美名の裏側
近年「働き方改革」という耳障りの良い言葉が流布され、企業の社員という働き方を、個人事業者と呼称を変えて、企業の担ってきた社員に対する身分保障を、好きな時に切り捨てることのできる制度へと移行させた。
その前に「派遣」という言葉が拡散した。本来企業が社員として採用すべきところを、派遣会社という業者から従業員を調達するようになった。この件に関しては、ネットに永井俊哉氏が以下のような小論文を載せておられるので、引用させていただく。2021年11月のことだ。
『「日本経済はなぜ没落したのか」の視聴者から「派遣労働法を取り入れたのは、小泉、竹中世代?」という質問が来たので、お答えいたします。多くの人は、規制緩和によって派遣労働を推進したのは、小泉と竹中と思っていますが、労働者派遣法が成立したのは、1985年の中曽根内閣の時です(施行は翌年)。つまり、この規制緩和は、1980年代の土光臨調と中曽根行革にまで遡るということです。但し、当時派遣が解禁されたのは、専門知識を必要とする13業務に限定されました。
中曽根行革に続く行革は、橋本行革です。1996年、橋本内閣の時代に、対象業務が26業務に拡大されました。しかし、最大の規制緩和は、1999年の小渕内閣によってなされた改正で、この時に、派遣労働の対象が原則自由となり、禁止業務だけが定められるネガティブ・リストの形を取るようになりました。2003年に小泉内閣のもとで製造業務への労働者派遣が解禁されたとはいえ、なぜ非難されるのはもっぱら小泉内閣で、より抜本的な規制緩和に踏み切った小渕内閣ではないのでしょうか。おそらく、小渕内閣が公共事業を増やしたのに対して、小泉内閣は減らしたので、小さな政府を嫌う勢力は、小泉内閣だけを攻撃したいからでしょう。
派遣労働に関するもう一つのよくある誤解は、パソナ会長(2022年7月退任)の竹中平蔵が、自社の利益のために派遣労働を推進したというレント・シーキング説です。竹中が大臣あるいは参議院議員の任にあったのは、2001年4月から2006年9月までで、パソナの特別顧問に就任したのは2007年2月、会長に就任したのは2009年8月です。そもそも、竹中は派遣労働を直接所管する厚生労働大臣には就任していないのですから、竹中が中心となって派遣労働を推進したというのはおかしな話です。もちろん、竹中は、政治家を辞めた後にも様々な政策を提案していますが、直接政治権力を持っているのではない以上、責任は、提案を受け入れる政治家にあって、民間人の竹中にはありません。』
論理的に派遣法改正を辿れば、上記の通りなのでしょうが、われわれ一般国民は法の規制は受けるのですが、法律が出来ましたと言って、すぐに認識し対応する能力は持っていません。というよりその法律が定着して多くの人々が現実にその影響を受けるようになるまでに時間を要するのが普通です。従ってここ失われた30年の源流を辿れば、日中友好と小泉・竹中両氏による、派遣法改正の流れの継続があるのだ。少なくとも悪い流れを止めるどころか、推進派としての責任は大きい。総理夫人の民間人論理と同様、誰であろうがやって来たことに責任はある。