中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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ことわざ考 その10

2015年06月28日 | ブログ
高慢は出世の行き止まり

 「自惚れと瘡気の無い者はない」といわれる。西洋では「ロバでさえ自分のいななき声がいいと思っている」というらしい。ロバのいななきではないが、多少の自惚れくらいは可愛げがあって却って良い場合もあろうが、まさに高慢となって、周囲を見下すのは顰蹙ものである。

 仕事でも、習い事でも多少腕に覚えが出てくるとおかしくなってくる輩がいる。おかしくなるレベルで大体その人物の器が知れるものでもある。天狗になれば、周囲の鼻つまみとなり、誰も何も教えてくれなくなる。それ以上の成長が見込めなくなる。まさに「高慢は出世の行き止まり」なのである。

 「鷹のない国では雀が鷹をする」とか「貂(てん)無き山に兎ほこる」などとも言うが、本来鷹や貂でなければならない上司が、無難を旨とする組織では、雀踊りの鷹気分を見て見ぬ振りして、思い上がり者を放任するからけじめが付かず無駄が減らない。

 国家だってそうだ。隣国の思い上がり振りなどその最たるものだが、国内の「原発反対」、「米軍基地反対」、「安保法制反対」と左翼系マスコミに扇動されて、この国の存在を危うくさせている机上の空論平和主義者の思い上がりには虚しくなる。自分達は正しいと思っているから質が悪い。はっきり言って、物事を総合的に捉える視点が全くできていない。物事を各論ごとに○×でしか評価しない習性がある。誰だって戦争などしたくないし、平和のありがたみは言われなくても分かる。ただ、隣国があんたの国の領土・領海は、実はうちの国の固有の領土で、核心的利益だと言っている現状を無視して、憲法論議の神学論争で、政府の備えを批判することは、結果として敵国に阿るだけだということが分かっていない。学者馬鹿、ここに至れりである。

 「川立ちは川で果てる」、「泳ぎ上手は川で死ぬ」、「河童の川流れ」、「粋(すい)が川へはまる」など、上手な者のほうが、却って失敗することが多いということわざは数ある。人は得意分野で失敗するものだから用心しなさいとの警句でもある。失敗の陰に慢心はないだろうか。憲法学者は憲法解釈で馬脚を現す。

 民主主義だ、民意は辺野古に基地を作らせないと言っている。それなら普天間が残るだけになってしまう。沖縄はまるで植民地だ。琉球王国の昔に還り、中国とも日本とも交易を行い、基地のない島で平和に暮らしたい。気持ちは分からぬでもないが、米軍を追い出せば、代わって人民解放軍が来るだけの話しではないのか。沖縄県の知事やマスコミは辺野古反対を政府に訴えるなら、中国にも尖閣諸島対応の新基地建設や、南シナ海の埋め立て、尖閣諸島周辺の領海侵犯などに都度激しく抗議すべきではないのか。それが通るなら、沖縄の米軍基地縮小が可能となろうに。

 民主主義という御旗を掲げ、民意こそが国家を動かすとの傲慢(衆愚政治)が、蛮族の侵攻を許し、成熟した文明は滅んでゆくことは歴史が教えている。まさに民衆の高慢は国家の行き止まりでもある。




 本稿は、農学博士/折井英治編、暮らしの中の「ことわざ辞典」株式会社集英社、昭和56年4月第二版第35刷 を参考にしています。
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ことわざ考 その9

2015年06月25日 | ブログ
雨垂れ石を穿つ

 雨垂れのようなわずかなものでも、同じところに落ちていると、ついには石に穴をあける。どんなに弱い者でも根気よくやれば成功する。「怠らぬ歩みおそろしかたつむり」である。

 成功者が成功の秘訣を問われた際の答えにはいろいろあろうけれど、例えば、松下幸之助さんは「雨が降れば傘をさす」と言われたそうだ。曰く、当たり前のことを確実に行うことだと言うのである。当たり前が難しい。

 日本電産の永守さん(会長兼社長)は、機会あるごとに企業活動の現場における6S(「整理」「整頓」「清掃」「清潔」「作法」「しつけ」)の大切さを述べられるが、やろうと思えば誰でもできるようなことを、確実に継続することが成功への秘訣だと言っておられるのだ。それらは仕事の基本であり、基盤であるからそれを疎かにすれば、すべての結果は砂上の楼閣となるのである。

 才能、運、努力といろいろに人生の成功要因は挙げることができるが、成功とは「雨垂れが石を穿つ」ごとく、何事もコツコツと積み上げた結果であろう。「一日一字を学べば三百六十字」、一日一字を学べば博学となり、一日一善を積めば大徳となるのである。もっとも成功者でもない人間(私)が多弁を弄しても微塵も説得力はない。

 同じようなことわざには、「人跡繁ければ山も窪む」、「釣瓶縄井桁を断つ」がある。似ているようで、「石に立つ矢」や「念力岩をも透す」は、想いが強ければ困難にも打ち勝つことができるというような意味であろうから、「コツコツ」とは異なるようだけれど、コツコツを継続できるか否かは想いの強さに掛っているから、合わせて一本である。

 「砂(いさご)長じて巌となる」も近いことわざだけれど、こちらは大きなもの(巌)も小さなもの(砂)から始まったのだから、小事をおろそかにしてはいけないという戒めを含んでいる。

 「禍も三年たてば用に立つ」、同じような意味で良く聞くのは「石の上にも三年」だけれど、これらは辛抱や忍耐の大切さを教えている。現在は禍となっていても、年月が立てばいつかは幸せのもとになることがある。冷たい石の上でもすわっていれば暖かくなる。世の中には辛い仕事や、なれない作業などいろいろの苦労がたくさんあるが、何事も辛抱が大切である。と言っているのである。「辛抱する木に金がなる」*4)のである。

 「習慣は第二の天性なり」といわれる。良い習慣を身につけることは、生まれ持った天性と同等の価値を発揮するものだと言っているのである。いろんな分野のスーパーヒーローを見て、誰しも天性に憧れる。しかし、天性だけで成功する人はいないだろう。ヒーローとは、人知れずコツコツと雨垂れが石を穿つような努力を続けた結果が大きく花開いたものなのであろう。まさに第一、第二の天性の合わせ技である。



*4)西洋では「辛抱は苦い木だが甘い実が成る」というらしい。
 本稿は、農学博士/折井英治編、暮らしの中の「ことわざ辞典」株式会社集英社、昭和56年4月第二版第35刷 を参考にしています。
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ことわざ考 その8

2015年06月22日 | ブログ
臥薪嘗胆

 日清戦争(1894-1895)の講和条約の下関条約では、いったん清国から日本への遼東半島の割譲が決まったが、ロシア・ドイツ・フランスの三国は、日本に対して清国に遼東半島を返還するようにと要求した。これを三国干渉という。この三国干渉に日本政府は従い、清国に遼東半島を返還した。多くの日本国民は三国干渉に反発し、国民たちの間に「臥薪嘗胆」の言葉が流行し、とくにロシアへの反発心が強まっていった。

 中学で日本史を学んだときに、初めてこの「臥薪嘗胆」という言葉を知った。当時の日本人の悔しさがよく表れている。ロシアへの反発は、その後日本から清国へ返させた遼東半島をロシアが租借したからなお高まった。

 「臥薪嘗胆」とは、薪の上に寝たり、にがい胆をなめるようなひどい苦労をすることで、目的(主に報復)をとげるために苦心惨憺して自ら励ますことをいう。

 ここまでゆかなくとも人生は苦労というか、我慢の連続である。サラリーマンとは棒給生活者をいうが、そのサラリーの語源はラテン語で塩。動物が生きるための必需品であるところから、お金にも代わる意味があったものと考えられる。現代サラリーマンのサラリー(給与)とは我慢料だともいわれる。

 勤め人であった42年間。確かにいやなことも数多くあったかもしれないが、上司、先輩、仲間との協働やアフター5の交流は学校とは違った意味の学び舎であり、給料が我慢料だと知ったのは、定年間近の数年間だったかも知れない。

 定年して資格を利用して公共の組織に雇われてみると、そこに住まう人間どもは少々人種が異なるようで、とても我慢ならず、二度にわたり早々に辞職した。「艱難汝を玉にす」、「堪忍の忍の字が百貫」、「堪忍は一生の宝」、「ご意見五両堪忍十両」と堪忍の大切さを教えることわざには事欠かないが、生活に困らねばいやな人間と一緒に仕事などしたくはないものだ。割り切って要領よく手抜きができる輩でないと務まらぬ仕事であれば、税金の無駄遣いも止まぬが道理である。

 そうは言って人生「韓信の股くぐり」が出来ぬようでは大物にはなれない。韓の功臣韓信(かんしん)は、若い頃無頼の青年に辱められて、その股をくぐらされたが、よく忍んで後年大人物になった。「末ついに海となるべき山水も、しばし木の葉の下くぐるなり」である。大望のある者は目前のあなどりを忍ぶべきであるという戒めである。
 


 本稿は、農学博士/折井英治編、暮らしの中の「ことわざ辞典」株式会社集英社、昭和56年4月第二版第35刷 を参考にしています。
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ことわざ考 その7

2015年06月19日 | ブログ
家内喧嘩は貧乏の種蒔き

 このことわざは、中々良くできたものだと思う。嫁と姑の諍い、親子喧嘩、夫婦喧嘩、兄弟喧嘩など家庭内で争いが絶えないと、お父さんも仕事に集中出来にくいだろうし、従って収入は増えず、経済的にも豊かになるとは思えない。従って家族は仲よくしましょうという警句である。

 このところ家族内の殺人事件をよく聞くように思う。子殺し、それも常習化した折檻の末に死に到らしめる。子供を鳥かごのようなところに閉じ込めて、果てに殺した鬼親も居た。高校生の息子が母親を刺す。いい大人の娘が母親を刺し殺す。祖父母を手に掛ける孫もある。殺人事件などどれも愉快なものはないが、家族間のそれはより不幸を思わずにはいられない。家族団らんで、家族は通常プラスのイメージで語られるが、同居というのはある意味リスクでもある。

 「兄弟は他人の始まり」というのもあるけれど、「兄弟は鴨の味」と言って、兄弟の間柄の楽しさを表しているのだという。マガモ、コガモ、オナガモは最も美味で、ヨシガモやヒドリガモなどの肉もおいしいところからのことわざ。そういえば「鴨がネギを背負ってくる」とはよく聞く。

 「兄弟は両の手」は、兄弟は助け合わねばならぬということ。毛利元就の「三本の矢」は有名である。しかし、頼朝、義経をみるまでもなく、源平、戦国から現代社会まで権力や金銭、資産を巡って兄弟が憎み合い争う事例は多い。

 そういえば「金銭は親子も他人」というのがある。金銭の問題については親子の間でも他人の間と同じように水臭いもので、争いが起こるからはっきりしておくべきだというもの。イギリスのことわざでは、「身は兄弟なりとも懐中は姉妹ならず」というらしい。

 「子は宝」、「子に過ぎたる宝なし」とはよく聞くが、実はことわざには子を持つ不孝を表現したものが多い。「子を持てば七十五度泣く」、「無い子では泣かぬ有る子に泣く」、「子が無くて泣くは芋掘りばかり」などは、子がなければ泣くこともないのだが、あればこそ子のために泣くことが多い。里芋などを掘る者にとっては、子芋がついていないと困るが、人間は、子があればこそ嘆きも多い。と言っているのである。「子は三界の首枷」などとも言う。子供が欲しくて堪らない夫婦に子が出来ないこともある。そんな嘆きを和らげるためのことわざにも思える。

 夫婦のことわざも多い。離婚に釘をさす「女房は変える程悪くなる」、「女房と味噌は古いほどよい」があると思えば、「女房と畳は新しい方がよい」などともいう。「妻の言うに向こう山も動く」は、向こうに見える山は、山だから動く筈はない。しかし、もしこの山に妻があって“こうしなさい、ああしなさい”と言えば、この山でも動くというのである。「女は弱しされど母は強し」、妻はなお強しである。

 
 
 本稿は、農学博士/折井英治編、暮らしの中の「ことわざ辞典」株式会社集英社、昭和56年4月第二版第35刷 を参考にしています。
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ことわざ考 その6

2015年06月16日 | ブログ
綸言、汗の如し

 日経ビジネスには毎号「賢人の警鐘」という巻末記事がある。6月15日号のここに伊藤忠商事前会長の肩書で丹羽宇一郎氏が、『「綸言、汗の如し」。政治家は肝に銘じて、国民を愚弄するな』との表題で寄稿している。

 『中国には「綸言、汗の如し」という格言がある。一度、汗が出ると体の中には戻せないように、トップの言葉も一度、表に出ると取り消せない、という意味だ。それほどトップの言葉は重い』とし、『安倍首相が「米国の戦争に巻き込まれることは絶対にあり得ない」というが本当だろうか。・・・軽々しく「絶対」などというべきではない』と述べている。

 確かに世に「絶対」はなく、それはそれで筋が通っているようだが、それほど威張れる発言でも無い。この法案があろうがなかろうが、日米は(軍事)同盟国であり、共に戦わねばならぬことは大いにあり得ることで、新法案が出来たから戦争に巻き込まれるものではない。逆に現状では、そのようなリスクに対応する法制度がないために、万一のケース、万一でもすでにないが、自衛隊の運用に支障を来して却って危険である。速やかな法制度の整備が必要な情勢であるということで、憲法違反との疑義を受けながらも、現政権はぎりぎりの想いで新法案を成立させようとしているように見る。中国大使まで務めた人が、そのような現実の中国に起因するわが国周辺の緊張状態の高まりを知らぬわけではなかろうに。

 そもそも「綸言、汗の如し」とはどのような格言であろうか。ウィキペディアを紐解くと、次のような解説があった。「古来より、皇帝など国家の支配者の発言は神聖であり絶対無謬性を有するとされ、臣下が疑念や異議を差し挟むことは不敬とされた。このため、一旦皇帝より発せられた言葉は仮に誤りがあっても、それを訂正することは皇帝が自らの絶対無誤謬性を否定することになり、皇帝の権威を貶めてしまうためタブーとされた。このため、「綸言汗の如し」(皇帝の発言は、かいてしまった汗のように体に戻すことができない)という古典典籍の言葉を引用、格言として軽率な発言やその訂正を戒めた」とある。

 要は絶対封建時代の皇帝の発言に端を発した戒めであり、現在のわが国のように首相であろうがなかろうが、疑念や異義どころか、あることないこと反発できる世の中で、「綸言、汗の如し」は片手落ちであろう。もし首相の発言にそれを求めるなら、国民は政権に対する一切の批判や異議を挟めないことになるではないか。単なる上げ足取りに、厳めしい格言を用いることは過ぎたる批判行為でさえある。

 それより何より、丹羽氏の警鐘には逆の非常に危険な匂いが漂っている。『もっとよく考えてほしい。グローバル化の時代に戦争を起こさないようにするには、対立をあおるような同盟の組み方ではなく、戦争を起こさないような同盟の組み方を考えるべきではないのか。中国との対立を深めるのではなく、中国とより深い関係を結び、戦争を起こさないような枠組みを作る姿勢があってもいいだろう。安保体制の変更は、むしろ周辺国との緊張を高める。そのリスクをもっと深刻に受け止めるべきだ』。

 これは明らかに中国側に立脚した発言である。安倍政権はその成立当初から中国との未来志向の戦略的互恵関係を呼び掛けてきた。しかし、尖閣諸島は「中国の核心的利益」だと公言し領海侵犯を繰り返し、第一列島線、第二列島線を引き海洋進出をアピールしながら、尖閣を含む海域に勝手に防空識別圏を引き、わが国を威嚇し続けていることは周知の事実だ。南シナ海の領有権の主張も全く一方的で、南沙諸島を埋め立て軍事基地化しているのはどの国なのか。

 わが国が新しい安保法案によって日米同盟を強固にすることで、野心の実現を先送りせざるを得ないのは中国であり、わが国の法案が出来たから中国に野心が芽生えたのではない。近年の中国の行動こそが、今回の関係法案の必要性を高めたのだ。

 そもそも、わが国は思想、言論は自由であり、丹羽氏のように日本は中国に従属しても平和を選べとの意見があっても仕方なかろう。それより問題は日経ビジネスというある程度この国で権威を持った経済誌が、誰を「賢人」とするかということである。商社の経営者としてお金儲けに成功したから賢人なのか。賢人の定義を明確にした上で、その人の意見を「賢人の警鐘」としなければ、この国は大きく道を誤ることになろう。日経ビジネスの読者の一人として警鐘を鳴らす次第である。もっとも真の賢人は、「賢人」などと持ち上げられては寄稿などしないものだ。



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ことわざ考 その5

2015年06月13日 | ブログ
金を貸せば友を失う

 「金の貸し借り不和の基」で、昔から貸し借りにまつわるトラブルは絶えない。お金だけでなく、物の貸し借りでも同様で、まさに「貸した物は忘れぬが借りた物は忘れる」で、借りた側に悪気は無く、すっかり忘れていたとしても信用を失くすことに違いは無い。そのためか貸し借りに関することわざも多い。

 「傘と提燈(ちょうちん)は早く返せ」との教訓的ことわざがある。傘は雨の降るとき必要だが、雨があがればいらないから忘れる。提燈や懐中電灯は夜道に必要だが、昼になればいらないから忘れる。それで借りても返すのを忘れがちである。しかし、貸した側でこれらのものが必要になったとき、よそに貸してあって間に合わないことになっては迷惑である。そこで傘や懐中電灯は速やかに返しておかねばならないと言っているのである。

 「傘と提燈は戻らぬつもりで貸せ」。前述のような理由で、借りた側が忘れやすい傘や提燈は貸すときには戻ることを期待しては駄目だと言っている。同じようなことわざに「本とお金は戻らぬつもりで貸せ」というのもある。本もお金もその価値や金額で覚悟も相当変わってくると思うけれど、貸すと言うことは初めからあげるつもりでないと、後から気になって却って精神的には負担であるゆえの箴言であろう。とは言って、借りた物を返さないのは著しく礼儀を失する行為である。たとえ少額の借金であろうが、文庫本の類であろうが、借りた物は返すのが世の慣いである。「借りる八合なす一升」*3)ということわざもあるくらいである。

 ただ、貸し借りが紛らわしいこともある。割り勘前提の付き合いで飲みに行く場合は問題ないが、上司に誘われて上司の馴染みの店などで一緒に飲んだ場合、部下は上司の奢りと考えても、上司はそうは思っていないかも知れない。勘定の際確認するのがいいようだ。仮に奢って貰った場合、それはそれで借りができたことになる。何らかの返礼は必要であろう。借りを承知で黙って御馳走になっても割り勘に拘る上司もいるから注意は必要で、ここら辺り社会人の常識にもばらつきがあるものと思うからである。「ただより高いものはない無い」ともいうではないか。

 本の場合、“この本はいいから読んで”と親しい人から手渡された場合、これはいただき物かどうか紛らわしい。渡す方も事前に“あげるから”または“読んだら返して”といずれかはっきりしておいた方がいい。相手を試すような曖昧さで、後から“あの人は貸した本を返さない”などと不愉快に思っても仕方がない。

 「本を貸す馬鹿返す馬鹿」、「借りて借り得貸して貸し損」、「借りる時の地蔵顔済(な)す時の閻魔顔」などもある。まあ、よっぽどでなければ物でもお金でも貸さない借りないことが無難なようだ。

 企業間取引では、信用取引で売掛金が立つ。買掛金がある。当座の資金が枯渇すれば企業は倒産する。約束期日までに確実に支払を済ませることは企業人の最も大切な約束事である。また納品開始する場合は与信管理を十分行い。実績を積むまでは現金取引が安全であろう。



*3)米を八合借りたら一升にして返せということで、品物を借りたら必ずお礼の品物をそえて返すのが物を借りた人の心得だという教え。
 本稿は、農学博士/折井英治編、暮らしの中の「ことわざ辞典」株式会社集英社、昭和56年4月第二版第35刷 を参考にしています。
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ことわざ考 その4

2015年06月10日 | ブログ
三拍子揃う

 「背番号3、言わずと知れた男、長嶋イカスじゃないか」*2)と歌われた、巨人軍終身名誉監督長嶋さんは現役時代まさに走攻守「三拍子揃った」超名選手であり、引退後も病を得てもスーパースターであり続けている。その長嶋さんの迷言・名言集は各種ことわざ以上に有名であるかもしれない。迷言の中にはご本人の言葉ではなく、創作であろうと思われるものもあるけれど、こちらは確かな名言のひとつ。「いつもずっと思っていることは、現実になっていきます。よいことを常に思っていましょう。」

 長嶋さんの背番号3は、ご本人にも相当のこだわりがあったようで、それは野球と3という数字の関係にあった。スリーアウト、三振、出塁ベースは3(1塁、2塁、3塁)、三冠王(打率、打点、本塁打の3大タイトル独占)、走攻守、トリプルスリー(打率3割、本塁打30本、30盗塁)、ご自分の守備位置が3塁手などなど。

 そこで3にまつわることわざを拾ってみよう。同じ三拍子でも「飲む打つ買うの三拍子」、こちらは自慢できるものではない。「三人寄れば文殊の知恵」。これは誰もが知っていると思われる。文殊は知恵をつかさどる菩薩。わが国のQCサークル活動のルーツのようなことわざである。

 「三度目の正直」も良く聞くけれど、同じような意味で「三度目は定の目」というのもあるらしい。物事は三度目がもっとも大切で、勝負事や占いをするような場合でも、一度目、二度目の結果はまだ当てにならぬが、三度目ともなればもう確実であるということ。逆に「二度あることは三度ある」とも言う。物事はよく繰り返すものだから、二度同じような事があれば、続いてまたもう一度起こるものだということ。

 今回の中国長江での旅客船事故は、昨年4月の韓国での海難事故と直接原因や場所などはだいぶん違っても同じような印象がある。被害者数や竣工後での客室の増設などの大幅な船体改造が同様に指摘されているからである。まさに顧客の安全よりも利益を優先する施策だ。同様の客船を運航している世界の企業は、保有船舶の総点検が必要だろう。他人事ではない。わが国でも地方空港滑走路でのニアミスが続いている。

 「三度目は馬の鞍」は、二度あることは三度あると聞いているが、三度目の災厄は、予想して心の準備はしているものの、その来方が、馬に鞍を置いて乗って逃げるいとまもないほど早いということ。対策を立てる間もない早く来ることをいうらしい。

 「三人虎を成す」、「三人寄れば公界」、「三人知れば世界中」また「三人寄れば金をも溶か
す」はいずれも同じような意味で、同じようなことを言う者が、二人、三人とふえれば、たとえうそであっても、真実として信じられるようになる。または三人集まって相談したことは、もう秘密にはできない。というような意味。公界は表向きの場所、世間のことで、やはり三人寄ればすでに秘密の会合ではなくなるということ。

 「三人旅の一人乞食」は言い得て妙。三人で同じことをすれば、その中の一人はいやな想いをするようになる。一人が仲間はずれにされるという。そこから「一人旅はするとも三人旅はするな」ということわざもある。

 3にまつわる福のあることわざも挙げておく必要がある。「三人子持ちは笑うて暮らす」は、子供は3人が理想ということわざ。「負わず借らずに子3人」、「足らず余らず子三人」も同義。人の世話にならず借金もなく(収入が多くもなく不足のこともなく)、しかも子供が三人あれば幸福だ(一番よい)ということ。わが国など人口が急速に増えていた時代は、子供は「一姫二太郎」が理想のような雰囲気があった。戸建住宅でも4LDKが主流で、子供部屋に個室2つがあてがわれたように思う。少子化の現在やっぱり3人が理想だったとは手遅れの感あり。

 「三代続けば末代続く」。「売家と唐様で書く三代目」というのがあるが、ここを切り抜ければあとが続く。基礎が出来上がるまでには三代くらいはかかるものだという意味も込められている。「婿三代続けば金持ちになる」は、婿はまじめによく働くことをいったもの。

 こちらは戦国の世などでの武者修行者への格言ではないかと思うが、「三年修業するより三年師を探せ」(三年学ばんより三年師を選べ)。三年独学するより三年かかっても良い先生を探してこれについて学ぶ方が近道であるということ。師に限らないが人生よき人との出会いが大切である。



*2)「男の友情背番号3」石原裕次郎、1959年9月、作詞:大高ひさお、作曲:上原賢六
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ことわざ考 その3

2015年06月07日 | ブログ
女の浅知恵

 「女の猿知恵」、「女の知恵は鼻の先」とも同義。女性は兎角、目先の利害に囚われて物事を判断する傾向にあるため、いくら賢いと思われ、利口な評判の女性でも、浅く狭い視野での判断で失敗を招き易いものだという教え。「女の浅知恵男の悪知恵」とも言うので、決して女性蔑視のことわざではない。男も女も処世訓として、物事に対処する時、目先に囚われた狭隘な判断をしていないか振り返る教訓になることわざなのである。

 それにしても、安倍政権下においても女性大臣や自民党女性議員の体たらくが目立った。小渕経済産業大臣や松島法務大臣が辞任に追い込まれ、プライベートで同僚議員との不謹慎な行動が顰蹙をかった女性議員もあった。そういえば共産党の女性議員にも問題児が居た。

 大体、女性を大臣にすることが内閣改造の目玉になったり、女性の公認候補を増やすことが、進んだ政党のイメージにつながったりというのは、そもそもおかしい。おかしいことを数値目標まで出して、推進しようとする輩の声が大きく取り挙げられるからおかしいことになってしまう。

 お隣の国の大統領は女性だけれど、何かいいことあっただろうか。今回の森元首相の訪韓に際しては、韓国側から大統領との会談を設定してきたような報道もあるけれど、相変わらず慰安婦問題を持ち出して来たという。ヒステリー以外の何物でもない。

 ドイツの首相も女性だけれど、AIIBへの日本の参加を勧めたりとまさに目先の所しか見えていない印象がある。

 男女差は能力の問題ではなく、職業選択の向き不向きが大きいように思う。少なくとも女性は政治家向きではない。ただ国家であっても地方の行政機関も同様であるが、女性がトップになることは、すでにその国や地方が凋落傾向にある場合がほとんどで、誰がやっても難しいことは言える。克服したのは英国のサッチャーさんくらいであろう。

 企業での女性管理職登用では、職種や業務内容による適否が大きいと思う。一般的には女性向きではない場合が多いと思う。管理職の30%は女性になど政府が民間企業に押し付けることではない。このような押しつけこそまさに女性の発想である。

 女性を揶揄することわざは事欠かない。「女賢こうして牛を売り損なう」、同義で「女が口を叩けば牛の値が下がる」や「女の賢いのと東の空明りとは当てにならぬ」があり、「女は化物」というのもある。フランスでは「女は教会では聖女、街では天使、家では悪魔」ということわざがあるそうだ。

 とは言いながら「女の髪の毛には大象もつながる」とのことわざは、どんな強い男でも女の魅力にはひかれることの喩えだそうで、結局男の悪知恵も女性の浅知恵には敵わない運命のようである。




本稿は、農学博士/折井英治編、暮らしの中の「ことわざ辞典」株式会社集英社、昭和56年4月第二版第35刷 を参考にしています。
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ことわざ考 その2

2015年06月04日 | ブログ
一富士二鷹三茄子

 普通「ことわざ」は人生訓となるようなものが多いが、「一富士二鷹三茄子」などは、単にめでたい(初)夢の順序をいったもので、しかも根拠はないという。それでも、この言葉は日本人なら誰もが知っているのではないかと思われるくらい有名だ。しかし実は続きがあって、こちらはあまり知らないと思う。四扇五煙草六座頭*1)。要は合わせて駿河の国(静岡県)の名物をうたったものという説が有力だそうだ。

 駿河の国は、今川義元亡き後武田信玄、徳川家康が統治したが、家康は、江戸幕府を開いた後には大御所として再び駿府で過ごしたとのことで、戦乱の世を勝ち抜いた家康に因み、その地の名物は縁起が良いとなったのかもしれない。

 このような一、二、三のことわざはよく知られているものが多い。「一押し二金三男」などもよく聞く。大抵の男(若者)どもは、金はないし男ぶりも大したことあるまいから、女性を口説くに押しでゆくしかない。というような揶揄がこもっているようにも思うけれど、けじめがつかずストーカーとなればこれは犯罪である。

 実はこれにも四、五があって、第四は辛抱強いこと、第五は芸能の心得があること。確かにテレビに出るようなお笑い芸人さんなど、どうみてもかっこ良くはないが、(芸能の心得があるからか)よくモテルらしい。またギターのひとつも弾けることなども女性の歓心を得る道具立てにはなるようだ。

 くしゃみが出ると、誰かが噂をしているなどとよく聞くけれど、これは「一誹り二笑い三惚れ四風邪」からきたもののようだ。くしゃみが4回も続くようなら風邪の前兆だよということなのだろうけれど、じゃあ1度のくしゃみは?2度、3度は?と問われ、もの知りぶった御仁の適当な答えが結構妙を得ており、広まったのかもしれない。

 「一引き二才三学問」というのもある。出世するに大切な要素で、一番は上の人の「引き」があること。次が才能、それから学問と続く。そういえば、二世三世議員、芸能界なども縁者が多い。企業トップなどもそうだ。世襲が必ずしも悪いとも言えないが、親戚縁者故だけの「引き」を続けることは、間違えれば血族結婚を続けることと同様の不具合を生じるのではなかろうか。同じようなことわざに「一引き二運三器量」がある。ここでも一番は「引き」。上の人から好かれその資質を見出されるような人材こそ「引き」でなければならない。引かれる所以が大切である。



*1) 室町時代、盲人の琵琶法師の官名。当道座の四官の最下位。検校 (けんぎょう) ・別当・勾当 (こうとう) に続くもの。江戸時代、僧体の盲人で、琵琶・三味線などを弾いたり、語り物を語ったり、また、あんま・はりなどを業とした者の総称。(by goo辞書)
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ことわざ考 その1

2015年06月01日 | ブログ
相碁井目

 「相碁井目(あいごせいもく)」。私は、このところ碁に費やす時間が長くなっている。ひとつはネット碁に参戦していること。月に1,2回ではあるが、近くのコミュニティーの囲碁会にも参加させて貰っていることによる。そこで、「ことわざ」もまず囲碁用語からということだが、実は、おいうえお順の「ことわざ辞典」で最初に目に付いただけのことではある。

 相碁井目の「相碁」は互い戦のこと。実力が近い者同士の戦いでハンディーを付けない。「井目」は、碁盤の星の位置にすべて石を置いた状態で行う。すなわち9子のハンディー戦である。このことから、同じことをしても腕前には上下大きな差があり、人の賢愚にも差があることを言うのである。

 「空樽は音が高い」。これも人の賢愚に差があることも揶揄しているものと思う。中身のある樽はたたけば重々しい音がするが、空っぽの樽は、軽々しい音がするところから、おしゃべりする者は軽薄だということわざ。

 菅直人元首相など、首相時代名字の菅と缶を掛けて「空き缶」「から菅」などとからかわれたものだった。野党時代には政権への批判や国会での質問は猛々しかったけれど、ご自分が仕切らねばならない立場になった時には中身のなさをさらけ出してしまった。出処進退がみっともなかったことも印象を悪くした。

 その前の鳩山さんなど、首相を辞められてなお、国益を損なう言動で顰蹙を買っておられるけれど、問題は、このような方々を党首に持ちあげた政党の議員たちが、今もなお堂々と政権批判を続けていること。沈みかけた泥船から、選挙に有利そうな別の野党に乗り換えた連中に至っては、そこでまた野党再編などと、元の鞘に収まろうとする行動をしていること。

 合言葉は、相変わらず反自民と政権交代だけ。自分が議員で居たい為に、この国に必要な憲法改正も安保法制も原子力発電も、身の無い空き樽のような空念仏の「平和と安全」を唱えて、反体制志向の国民の支持を取り付けようとする。リスクの無い所では果実も得られる筈などないものを。一体彼らはこの国を愛しているのか。国民が豊かにそして真に安全に暮らせることを願って政治を行っているのか疑わしい。

 「浅い川も深く渡れ」。似たようなことわざはいろいろあるように思うのだけれど、これはちょっと趣があって良い表現だと思う。要は「油断禁物」なのである。「相碁井目」ではないが、実力差はあっても格下の相手を嘗めてかかると恐い。逆にカッコよく圧倒して勝とうなどと横綱相撲を気取っているとこれまた危ない。「獅子は兎を狩るにも全力を尽くす」のである。



本稿は、農学博士/折井英治編、暮らしの中の「ことわざ辞典」株式会社集英社、昭和56年4月第二版第35刷 を参考にしています。
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