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兵法経営塾第2回

2012年12月04日 | Weblog
兵法経営塾の要諦

 戦略という言葉をよく聞くようになったのは、1980年代半ば頃からではなかったと思う。「兵法経営塾」という本が出版された時期と符合する。「兵法」すなわち戦争に勝つための方策である。すなわち戦略(Strategy)。我が国の戦国時代、戦(いくさ)に敗れた大名はほとんど切腹して果てた。戦は究極の競争なのだ。そこに企業経営を模した。経営も厳しい企業間競争を勝ち残っていかねばならない。

 この本には、家康、秀吉当然に信長など戦国時代の覇者や武田信玄などの戦国武将、孫子、諸葛孔明、ナポレオンなど古今東西の英雄に、桶狭間から関ケ原、日露戦争などにおける戦略の実際。これに東西の古典からの教訓を盛り込みながら、戦いの中で、トップリーダー(大将)はどのように考えてどう動いたか。スタッフ(参謀)はどう考え作戦立案したかを解説している。そこから統率・指導・リーダシップなどの在り方を抽出しているのだ。そして第2編「経営と兵法」では「ドラッカーに学べ」とある。この本というより、兵法経営塾というセミナーにリピータが多く、盛況であった理由が分かる。出がらしの経営理論では味わえない、生の歴史と歴史観、人間観がそこには溢れているのだ。

 その中からまず、少しページは進むが、ピンチをチャンスに変えた成功事例として、我が国最大のみごとな国家戦略を取り上げる(第十三講「国家戦略」)。明治政府が発足し西洋文明に触れて僅か40年足らず、当時の大国ロシアと対峙し開戦するという最大のピンチに当たり、我々の近い先祖である当時の日本政府や日本軍が、どのように行動したか。

 『国家戦略を理解するには日露戦争(1904~5年)を研究するとよい。これはわれわれの父祖(1906年生まれの作者からすれば、まさに父や祖父の年代の人々の時代だ)が残した傑作であり、各種の戦略や謀略が比較的単純に、しかも総合して使われているので、成功した国家戦略のモデルケースとして、その全てをつかみやすい・・・』とあり、次のようにある。

 『ロシアという国は、ナポレオンに首都モスクワを占領され、ヒトラーにレニングラード、モスクワ、スターリングラードを一斉に攻め立てられても、頑として手をあげなかった国である。それが日露戦争で負けたのはなぜだろう?・・・ロシアが負けたのは、日本の打ったあの手この手の総合威力に屈したのである。日本の打った国家戦略の主なる手は、次のように七つある。

 1.国民を奮起させ、しかも暴走させなかった世論指導
 2.国際情勢を日本に有利に導いた外交工作とくに日英同盟
 3.ロシアの内部崩壊を策した明石元ニ郎*5)の革命工作
 4.開戦時に手を打った金子堅太郎*6)の終戦工作
 5.わが戦費を調達し、敵国の資金源を絶った高橋是清の資金工作
 6.連戦連勝の軍事工作
 7.満州作戦の舞台裏で活躍した特別任務班(軍事探偵団)の後方撹乱工作

 強大国ロシアに追いつめられるという最大のピンチにおいて、日本の指導者の打った七つの手はすべて成功し、その総合力を発揮している。』

 ピンチに動じることなく難局を切り抜けたまさに明治の元勲、当時の国家指導者達の逞しさ、したたかさを見る。引き換え現在の政治家達の口だけは滑らかであるけれど、何と頼りなきことよ。中韓ごときに翻弄され、内弁慶で政敵を批判するだけ。力も無いくせに代議士に成りたがり、国家の最高責任者までにもなってしまう身のほど知らずの怖さ。この章(第十三講)は企業経営者のためではなく、著者の政治家への教訓であろうと思う。






*5) 明石元二郎:(1864-1919)明治・大正期の陸軍軍人。陸軍大将・勲一等・功三級・男爵。第7代台湾総督。福岡藩(現在の福岡県福岡市)出身。日露戦争中、山縣有朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。<By Wikipedia>

*6)金子堅太郎:(1853-1942) 明治期の官僚・政治家。司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官を歴任し栄典は従一位大勲位伯爵。日本法律学校(現日本大学)初代校長、二松學舍専門学校(二松學舍大学)舎長。伊藤博文の側近として、大日本帝国憲法の起草に参画する。また、皇室典範などの諸法典を整備。日露戦争においては、アメリカに渡り日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉・外交工作を行った。<By Wikipedia>

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