中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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地方創生 第10回

2021年09月28日 | ブログ
地方創生の要諦

 現状の政治家連中の器では、せいぜい「ふるさと納税」とか「観光」に力を入れるなど、当たり障りのない「やってる感」でチマチマその場しのぎをやるだけで埒があかない。

 また現状の政治家では、中国は経済的つながりが深いから「なるべく刺激しないように上手に付き合いましょう」レベルだから、中国に出した製造業を国内に戻すなどできはしない。この間もテレビを見ていたら、おもしろ家電で売り上げを伸ばしている「サンコー」さえ、新製品の開発の試作品を中国で作らせて送って貰っているようだ。それでは折角のアイデアもみんな中国の知るところとなり、中国は太り、日本は細るというこの数十年の状態が続くばかりだ。

 ずうずうしくも中国はTPPへの加入を希望するだと。永遠にパラサイトを続けるつもりだ。台湾は民主国家だからいい。中国が加入を認められるなら日本はTPPから降りるべきだ。当初畜産業界や一般農家からはTPPへの反対が多かった。米国が抜け、どういう訳か日本の農家などは静かになったと思ったら今度は中国だ。

 それにしても大阪都構想でさえ、住民投票でボツになった。今の47都道府県を10程度の新たな地域行政の区画割にするといっても相当の反対運動が起こりそうだ。一筋縄でいかないことは予想できる。推進する側には大変なエネルギーが必要である。しかも実際のところ、実施して未来永劫地方が良くなるかの保証はない。PDCAではないが、進めながら修正しながら確立してゆく必要がある。勿論運用にきめの細かい法秩序の整備・構築から国民の覚悟は必要である。成果がでるまで、慣れるまでには辛抱が必要である。何をやるにも無リスクの案件はない。

 しかし、米国の人口は3.28億人、国土面積は983.4万km2で50州。我が国は人口1.26億人、国土は38万km2で47都道府県。人口当たりでも面積当たりでもわが国の都道府県はちっちゃ過ぎると思いませんか。

 そして、明治の時代と何が違うと言って、IT、IoT、AIの進化で、5Gはいろんな意味で距離を縮める。スマートシティの時代なのだ。県名が変わっても故郷が消えるわけではない。財源を持った新しい道州の各地域は、地方の特色ある産品、昔からの伝統工芸品から最先端の工業製品までを作り、大学など教育機関も地方の特性に応じてユニークな人材を育てればいい。

 道州の官僚は国家官僚との互換性を担保し、優秀な人材が処を得て活躍できるようにする。地方財源を豊かにすることで、子育て環境もチマチマではなく整備する。すでに始めているところもあろうが、地方でも役所や企業が託児所を完備して子連れ出勤も可能にする。コロナ前の人出不足も地方の労働力のフル活用で緩和する。間違っても中国人など農業実習生などの名目で入国させてはならない。中国人留学生に使うお金があるなら、地方に回す。

 重要なサプライチェーン部品は国内生産を旨とし、研究開発も国内で行う。自由と民権が担保されない国家とは貿易や人流も制限することも必要である。日本人が何時スパイ容疑で拘束されるか分かったものではない。



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地方創生 第9回

2021年09月25日 | ブログ
道州制の活用

 現在自由民主党では総裁選挙真っただ中である。テレビのワイドショーなどニュース番組では連日報道されるが、当然に自民党員100万人以外選挙権はなく、総選挙で政権交代でも起こらない限り、総理大臣が決まる。一億2千万人の人口に対して、たった100万人の意向で国家のトップを決めているのである。多数の代議士を有する与党は、彼らが国民の負託を受けているというのが議院内閣制の理屈ではある。

 しかし候補者の裏で画策するのは、最もがっかりした歴代総理のツートップや、高齢にもめげず党の要職に君臨し、ネットでは相当に評判の悪い御仁などである。

 候補者の面々もそれらの党内で力を持つ困った政治家に忖度せざるを得ない。何といっても自民党国会議員の総裁選選挙権は一般党員の単純計算で2600倍であり、1位2位の決戦投票になれば、一般党員は選挙権を放棄させられる。もっともその制度に党員でもない人間がケチを付けても仕方がない話だ。

 しかしながら候補者4名の中で、派閥を持つのは岸田さんだけで、推薦人20名を集めるのに四苦八苦する人が候補になるということは、党内実力者と言われる陰で糸引く人物の傀儡であることは明瞭である。河野氏も高市氏も似たようなものだ。似非右翼の安倍氏を慕う高市氏など、威勢がいいのは今だけという気がする。

 前回の総裁選、派閥を持たない菅氏が安倍氏路線継続を掲げて総裁候補に名乗りをあげると、幹事長の一声で、自民党国会議員が勝ち馬に乗るというだけで雪崩を打って菅氏支持にまわった。そこまでは自民党のことだから仕方がない。しかし、それが総裁決定後の世論調査でそれまで総理候補に数%の支持しかなかった菅氏を7割もの国民が支持していた。

 いい機会だから安倍政治からの脱却が絶対必要と考えていた私などとは180度異なる判断だ。思えば2009年の民主党への政権交代もあってはならないと、本稿ブログでも随分と書いたが同様の結果だった。コロナで菅政権を批判した国民の多くは自業自得と心得るべきである。

 過去にも派閥の長でない人が総理に成ったことはあった。「神輿は軽くてパーが良い」と言われるくらいの傀儡政権では政権そのものに国民からの信頼は得られない。

 結論から言えば、議院内閣制は今の時代には合わないように思う。政党の古い体質、権力を維持したいだけの過去の人がどうしても陰で画策する。そろそろ政治改革として、大統領制のように国家のトップ選出に国民が参画できる制度にした方がいい。それと国会議員は本来立法府の役割を担っており、リーダーとしての資質は不十分でも通用するところがある。弁護士や官僚出身者が多いが、理屈やリベートに長けていても人心の機微に精通していない人が多いように診る。

 道州制となれば、その知事は、現在の制度より大きな権限と責任を持つリーダーであり、国会議員などより国家のトップ候補になる資格がある。人材を幅広く求めることで、より良いリーダーを選んでいける気がする。少なくともの知も徳もない過去のリーダーを恐れる必要はなくなるように思う。



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地方創生 第8回

2021年09月22日 | ブログ
続、地方創生の処方箋

 聞く言葉に、最近の政治家特に総理大臣でもやろうかという政治家に対して、「小粒」と言うのがある。言うのは引退した古い政治家のことが多い。政治ジャーナリストでもそう思っている人は居るだろうが、テレビの仕事が減ることを恐れてエビデンスの薄い発言は控える。政治ジャーナリストこそ小粒も小粒、豆粒程度がやっている。

 どういうことか、「小粒」の意味が分からない人も多いようで、ネットなどによく登場する一言居士の中にも、菅総理の功績として、携帯電話料金の負担減少を挙げたり、昔の環境大臣が「クールビズ」で鬼の首でも取ったように功績として吹聴する。何もやらないより増しではあっても、総理や大臣の仕事は「戦略」であり「戦術」の細目ではなかろうに。

 少子化対策~WLB~女性活躍~一億総活躍~働き方改革、「地方創生」もその中に入る。「アベノミクス」も入るかも知れない。キャッチコピーのオンパレードでどれも実現したとは聞かない。これに対して「仕事師内閣」の看板を掲げて、携帯電話料金でも現実に下げ、役所のハンコを減らした実績が新鮮に映るのは無理もない。

 政権の施策がなぜキャッチコピーに終わっているのか。要は、今はどこでも普通に使われるPDCAが施策の運用に伴っていないようなのが問題なのだ。計画(Plan)を打ち上げたら実行する(Do)。その結果がどうであったかしっかりと検証する(Check)。検証結果を受けて必要なら計画案を見直す。今や産業界では常識となっているプロセスが抜けているのではないかと思えてしようがない。

 それをやっているなら一般国民にも分かるように広報するべきだ。以前「平成の大合併」というのがあって、地方の中核都市に周辺の町や村を吸収した。中には吸収され消滅した市もある。その結果、自治体の財政状況はどうなり、住民の生活はどう変わったのか。良くなった点、不便になったりの悪くなった部分もあるだろう。吸収された側の市町村の職員にだけでもアンケートして結果を検証しておけば、今後の地方創生の役に立つ。

 1871年の維新政府の廃藩置県から150年。もっとも全国の藩の数は多く(200以上)、初期は3府302県だったという。1871年末に3府72県となり、1888年に今の数になったようだ(コトバンク)。その後沖縄県が加わり1都2府44県。それにしても長期に渡る区画割のまま、この頃では国会議員定数の調整で、人口減少の地方では選挙区割騒動が起きる。

 地方創生には、現在の行政区画を根本から見直し、まさに道州制くらいの大きな区分割りとして、地方の行政区にもまとまった財源を確保させ、外交や安全保障など以外の権限と責任を国から移譲させる必要がある。そのくらいの改革でないと「地方創生」に大きな成果は期待できない。

 二言目には「改革」すなわち「既得権益打破」が何かと思えば原子力発電を無くすでは、折角の科学技術も萎んでしまう。学生時代ろくに勉強せずに、世襲で政治家になり、自身がその既得権益をしっかりと確保していながら、他人の既得権益は減らしたい。単なる我田引水である。「地方創生」ひとつでも大きな高い見地からの改革が必要である。




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地方創生 第7回

2021年09月19日 | ブログ
地方創生の処方箋

 「お金は寂しがりやだから、お金の集まっているところに集まりたがる」ということで、貧乏人の所にはなかなか回ってこない仕組みがあるようだ。人間だって同じようなもので、人気(ひとけ)の多い所、すなわち都会に人は集まる。

 人間だけでなく生き物はすべて、最も強い本能は食べることと種の保存のようである。食べ物すなわち、「食」すなわち「職」に在りつける所、異性との出会いの機会が多い所を目指すのは自然の成り行きである。

 一次産業中心の時代には、山林、耕作地、猟場、漁場、採掘場など経済的価値を産みだせる場所には限りがあるから、所有者が確定してゆき、家系で相続するシステムが確立した社会となれば、次男坊以下が弾かれて仕方なく都会を目指すことも起こる。需要の後退(不況)には離農者が増加した時期もある。都会に出ても職にありつける保証はない。零細自営業、手っ取り早い零細小売業が都市部で急速に増えた時期もあるようだ。「商店街はなぜ滅びるのか」新雅史(光文社新書2012年)

 戦後のわが国の高度経済成長期の初期には、中卒者が「金の卵」と言われ、東北の田舎から東京方面に集団就職した者が多かったことも記憶に新しい。

 現在、トヨタ自動車のように世界的規模を持ち収益性の高い大企業が、部品不足で大幅減産を余儀なくされているようだ。東南アジアのコロナ感染拡大で部品工場が動かないためのようだ。中国への依存に限らず海外依存のサプライチェーンはリスクがある。

 大雑把な話ではあるが、わが国の東京や大阪などの大都会の産業集積地では、人件費の上昇や都市化の進展による環境対策などもあって、地方への工場移転を進めた。その後さらに人件費の安い中国への移転を進めた。勿論大企業の下請けで、大企業の中国への進出に伴って出かけざるを得なかった町工場もあったかも知れない。地方に「職場」が減少したのだ。都会ではそのものづくり「職場」の減少による雇用を、小売業や飲食店などの増加で補った。日本の労働生産性の低さの一因である。

 当初は安い人件費、そして市場規模の有望性の高い中国を目指したことは、米国や欧州も同様である。中国からすれば鴨がネギを背負って来てくれるようなもの。中国(中共)は経営ノウハウから生産システム、技術までほとんどタダで手に入れ膨張した印象がある。気づいたときには米欧でさえも手に追えない危険なモンスターとなった。

 要は、馬鹿な連中が長期的視野に立って判断してこなかった事。現在に至ってもなお、日本の政治家や財界人にはそこに留まる輩が多いようで、中国重視の連中が力を持っている。

 地方創生には、特に中国に頼る部分のものづくりを日本の地方に早く戻すこと。その為には、媚中・親中政党や議員を政界から放逐することが急務だ。日本は民主主義国家だ、与党の長老だ、権力者だなど全く恐れる必要はない。総選挙で各選挙区の有権者が叩き落とせば済む話なのだ。



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地方創生 第6回

2021年09月16日 | ブログ
地方創生と政治

 『地方創生とは、東京一極集中を是正し、地方の人口減少に歯止めをかけ、日本全体の活力を上げることを目的とした一連の政策である。2014年9月3日の第2次安倍改造内閣発足後の記者会見で発表された。ローカル・アベノミクスともいう。』ウィキペディアにこうある。

 「少子化対策~ワーク・ライフ・バランス(WLB)~女性活躍~働き方改革」少子化対策は安倍政権で始まったわけではないが、その他の安倍政権で打ち出したいろんな改革案の進捗状況はけっして顕著とは言えない。地方創生も同様である。良いことかどうか「ふるさと納税」は返礼品があるというので盛り上がり、都内には住民税収入の減少を嘆く自治体もあったようだ。税収が増えた地方の自治体がそれを有効活用して創生が進めば結構なことといえなくもないが、もともと国はほとんどの自治体に地方交付金を出しており、その配分の調整で済む話とも思ってしまう。返礼品の売上げ増が地元産業の底上げに大きな効果がおるとも思えない。  

 何々改革と打ち上げればやったつもりで、コロナ対策ではないが、誰がやっても出来はしないと、それをできない言い訳にする。国家の経営と企業経営ではその規模や成り立ちが違いすぎて、同列に論じるのは無理もあろうが、安倍―菅政権のようなリーダーなら企業は沈没する。日本という国家は、江戸時代の全国の自主独立の藩の存在が、地方に多くの賢者を産み、結構頑丈な土台を築いてくれていたお陰で、現代に至っても中央政府のリーダーに知も徳もなくとも、総崩れになるまでに時間が掛っているだけの話。

 地方の首長など例外もあろうが、田舎にゆくほど徳の在る雰囲気の首長が頑張っており、東京はじめ大都会ほど徳も知も政権リーダーに近いのが選ばれるのはどういう訳か。都会は所得水準が高く、現在のような媚中経済政策の恩恵を受け、格差上部の住民が多いためであろう。

 今回の総裁選では岸田さんが、新自由主義からの脱却と格差是正を謳って立候補されたのはいいことだ。安倍-菅政権では取り巻きの財界人にも儲け第一主義者が集った。菅氏は総理就任時に政策理念として「自助、共助、公助、そして絆」を挙げた。安倍政権7年で格差が拡大しており、格差に追い打ちを掛けるような理念にまず不信感があった。「そして絆」を加えたことが逆に白々しく思えたものだ。「自助」それ自体は間違っていない。しかし何でも国に頼っている国民など少ない。言われなくてもやっている。しかし自分だけでやってどうして絆が生まれようか。みんなが助け合って、互助あってこそ絆が生まれるのだ。

 それにしても野党(立憲民主党)の体たらくはどうしようもない。民主党政権の3年余りのトラウマから国民は脱せないでいる。トラウマが支えた安倍政権であり、安倍氏は媚中派やリベラルに乗っかって政権維持を図った。そこに真の愛国も保守もなかった。今こそ政権の媚中政策を衝き、中国人の国内不動産取得に大幅な制限を掛け、中国人留学生を十万人単位で抱える現状の税金の使い方も正すべきだ。中国資本はさらに疲弊した地方の不動産や首都の店舗さえ狙っているという。時代を取り込んだようで、性同一障害者施策など声高に叫んでも国民生活にほとんど関係は薄い。国家存続のために必要な政策が分かっていない。



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地方創生 第5回

2021年09月13日 | ブログ
坪内寿夫のふるさと創生

 前稿で、大阪から別府の瀬戸内海航路を持つ関西汽船に触れた。関西汽船は昭和30年代後半、別府温泉を中心に城島高原などにホテル、ゴルフ場、遊園地を建設し、関西の客を松山などに降ろさず、別府で総取りする計画を立ち上げた。当時坪内は地方発展のカギは航空便との思いが強く、関西汽船の動向など気にしていなかった。

 しかし、まだ当時は多くの人を一度に運べる汽船の威力は大きかった。この関西汽船の思惑は坪内の拠点松山市にとっては青天の霹靂であり、市長や市議会、銀行などが坪内に泣きついてきた。

 坪内は付き合いのあった電通の吉田秀雄に相談する。「松山を有名な温泉地にするには何年でなんぼ金をかければええんじゃ」と問うた。吉田は「無名の地を宣伝したら、年間10億かけるとして15年はかかるじゃろう。それでも十分でないかも知れない」と答えたものの、無名が有名になる見積もりを出させた初めての男の器量に只ならぬものを感じたという。

 吉田は坪内に密かにアドバイスする。「作家の機嫌をとって、松山のことを書かせろ。それなら安うて宣伝になる」吉田から紹介されて、坪内が今東光や柴田錬三郎と親しくなったきっかけである。

 当時、健全娯楽としてゴルフに目を付けていた坪内は、来島どっくと奥道後の中間地点、海の見える場所にゴルフ場建設を始める。坪内は、自分でボールを打つ前にゴルフ場を作った珍しい男となるのだが、それを聞いた吉田がそのゴルフ場を「作家専門」にするよう提案し、今東光は雑誌の小さなコラム欄ではあるがそのことを書いた。反響は素晴らしく、柴田など毎月作家連中を引き連れて来松し、岡本太郎も数えきれないくらい来たという。

 ゴルフ場が縁で坪内と親しくなったゴルファーの青木功は、後に日経新聞の「私の履歴書」に坪内のことを書いて大いにリスペクトしている。

 さらに今東光は、NHKが「おはなはん」という連続ドラマを計画していることを聞きつけ、本来徳島県が舞台の当ドラマを、愛媛県の大洲に持ってこさせることを坪内に進言する。徳島市は戦災で古い町並みが失われていたことや、費用の面で難色を示していたことなどの事情もあったようだが、いずれにしてもこの朝ドラは大洲市を舞台に、1966年(昭和41年)から翌年に掛けての1年間の平均視聴率が45.8%という、当時としても驚異的数字を叩き出した。主役を務めた樫山文枝や、その夫役の高橋幸治を記憶している方も多かろう。

 「おはなはん」の余勢をかって、NHKと親しくなった坪内は、大河ドラマ「空と雲と虹と」、「花神」の実現に貢献する。「空と雲と虹と」は瀬戸内の海賊の頭領藤原の純友を描いており、「花神」は伊予宇和島藩で蒸気船を建造した村田蔵六(大村益次郎)の物語で、ヒロインのシーボルトの娘は宇和島に居た。結果、道後温泉は俄然有名になり、関西汽船の城嶋高原は大打撃を受けた。

 近年、NHK大河ドラマの舞台には、全国からオファーが絶えないそうだが、その先駆けとして坪内は、ここでも名を残すことになったのである。


 本稿は半村良「億単位の男」1996年5月初版、株式会社集英社刊を参考に構成しています。なお、文脈上敬称を略させていただきました。



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地方創生 第4回

2021年09月10日 | ブログ
続、ふるさとの偉人「坪内寿夫」

 坪内寿夫は、わたくしの故郷でもある愛媛県松前町で生まれたが、父親が町に芝居小屋を転じたと思われる映画館を持っており、シベリアから帰国後はまず映画館の経営から始めたのは成り行きであろう。小学生の頃、町で空前絶後の葬儀があったが、後に坪内の父親の葬儀だったと気づいた。

 来島船渠(後の来島ドック)の再生に成功した坪内は、本格的な事業家として活躍の場を広げる。われわれ地元民にも良く知れた実績に奥道後開発があった。記録によれば1961年とあるが、私が中学に進学した(1960年)頃、すでに中学校の図書室に坪内から寄贈の「坪内文庫」があった。

 この度、半村良「億単位の男」を読み返して知るのだが、大阪から別府への瀬戸内海航路を持つ関西汽船の再生にも関わっている(1971年)。関西汽船は小学校の修学旅行で松山から別府までの船旅でも乗船したのでなつかしい。

 坪内の名が中央政財界まで深く轟いたのは、佐世保重工の再生である。佐世保重工業は元の海軍工廠である。「億単位の男」によれば、戦後の朝鮮動乱の特需景気で一時潤ったが、その後受注競争に敗れて昭和29年ころには傾きかけた。その時救済したのが当時大洋漁業の社長であった中部健吉だった。しかし、その後大洋漁業が国際的な捕鯨禁止のあおりを受けて経営を悪化させる。そこで、当時大洋漁業の顧問をしていた白洲次郎が、日銀松山支店長の紹介で坪内を訪ね、佐世保の会長職と引き換えに中部の持つ佐世保重工株を引き受けて欲しいと依頼したのだ。坪内は初対面で白洲の人物に惚れ、即引き受けたという。

 しかし、佐世保の株を引き受けながら、坪内に経営権が移ったわけではなかった。当時佐世保は日本鋼管や新日鉄が深く関与しており、資本金1億7000万円のローカルな船会社の社長に経営権を譲りたくなかったのだ。ところが1年後、造船業界に欧州共同体との経済摩擦が生じて、どうしようもない経営危機に陥った。

 坪内を二階に上げて梯子を外した日本鋼管、新日鉄そして日商岩井などは人員整理で退職させる社員の退職金の支払いや第一勧銀からの融資の保証も断り逃げ出した。当時の福田赳夫総理や日本商工会議所の永野重雄や宮家からの要請もあり、坪内は身銭を切って経営に乗り出すしかなかった。昭和53年(1978年)のことである。

 そして4年後200億円以上あったという累積赤字を解消して再建に成功する。『坪内が極端なまでにその財力を利用されており、そのために破滅をまぬがれた側が、坪内を利用したにもかかわらず、自己の利益を求めて一片の恩義さえ感じず、逆に坪内の行為を乗っ取り屋の所業と罵り、企業を破滅に追いやった自分たちの失敗を糊塗しようとした事実がある。

 多分これこそが資本主義社会における通弊であり、雇われマダム的なサラリーマン社長にとっては、至極当然な生き方なのだろうが、その裏切り、背信の連続を耐えて、彼らを見返すほどの成功をかちとった坪内の生き方と対比してみると、今日の日本の社会がベルリンの壁崩壊と同じように、その基盤を根底から崩壊させはじめている原因の究明に役立つはずである。』「億単位の男」本文より


  本稿は半村良「億単位の男」1996年5月初版、株式会社集英社刊を参考に構成しています。なお、文脈上敬称を略させていただきました。


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地方創生 第3回

2021年09月07日 | ブログ
ふるさとの偉人「坪内寿夫」

 半村良「億単位の男」1996年5月初版、株式会社集英社刊から、坪内氏の傑出した人生を辿る。

 『生まれたのが大正3年。商船学校を卒業して南満州鉄道へ入社したのが昭和9年。結婚したのが昭和15年、満州で兵隊にとられたのが昭和20年の3月。ソ連が終戦ギリギリになって駆け込み宣戦布告をしたのが8月の8日。すぐ捕虜になってシベリアへ連れて行かれてそれきり抑留、強制労働。日本へ送り返されたのが昭和23年10月。劇場経営をはじめたのが翌年、昭和24年5月。映画の2本立て上映を日本で最初にはじめて、映画館を40館近くも増やして大儲け。その稼ぎっぷりを見込まれて、倒産した造船所の再建を引き受け、社長に就任したのが昭和28年、39歳の春。

 坪内寿夫の人生を切れ目なしにかきつらねればこうなる。

 回顧すればまさに昭和の激流をすっぱだかで泳ぎまわり、岸についたときは巨富を手にしていたという、奇跡的なラッキーボーイと見えなくもなかろうが、本当に運がよければ満州へは行かずにすんだかも知れないのだから、シベリアで強制労働をさせられることもなかっただろう。

 彼が幸運に恵まれていたとすれば、シベリアから故郷松前(まさき)町へ帰って、松山市内で劇場経営をはじめたあたりに、それがあったと言えるようだ。・・・』<造船と観光(の章)>

 『昭和20年代、日本再建連盟という政党があり、それを基盤に政界へ乗り出そうとしていた岸信介が、松山市で最初の集会を開いたとき、自己の主力館である松山グランド劇場を会場に提供したり、映画館の売上げをそのまま現金で岸のもとに運んだりして応援したのも、単に頼まれたからというだけでなく、坪内が自分の人生の新しい局面を模索していた時期に重なっていたのだ。・・・

 資金の乏しい岸信介と会ってその人柄を知り、映画館の売上げを鷲づかみにして駆け付けた義侠心もあれば、スーパー・マーケットの方式を知ると、大阪のダイエーに先駆けて、いち早く松山市内に「主婦の店」チェーンを展開する(昭和32年春)など、新しいものに対する好奇心と果断な実行力を発揮する側面もある。

 しかも「主婦の店」などは、一応の成功をおさめたあと、スーパー・マーケットがいかに周辺の零細小売業者を圧迫するかを知って、あっさり(3年後)撤退してしまう淡白さを持っている。

 その上青雲の志に燃えて、至難と言われた来島船渠の再建に私財をなげうって突進する、開拓者精神にも恵まれていたのだ。・・・』<戦火と繁栄(の章)> つづく


( )内は本稿の筆者追記




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地方創生 第2回

2021年09月04日 | ブログ
ふるさと紹介

 近くのパソコン教室で、数年間社会人講話を担当させて貰っていた。生徒さんは、平均的に7~8名といったところ。講師紹介という事で、最初に簡単に略歴等を述べる際に、出身地についても触れる。因みに私の故郷は、四国は愛媛県の中ほど、松山市の隣町となる伊予郡松前町である。

 生徒さんに「四国へ行ったことがある人」と質問すると、一人手が挙がる程度で、二人以上のことはほとんどなかったように記憶する。北海道や九州は全体が観光地のようなもので、多くの人が行っているであろうに、千葉県人には四国は縁遠い所のようだ。

 そこで、自己紹介は毎度ふるさと紹介に力点を置いた。松山は正岡子規、夏目漱石の小説「坊ちゃん」などで有名であり、聖徳太子も入ったとされる道後温泉本館の湯も全国版の知名度がある。山上に聳える天守閣の松山城。近年、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がテレビドラマ化されて、日露戦争の英雄秋山好古、真之兄弟の存在と彼らが伊予松山の産であることが知られた。建築家安藤忠雄氏の設計による「坂の上ミュージアム」も建造された。

 昔、JR四国が「青い国四国」で売り出していたが、元々四国は鉄道と道路は後進国並みで、岡山から松山へは児島から瀬戸大橋の鉄橋を渡り特急電車が走ってはいるが、四国の鉄道の95%は単線という。

 昭和41年春、就職して山口県に住むようになり、山口県の道路が格段に優れていることを知った。大阪から九州に通じる日本の大動脈である国道2号線が瀬戸内沿いを通っていることもある。当時四国の鉄道・道路は、本州と連絡船かフェリーで繋がるだけだった。

 北海道と同じように、連絡船の悲惨な事故を経験して、架橋計画が進展した。それでも淡路島ルート、児島ルート、尾道・今治ルートと三本の橋は必要ないのではという議論も随分とあったように聞く。しかし、3本それぞれ連絡県は異なる。兵庫県と徳島県、岡山県と香川県及び広島県と愛媛県となる。尾道・今治ルートはしまなみ海道と呼ばれ、美しい瀬戸内のど真ん中の景観の中、自転車レースが行われるなど、世界的な知名度を上げている。

 元々、今の松山城は私の生地伊予郡松前町にあった(正木城)。その跡地の記念碑が東レ愛媛工場の正門前にある。城主は秀吉子飼いの加藤喜明であり、秀吉と柴田勝家の戦い(賤ヶ岳の戦い)や四国平定の功で大名となった武将である。城を今の松山の勝山に移したのは1603年という。徳川時代となって会津に国替えとなり、城主には徳川家康の異父の弟である久松家が継いだ(坂の上の雲)。「春や昔十五万石の城下かな」子規。維新後は隣国の土佐に一時統治され、愛媛県人は国の中枢での活躍は制約を受けた。久松氏は私が子供の頃には県知事を務めていた。未だにこの国は維新を引きずり、政権の中枢には世襲の長州人。高知県(吉田茂)、徳島県(三木武夫)、香川県(大平正芳)には辛うじて1名ずつ居る総理大臣を、愛媛県は一人も輩出していない。因みに山口県は8人の総理を出しており、その在籍期間も突出している




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地方創生 第1回

2021年09月01日 | ブログ
故郷は遠きにありて思うもの

 室生犀星の「望郷の詩」の傑作として、多くの人に親しまれた「小景異情」その二。「そして悲しくうたふもの・・・」と続く。犀星の故郷金沢にも、近年新幹線が繋がり随分と近くなり、その分望郷の情緒は薄れているかも知れない。もっとも今は未曽有の感染症拡大下にあり、お盆くらいは帰りたくとも里帰りをあきらめた人も多かろう。政治は結果責任である。総理大臣もついでに東京都知事も辞任するべきだ。ぼったくり男爵にIOCの職員にでも雇って貰えばいい。東京の人も正月くらいは里帰りできるようになるといい。

 八木重吉は、29歳の若さで逝ったが、その死後に出版されたという詩集『貧しき信徒』に「故郷(ふるさと)」、「ふるさとの川」、「ふるさとの山」を残している。

 心のくらい日に
 ふるさとは祭りのやうにあかるんでおもはれる <故郷(ふるさと)>

 ふるさとの川よ 
 ふるさとの川よ 
 よい音をたててながれているだろう
 (母上のしろい足をひたすこともあるだろう) <ふるさとの川> 

 ふるさとの山をむねにうつし
 ゆふぐれをたのしむ  <ふるさとの山>

 高村光太郎の「智恵子抄」は歌謡曲にも歌われてあまりに有名である。

 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切っても切れない 
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは 
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながら言ふ。
 阿多多羅の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとうの空だと言ふ。
 あどけない空の話である。  <あどけない話>

 本稿の詩については、榊原正彦編「日本の名詩」金園社昭和42年刊から抜粋したものです。八木重吉(1898年生)の故郷は東京の南多摩郡、現在の町田市内。智恵子は福島県安達郡油井村の生まれとある。



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