中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

閑話つれづれ其の11

2008年08月29日 | Weblog
欲窮千里目更上一層楼

 2006年3月の日本経済新聞の囲み記事に、円覚寺(神奈川県鎌倉市)の管長から当時の小泉首相に贈られた書額の話があった。「欲窮千里目更上一層楼」中国唐代の詩人の詩とのことである。「遠くを見るためにはより高い所に上がらなければならない」という意味だそうだ。足立管長の「日本の将来と人類の前途を考えてもう一段高いところから判断して欲しい」との言葉に、首相は「そうだ」と深くうなずき「いい言葉だ。書を胸に秘めて政治にあたっていきたい」と気にいった様子だったと書かれていた。

 筆者なども経営コンサルタントとして日々研鑽を積み、より高みに上りより幅広い見地からクライアント企業をアシストできなければならない。少し以前になるが、日経ビジネスに載っていた広告に、「より高く、と思った人だけが、より高い場所へたどり着ける」というコピーがあった。思いは大切である。筆者の座右の銘としている。

 書額の話が載った同じ時期、同紙に全く異なる内容だけど、同様に小さな囲み記事があった。ある水族館で保護していた雌のオットセイを太平洋にかえしたという話だ。保護したのはキタオットセイの成獣で、海水浴場の砂浜付近で胎児を産みかけている状態で動けなくなっており、胎児はすでに死んでいた。沖合い約7キロの海にかえされたオットセイは元気で、送った海上保安部の巡視艇を何度か振り返るようなしぐさを見せたという。

 出産とは野生の動物にとっても難事業であることが分る話であると同時に、救われたオットセイが人々に感謝しているようなしぐさを見せたことがいじらしく、この記事を書いた記者の心根と共に、いい話だと思った。
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閑話つれづれ其の10

2008年08月26日 | Weblog
海猿

 定年退職して、こうして自営業をやっていると、サラリーマン時代にはなかった平日の昼間の時間が取れる。昼間にたまたま点けたテレビドラマの再放送番組に嵌ることがある。

 昨年秋には「電車男」(再放送)に嵌った。伊東美咲さんはそれ以前に映画の「釣りバカ日誌16」のヒロイン役で見たことがあったが、美人であること以外引かれる印象はなかった。逆に恋心の演技力が不十分にさえ感じた。しかし、この「電車男」でのエルメスさんは見事と思う。エルメスを演じて、「美咲の前に美咲なく、美咲の後に美咲なし」である。私人としての伊東美咲さんは、一般的にいうカッコイイ二枚目より、伊藤淳史さん的タイプが好みではないかと思えるほどである。物語の内容については皆さん詳しいと思われるので省略する。

 最近は「海猿evolution」(再放送)に嵌った。これも番組表から見つけたのではなく、たまたま点けたテレビに映ったのがテレビ版の第1回目であった。劇場版第1作はレンタルDVDで以前に観ていた。テレビ版はこの続きの設定で、毎回テーマが設定されており、登場人物が主人公を中心にこの課題を克服してゆく。筋立ては勿論、海上保安庁の艦艇や潜水場面の実写と思われる影像は迫力満点である。

仕事は誰しも、生活のためにだけにやっているわけではないが、海上保安官である主人公とその仲間の使命感や日々の訓練には頭が下がる。仕事と家族、仕事と恋人との狭間で、悩みながらも自分の命を盾に人の命を救うという使命に奉じる人々がいることを、このドラマは教えている。極限の状態の中で、仲間を見捨てなければならなかった男の悔恨。不審船を追い自爆に追いやって失われた犯罪者の命に、わが手が汚れたと悩む隊員。自殺者が毎年3万人以上いる日本であればこそ、一人一人の命の重さを訴えるドラマには感動がある。世相がドラマを作り、またドラマが世相を誘導もする。

 やや話が飛躍するけれど、筆者が物心ついた戦後間もない時代。まんが本には太平洋戦争を扱ったものが結構多かった記憶がある。いかなる経緯の戦争であったにしろ、祖国のために戦い死んでいった人々への慟哭と感謝があったのではないか。まんがに描かれた日本軍をいくら応援しても結果は翻らない。「俺が居れば、負けなかった。」子供心に思ったものだ。

しかし、いつの頃からか、わが国には方策無き平和主義が蔓延ってしまった。今や日本が侵攻されても戦うというのは国民の約4分の1程度とのこと。アジア周辺諸国では自国を守るために戦うという人は8割を超えている。一方で、以前は北の空で最近は南で、航空自衛隊機のスクランブル発進が繰り返されていると聞く。それは自衛官の仕事だからと、もし有事の際にも言われたとしたら、前線の兵士は誰を守るために戦うのか。自衛官のドラマも欲しいものだ。真に平和への願いを込めた。
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閑話つれづれ其の9

2008年08月23日 | Weblog
ダルマ絵

 会社に入っても柔道部に入部した。熱心な先輩がおられた。就職した以上あくまで仕事が中心、柔道は趣味に過ぎないと思っていた。しかし、クラブ活動には不向きと思われる三交代勤務の没個性的システムが、却って個人競技への憧憬を強くした。熱心な先輩方の導きもあって、いつしか思っていた以上に柔道にのめり込むことになる。

 柔道部には初老の師範がおられた。戦前京都武術専門学校を卒業されて、戦前・戦中は台湾において嘱託警察官の身分で、当地の警察官に柔道を教えていたそうだ。戦後は帰国して整骨院を生業とされ、小さいながらも町道場を持っておられた。市や県の柔道協会、整復師会の要職にあるだけでなく、保護司として、その会の世話役もされていた。大臣を歴任されたさる偉大な政治家の選挙では遊説隊長でもあった。地元の警察署長が新任の挨拶に見えたときに、「時には署にも遊びに来てください。」との外交辞令に、「警察は遊びに行くところか!」と一喝されたと、奥様がニコニコしながらぼやいておられた。

師範には入社して間もない頃、一度だけ稽古をつけていただいたことがある。足技でコロコロと転がされる。そして寝技に転じられる。必死に寝技を逃れてもまたころりと投げられて寝技の攻撃を受ける。非常に正攻法の寝技であったため、高校時代の訓練が効いた。寝技は何度もすり抜けた。少し手を抜かれているようにさえ感じた。しかし後日師範からは、その時の寝技を何度もお褒めいただいた。

寝技の基礎訓練は一人でもできる。道場を這った。海老で、肩抜きで跳ねた。加えて高校2年生の時、寝技大好きな先輩に目をつけていただいて、二人での居残り稽古を随分つけていただいた。立ち技は運動神経の悪い筆者には不向きだったが、寝技は練習量がそのまま成果に結びつきやすい。不器用で締め技は不得手だが、固め技と関節技には自信があった。そんなことが、武専出の師範にも褒めていただくことにつながった。しかし、入社当時試合では、何でもない相手に押さえ込まれたり、果ては締め落とされたこともある。練習と実戦は異なる。実戦の要領を会得するのには少し時間がかかった。

 師範には筆者の不様な敗戦も、運よく強豪を倒した試合もじっと見守っていただいた。筆者転勤の際に師範から銭別にいただいた直筆の「ダルマ絵」は、わが家の床の間に今も飾られている。転勤後、全国整復師会柔道大会のため近くに来られた師範に呼んでいただいた。「与えられた境遇の中で、しっかりと柔道に取り組んだのだから」と、会話の中で至らぬ筆者の柔道をなぐさめていただいた。ダルマ絵には「転んでも直ぐ起き上がるだるま哉」と師範の達筆で添えられている。
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閑話つれづれ其の8

2008年08月20日 | Weblog
光る海

 筆者高校柔道部の同期で主将を務めた友人が死んだ。享年22歳。詳細は分らない。工業高校の建築科を卒業後夜間大学に通っており、アルバイト先の事故であったと聞く。火ダルマになって息を引き取る寸前にも「まだまだやらねばならん」と言ったという。彼の父親はその話から、息子のその根性は柔道で培われたものであると感動し、母校の柔道部に相応の寄付を行った。その基金から彼の名を刻んだ校内柔道選手権カップが誕生した。

 彼の父君は板金業で、筆者などからみればかなり裕福な家庭に見えた。夜間大学というのも彼の独立気性からの選択に過ぎなかったのではないか。彼には練習帰りにたこ焼きを奢ってもらったことがある。奢り返す機会もないままとなった。

 母校の柔道部は筆者の代までは弱かった。県大会の1回戦敗退が多かった。しかし、練習は熱心だったし、筆者の代では1年生から毎年夏休みには1週間から10日間の合宿も行った。瀬戸内海の島、そこにある県立高校の分校の道場での合宿合同練習。思い出は書き尽くせない。

 3年生の時は、同期10人くらいが卒業間際まで後輩の練習に付き合った。当時県警機動隊の先輩が熱心に指導に来ておられ、練習は夜の9時頃まで続くこともあった。お陰で、1年後輩は春の県のスポーツ祭で準優勝を飾る。県内の高校の柔道は全国的にみて低いものではない。近隣の私立校の1年後輩には現在の無差別級世界王者(2007年世界選手権者)棟田康幸の父君利幸氏が居た。利幸氏自身往年は全日本選手権の常連であり、高校時代から強かった。筆者は高校時代1度だけ、利幸氏の柔道を見た。立ち技からの脇固めを掛けたのが印象的で、気性の激しい柔道に見えた。見事な息子さんを育てられたものである。

 市内中央に位置する城山にも柔道着でよくトレーニングに走った。そんな時、同期の主将の音頭でよく歌ったのが、吉永小百合さんの「光る海」*7)だった。「激しい日もある和む夜も、我らは若い波頭・・・・青春、青春こそは光る海、ああ金色に光る海」



   *7)佐伯孝夫作詞、吉田正作曲 64年ビクター
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閑話つれづれ其の7

2008年08月17日 | Weblog
友情と遺恨

 東京オリンピック柔道無差別級決勝を争ったヘーシングと神永先生はその後友情で結ばれ交流があったようだ。神永先生が網膜剥離を患った折にも、ヘーシングは見舞っている。

ヘーシングの勝利の瞬間、興奮したオランダ関係者が試合場に駆け上がろうとしたのを、ヘーシングは厳しく制した。柔道はじめ日本の武道はショーとして発達したものでないため、観衆にアピールするようなポーズは本来とらない。敗者に対する労わりもある。囲碁や将棋にもその傾向は顕著だ。ヘーシングは確かに神永先生を圧倒したけれど、彼は日本の武道を深く理解しかつ謙虚であった。その技においては神永先生を尊敬するところが大きかったのだと思う。その気持ちが両雄の友情に繋がったのであろう。

 思えばあの頃の柔道は美しかった。北京オリンピックの柔道でみる通り、最近の国際柔道は、まず中々組み合わない。レスリングのように始めから手で足ばかり狙うことも多い。何がなんでも勝ちたいいという勝利への執念は大切であるが、勝利に至る工程が美しくないと、延いてはその種目の衰退に繋がりかねない。神永先生もヘーシングも正々堂々の美しい攻防を繰り広げた。

 話を本題に戻そう。そんな中、東京オリンピックで柔道無差別級を制した全盛期のヘーシングを見て、「私だったらヘーシングに勝てる」と断言した柔道家がいた。「柔道の鬼」、「昭和の姿三四郎」、「木村のまえに木村なく、木村のあとに木村なし」などと謳われた木村政彦である。柔道史の上で鬼の名を冠せられるのは横山作次郎(講道館四天王の一人)、徳三宝、牛島辰熊そして木村政彦である。

 戦前から戦中にかけて、相撲の双葉山、将棋の木村義雄14世名人そして柔道木村政彦は常勝の庶民のヒーローであったそうな。拓殖大学の後輩にあたる極真空手の創始者大山倍達も木村を兄貴と慕い敬っていた。木村政彦は強く、そして人間的にも魅力溢れる人物であったようだ。

 その木村は戦後プロ柔道に転じ、プロレスラーともなった。そしてかの有名な力道山との一戦がある。木村はすでに全盛期の木村ではなく、ショーとしてのプロレスを生業としていただけだ。一方力道山には野心があったのではないか。日本一のプロレスラーは自分であると。試合前の申し合わせは反故にされ、突如真剣勝負にさらされた木村は大観衆の前で打ちのめされる。

 この顛末に、本人は勿論、木村の熊本県鎮西中学の大先輩であり拓大での柔道の恩師でもあった牛島辰熊、極真空手の大山倍達らは逆上した。大山は一時力道山を付狙い、路上勝負も厭わぬ構えであったとある。その後力道山は、テレビの普及とも相俟って外人悪役レスラーをやっつける庶民のヒーローとして大活躍する。しかし、ヤクザの短刀に不慮の死を遂げる結末を迎える。

 正々堂々の勝負は友情を育み、あるショーの顛末は恨みしか残さなかった。


  
本稿は、工藤雷介著「秘録日本柔道」および原康史著「実録柔道三国志」に加えて、木村政彦著「鬼の柔道」(株)講談社昭和44年刊および
  大山倍達著「大山倍達わが空手修行」(株)徳間書店昭和50年刊を参考にさせていただきました。
  なお、本稿では登場していただいた方のほとんどに、敬称を略させていただきました。ご了承ください。
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閑話つれづれ其の6

2008年08月14日 | Weblog
段位

 日本の武道における段位は、柔道が先駆と聞いている。囲碁や将棋でも段位は権威を持って允許されている。しかし、その段位と強さの相関性については、分りにくいところがある。大体柔道の場合、「4、5段くらいが一番強いんだよね」というのが通り相場で、確かに全日本柔道選手権などの出場選手は3段から6段くらいまでである。

 囲碁や将棋にしても一度昇段すると決して下がることはないので、プロの将棋界では特に、年配の高段者が若手の低段者にひねられたりすることは珍しくは無い。プロ棋士の昇段規定が、いきなりタイトルホルダーにでもならない限り、累積勝ち星によるところが大きいためである。

 柔道の場合、段位には年齢規定があり、現役選手として活躍する年齢では、7段以上にはなりにくい。9段以上にもなると「殿堂入り」のようなものと考えていいのではないか。一方、現役時代でも昇段試験を受けなければ段位は据え置かれるため、初段が現役の5段を投げ飛ばすこともあり得る。日本選手権に出てくるような3段は恐らく学生だと思うが、その若さゆえの3段である。因みに20歳以上で5段になれるようだが、20歳で即5段になった選手は聞かない。筆者の私見ではあるが、柔道3段の力は、大体高校生の県代表クラス。実力5段といえば、成人の部の国体や大学選手権地区代表の現役選手を考えればいいのではないか。

段位は、選手から退いた後にも柔道関係の団体に貢献があれば、現役時代の実績に基づいて昇段するため、その段位に昇段した年齢が、その人の往年の実力を示しているように思う。ただ強さだけでなく、形の熟達度にも加えて年功や組織への貢献も加味した昇段システムは、それはそれでいいシステムと思う。

 いずれにしても段位は、それぞれがそれぞれの武道に打ち込んだ良い証であり、良き称号であると思う。
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閑話つれづれ其の5

2008年08月11日 | Weblog
柔道と東京オリンピック

 柔道は、東京オリンピック(1964年)のときにその正式種目に取り入れられ、国際化がさらに加速した。そして、東京オリンピックの柔道無差別級を制したのは、3年前に行われたパリでの世界選手権の覇者オランダのヘーシングであった。当時日本の無差別級代表神永先生はすでにその全盛期を過ぎており、高校時代講道館の紅白試合で19人抜きを演じ、二段を飛んで異例の三段に昇段した天才柔道家も、体力差を跳ね返すことはできなかった。というより、練習量において劣っていたことも事実ではなかったか。日本では柔道専門家の道はなく、選手は大学を卒業するとサラリーマンとなる。当時の大手企業は現在よりもスポーツ活動に助力していたとは思えるが、逆に現在よりオリンピック選手にアマチュアイズムが求められていたように思う。恐らくまじめな神永先生が、練習のためと仕事を疎かにはされなかったのではないか。そんな話を聞いたように思う。

しかし、その後神永先生は、母校明治大学柔道部監督となり、当時無名の上村春樹を見出し、全日本学生チャンピオンに育てている。そして上村は、モントリオールオリンピック(1976年)柔道で無差別級金メダリストとなり、神永先生の雪辱を果す。この話はNHKの「プロジェクトX」でも取り上げられた。

 パリの世界選手権の日本の敗北は、筆者は銭湯のニュース掲示板で知った記憶がある。町の銭湯がまだ賑わっていた時代。柔道を始める前、中学生の頃であった。当時柔道を習いたいと思っても町に道場もなく、中学にも柔道部はなかった。

高校入学と同時に憧れの柔道部に入部した。柔道着はやはり高校柔道部に所属した長兄のお下がりがあった。翌年に東京オリンピックを控え、柔道人気はすさまじく、母校の当時弱小の高校柔道部さえ新入部員が殺到して、説明会の教室は溢れ返った。狭い道場もいつも満員で、打ち込み練習でさえままならない。しかし、毎日休まず練習に通った。柔道着は中古とはいえ、特に痛みもなかった白帯は擦り切れるまでに使った。

 筆者高校2年生で東京オリンピックが開催される。丁度修学旅行で、例年の東京行きは九州1周のバス旅行に変更された。長崎のグラバー亭で「円谷頑張れ」*5)を聞いた。東洋の魔女*6)のソ連を破った決勝戦は宮崎だったと思う。先立った聖火リレーの地元セレモニューではマスゲームに参加した。日本は高度経済成長の真っ只中にあった。


  
  *5)円谷幸吉(1940年-1968年)。陸上自衛隊三等陸尉。東京オリンピック男子マラソン銅メダリスト。ゴールの国立競技場に2位で戻って来たが、イギリスのヒートリーにトラックで抜かれた。この時の「円谷頑張れ」であった。東京オリンピックで日本は、金16個、銀5個、銅8個を獲得したが、陸上競技では円谷選手のメダルが唯一のものであった。その後メキシコ大会での活躍を期して練習に打ち込んでいたが、椎間板ヘルニアを患い往年の走りができず、苦悩のうちに自殺。「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました・・・」に始まる遺書と共に世間に衝撃を与え、多くの人の涙を誘った。(By Wikipedia)
  *6)「The Oriental Witches」 東京オリンピックのバレーボール決勝戦を解説していた米国テレビ局コメンテーターの日本勢の攻撃のたびに発したこの言葉に由来する。本来は野次や蔑視語といわれる。
    大松監督に率いられた河西選手や宮本選手など12選手が東京オリンピックのゴールドメダリスト。(By Wikipedia)
   本稿、一部ご登場いただいた方の敬称を略させていただきました。ご了承ください。
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閑話つれづれ其の4

2008年08月08日 | Weblog
柔道の話

 北京オリンピックが開幕しました。オリンピックで日本が最も多くの金メダルを期待される柔道のお話です。

 講道館柔道は、明治15年(1882年)東京・下谷の永昌寺でうぶ声をあげたといわれる。創始者である嘉納治五郎先生は当時22歳。前年東京帝国大学文学部を卒業されて神田錦町にあった学習院の教師をされていた。門人は1名、嘉納家の書生山田常次郎(後の富田常次郎師範)当時18歳である。富田常次郎師範(講道館四天王の一人)はあの有名な小説「姿三四郎」の作者である故富田常雄氏(6段)の父君である。その年永昌寺の講道館に、姿三四郎のモデルとなる西郷四郎15歳が入門し、2人目の門人となる。その後西郷四郎(追贈6段)は、幾多の柔術各派との試合に勝利し、講道館柔道の名を天下に知らしめる。

そして現在、国際柔道連盟には195の国と地域が参加するまでに発展した。この間幾多の先人が海を渡り、危険な他流試合に臨み、また私財を投じてその普及に尽力したかは計り知れない。オリンピックで、「はじめ」、「一本!」、「それまで」と審判がすべて日本語で発する競技が他にあろうか。

 また、嘉納治五郎先生は、1909年東洋で初のIOC(国際オリンピック委員会)委員になっておられ、日本のオリンピックへの参加の道を開いた立役者でもある。日本が初めてオリンピックに参加した1912年(明治45年)の第5回ストックホルム大会では、日本選手団*4)の団長を務めておられる。さらに日中戦争の悪化で幻に終わった1940年(昭和15年)の東京オリンピック招致に重要な役割を果されている。危険な技の多かった柔術を武道の精神を残しながら体育としての柔道に変えた嘉納先生の理念は、スポーツを通じた青少年の健全育成、モラルの向上というオリンピックの目標とも合致していたのだ。

 嘉納先生は1938年(昭和13年)カイロIOC総会からの帰国途上に船上で急死(享年78歳)されたため、東京オリンピックが返上されたことを知ることはなかった。しかし、その夢は26年後に実現する。柔道が正式種目となるという夢のまた夢を加えて。



  *4)マラソンの金栗四三、陸上短距離の三島弥彦、監督の大森兵蔵と団長の嘉納治五郎(当時東京師範校長)。日本のオリンピックはこの4名の選手団で始まった。
  本稿は、工藤雷介著「秘録日本柔道」および原康史著「実録柔道三国志」いずれも東京スポーツ新聞社/出版局版
  また、1999年7月讀賣新聞朝刊「スポーツ100年」-嘉納治五郎とその時代-を参考にさせていただきました。
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閑話つれづれ其の3

2008年08月06日 | Weblog
手遅れ医者

 筆者が工場勤め当時、工場では社員啓発の一環として、種々のテーマで有名人を招いての講演会があった。いろいろ聞かせていただいたけれど、2001年10月健康講演会での演芸ジャーナリスト大友一平氏の演題「21世紀に笑うのはあなた」-ストレスからの脱出法-には脱帽した。現在はストレス社会といわれ、自殺者毎年3万人。連続で3万人を超えている。日本が一番多いそうだ。またホームレスも増加している。そんな世相を、ストレスを笑いで吹き飛ばそうというものであった。

 『「お笑い」というと馬鹿にされていました。最近ようやく風が吹いてきました。お笑いが認められるようになりました。人間は笑うことで、体内の免疫力が向上するという医学的なデータさえあります。ニコニコが大切、日本の諺にも「笑う門には福来る!」というのがあります。医療費急増、年間30兆円。薬づけ。この30年間で小売業は30万軒がなくなった。しかし、薬屋だけは6万軒増えました。でも健康の秘訣は笑うこと。しかも笑いには副作用はありません。

 IT時代までいかなくても、何でも便利になりすぎた。スイッチ一つでご飯も炊ければ、洗濯も出来る。仕事だってオートメーション。本来個々の人間が関わってきたプロセスが抜けてしまった。達成感は希薄になるし、周囲の人々とのコミュニケーションも少なくなる。子供たちも仲間とコミュニケーションをとることが下手になった。不登校が13万人。私どもの時代には考えられなかった。

 昔デジタル時計が全盛の時代があった。しかし今、ほとんどの人は以前のようにアナログ時計をしている。確かに1分1秒が大切なこともあるが、我々の人生では1分1秒なんてどうでもいいんです。時間なんて大体何時何分頃分かればいい。

 以前、局アナからフリーに転じて3年後癌に倒れた有名なアナウンサーがいた。フリーとなって年収は50倍になった。しかし忙しくて中々医者に掛かれない。診察を受けた時は手遅れだった。手遅れはいけない。

落語に「手遅れ医者」というのがあります。どんな患者にもまず「手遅れです」という。直れば名医ということになる。ある時、兄弟の大工の兄貴が屋根から落ちて大怪我をした。手遅れ医者に担ぎこむと、案の定「手遅れです」。これには弟も流石に怒った。「今落ちたところですよ!!」。医者いわく「いや落ちる前にこなくてはダメです」』

 話し替わって、2000年3月に講談社から出た「談志百選」*2)に載っていた面白い話。ある落語家のことである。

『金語楼師*3)も妙な発明をしていたが、奴も同様で「注ぎ口が二つある急須」を見た事がある。一度に二つの茶碗にお茶が注げる。という発明らしい。で、「三つ茶碗が出てきたらどうする」に件(くだん)の落語家、そのときは“万 事休ス”だとサ、実にくだらない。この落ちをいう為の発明らしい』



 *2)立川談志(落語家。立川流家元。1936年- )著
 *3)柳家金語楼(やなぎやきんごろう)。(1901年-1972年)
 落語家、喜劇俳優。NHKテレビ『ジェスチャー』の白組キャプテンとして活躍。発明家でもあった。団塊世代には親しみのある喜劇人。
  本稿、大友一平氏のご講演の内容につきましては、笑いの創作ネタの勝手な公開を避けるため、一部導入部分のみの紹介とさせていただきました。
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閑話つれづれ其の2

2008年08月03日 | Weblog
カイコだけが絹を吐く

扇谷正造氏の「君よ朝のこない夜はない」は昭和59年(1984年)に出た本だから相当古いが、そこにある講演の中に忍ばせたユーモア話はいつでも通用する。講演で、衆議院選東京三区に越智通雄氏が立候補した時の話をする。

『選挙事務所の知恵で「オチミチオ上から読んでもオチミチオ、下から読んでもオチミチオ中にミのあるオチミチオ」と選挙カーから連呼した。これを聴いた子供たちが、語呂がいいので流行り歌のように口ずさみ、一気に有名となってその選挙でトップ当選を果した。という話に加えて、ただし、投票用紙の何通かに、「山本山」というのがあったそうであります。とやる。場内爆笑となる。』この山本山の部分、すなわち落ちの部分は扇谷氏の創作である。

 これも創作ではないかと思うのだけれど、ご存知のように作家瀬戸内晴美氏は出家され尼さんとなられて久しい。氏が出家された当時の話。『出家されたとはいえまだ流行作家には変わりなく、新聞小説の締め切りが迫り忙しい中、新聞社の若手の記者とのやりとりがある。我慢ならなくなった記者氏が「瀬戸内さん、あなたそれでもプロですか」。これに瀬戸内氏「何を生意気な」といいたいところを静かに「いいえ、私はアマ(尼)です」。と答えたという。』

 ユーモア話ではないが、この本には優れた氏の名言も散りばめられている。「空気にツメを立てろ」というのがある。低成長時代を勝ち抜くには、第一に「問題意識をもって事にあたれ」ということである。筆者なども工場で小集団活動をやっていた当時は、リーダー研修などで、「リーダーたるもの職場の問題点を7つくらいは列記できないといけない」と教えられた。しかし「空気にツメを立てる」と表現する感性がすごい。

「カイコだけが絹を吐く」というのもある。説明など聞かなくても何となく感じるいい言葉だ。この地球上には何千何万という昆虫がいる。それらの昆虫はみな同様に木の葉ッパや草の茎を食べて生きている。その中でカイコだけがやがて繭になって、美しい美しい絹糸を作り出す。「問題意識を持つ人間、自分の頭でモノを考える人間」だけが周囲に美しい、いい思い出を残して死んでいく。カイコのように。ということのようだ。
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