中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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石油化学工業第19回

2013年03月29日 | Weblog
変わりゆく人と風景

 私が入社した昭和41年当時の三井石化の社長は岩永巌氏。当時の筆頭株主(約22%)であった東洋レーヨン(現、東レ)の社長抗争に敗れての移籍であったように聞いた。その後、東洋レーヨンへの吸収合併が取り立たされていた折、岩永氏が会長となったことで、合併はなくなったような報道があった。岩永氏は東レ滋賀工場を立ち上げた方で、当時実業団柔道の雄であった東レ滋賀柔道部の顧問として功績があり、「座り三段」などとも呼ばれたそうだ。われわれにはにこやかな笑顔を見せられていたけれど、圧倒的な貫禄があった。当時は、まだ旧制大学の出身者が役員を占めていたが、彼らには良くも悪くも骨太の印象がある。人を見る目にも厚みがあったように思う。

 多くの企業で、多くの組織で、そのトップの交代の時、後継者に誰を選ぶかは重要な前任者の仕事である。自身の権限を残したいあまり、自身より一格もニ格も劣ると思われる人物を後継者として選ぶ場合も多く、それが組織の弱体化につながることもある。人事をみればその人の器が見える。

 三井石化の歴代社長の中に、旧制高等専門学校(旧制高校)卒の方がおられた。まだ、旧帝大卒が健在の時代である。この社長さんには、ささやかだけれど思い出がある。CI(コーポレート・アイデンティティ)が流行った時代で、工場でもDI(デビジョン・アイデンティティ)をやれということで、工場部内のメンバーで取り組んで、社長をお招きしてブースでの発表会を行った。われわれのブースに立ち寄られた社長は、私の長くなった説明を熱心に聞いてくれた。隣で人事課長だったかどうかお傍用人が「時間です」と社長を突っつくのだけれど、「いい!」と言われて最後まで話を聞いてくれた。

 明確なビジョンを社員に示し、将来の社の方向性を定めたこの社長の後継者選びは流石だった。実力を評価されながら、その個性から常務取締役を勤めたあと関係会社へ出ていた役員を再び本体へ呼び戻した。一度関係会社へ出た役員経験者が本体へ戻ることは珍しかった。実力者で脇を固め、長期に社長を務めるための人事であると当時の関係紙は伝えたが、その後自身の後継社長にその役員を据えたのである。後継社長は業績を上げ、三井石化を三東圧の合併にも耐える企業に仕上げられた。三井石化では最後の社長となったが、三井化学の初代会長として新生三井化学の基礎を固めた。

 思い込みだけの無能な個性派は最も困るのだけれど、実力があっても個性派人材は、兎角半端な上司に嫌われて消えて往くことが多い。気が付けば社内に人材が枯渇している。この厳しい時代、有り余るほどの個性がなくて大企業など引っ張って行けはしないものを。

 話変わって、ここ千葉県市原市の有秋地区の企業団地は、臨海部の多くの企業が寄り集まって形成されていたのだけれど、最近頓に、どんどんと戸建て一般住宅に姿を変えている。一般地価の低下と企業の持ち家制度などで住宅取得が容易になり、30歳代くらいから社員は近郊に戸建てを持てるようになった。将来にわたって事業を発展させてゆく方針が立たず、企業は空き棟の進んだ社宅用地を売却して資産効率を上げる。供給される宅地の増加はさらに地価を下げ、その取得を容易にする。バブル期と逆の現象が起きていたのかもしれない。

 この団地の風景の変化は、そのまま臨海部のコンビナートの将来を暗示しているのだろうか。確かにエチレンとその誘導品に限れば、天然ガスやシェールガスからのコストに対坑できはしない。しかし、化学の世界は無限であり、化学品原料としての石油もまた無限の可能性を持っているように思う。優れた人材を集め基礎研究から新製品開発へと繋げれば、国内産業の維持は可能と思う。原料由来の産業ではなく、化学企業との視点で魅力ある企業を目指し、人材を確保することから始めることだ。そのために人事担当役員は企業の要である。石油化学産業も昭和30年代の初心に返らねばならない時かもしれない。


 
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石油化学工業第18回

2013年03月26日 | Weblog
体質

 石油化学工業は典型的な装置産業であるため、他産業に比べて労働生産性が高く、社員の賃金や福利厚生など処遇面では有利であった。入社5年目23歳の年(1970年)の暮れ、広島大学病院に入院していた際、同室の40歳くらいの公務員の方が、私の年末のボーナスの額を聞いて驚いていたものだ。確か12万円程度だったと思うのだけれど、当時の公務員はまだ給与面では恵まれていなかったのだ。その折の24時間完全看護で28日間付き添ってくれた派出婦さんへの謝金が5万円だった。

 社員への世間相場に優れる給与などの処遇は、新卒者などの採用の際に多くの候補者の中から選抜できるメリットを生む。企業は人で成り立っている。従業員のレベルがそのまま企業のレベルになると考えてもいいのではないか。その意味で石油化学工業のパイオニアであった三井石油化学(三井石化)の初期の2,30年は十分に成功していたといえる。

 石油化学への新たな参入企業が多くなり、競争時代に入りつつあった1960年代後半から70年代にかけて、まだまだ石油化学業界自体が高度成長期にあった。しかし、70年代の2度のオイルショックで原料は何倍にもなり、プラントの運転員数削減や、省エネ対策などの合理化案が、真剣に検討されるなど苦難の時代となってゆく。しかし、元々の体質的なものは中々変わり難く、その甘さの部分が全体的な社員の質的低下と相俟って、企業力は低下してゆく。

 給与体系が恵まれていても、それが社員のレベルに見合ったものならば問題はないし、当然でもある。しかし、採用する社員の質を維持できていたかどうか。わが国の高度成長が一段落する頃は、業績の良い企業数は増加し、証券・保険・銀行はじめ、商社、放送・出版、家電、自動車などの学生にも人気の高い大企業が優秀な学生から採用してゆく。同じような大学、高校の卒業生を採用しても、石油化学専業企業などどうしても二番手三番手しか採用できなかったのではないか。確かに昭和30年代に入社していた先輩社員と昭和40年代も半ば以降の社員では質が違うように私は見る。それでも賃金の硬直性と過去の遺産によって、能力以上の賃金を手にする層が増加してゆく。残業管理の甘さなどで、実力以上の所得を得る者たちも同様である。企業は個々の管理強化より、全体として給与水準の抑制に努めるが、却って不平等を生む。

 超石油化学の展開拠点と銘打って1987年に開設された三井石化の新技術研究開発センター(千葉県袖ケ浦市)は、まずは開発した特殊樹脂による光ディスク製造のための新設備を建設したが、当初から理想的な生産設備を目指し、完全オートメーションを目論んだため、運転は却ってトラブル続きで儲けに貢献しなかったように聞いた。石油化学の高額なプラント投資が慣習化しており、電機業界などの逐次投資をモデルにしなかったそうだ。そしてポリカーボネートなど安価な樹脂がディスク用に採用されると撤退を余儀なくされた。

 また、電機・電子部品の生産にも挑戦するため、多くの当該業界企業を退職した若手技術者を中途採用したが、彼らは、個人管理でいくらでも残業を付けられる会社に大喜びしていたと聞く。すべて投資に見合う成果は無く、ポリオレフィンなどの触媒開発、プロセス改善等の関係者の努力によって、業界No.1と言われたロイヤルティ収入を食いつぶすだけのものだった。

 袖ヶ浦センターはほとんどの事業が空転する中、三東圧との合併前は研究者の数も開設時(170名)を下回った。合併後三東圧の大船研究所を廃してすべて袖ヶ浦に集約したことで、建物や敷地(3万坪)は辛うじて有効活用されている。
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石油化学工業第17回

2013年03月23日 | Weblog
破談

 三井化学では、三井東圧化学との合併が一段落した2000年頃から、住友化学との合併話が聞かれるようになり、2001年4月には両社連名の合併同意書が発表されていた。その年の10月に、まずポリオレフィン部門を統合して新会社を設立*28)し、2003年10月には完全合併するというものだった。合併後はカンパニー制を採り、7つのカンパニーができるようだった。

 三井化学側は、まず、三井物産で副社長を務められた渡邊五郎氏を、副会長で招き入れた。というより、三井グループとして、合併に必要な最適かつ強力なコーディネータを三井化学に送り込んだということであったろう。もっとも渡邊五郎氏は、高知県のお生まれで、深く坂本竜馬を敬愛され、当時の東京竜馬会にもパネリストとしてやはり竜馬命のソフトバンクの孫正義氏らと同席されていたことがあることから、犬猿の仲であった薩摩と長州を結び薩長連合から一気に維新を成した竜馬に倣い、住友と三井の大連合を果たすという役割は渡邊氏自らが買って出られたのかもしれない。

 この合併は、先の三井石化と三東圧のそれとは次元が異なるように思えた。2003年当時、両社の連結売上高を合計すれば、2兆4000億円に上り、海外関係会社は100社近く、従業員数1万4000人で、世界の業界トップクラスにひけをとらない規模になる。両社のこれまでの技術の蓄積を持ち寄れば、研究開発の面でも大いにシナジーが期待できそうな雰囲気が感じられたものだ。日米欧が凌ぎを削る東南アジア市場に向けて、大規模投資が必要であり、そのリスクは1社では賄いきれないとも考えたようだ。

 ただ、三井化学の旧三井石化社員からすれば、三東圧との合併で給料の頭打ちを食らい、さらに「ケチ友」と揶揄される住友化学との合併では、ボーナスや昇給、退職金までも減らされる懸念を感じていた。事実住友化学の末端管理職の給与は、管理職ということで残業が付かない分組合員の給与水準とほとんど変わらないということで、合併後は、管理職の下から2階級者に残業手当に代わる僅かな給付金を出すという制度まで準備されていた。

 工場でも、合併後の人事制度変更の説明会が開催され、企業年金制度の廃止や退職金制度の変更に同意書が求められたりした。合併とは要はリストラ(事業の再構築)であり、それぞれの企業に付着した垢を取り除くチャンスでもある。ただ、その合理化案が10年20年先の当社の発展を見据えたものかどうかが問われる。人事担当役員が功を焦るばかりに、目先の経費削減に走れば人心は離れてゆく。

 渡邊五郎氏のご努力もあったろうに、結果としてこの合併話は破談に終わった。合併は2人居る社長を一人にする。どちらもまだ会長に祭り上げられたくなかったのではないかと勝手に考える。要は合併後も続く主導権争いであり、それは人事権争いでもある。「株式の統合比率調整がつかなかった」というのが決裂の表向きの理由だけれど、これは人の明確でない死亡原因を心不全とするようなものだ。

 当時の三井化学の社長は、工場にも破談の説明に来られ、三井化学側社員の処遇が悪化することを懸念したように言われていたけれど、結局合併に向けて検討されていたほとんどの処遇はそのまま実施されることとなった。ただ、下級管理職に残業見合いの一律低額給付金支給は、三井化学では必要がないということで、実施されなかったことは唯一の救いだった。

 ここ千葉県市原市は三井化学、住友化学両社が石油化学工業の主力工場を持つ。これらの工場から仕事がくる中小企業では、この大連合が頓挫したことでまずはホットした。大企業がさらに巨大化してその交渉力を増すことは、彼らにとっては脅威なのだ。

 その後、住友化学は現、経団連会長の米倉社長のリーダーシップの下、アラブへの投資を進めた。すでに国内投資は見切ったような趣さえある。そのクール(冷徹?)さが吉と出るか凶と出るか。不安視する声も聞くけれど、方向の定まらないように見える三井化学よりはマシかもしれない。




*28)2002年4月1日「三井住友ポリオレフィン」発足。
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石油化学工業第16回

2013年03月20日 | Weblog
IJPC

 わが国の石油化学工業のパイオニアとして発展を続けた三井石油化学(現、三井化学)も、幾たびか大きな挫折を経験している。先にも紹介した*24)、米国三井石油化学を設立(昭和45年)しての米国ハーキュリーズ社との三井石油化学技術による溶液法高密度ポリエチレン事業が、アメリカ司法省により独占禁止法違反の容疑を問われ、解散に追い込まれた(昭和48年)こともその一つであった。

 また、人間こちらの都合が優先されると、見えなくなる部分を生じる。原油をはるばる中東からタンカーで運び、石油精製メーカーからナフサの供給を受けて成立するわが国の石油化学工業は、1973年の第1次オイルショック*25)までの安価な原油価格に依存したものだった。産油国に投資することで、原油の採掘権などを確保し、少しでも安価に安定的に石油を入手したい気持ちが優先し、三井グループは産油国イランの内政状況の判断を読み誤った。当時、日本大使館と三井物産はイランのバーレビ国王の独裁体制は続くと見ており、三菱商事は危ないと見ていたと言うように聞いた。

 『イランにおける石油化学計画は、油田の廃ガスを有効活用する*26)ためのもので、昭和43年(1968年)11月に同国の国営石油化学会社であるナショナル・ペトロケミカル社(NPC社)より三井物産に協力要請があったものである。この計画はその後、イランとわが国の合弁事業として同国西南部のバンダルシャプール(現、バンダルホメイニ)地区において昭和52年(1977年)完成を目標に、エチレン30万トンプラントを中心とした大型の石油化学コンビナートを建設するという具体案に発展した。このため昭和46年(1971年)12月、日本側投資会社として三井物産が中心となって資本金1億円のイラン化学開発(ICDC)が設立され、国家的事業の見地から三井石油化学も三井グループの一員として資本(当初5%)参加した。』

 昭和48年(1973年)、イラン国営石油化学(NPC)と前述のICDCの折半による合弁会社イラン・ジャパン石油化学(IJPC)が設立された。このプロジェクトは昭和50年(1975年)1月、国家的事業として推進することがICDCの関係社長会で再確認され、翌2月にはNPC社との間に総所要資金5,500億円で計画を推進することが了解された。同計画は、前述の30万トンエチレンを中心に高密度ポリエチレン、ポリプロピレン、塩化ビニルモノマー、クメン、パラキシレンなどが予定され、当初予定より2年遅れて昭和54年(1979年)完成を目標とした。

 しかし、1979年(昭和54年)1月、85%まで工事が進んだところで、イラン革命が勃発し (1979年4月、イラン・イスラム共和国樹立宣言)、 日本人は追い出される形で総引き上げとなり、工事は中断した。

 その後、1979年11月、テヘランで米国大使館人質事件*27)が発生。翌1980年4月米国はイランと断交したが、イランはわが国にIJPCの工事再開を迫り、止むなく両国のナショナルプロジェクトとして推進することで同年7月工事を再開した。しかし、再開した工事が軌道に乗り始めた1980年9月、イラン・イラク戦争が始まり、IJPCのプラントはイラク側の標的になり、このプロジェクトは完全に瓦解した。参画企業に多額の損失を与えたばかりか、派遣された日本人建設従事者700人余りの生命も一時危機に晒したと聞く。

 三井石油化学は、当初このプロジェクトに消極的であったような論評もあるが、海外プロジェクトは、今年1月に発生したアルジェリア天然ガス精製プラントにおける多数の日本人技術者が犠牲になった人質事件を例証するまでもなく、常に大きなリスクを抱えており、推進にはより慎重な検討が必要であろう。未だ中国への投資を進める企業もあり、かの国に10万人以上の企業関係者をはじめとする日本人が常駐することは、わが国として容認していていいものかとの疑問が湧く。IJPCの失敗を通じて思う古くて新しい課題である。





*24)本稿「石油化学工業」第8回「連続重合と無脱灰プロセス」
*25)『昭和48年10月6日に第4次中東戦争が勃発し、16日、OPEC(石油輸出国機構)加盟ペルシャ湾岸6カ国は原油公示価格の70%にも及ぶ大幅引き上げを決定、さらに17日にはOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が原油の減産とイスラエル支持国に対する石油供給削減の強硬措置を決定し、わが国も(一時)その供給削減の対象とされた。石油の約80%を中東に依存しているわが国経済は、大きなショックを受けた。いわゆる“石油危機”の到来である。』
*26)当時のイランの石油化学工業はアンモニアからの肥料が中心であり、石油採掘時に随伴するガスは燃やしていた。
*27)米国がイランのバーレビ元国王を受け入れたために起こった事件。イラン側は米国外交官や警備の海兵隊員とその家族52人を軟禁。国王の引き渡しを要求した。解決までに444日を要したとある。

本稿は「三井石油化学30年史(1955~1985)」(昭和63年9月30日発行)を参考にし、『 』内は直接の引用です。
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石油化学工業第15回

2013年03月18日 | Weblog
M&A

 1994年、三菱油化が系列の三菱化成と合併した。三菱油化は、三井石油化学(現、三井化学)と同様の石油化学専業メーカーであった。このため三井石油化学では、長く賃上げやボーナスの労使交渉に三菱油化を対象標準とした。外資系の東燃石油化学などは明らかに厚遇であったので敬遠したようだ。合併により、三井石油化学は組合員の処遇面で指標を失った感もあったかも知れない。当時三井石油化学(以下、三井石化と略す)の賃金水準は平均値で三菱油化より優れていたようだ。しかし、三菱油化(以下、油化と略す)は高卒者を採用する場合、技術職採用以外は謂わば中卒的扱いであったため、平均賃金等で三井石化を下回ることになっているように聞いた。

 高卒者採用にあたっての2階級採用は、旧い繊維会社などによく見られ、知る限りでも旭化成や三菱レーヨンはそうだった。技術職採用であれば、給与だけでなく昇格などについても三井石化に優るとも劣らずであるが、一般職採用者は交代勤務要員であったり、入社時点から仕事の内容についても差別があったようだ。その点三井石化は同列で採用し、交代勤務に就く者も研究所や事務所で働く者も同一賃金であり、入社7年目での職能試験によって改めて格付けがされた。

 三菱化成と油化の合併は、当初成功とは行かなかった評判を聞いた。同じ三菱系の化学会社でありながら企業文化が相当に異なったらしい。具体的な話までは知らない。確かにしばらく新生「三菱化学」の業績は良くなかったように記憶する。それだけ大企業同士の合併は難しいものであろう。

 石油化学メーカーにとっての最大の悩みは、そのコストの大半を原料である石油に依存することである。GEなど、それが嫌でウェルチ氏やインメルト氏(現、GEのCEO)の出身母体でもあったプラスチック部門を切り捨てた。爪に火を灯すように経費節減を繰り返しても、原油価格が高騰すればそれまでである。勿論安い時に仕入れていた石油で作った製品を原油価格上昇と共に価格転嫁して儲けることもあろうが、経済成長を遂げた昭和40年代には多くの国内企業が石油化学に参入しており、製品価格転嫁は段々難しくなる。現代のようにグローバル化が進めば尚更である。そんなわけで、三井石化は昭和40年代頃からすでに国内メジャーの石油会社との垂直統合を望んでいたのではないかと思われる節がある。一時日本石油と共販会社を作ったり、日本石油化学とは合弁で浮島石油化学を設立したりした。どうもこれらは三井石化の片想いに終わったようだ*23)。現在は出光興産と汎用ポリオレフィン事業で合弁している。

 三井石化と三井東圧化学(以下、三東圧と略す)の合併は1997年である。世界市場に対抗するための規模の拡大、電気・電子部門強化など多角化強化でのリスク分散などの建前は分かるが、要は三井系として三東圧を倒産させるわけにはゆかなかった。また業績が悪いのだから当然なのだが賃金面でも劣る三東圧との合併は、三井石化従業員の賃金の抑制効果もある。合併後5年間で三東圧従業員の賃金を三井石化と同額とするため、三井石化社員の昇給は停止された。

 合併当時の三井石化社長の強いリーダーシップで、合併に伴う軋轢は従業員レベルまで及ばなかったが、ドラスチックな合理化策を実行するために、人事面などでは無理もあったように見る。将棋の駒落ち勝負のように、上手の序盤の無理があと後までもハンディーとなる如く、合併で駒を落とした格好の三井石化は、その後遺症が尾を引いたように思えたものだ。



*23)これは私見であり、どこにもその手の資料を見た事実はない。
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石油化学工業第14回

2013年03月13日 | Weblog
誘導品

 エチレンは低密度ポリエチレンやエチレンと酢酸ビニル共重合樹脂などの製造のため、三井デュポンポリケミカルに送られる。三井デュポンポリケミカルは三井石油化学と米国デュポン社の50対50の合弁会社として、昭和35年12月に三井ポリケミカルとして設立、昭和37年2月三井石油化学岩国大竹工場内の大竹側に低密度ポリエチレンプラントを完成させている。市原に同様の工場が完成したのは昭和42年4月。その年の5月、大竹工場で爆発事故を起こしている。

 夕方、大竹工場側にあった工場体育館の柔道場に自転車で練習に向かう途中、小瀬川(山口県側)の堤防に差しかかった所で、パーンという鋭い銃声のような破裂音がして、工場から黒煙が上がるのが見えた。柔道場のある体育館もロッカーの浴場も窓ガラスが壊れ、惨めな姿を晒していた。幸い死者はなかった。その年の夏、柔道部で社名の入ったテントを会社から借りて、宮島(広島県)で合宿という名目のキャンプをしていた折、社名を見た人から、「爆発した会社だ」と謗られた思い出があるけれど、「悪名は無名に勝る」とも言う。翌昭和43年1月には市原の工場でも同様の爆発事故を起こした。1000気圧以上の高圧を操るのは容易なことではない。

 エチレンは当然に高密度ポリエチレン用にも使われるが、こちらは出光興産との合弁会社であるプライムポリマー(2005年設立、三井化学65%、出光興産35%出資)で通常の高密度ポリエチレンとエチレンと4-メチルペンテン-1との共重合によるリニア(直鎖状)低密度ポリエチレン*21)などを生産している。さらにメタロセン触媒を使ったリニア低密度ポリエチレンは、さらに子会社の日本エボリュー*22)で行っている。メタロセン触媒でのポリエチレン製造の初期は、重合器内でのポリマーの固化など苦労続きであることが、外目にも伺われたものだ。

 三井化学本体ではエチレンから合成パルプを生産している。私が岩国の研究所でチーグラー触媒の高性能化に取り組んでいた当時、同じ研究室で合成パルプの開発研究も行われていた。当時は兎に角、一般的な紙の代替を目指していたと思うのだけれど、結果として、ティーパックなどへの活用が広がって事業としては成り立ったようだ。

 エチレンは合成ゴムの原料でもある。プロピレン及びジエンとの共重合により耐熱性などに優れるEPT(エチレン・プロピレン・ターポリマー)を生産している。また、商品名「タフマー」というジエンを入れない*23)共重合体で、主にポリマーの改質剤や、フィルムのヒートシール性付与などに使用されるエラストマーも生産している。エチレンとプロピレン(EPR、PER)、エチレンとブテン-1(EBR)、プロピレンとブテン-1(PBR)などの共重合体がある。こちらのポリマー群も昭和40年代に岩国の研究所で生まれた。

 プロピレンは、エチレンと同様プライムポリマーに送られポリピロピレンとなる他、前述のエラストマー類に使用されるが、ベンゼンと合わせキュメン(クメン)法フェノールの中間体となる。

 B-B留分やC5留分などは、お隣のJSR及び日本ゼオンなどに送られてブタジエンゴムやスチレンーブタジエンゴムなど車のタイヤなどに欠かせない合成ゴムが作られる。BTX(ベンゼン、トルエン、キシレン)のトルエンは溶剤などに使用されるし、キシレンはポリエステル繊維やPET樹脂原料のテレフタル酸の原料ともなる。ベンゼンからはキュメン(クメン)やフェノール副生物としてのアセトン、それらからビスフェノールAが作られ、構内の日本エポキシ樹脂製造*24)に送られエポキシ樹脂となる。さらに中間体を経て岩国大竹工場でレゾルシン*25)やハイドロキノン*26)などに生まれ変わる。

 ビスフェノールAは2007年まで、米国GE社との合弁会社である日本GEプラスチックス千葉事業所(三井化学市原工場内)で作り、これを原料にポリカーボネート*27)を生産(名目上GEMPCという別会社が製造)し、海外までも幅広く出荷していたが、GE社がプラスチック部門から撤退し、アラブの会社(SABIC)に従業員ごと売却した機会に、三井化学は合弁を解消し、ビスフェノールプラントを引き取り、ポリカーボネートプラントは廃棄している。


 

*21) エチレン鎖に4-メチルペンテン-1を加えることで、結晶化度を落とし、分岐は少ないすなわちリニアの低密度のポリエチレンを得る。
*22)1996年設立。プライムポリマー75%、住友化学25%出資
*23) EPTは加硫のためのニ重結合を残すために特殊なジエンを添加する。元々ジエン(分子中にニ重結合が2つある)による重合ではニ重結合が残るため、ここで加硫し網目構造を持たせゴム弾性を得ることができる。
*24)1989年設立。三井化学50%、DIC(大日本インキ)40%、ADEKA10%出資
*25)タイヤコード接着剤、紫外線吸収剤、農薬原料。昨年(2012年)の爆発事故はこの製造プラントで起こった。
*26)写真現像薬、有機ゴム薬品原料、農薬原料
*27)CDなどのディスク、車のヘッドランプはじめ透明性、耐衝撃性、耐熱性、難燃性などを活かし電機、電子、光学機器などに幅広く使用されている。
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石油化学工業第13回

2013年03月10日 | Weblog
コンビナート

 高圧ガス取締法(昭和26年制定)の中にコンビナート等保安規則が追加されたのが昭和50年で、翌年の昭和51年度の高圧ガス製造保安責任者試験にこれが入って来た。試験制度や内容が更新された年の当該国家試験はやさしくなるのが一般的だ。この試験は高圧ガス保安協会が実施する講習を受けて技術検定試験に合格すれば、国家試験は法令試験を受けるだけでよかった。但し、法令試験は甲種も乙種も同じ問題で合格基準も同じ。その為、乙種技術試験には一発で受かるものの法令試験で何度も失敗する者が多かった。この年は今まで何度も失敗していた同僚・先輩も一緒に受験して、皆で合格した思い出がある。

 コンビナートとは本来、企業相互の生産性向上のために原料や工場施設を結びつけた企業集団を指し、わが国では通常石油化学工業とその原料ナフサを供給する石油精製工場の集合体である石油化学コンビナートを指す。そしてそれは、石油化学工業の中核的存在であるエチレンプラントとそのプラントから生産される基礎化学品と各種誘導品プラントが複数の企業にまたがって周辺に存在していることが要件ともなっていた。しかし近年中核となるエチレンプラント抜きの石油化学コンビナートも出現している。

 わが国の石油化学発祥の地、三井石油化学(現、三井化学)岩国大竹工場では1985年エチレンプラントを休止、住友化学新居浜でも1983年にエチレンプラントを停止していたようだ。また2001年には四日市の三菱化学でもエチレンプラント停止とある。この2月に発表された2015年住友化学姉崎(市原市)のエチレンプラント停止もこの流れの中にある。プラントの生産合理化のための大型化で、まとめて生産して必要な所には輸送するということに始まって、国際競争力に劣るエチレン由来の汎用製品事業を縮小し、高機能素材などにシフトする狙いがある。

 わが国には9か所に計15の石油化学コンビナートがある。多数のぜんそく患者を出したことで有名な三重県四日市のコンビナートはじめ、岡山県水島(旭化成、三菱化学)、近年夜景が評判になっている神奈川県川崎(東燃ゼネラル石油)、大分の昭和電工、山口県周南市の出光、昨年4月に爆発事故を起こした山口県と広島県にまたがる三井化学岩国・大竹、大阪(三井化学)、茨城県鹿島(三菱化学)、そして京葉工業地帯とも呼ばれる千葉県市原市(丸善石油化学、出光興産、住友化学、三井化学)である。そのうちから、身近な千葉県市原市の三井化学コンビナートのエチレンセンターを起点に各種誘導品とそのコンビナート形成企業を追ってみたい。

 三井化学市原コンビナートは、極東石油からナフサの供給を受け、日本石油化学との合弁であった市原工場敷地内の浮島石油化学*19)のエチレンプラントを起点としていた。加えて、エチレンプラントの大型化に対応して、リスク分散の観点から、三井化学、住友化学及び丸善石油化学(コスモ石油系)の共同出資で京葉エチレン*20)を立ち上げ、ここからもエチレンの供給を受けていた。なお、三井化学は市原工場内の浮島石油化学のエチレンプラントを2001年日本石油化学との合弁解消に伴い自社プラントとしている。

 エチレンプラントでのナフサクラッキングから産出される一次化成品として、エチレン、プロピレン、ブタン・ブチレン(B-B留分:主に合成ゴム原料となるブタジエン抽出原料)、C5留分(ペンタン、イソプレン、シクロペンタジエンなどの混合物)、BTX(ベンゼン、トルエン、キシレン)、LCオイルなどに分留される。以下次号。




*19)1967年設立。2001年解散
*20)1991年設立。出資比率は丸善石油化学55%、三井化学と住友化学それぞれ22.5%。エチレン生産能力76万8千トン。このたび三井化学が離脱し、エチレン引き取りはその分住友化学が受ける。

本稿は一部、石油化学工業協会のホームページを参考にしています。
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石油化学工業第12回

2013年03月07日 | Weblog
原料

 石油化学工業は、石油や天然ガスを出発原料としてさまざまな化学製品を製造する産業である。ヨーロッパやわが国では、主に石油を蒸留して得られるナフサ(粗製ガソリン)を原料とする*17)が、アメリカやカナダ、中東産油国では天然ガス*18)が主流である。また原油採取時に随伴するエタンも原料として使われる。最近ではシェールガスもその原料として注目されている。ただ、天然ガスでもエタンがほとんど含まれないわが国の天然ガスのような場合、出発原料として適さない。わが国周辺の海底に豊富に存在するというメタンハイドレートも、燃料としては有望でも石油化学工業の原料としての可能性は薄いように思われる。

 その他石油化学工業の原料としては、LPG(液化石油ガス:プロパンやブタンが主成分)やNGL(LPG+天然ガソリン:産出時液体となる天然ガス:C3,C4留分+C5~C8留分)、軽油(C10~C20留分)などがあり、これらはわが国では原料のごく一部でしかないが、米国や欧州では20%以上を占めている。

 世界の石油化学工業を展望した場合、その規模は通常、エチレンの生産能力やその需要量で示される。2010年の世界のエチレン生産能力は1億4,400万トン。需要は1億2,000万トン余り。わが国は770万トン程度(生産は700万トン)の生産能力を持つが、国内需要は490万トンで170万トン程度を輸出している。中国は2010年ですでに1,500万トン程度の生産能力を有し、2016年にはこれを2,300万トンに伸ばす見込みがあるらしい。シェールガスに湧く米国では、年産150万トン規模のエチレンプラント建設計画が目白押しで、2010年2,600万トンのエチレン生産能力を2016年にはほぼ3,000万トンまで伸ばすと予測されている。

 わが国やヨーロッパでのように「ナフサ」を主原料とする石油化学工業では、天然ガスを出発原料とする場合より高コストで、以前より国際的な競争力の弱さが指摘されてきた。ここに来て1バレル120ドルといわれるナフサからのエチレン生産コストは、米国シェールガスや中東の産地で作るコストの10倍から30倍といわれる。

 今年2月1日、住友化学が2015年9月までに主力の千葉工場(千葉県市原市)のエチレン生産設備(38万トン)を停止すると正式発表したが、臨海部のコンビナートに経済基盤を持つ地元に衝撃を与えた。当社はそれにより100億円の固定費削減を見込むとあるが、サウジアラビアでの石化合弁事業にウェイトを移すのが狙い。エチレン価格での国際競争力で、アジア、中東さらにアフリカ市場で戦う戦略である。一方三井化学も市原地区で丸善石油化学、住友化学と3社共同出資の京葉エチレン(69万トン)から撤退すると発表し、エチレン事業縮小の方針を示した。

 それでは、わが国の石油化学工業は、国内生産を今後も縮小し続けてゆかねばならないのであろうか。実は「ナフサ」を出発原料とすることにも強みはある。ナフサクラッキングによれば、エチレンは勿論プロピレン、ブタン、ブタジエンさらに芳香族成分まで有効成分のバラエティーが豊富である。例えば、エタンを出発原料とする場合、原料に対して8割程度のエチレンが得られるが、ベンゼン、トルエン、キシレンという所謂BTX分は合わせて僅か1%に過ぎない。プロピレンやブタジエンなどもそれぞれ3%未満である。ナフサが原料であれば、BTXで12%、C4留分で9%程度と3倍から10倍以上の収率がある。

 安価なシェールガスを原料としたエチレンプラントが増加している米国においては、ブタジエンやベンゼンの需要が逼迫し、価格が上昇しているという情報もある。ブタジエンやベンゼンは車のタイヤに使われる合成ゴム(例えばSBR)に必須の原料である。ナフサを出発原料とする石油化学工業の優位性がそこにある。シェールガスの実用化にも伴い、その規模の拡大が喧伝され、わが国の石油化学工業の衰退をイメージさせるが、石油化学工業はもう少し奥が深い産業である。


 
 
*17)エチレン原料としてナフサ由来は、わが国で95%、欧州では69%、米国では9%。
*18)天然ガスを原料としたエタン・クラッカー。天然ガスの主成分はメタン(70~98%)で、エタンの割合は北米産2~3%、アフリカ6~8%程度。わが国の天然ガスにはエタンはほとんどない。

本稿は、中東協力センターニュース2012・12/2013・1、和光大学経済経営学部教授/岩間剛一氏の「中東情報分析」、日本経済新聞などを参考にさせていただきました。
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石油化学工業第11回

2013年03月04日 | Weblog
公害

 このところ中国の公害問題が大きくクローズアップされている。PM2.5と呼ばれる微粒子が北京市内を覆い、車さえ速度を上げることができない状況の映像がテレビに繰り返し流れる。当然に隣国であるわが国にも影響が出る。九州北部ではそれが顕著だ。福島から放射能を避けて福岡に避難した家族があったようだが、次にどこに逃げればいいのかと嘆いていた。国内ではなくなったと思われていた光化学スモッグ警報などという言葉も再び聞かれるようになった。有害化学物質が海を越えて飛んでくる。

 中国人は公徳心が薄いため、公害も垂れ流しだという非難は当然にある。しかし、我が国だって、ついこの間まで、ヂィーゼルトラックの真っ黒い排気ガスを国は容認していた。当時の東京都の石原知事が声を上げた初期には、関係会社は流通のコストアップを理由に対策を渋った。しかしやればできるのだ。それでも今も日本のものづくりの六重苦*15)の中に「厳しい環境規制」などというのが入っていたりする。

 確かにわが国の大気・水質環境は改善した。都心から富士山が見える日数が最近は100日を優に超え、50年前の5倍に達している*16)という新聞記事を最近目にした。さらに瀬戸内海は綺麗になり、そのためかどうか内海での漁獲量が落ちていると言う。

 私が愛媛県から瀬戸内海を渡り対岸の山口県に就職した昭和41年当時、瀬戸内海は汚れていた。松山の高浜港からポンポン船で、周防大島の伊保田港、柱島を経て船が岩国市に近づき、装束の山並みが見え始めた頃から、海は醤油を流した色に変わっていた。その状態は1970年代に起きた2回のオイルショックを経るまで消えなかった。

 瀬戸内地方は夕方に海風、山風がピタリと止まる凪(なぎ)という無風状態の時間帯がある。工場の煤煙は海と山の僅かな平地に立ち込めた。空気さえ臭かった。中古車のセールスマンが、ここら辺りで使われていた車は(年式に比べて痛みが激しい)すぐ分かるようにさえ言っていた。当時の車のバンパーは鉄製で、表面はメッキが施されているので分かり難いが、裏側は早めに猛烈に錆が浮いた。

 現場のエアーコンプレッサーのケーシングが、銅合金インペラーの硫酸銅の錆で埋まり止まったこともあった。お隣の石油精製工場から立ち上る青い煙はまさに亜硫酸ガスそのものであった。当時はまだ原油の脱硫が成されていなかったようだ。勿論これら公害は、石油精製工場や石油化学工場だけによるものではない。山口県岩国市と隣の広島県大竹市にかけての工業地帯には大手紙会社や繊維会社が古くからあった。

 オイルショックの前までは、1バーレル(159リットル)3ドル程度の石油を使い捨て状態で使っていたことも災いしていたと思う。オイルショックの後には研究所には生産研究室などといって、廃油からも有効成分を抽出し活用するような研究が始まったりした。人間、現金なもので高価な物は大切にする。

 また、背に腹は代えられないというけれど、経済発展途上にあっては、何処にあっても住民の健康よりも企業収益が優先される傾向にはあるものなのだ。もっとも国の経済力は、一様に国民の腹を満たすために必須のもので、従って企業収益も重要である。要は許容範囲をどこに置くのか。決めたルールを皆で守れるかどうか。隣国にはぜひ儲かったお金を軍事に使うのではなく、公害対策に使って欲しいものである。




*15)六重苦とは、①円高、②諸外国より高い法人税率、③電気料金の高さ、④自由貿易協定への対応の遅れ、⑤自由度が乏しい雇用、⑥厳しい環境規制の6つ。日経ビジネス2013.2.25号「時事深層」より
*16)ネットでデータを確認してみると、東京都武蔵野市での観測結果として昨年富士山が見えたのは126日ということであった。1965年が観測史上最低で22日とのこと。
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石油化学工業第10回

2013年03月01日 | Weblog
フラフープ

 同じポリエチレンと呼ばれるプラスチックであっても、製法や触媒系の違いによって、その物性は異なりを見せる。単体の化学物質であればベンゼンはベンゼンであり、アセトンはアセトンで、作り方や抽出方法を変えたからといって、沸点が違ったり流動特性が変わることはない。あるとするなら微量な不純物の違いが原料由来で生じる程度だ。

 ポリエチレンは当初1,000気圧以上の高圧に圧縮して合成されたため、その製造方法から高圧法ポリエチレンと呼ばれた。チーグラー博士により常圧でも合成可能な触媒が発見されたが、高圧法のポリエチレンが消えることはなかった。両者のポリエチレンはその構造が異なっており、それぞれの特性にもより用途も異なったからである。

 高圧法のポリエチレンは分岐が多く、このため結晶化度が低いのに対して、チーグラー法(低圧法)のポリエチレンはリニア(直線構造)で結晶化に富むため、高圧法ポリエチレンより密度も高い*12)。従って両者は高圧法、低圧法という製造方法の区分の他、低密度ポリエチレン(高圧法)、高密度ポリエチレン(低圧法)という呼称もある。

 高圧法のポリエチレンは結晶化度が低いため、フィルム成形した場合には高密度ポリエチレンに比べて透明性が良い。もっともポリスチレンやポリカーボネート、ポリエチレンフタレート(PET樹脂)のようにベンゼン環を持つ高分子ほどの透明性はない。また低圧法のポリエチレンフィルムに比べて柔らかい感触である。その柔らかさは、成形性に優れることを示してもいる。一方、低圧法のポリエチレンは、高圧法のそれに比べて成形性が悪く、製造はできるようになったけれど、自在に加工して市場に受け入れられるまでに時間が掛った。

 『当時の加工業界は、ゴム加工から出発し、熱硬化性樹脂の加工、ポリ塩化ビニルの抽出加工、高圧法ポリエチレンのフィルム加工が主体で、中空・射出成形加工の分野をはじめ低圧法ポリエチレンの重要分野はまったく未開拓であった。加工業者の企業規模も小さいものが多く、技術的にも現在(昭和53年当時)とは比較にならぬ水準であった。

 また樹脂メーカーも加工技術の知識に乏しく、品質の確立に多大の努力が費やされた。当時、樹脂の加工における適合性の判定は平均分子量、メルトインデックスおよびプレスシートによる数種の強度試験が主体であった。このため、樹脂製造メーカーから最終使用者にいたる流通過程にわたる技術上のチェックポイントを的確につかむことができなかったので、多くの試行錯誤が繰り返された』。

 三井石油化学が岩国工場で低圧法のポリエチレン(登録商標:ハイゼックス)の製造を開始したのが昭和33年4月。その規模は年産12,000トンであり、国産第1号の低圧法ポリエチレンであった。その年の10月、神風のようにわが国に「フラフープブーム」*13)が吹き荒れる。このフラフープの原料として低圧法で作る高密度ポリエチレンが適していたため、一時的とはいえ持て余した在庫がたちまち一掃されたのである。

 新しい製品を世に出すために、製造から販売に至るまで多くの苦労がついてまわる。ものづくりは常にこの苦労の連続である。日本はものづくりにこだわるばかりに経済の効率性が損なわれているという指摘があるが、そう言われ続けたドイツはものづくりを止めなかった。そして今、英国、米国も急速にものづくりに回帰している*14)という。技術は現場の近くからでなければ発展しないことに気づいたからだと思う。




*12)高圧法ポリエチレンの密度は0.92程度。低圧法ポリエチレンの密度は0.96程度
*13)昭和32年夏にオーストラリアで流行し始めたフラフープが昭和33年秋に我が国に上陸したちまちブームを巻き起こした。フラフープとは円形の輪で、これを腰を振りながらウェストのまわりでまわす遊具。
*14)日経ビジネス2013.2.25号「識者に聞く:ドイツ企業から強さの秘密を学ぶ」ハーマン・サイモン氏(サイモン・クチャー&パートナース会長の言葉より

本稿は、「三井石油化学工業20年史(1955~1975)」(昭和53年12月1日発行)を参考にし、『 』内は直接の引用です(一部補足)。
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