変わりゆく人と風景
私が入社した昭和41年当時の三井石化の社長は岩永巌氏。当時の筆頭株主(約22%)であった東洋レーヨン(現、東レ)の社長抗争に敗れての移籍であったように聞いた。その後、東洋レーヨンへの吸収合併が取り立たされていた折、岩永氏が会長となったことで、合併はなくなったような報道があった。岩永氏は東レ滋賀工場を立ち上げた方で、当時実業団柔道の雄であった東レ滋賀柔道部の顧問として功績があり、「座り三段」などとも呼ばれたそうだ。われわれにはにこやかな笑顔を見せられていたけれど、圧倒的な貫禄があった。当時は、まだ旧制大学の出身者が役員を占めていたが、彼らには良くも悪くも骨太の印象がある。人を見る目にも厚みがあったように思う。
多くの企業で、多くの組織で、そのトップの交代の時、後継者に誰を選ぶかは重要な前任者の仕事である。自身の権限を残したいあまり、自身より一格もニ格も劣ると思われる人物を後継者として選ぶ場合も多く、それが組織の弱体化につながることもある。人事をみればその人の器が見える。
三井石化の歴代社長の中に、旧制高等専門学校(旧制高校)卒の方がおられた。まだ、旧帝大卒が健在の時代である。この社長さんには、ささやかだけれど思い出がある。CI(コーポレート・アイデンティティ)が流行った時代で、工場でもDI(デビジョン・アイデンティティ)をやれということで、工場部内のメンバーで取り組んで、社長をお招きしてブースでの発表会を行った。われわれのブースに立ち寄られた社長は、私の長くなった説明を熱心に聞いてくれた。隣で人事課長だったかどうかお傍用人が「時間です」と社長を突っつくのだけれど、「いい!」と言われて最後まで話を聞いてくれた。
明確なビジョンを社員に示し、将来の社の方向性を定めたこの社長の後継者選びは流石だった。実力を評価されながら、その個性から常務取締役を勤めたあと関係会社へ出ていた役員を再び本体へ呼び戻した。一度関係会社へ出た役員経験者が本体へ戻ることは珍しかった。実力者で脇を固め、長期に社長を務めるための人事であると当時の関係紙は伝えたが、その後自身の後継社長にその役員を据えたのである。後継社長は業績を上げ、三井石化を三東圧の合併にも耐える企業に仕上げられた。三井石化では最後の社長となったが、三井化学の初代会長として新生三井化学の基礎を固めた。
思い込みだけの無能な個性派は最も困るのだけれど、実力があっても個性派人材は、兎角半端な上司に嫌われて消えて往くことが多い。気が付けば社内に人材が枯渇している。この厳しい時代、有り余るほどの個性がなくて大企業など引っ張って行けはしないものを。
話変わって、ここ千葉県市原市の有秋地区の企業団地は、臨海部の多くの企業が寄り集まって形成されていたのだけれど、最近頓に、どんどんと戸建て一般住宅に姿を変えている。一般地価の低下と企業の持ち家制度などで住宅取得が容易になり、30歳代くらいから社員は近郊に戸建てを持てるようになった。将来にわたって事業を発展させてゆく方針が立たず、企業は空き棟の進んだ社宅用地を売却して資産効率を上げる。供給される宅地の増加はさらに地価を下げ、その取得を容易にする。バブル期と逆の現象が起きていたのかもしれない。
この団地の風景の変化は、そのまま臨海部のコンビナートの将来を暗示しているのだろうか。確かにエチレンとその誘導品に限れば、天然ガスやシェールガスからのコストに対坑できはしない。しかし、化学の世界は無限であり、化学品原料としての石油もまた無限の可能性を持っているように思う。優れた人材を集め基礎研究から新製品開発へと繋げれば、国内産業の維持は可能と思う。原料由来の産業ではなく、化学企業との視点で魅力ある企業を目指し、人材を確保することから始めることだ。そのために人事担当役員は企業の要である。石油化学産業も昭和30年代の初心に返らねばならない時かもしれない。
私が入社した昭和41年当時の三井石化の社長は岩永巌氏。当時の筆頭株主(約22%)であった東洋レーヨン(現、東レ)の社長抗争に敗れての移籍であったように聞いた。その後、東洋レーヨンへの吸収合併が取り立たされていた折、岩永氏が会長となったことで、合併はなくなったような報道があった。岩永氏は東レ滋賀工場を立ち上げた方で、当時実業団柔道の雄であった東レ滋賀柔道部の顧問として功績があり、「座り三段」などとも呼ばれたそうだ。われわれにはにこやかな笑顔を見せられていたけれど、圧倒的な貫禄があった。当時は、まだ旧制大学の出身者が役員を占めていたが、彼らには良くも悪くも骨太の印象がある。人を見る目にも厚みがあったように思う。
多くの企業で、多くの組織で、そのトップの交代の時、後継者に誰を選ぶかは重要な前任者の仕事である。自身の権限を残したいあまり、自身より一格もニ格も劣ると思われる人物を後継者として選ぶ場合も多く、それが組織の弱体化につながることもある。人事をみればその人の器が見える。
三井石化の歴代社長の中に、旧制高等専門学校(旧制高校)卒の方がおられた。まだ、旧帝大卒が健在の時代である。この社長さんには、ささやかだけれど思い出がある。CI(コーポレート・アイデンティティ)が流行った時代で、工場でもDI(デビジョン・アイデンティティ)をやれということで、工場部内のメンバーで取り組んで、社長をお招きしてブースでの発表会を行った。われわれのブースに立ち寄られた社長は、私の長くなった説明を熱心に聞いてくれた。隣で人事課長だったかどうかお傍用人が「時間です」と社長を突っつくのだけれど、「いい!」と言われて最後まで話を聞いてくれた。
明確なビジョンを社員に示し、将来の社の方向性を定めたこの社長の後継者選びは流石だった。実力を評価されながら、その個性から常務取締役を勤めたあと関係会社へ出ていた役員を再び本体へ呼び戻した。一度関係会社へ出た役員経験者が本体へ戻ることは珍しかった。実力者で脇を固め、長期に社長を務めるための人事であると当時の関係紙は伝えたが、その後自身の後継社長にその役員を据えたのである。後継社長は業績を上げ、三井石化を三東圧の合併にも耐える企業に仕上げられた。三井石化では最後の社長となったが、三井化学の初代会長として新生三井化学の基礎を固めた。
思い込みだけの無能な個性派は最も困るのだけれど、実力があっても個性派人材は、兎角半端な上司に嫌われて消えて往くことが多い。気が付けば社内に人材が枯渇している。この厳しい時代、有り余るほどの個性がなくて大企業など引っ張って行けはしないものを。
話変わって、ここ千葉県市原市の有秋地区の企業団地は、臨海部の多くの企業が寄り集まって形成されていたのだけれど、最近頓に、どんどんと戸建て一般住宅に姿を変えている。一般地価の低下と企業の持ち家制度などで住宅取得が容易になり、30歳代くらいから社員は近郊に戸建てを持てるようになった。将来にわたって事業を発展させてゆく方針が立たず、企業は空き棟の進んだ社宅用地を売却して資産効率を上げる。供給される宅地の増加はさらに地価を下げ、その取得を容易にする。バブル期と逆の現象が起きていたのかもしれない。
この団地の風景の変化は、そのまま臨海部のコンビナートの将来を暗示しているのだろうか。確かにエチレンとその誘導品に限れば、天然ガスやシェールガスからのコストに対坑できはしない。しかし、化学の世界は無限であり、化学品原料としての石油もまた無限の可能性を持っているように思う。優れた人材を集め基礎研究から新製品開発へと繋げれば、国内産業の維持は可能と思う。原料由来の産業ではなく、化学企業との視点で魅力ある企業を目指し、人材を確保することから始めることだ。そのために人事担当役員は企業の要である。石油化学産業も昭和30年代の初心に返らねばならない時かもしれない。