中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

この頃気になることなど第10回

2012年06月28日 | Weblog
ミル

 数学者で当時奈良女子大学教授の岡潔先生は、ある日教え子の女子大生と歩いていて捨て猫に出会う。女子大生が理屈っぽい娘で、こういう場合どうすればいいかと尋ねるもので、先生はその子猫を拾って帰る羽目になります。ミルクで育てたので「ミル」と名付けました。ミルは変わった猫でした。何といっても変わりもののわたし(岡先生)によくなついたのです。

 『ミルもだいぶうちのものとなじみ、仲よしになったころでした。わたしは、おまえに一つ人間のことを教えてやろうということで、どうしようかと考えた末に庭のばらのところにつれていきました。南側の、わたしが花園と呼んでいるすこしの空地です。そのすみにちょうどばらが咲いていました。

 かかえられて足をだらっと下げたかっこうでおとなしくしているミルに、わたしはきれいなばらを見せてやりました。そうすると、ちょっとかぐまではおとなしくしているのですが、すぐ、フンと横を向いてしまって、そのあとはどうしようもありません。

 これはやってみなければ実感が出ませんが、とにかく、とりつくしまがないとはこのことだと思いました。ねこにばらをいくら教えようとしてもだめです。

 そこでわたしはつくづく思いました。ねこがねこであることを抑止してくれなくては、ねこにばらはなんとも教えようがない。

 そのうち、ミルの死ぬときが来ました。ひどく弱ってきたのです。

 そのころ、わたしはひとりで、奥の間に寝ていました。いつも寝床で考える癖があるので床は敷きっぱなしですが、その朝は少し寒かったので、二枚続きの毛布を二つ折りにし、その間にはいって考えていました。

 すると、ミルが障子の外に来て中にはいろうとしているのがわかりました。障子に穴があっていつもそこをとびこえて中にはいるのですが、もうとびこむ力がないらしい。障子をあけて入れてやると、どうも毛布の中にはいりたそうなようすをします。

 わたしはミルを毛布の中に入れてやり、いつものように学校へ出かけました。そして、帰ってきたときは、ミルは毛布の中で冷たくなっていました。

 ねこはふつう死に場所をけっして人に知らせないといわれていますのに、このねこはわたしの寝間に死に場所を求めて、わざわざもどってきたらしい。』ここまでで、岡先生は別の話に移っています。

 自分によくなついた猫がかわいいとか愛おしいとか、その猫が死んでしまった時にさえ、悲しいとか寂しくなったとか一切書かれてはいない。それでも十分にその「こころ」は伝わってくる。

 岡潔「わが人生観」*8)の「こころといのち」の章の「こころ(二)」にあった文章を、そのまま2回にわたりお借りしてきました。

 「生命を賭ける」とか「愛」や「絆」とか言葉だけが大仰に先行する時代。それらは口に出した途端に空虚になるものではないだろうか。岡先生はそれらをすべて「こころ」としてそれ以上の表現を控えられている。だから一層その気持ちが伝わってくる。そんなことを読者に伝えたかったのではないか。





*8)「わが人生観」Ⅰ岡潔 著 1968年11月初版 大和書房。『 』内はひらがな書きを多用していますが、原文をそのまま引用しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この頃気になることなど第9回

2012年06月25日 | Weblog
ペット

 この頃はペットブームを通り越して、多くの人の家庭の生活スタイルとなっている感がある。中には爬虫類など本来日本にはいない生き物まで取り寄せて飼っている人も居るようで、手に負えなくなって放置して問題になったりする。新聞や雑誌にも著名人のペットとの交流を描いたエッセーをよくみかけるようになった。私はわが子が小さい頃に金魚くらいは飼ったことがあるが、犬や猫を飼ったこともなく、従ってペットを語る資格はないのだけれど、数学者岡潔先生*7)の「わが人生観」*8)にあった猫との「こころ」の交流を紹介したいと思った。

 『こんどは飼いねこのことを少し。その女子学生は、いろいろと基本的なことを聞くのが好きなのです。わたしが教えている奈良女子大数学科の学生です。あるとき、その女子学生といっしょに歩いていると、ねこの子が捨てられてありました。

 それを見て、「先生、ねこの子が捨てられているところに行き合わせたら、どうすればよいのですか。」とたずねました。

 わたしはそのときどう答えたか覚えていませんが、これは説明するとともにそのとおりしなくては仕方がないので、わたしはその子ねこを拾いあげてうちにつれて帰りました。

 つれて帰ってすぐ牛乳(ちち)をやったのですが、なかなかうまく飲んでくれなくて困ったことを覚えています。そしてずるずると飼ってしまうことになりました。

 名前はミルクで育てたのでミルとつけました。ミルは変わったねこでした。

 とくにわたしによくなつき、わたしが立ち上がると畳からかけ上がってひょいと左肩にとまるのです。わたしはへやの中を歩くとき、ミルを左肩にとまらせていることが多かったものです。

 そのころ、わたしのうちには息子とふたりの娘とみんなそろっていました。そして寝床を広く横に敷いて寝たものですが、ミルはお産をするときその寝間にはいって子を産みました。こんなねこはめったにありますまい。

 食事のときはかならずわたしのひざに来ました。食卓のおかずが刺身なら刺身を一切れやりますと、食べてニット口のまわりの筋肉をゆるめ、ちょっとうれしいような表情になります。

 わたしはふと考えました。ミルはいったいもらう刺身そのものがうれしいのだろうか、それとも刺身をもらうことによって、かわいがってもらっているということを確認して満足しているのだろうか。

 そこで、どんなふうにたしかめたか忘れましたがとにかくためしてみました。そうすると、ミルは刺身が目的ではなく、きょうも刺身をくれるというわたしの行為を確かめたいのだとわかりました。』以下次号。





*7)岡潔(1901-1978):数学者、大阪市出身。理学博士(1940年京都大学)、1960年文化勲章。湯川秀樹、朝永振一郎、広中平祐らに影響を与えた。
*8)「わが人生観」Ⅰ岡潔 著 1968年11月初版 大和書房。『 』内はひらがな書きを多用していますが、原文をそのまま引用したものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この頃気になることなど第8回

2012年06月22日 | Weblog
続、三文評論家の戯言

 政治家は批判されるが、評論家はほとんど批判されない。だからいい加減な発言がそのまま世間に流布されて一般の人々はそんなものかと思ってしまう。

 ところで、「亡国の“戦犯”徹底追及」であるが、戦犯に小泉氏を上げなかったジャーナリストの船橋洋一氏は、国益を守ることをリーダーの使命として、海部氏と鳩山氏を戦犯に上げている。しかし、湾岸戦争での身勝手な一国平和主義で海部氏を批判しているかと思えば、民主党ブレーンの松本氏の米国のイラク戦争に対する小泉氏への批判に同調して、『大義なきイラク戦争でサマワまで、陸上自衛隊を派遣したのはまずかった。米国に対して貢献の仕方をもっと工夫するべきだった』*6)と述べている。どうすればいいの。

 さらに船橋氏は、アジア外交に影響したと小泉氏の靖国参拝を批判しているけれど、アジアの多くの国々の中で靖国を問題にしているのは、韓国と中国だけで、いずれも為にする言いがかりでしかありはしない。一国の総理が年に一度、国を守るためにその命を落とした同胞の慰霊に赴くことに誰に遠慮が要るわけがない。総理の靖国参拝を批判する知識人など、多少一般人より頭が良いかもしれないが、人間としての根幹の部分が腐っているとしか思えない。

 東京大学の御厨貴教授は、『平成の日本政治が国民不信を招いたのは、誰か個人の政治家に原因があるのではなく、政権の引き継ぎに大きな問題があった』としているけれど、主題に対する答えとしてはピントがボケている。敢えて暈かした感もある。小泉氏から安倍氏への禅譲に問題があったとするなら、戦犯は小泉氏か安倍氏を上げればいい。もっとも総理を選ぶシステムの欠陥を言うなら、橋下氏の船中八策ではないが、首相公選制など制度に言及すべきだ。

 御厨氏は、郵政選挙の際に参議院で否決された法案で、衆議院を解散するのは掟破りで前代未聞と批判しているけれど、この場合の「掟」とはせいぜい政界の暗黙の掟のことで、そんなものは国会議員の勝手で国民の幸せを担保するものではない。参議院で否決された法案も、衆議院の2/3以上の賛成で成立するものもあり、それを目指して解散することも当然有り得る手段だ。

前代未聞だからいけないというのも、いかにも因習を重んじる学者の悪癖で、そんなことだから進歩がない。外国の成功事例を持ってきたものならいいが、後輩の個性的で斬新な意見を、これまでどれだけ封じてきたかと思える発言である。そのような人物が最高学府しかも東京大学の教授をやっているから、折角優秀な学生が入学しても出て行く頃には並みの人間になるのではないか。

 後藤氏は、『自民党が長年培ってきた、派閥という政治家の人材育成システムを壊し、郵政選挙では小泉チルドレンという政治家として何らふるいのかかっていない議員を大量に生み出した』。『それまでは非常に厳しかった政治家への門戸を容易に開いた』などと述べているが、小泉氏以前のマスコミの徹底した派閥政治批判はどこに消えたのか。また従前より、さらに質の悪いと思われるタレント議員が大量に跋扈していたことをどのように説明されるのか。

 小沢チルドレンと小泉チルドレンを同レベルで論じているのも、対談者の質が疑われる。郵政選挙での自民党比例候補は、党として複数回の面接及び論文審査の上で選抜したと聞いている。小泉氏の私的な登用ではない。一方小沢チルドレンは小沢氏の政治団体丸抱えで、秘書を付けて選挙に勝つための現地指導を徹底したものである。角栄氏の負の遺産である、金権政治を選挙に活用実践したものだ。まさに味噌も糞もである。

 保坂氏の『敵を作り切り捨てる手法。国会や党内で議論を重ね、政策を成就させてゆくという道を閉ざしてしまった責任は重い』という小泉批判も的外れだ。何も敵を小泉氏が勝手に作ったわけでもなかろうし、郵政民営化論議は党内や国会で尽くされたと聞いている。

 現在の消費税増税等での民主党内のゴタゴタでも分かる通り、郵政民営化も党内に族議員を中心に既得権益を守るための反対が激しかった。決められなければ首相にリーダーシップが無いと叩き、決めると「議論を十分尽くさなかった」とくる。三文評論家は批判のための批判に終始している。





*6)日本の陸上自衛隊は戦争に行ったのではなく、道路や橋など現地住民の生活復旧に貢献した。結果一人の死者も出すことはなく、誰も殺さず、70%以上の現地の人々から好感を持って評価された。政権を賭けて同盟国への義理も果たした。

本稿は、文藝春秋7月号の目玉企画「“徹底追及”平成政治24年亡国の“戦犯”」における小泉元首相戦犯説に対する無責任な評論家諸氏への反論です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この頃気になることなど第7回

2012年06月19日 | Weblog
三文評論家の戯言

 文藝春秋7月号の目玉企画「“徹底追及”平成政治24年亡国の“戦犯”」という対談記事の内容には驚いた。文藝春秋と言えば、その論評の品格からしてもわが国有数の一流雑誌と思っていたけれど、この記事に見る限り三流週刊誌に成り下がっている。

 記事の対談に触れる。冒頭ノンフクション作家の保坂正康氏が、『・・・一体、どこで日本の政治は劣化、弱体化したのか。・・・』と責任者を問うている。それにまず答えたのが、作家・麗澤大学教授の松本健一氏で、『政治の結果責任という観点から考えると、最も責めを負うべきは小泉純一郎氏だと思います。・・・』と言い切っている。松本氏など私は全く知らない方だったが、対談を読み進めるうち、民主党のブレーンであることを他の出席者からの発言で知る。「最低」、「最悪」、「下下下の内閣」と酷評された鳩山、菅政権を生んだ民主党のブレーンが歴代の総理を批判する資格など全くない。偉そうに言うなとまず言いたい。

 しかし、続く政治コラムニストの後藤謙次氏も『小沢一郎さんか小泉さんで迷いましたが、5年5ヶ月もの長期間、総理大臣という最大の権力を握って、日本政治を破壊し続けたという点では、小泉さんだと思います。・・・』と述べ、続く文藝評論家で慶応大学教授の福田和也氏まで、『私も後藤さんと同じく、小泉氏か小沢氏で逡巡しました。・・・』。さらに保坂氏も『・・・私はそれ以上に彼の政治手法に大きな疑問を持っているので、小泉さんの名前を上げたい。・・・』と述べており、結局対談者6名のうち4名までもの発言に、小泉元総理が亡国の戦犯候補として大きく登場する。

 本来平成の政治を語るなら、まず平成に日本の首相であった政治家達を上げておく必要がある。竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢貴一、細川護煕、羽田孜、村山富一、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、現在の野田佳彦(以上敬称略)まで17人を数える。野田内閣の寿命は未知数だけれど、お一人の平均任期は平成元年に退陣している竹下さんを除く16人で、1年と6カ月程度となる。この中で突出している小泉氏の長期政権を除けば、他の15人の平均任期は1年3カ月足らずである。

 小泉氏の総理就任は2001年(平成13年)4月、この24年間の半ばを過ぎて総理となっており、それ以前の大臣歴としては昭和の竹下内閣で厚生大臣、平成に入って宇野、橋本内閣でやはり厚生大臣、宮沢内閣で郵政大臣がある程度。平成の歴代総理と、その始まりの宇野内閣からして短命内閣であったことなど、現状把握は重要なのだけれど、この対談に登場する評論家諸氏は、きちんとした経緯、現状把握の共通認識の確認を行わずに、それぞれが印象だけで主張している感が否めない。まず問題原因追求の基本ができていない。

 この政治の混迷を招いた戦犯を言うなら、24年間で16人も誕生した総理とそれを生み出した政治システム。総理の資格のない連中が、恥も知らず我も我もと総理をやったことにあったのではないか。三文評論家のいい加減な論評は、次号で論破したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この頃気になることなど第6回

2012年06月16日 | Weblog
また逢う日まで

 6月6日皇位継承順位第6位であられた三笠宮寛仁(ともひと)親王殿下が亡くなられた。66歳の若さだった。障害者福祉やスポーツ振興に尽くされた功績は大きく、本当に大切な方を亡くされたわけであるが、1991年以降がんとの闘いを続けておられたこと*3)で、大変な晩年でもあられたわけだ。

 身近な人を亡くせば当然にその喪失感は大きいが、やはり皇室の方をはじめ各界の著名人、芸能人などテレビや映画でお馴染みだった方々の死もインパクトがある。

 一昨年から昨年にかけて、昭和一桁生まれの芸能人の方が次々と亡くなられたのは、育ち盛りに先の大戦で食糧難を経た影響もあったものかと、時代を感じたものだ。谷啓さん78歳、藤田まことさん76歳、池内淳子さん76歳、児玉清さん77歳、長門裕之さん77歳など、1932年(昭和7年)から1934年(昭和9年)のお生まれで、食糧難であった終戦時は11歳から13歳。ただでさえ腹の空く年頃だった。

 昭和を代表するスーパースターといえば石原裕次郎さんと美空ひばりさんを挙げる人は多いと思うけれど、お二人とも52歳という若さでこの世を去ったのは因縁であろうか。裕次郎さんはやはり昭和一桁、昭和9年のお生まれであった。ひばりさんは昭和12年生。同じ年の生まれに緒方拳さんがいた。拳さんは2008年に71歳で旅立たれてしまった。

 最近のスターの訃報では、「また逢う日まで」*4)の大ヒットで知られる尾崎紀世彦さんがいる。1943年(昭和18年)生まれの69歳だった。「また逢う日まで」がヒットした当時私は社会人6年目、製造現場を去る年にあたる。職場の宴会でその歌を歌った記憶がある。寛仁親王殿下も尾崎紀世彦さんも我々団塊世代(昭和22年-25年生)の身近な先輩世代に当たる。

 一時期低迷していた歌謡界も演歌も、団塊世代の懐かしの昭和演歌のリバイバルがあり、尾崎さんなどもテレビ出演の機会も増えていたそうだけれど、無念であったろうと思う。

 日本人の平均寿命は戦後の高度経済成長に支えられる形で伸び続け、男女共世界のトップクラスにある。これは昭和一桁前半以前生まれの方の貢献による。最期まで映画を撮り続けた新藤兼人監督は、今年100歳で逝かれたが、明治45年(1912年)のお生まれで、終戦時はすでに33歳であった。戦争で多くの仲間を失った世代であり、戦争体験からその愚かさを訴える映画と言われる「一枚のハガキ」*5)を製作し、それが遺作となった。

 先の大戦では、陸軍中尉としてフィリピン戦線で終戦まで戦い続けたという私の勤め先だった柔道部の大先輩は、90歳を超えてなお、毎年フィリピンに慰霊の旅に出る。戦場となった地元の小学校などで、子供たちに文具などをプレゼントする活動もしていると聞く。

 このように大先輩方がお元気な中、われわれ団塊世代はこれからどのくらい生きるのか。医術の進歩や住環境の向上などがある一方、残留農薬、食品添加物、大気汚染など、若かりし頃の複合汚染やその後の飽食を相殺しておつりがくるものかどうか。

 「いずれ自分もそちらに行くから、また会おう」とは弔辞で語り掛けられる言葉だけれど、いずれにしても人生には別れがつきものである。去りゆく人を送る時、尾崎さんの残した「また逢う日まで」と希望を残したいものである。





*3)6月7日読売新聞朝刊1面を参考にしています。
*4)1971年リリース。フィリップス・レコード。阿久悠作詞、筒美京平作曲。
*5)2011年、東京テアトル配給。原作・脚本・監督、新藤兼人。大竹しのぶ、豊川悦司主演
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この頃気になることなど第5回

2012年06月13日 | Weblog
民間からの登用

 このたびの内閣改造で、民間人初の防衛大臣が誕生した。改造内閣の目玉とまで言われる。新大臣が防衛問題の専門家であることは誰しも認めるところのようだし、テレビによく登場して歯切れの良い論評を展開していたことから、一般の国民にもよく知られ、信頼もあるように思うけれど、識者の評価は厳しい。

 国家の防衛という対外的な紛争の最前線に立つ防衛大臣が、政治家でないということは責任の所在が不明確になること。新大臣が防衛大学出身ということもあり、シビリアンコントロール(文民統制)の面から問題である、など。身内の民主党からは、党の人材不足をさらけ出したようなものだとの批判もあった。元々人材などいないのだから仕方ないけれど。

 菅政権の際の与謝野氏の入閣にも違和感を持ったけれど、個人的信条が政権から遠いに関わらず、請われれば大臣という椅子は魅力的なのであろう。もっとも与謝野氏の場合、持論の税と年金の一体改革で消費税増税論を進めたい。さらに年齢的なものからくる己に残された時間も考慮しての入閣受諾であったように推測するけれど、このたびの森本大臣のやりたいこととは何なのであろうか。いずれにしても根本の主張の異なる人の多い集団に取り込まれては、所詮お飾りか便利屋に留まる公算が大きいように思う。さらにその政権の延命に寄与しようとするなら、自身への裏切りではないのだろうか。

 歴代、民間から登用された大臣がその力を遺憾なく発揮した例と言えば、小泉内閣の竹中大臣くらいしか思い当らない。小渕内閣の折、経済企画庁長官として入閣した方など、その後評論に偏りが見られるようになり、往年の輝きを失ったように思う。

 大臣という国家の最高の要職は、当然ながら成ることが目的ではなく、成って何をするかである。任命者である総理が当人の考えを支持し、力を発揮できる環境を与え、本人にも名誉とか報酬とかではない一途に国を思い、やり遂げたいビジョンがあって、さらに実行力が必要である。

 最近、東京都の尖閣諸島購入を、英紙からのインタビューで批判した丹羽中国大使なども民間からの登用であるけれど、大きな商社の代表者を中国という大市場の大使に任命した民主党政権の貞操観念の薄さは批判されなければならなかった。大使は所詮商売しか考えていないことが露見した。本人は、商売(経済)こそ国家にとって最重要なものの一つだと言いたいかもしれないが、石原都知事の言われているように日本を代表している発言ではなく、大使の資格はない。丹羽氏については以前農商工連携に関して本稿でも好意的に取り上げさせていただいていたけれど、今や小渕内閣の経済企画庁長官氏と同様な道を歩んでいるような気がする。

 己の歩いた道で十分世間に貢献し認められる人物が、分に食み出した名誉を求めることは晩年を汚すだけではないか。




本稿は、6月9日(土)日本経済新聞朝刊4面「防衛相安全運転に」および「中国大使新たな火種」両記事を参考にしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この頃気になることなど第4回

2012年06月10日 | Weblog
マインドコントロール

 6月3日、オーム真理教の地下鉄サリン事件(1995年)から逃亡を続けていた菊池直子容疑者が逮捕された。そして久しぶりに「マインドコントロール」という言葉を聞いたような気がした。昨年暮れには元教団幹部の平田信が出頭して逮捕されていたが、その折はどうだったか記憶がない。

 オーム真理教の事件では、その信者に医師や弁護士、高学歴の技術者など一般にはインテリ層に属すと思われる人々が多くいたことで、マインドコントロールの怖さを思い知らされたものだった。

 現在もいかがわしい新興宗教の類はあるようで、オーム真理教も名前を変えただけで復活しつつあるような報道もある。しかし、マインドコントロールは宗教に限らないのではないか。今の政治などもマインドコントロールによって執り行なわれているようで不気味だ。

 消費税増税など、財務省政権と揶揄される野田政権が、ただそれにひた走る姿は、国家財政破綻の恐怖を刷り込まれた為か、不人気の民主党政権唯一の将来に向けた実績としたいためか、はたまた企業減税や公務員処遇の維持財源確保に向けて、財界や公労協へのラブコールかは知らないが、マインドコントロールされた財務省信者にさえ見える。

 脱原発論にもマインドコントロールがあるように思える。こちらは高名な文化人が、その知名度を利して脱原発集会などを開いていた。生産活動に直接参加するわけでない文化人とて、エネルギー政策に意見を述べること自体は自由だけれど、経済活動に大きな影響のある政策で、技術的・専門的知識もなく、民衆を扇動するのは如何なものかと私などは思ってしまう。もっとも原発安全神話こそマインドコントロールであったかもしれない。

 ただ、福島原発事故原因は、大地震に大津波そして原発そのものの重大な危険性も勿論あったろうが、時の政府や東電が適切な初期対応を行っておれば、あれほど拡大せずに防げた事故であったかもしれない。歴史は勝者によって作られるというけれど、時の為政者、権力者が自らの過ちを隠蔽するために、その管理の杜撰さをすべて原発そのものに罪を着せて、脱原発を唱え、一般国民の多くをマインドコントロールされた状態にしているとも言える。

 消費税増税に戻って、国に借金が多いことは、財政が破綻するかしないに関わらずいいことではない。しかもその借金の多くは自民党政権時代からの積み上げであるけれど、民主党政権になってさらに膨らんでいる。選挙目当ての公約を少しでも守らんがためにバラマキを行いながら、一方で国家財政の危機を訴えるのは政党の自己矛盾そのものだ。

 消費税増税が本当に必要なら、何度も言うけれど、解散して新たに消費税増税を盛り込んだマニュフェストで選挙の洗礼を受けるべきだ。現在最大野党の自民党は元々消費税増税を訴えている。選挙結果に関わらず、消費税増税は進んでいく公算が強い。問題はプロセスであり、政治と国民の信頼関係にある。これまでの民主党の政権運営からして、この政党の内閣にこのまま消費税増税などの重要法案を進める資格はないように思う。

 新興宗教だけでなく、口先政治家、マスコミ、官僚や文化人の発するマインドコントロールに注意が必要である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この頃気になることなど第3回

2012年06月07日 | Weblog
ミステリアスな事件

 手元に統計はないが、どうも殺人事件の被害者は女性が多いように感じる。昔はわが国でも繰り返し国家間の戦争が起こり、前線に赴く兵士は大抵男だから、男性がよく殺されていた。

 民族の種の保存のためには男性と女性の比率は、1対2くらいが丁度いいのだけれど、男性は民族の存亡を賭けた戦いに駆り出されて半分くらい早めに死んでゆくので、出生率は男女同率であるという実(まこと)しやかな話を聞いたことがある。ところがわが国は戦後70年近く平和が続いている。同盟国が戦争をしていても彼らから押し付けられた憲法を盾に参戦しない。若い男女の比率はほぼ同じとなり、従って女性の権限が徐々に高くなった。社会的に抑圧されてきた女性陣は解放され、ホストクラブやメンズキャバクラなる商売さえ多数成り立つようになった。

 男女同権はいいのだけれど、何でも同じになることが、男女の人間同士としてお互いに幸福になる道でもないとも思うけれど、世の中の流れは大きくなると中々止まらない。

 若い女性が、深夜のコンビニエンスストアに買い物に行ける都会の治安の良さに外国人は感心するけれど、若い女性が、深夜フラフラしていて良いわけではない。犯罪被害に遭遇する危険は高くなるであろう。

 先般も浦安市の男友達のマンションで、胸を刺されて布団に寝かされていた23歳の看護師さんの事件があった。上京するにあたり、昔の男友達のマンションに泊めて貰う約束を取り付けていて深夜に辿りついたけれど、彼氏は留守で朝帰りだった。彼氏のアリバイは完璧で犯人には成り得ないらしい。

 被害者の携帯電話は見つかっていないが、その通話記録は分かるようで、別段怪しげな交信はなかったらしい。マンションの出入り口には当然防犯カメラが設置されていたが、ここにも被害者が出入りした記録はあるものの、不審な影はなかったらしい。それだからこの事件、サスペンスドラマよろしく密室殺人となった。正に「事実は小説より奇なり」である。

 その後も福井県九頭竜湖の湖畔で愛知県一宮市の女性(27歳)の遺体が冷凍庫に入れられた状態で見つかった事件があった。被害者の車のナンバープレートは外され、車体番号まで消されていた。被害者の携帯電話でメール発信し、不明後の生存を偽装するなど、まさにこちらもテレビのサスペンスよろしく知能犯的臭いさえする。いずれもこれら凶悪犯は捕まっていない。

 さらに岐阜県では、やはり女性(幼稚園教諭)が殺されて遺棄され、ATMから預金を引き出された事件が起こった*2)。また、昨年8月には北海道の町立図書館の臨時職員の女性が行方不明になっていたが、この6月4日に同僚男性が殺害・遺棄を認め、その証言から人骨が見つかっている。

 思えば、2009年11月に起こった島根県の女子大生の猟奇的な殺人事件の犯人も闇の中だ。凶悪犯が捕まらないまま、一般の人々の記憶から遠ざかり、同様の事件への警戒感が薄まることを懸念する。世の中は、すべて性善説で乗り切れるほど甘くはない。付き合う相手には十分な注意が必要である。行きずりの犯行もあるけれど、身内、交際相手、知人などからの犯罪被害は多い。加えて「君子危うきに近寄らず」であり、車はこちらが避けるくらいの気持ちで道を行き、自身の賄いも安全も己が手で確保する自立の心根が必要である。




*2)容疑者は6月1日逮捕された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この頃気になることなど第2回

2012年06月04日 | Weblog
規制緩和

 今年のゴールデンウイークでは高速道路でも大変な事故が起きた。運転手の居眠りにより、楽しい筈の東京ディズニーランドへの旅が悪夢に変わった。その後バス会社などに多くの法令違反が見つかって、社長までも逮捕されるに至ったが、こちらの事故では、規制緩和による参入障壁の低下で競争が激化し、低料金が安全意識の低下につながったとする批判が聞かれた。規制緩和するなら行政はせめて安全指導を徹底すべきというもっともな意見も聞かれた。

 昔、少年犯罪が起こる度に、社会が悪いからこのような少年を生む。社会が悪いのだ。と犯罪者である少年を弁護するような発言が、テレビでその手の特に女性評論家から聞いたが、その類のような気がしてならない。規制緩和が悪いと言うことは、個人や企業の責任を社会全体の責任にすり替えることで、そのことを反対側から見れば、社会全体のためには個人を犠牲にせよということと同義で、本来マスコミが国家権力として忌み嫌う全体主義的発想なのだけれど、どうもどこかで自己矛盾を起した発言をして素知らぬ顔である。

 また、5月16日に起きた広島県福山市でのホテル火災では、やはり7名の方が亡くなったが、こちらは地元消防署の安全指導が成されていた。ホテル側がそれに十分従っていなかった。行政指導をやっている業界でも悲惨な事故は起きるのだ。前線の企業経営者、担当者の自覚がなければ事故は防げない。

 もっとも今回規制緩和についてはそれほど大きな声にはならなかった。何といっても電力会社の地域独占ぶりが、経済産業省との癒着につながり、庶民が高い電気料金を支払わされていると糾弾されている真っ最中だったからだ。

 郵政民営化は米国の保険業界の策略に乗ることになるからダメだ。過疎地の人々へのサービスが低下するから駄目だと大反対で規制を続ける方向の意見を吐きながら、電力は自由化しろ、TPPは平成の開国だとこちらは規制緩和論をぶち上げる。原発問題や消費税増税などもそうだ*1)けれど、国のトップまでがその時のムードだけで、ご都合主義の理念なき主張を述べ、自己矛盾を起していることさえ気付いていないのだから、世の中皆がそうなっても仕方がない。政治とマスコミの限りなき劣化が、この国を不幸に導いている。

 勿論われわれが国家を持ち、最大多数の最大幸福のみならず、一部の恵まれない同胞にさえ配慮する施策を行うためには、当然に法律と言う縛りや諸々の規制によって、人々の安寧を確保し経済の暴走を許さない仕組みが必要である。一方で、一部の既得権者を保護するような規制は排除してゆかねばならない。

 護送船団方式などという言葉があったけれど、産業を育成する段階で、国家が主導で戦後の乏しい資金を集中するための規制はあった。経済大国になったわが国は、それらを徐々に解いて、国民になるべく均等な機会を与え、正しい競争を行うことで、技術の進歩や生産の効率化を図り、グローバルな競争に打ち勝ってゆく力を、それぞれの産業自らかがつけなくてはならない。

 二言目には、「小泉、竹中の改革によって格差が広がり」、と根拠なく対案もなく、テレビでは言い難い大企業批判を避けて、勤労意欲の乏しい人々に阿(おもね)る発言を繰り返す評論家とマスコミとその手の政治屋がこの国を危うくしている。





*1)先の総理が、原発の危険性を盛んに煽って脱原発を唱えたあげく、総理が変わっただけで再稼働だといえば、国民は不安に駆られるのは当たり前。また「国民の生活が第一」と吹いて政権を取った政党が、事前に国民の信も問わず、一人当たり年間10万円もの消費税増税を決定して、政治生命を賭けると意気込んでいる姿は、滑稽でさえある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この頃気になることなど第1回

2012年06月01日 | Weblog
重大交通事故の多発

 ここにいちいち挙げるまでもなく、あまりに悲しい交通事故というより、自動車犯罪が多発した。ある病を持った青年が、タクシーに接触事故を起こした後暴走して、交差点等で多くの死傷者を出した。本人は電柱に激突して亡くなった。同じ病を持つ青年が、特殊車両を児童の列に突っ込ませた事故の記憶がまだ冷めやらない間の出来事だった。

 自動車運転免許は、視力は更新ごとに検査され、ことさら厳しいが、その人の性情や持病については、個人情報保護なのか、定性的なデータは採用し難いのか資格欠損要件に成り難い。

 テレビの報道番組などで、この事故原因について語られる中、「運転中の発作により、アクセルを踏み込んだ右足のコントロールが効かなくなったための暴走ではないか」。との推測が最も当たっているように思った。

 だとすれば、このような持病の持ち主には残念ながら運転免許証は交付してはならないかもしれない。本人は不自由でも事故によって失われる他人の命には代えられない。

 一方、18歳の青年が無免許でありながら友達の車を借りて、仲間と一晩中車を乗り回し、挙句いねむりで、朝の通学中の小学生の列に突っ込んだ事件。こちらは業務上過失致死か、危険運転致死かの判断が問われたが、京都地検の判断は、過失致死に留まった。

 この判断には遺族初め、多くの人達が疑問を持った。同じ無免許でも運転技量が無い状態であれば、危険運転と判断される。いくら一晩中車を乗り回す技量があったとしても、一度も免許証を取得していない者が運転することは、やっぱり危険なのには変わりない。

 一度も運転免許を取得していない者、すなわち道路交通法規の試験をクリアしていない者が一般道を運転することを危険運転と言わないなら、司法自らが法令は無視ということになり、免許証試験で法令等の試験を課す意味がなくなる。

 もっとも、このたびの無免許運転の青年が、刑法的には過失致死罪で最高7年の懲役で済んだとしても、遺族からの民事訴訟があれば、膨大な損害賠償や慰謝料請求が待っていることになる。他人から借りた車で、しかも無免許となれば、任意の自動車保険は勿論、強制保険も執行されるかは怪しい。

 人の命はお金には代えられないにしても、犯罪遺族にしてみれば、せめて民事訴訟ででも責任は取って貰う必要があると考えて不思議ではない。「犯罪はペイしない」とはよく言われる言葉だけれど、ここら辺りのことも中学生くらいになれば、学校でしっかり学ばせておいた方が、このような犯罪を再発させないために必要な気がする。

 また、通学路さえ人と車が分離されていない道路事情が犯罪を大きくした。本当に子供たちを守りたいなら、児童手当とか子供手当のように家庭にお金をばらまくのではなく、個人では如何ともし難いこのような通学路の整備とか学舎の耐震化などの施策にお金を使うのが行政の仕事である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする