中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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私の本棚から第10回

2013年12月29日 | Weblog
商店街はなぜ滅びるのか(続2)

 商店街に関係はないが、本稿第7回に関連するので書く。安倍首相が靖国神社に参拝され、内外また騒がしくなっている。日本経済新聞は批判。読売新聞でさえ評価は芳しくない。勿論与党内部にさえ相当制止論があったようで、この騒動は仕方がないけれど、米国の「失望した」には、全くこちらが「失望した」。一党独裁国家の内政干渉に同調するとは米国も落ちたものだ。

 最近の米国内の世論調査で、最も大切なパートナーとしてアジアでは中国がトップ、日本は2番目だった。民主国家としては民意は大切だし、米国国防総省としては、日本の勝手な振る舞いから自国の兵を動員したくはないとの弱音が覗く。というより、やはり日本の自主独立を牽制しており、日本の強いリーダーは煙たいのであろう。
 
 それにしても、同じ日本人でありながら、中国人や韓国人と同じようなことを言う人々は、はっきり申し上げて「間違っている」。この国からの退去を勧告したい。首相が靖国に参ることで、軍靴の音がするように感じると発言される人の意見も、どこかで吹き込まれ洗脳されたもので、その感性は時代錯誤の最たるものである。他人は他人、それぞれ意見は意見と言うけれど、間違いは間違いとはっきり言うべきである。この国の精神の基盤に関わることは、強制はできないが、どうか一枚岩であって欲しい。国民の8,9割が首相の靖国参拝を当たり前考えるようになれば、中韓はこの件ではおとなしくなるのではないか。

 ところで本題に移る。『第二次世界大戦後は、物価の高騰や闇物資の流通によって商秩序は混乱していた。・・・こうした商秩序の混乱は、主婦による消費者運動を引き起こした。・・・小売商と対立していた主婦運動は、家庭内の倹約を進めたのだが、その資金は、じつは製造業の設備投資に流れていた。そのことを政府側もよく理解していた。じっさい、政府は主婦運動を推進していた。その一方で、主婦運動と対立していた小売商に対して、日本政府は、規制による保護をおこなった。なぜならば、若い離農者たちが第三次産業に野放図に流れ込まないようにすること、裏返せば、安価で良質な若い労働力を第二次産業で計画的に誘導するためであった。』

 商店街関連の法整備が続く中、高度経済成長期にあった我が国には「流通革命」としてのスーパーマーケットという新しい業態が生まれたけれど、小売業を保護することで安価な労働力を製造業に回すという政策意図は変わらず、この時代(1970年代)、かえって商店街の既得権は強まった。そこには「雇用者層=革新、自営業者層=保守」という枠組みもあった。

 「価格破壊」のダイエー中内氏の闘い。その後の道路整備に伴う郊外化の加速、コンビニエンスストアの出現。グローバル化の進展による外圧*17)などもあって規制緩和が始まり、その見返りとして零細小売商を含めた中小企業は、アーケードなどのハード部分を政府に要望するとともに、財政投融資を迂回して潤沢な政府系金融機関からの融資を求めた。

 結論として著者は、「商店街」という理念の崩壊の理由を、商店街が、恥知らずの圧力集団になったこと、そしてもう一つが、専門性を一つひとつの地域につくろうという目的がまったく果たされなかったことを上げている。行政官庁の免許付与が、当該地域で営業し、地元業者が認めるかどうかのみを基準に行われたのである。

 しかし、零細小売業の衰退は、「買い物難民」を生じさせはじめた。老人世帯では日常郊外のショッピングモールまで出かけるのは大変である。また地域のコミュニティーも弱体化させている。さらに「雇用の流動化」を加速させた。ショッピングモールで働く人の多くは非正規雇用である。

 ここからは私観であるが、時代の移ろいの中、いろんな業態が生まれ育ちまた衰退してゆくものであろう。商店街も大枠ではその一形態にすぎないものかもしれない。子供のころに商店街に感じたワクワク感を今の子供たちはショッピングモールで感じているかもしれない。そして、そこで働く人々はその場所に根を張っている者たちではない。しかし、やはりほとんどがアルバイト従業員であっても、あの震災時東京ディズニーランドは、従業員一致協力して立派にゲストを守ったという。

 全ての企業に求められるものは顧客を感動させ得る製品・商品・サービスの提供につきるし、そのためにはそこで働く人々が楽しく仕事出来ているかにかかっているのであろう。商店街も例外ではない。




*17)『象徴的なのが酒の販売にかんする規制緩和である。日本は国内の酒造業の保護のために、ウィスキー・ブランデー・ビールなどの輸入酒に対し、高い関税を設けていた。アメリカ政府は、これらの関税の引き下げとともに、円高にともなう輸入ビールの販売促進のため、スーパーやデパートで酒の販売を解禁するように求めた。』本文より

本稿は巻頭部を除き、新雅史著、株式会社光文社、平成24年5月刊、「商店街はなぜ滅びるか」を参考に構成し、『 』内は直接の引用です。
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私の本棚から第9回

2013年12月26日 | Weblog
商店街はなぜ滅びるのか(続)

 愛媛県の県庁所在地である松山市の隣町に生まれた私は、子供の頃、電車で20分ほどの松山市内の商店街に家族で出かけるのが嬉しかった。伊予鉄道松山市駅前から湊町、大街道と商店街が続き、松山城の堀端に出る。湊町はアーケード街で、車は中に入れない。大街道は歩道には屋根があった気がするが、道路は車が走っていたように記憶する*15)。家族で何を買ったという記憶はない。ただ、商店街の華やかさと家族でのお出かけが嬉しかった。

 松山市は、戦災で焼け野が原になった都市のひとつだ。母方の祖父は先祖伝来の日本刀を井戸に投げたが、それでも焼けてしまったという話を母から聞いた。商店街を歩いた最も古い記憶は小学校1年の時だから昭和29年。戦災後9年しか経っていない。すでに見事に復興していたことになる。小学校に上がる前は自分の名前も書けないほど、読み書きが全く駄目で両親を嘆かせていたけれど、学校で字を習い始めて、街の看板の字が読めるのが得意だった記憶が年代を紐解く。

 『商店街は、来歴が古く伝統的な存在と見なされることが多い。・・・商店街の研究者は平安京にその起源があると論じ、また各地の商店街も、競って自らの来歴の古さを誇ろうとする。・・・商店街はまったく伝統的な存在ではない。現存する多くの商店街は20世紀になって人為的に創られたものだからである。』

 では、その商店街はどのようにして形成され、どのように成長したのか。そして現状のように多くの商店街がシャッター街と呼ばれる衰退を見たのか。

 20世紀前半の我が国に、急速な農民層の減少と都市人口の増加という大きな社会変動が生じた。未だ工業が充分な雇用を生まない時代、都市流入者の多くは資本をそれほど必要としない小売業をはじめた。貧相な店舗か屋台での商い、店舗もなく行商をする者など零細小売商となったのだけれど、彼らを貧困化させないことが当時の日本社会の課題となり、その課題を克服する中で生まれたのが「商店街」という理念だった。

 同様の現象は、太平洋戦争後にも生じた。戦後の混乱の中で零細小売商は爆発的に増加する。そして零細小売商は、行政に対して規制と保護を求めるようになる。我が国は、「日本型雇用慣行」による雇用者層と、商店街などの自営業層という「両翼の安定」を保つことで社会の安定を支えようとした。

 しかし、戦後の「百貨店法」の復活やその後の「大店法」など明らかに零細小売商の保護を狙ったものであったし、零細小売商をはじめとした自営業者たちは「中小企業政治連盟」なる圧力団体をつくり、「中小企業団体法」*16)につなげる。これが一般消費者の反発を招いてゆくことになる。(続く)
 



*15)現在は全面アーケードがあるようだ。
*16)正式名「中小企業団体の組織に関する法律」、中小企業を不況から保護するため、同業や同一地域を単位とした商工組合に一定の権限(カルテルなど)を認めるもの。(本文より)

本稿は新雅史著、株式会社光文社、平成24年5月刊、「商店街はなぜ滅びるか」を参考に編集し、『 』内はそのままの引用です。
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私の本棚から第8回

2013年12月23日 | Weblog
商店街はなぜ滅びるのか

 この月の20日には、千葉市の幕張に大型のショッピングモール(イオン)が開業した。昨年4月には、木更津にアウトレットがオープンし盛況である。JR千葉駅前の大型百貨店そごうでは、木更津アウトレット開業の影響で南房総からの客が減少したといい、幕張のショッピングモールの開業でも影響を受けるであろうとの危機意識を持っていることが日経の記事にあった。売上を維持するため当面閉店時間を遅らせて対応するという。

 ここ市原市でも、先月の28日、市内の中心である五井地区にイトーヨーカ堂の大型ショッピングセンター「アリオ」が開業した。計画後の景気見通し悪化で規模を縮小し、時期も遅れたように感じていたが、開業して見れば連日大賑わいで、店側の見込みに反して開業2週間を経て客足は衰えていなかった。

 自公政権に戻り1年、景気は上向き傾向にあるけれど、我が国はすでに人口減少期に入っており、千葉県も震災後人口減少に転じている。市原市では、昔からの市街地にあったイトーヨーカ堂や隣接していたラオックスは、震災前の時点ですでに、売上の減少から撤退を余儀なくされていた程である。ここに来て相次ぐ大型店の開業は、消費者には嬉しい面もあるが、近隣の商店街が受ける負の影響は免れまいし、個人営業の昔ながらの小売店に留まらず、中小のスーパーマーケットへの影響も大きいであろう。しかしこの流れは何も今に始まったわけではない。

 「商店街はなぜ滅びるのか」*12)。2億3,000年前から6,500年前まで1億6,500万年もの間、この地球上に君臨した恐竜さえ絶滅している。滅びない物はない。地球も太陽と共に諸説あるが、数十億年後には確実に消滅するらしい。人類はどうか、宇宙の果てで地球と同様の惑星を見つけ生き続けているかも知れない。

 著者である新雅史(あらまさふみ)氏は1973年の生まれ、この国の新しい知性だ。生家は北九州市で酒屋を営んでいたという。店舗兼住居は酒類の在庫置き場に占領され、家族の寝床さえ不自由な暮らしで、子供の頃はサラリーマン家庭が憧れであったという。ただ、経済的には充分な教育を受けさせて貰うに不足はなく、東京大学で博士課程まで進んでいる。

 著者は、商店街は滅びるものとして是認しているのか。否、『つまり、日本の商店街は、地域のシンボルなどと喧伝される割には、家族という閉じたなかで事業がおこなわれ、その結果、わずか一、二世代しか存続できないような代物だったのである。シニカル(嘲笑的)に見れば、実体としての近代家族*13)が衰退しているなかで、商店街だけが生き残れるわけがない。しかし、それでもなお「商店街」の存続をわたしは願っている』のである。

 著者は、その序章に「商店街の可能性」に触れている。何かの本に「本の書き手は重要なことは巻頭に書くものだ」というのがあったけれど、著者の想いはこの序章に集約されている。先の震災で、東北のある街の商店街は、またある街のショッピングモール地区も同様に津波の被害を受けた。しかし、商店街にはボランティアが次々と集まって復興が進んだ一方、ショッピングモール地区では復興が遅れていた。それぞれの企業従業員の力しかなかったのである。

 『商店街には、外部の人を引き寄せる「余地」がある。商店街は単なる商業集積地区ではない。津波の後も、商店街に住みつづける人たちがいて、家が流されてもそこに戻ろうとする人たちがいて、商売の再開を願っている人たちがいる。商店街は、・・・人々の生活への意志があふれている場所である。だからこそ、商店街の復興に少しでも役に立とうとするボランティアが後を絶たないのだろう。・・・こうした状況は、災害時には略奪などの集団パニックが起きず、相互扶助的な共同体が立ちあがるという、レベッカ・ソルニットが言うところの「災害ユートピア」*14)を意味するのか。いや、ショッピングモールが集積した地区では「ユートピア」は現出しないだろう。商店街という場だからこそ、本来出会うことのない雑多な人たちが交差する。だからこそ、災害時に商店街の「魅力」が現れたのではないだろうか。』(続く)




*12)株式会社光文社、2012年5月初版。副題「社会・政治・経済史から探る再生の道」
*13)近代家族:「家族の集団性の強化」「社交の衰退」「非親族の排除」など血族の枠に閉じた「家族」。自分達が営んでいる店を後世に残すという目的意識が弱く、江戸期の商家(前近代家族)のように、身内に後継者が居なければ、家族以外の人材を積極的に活用することが少なくなった。その家族の絆さえ弱くなっているのに、現代の商店が続くわけはないと著者は言っているのだ。
*14)高月園子訳、2010年、亜紀書房

本稿は新雅史著、株式会社光文社、平成24年5月刊、「商店街はなぜ滅びるか」を参考に構成し、『 』内は直接の引用です。
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私の本棚から第7回

2013年12月20日 | Weblog
子々孫々に語りつぎたい日本の歴史(続)

 この本の著者の渡部氏の相方である中條高徳氏(1927- )は、「アサヒスーパードライ」作戦による会社再生計画で、常務取締役営業本部長を務め、その後副社長まで歴任された企業人であるが、陸軍士官学校第60期生でもあった。著書に「おじいちゃん戦争のこと教えて」「おじいちゃん日本のことを教えて」などあって、それが、当時テレビ東京の「新世紀歓談」という番組のホスト役をされていた渡部昇一氏の目にとまり、当番組に中條氏を招いたことから始まった縁という。

 日本の歴史としては日露戦争にはじまり、中韓の反日運動を許容した我が国政治家の歴史への不見識、「南京大虐殺」捏造のからくり、東京裁判、A級戦犯への誤解、靖国問題、天皇の機能まで渡部、中條両氏が対話方式で見識を披露されている。敗戦国がどう弁解しようとも悪者にされるのは仕方がないが、勝者の一方的な論理で歴史の事実を捻じ曲げられ、消去されている部分においては、しっかりと確認しておく必要がある。靖国問題など戦後のある時期まで首相が参拝しようが天皇が参拝しようが、何とも言わなかった隣国が、ある時期から取り立てて騒ぎ出したのは、明らかに恣意的なもので、尖閣も竹島も国際法に照らして正義のないことを知る国が大声で自国の固有の領土だと猛っているのである。

 立法府にある者の「歴史に対する不勉強が反日の口実を与えている」として、中條氏は現代の政治家を叱責している。『昭和27年4月28日にサンフランシスコ講和条約が成立し、つまり日本が主権を回復した頃は食う物も着る物にも事欠いていたけれど、国民の魂は生きていた。4000万人もの(戦犯の放免釈放を求める)請願を国会に提出して、なんと社会党右派の堤ツルヨ代議士が動いたのです。入社早々の私は、「日本人は、どっこい生きている」と実感したものだ。

 A級戦犯の扱いでは、われわれが選んだ国会議員が昭和28年8月の国会で、「戦争犯罪による受刑者の放免に関する決議」*11)を与野党全会一致で可決しているんです。刑死者には「法務死」という名前までつけて、その後、遺族に対して恩給も出しています。A級戦犯の名誉は国会において明確に回復されているんですよ。・・・しかも、関係当事国もそれを認めている。「A級戦犯の扱いはわが国ではこうなっています。われわれはあなた方が誤解しているように戦争を是認しているのではありません」と、堂々と主張すればいいのに、何か逃げまくって、日本がすべて悪いんだというような腰が引けた姿勢で対応しているからダメなんです。中国や韓国からすれば、日本に文句を言えば金を引き出せるし、国内の不満のガス抜きの価値もある、そういう考えになるでしょう。・・・法律論から言っても中・韓の抗議に根拠はないのに、立法府にいる人たちは何を考えているのか。どうも根底に歴史の事実を知らない、不勉強というものがあるように思うんですよ。』

 A級戦犯(終身禁固)であった賀屋興宣氏は池田内閣で法務大臣、禁固7年の重光葵氏は日本が国連に加盟したときの鳩山内閣の副総理、外務大臣となった。彼は日本代表として国連で演説までしている。当時誰も文句を言わなかった。首相の靖国参拝などでA級戦犯合祀が問題になるが、戦後の歴史さえ知らない無知蒙昧の輩の横車でしかない。

 懲りない連中が今また、野党再編などと数合わせのゲームを目論んでいる。単なる自身の議員バッチの延命を図る連中の止まり木に過ぎないように見える。

 渡部、中條両氏は誌面で「靖国神社参拝に反対した政治家は決して総理大臣になれないと思う」さらに「靖国神社参拝を忌避するような政治家は、少なくとも国政に参加する資格がない」とまで言っている。

 形ある靖国神社そのものへの愛着の有無やパフォーマンスではない。『私はね、村に生まれたらその村を愛し、郷土を愛するという心は、人間みんなが自然に持っている感情だと思う。その集合体が国家であるとすれば、国を愛する、国に誇りを持つというのはごく自然なことです。これからの日本人をそういう国民にしていかないといけないですよ。そうならないのは、教育が間違っているからです。・・・』これは中條氏の言葉だけれど、戦後占領軍にはじまり、中韓の思惑に翻弄されて、我が国が不当に悪い国に落してられることを是認している教育、自国の真の歴史を教えていない教育に「問題がある」と言われているのだ。

 現在の政権に抗する野党を作ると言うが、それらの議員に本当の覚悟はあるのか。この国の歴史を真っ当に理解し、この国を本当に愛しているのか。常人よりもはるかに研鑽努力を行っているのか。口先だけで国家のリーダーになるなどと考えていては、国民が不幸になることは先の民主党政権で懲りた筈だ。




*11)『昭和28年8月の国会では、共産党まで賛成しています。当時日本の人口は9000万人ぐらいだと思いますが、そのうちの4000万人が国会へ戦犯の赦免釈放を求める請願書を出した。それで国会が動いたんです。』本文中の中條氏の発言から

本稿は中條高徳、渡部昇一共著、致知出版社平成17年8月刊、「子々孫々に語り継ぎたい日本の歴史」を参考に構成し、『 』内は直接の引用です。
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私の本棚から第6回

2013年12月17日 | Weblog
子々孫々に語りつぎたい日本の歴史

 この本の内容の一部は、本稿ではすでに幾度か引用させて貰っているので、今更の感もなくはないが、前稿の憲法改正論を補足する形で、この本の内容に触れたい。

 著者のお一人である渡部昇一氏(1930- )は、知らぬ人ない保守の論客の第一人者だけれど、憲法に関してはさらに踏み込んだ論を展開している。我が国の憲法には改正論議があるけれど、その前に現行憲法は無効であり、破棄されるべきものだということを述べている。石原慎太郎氏なども言っていることではあるが、この本の後か先かは知らない。

 『憲法というのは「主権の発動」であるわけだが、占領下では主権がない。・・・すべての法律は、憲法から始まってつまらない法律に至るまで、進駐軍の命令、許認可でないものはない。・・・また内容的にも、日本国憲法が主権の発動でないという証拠があります。・・・よく憲法問題と言うと九条を問題にしますけれど、それよりもっと重大なのは憲法前文なんです。前文の中には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれている。安全を委ねるのは、ある程度わかる。・・・日本には1億2千万の国民がいます。その国民の生存を他の国に委ねるなんていう憲法は、主権の発動であるわけがないんです。したがって、憲法を含めて占領下約7年間に作られた法律は法律的にすべて無効である。本来ならば、それを独立回復とともに宣言すべきだったのですが、やり損ねた。でもこれからでも遅くないから、それを明確に宣言すべきであると主張しているんです。』

 この本は、平成17年八月に上梓されている。先の「日本を愛する」から9年後、現在からは8年前となる。この間、憲法に関する国民投票法が平成22年5月18日に施行され、また今年の参院選挙でも自民党が圧勝したことで、憲法改正が近づいたかにも思えたが、経済復興を優先し、かつ中韓との摩擦を懸念する米国の意向もあってか、前進していない。米国の本音は、ここに来ても我が国の真の独立を望んでいないように見える。

 さらに我が国の真の独立を阻む勢力として、政治家の多くが中韓反日勢力から資金提供を受けているという経緯を、渡部昇一氏は次のように指摘している。『戦後、北朝鮮人も韓国人も税金をろくに納めないで日本の一等地を手に入れていますよ。焼け跡を占有してね。東京でも、疎開している人が帰ってきたら自分の土地に朝鮮人が住んでいるところが実に多かった。しかし、それを取り戻す手がなかったんです。そこから始まってヤミをやるでしょう。・・・そういう状況で儲けた金が桁違いなんです。税金を納めない人と、きちんと納めなくてはならない人とでは、富の大きさは天地の差ですよ。・・・結果として彼らは富を持った。それが三木内閣以来、政治を動かす裏の資金になった。・・・政治資金規制法によって、いわゆる筋のいい金が政界に流れなくなってしまった。筋のいい金というのは大企業の金のことですよ。それにもかかわらず、政治家は金が必要なんです。だから、ちょっと金を出すと動く質の悪い政治家が出てくる。それを知って、金を流したのがコリアンなんです。』

 先の民主党政権の折、外国人から献金を受けていたことが露見した政治家に、首相を務めた人物はじめ民主党有力議員が多かったけれど、これは本来大問題なのだけれど、マスコミや国会の追及は大甘であった。本人達も他人事であったようにその後も政治活動を続けているようだ。このことは、すでにこの国の政治家やマスコミにその手の勢力が深く浸透していることを示しているのではないか。(続く)



本稿は中條高徳、渡部昇一共著、致知出版社平成17年8月刊、「子々孫々に語り継ぎたい日本の歴史」を参考に構成し、『 』内は直接の引用です。
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私の本棚から第5回

2013年12月14日 | Weblog
日本を愛する(続)

 会田、伊藤両氏は、この本の冒頭に、前年に起こったタレント候補の青島幸男と横山ノックの東京都・大阪府知事の誕生を痛罵している。返す刀でその2年前の細川政権誕生にも触れて、全く中身のない政治であったと切り捨てている。すべてマスコミが作り出したムードであり、政治のメディア支配を明確にしたものであったとしている。それは「この国民にしてこの政治あり」で、当今すべて「税金が安くなればいい」「何とか手当を」といった、極めて短見、個我利益の追求に基づく、大衆とやらの政治に対する期待によるものであると喝破しているのである。

 『マスコミがヒトラーに代わって、一億総白痴化の先兵として、「3S政策」*10)を推進している。“青島・ノック現象”は、いわばそのみごとな成果のひとつでした。戦後50年を総括する“画期的”な現象というべきものです。』

 その現象が、2009年の民主党への政権交代まで続いたのである。「コンクリートから人へ」というキャッチフレーズそのものが怪しかった。元々税金などというものは、個人では賄えないものや事を、お金を出し合って皆で作り上げてゆきましょうということで拠出するもので、個人や組織の収入差や家族構成による負担の差も考慮してその拠出額を調整している。累進課税であったり、扶養控除であったりするわけだ。それを税の富の再分配的要素を強調して、高額の子供手当だ、高校授業料無償化、高速道路無料化、作りかけているダム工事は中止など、無茶とも言える政策を掲げた政党をマスコミは後押ししたように見える。それらは、両氏がすでに喝破している「短見、個我利益の追求に基づく、大衆とやらの政治に対する期待によるもの」をマスコミと民主党が増幅させたものだった。

 このような現象が続く根本原因を取り除くための、両氏の主張の中心は、真の独立国家となるための「憲法改正」である。「占領ボケ憲法を改正せよ」と伊藤氏は猛る。『日本国民は、現行憲法がアメリカによる日本占領政策の一環として作られたという認識を、はっきりと持たなければなりません。無条件降伏下の占領時代、マッカーサー司令部のメモランダムを基礎に押しつけられた世にも不幸な憲法なのです。国民の意思などどこにもない、銃剣の上に制定された憲法でした。その最大の特色は日本の防衛力の完璧な武装解除でした。こうした占領政策遂行のための基本法が、いまの日本国憲法といわれるものの正体です。日本を亡国から防ぐ唯一の道は自主的な憲法改正です。・・・』

 また会田氏は、「日本は独立国家ではない」とし、『独立、自主、自己の責任を放棄した放棄させられた植民地人は、物乞いと同じく気楽かもしれないが、政治家はもちろん国民一般も世界から威信、尊敬、畏怖は持たれない。軽侮の対象になるだけだ。クリントンの訪日の表情は植民地を視察する宋主国大統領の顔です。日本に物申して来る中国や韓国の政治家、マスコミの表情なども同様で戦前では絶対に見せなかった顔つきなのです。・・・』

 確かに現代の我が国は、天皇陛下も総理大臣も、この国を守るために従軍して命を落とした兵士を弔う靖国神社へさえ参拝できない状態であることからも、真の独立国家でないことが分かる。中国や韓国だけでなく、国内にもそれを差し止めようとする勢力があることは深刻な問題である。左翼系マスコミなどその最たるものだけれど、中国の対日戦略構想に加担し、それはすなわち将来の彼らの日本侵略に際して、抵抗しない人々を増殖するに手を貸しているのだ。

 ただ、最近の日本や日本人に対する他国の人々の想いは、以前からは大いに好転しているように思う。それは、英国BBC調査による「世界に良い影響を与えている国」のランキングでトップクラスにあること。日本のアニメや食文化が世界各地で高い評価を受けている。工業技術力は勿論、清潔で安全、礼儀正しく自国の文化や伝統もしっかりと守っていると高く評価しているのだ。先の大戦を知る人々は我が国だけでなく世界にも少なくなった。敗戦国日本という印象を残す人も、帝国主義時代のような軍事力で世界を制しようなどという考えの人も、一部の国を除いて少数化しているためであろうと思う。

 しかし、残念ながら中国の経済的・軍事的台頭とその横暴によって、東アジアの安寧は脅かされそうとしている。一日も早く、自主憲法を制定し、米国はじめ友好国とも連携を深めながらも、自国は自国で守るに足る高度な軍備と心意気は持たねばならないであろう。自前の憲法を持つことは、独立国家として最低限の成立要件である。



*10)『スポーツ・スクリーン・セックス。つまり、国民が理想と理念、理性に基づくしっかりした政治意識を持つと、自分の思うようにいかないので、賭博・酒・麻薬にからむこの3Sに溺れさせ、骨抜きにして腐敗堕落させ、自由に操ろうというヒトラーの政策』本文より

本稿は会田雄次、伊藤昌哉共著、致知出版社平成8年9月刊、「日本を愛する」を参考に構成し、『 』内は直接の引用です。
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私の本棚から第4回

2013年12月10日 | Weblog
日本を愛する

 この本の書かれた平成八年(1996年)という時代背景を覗いてみる。前年(平成7年)の1月、あの阪神淡路大震災があった。同3月にはオーム真理教による地下鉄サリン事件が発生している。翌4月には、東京都知事に青島幸男氏、大阪府知事に横山ノック氏が当選した。政権は自社連立の村山富市内閣だった。その布石となった反自民連合による細川護煕内閣誕生は平成5年。その前の宮沢内閣崩壊の5日前に、今に尾を引く、いわゆる河野官房長官談話として「慰安婦関係調査結果」に対する発表が出されている。村山首相は、平成八年の一月に退任し、この年は、橋本龍太郎内閣となっている。米国大統領はクリントン。親中国の傾向が強く、わが国に対しては経済的抑圧を強めていた。9月には「民主党」が結成された。

 我が国は、バブルの崩壊で戸惑った国民の迷走が続いていた時期であり、世紀末の様相を呈していたとも言える。それは2009年の民主党政権の誕生の伏線となり、中国の経済的、軍事的台頭もあって、我が国はまさに危機に瀕した。

 この21世紀の我が国の在り様に、平成八年の時点で激しく警鐘を鳴らしていたのが、この「日本を愛する」*3)である。私は、先の民主党への政権交代前に「あってはならぬこと」と考え、本稿でも幾たびも反民主党・反政権交代論を述べているが、この本の教示によるものであったと今更に思う。民主党政権の国家観の希薄さと運営の拙さが懸念された通りの結果となり、それは正しかったと証明されている。

 著者の会田雄次(1916-1997)、伊藤昌哉(1917-2002)両氏は、それぞれ京都帝国大学、東京帝国大学を卒業し、太平洋戦争にも従軍している。特に会田雄次氏は、1兵卒として従軍したビルマ戦線で英国軍の捕虜となり、過酷な拘留生活までを経験した。その体験から「アーロン収容所」を著している。

 『戦前の日本は、経済は自由競争の下、ともかくも民主国家でありながら、国民の貧しさに反する誇大な軍備を持つ奇型国家であり、国民は悪くいえば傲慢不遜、よくいえば矜持を持って生きていた。』*4)このような戦前の在り様を知る知識人であり、時代の生き証人達でもあった。

 伊藤昌哉氏は、昭和30年代池田元首相の秘書官であった。池田の死後、氏の著した「池田勇人その生と死」*5)は名著である。池田は私が中学から高校生の頃の総理大臣であり、私のもっとも好きな政治家であった。この本を通じて伊藤昌哉氏を知ったのである。会田先生の本は「日本人の意識構造」*6)、「日本人の忘れもの」*7)、「日本人材論」*8)、「統率力の研究」*9)などを読んでいた。ご専門のヨーロッパ史との対比による日本人論は新鮮で、我が国の歴史文化にも精通されておられた。今は亡き両論客の共著本は現代に貴重である。

 両氏はこの本に、戦後米国に隷属する日本は真の独立国家ではないと嘆いている。軍事力の無い国は世界では認められない。自衛隊は米国の傭兵に過ぎないのだという。そう言えば、民主党鳩山由紀夫政権の頃、そのブレーンという評論家氏が、戦後60年以上も経て未だに国内に米軍基地があることはおかしいという発言をテレビで繰り返していたが、沖縄普天間基地移設を巡り、「最低でも県外」と言った当時の鳩山首相もその意見に感化されていたのであろう。ただそれは、この本の見識に似て非なるもので、その米軍反対論は、米軍に代わり得る軍事力を我が国が持つという前提に立っていない。単に中国に阿っているにすぎないように聞こえていた。(続く)




*3)会田雄次、伊藤昌哉共著、平成8年9月初版、致知出版社
*4) 「日本を愛する」序文より
*5)昭和41年12月初版、株式会社至誠堂
*6) 昭和45年11月初版、株式会社講談社
*7)昭和47年2月初版、PHP研究所
*8)昭和51年11月初版、株式会社講談社
*9)昭和59年10月初版、株式会社力富書房
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私の本棚から第3回

2013年12月07日 | Weblog
第三の道(非“民主”・反独裁の組織論)

 この本は、企業現場に密着した労務管理の観点からの「人を動かす」本ではなかろうかと思う。初版は昭和51年(1976年)9月にマネジメントセンター出版部から出ている。我が国の家電業界が旭日昇天の勢いであった時代。ソニーの厚木工場長、そして常務取締役を歴任され、「ソニーは人を生かす」*2)などの著者で知られた小林茂氏の本である。

 私は、この本を昭和55年の正月に帰省した折、長兄から貰って読むことを勧められた。長兄は当時旭化成延岡工場の係長で、社内教育用の教材として購入したものだったと聞いた記憶がある。当時の我が国の一流企業は従業員教育に熱心だった。従業員一人一人の能力を育むことが、自社の組織力の向上と成長につながることを、当時の経営者は腹の底から心得ていたように思う。

 今また読み返してみて、自分がその10数年後の40歳後半のある時期、管理職として50名を超える主婦のパートさん達と仕事をした時の処し方や、今、診断士となって品質管理のセミナーで、TQMの理念である人間性尊重の大切さを声を大にして語るのは、明らかにこの本(第三の道)から影響を受けたものだったことを知る。貴重な示唆を受けていたのである。

 著者の小林茂氏は、印刷技術者であり、印刷・出版関係の仕事をしていたが、当時労務問題で悩んでいたソニーが、人づてに小林氏を知り、日本最初のトランジスタ量産工場として新設された厚木工場の工場長として招き入れたという。1961年8月、小林氏47歳であった。

 小林氏は入社前からソニートップのマネジメント・フィロソフィー(経営哲学)になみなみならぬものを感じていたからこそ招きに応じたものの、トランジスタのトの字も知らず、知り合いも全くいないことに、赴任直前にはさすがに心配になり、当時の社長であった井深大氏をたずねた。「トランジスタのことを少し勉強したいのですが、適当な本はないでしょうか」との小林氏の問いに、井深氏は、「そんな勉強は必要ない。読んでもどうせわからんよ」に続けて「小林君、工場をつぶしてもかまわない。思いのままにやってくれ」と激励したという。

 当時のソニー厚木工場は5~600名の従業員数でその約75%は女子で、中学校を卒業して地方から集団就職してきた人達であり、そのほとんどが会社の寮に住み、二交代勤務についていた。そんな従業員を前に、小林氏はその就任挨拶で、「私はトランジスタのトの字も知りません。しかし人間が大好きです。私たちは、この工場を世界一の工場にできると思います。いっしょにがんばりましょう」というようなことをしゃべった。従業員は皆なんとも若々しく、どの顔も明るくニコニコとして可愛らしく見えたことから、思わず出た言葉だったという。

 私は、この本と出合うだいぶん前から、ソニーの創業者として有名な井深大氏は知っていたが、ある時、文藝春秋に寄稿されていた井深大氏のその苗字と名前のバランスの良さに感動した。当時結婚もしていなかったのに、長男には「大」という名前をいただこうと考えていた。結婚して男の子を授かり、早速そのように命名した。彼は幼時から私より二桁くらい頭がいいように思えたものだが、当たり前のように東京大学に進んだ。その後、江戸東京博物館で開催された井深大・本田宗一郎展(2002年)には大学院生の息子と二人出かけたものだった。1990年代の後半には、電子部品を供給する形で一時期仕事の上でもソニーさんとは関係があった。

 ソニーは一時期ものづくり開発から距離を置き、多くのファンを悲しませながら収益を落とした。トランジスタラジオに始まり、テープレコーダー、ウォークマンなど数々のヒットを飛ばした盛田氏など創業者健在の頃の同社は、小林氏が実践された人間を信じ尊重し、衆知を集めて取り組んだものづくりと不断の研究開発の成果を享受した。それはこの国のものづくり文化そのものの盛衰さえ表しているように思う。人を大切にする企業でないと成功は望めないのである。
 



*2)1966年10月、日本経営出版会。著者である小林茂氏が、1961年ソニーの厚木工場長に就任した当時の工場経営改革を記録したもの。当時、ソニーはすでに世界に名の知れた一流企業であったが、労使関係は良好でなく、労働争議も発生していた。

本稿は、小林茂著「第三の道」(非“民主”・反独裁の組織論)マネジメントセンター出版部1976年刊を参考に構成しています。
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私の本棚から第2回

2013年12月04日 | Weblog
続、人を動かす

 世の中、良いと思われる行為も100%正しいとは限らないことも多い。良書の結論であってもケースバイケースで、まるまる信じ込むのは危険である。政治などまさにそうで、一般的に弱者保護とか福祉政策など、反対し難いので国家や地方の財政力を無視して拡大する傾向にあり、これを抑え込もうとする政治家は悪人扱いされる恐れもあるけれど、福祉を推進する政治家が正しいわけではなく、ただ自身の当選だけを目的としていることが多い。

 特定秘密保護法などは国家機密と国民の知る権利の二律背反の最たるもので、必要なのだけれど、運用面で問題の線引きが非常に難しい。確かに法律の文面には、「その他」が多用されているそうで、いくらでも拡大解釈して国民に罪を問えるし、知らしめるべき事実を隠ぺいすることができるそうだ。防衛・外交に国家機密は付きもので、いちいち国民に知らせてくれても、理解は叶わず責任ある判断など出来るわけもない。法律を決定した政治家を信じるしかないのが現状である。そこに政治家には「信なくば立たず」の精神的規範がある筈だ。

 問題は、選挙の洗礼を受ける政治家よりも官僚不信があることである。先の政権では、政権党の政治家が不慣れ(無能)なことをいいことに、政治を財務官僚が牛耳ったとは良く聞いた話だけれど、大企業などでの横滑りの管理職に対して、長年実務を受け持つ担当者の権限が強く、組織の効率性を阻害することがある事象と似ている。要は政治家や上司が毅然としてその権限を正しく行使できるかに掛っている。さらに国家にあっては公務員改革を進め、変な権限が一部の官僚に集中しない制度にしてゆく必要がある。

 秘密保護法に関しては、もっと時間を掛けて審議すべきだったというもっともらしい意見が主流であるが、堂々巡りの審議を繰り広げても、時間を浪費するだけで、結局「決められない政治」と批判されるのが落ちだ。さらに突如防空識別圏に尖閣諸島をまるまる抱え込んで一方的に設定してきた中国の動きもあり、我が国に時間はなかったように思うし、自公政権が一部強硬な反対論に抗して成立を急ぐのは、先の政権のツケが情報管理に関しても待ったなしの状態になっているためではなかろうか。

 連動する話で、改憲によって徴兵制が布かれるとの強迫によって、若者を護憲に誘導しようという時代錯誤で思考停止の政治屋集団も居るけれど、国家・国民の安寧を真に考えている言動とは思えない。この国が消えては元も子もないのである。

 「人を動かす」第一部「人を動かす原則」の第二章は、「重要感を持たせる」である。これも正鵠を射ている言葉だと思う。この原則は、この本を読んで間もなく職場で活用させて貰った。職場の遊びのグループを会社組織のようにして、仲間一人一人を役付きにし、活躍すれば昇進するシステムとしたのである。もっともこれは報酬を伴わない遊びだから良かった。実際の仕事での「名ばかり店長」とか「名ばかり管理職」は違法であろう。役職の責任に相応しい報酬を与えるべきで、これなど「重要感を持たせる」の悪用例なのである。

 また、「豚も、褒めれば木に登る」とは聞くけれど、能力の不十分な部下に媚びて、不用意に重要感を持たせたために、勝手な権限行使で組織に損害を与える懸念もあることに注意が必要である。良書も常に一面の真実を述べているに過ぎないのだ。




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私の本棚から第1回

2013年12月01日 | Weblog
人を動かす

 以前本稿で、「読書紀行」として私が過去に読んだ本のことなどを綴ったことがあった。その時とは少し違った切り口から、過去に読んだ本を反芻したいと思う。まずは24歳の時に購入して読んだ「人を動かす」。

 これは、D・カーネギー(1888-1955)が、1936年に著した本(原題:How to Win Friends and Influence People)で、我が国では山口博氏訳で、創元社から昭和33年11月に初版が出ている。ここであらためて紹介するに及ばぬほどの非常なベストセラーで、未だに良く読まれているらしい。私は、昭和48年4月にこの本を定価600円で購入しているが、昭和47年11月に出版された第123刷である。初版から14年を経ているとはいえ人気の高さが伺える*1)。

 昭和30年代といえば我が国はまさに年率10%を超える高度経済成長の真っただ中、企業数が増え、個々の企業も成長すれば、当然に管理職ポストも増大する。豊かなヒューマンスキルを持った人材が社会も求めていたと思われる。出版社の時代考察が見事的中した事例ではなかろうか。

 私にとっても、青春の第2幕あたりの年頃で、会社では中堅社員教育を受講していた頃合いである。この本には大きな教示を受けた気がしている。この本の内容が読者の心にスムーズに受け入れられるのは、あらゆる箇所に事実に基づくと思われる挿話が散りばめられていることだ。

 第一部「人を動かす原則」の第一章「盗人にも五分の理をみとめる」では、『ニューヨークの犯罪史上にもまれに見る凶悪犯人で、“針のさきほどの動機”からでも簡単に人を殺したという、二丁ピストルのクローレーが刑務所の電気椅子にすわるとき、「こうなるのも自業自得だ、大勢の人を殺したのだから」と言っただろうか、いやそうは言わなかった。「自分の身を護ったばかりに、こういう目にあうのだ」これが、クローレーの最後のことばであった。この話の要点は、凶悪無類のクローレーですら、自分が悪いとは全然思っていなかったということだ。・・・およそ受刑者で自分自身のことを悪人だと考えている者はほとんどいないそうだ。』とある。

 一般の人間なら尚更だ。従って本書は言う。『他人のあらさがしは、何の役にも立たない。相手は、すぐさま防御体制をしいて、なんとか自分を正当化しようとするだろう。それに、自尊心を傷つけられた相手は、結局、反抗心をおこすことになり、まことに危険である』。

 しかしながら、反抗心を恐れて、職場のルールを守らない部下にさえ注意することを憚り、そのために機能的でなければならない組織が共同化し、ラインより労働組合の意向が強く反映されるような組織に堕する危険もある。

 我が国の土下座外交のつけが、現在の我が国に対する中韓の言いたい放題、やりたい放題の誹謗中傷となっていることを思えば、「人を見て法を説け」と言う釈迦の言葉が身にしみる。はっきりと言った方が相手の身のためでもあろうと思う昨今である。



*1)日本で430万部、世界で1500万部以上の売上(Byウィキペディア)
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