであることは多いのだけれど、日頃冴えない風体の窓際的人物やいつも問題を起こすようなトラブルメーカーの人物が却って変化球には強いかも知れず、彼らこそ緊急時のヒーローとなることは現実にもあることのように思える。

 日本の教育制度は団体行動向きの人材を大量に作ってきたが、そのために各人の個性が削がれ、創造性に乏しい人材ばかり輩出したようには良く聞く話だけれど、学校教育においては通常そこまでの強制力はない。実は勤務した職場の影響力が大きいのだ。何といっても生活の糧としてのサラリーを貰う所だから。独占的事業を行う大企業は半ば以上に官僚化し、確かに習ったことは良く覚え、過去に起こった問題の対応には優れるのだけれど、自分達が敢えて想定しなかったトラブルには誰も歯が立たない画一化された人材しか育っていない恐れを感じる。

 このところ石油化学コンビナートでも連続的に大きな火災・爆発事故が起こっており、先般NHKの「クローズアップ現代」にも取り上げられていた。石油化学が興って50年余り、日本のインフラ同様装置の老朽化もある。収益性の悪化で規制されない部分までの点検補修に手が回っていない。などの要因が指摘されるけれど、管理の効率化が進み従業員の多様性を許容する企業風土が後退している恐れはないだろうか。

 入社して5年間を一緒に過ごしたEOGプラントの個性的な先輩同僚を思い出しながらそんなことを想う。



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石油化学工業第4回

2013年02月10日 | Weblog
EOGプラント

 私が入社半月前からの1.5カ月の集合教育を経て配属されたのは、製造部第三課製造係。エチレンオキサイドの3プラントとエチレングリコールの3プラントを課長以下50数名で管理運転していた。ここでも1ヵ月の座学講習があり、3交代勤務実習に入ったのは6月になってからだった。教育期間は、プラント各部署を担当するオペレ-タ(現在はシフトクルーと呼ぶ)の先輩からの講義を受けると共に、フローシートを片手にプラント内を歩き、配管や装置機器などを確認した。配管に色分けは無くすべて銀色塗装されているから、兎に角分かり難い。

 昭和41年入社高卒同期のうち19名(高卒同期入社は全社で252名)がこのプラントに配属されたが、内9名は千葉工場採用で、約半年の現場実習終了後、千葉の新工場(昭和42年稼働、現在の三井化学市原工場)に赴任することになっていた。残り10名は当該プラント要員だが、千葉工場に転勤となる先輩諸氏の穴埋めのための大量採用であった。従って、われわれの歓迎会は少し遅れて、真夏になって千葉工場へ転勤する4EOGプラント(24,000トン)第一陣となる先輩の送別会と兼ねられたりした。

 職場の年配者は三井鉱山等からの転入者が多く、20代、30代の先輩も地元からの中間採用者が多かった。九州弁と山口、広島弁が飛び交っていた。先輩諸氏は、いろんな経歴を持つ一癖もふた癖もある方が多かったが、それが今に言う人材の多様性で、仕事は出来る人が多く、職場は立派に成り立っていた。定年までいろんな職場を渡り歩いたが、やはり最初の職場は印象深く、上司同僚諸先輩方との交流も含め一番懐かしい職場でもある。

 エチレンオキサイド(以下、オキサイドと略す)は、エチレンを酸化することによって得られるが、エチレンに酸素原子が1個ぶら下がった格好の非常に危険な構造を持つ。分解し易く、しかも自身に酸素を持つわけで、単独でも燃焼・爆発危険がある。そもそも有機化合物の気相反応は危険で、高圧高温の反応機内のエチレンと酸素濃度は燃焼範囲に入れないように厳しく管理調整された。

 エチレンと空気を高温で反応させれば通常炭酸ガスと水になるだけの話で、オキサイド生成のためには触媒が必要である。熱交換器を縦型にした格好の反応器には、粘土を丸めて乾かしたような担体に付着させた銀触媒が装填されていた。エチレンと空気の反応を促進すれば、すなわち転嫁率(Conversion)を上げれば、炭酸ガスや水の生成が増え、オキサイドへの選択率(Selectivity)が下がるため、インヒビター(反応禁止材)を投与して高収率を確保する。

反応器を出たオキサイドはスクラバーで水を浴びてオキサイドリッチ水とする。未反応ガスを上部に逃がして、スクラバー下部からリッチ水を次のタワーに送り、今度は上部に気化させたオキサイドをコンプレッサーで集めて次の精製塔に送る。最終的には高純度のオキサイドとアルデヒドなど副生不純物を多く含んだオキサイドに分留する。高純度のオキサイドは界面活性剤等の用途に出荷され、純度の悪いオキサイドがエチレングリコールの原料となる。

 エチレンプラントで生産される高純度のエチレンはポリエチレン用などに使用され、オキサイド原料のエチレンはサイドカットの低純度品で賄う。そこから生まれた純度の悪いオキサイドで規格の厳しい東レ向け超高純度のエチレングリコールを生み出していた。

 当時は空気酸化法で、No.1,2プラントは動力課(用役供給担当課)から空気の供給を受けていたが、No.3のプラントは自プラントにエアーコンプレッサーを持っていた。これが片方は自プラントの排ガスを利用したタービン、他方はファーネスで加熱した25気圧のスチームを動力としていたためバランスが悪くなることが多く、振動が問題になった。回転数の維持などの監視に加え、状況によっては壊れる前に緊急停止が必要だから、特に調子が悪い時は、ローカルの専用パネル室でコンプレッサーの騒音の中、緊張を強いられたものだ。兎に角、万一の際に開閉する手動バルブを繰り返し確認したものだが、爆発する夢は何度もみた。エチレングリコールプラントを経て入社5年目を迎えていた。



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石油化学工業第3回

2013年02月07日 | Weblog
三井石油化学工業

 我が国の石油化学工業の先駆を成したのは、三井石油化学工業であり、我が国の石油化学工業の歴史はその設立に始まり、その社史は、そのまま日本の石油化学工業の歴史でもある。三井石油化学工業は三井系大手企業の総力を結集して昭和30年(1955年)7月1日に設立された。設立時資本金2億5,000万円。株主は三井化学工業が約30パーセント、三井鉱山、三池合成、三井金属工業、東洋高圧工業、興亜石油、東洋レーヨン及び三井銀行が各約10%で、初代社長である石田健氏他7名が100株(5万円)ずつの計16名の出資によるものとなっている。

 設立に向けては国家の戦後経済自立化政策の一環として提唱された「合成繊維産業育成対策」や「合成樹脂増産育成対策」に基づき、これら新規産業の育成には、原料の低廉かつ安定的な供給確保が最も重要な課題であり、石油化学工業の確立は焦眉の急と認識されたことに加え、出資企業にすれば、三井鉱山など炭田、石炭産業がすでに凋落期にあり、エネルギー転換、化学原料転換期に当たり新規事業を求めていたことも大きかった。また東洋レーヨン(現、東レ)は、当時ナイロン生産規模の大型化に伴い、原料フェノールの確保及び新規合成繊維としてのポリエステル繊維の企業化(三島工場で昭和33年日産5トンのテトロンプラント完成)に関連して、その原料であるテレフタル酸とエチレングリコールの確保が課題であった。

 東洋レーヨンは、カプロラクタムから6-ナイロン*6)を生産していたが、そのカプロラクタムの原料としてのフェノールの供給を三井化学から受けており、その石炭を原料とする硫酸法フェノールでは生産量、価格共に問題があった。しかし当時すでにイギリスのディスティラーズ社は、石油を原料とするクメン法フェノールを開発し安価大量に生産する技術を確立していたのである。石油化学に関心が向かないわけはなかった。

 私が三井石油化学岩国大竹工場に入社したのは昭和41年4月であるが、操業9年目であり、創業時のプラントが躍動していた時代であった。No.1エチレンプラントは年産2万トンの規模であったが、昭和37年には広島県大竹市側工場にNo.2エチレンプラント6万トン(昭和39年1月No.1,2計10万トンに増強)、昭和39年にはNo.3エチレンプラント6万トンが岩国側で稼働していた。配属されたエチレンオキサイド・グリコールプラントもそれぞれNo.1,2,3と3プラントずつあり、それぞれ年産6,000トン、6,000トン、12,000トン規模となっていた。No.1,2は米国SD社*7)からの技術供与を受けていたが、それぞれNo.3のプラントは自社技術であった。

 それぞれのプラントはほどなく、大型プラント化によるコストメリット追及のスクラップ&ビルドにより休止から廃棄される。昭和40年代半ばから新設されるエチレンプラントは各社30万トン時代に突入した。岩国のNo.1エチレンプラントは昭和46年4月に休止、No.2エチレンプラントの休止は昭和55年9月(昭和59年6月廃棄)、No.3エチレンプラントも昭和60年3月に休止され、日本の石油化学発祥の工場からその象徴であるエチレンプラントが操業を停止した。エチレンオキサイド・グリコールプラントも昭和45年4月No.1,2プラントがそれぞれ休止、昭和46年の9月には12,000トンのNo.3プラントも休止した。私は職場消滅の3か月前、総合研究所のポリエチレン用触媒の研究室に転属となっていた。





*6)6-ナイロンとは1ユニット中のカーボン数が6個ということ。これに対してアジピン酸とヘキサジアミンから合成する6-6-ナイロンは1ユニット6-6で合計12個のカーボン原子がある。
*7)SD社:Sdscientific Design Co., Inc.,

本稿は、「三井石油化学工業30年史(1955~1985)」(昭和63年9月30日発行)を参考に編集しています。
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石油化学工業第2回

2013年02月04日 | Weblog
黎明期

 我が国に石油化学工業が起こったのは昭和30年代初頭である。先行したのは三井石油化学(現、三井化学)岩国で、昭和33年(1958年)2月に年産2万トンのエチレンプラントの試運転を開始している。続いて同年3月には住友化学新居浜にエチレンプラントが完成。我が国石油化学は先発4社とあるが、三井石油化学、住友化学に続き、三菱油化及び日本石油化学が昭和34年(1959年)3月と5月にそれぞれエチレンプラントを完成させている。

 世界の石油化学工業は、米国スタンダード・オイル社が1920年(大正9年)プロピレンからイソプロパノールの製造を開始したことが始まりとされる。米国は化学原料としての天然ガスや石油資源に恵まれたばかりか、モータリゼーションの発達に加え、第二次世界大戦中の高オクタン価ガソリン製造技術の発達と膨大な軍需によって石油化学工業は急速な発展を遂げたとある。我が国の石油化学工業が計画段階にあった1954年(昭和29年)当時、すでに石油化学工業に従事する企業数は119社、239工場あり、翌1955年の生産高は1,400万トン*3)で化学製品総生産量の25%、生産額では55%を占めていたという。

 当時の米国の石油化学工場で最大のものはCCC社*4)であったが、ダウ・ケミカル社、モンサント社及びアメリカン・シアナミド社は合成樹脂、デュポン社及びセラニーズ社は合成繊維、スタンダード・オイル社とシェル・ケミカル社は芳香族、アルコールなどの溶剤類及び合成洗剤の各分野、またグッドリッチ社は合成ゴムで、それぞれ指導的役割を果たしていたという。

 一方当時のヨーロッパ諸国は、第二次世界大戦後の米国石油化学工業の目覚ましい発展に比べれば、揺籃期にあった。英国では、高圧法ポリエチレンやポリエステル繊維の創始者として知られる英国のICI社*5)が石油化学工業の分野でも最大規模を誇っており、軽油分解ガスを主原料に合成繊維や合成樹脂の生産を進めていた。化学工業に長い歴史と伝統を持つ西ドイツでは、新たな合成化学法の開発が相次ぎ、原料価格を有利として石油化学工業への進出が計画段階にあったものの、石炭化学から石油化学への転進が未だ十分ではなく、1955年当時の石油化学会社は6社に過ぎなかった。イタリアではモンテカチーニ社が米国技術によって石油化学工場をフェララに建設し、原油から得た灯油・軽油を分解してエチレン、プロピレンを生産し、合成繊維や合成樹脂、溶剤などの各種製品の生産を開始していた。フランスの石油化学工業は、当時緒についたばかりであった。

 ヨーロッパの石油化学工業の投資額は1954年で英国1億2,200万ドル、西ドイツ6,800万ドル、フランス4,600万ドル、イタリア4,400万ドル、オランダ940万ドルで、米国の35億ドルに遠く及んでいなかった。ヨーロッパの石油化学工業も1950年代は発足間もない状況であり、我が国の石油化学工業とほとんど同時に始動しはじめたといってよかった。

 1960年代まで、第二次世界大戦の戦場にならなかった米国が世界の産業界を席巻していたのである。




*3)我が国の2011年石油化学製品生産高は約6,000万トン(経済産業省「化学工業統計」から算出)
*4)Carbide & Carbon Chemicals Co.
*5)Imperial Chemical Industries,Ltd

本稿は、「三井石油化学工業20年史(1955~1975)」(昭和53年12月1日発行)を参考に編集しています。
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石油化学工業第1回

2013年02月01日 | Weblog
素材革命

 現代、われわれの周囲はプラスチック製品で埋められている。この半世紀に起こった素材革命ともいえるほどの変革である。ブリキや職人芸の木製桶はそのほとんどが、ポリバケツ・ポリ容器にとって代わった。食品包装から飲料ボトル、電気製品や乗用車にもあらゆるところにプラスチックが使われているのを目にする。それらプラスチックはすべて石油化学工業製品と言って過言ではない。

 石油化学製品はプラスチックに限らないが、生活に密着した身近な化学製品としてはその代表的なものと言えるであろう。2010年わが国の化学工業製品出荷額は約19兆円であったが、その55%にあたる10兆4000億円は石油化学製品とある。自動車業界などトヨタ1社の売り上げが20兆円からして随分少ない気もするが、例えば素材産業の代表格である鉄鋼業界の売上ランキング(2009年)で1位の新日鉄から4位の住友金属工業*1)までの売上を合計しても6兆円余りであり、素材産業ではそんなものだ。

 プラスチックは通常合成繊維や合成ゴムと区分されるが、高分子化合物であることからして本来同類と考えられる。近年ペットボトルが急速に普及したが、これは東レテトロン、帝人テトロンなどと呼ばれるポリエステル繊維と同じ組成で、テレフタル酸とエチレングリコールから合成される。糸に引けば繊維となり、中空成型でボトル状に成形すればプラスチック(合成樹脂)となる。

 電線被覆や自動車の窓枠、またそのボンネット内部のチューブ類などに使用されるエチレンとプロピレンからなる合成ゴム(EPT)*2)は、ポリエチレンやポリプロピレンの合成に用いられると同じチーグラー触媒が用いられる。もっとも一般のチーグラー触媒がチタンを活性点とするのに対して、EPTの重合には共重合(複数のモノマーを使用する)のランダム性が要求されることからバナジウム触媒が使用される。いずれも最近はメタロセン触媒が用いられる銘柄もある。

 最近の塗料なども一種のプラスチックだ。住宅の外壁塗装など、施工後を見ればプラスチックで塗り固めた趣がある。これも合成高分子化合物と顔料(着色剤)を、有機溶剤で液状にして塗布を容易にし、溶剤が乾けば成形完了となる格好だ。

 天然素材に対して、プラスチックはどうも偽物感が否めない弱点がある。合成皮革しかり、食器に使われるお椀やトレイにしても木製の漆塗りの本格品と比べると確かに安っぽいが、これも一度に大量に作るから安くできるだけで、原料のプラスチックは1kg数百円程度でも金型代を考えると庶民価格にするための数量は相当数に上る。

 偽物ばかりではない。プラスチックだからできることもある。最近話題の炭素繊維をどこまでこの範疇に捉えるかは兎も角、その性能は鉄の10倍の強度に代表される特性がある。電線被覆などの絶縁性能、紙おむつなどに使われる樹脂の吸湿力、ヒートテックと呼ばれる繊維の保温性付与性能なども高分子化学が生んだ素材技術だ。

 これらの技術を育んだ石油化学工業のこの半世紀を、石油化学専業企業の現場従業員の目から振り返り、日本にものづくり(製造業)は要らないとする論評に歯止めをかけたい。




*1)新日鉄と住友金属は昨年(2012年)合併新日鉄住金となっている。
*2)一般名称はEPDM(エチレン-プロピレン-ジエンゴム)
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