中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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3分間のドラマ 第10回

2017年03月28日 | ブログ
恋の季節

 優れた歌謡曲の作詞者は、これまで上げてきただけでは到底収まらず、まだまだ数多い。越路吹雪の「愛の讃歌」(1954年)、「ラストダンスは私に」(1961年)などの訳詩に始まり、ザ・ピーナッツや加山雄三の一連のヒット曲、そしてピンキーとキラーズの「恋の季節」(1968年、作曲:いずみたく)などの作詞で知られる岩谷時子(1916-2013)がいる。

 『忘れられないの あの人が好きよ 青いシャツ着てさ 海を見てたわ 私ははだしで 小さな貝の舟 浮かべて泣いたの わけもないのに・・・夜明けのコーヒー 二人で飲もうと あの人が云った 恋の季節よ・・』

 『ためいきの出るような あなたのくちづけに 甘い恋を夢見る 乙女ごころよ・・・ああ 恋のよろこびに バラ色の月日よ はじめてあなたを見た 恋のバカンス』「恋のバカンス」(1963年、作曲:宮川泰、歌唱:ザ・ピーナッツ)

 『風にふるえる 緑の草原 たどる瞳かがやく 若き旅人よ・・・草は枯れても 命はてるまで 君を夢を心に 若き旅人よ・・・』「旅人よ」(1966年、作曲:弾厚作(加山雄三)、歌唱:加山雄三)

 また、坂本九の「上を向いて歩こう」(1961年、作曲:中村八大)や梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」(1963年、作曲:中村八大)を作詞した永六輔(1933-2016)も居る。美空ひばりの「津軽のふるさと」(1952年)を作詞・作曲した米山正夫(1912-1985)も外せない。

 『りんごのふるさとは 北国の果て うらうらと山肌に 抱かれて夢を見た あの頃の思いで・・・ああ 津軽の海よ山よ いつの日もなつかし 津軽のふるさと』

 振り返れば、わが国の名たる歌謡曲は、1960年代から1980年代の作品がほとんどであり、それは歌謡界の黄金時代であった。わが国の高度経済成長時代と重なる。

 当時の歌謡曲は、そのほとんどが作詞、作曲、歌い手と分業で、専門性の高い良質の楽曲が生まれていたのだ。

 一方で、フォークソングからJ-ポップの流れの中で、グループサウンズや吉田拓郎、松山千春、「22歳の別れ」(1975年、作詞・作曲:伊勢正三)の風、南こうせつなども活躍した。

 日本の歌謡界に、ノーベル文学賞候補を辿る中で、登場していない優れた作詞家、作曲家また歌手も大勢おられることをお断りせねばならない。

 一時期テレビなどから歌謡番組が消えていった。しかし、いままた大相撲と同様に復活している。実力のある歌手が努力を重ね、台頭してきている。演歌界でも三山ひろし、山内恵介などと共に市川由紀乃やAKB出身の岩佐美咲も頑張っている。氷川きよし、天童よしみ、坂本冬実、長山洋子、水森かおり、島津亜矢、田川寿美等も健在である。

 歌謡曲は、恋を描いたものが多いけれど、男女間の健全な恋心ほど、将来に夢を与えるものはない。子や孫へとつながってゆく幸せの連鎖の始まりなのだ。若者には人生の恋の季節を謳歌して欲しいものである。(敬称は略させていただきました)


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3分間のドラマ 第9回

2017年03月25日 | ブログ
春なのに

 3月は春なのにまだ少し寒い日が多い。そして、卒業や異動、転勤などによる別れの季節でもある。34年前、17年間暮らした地を離れ、この地の工場に転勤で赴任した。丁度、柏原芳恵さんのこの歌がヒットした頃だった。

 それから、10数年。担当していた事業をアウトソーシングすることになり、数十人のパートさん全員に辞めていただかねばならないことになり、その送別会でこの曲を流した。パートさんはすべて女性でアラサー世代も多かった。なつかしい曲であると共感されたものだ。

 『卒業だけが 理由でしょうか 会えなくなるねと 右手を出して さみしくなるよ それだけですか・・・卒業しても 白い喫茶店 今までどおりに 会えますねと 君の話は なんだったのと きかれるまでは 言う気でした・・・春なのに お別れですか 春なのに 涙がこぼれます 春なのに 春なのに ため息またひとつ』(1983年、作詞・作曲:中島みゆき)

 この曲が、中島みゆきさんの手になるものだと知ったのはだいぶん後になってのことだ。さすがに、詞がしっかりしているとは僭越である。実は彼女の活躍をそれまでほとんど知らなかったのである。

 時を経て、NHKドキュメンタリー「プロジェクトX~挑戦者たち~」の主題歌は、当番組のプロデューサーのたっての要請で、2000年に中島さんが作詞・作曲したもので、「地上の星」として長期に亘る大ヒットとなった。

 『風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処へいった 見送られることもなく 草原のベガサス 街角のヴィーナス・・・地上にある星を 誰も覚えていない 人は空ばかり見てる つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を つばめよ地上の星は今 どこにあるのだろう・・・』

 武田鉄矢(海援隊)の「贈る言葉」(1979年、作詞:武田鉄矢、作曲:千葉和臣)も別れの季節に相応しい良い歌である。詞には文学的であるとか、語彙が美しいとか、心情や情景描写が見事だとかもあろうけれど、この詩(うた)は想いのままを綴ったところが庶民的でいい。

 内容は、千昌夫の「星影のワルツ」に近い恋愛上の別れを描いているようだけれど、歌い手の金八先生のイメージから、卒業ソングの趣さえ醸し出しているところがこの季節に合っている。

 『暮れなずむ町の 光と影の中 去りゆくあなたへ 贈る言葉 悲しみこらえて ほほえむよりも 涙かれるまで 泣くほうがいい 人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから・・・信じられぬと 嘆くよりも 人を信じて 傷つくほうがいい・・・遠ざかる影が 人混みに消えた もうとどかない 贈る言葉 もうとどかない 贈る言葉』

 「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから」。このフレーズだけで、この詞は、この歌は名曲となった。このフレーズこそが、すべての人への贈る言葉なのである。


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3分間のドラマ 第8回

2017年03月22日 | ブログ
私鉄沿線

 橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家のあとを継いだ青春歌謡の新御三家の一人野口五郎が歌った「私鉄沿線」(1975年、作詞:山上路夫、作曲:佐藤寛)は、好きな歌だ。『改札口で 君のこと いつも待ったものでした 電車の中から 降りてくる 君を探すのが 好きでした・・・伝言板に君のこと ぼくは書いて帰ります・・・』

 郊外に向けて私鉄が伸びた時代。駅周辺は繁華街となり、沿線には新たらしい住宅が増えていった。キャンパスのある駅か、通勤のための最寄駅か、どちらでもいいけれど、それらの風景と、若い男女の恋模様が浮かんでくる。携帯電話などない時代、駅には伝言板があった。

 作詞家山上路夫(1936- )は、若い頃に闘病生活を余儀なくされたところは、星野哲郎と通ずる。同世代の阿久悠(1937-2007)やなかにし礼(1938- )に並び称される昭和の大作詞家だけれど、彼らと比べると知名度は少し低いかもしれない。阿久悠が日本レコード大賞5度(本稿第4回参照)、なかにし礼が3回(1968年、「天使の誘惑」、作曲:鈴木邦彦、歌唱:黛ジュン)(1970年、「今日でお別れ」、作曲:宇井あきら、歌唱:菅原洋一)(1982年、「北酒場」、作曲:中村泰士、歌唱:細川たかし)受賞しているのに対して、山上には最近(2011年)になって日本作詞大賞(「いくたびの櫻」、作曲:佐藤博、歌唱:ふくい舞)が与えられたくらい。

 しかし、その作風こそ、美しい日本、美しい日本語の詩歌を代表するもので、昭和歌謡の良心とさえ評す方もいるようだ。

 誰もが知っている山上作詞の歌謡曲には、1967年佐良直美のデビュー曲「世界は二人のために」(作曲:いずみたく)、テレビドラマ「水戸黄門」の主題歌である「ああ人生に涙あり」(1969年、作曲:木下忠司)、由紀さおり「夜明けのスキャット」(1969年、作曲:いずみたく)、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」(1972年、作曲:平尾昌晃)、GARO「学生街の喫茶店」(1972年、作曲:すぎやまこういち)、江利チエミの「酒場にて」(1974年、作曲:鈴木邦彦)や梓みちよ「二人でお酒を」(1974年、作曲:平尾昌晃)などなどがある。

 しかし、最も山上先生らしい詞と思う作品を3点挙げれば、森山良子の「禁じられた恋」(1969年、作曲:三木たかし)、小柳ルミ子「雪ありの町」(1972年、作曲:平尾昌晃)、天地真理「若葉のささやき」(1973年、作曲:森田公一)になるように思う。

 『禁じられても 逢いたいの 見えない糸に ひかれるの・・・あなたに逢いに 夜を越えて 駆けてゆきたい私なのよ・・・恋をすてろと言うの むごい言葉よ それは私にとって 死ぬことなのよ・・・』

 『角巻きで泣きそうな 顔をかくして歩くのよ 吹雪がやんだ北国の 雪あかりの町・・・あの人のいる町へ 今日ものぼりの汽車が行く 汽笛がひびく北国の 雪あかりの町・・・』

 『若葉が町に 急に萌えだした ある日私が 知らないうちに あなたのことで 今はこの胸が いっぱいだから わからなかったの・・・愛する季節 いつか訪れる それは誰にも あることなのよ 悲しい夢に もしも終わろうと 若さをかけて 愛してゆくの・・・』


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3分間のドラマ 第7回

2017年03月19日 | ブログ
北の螢

 北の螢(1984年、作詞:阿久悠、作曲:三木たかし)は、歌手、森進一の代表曲ではないかと思う。森進一は五木ひろしなどと同学年(森は昭和22年生、五木は23年3月生)となる団塊世代の先頭集団。五木が世に出る数年前にすでに多くのメガヒットを飛ばしている。しかし、それらの楽曲は、「北の螢」を歌うためのものだったのではないかとさえ思えてしまう。彼の私生活も人生模様も投げ捨てて、歌手森進一が居る。勿論、阿久の詩(第17回作詞大賞)も三木の曲も素晴らしいけれど、歌唱が勝っているように思う。

 『山が泣く 風が泣く 少し遅れて 雪が泣く 女 いつ泣く 灯影(ほかげ)が揺れて 白い躰(からだ)がとける頃・・・ホーホー 螢 翔んで行け 恋しい男の胸へ行け・・・』

 昭和22年から24年生くらいまでを団塊世代という。この世代、政治家には総理を務めるほどの人物がいないまま、下の世代の安倍さんあたりに委ねている。実は、民主党政権下の総理大臣であった鳩山由紀夫氏(昭和22年2月生)が居るが、学年の区切りでは一つ上で、菅直人元総理などと昭和21年生の同期となる。前東京都知事の舛添氏は昭和23年生で団塊世代ではあるが、いずれにせよ御三方(おさんかた)共、残念な方たちで評価には値しない。現役で頑張っているのは、安倍総理の下、内閣官房長官を務める菅氏(昭和23年生)くらいである。

 しかし、歌い手には有名な実力者が目白押しである。五木ひろし、森進一、布施明、千昌夫、伊東ゆかり、寺尾聡、小田和正、谷村新司、いしだあゆみ、森山良子、都はるみ、沢田研二、南こうせつ、堀内孝雄、由紀さおり、井上陽水、大川栄作、前川清、武田鉄矢・・・(昭和22年4月~昭和24年12月生、順不同)書き切れないので調査中断。

 小田和正、井上陽水や谷村新司といった、歌謡界に新しいジャンルを切り開いたアーティストは兎も角、団塊世代の多くの歌手は、先輩世代の優れた作曲家、作詞家によって見出され、育てられた。良くも悪しくも日本が日本であった時代に生まれた人材が戦後の歌謡界をリードしたのだ。

 千昌夫(1947- )など、作曲家遠藤実(1932-2008)に押しかけ弟子となり育てられた。「星影のワルツ」(1966年、作詞:白鳥園枝、作曲:遠藤実)が、発売後3年目の昭和43年(1969年)頃からヒットし、彼を歌謡界のスターにした。その後の「北国の春」(1977年、作詞:いではく、作曲:遠藤実)は、長く歌い継がれている歌の一つとなり、今では中国はじめ広くアジア各国でも歌われていると聞く。

 谷村新司(1948- )は、堀内孝雄(1949- )らとフォークグループ「アリス」を結成し(1971年)活躍したが、1978年には、10歳若い山口百恵の「いい日旅立ち」を作詞・作曲しヒットを飛ばしたことが印象深い。

 『雪解け真近の 北の空に向かい 過ぎ去りし日々の 夢を叫ぶとき 帰らぬ人達 熱い胸をよぎる せめて今日から一人きり 旅に出る・・・ああ 日本のどこかに 私を待ってる人がいる いい日旅立ち 幸せをさがしに 子供の頃に歌った歌を みちづれに』

 団塊世代も育てる側となっていったのである。(敬称略)


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3分間のドラマ 第6回

2017年03月16日 | ブログ
シクラメンのかほり

 東京大学法学部1967年卒で都市銀行員だったという、異色のシンガーソングライターである小椋佳氏。1975年に布施明が歌い大ヒットし、その年の日本レコード大賞曲となったのが、「シクラメンのかほり」。このヒットで氏の銀行員の傍らの創作活動が世間に公知となったという。

 『真綿色した シクラメンほど 清しいものはない 出会いの時の君のようです ためらいがちに かけた言葉に 驚いたように ふりむく君に 季節が頬をそめて 過ぎてゆきました・・・うす紅色の シクラメンほど まぶしいものはない 恋するときの 君のようです・・・うす紫の シクラメンほど 淋しいものはない 後ろ姿の 君のようです・・・』

 もしも日本の歌謡界から、その詩の出来栄え、語彙の美しさ、深さ、心情や情景描写の見事さなどを評価してノーベル文学賞の候補者を挙げるとするなら、小椋佳も外せないだろう。

 「めまい」(1975年、作詞・作曲・歌唱:小椋佳)が好きだ。『時は 私に めまいだけを残してゆく だから ワイングラスの角氷 眠りに つこうとする愛に ささやかないで・・・鏡に残った あなたの後ろ姿 青い青い海が見える さよならを 書こうとした口紅が 折れてはじけた』

 小椋の作品でさらに有名なのは、この頃ではTBS木曜7時「プレバト」の俳句コーナーでさらにおなじみとなった梅沢富美男が歌って大ヒットした「夢芝居」(1982年、作詞・作曲:小椋佳)や美空ひばりの歌った「愛燦燦」(1986年、作詞・作曲:小椋佳)がある。

 『恋のからくり 夢芝居 台詞ひとつ 忘れもしない 誰の筋書き 花舞台 行き先の影は見えない・・・男と女あやつりつられ 対のあげはの 誘い誘われ 心はらはら 舞う夢芝居 恋はいつでも初舞台』

 『雨 澘々(さんさん)と この身に落ちて わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして 人は哀しい 哀しいものですね・・・愛 燦燦と この身に降って 心密かな嬉し涙を 流したりして 人はかわいい かわいいものですね・・・人生って嬉しいものですね』

 小椋の詩に堀内孝雄が曲を付けた「愛しき日々」(1986年)もある。

 『風の流れの 激しさに 告げる想いも 揺れ惑う・・・生まじめ過ぎた まっすぐな愛 不器用者と 笑いますか・・・愛しき日々の はかなさは 消え残る夢 青春の影』

 これらの曲はすべて小椋自身も歌っており、その歌声には味があり、表現力は巧みである。しかしそれぞれ、青春真っただ中の布施であり、「めまい」は小椋、舞台俳優であった梅沢であり、円熟の美空、気鋭の堀内というぴったりの歌い手が付いて作詞・作曲がさらに輝く。3分間のドラマは脚本・演出(作詞・作曲)と共に、それを演じるいい役者(歌い手)が揃うことが重要なのである。




本稿は、敬称を略させていただきました。
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3分間のドラマ 第5回

2017年03月13日 | ブログ
アメリカ橋

 「函館本線」(1981年、作詞:たきのえいじ、作曲:駒田良昭)で演歌歌手としてデビューした山川豊は、演歌界の第一戦で活躍していたが17年を経て、演歌とはジャンルの異なる山口洋子(1937-2014)作詞の「アメリカ橋」(1998年、作曲:平尾昌晃)と出会う。

 『風が足もとを 通りすぎてゆく 久しぶりだねと 照れて笑いあって アメリカ橋のたもと ふと通うぬくもり やるせない恋 埋めた街・・・それじゃと手をあげる そっとコートの衿たてた さり気なさおいて 人の群れ人の群れ 誰もが他人 はるかはるか あの頃が青春』(第31回日本作詞大賞)

 歌手がこれまでとは異なるジャンルの歌を歌う。企業でいえば経営革新である。上手くゆくことも行かぬこともあろう、しかし、機に応じて変わらねば、変えねばならぬ時はある。

 山口洋子は、無名だった五木ひろしを見出しことでも知られる。「よこはまたそがれ」(1971年、作曲:平尾昌晃)の大ヒットを端緒とし、1973年には、やはり山口/平尾のコンビで「ふるさと」や「夜空」をヒットさせ、「夜空」はその年の日本レコード大賞を受賞する。7年間の下積みを経た五木ひろしを人気実力とも演歌界の第一人者に押し上げた。

 『あの娘(こ) どこに居るのやら 星空の続く あの町あたりか 細い風の口笛が 恋の傷あとにしみる・・・あー とどかない夢だから なおさら 淋しい この胸よ 夜空 遠く 果てしない』。メロディー先行で詞はあとからはめ込まれたものだという。

 五木ひろしは、「よこはまたそがれ」から45年、現在もトップ歌手として活躍している。2012年には愛媛県松山市の繁華街・二番町を舞台にした「夜明けのブルース」(作詞、作曲:レーモンド松屋)をヒットさせ、翌2013年には同じくレーモンド松屋作詞・作曲の「博多ア・ラ・モード」も大ヒットさせたが、これらの曲はこれまでの五木の曲風とは明らかに異なるもので、五木本人が良い刺激になったような話を、テレビでしているのを聞いた。長く続けるには折に触れ革新(イメージチェンジ)も必要である。「博多ア・ラ・モード」は第46回日本作詩大賞を受賞している。

 『湯上りの 紅のはな緒が 切れたお前に めぐり合った 愛の日が 過ぎ去りし今 せめてもう一度 逢いたくて ・・・博多の夜 キラメキ夜 ア・ラ・モード 中洲のいじわるなネオン 博多の夜 トキメキ夜 ラブ・モード・・・』

 山口洋子の作品では、中条きよしが歌った「うそ」(1974年、作曲:平尾昌晃)『折れた煙草の吸がらで あなたの嘘が わかるのよ 誰かいい女(ひと) 出来たのね 出来たのね・・・女があとから 泣けるよな 哀しい嘘の つける人・・・女がほろりと くるような 優しい嘘の うまい人』や石原裕次郎の「ブランデーグラス」(1977年、作曲:小谷充)『これでおよしよ そんなに 強くないのに 酔えば酔うほど 淋しくなってしまう 涙ぐんでそっと 時計をかくした 女ごころ 痛いほどわかる・・・雨はふるふる 遠く消えてく背中と いつか来そうな 別離(わかれ)を濡らす』も印象深い。

 彼女自身の女優から銀座のママ、そして作詞家、直木賞作家という才能と人生ドラマがそれぞれの3分間に凝集されている。





本稿は、「昭和の演歌」鑑賞アルバム「歌詞集」(株式会社ユーキャン)などを参考にしています。また、敬称を略させていただきました。


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3分間のドラマ 第4回

2017年03月10日 | ブログ
舟唄

 歌謡界最強のヒットメーカー阿久悠(1937-2007)が、八代亜紀をさらなる高みに導いたのがこの「舟唄」(1979年、作曲:浜圭介)だという。八代はそれまで、女心を歌ってきた。この詩(うた)は別れた女を思う“男心”を歌っている。八代自身、「初めてこの歌詞を読んだとき、最初の二行から大きな衝撃を受け、まるで映画のワンシーンのように映像がくっきりと浮かび上がったのです」と述懐している。

 『お酒はぬるめの 燗がいい 肴はあぶった イカでいい 女は無口な ひとがいい・・・ほろほろ飲めば ほろほろと 心がすすり 泣いている あの頃あの娘(こ)を 思ったら 唄いだすのさ 舟唄を・・・』

 そして翌年、八代は阿久の「雨の慕情」(1980年、作曲:浜圭介)で、第22回日本レコード大賞と第11回歌謡大賞を受賞している。二年連続紅白歌合戦の大トリも務め、演歌の女王と呼ばれるようになる。

 『心が忘れたあのひとも 膝が重さを覚えてる 長い月日の膝まくら 煙草プカリとふかしてた・・・きらい 逢いたい きらい 逢いたい くもり空(ぞら)なら いつも逢いたい 雨々ふれふれ もっとふれ 私(わたし)のいい人つれて来い・・・』

 中三トリオとして、デビューから順調に売り出した、山口百恵、森昌子、桜田淳子と同期ながら低迷していた石川さゆりを、スターの仲間入りさせたのも阿久だった。

 「津軽海峡冬景色」(1977年、作曲:三木たかし)は長く歌い継がれている歌謡曲の一つだ。『上野発の夜行列車降りた時から 青森駅は雪の中 北へ帰る人の群れは誰も無口で 海鳴りだけを聞いている・・・さよならあなた私は帰ります・・・ああ 津軽海峡冬景色』。歌詞を紹介するまでもなく、50歳以上の日本人なら誰も口ずさめるのではないか。北海道への海底トンネルが通じても、新幹線が走るようになっても、北への旅路の郷愁は青函連絡船の津軽海峡の冬景色なのだろう。

 阿久は、作曲家都倉俊一とのコンビでピンクレディーを生み出し、ペッパー警部(1976年)から1978年の「透明人間」までの9曲は、怒涛のメガヒットとなった。また、都はるみ「北の宿から」(1975年、作曲:小林亜星)、沢田研二の「勝手にしやがれ」(1977年、作曲:大野克夫)、ピンクレディー「UFO」(1978年、作曲:都倉俊一)によって、3年連続のレコード大賞の偉業を達成。レコード大賞曲は、1971年の尾崎紀世彦「また逢う日まで」(作曲:筒美京平)と先の「雨の慕情」(1980年)を合わせ5曲にのぼる。

 阿久が逝去した2007年の第39回思い出のメロディー(NHK)で、岩崎宏美が阿久への追悼として歌唱したという「思秋期」(1977年、作曲:三木たかし)は、3分間のドラマとして圧巻である。

 この曲のレコーディングは岩崎が高校卒業後間もない18歳の頃で、その歌詞の内容に岩崎は何度も泣いて歌えなくなったという。そんなエピソードを何かで聴いた。岩崎は当時40歳のおじさん(阿久)が何故、自分世代の女の子の心情が分かるのか不思議だったという。

 『足音もなく 行き過ぎた 季節を ひとり見送って はらはら涙あふれる私十八・・・卒業式の前の日に 心を告げに来たひとは 私の悩む顔を見て 肩をすぼめた・・・青春はこわれもの 愛しても傷つき・・・無邪気な春の語いや はなやぐ夏のいたずらや 笑いころげたあれこれ思う秋の日』。



本稿は、「昭和の演歌」鑑賞アルバム「歌ひとすじ」(株式会社ユーキャン)などを参考にしています。また、敬称を略させていただきましたことをお断りします。
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3分間のドラマ 第3回

2017年03月07日 | ブログ
星野哲郎の世界

 作詞家星野先生(1925-2010)は、山口県周防大島のご出身とのこと。この島には、愛媛県の松山の港から山口県の岩国を結ぶ航路の、途中停泊地であった伊保田港がある。私は高校三年生の折、就職試験でこの航路を渡った。以来17年間の青春時代を瀬戸内沿いの山口県の東の外れで過ごすことになる。この間この島には、ミカン狩りや工場の従業員用の保養所が出来た関係もあり何度も訪れた。

 昭和51年(1976年)には、潮流の速いことで知られる大島瀬戸を跨ぐ大島大橋が完成し、本州と道路でつながることになった。そんなことで研究所勤務時代には、対岸の大畠町から工場の保養所までの約30Km余りの職場歩け歩け大会を企画したことがある。

 この島の出身で、陸上部で別大マラソンなどにも出場していた先輩を行軍隊長に、新入女子社員や他職場の女子社員も多数参加してくれたのだけれど、最初は義理で参加した風情の新入女子社員など、秋の好天の下、瀬戸内海の景色を満喫しながらの歩き旅を非常に気に入ったようで、結果として随分感謝された思い出がある。

 そんなことが、面識さえない星野先生に親しみを感じる因縁であった。

 星野先生の作詞には、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」(1968年、作曲:米山正夫)、渥美清の「男はつらいよ」(1970年、作曲:山本直純)、北島三郎の「函館の女」(1965年、作曲:島津伸男)からの女(ひと)シリーズ、鳥羽一郎の「兄弟船」(1982年、作曲:船村徹)など広いジャンルでヒットを飛ばしているけれど、個人的意見で代表3作といえば、作曲家船村徹(1932-2017)先生と組んだ、北島三郎「風雪流れ旅」(1980年)、大月みやこ「女の港」(1983年)と美空ひばり「みだれ髪」(1987年)を挙げる。

 『破れ単衣(ひとえ)に 三味線だけば よされよされと 雪が降る・・・鍋のコゲ飯 袂(たもと)で隠し 抜けてきたのか 親の目を 通い妻だと 笑った女(ひと)の 髪の匂いも なつかしい・・・』

 『口紅が 濃すぎたかしら 着物にすれば よかったかしら・・・海猫の声ききながら 港の宿で あなたを待てば たずねる船は青森にゃ 寄らずに 佐渡へ行くという・・・』

 『髪のみだれに 手をやれば 紅い蹴出しが 風に舞う 憎や恋しや 塩屋の岬・・・すてたお方の しあわせを 祈る女の性かなし 辛らや重たや わが恋ながら・・・』

 希望に溢れる筈の社会に出た途端に、長い闘病生活を余儀なくされたという先生の人生が、深みのある詩の世界を醸成したものであろう。

 まさに3分間であるけれど、聴く人に人の世の辛さ、悲しさ、その中に人を恋うる喜こびと希望がある。深い、深いドラマ、星野哲郎の世界が広がる。



本稿は、特に歌手について敬称を略させていただきましたことをお断りします。
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3分間のドラマ 第2回

2017年03月04日 | ブログ
雪椿

 平成16年(2004年)の新潟県中越地震があった年の紅白歌合戦では、美川憲一氏との衣装合戦を封印して大トリを振袖で歌ったという小林幸子さんの「雪椿」(1987年、作詞:星野哲郎氏、作曲:遠藤実氏)。売れない頃から目を掛けて貰っていた星野哲郎氏に小林さんが、自分の母をイメージする詩をお願いし、星野氏が小林さんと同じ新潟県出身の遠藤氏と初めてタッグを組んで完成した曲という。雪椿は新潟県の県木である。

 曲が完成して遠藤氏宅の書斎で練習を始めたのだが、すぐに遠藤先生のピアノが止まる。見れば遠藤先生が号泣していたという。後ろに付き添っていた星野先生も泣いており、三人で号泣してレッスンにならなかったと小林さんが回顧していた。貧しい時代、必死で自分を育ててくれた両親、とりわけ母親への想いは、誰しも他人事ではなかったのだ。

 『やさしさと かいしょのなさが 裏と表に ついている そんな男に惚れたのだから・・・つらくとも がまんをすれば きっと来ますよ 春の日が 命なげすて 育ててくれた・・・花は越後の 雪椿』

 戦前、戦中、戦後の復興期を通じてこの国の民は貧しかった。「おしん」を共感できる世代が戦後の高度経済成長を支え、歌謡界でも作詞・作曲に深い味わいの3分間のドラマを作り上げ、体現できる歌手が居た。不朽の名作が数多く生まれた。しかし、彼らは過分の印税を得て豪邸に住むようになり、取り巻きを従えて、テクニックに溺れた。平成に入ると、聴く側の世代交代もあろうが、恐らく本物の演歌など作れる環境ではなくなり、人材も枯渇したのではないか。

 音楽協会は、音楽教室での演奏にも印税を掛けるという。諸々の著作権は死後50年だったものを、欧米に倣い70年に延長する法令案が出ているように聞く。既得権者がその権利を必要以上に高める傾向は、政治の世界と癒着して常套手段ではあるけれど、結局その世界の衰退につながることは心せねばならないだろう。加えて最近頓に批判の対象となる個人の経済格差拡大への対策にも逆行する行為だ。

 星野先生にはお会いしたことがあるわけではないが、豪奢な生活の雰囲気は感じなかった。それでも1990年以降、晩年の20年間に世間に知れ渡るような先生のヒット曲の作詞は知らない。



本稿前段は、「昭和の演歌」鑑賞アルバム「歌ひとすじ」(株式会社ユーキャン)を参考にしています。
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3分間のドラマ 第1回

2017年03月01日 | ブログ
ノーベル文学賞

 昨年のノーベル文学賞は、米国のミュージシャンであるボブ・ディラン氏が受賞した。これまで文学賞といえば世界の小説家や詩人が受賞してきたイメージがあり、シンガーソングライターとはいえ歌手が受賞するのは異例のように思えたものだ。もっとも受賞はその作詩に与えられたもののようだ。

 ただ、私などボブ・ディランと聞けば、ガロの歌った「学生街の喫茶店」(1972年、作詞:山上路夫、作曲:すぎやまこういち)の中のワンフレーズとしてしか知らなかった。『・・・学生でにぎやかな この店の 片隅で聴いていたボブ・ディラン・・・』

 日本人のノーベル文学賞は、1968年の川端康成氏、1994年の大江健三郎氏があり、谷崎潤一郎氏や安部公房氏、三島由紀夫氏なども候補にのぼったことがあるそうで、昨今は村上春樹氏に注目が集まり、毎年、今年こそと受賞を待ちわびるファンが世界にも多いようだ。因みに川端、大江の両氏は東大卒で、理系ではノーベル賞で京大に後れをとった東大だが、文系では先行している。

 川端康成氏の初期の短編「伊豆の踊子」は何度も映画化されているので、夙に著名であり、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の書き出しで知られる「雪国」も有名である。

 映画「伊豆の踊子」では、われわれ世代の知るところ、吉永小百合さん(私役:高橋英樹氏)や山口百恵さん(私役:三浦友和氏)など、当時のアイドルスターが踊子を演じた。また、三浦洸一氏の歌った「踊子」(1957年、作詞:貴志邦三、作曲:渡久地政信)は大ヒットしたけれど、まさに「伊豆の踊子」を歌ったもの。『さよならも 言えず 泣いている わたしの踊子よ ああ 船が出る・・・』

 この稿を書くにあたり、「伊豆の踊子」を読み返してみた。踊子は14歳という設定だけれど、モデルの踊子は実はもう少し若かったのではないか。舞台設定の大正時代と現代では、少女の女性への変換期にも差があり、個人差もあろうけれど、踊子のあどけなさ、純真さは恐らく作者が愛した無垢の少女のものだ。所詮小説であり、小説の中の20歳(作者は当時19歳)の一高生の実らぬ恋のお相手は14歳でいいのだ。

 伊豆には踊り子の像が何体あるのか。伊豆の自然に、美しいこの国の里に溶け込んでいる。そして名作のインパクトの大きさが伺われるものだ。毒気を発するどこかの国の少女像とは対照的である。

 対照的と言えば、同じ伊豆を舞台に描かれた石川さゆりさんが歌って大ヒットし、歌い継がれている「天城越え」(1986年、作詞:吉岡治、作曲:弦哲也)がある。こちらはどろどろの愛憎劇。作詞の吉岡治氏が松本清張氏の小説「天城越え」をモチーフに作ったともいわれる。『・・・誰かに盗られるくらいなら あなたを殺していいですか・・・』

 ドラマは映画なら1時間半から2時間。小説なら短編でも原稿用紙数十枚にはなろうか。しかし、歌は3分間で表現しきる。歌謡曲はまさに3分間でドラマを演じ切る世界である。この国にはノーベル文学賞候補になってもいいような作詞家が大勢いたように思う。


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