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日本の名詩パートⅡその10

2013年09月28日 | Weblog
こほろぎ

 肩すそさせのこほろぎは
 秋の夜ごとに涙をさそうが
 あなたがそばにゐたときは
 それはやっぱり唄だった

 あなたがゐないことしの秋
 肩させや 裾させや
 心ありげなその鳴き声は
 刺青(ほりもの)の針と肌にしみる

 あなたのみないことしの秋
 着物は人に頼みもしよう
 わたしの胸のほころびを
 誰が 誰が縫ってくれる    詩集(藁科)

 『中勘助は、明治18年(1885年)東京神田に生まれた。父は維新後藩主とともに東京に移住した岐阜県の旧今尾藩士で、勘助は次男に生まれた。一高、東京大学英文科で夏目漱石の講義を受けた。

 著名な物理学者で、名随筆家でもあった寺田寅彦(1878-1935)と小説家で、児童文学者としても大きな業績をのこした鈴木三重吉(1882-1936)と並んで、漱石門下の三羽烏とうたわれた。処女作「銀の匙」が漱石の激賞うけて朝日新聞に連載され好評を博したが、文壇ジャーナリズムを意に介せず、孤高の詩人として終始したため、世間的にはあまり知られなかった。以後主力を注いだ一連の日記的随筆(「沼のほとりで」)は、深い愛の生活記録で、一字もゆるがせにしない文章とともに、識者の間で高く評価されている。

 兄の病気もあって一家の重荷を担うことともなり、長く不遇であった。詩集には「藁科」の他「稂玕」「機の音」「海にうたはん」「飛鳥」などを残し、昭和40年(1965年)病没した。』

 ところでこの詩の解説、『秋のわらべ唄に「寒さが来るから 肩させ裾させ つづれ(ボロ)させ」というのがあり、「させ」とは針で縫えの意。すなわち、こほろぎが鳴きはじめると、「ああ、肩させ、裾させと鳴いている。そろそろ冬のきものの支度をしなくては・・・」と思ったものだという唄。勘助の詩もこの唄に倣っている。秋の夜に、肩させ、裾させと鳴くこほろぎの声は、なんとなくあわれで、いつの年でも涙をさそわれるが、あたたが居た時は、それは音楽だったのに、あなたが居ない今年の秋は、ほんものの針のように肌にしみる。と詩っているのである。』

 私などが子供の頃には、こおろぎは近くの野原にも家の周囲にも一杯いたものだ。この地では、いつの頃からから外来種の虫の鳴き声に代わってしまい、こおろぎの鳴き声は少なくなった。家庭で繕いものをすることもほとんどなくなったのではないか。

 今年の9月も終わる。残暑はあれど秋の気配はすでに濃い。読書の秋に、世の移ろいはあれど日本の名詩は味わい深い。



本稿は、榊原正彦氏編「日本の名詩」金園社昭和42年刊からの引用によりますが、一部編集しています。
勝手な引用は著作権(作者の死後50年間有効)に触れる恐れがありますが、エッセーの趣旨に鑑みご容赦ください。
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日本の名詩パートⅡその9

2013年09月25日 | Weblog
千家元麿の二編

 「初めて子供を」

 初めて子供を
 草原で地の上に下ろして立たした時
 子供は下許(ばか)り向いて、
 立つたり、しやがんだりして
 一歩も動かず
 笑つて笑つて笑ひぬいた
 恐さうに立つては嬉しくなり、そうつとしやがんで
  笑ひ
 その可笑しかった事
 自分と子供は顔を見合はして笑つた。
 可笑しな奴と自分はあたりを見廻して笑ふと
 子供はそつとしやがんで笑ひ
 いつまでもいつまでも一つ所で
 悠々と立つたりしやがんだり
 小さな身をふるはして
 喜んでゐた。     詩集(自分は見た)

 「秘密」

 子供は眠る時
 裸になった嬉しさに
 籠を飛び出した小鳥か
 魔法の箱を飛び出した王子のように
 家の中を非情な勢でかけ廻る。
 襟でも壁でも何にでも手でも頭でも手でも尻でもぶつけて
 冷たい空気にぢかに触れた嬉しさにかけ廻る。

 母が小さな寝巻をもつてうしろから追ひかける
 裸になると子供は妖精のやうに痩せてゐる
 追ひつめられて壁の隅に息が絶えたやうにひつつい
   てゐる
 まるで小さくうしろ向きで。
 母は秘密を見せない様に
 子供をつかまえるとすばやく着物で包んでしまふ。
             詩集(自分は見た)

 わが子の愛しさを綴った2編を取り上げた。特に初めての子であれば、両親にとっても子供の仕草の一つ一つが新鮮で、掛け替えのない思い出ともなる。子育てに優る幸せもないと思うけれど、昔は主にそれは母親が担い享受した。しかしこの頃は育児を辛いもの苦しいものと捉えて、「イクメン」などと称して、育児の苦労を亭主にもと押し付ける風潮がある。*11)

 だからかどうか、母子家庭で稀にではあるが子供を家に閉じ込めて、母親は育児放棄し死なせてしまう事件が起こる。この夏の暑い盛りに、閉め切った部屋にペットボトル2本の水を枕元に置いて放置した母親がいた。「イクメン」と押し付ける対象がない女性に、社会はさらなるストレスを与えているのではないかとさえ思う。こちらは母子家庭でもなかろうに、暑い最中、車に幼児を置き去りにしてパチンコに狂い、子供を死なせる事件が以前多発したこともあった。

 虐待事例は、それだけ世間の関心が高くなって顕在化するからでもあろうが、年々件数が増加している。女性の連れ子を虐待死させる義理の父親も絶えない。これほど卑怯な愚劣な男もいない。

 思考の足りない政治家(政党)が選挙の票が欲しいばかりに、無私の子育てという神聖な営みに現金を投与する施策を思いつき、少子化対策だとのたまう。受け取る側の心の襞に思いも寄せない。子供と現金の釣り合いを考えるようになったら親子の純粋な関係は壊れてゆく。

 『千家元麿は、明治21年(1888年)東京に生まれた。父親は、代々出雲を統治した家柄(出雲の大宮司)の第65世で、東京府知事、司法大臣などをつとめた貴族(男爵)だが、元麿は妾腹に生まれたため、少年時代から精神的に苦悩があったらしい。17歳頃から新聞などに俳句、短歌、詩などを投稿していたが、大正2年、武者小路実篤と識って、「白樺」派の人たちと交わるようになり、それ以後人道主義の詩人として終始した。大正7年に処女詩集「自分は見た」を出版して以来、詩集十数冊のほか、小説戯曲集「青い枝」などの著書を残し、昭和23年(1948年)病没した。』

 元麿が妾腹の子であったことを知れば、父親にも幼かった自分をやさしく見つめていて欲しかったという願いが、これらの詩にはあるような気がする。




*11)夫婦共稼ぎが普通になったことで、家事育児の夫婦協働化が進んだ所為でもある。
本稿は、榊原正彦氏編「日本の名詩」金園社昭和42年刊からの引用によります。


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日本の名詩パートⅡその8

2013年09月22日 | Weblog
続、中原中也

 中原中也という詩人の名前は、恐らく中学か高校の国語の教科書にその詩が載っていたために知っていたのだと思うのだけれど、その詩が何であったのかさえ思いだせないでいる。それでも中原中也という名は今も鮮明である。その詩に物悲しさと強烈な個性を感じ、強い記憶となったものであろう。

 「正午」 丸ビル風景

 ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
 ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくる
   わ

 月給取の午休み、ぶらりぶらりと手を振って
 あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくる
   わ

 大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入
   口

 空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃も少々立つてゐる
 ひょんな眼付で見上げても、眼を落としても・・・・
 なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
 ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
 ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくる
   わ

 大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入
   口

 空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな        (在りし日の歌)

 「生い立ちの記」

  Ⅰ  
    幼年期
 私の上に降る雪は
 真綿のようでありました
     少年期
 私の上に降る雪は
 霙(みぞれ)のやうでありました
     十七-十九
 私の上に降る雪は
 霰のようでありました
     二十-二十二
 私の上に降る雪は
 雹(ひょう)であるかと思はれた
      二十三
 私の上に降る雪は
 ひどい吹雪とみえました
      二十四
 私の上に降る雪は
 いとしめやかになりました・・・・

  Ⅱ
 私の上に降る雪は
 花びらのやうに降ってきます
 薪(たきぎ)の燃える音もして
 凍るみ空の黝(くろず)む頃

 私の上に降る雪は
 いとなよびかになつかしく
 手を差伸べて降りました

 私の上に降る雪は
 熱い額に落ちもくる
 涙のやうでありました

 私の上に降る雪に
 いとねんごろに感謝して、神様に
 長生きしたいと祈りました

 私の上に降る雪は
 いと貞潔でありました   詩集(山羊の歌)

 祈り虚しく30歳の若さで逝った中原中也は、世紀末風の詩風で、「日本のランボー(19世紀末のフランス象徴派の詩人:前稿欄外注釈:9)参照)とも呼ばれている。



本稿詩は、榊原正彦氏編「日本の名詩」金園社昭和42年刊からの引用によります。
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日本の名詩パートⅡその7

2013年09月19日 | Weblog
湖上

 ポッカリ月が出ましたら
 舟を浮かべて出掛けませう。
 波はヒタヒタ打つでせう。
 風も少しはあるでせう。

 沖に出たらば暗いでせう。
 櫂から滴垂(したた)る水の音は
 眤墾(ちか)しいものに聞こえませう、
 あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

 月は聴き耳立てるでせう、
 すこしは降りても来るでせう、
 われら接唇(くちづけ)する時に
 月は頭上にあるでせう。

 あなたはなほも、語るでせう、
 よしないことや拗言(すねごと)や
 洩らさず私は聴くでせう、
    けれど漕ぐ手はやめないで。

 ポッカリ月が出ましたら、
 舟を浮かべて出かけませう。
 波はヒタヒタ打つでせう、
 風も少しはあるでせう。  (在りし日の歌)

 この詩の作者『中原中也は、明治41年(1907年)4月、山口市に生まれた。父は軍医であった。山口中学にはいったころは非常な秀才で、学業の成績も抜群であったが、やがて文学に熱中して学業に興味を失うようになったという。中学4年のとき、京都の立命館中学に転校。その頃高橋新吉*7)の「ダダイストの詩」を読んで感激、その影響下に詩作をはじめたが、大正15年、日大予科に進んだころから、ダダイズム*8)の影響をはなれ、ランボー*9)、ヴェルレーム*10)などのフランスの象徴派の詩人たちの影響下に独自の詩風を確立した。日大予科を中退したあと、東京外語専修科に学び、昭和8年卒業。この間、第一詩集「山羊の歌」翻訳「ランボー詩集」などを出したが、昭和12年(1937年)10月、急性脳膜炎のために没した(享年30歳)。死後、第ニ詩集「在りし日の歌」が出版された。』

 前回の拙稿「日本の名詩」に登場していただいた、「素朴な琴」「秋」「虫」などの作者八木重吉(1898-1927)も短命(享年29歳)であった。その八木重吉に「無題」という詩がある。(ああちゃん! むやみと はらっぱをあるきながら ああちゃん と よんでみた こひびとの名でもない ははの名でもない だれのでもない)。中原中也にも同じく「無題」という詩がある。





*7)高橋新吉(1901-1987)愛媛県伊方町出身。八幡浜商業学校(現・愛媛県立八幡浜高等学校)を中退し、以後、放浪がちの生涯を送った。1920年(大正9年)「萬朝報」の懸賞短編小説に「焔をかゝぐ」で入選、小説家としてデビュー。その後詩作に転ずる。
*8)ダダイズム:1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のこと。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする。
*9) ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854-1891)19世紀のフランスの詩人。象徴主義の代表的な詩人である。ランボオとも表記される。主な作品に散文詩集「地獄の季節」、「イリュミナシオン」など。
*10) ポール・マリー・ヴェルレーヌ(1844-1896)、フランスの詩人。ポール・ヴェルレーヌ、あるいは単にヴェルレーヌとも呼ばれる。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらとともに、象徴派といわれる。多彩に韻を踏んだ約540篇の詩の中に、絶唱とされる作品を含みながら、その人生は破滅的であった。


本稿主題は、榊原正彦氏編「日本の名詩」金園社昭和42年刊からの引用によります。
欄外注釈は、ウィキペディアから引用しています。
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日本の名詩パートⅡその6

2013年09月16日 | Weblog
ためいき

 一
 紀の国の5月なかばは
 椎の木くらき下かげ
 うす濁るながれのほとり
 野うばらの花のひとむれ
 人知れず白くさくなり、
 佇みてものおもふ目に
 小さなるなみだものげの
 素直なる花をし見れば 恋人の
 ためいきを聞くここちするかな。

 二
 柳の芽はやはらかく吐息して
 丈高くわかき梧桐(ごどう:アオギリ)はうれひたり
 杉は暗くして消しがたき憂愁を秘め
 椿の葉日の光にはげしくすすり泣く。

 三
 ふといづこよりともなく
         君が声す。
 百合の花の匂いのごとく
         君が声す。

 四
 なげきつつ黄昏の山をのぼりき。
 なげきつつ山に立ちにき。
 なげきつつ山をくだりき。

 五
 蜜柑ばたけに来て見れば
 か弱き枝の夏蜜柑
 たのしげに
 大なる実をささえたり
 われもささへん
 たえがたき重き愁いを
 わが恋の実を。

 六
 ふるさとの柑子(こうじ)の山をあゆめども
 癒えぬなげきは誰がたまひけむ。

 七
 遠く離れてまた得難き人を思ふ日にありて
 われは心からなるまことの愛を学び得たり
 そは求むるところなき愛なり
 そは信ふかき少女の願ふことなき日も
 聖母マリアの像の前に指を組む心なり。

 ハ
 死なんといふにあらねども
 涙ながれてやみがたく
 ひとり出て佇みぬ
 海の明けがた海の暮れがた
    ただ青くとほきあたりは
 たとふればふるき思ひ出
 波よする近きなぎさは
 けふの日のわれのこころぞ。  (殉情詩集)

 佐藤春夫の恋歌2として「ためいき」を入れた。『この詩は、佐藤春夫の処女詩集「殉情詩集」(大正10(1921)年刊行)のなかでも、絶唱のきこえ高い作品である。だれかによって「癒えぬなげき」をうけた作者が、その「なげき」をいやそうとして、故郷である「紀の国」(和歌山県)*6)へ帰ったおりのことをうたったものである。では、郷里に帰って、その「なげき」は、いやされたかといえば、そう簡単にいやされるはずもなく、その人に対する思慕の情がたちきれたわけでもない。作者のなげきの深さを一章から八章まで繰り返し表現したものである。』

 佐藤春夫の年譜を見れば、複数の女性との同棲や結婚と離別を繰り返している。極度に神経を病んでいた時期もあり、その影響もあろうが、まさに失恋は新たな恋の始めであり、一時の深い思いは過ぎて見れば単なる空想か幻想に過ぎなくも思えるけれど、その幻こそが、そうありたいという願う読者の心と重なり、感動を与えるものであろう。

 若かりし頃に、文藝春秋の講演会で著名な作家氏のご講演を直接聞いたことがあった。その時、氏は小学生頃の作文に父親が亡くなり哀しかったことを書き、非常に好評であった創作文との出会いの頃のお話をされた。家では父親に「勝手に殺すな」と怒られたそうなのだが、氏は創作のコツをその時に会得したという。すなわち「嘘」がうけるということ。

 一方で、恋人を亡くしたある声楽家がその葬儀の折、恋人の妹が声を上げて泣いている姿に、「もう少し声の出し方を変えれば、もっと悲しげに聞こえるのに」と考えていた。喪の期間が終わると彼女は元の快活な少女に戻ったのだけれど、声楽家は自殺して果てた。芸術家とは悲しみの底でも自分を外から見つめているところがあるけれど、感性に優れる分、思いは深いのだというような話である。

 佐藤春夫の詩では「秋刀魚の歌」が最も有名である。こちらは詩集「わが一九二二」に収められているとある。発表は1921年だから「殉情詩集」の出された時期と離れてはいない。『あはれ 秋かぜよ 情けあらば伝えてよ    男ありて 夕餉にひとり さんまを食らひて 思ひにふける と・・・・・』




*6)正確には紀の国とは、和歌山県と三重県の一部にまたがっている。佐藤春夫の生地は、和歌山県の新宮市である。
本稿主題は、榊原正彦氏編「日本の名詩」金園社昭和42年刊からの引用によります。
勝手な引用は著作権(作者の死後50年間有効)に触れる恐れがありますが、エッセーの趣旨に鑑みご容赦ください。
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日本の名詩パートⅡその5

2013年09月13日 | Weblog
佐藤春夫の恋歌1

 『佐藤春夫は、明治25年(1892年)に和歌山県新宮に代々の医者の家に長男として生まれる。中学5年の時に、与謝野鉄幹の「新詩社」同人となり、雑誌「スバル」や「三田文学」などに作品を発表して多彩な文学的生涯のスタートを切った。大正10年、処女詩集「殉情詩集」を出したが、これより先、苦しい恋愛事件*4)を経て散文に転じ、「田園の憂鬱」などの詩情ゆたかな幻想的な作品を発表している。昭和39年(1964年:東京オリンピックの年)に亡くなっている。』

 佐藤春夫を慕って多くの文学青年達が佐藤家に出入りしていたが、そのメンバーには、井伏鱒二、亀井勝一郎、太宰治、壇一雄、井上靖、安岡章太郎、吉行淳之介なども居り、錚々たる顔ぶれであったらしい。名を挙げた内の一人というわけではないが、若手の一人が初めて佐藤家を訪れた際、「芥川などという作家はつまらん」と言ったところ、佐藤は黙って引き出しを開け、一対の聯(れん:柱かけなどにする対句を書いた木札)を取り出して、「これを君、僕のうしろに掛けて下さい」と言った。聯には大略次のような意味の言葉が書いてあった。

 「鶯(うぐいす)ははじめてさえずることを覚えて、なお嘴(くちばし)を大切にする」「蝶ははじめて花の蜜を吸うことを覚えて、なお吻(くちさき)をいとおしむ」つまり、「若いくせに生意気言うな」の意味である。これは一人でなく数人やられた。後にその中の一人がこのことを言うと、佐藤は、「僕はそういうつもりで掛けたのではないのだが、君がそういうふうに取ったのは、君の人柄のいいところだろう」と言った。というエピソード*5)がある。

「海べの恋」

 こぼれ松葉をかきあつめ
 をとめのごとき君なりき。
 こぼれ松葉に火をはなち
 わらべのごときわれなりき

 わらべとをとめよりそいぬ
 ただたまゆらの火をかこみ、
 うれしくふたり手をとりぬ
 かひなきことをただ夢み、

 入日のなかに立つけぶり
 ありやなしやとただほのか、
 海べのこひのはかなさは
 こぼれ松葉の火なりけむ。  (殉情詩集)




*4)大正3年から大正9年。佐藤22歳から28歳の間、2人の女優との相次ぐ同棲と別れを指していると思われる。佐藤の正式な結婚は大正13年32歳の時。その後離婚し、前の谷崎潤一郎夫人であった千代と結婚したのは昭和5年38歳の折。(小林秀雄編文藝春秋社「現代日本文学館」(全43巻)第21巻、佐藤春夫年譜より)
*5) 小林秀雄編文藝春秋社「現代日本文学館」(全43巻)第21巻(佐藤春夫/室生犀星)佐藤春夫スケッチより

本稿主題は、榊原正彦氏編「日本の名詩」金園社昭和42年刊からの引用によります。
勝手な引用は著作権(作者の死後50年間有効)に触れる恐れがありますが、エッセーの趣旨に鑑みご容赦ください。


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日本の名詩パートⅡその4

2013年09月09日 | Weblog
月の沙漠

1 月の沙漠を はるばると
  旅のらくだが 行きました
  金と銀との くら置いて
  二つならんで 行きました

2 金のくらには 銀のかめ
  銀のくらには 金のかめ
  二つのかめは それぞれに
  ひもで結んで ありました

3 先のくらには 王子さま
  あとのくらには お姫さま
  乗った二人は おそろいの 
  白い上着を 着てました

4 ひろい沙漠を ひとすじに
  二人はどこへ いくのでしょう
  おぼろにけぶる 月の夜を
  対のらくだは とぼとぼと
  砂丘を越えて 行きました
  だまって越えて 行きました

 『この詩(歌詞)は、大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した加藤まさをが、講談社発行の雑誌「少女倶楽部」1923年(大正12年)3月号に発表した、詩と挿画からなる作品の中にある。当時若手の作曲家佐々木すぐるが曲を付け、童謡として長く歌い継がれ、世代を超えて支持される歌の一つとなっている。』

 加藤まさを(1897 -1977)は、静岡県の出身で立教大学に学んでいたが、学生時代に結核を患い、千葉県外房の御宿海岸で療養生活を送ったという。その御宿海岸がこの「月の沙漠」のモチーフとなったと言われており、晩年もこの地で過ごした。『このためこの地に、「月の沙漠」に登場する2頭のラクダに乗った王子と姫をあしらった像が建てられて、その数メートル脇には、加藤まさを直筆の「月の沙漠」の冒頭を刻んだ月形の詩碑が存在する。また、海岸より道一本を隔てて「月の沙漠記念館」が建てられており、加藤の作品や生前愛用した楽器などが展示されている。』

 今年、千葉県に住まうようになって31年目にして、初めて御宿海岸を訪れて、2頭のラクダに乗った王子と姫の像や記念館を見た。想像していたものよりはるかに見事な大きな像であったのには感動した。綺麗な海岸であり、「砂漠」を「沙漠」としていることも頷ける。

 「月の沙漠」は、もう究極に近い「旅の詩」のように思えるほどに不思議な詩である。作者の挿絵画家としての感性が生んだ情景であろうけれど、遠くペルシャ(イラン)かアラブ辺りの王族の王子と姫が供も連れず、砂漠を旅する光景をどこからイメージしたものであろうか。人生と同じ侘びしく荒涼とした風景の中を、ただ己の信じる光明(月明かり)を拠り所に、とぼとぼと歩んでいる姿を思い描いたものかも知れないけれど、それを金銀を纏った王族のカップルに擬したからこそ、夢の世界の絵になったものであろうか。

 御宿海岸は、江戸時代の初期(1609年)にメキシコのサン・フランシスコ号が座礁転覆した漂着地にも近い。乗組員373名が遭難し、内317人を村人が総出で救出したが、救われた彼らは当時の大多喜城主本多忠朝を介して家康や秀忠と謁見し、翌年家康が建造した船でメキシコまで無事に送り届けられたという美談の記念碑もある。メキシコ大統領が近年(昭和53年11月)当地を訪問した際には、地元の青年団の神輿に乗って日の丸の扇を高くかざし、「エルマーノ!」(兄弟よ!)を連呼して町民の歓呼に応えたという。

 そんなこの地の雰囲気が、旅人「加藤まさを」をして終いの棲み家とさせたのかもしれない。




勝手な引用は著作権(作者の死後50年間有効)に触れる恐れがありますが、エッセーの趣旨に鑑みご容赦ください。
本稿は、 Wikipediaおよび御宿町観光協会HPおよび現地記念碑文を参考にしています。
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日本の名詩パートⅡその3

2013年09月07日 | Weblog
旅上

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。  (純情小曲集)

 『これは、荻原朔太郎*1)の数多い詩作品のなかでも、もっとも広く知られた作品である。「旅上」は、作者の造語だが、「旅に出る」というような意味に解してよいであろう。・・・

 後半の5行では、まず、「汽車の山道をゆくときには、水色の窓によりかかって、なにかうれしいことを考えよう」と、車中のたのしいひとときを空想し、「いまは、若草のもえる五月のさわやかな(しののめ:明け方)朝だ。その若草が自然にもえでるように、わたしも、心のままに旅に出よう。」と結んでいるのである。終りの二行は、喜々として旅だとうとしている作者のはずんだ気持ちがよくあらわれており、読む者も、なんだか、自分も旅に出てみたいような気持にさせられる。』

 編者の解説をほとんどそのまま綴るしか能がない。旅の詩には、作者の人生を模して物哀しいものが多いようにも思うけれど、この詩のように旅への憧れをそのまま表現したものもいい。

 高倉健さんの久々の映画出演で評判となった「あなたへ」*2)は旅を通じての出会いや人生を語る映画だった。ビートたけしさんも出演されていたけれど、健さん(倉島英二)との問答で、放浪の俳人「山頭火」*3)の話を交えて、旅と放浪の違いについてたけしさん(杉野輝夫)が講釈するシーンがある。「旅」とは目的があること。もうひとつ帰る所があること。

 それでは人生という旅の目的とは、人生の旅の帰る所とは。人生は旅と言うより放浪に近いのだろうか。




*1)明治19年(1886年)-昭和17年(1942年)群馬県前橋市に生まれる。24,5歳ころから詩作をはじめ、大正五年、室生犀星らと雑誌「感情」を創刊。従来の古典主義的・形式主義的美学を否定する一方、自然主義的リアリスムの卑俗性をも否定し、詩における感情の優位性を掲げて、抒情詩の新しい展開をはかった。-榊原正彦氏編「日本の名詩」金園社
*2)降旗康男監督、2012年8月公開。東宝。
*3)種田山頭火(1882-1940)、大正・昭和の俳人。山口県防府生まれる。季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠んだ。行乞(ぎょうこつ、食べ物の施しを受ける行)の旅を7年間続け、その中で多くの歌を詠んだ。-「あの人の人生を知ろう~種田 山頭火」HPより。
 
本稿主題は、榊原正彦氏編「日本の名詩」金園社昭和42年刊からの引用によります。
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日本の名詩パートⅡその2

2013年09月04日 | Weblog
落葉松(からまつ)

 一
 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。

 二
 からまつの林を出でて、
 からまつの林に入りぬ。
 からまつの林に入りて、
 また細く道はつづけり。

 三
 からまつの林の奥も
 わが通る道はありけり。
 霧雨のかかる道なり。
 山風のかよふ道なり。

 四
 からまつの林の道は
 われのみか、ひともかよひぬ。
 ほそぼそと通ふ道なり。
 さびさびといそぐ道なり。

 五
 からまつの林を過ぎて、
 ゆゑ知らず歩みひそめつ。
 からまつはさびしかりけり、
 からまつとささやきにけり。

 六
 からまつの林を出でて、
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 からまつのまたそのうえに

 七
 からまつの林の雨は
 さびしけどいよよしづけし。
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 からまつのぬるるのみなる。

 ハ
 世の中よあはれなりけり。
 常なけどうれしかりけり。
 山川に山がはの音、
 からまつにからまつのかぜ。    (水墨集)

 『「落葉松」は、大正10年、北原白秋の36歳のときに、雑誌「明星」に発表され、同12年に出版された第ハ詩集「水墨集」におさめられたもので、白秋の数多い作品のうちでも絶唱のひとつにあげられている。』

 舞台は、信州の浅間山の山麓の高原地帯にある落葉松林で、長く続く落葉松林をゆく旅人の心象を、己の詩人としての孤独な人生の旅路に擬えたものでもあるようだ。

 北原白秋は、明治18年(1885年)に福岡県の柳河近くの沖端村に生まれたとある。昭和17年(1942年)に亡くなっているのだけれど、戦後生まれのわれわれが子供の頃から詩人として非常に親しんだ名前だった。それは数々の優れた童謡の作者だったからだ。「雨降り」、「雨」、「ゆりかごの唄」、「砂山」、「からたちのはな」、「この道」、「待ちぼうけ」など、それぞれに曲が付けられ、多くの人が今も口ずさめるものばかりだと思う。また、数多くの校歌も作詞されていたようだ。さらに新民謡といわれた「ちゃっきり節」は「みんなのうた」で、1973年4月に弘田三枝子とザ・シャデラックスの歌唱によって紹介され有名になっていた。「唄はちやっきりぶし、男は次郎長、花はたちばな、夏はたちばな、茶のかをり。・・・」

 「ゆりかごの歌を かなりあがうたうよ ねんねこ ねんねこ ねんねこよ ゆりかごの上に びわの実がゆれるよ ねんねこ ねんねこねんねこよ」「ゆりかごのつなを 木ねずみがゆするよ ねんねこ ねんねこ ねんねこよ ゆりかごの夢に 黄色の月がかかるよ ねんねこ ねんねこ ねんねこよ」ゆりかごの唄(1921年)



本稿は、榊原正彦氏編「日本の名詩」金園社昭和42年刊を参考にしています。
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日本の名詩パートⅡその1

2013年09月01日 | Weblog
小諸なる古城のほとり

 小諸なる古城のほとり
 雲白く遊子悲しむ        
 若草も藉(し)くによしなし
 しろがねの衾(ふすま)の岡辺   
 日に溶けて淡雪流る

 あたたかき光はあれど
 野に満つる香りも知らず
 浅くのみ春は霞みて
 麦の色わづかに青し
 旅人の群れはいくつか
 畠中の道を急ぎぬ

 暮れゆけば浅間も見えず 
 歌哀し佐久の草笛
 千曲川いざよふ波の   
 岸近き宿にのぼりて
 濁り酒濁れる飲みて
 草枕しばし慰む         (落梅集)

 勿論、島崎藤村(1872-1942 )(明治5年-昭和18年)の詩である。本稿で日本の名詩を取り上げるのは2度目で、前回は2010年1月だったけれど、この時も藤村の詩からスタートしている。取り上げたのは「初恋」であり、すなわち愛の詩ということだったが、今回は旅の詩からのスタートである。

 島崎藤村は「夜明け前」はじめ「破戒」や「家」などの作者で、小説家としても有名であるが、詩作から入り後に小説に転じた。明治38年「破戒」を自費出版して小説家に転向し、自然主義文学運動の先駆をなしたと言われている。

 「小諸なる古城のほとり」は詩人藤村の四番目の詩集「落梅集」に収められている。刊行は明治34年というから藤村29歳であった。すでに当代随一の詩人として名声を得ていた。「初恋」が収められている藤村の処女詩集「若菜集」が出たのは明治30年。続く「一葉舟」「夏草」「落梅集」によって、日本の抒情詩に正統的な地位をあたえたとされる。

 小諸は信州、現在の長野県小諸市。明治32年の春、藤村はこの地に教師として赴任しており、同時期に結婚している。新婚当時のまる6年間を過ごし、この間三女を儲けたとあるが、後半の3年間は沈黙期であり、輝かしい小説家への準備期間でもあった。小諸は城下町で、古城は戦国時代、武田信玄の軍師であった山本勘介が築城し江戸時代には牧野氏2万5千石の居城であったという。

 藤村の詩風は七五調を主とし、用語も古風で常套を想わせ、詩作として新風とは言えないが、ほかでは見られない新鮮な情感と温柔の官能を盛る藤村調の詩感を出すことに成功したといわれる。冒頭の詩もまさに歯切れのよい名詩である。



本稿は、榊原正彦氏編「日本の名詩」金園社昭和42年刊及び文藝春秋社「現代日本文学館」(全43巻)第10巻島崎藤村1の中野好夫「島崎藤村伝」を参考にしています。
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