中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

いい話を尋ねて⑲

2009年05月28日 | Weblog
21世紀に残したい経営語録3

 トヨタ自動車は昨年販売台数でGMを抜き去り世界1となった。日本の与野党攻防ではないが、敵失による浮上という感もなくはないが。「トヨタ生産方式」、「カイゼン」など世界に通用する日本語を発信した偉大な企業であることは間違いない。そんなトヨタと私の係わりは、1966年(昭和41年)、すなわち私がM社I工場に入社した年にあった。

 全日本実業団対抗柔道大会が福岡で開催され、私たちの工場柔道部も出場した。現在実業団柔道大会は女子の部もあるようだし、男子は三部制のようだが、当時は一,二部のみで、一部に出場は強豪で10チームに満たなかったように思う。私のチームは二部に出場したが、全国100チーム程度の参加の中、その初戦に当たったのが「トヨタ自動車愛知」だったのだ。

 一部には明治大学卒業後旭化成に入社していた坂口征二氏も出場されていた。勿論、後にプレスラーとしても大活躍した「世界の荒鷲」坂口である。実業団柔道団体戦は体重別などなく、博多駅に降り立つとプロレスラー並みの選手の柔道着を担いだ姿が目立った。そんなことだから、宿舎の旅館では仲居さんから「あなた達はあまり強そうではないでね」と言われてしまった。

 「経営語録100」の最後、第4章「バブル崩壊から国際化の試練に挑む」に登場されているのが、1999年当時トヨタ自動車名誉会長であった豊田章一郎氏*20)である。表題は「真面目に、地道に、一生懸命に」。100の語録の表題の中で最も普通の言葉で、それでいて最も素晴らしい言葉に思える。苦しい時代でも‘日本のものづくり’はこの言葉に凝縮された歩みを続けるべきであろうと思う。

 『昨年(1998年)、経団連会長の仕事を終え、この6月末にはトヨタ自動車の会長も退きましたが、まだひとつ、気掛かりなことがあります。日本のモノ作りがこの先、どうなってしまうのかという不安です。ずっとモノ作りが重要と唱えてきたから、・・・』

 『入社の5年後、32歳の時に機会があり、ドイツのフォルクスワーゲン(VW)の工場を見せてもらいました。それはまさに驚きでした。VWはそこで1日2000台の自動車を作っていた。トヨタは当時、月に2000台。どうすればこの差を埋められるかと、呆然となりました。カメラを手に、工場の写真を撮らせてもらえないかと尋ねると、「どこでも(撮って)いいですよ」という返事。相手には、どうせ追いつけるわけがないという余裕があったのかもしれませんね。

 私たちは考えました。欧米メーカーと同じ設備を導入して、同じやり方でクルマを作っても勝てっこない。それじゃ、どうすればいいのかと。たどり着いたのが生産技術とヒト、つまりモノ作りでした。たとえ設備が同じでも、もっと効率的に作れないのか。それと、腕を磨くことには無限の可能性がある。従業員一人ひとりの技術を高めていけば、いつかは欧米に追いつけるのではないかと、それはもう、真面目に、地道に、一生懸命にやりました。そうやって行き着いたのが、品質管理やかんばん、あるいは多品種少量の生産方式だったのです。』

 *20)豊田章一郎 1925年愛知県生まれ。47年名古屋大学卒業、52年トヨタ自動車工業入社、82年社長、92年会長。海外生産拠点の強化に努め、トヨタを米GMに匹敵する世界トップクラスの自動車メーカーに育てる。
本稿は、日経ビジネス社刊「21世紀に残したい経営語録100」1999年10月刊 「第4章 バブル崩壊から国際化の試練に挑む」豊田章一郎 から引用(『 』内)させていただきました。
なお、全日本実業団柔道対抗柔道大会の出場チーム数については、私の記憶によるもので、正確ではない恐れがあることを、お断りさせていただきます。
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いい話を尋ねて⑱

2009年05月25日 | Weblog
21世紀に残したい経営語録2
 
 田中内閣時代はオイルショックでいろいろ騒動もあったのだけれど、給料が1年で3万円以上あがったり、列島改造論で土地成金はじめインフレの恩恵に浴した人は多い。そんな中、73年の第1次オイルショックに伴う「狂乱物価」、74年は戦後初の「マイナス成長」と、今ほどではないにしても不況期であった。わが国の20年近く続いた高度経済成長が終焉した。74年の末には田中首相が退陣し、三木武夫内閣が発足している。

 そんな時代、75年の初頭に、当時松下電器産業(現、パナソニック)会長の高橋荒太郎氏*18)は、「消費者ニーズは不況期につかめ」と言っておられる。『景気に対する見通しは、希望的な観測を入れてやっちゃいかぬ。いちばん悪い時にどうあるべきかを考える。そこに新しい発想、創意工夫が生まれ、進歩が生まれる。』という。しかし、ほんとうに言いたかったことは21世紀の現在を見通しての警鐘ではなかったかと思う。

 『前の会社でも昭和5,6年の不況を経験したが、・・・その時にしみじみ感じたのは、人の大切さです。松下に入っていちばん感銘を受けたのは、物を作る前に人を作る会社だということです。昭和8年ごろすでに、企業の使命は社会的責任だと明確に打ち出していた。・・・』

 『うちの経営は銀行から金を借りるのではなく、内部留保、自己資本の強化でやっている。預金があるので土地を買わないか、株式に投資しないかとよく言われます。しかし、われわれは電機という分野を受け持ってその仕事に専念している。そのために不況などに備えて金を置いているのだと、私はいつも答えている。インフレで目減りするじゃないかと言われても、それは政治のあり方の問題で、土地や株式への投資は、社会への影響の大きい企業はやるべきではない。

 利潤は結果である。社会に貢献した度合いによって認証される報酬しかいただけないのだ、こう考えております。資金力を競争に使ってはいかぬ。資金を暴力に使ってはいかぬ。・・・』

 オイルショック後の「マイナス成長」とはいって、私たちすなわち団塊世代がまだ20代なのだから、先に暗さはなかったかもしれない。同じ不況下でも現在とは対極の風景であったかもしれない。少なくても年金問題はなかった。後期高齢者医療制度も。赤字国債だって初めて発行されたのは75年も末のことだから。

それらのことを差し引いても、高橋会長(当時)の言葉は明治生まれの気骨が、思慮の深さが感じられる。戦後日本の一代目世代*19)の面目躍如である。「資金を暴力に使ってはいかぬ」とはいい言葉ではないか。

 *18)高橋荒太郎(たかはしあらたろう)1903年(明治36年)香川県生まれ。
   会社勤めの傍ら1935年商業学校を卒業。翌年松下幸之助氏に請われ松下電器産業入社。幸之助氏の片腕として、グループ企業の経営管理体制の整備などに注力。1973年会長。
 *19)本エッセー集「一陽来復(その1)」2008年10月19日「三代目」参照下さい。
本稿は、日経ビジネス社刊「21世紀に残したい経営語録100」1999年10月刊 「第2章 オイルショックの挫折を超えて」の「消費者ニーズは不況期につかめ」高橋荒太郎 の一部を抜粋(『 』内)させていただきました。
 時代背景の資料は、「エコノミスト」創刊70周年臨時増刊号「戦後日本経済史」を参考にしています。
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いい話を尋ねて⑰

2009年05月22日 | Weblog
21世紀に残したい経営語録1

 20世紀も残り1年余りとなった1999年10月、日経ビジネスが創刊30周年記念として「激動を走り抜けた経営者たち」というサブタイトルで、「21世紀に残したい経営語録100」を発刊している。30年間の同誌に掲載した記事を再編集したものだけれど、名前を聞くとわれわれ世代には懐かしい経営者が多い。まさに激動の時代を精一杯走り抜けた先人諸兄の想いが詰まっている。その中から幾つか私の心に響いた「いい話」を拾ってみる。シリーズの第1回。

 本田宗一郎(1906-1991)氏を知らない人は未だ少ないであろう。「ホンダ」の創設者だ。高等小学校卒業と同時に東京の自動車修理工場に奉公し、40歳で本田技術研究所、その2年後本田技研工業を設立。戦後の混乱の中をオートバイの生産を始める。事務方の藤沢武夫元副社長とのコンビは有名で、お陰で本田氏は生涯一技術者を貫けた。

 この年1973年(昭和48年)。日本の総理は田中角栄氏、地価は前年比30.9%の高騰。米国大統領はニクソン氏。4月にはウォーターゲート事件が発覚している。OPECは原油価格をどんどん値上げ、所謂第4次中東戦争勃発による第一次オイルショックの年でもある。本田技研工業の本田宗一郎社長は相談役に退いた。

 『25年間やってきた社長を辞めるわけですが、会社は私のもんじゃないんだから、辞める時には潔く辞めるべきですね。死んでからじゃしょうがねェ。そんなみっともないことはやれぬですよ。もう一つ、判断力がなくなってからでは遅い。自分というものは誰でもわからないものだけど、人に惜しまれるうちに退く。惜しまれるのは、幾分でも反省力、判断力がある証左だと思うのです。

 退陣するのにいまがよいと判断したのは、自分じゃ随分、世間のことを知っていると思っていても、やっぱり企業の垢がたまっているからですね。これからは企業も社会責任を果さねばと立派なことを言っても、いざ仕事になると企業からの発想でモノを考えている。実際、若い者と話しているとハッとすることがいくらでもありますよ。いつもトップにいるから、わかったつもりでわかってないことがずいぶんあるんだな。時代がめまぐるしく変わるのについていけないこともあり得る。だからやっぱり、時代に生きる人と早く交代する必要があるんじゃないですかね。・・・

 本田技研が今日まで伸びてきたのは、他人のやらぬことをしてきたからだと私は言っているが、それは具体的な表現であって、一番大事なのは”信頼”。これが経営の一番基本じゃないですかね。信頼とは過去の蓄積、その人が行ってきたことの蓄積しかないですよ。ただ「俺を信頼しろ」といっても、信頼できないよ。その人の歴史が信頼となるか、不信頼となるかだけだと思う。・・・

 子供の頃、親父にいわれたことに、賭け事はやっちゃいかんというのがあった。女に惚れるのは相手があるから時期がくれば直るが、賭け事は死ぬまでやると言うんですよ。だから全然、手をつけたことがない。経営にも賭けは必要だという人もいるが、経営は賭けじゃないですよ。意思決定にどちらを取るかという場合も、いままでの経験に照らして決めてます。それがぼくのやり方だったもんな。』
 
 本稿は、日経ビジネス社刊「21世紀に残したい経営語録100」1999年10月より「第1章 高度成長期の夢の中で」の「社長交代でもたついてはみっともない」本田宗一郎 の一部『 』を抜粋させていただきました。
 時代背景の資料は、「エコノミスト」創刊70周年臨時増刊号「戦後日本経済史」を参考にしています。
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いい話を尋ねて⑯

2009年05月19日 | Weblog
双葉山(下)

 『長い大相撲史上に、さん然と輝く双葉山の69連勝は、1936年(昭和11年)から39年(昭和14年)にかけて作られた』。当時は年2場所である。双葉山が入幕を果したのが昭和7年、引退が昭和20年であり、その間30場所しかなかったにも係わらず12回優勝、内8回は全勝優勝である。優勝回数の記録は大鵬の32回が最高で、千代の富士(現、九重親方)の31回が続く。現役の朝青龍もすでに23回優勝しているが、年6場所の現在とは比較にならない。時代背景も全く異なる。

 『双葉山の全盛時代、日中戦争が勃発し、国民は不敗の双葉山に皇軍(日本軍)をダブらせ、その人気は増幅された。「料金の安い3,4階席は、朝早くから超満員。なにせ、前夜に相撲が終わるやいなや、翌日の切符を求めて国技館の周りにファンの長い列ができる。みんな双葉山の相撲を見るために来たんですよ」元NHKの相撲実況アナウンサーだった志村正順さんはそう当時を偲ぶ。

 旧両国国技館の収容人員は1万人強だったが、超満員になると1万3000人は入ったという。それでも連日数千人が入り切れなかった。均整の取れた体、整った顔立ち、口数少なく、泰然自若とした態度の双葉山は、あらゆる年代の人々に親しまれた』。

 『双葉山は、強いだけでなく、高潔な人間性を持った力士としても知られる。相撲を通じて人格形成を目指し、実践した唯一の力士だった。それは、土俵態度によく表れていた。力水は一度だけ、待ったをしない、相手より先に立たない-。

 当時、幕内の仕切り制限時間は、現在の4分より長い10分(42年から7分)。このため、途中に水で口をすすいだり、鼻をかんだりするのが普通だったが、双葉山は、決してそれをしなかった。そして、相手が(時間前でも)立てば必ず受けて立った。けがをしたときでも包帯などを巻かず、常にきれいな体で土俵に上がった。少年時代の事故で右目がほとんど見えなかったが、現役時代は隠し通した。

 69連勝がストップしたとき、友人に「イマダ モッケイタリエズ フタバ」と電報を打ったのはよく知られている。中国の故事にある、木で作ったニワトリ、木鶏(もっけい)のように、いかなる敵にも無心であることを自らに課した』。

 『9歳で母親と妹を亡くした。父親が事業に失敗し、当時の金で5000円という大きな負債を作ったため、小学5年の頃から働いた。相撲界に身を投じたのも、借金を返すためだった。負債を完済したのは、初優勝を飾った関脇のときだった。』
 
 本稿は、1999年7月の読売新聞「スポーツ100年-双葉山とその時代」から全面的に引用(『 』内)させていただきましたが、エッセーの構成上編集しています。ご了承下さい。
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いい話を尋ねて⑮

2009年05月16日 | Weblog
双葉山(上)

 相撲界に未だ破られていない戦前の記録がある。双葉山(1912-1968)が残した69連勝である。私の世代さえ現役の双葉山(昭和20年引退)を知らないのだから、今の若い世代の人々は名前さえ知る人は少なくなっているかも知れない。ただ、現在の東の正横綱白鵬は、双葉山を尊敬していると聞いており、伝説の大横綱としての名声はゆるぎないものであろう。

 私など小学4年生の相撲に嵌っていた頃は、学校の休み時間はクラスの男子生徒全員で相撲をとっていた。とらせていたという方が正しいかもしれない。神社のお祭りには子供相撲大会があって、5人抜きなどで賞品が貰えた。

当時相撲界は千代の山(千代の富士の師匠)、鏡里、吉葉山、栃錦の4横綱に大関若乃花(初代、45代横綱、後の二子山親方、元理事長)、朝潮(3代、46代横綱)、松登、大内山などが活躍した時代で、戦後大相撲の全盛時代だった。長兄は吉葉山、次兄は若乃花、そして私は鏡里が贔屓で、揃ってラジオの相撲実況にかじりつき、長兄は「大相撲」という雑誌も購入していた。ラジオでは横綱が平幕力士に敗れる時は大声援で、アナウンサーの声は聞こえない。そんな時は覚悟をしたもので、鏡里が負けると涙を流した。

 その鏡里(1923-2004)の師匠が双葉山で、大内山、先代の豊山(学生出身力士初の大関、後の時津風親方、元理事長)、北葉山などの元大関も双葉山が興した時津風部屋の弟子達である。『双葉山は引退して親方になった後も、しばらくはまわしをしめ、弟子に胸を出した。独立当時からの弟子だった元横綱鏡里は、若いころは毎日のようにけいこをつけてもらった。「言うのは『そら押せ』だけ」だった。ただ一度、技術指導を受けたことがある。52年(昭和27年)秋の巡業中、夜の宿舎でパンツ一つになり、大関の鏡里に「お前は、これからこういう相撲で行け」と、右四つの型を示して教えた。「自分はそれまで突っ張る相撲で、壁にぶつかっていた。師匠(双葉山)は、教えるタイミングを見計らっていたんでしょう」。右四つの型を身につけた鏡里は、翌53年初場所で念願の初優勝(先場所準優勝)を飾り、(第42代)横綱昇進を決めた。』
 
 本稿は、1999年7月の読売新聞「スポーツ100年-双葉山とその時代」を参考にし、『 』内は引用です。
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いい話を尋ねて⑭

2009年05月13日 | Weblog
論語(下)

 白川先生の文章を読んでいると、昔々に、テレビや映画で知っている寺子屋で「論語」の講義を受けているような気分になります。なぜか懐かしいのです。勿論寺小屋も論語の講義も経験はあるわけもなく、私の幻想に過ぎません。

 「子曰く、学びて時にこれを習う、亦説ばしからずや。朋、遠方より来る有り、亦楽しからずや」の『遠方から来る「朋」とは誰か。これも単なる友達ではありません。やはり古代文化を学び、ともに語りうる者、孔子と学問の志を同じくする人なのです。彼らはたまたま遠くから来るのではない。お互いに古典を学んでいる同士が、それぞれの知識を教え合い、学び合うために、わざわざ訊ねてくるわけです。そうした機会はきわめて稀であったから、「亦楽しからずや」となる。単に好学を説いたお説教ではなく、孔子の実体験と実感に裏打ちされておるのです。』

 『孔子の生きた時代(紀元前500年頃の中国)は春秋時代の末期、諸国は分裂し、それぞれの国で政争が絶えなかった。いわゆる乱世です。孔子の生国である魯も例外ではない。有力者が僭主政治*17)を行い、国君の昭公はそれを覆そうとして失敗し、亡命してしまう有様でした。

 そんななかにあって、孔子が理想の政治を思い描いたのは、古代の、礼教的秩序に基づく周の政治であった。孔子が「学ぶ」というとき、それは古代の先王の道を学び、当時の礼教文化を学ぶことを意味します。』

 『「論語」には有名な、「民はこれに由(よ)らしむべし。これを知らしむべからず」という言葉が出てきます。しばしば、これを「民衆には何も知らせるべきではなく、ただ従わせるべきだ」という意味で使っている人がおりますが、これは間違い。「従わせることはできても、その政策を理解させることは難しい」という意味です。・・・

 現在でも政府の政策のすべてをくまなく理解しているような人は、まずいません。・・・これは、現在の年金問題などを考えてみてもわかることです。将来、年金が立ちゆくかどうかは我々には本当のところはわからんでしょう。しかし、その政策を担当している者が信頼できるかどうかは判断できるのです。・・・重要なのは、昔も今も信頼関係なのです。「この人たちにまかせておけば大丈夫だ」という信頼が、政治の生命である点は、孔子の時代もいまもなんらかわりはない。「民は信なくんば立たず」という言葉も「論語」にあります。・・・それほど、政治家にとって信とは重いものなのです。』

 『私(白川先生のこと)は「孔子伝」のなかで、孔子の本質は革命者であった、と書きました。孔子は70年以上に及ぶその生涯で、生国の魯を二度も追われている。しかも二度目の亡命は数十年に及び、再び魯に帰ってきたときにはすでに69歳になっておりました。』

『後(のち)の世代は、どうしても孔子を仰ぎ見、聖人に祭り上げる傾向にありますが、これは大きな間違いです。孔子を悟り澄ました聖人と思い、「論語」をそのありがたい「教え」が書かれた書物だと捉えては、ひどく平板な孔子像しか得ることができません。』

 *17)力によって君主の座を奪った独裁者による政治
本稿は、「論語(上)」に引き続き、文藝春秋2004年5月号特別企画「名著入門」に掲載された白川静先生の「『論語』を読み孔子と対話する」によります。
『 』内は引用ですが、エッセーの構成上編集しています。ご了承下さい。

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いい話を尋ねて⑬

2009年05月10日 | Weblog
論語(上)

 わが国漢字学者の第1人者で、文化勲章も受賞された白川静先生(1910-2006)は3年前の10月に96歳で亡くなられたのだけれど、その2年前(当時、立命館大学名誉教授)に、私など市井人のために文藝春秋に名著入門として、「論語」を解説してくれている。思えば先生は当時93歳です。しかし、『「論語」はいわば、結論だけが書かれている書物です。』に始まる「『論語』を読み孔子と対話する」と題されたその論文には、微かな淀みもありません。この解説こそが名著なのです。そしてそこに書かれている話は、「いい話」以外のものではありません。以下に先生の言葉を辿ります。

 『たとえば「君子は器ならず」という言葉があります。原文では「君子不器」というたったの四字の、何の変哲もない言葉に過ぎない。では、なぜ、孔子がこんな言葉を、結論として残したかを考えていく。そこが「論語」を読む出発点です。すると、これは人間の能力を問題にしたものである、と思い至る。器というものはだいたい決まった用途にしか使えないものです。湯呑みは湯呑み、バケツはバケツの役にしか立たん。しかし、君子というものはそういう固定された能力だけではいかん、と孔子*15)は言うのです。』

 『「子曰く、学びて時にこれを習う、亦説(またよろこ)ばしからずや。朋、遠方より来る有り、亦楽しからずや」「論語」の冒頭に登場する有名な一節です。では、孔子たちは何を学んでいたのか。

 当時はまだ書物なども十分普及していない時代です。古典を学ぼうとすれば、周の時代*16)の貴族で当時の文化を伝承している家を訪ね、教えを乞うほかありません。・・・

 では「習う」とはどういうことか。この字の上の部分は「羽」です。下の部分は「さい」という容器に祝詞(のりと)が収められている。それを羽で何度も撫でることで、祝詞の呪力を刺激する、というのがもともとの意味です。よって何度も繰り返すことを意味する。「時に」は機会あるごとに。つまり、古代の文化である詩を誦(とな)え、儀式や音楽を機会あるごとに繰り返し習う。それによって、次第に自分の中に理解が生まれてくる。「説(よろこ)ばしからずや」、知識欲が満足されるのだから、こんなに楽しいことはない、という意味なのです。』
以下次号 

 *15)中国春秋時代の思想家(紀元前551-紀元前479) 釈迦、キリストに並ぶ世界三聖の一人 by Wikipedia
 *16)紀元前1046年頃-紀元前771年 by Wikipedia
 本稿は、文藝春秋2004年5月号特別企画「名著入門」に掲載された白川静先生の「『論語』を読み孔子と対話する」によります。『 』内は引用です。
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いい話を尋ねて⑫

2009年05月07日 | Weblog
経営者の言葉(下)

 「顧客の視点を大切に」と説くのは新生銀行社長(当時)ティエリー・ポルテ氏。
『新生銀行*13)が過去4年で拡大させた個人向けビジネスは、まず顧客の視点から始めた。顧客が既存の金融サービスに抱いていた不満は「休日にATMが使えない」「自分のお金を引き出すのに手数料がかかる」「あまりにも金利が低い」といったことだ。こうした点を意識して準備し、万全の対応をめざした。』

 やはりお客さんの立場で「未来から現在考えよ」とは、先日にもご登場いただい*14)たけれど、セブン&アイ・ホールディングス会長兼CEOの鈴木敏文氏。『セブン-イレブン・ジャパンを実質創業した時も、周囲から「コンビニエンスストアなど定着するはずがない」と反対された。セブン銀行を作った時も、「ATMを置くだけでは採算がとれない」と多くの金融機関の方から忠告を受けた。現在から将来を見る考え方では、こうした指摘は常識だったかもしれない。しかし、お客さんの立場で将来から現在を考えた時に、全く違う世界が見えてくる。

 例えば将来、ATMは銀行ではなく、自宅や会社に近い身近な所で利用されるようになるのではと想像した。だから多くの反対の声にも負けずにセブン銀行の設立に突き進んだ。わずか2年半で利益を出し、今ではグループで最大の伸びを示すまでに成長した。』

 「事業の成否は企業の総合力の発揮にかかっている」と説くのは花王会長 後藤卓也氏。『花王は1997年にパソコン用フロッピーディスク事業からの完全撤退を決めた。同事業の売上高は800億円強と、当時の総売上高の10%近くを占め、世界市場で1-2位のシェアも確保していた。しかしソフトもハードも持たず、総合力が発揮できないと判断した。

 1982年に始めた化粧品事業は「花王に感性に訴える仕事ができるものか」などとの批判もあった。しかし、販売チャネルなどのインフラ活用が可能で、総合力が発揮できるとの信念でがんばり続けた結果、今では収益事業になっている。』

 その年、仏ルノーのCEOにも就任した日産自動車社長兼CEOカルロス・ゴーン氏は、ルノーに持ち帰る日本流の経営手法はあるかと問われ、『「日産に来た当初の私と今の私は違う。日本企業に触れ、多くを学んだ。それをルノーに入れようとしている」「一つ目は単純な形で実行すること。・・・二つ目はプロセスを重視すること。三つ目は、ある一つの強みを他の領域でも生かす考え方。・・・」』と答えられている。

 最後になったけれど、自社の多様性を強調しながら「ブランドとは生き方」というエルメス共同CEOパトリック・トマ氏。『エルメスにとってブランドとは。「生き方だ。それを皆で分かち合うことが我々のブランドだ。エルメスの世界を意味するサインでもある」・・・「多様性がなければ先はない。エルメスには世界のさまざまな文化が息づいている。」・・・「私は6代目の経営者であり同族でない初めてのトップになる」。・・・「エルメスらしさは何も変えない。しかし、戦略はいろいろ変えていく必要がある」。』

 「多様性がなければ先はない」とのトマ氏の言葉を裏づけるように、今や多様性(ダイバーシティー)は、そのシナジーがイノベーションを生み出す源泉だとして、企業経営のキーワードの一つになっている。
 
 *13)株式会社新生銀行:1952年設立の旧日本長期信用銀行が前身。98年に破綻しI一時国有化された。2000年に米投資ファンド、リップルウッド(現RHJインターナショナル)が買収し新生銀に名称を変更した。筆頭株主は米ファンドのJCフラワーズで、日本政府も20%強の普通株式を持つ。
  -by2009.04.25日本経済新聞
  なお、現在の社長は2008年11月より八城政基氏 
 *14)いい話を尋ねて⑨「役員試食」
本稿は「経営者の言葉(上)」に引き続き、2005年10月25日(火)の日本経済新聞「第7回日経フォーラム世界経営者会議」の記事から抜粋させていただきました。

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いい話を尋ねて⑪

2009年05月04日 | Weblog
経営者の言葉(上)

 100年に1度どころではないと言われるこの大不況は、まだ予測もされていなかった頃ではあるが、2005年10月に開催された「第7回日経フォーラム世界経営者会議」の参加経営者の講演や対談の内容が、2005年10月25日(火)の日本経済新聞に「持続的成長 指導力が源/技術力、企業価値高める」との大見出しの下に掲載されている。少し乱暴ではあるが、その中から私の心に響いた「いい言葉」を切り取って、まとめて「いい話」として紹介したい。 

 エルピーダメモリ*10)社長の坂本幸雄氏。日本テキサス・インツルメンツの副社長から各社の半導体部門を渡り歩き、「再建請負人」と呼ばれた。2002年エルピーダメモリの社長に就任。
『「会社は夢で始まり、情熱で大きくなり、責任感で安定し、官僚化でダメになる」。・・・「日本人は創造的か?」と聞かれれば、「その通りである」と私は答える。マニュアルを読まなくても使える携帯電話のソフトウエアや、ゲームなどは好例だ。技術者のレベルは、私が勤めていた外資系企業と比べても高い。』

 73年に28歳で日本電産*11)を設立して社長に就任した永守重信氏は、『社員の意識を上げていくために絶えず夢を語り、形にしていくことを重視している』という。
『「夢は必ず形にできる」。「難しいことを考えがちだが、当たり前のことを当たり前にするだけだ」・・・「整理」「作法」「躾(しつけ)」などの6S運動もある。工場が汚くて社員の躾もできていないのに、株価が高くて成長している企業を紹介してもらえれば1億円を差し上げてもいい。傘下に収めた20社以上を再建したが、6Sができていなかった会社ばかりだった。』

 米IBMのパソコン事業を買収し、世界三大パソコン会社の一つとなったレノボ・グループ会長の楊元慶(ヤン・ヤンチン)氏。『中国が計画経済から市場経済に移行する時代、事業インフラが整っていない環境に適応することを学んだ。そこでの競争はウサギとカメの競争に似ている。ウサギは平らな道では勝つが、泥沼ではカメが勝つ。』

 サムスン電子半導体総括社長の黄昌圭(ファン・チャンギュ)氏。『21世紀は相互依存の時代だ。どこの国も企業も単独では成長できない。同時にIT業界では大きな変革が起きている。・・・世間ではリスク管理の重要性が説かれるが、もっと大切なのはリスクをとることだ。世界の先頭を走るには、有力なパートナーと早い段階から協力し、リスクを共有する必要がある。』

 この黄氏の視点は、先月*12)の日経BP社創立40周年記念シンポジウムにおいて、日本電気(株)会長の佐々木元氏やカリフォルニア大学ヘンリー・チェスブロウ教授、IBM副社長ジョン・ケリー氏らが強調されていた「オープンイノベーション」に通じているように思う。優れた経営者は時代を読む鋭い目を持っている。以下次号

  *10)エルピーダメモリ株式会社:PC向けDRAM、RAM製品の製造販売2009年3月期連結売上高3300億円    
  *11)日本電産株式会社:精密中小型モーター、電子・光学部品の製造・販売09年度連結決算見込み/売上高5500億円、営業利益450億円
  *12) 2009年4月16日東京ミッドタウン・ホール
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いい話を尋ねて⑩

2009年05月01日 | Weblog
国家の品位

 阿川弘之氏の著作「大人の見識」新潮新書2007年刊からの紹介になる。作家阿川弘之氏については、以前少し触れさせて貰ったことがある*8)けれど、東京大学を太平洋戦争最中の昭和17年に卒業され、直ちに海軍に入隊された経歴から海軍に関する著作が多い。海軍のすべてを肯定されているわけではないが、誰しも抱く青春時代への想いと共に、滅び去った大日本帝国海軍への郷愁は尽きないようにお見受けする。以下は「大人の見識」から*9)。

 阿川氏が好ましく感じていた海軍のその伝統に、日本の海軍がイギリス海軍に学んだことによる英国風インテリジェンスがある。その一つがユーモアで、「ユーモアを解せざるものは海軍士官の資格なし」とよく聞かされたとある。近代日本の国家機関のうち、幹部職員にユーモアの必要性を説いた唯一の組織が帝国海軍だが、ユーモアと並べて海軍の重視したものに、精神のフレキシビリティーがあったそうだ。いずれも要は、精神の豊満さ、ゆとりを求めたものでなかったか。

 『海軍士官の採用面接試験で、「ここに5匹の猿がいて六つの菓子がある。菓子に一切手をふれず5匹の猿に平等に分け与えるにはどうするか」と質問され、分からないので態度くらい潔くと、「わかりませーん」と直立不動の姿勢で答えたら、試験官が、「分からなければ教えてやるが、これをむつかしござるという」と言ってニヤリとしたという話しがある。要は、変なことを聞かれたとき、どのくらいフレキシブルに頭を回転させ得るかを問うていたのではないか。』

 ところで、「国家の品位」の話し。あの太平洋戦争をどうにか終結に持ち込むために腐心された昭和天皇のご意向を受けて、昭和20年の4月に内閣総理大臣となった鈴木貫太郎(1868-1948)は、日清、日露戦争にも従軍し、連合艦隊司令長官まで務めた元海軍大将であった。9年前の侍従長時代には、2.26事件でクーデター兵士の襲撃を受け瀕死の重傷を負っている。その鈴木内閣が成立して5日後、敵国アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが急逝する。

 『その時に、鈴木首相は同盟通信を通じて「深い哀悼の意をアメリカ国民に送る」という簡単ではあるが、ルーズベルトの政治的功績を認めるステートメントを発している。それが世界各国で大きな反響を呼ぶ。

スイスの新聞『バーゼル報知』の主筆が、「敵国の元首の死に哀悼の意を捧げた、日本の首相のこの心ばえはまことに立派である。これこそ日本武士道精神の発露であろう。ヒトラーが、この偉大な指導者の死に際してすら誹謗の言葉を浴びせて恥じなかったのとは、何という大きな相違であろうか。日本の首相の礼儀正しさに深い敬意を表したい」と、社説で讃辞を発表している。

 さらにドイツを代表するノーベル文学賞作家で、当時米国に亡命中であったトーマス・マンは、BBCを通じてドイツ国民に語りかける。「これは呆れるばかりのことではありませんか。日本はアメリカと生死をかけた戦争をしているのです。あの東方の国には、騎士道精神と人間の品位に対する感覚が、死と偉大性に対する畏敬が、まだ存在するのです。これが(ドイツと)違う点です。ドイツでは12年まえに一番下のもの、人間的にも最も劣った、最低のものが上部にやってきて、国の面相を決定したのです」

 『バーゼル報知』の主筆に感銘を与え、トーマス・マンに驚きを与えた鈴木メッセージが、そのまま「国家の品位」と受けとめられ、あの東方の国にはまだ騎士道精神が存在するという解釈になりました。』


 *8)読書紀行7 志賀直哉
 *9)本稿は阿川弘之氏の著書「大人の見識」に基づくもので、『 』内はそのまま引用させていただいていますが、鈴木貫太郎首相の経歴は、一部補足させていただくなど、エッセーの構成上私見を交えて編集させていただいています。ご了承下さい。
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