21世紀に残したい経営語録3
トヨタ自動車は昨年販売台数でGMを抜き去り世界1となった。日本の与野党攻防ではないが、敵失による浮上という感もなくはないが。「トヨタ生産方式」、「カイゼン」など世界に通用する日本語を発信した偉大な企業であることは間違いない。そんなトヨタと私の係わりは、1966年(昭和41年)、すなわち私がM社I工場に入社した年にあった。
全日本実業団対抗柔道大会が福岡で開催され、私たちの工場柔道部も出場した。現在実業団柔道大会は女子の部もあるようだし、男子は三部制のようだが、当時は一,二部のみで、一部に出場は強豪で10チームに満たなかったように思う。私のチームは二部に出場したが、全国100チーム程度の参加の中、その初戦に当たったのが「トヨタ自動車愛知」だったのだ。
一部には明治大学卒業後旭化成に入社していた坂口征二氏も出場されていた。勿論、後にプレスラーとしても大活躍した「世界の荒鷲」坂口である。実業団柔道団体戦は体重別などなく、博多駅に降り立つとプロレスラー並みの選手の柔道着を担いだ姿が目立った。そんなことだから、宿舎の旅館では仲居さんから「あなた達はあまり強そうではないでね」と言われてしまった。
「経営語録100」の最後、第4章「バブル崩壊から国際化の試練に挑む」に登場されているのが、1999年当時トヨタ自動車名誉会長であった豊田章一郎氏*20)である。表題は「真面目に、地道に、一生懸命に」。100の語録の表題の中で最も普通の言葉で、それでいて最も素晴らしい言葉に思える。苦しい時代でも‘日本のものづくり’はこの言葉に凝縮された歩みを続けるべきであろうと思う。
『昨年(1998年)、経団連会長の仕事を終え、この6月末にはトヨタ自動車の会長も退きましたが、まだひとつ、気掛かりなことがあります。日本のモノ作りがこの先、どうなってしまうのかという不安です。ずっとモノ作りが重要と唱えてきたから、・・・』
『入社の5年後、32歳の時に機会があり、ドイツのフォルクスワーゲン(VW)の工場を見せてもらいました。それはまさに驚きでした。VWはそこで1日2000台の自動車を作っていた。トヨタは当時、月に2000台。どうすればこの差を埋められるかと、呆然となりました。カメラを手に、工場の写真を撮らせてもらえないかと尋ねると、「どこでも(撮って)いいですよ」という返事。相手には、どうせ追いつけるわけがないという余裕があったのかもしれませんね。
私たちは考えました。欧米メーカーと同じ設備を導入して、同じやり方でクルマを作っても勝てっこない。それじゃ、どうすればいいのかと。たどり着いたのが生産技術とヒト、つまりモノ作りでした。たとえ設備が同じでも、もっと効率的に作れないのか。それと、腕を磨くことには無限の可能性がある。従業員一人ひとりの技術を高めていけば、いつかは欧米に追いつけるのではないかと、それはもう、真面目に、地道に、一生懸命にやりました。そうやって行き着いたのが、品質管理やかんばん、あるいは多品種少量の生産方式だったのです。』
*20)豊田章一郎 1925年愛知県生まれ。47年名古屋大学卒業、52年トヨタ自動車工業入社、82年社長、92年会長。海外生産拠点の強化に努め、トヨタを米GMに匹敵する世界トップクラスの自動車メーカーに育てる。
本稿は、日経ビジネス社刊「21世紀に残したい経営語録100」1999年10月刊 「第4章 バブル崩壊から国際化の試練に挑む」豊田章一郎 から引用(『 』内)させていただきました。
なお、全日本実業団柔道対抗柔道大会の出場チーム数については、私の記憶によるもので、正確ではない恐れがあることを、お断りさせていただきます。
トヨタ自動車は昨年販売台数でGMを抜き去り世界1となった。日本の与野党攻防ではないが、敵失による浮上という感もなくはないが。「トヨタ生産方式」、「カイゼン」など世界に通用する日本語を発信した偉大な企業であることは間違いない。そんなトヨタと私の係わりは、1966年(昭和41年)、すなわち私がM社I工場に入社した年にあった。
全日本実業団対抗柔道大会が福岡で開催され、私たちの工場柔道部も出場した。現在実業団柔道大会は女子の部もあるようだし、男子は三部制のようだが、当時は一,二部のみで、一部に出場は強豪で10チームに満たなかったように思う。私のチームは二部に出場したが、全国100チーム程度の参加の中、その初戦に当たったのが「トヨタ自動車愛知」だったのだ。
一部には明治大学卒業後旭化成に入社していた坂口征二氏も出場されていた。勿論、後にプレスラーとしても大活躍した「世界の荒鷲」坂口である。実業団柔道団体戦は体重別などなく、博多駅に降り立つとプロレスラー並みの選手の柔道着を担いだ姿が目立った。そんなことだから、宿舎の旅館では仲居さんから「あなた達はあまり強そうではないでね」と言われてしまった。
「経営語録100」の最後、第4章「バブル崩壊から国際化の試練に挑む」に登場されているのが、1999年当時トヨタ自動車名誉会長であった豊田章一郎氏*20)である。表題は「真面目に、地道に、一生懸命に」。100の語録の表題の中で最も普通の言葉で、それでいて最も素晴らしい言葉に思える。苦しい時代でも‘日本のものづくり’はこの言葉に凝縮された歩みを続けるべきであろうと思う。
『昨年(1998年)、経団連会長の仕事を終え、この6月末にはトヨタ自動車の会長も退きましたが、まだひとつ、気掛かりなことがあります。日本のモノ作りがこの先、どうなってしまうのかという不安です。ずっとモノ作りが重要と唱えてきたから、・・・』
『入社の5年後、32歳の時に機会があり、ドイツのフォルクスワーゲン(VW)の工場を見せてもらいました。それはまさに驚きでした。VWはそこで1日2000台の自動車を作っていた。トヨタは当時、月に2000台。どうすればこの差を埋められるかと、呆然となりました。カメラを手に、工場の写真を撮らせてもらえないかと尋ねると、「どこでも(撮って)いいですよ」という返事。相手には、どうせ追いつけるわけがないという余裕があったのかもしれませんね。
私たちは考えました。欧米メーカーと同じ設備を導入して、同じやり方でクルマを作っても勝てっこない。それじゃ、どうすればいいのかと。たどり着いたのが生産技術とヒト、つまりモノ作りでした。たとえ設備が同じでも、もっと効率的に作れないのか。それと、腕を磨くことには無限の可能性がある。従業員一人ひとりの技術を高めていけば、いつかは欧米に追いつけるのではないかと、それはもう、真面目に、地道に、一生懸命にやりました。そうやって行き着いたのが、品質管理やかんばん、あるいは多品種少量の生産方式だったのです。』
*20)豊田章一郎 1925年愛知県生まれ。47年名古屋大学卒業、52年トヨタ自動車工業入社、82年社長、92年会長。海外生産拠点の強化に努め、トヨタを米GMに匹敵する世界トップクラスの自動車メーカーに育てる。
本稿は、日経ビジネス社刊「21世紀に残したい経営語録100」1999年10月刊 「第4章 バブル崩壊から国際化の試練に挑む」豊田章一郎 から引用(『 』内)させていただきました。
なお、全日本実業団柔道対抗柔道大会の出場チーム数については、私の記憶によるもので、正確ではない恐れがあることを、お断りさせていただきます。