中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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四季のある国 第10回

2024年07月29日 | ブログ
二十四節気

 『中国の戦国時代の頃(紀元前5世紀~紀元前221年)に発明されたとある。二十四節気(にじゅうしせっき)は、今でも立春、春分、夏至など、季節を表す言葉として用いられています。1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けたもので、「節(せつ)または節気(せっき)」と「気(中(ちゅう)または中気(ちゅうき)とも呼ばれる)」が交互にあります。』<ウキペディア>

 春は、如月(2月)、弥生(3月)、卯(4月)に分けられる。さらに「如月」は「立春」と「雨水」に、「弥生」は「啓蟄(けいちつ)」と「春分」に、「卯月」は「清明」と「穀雨」に分けられる。

 「立春」は2月4日頃、春の気配が立ち始める日。暖かい地方では梅が咲きはじめる。そして「雨水」は2月19日頃。空から降る雪が雨に変わり、農耕の準備が始まる。「啓蟄」は3月6日頃、冬ごもりをしていた虫たちが出てくるという意味で、現代にもよく使われている言葉だ。「春分」は3月21日頃、良く知られる通り、昼夜の長さがほぼ同じ日で、以降は昼の時間が長くなる。この日を中日に前後7日間が春彼岸である。「清明」は4月5日頃。「清浄明潔」の略の通り、空は晴れ渡り、花の咲く美しい季節を迎える。「穀雨」は4月20日頃。穀雨とは穀物の成長を助ける雨のこと。田畑の準備が整い、合わせるように雨が降る。

 夏は、皐月(五月)、水無月(6月)、文月(7月)で、「皐月」は「立夏」と「小満」、「水無月」は「芒種」稲など芒種(トゲのようなもののある穀物の種)まきをする時期と「夏至」(1年で一番昼が長い)に、「文月」は「小暑」と「大暑」に分けられる。

 秋は、葉月(8月)、長月(9月)、神無月(10月)に、冬は霜月(11月)、師走(12月)、睦月(1月)に分けられる。それぞれ「葉月」は「立秋」と「処暑」。「長月」は「白露」と「秋分」。「神無月」は「寒露」と「霜降」。「霜月」は「立冬」と「小雪」。「師走」は「大雪」と「冬至」。「睦月」は「小寒」と「大寒」に分かれる。

 これらに加え、季節の移り変わりが明瞭なわが国には、四季折々の美しい習慣がある。子供の頃にはよく訳も知らず、母が作ってくれた柏餅を食べ、おはぎをほう張り、月見団子をいただいた。両親が若くて元気な頃は、この国に昔ながらの風習が色濃く残り、近所づきあいも今よりは大切にされていたように思う。

 室礼(しつらい)には春・秋のお彼岸や七夕、十五夜、冬至などがあり、冬至にはゆず湯で体を温め無病息災を祈った。正月三が日前の年末には、家族が多かったこともあり、自宅で大量に餅を撞いた。

 春・秋のお彼岸は仏教の祭事だが、父に連れられ祖父の墓に詣でた。当時は平らな石ころを積んだだけの粗末なものだった。その後、本家(父の兄)で石碑を建立していた。50代で亡くなったという父方の祖父は戦前か戦中には亡くなっている。30代で逝ったと聞く父方の祖母の墓は知らない。

 あれだけ日の丸は、米国はじめ連合軍にこっぴどく潰されながら、昭和30年代頃までの祝日には、多くの家庭で玄関に国旗を掲げた。父に倣い未だわが家では国旗を掲げるが、この新興団地では隣近所で国旗を掲げるのを見ない。





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四季のある国 第9回

2024年07月25日 | ブログ
猛暑日

 気温が35℃以上になった日を「猛暑日」という。この月の22日(月)全国の288地点で猛暑日を記録したというニュースがあった。そこでその母数を知りたくてネット検索を掛けた。全国にどれだけの気象気温の観測地点があるのか、一般にはあまり知られていないように思う。

 実は「アメダス」という言葉は聞いていた。地域気象観測システムのことらしい。防災の為に気象情報を収集して発信するシステムを有する気象観測所との理解でいいのかどうか。全国にその拠点は1300か所に上り、そのうち840か所(21km間隔で設定)は、降水量に加えて、風向・風速、気温、湿度を観測しているほか、雪の多い地方の約330か所では積雪の深さも観測しているという。

 猛暑日を観測した地点の母数は、どうもこの840地点ではないか。なお、地上気象観測地点は、気象台・測候所・観測所と呼ばれるもので、南極昭和基地や富士山を含め159か所に及ぶ。<国土交通省・気象庁ホームページより>

 地球温暖化は年々その進行を早めているように感じられるが、今年初めて沖縄の那覇市で猛暑日が記録されたそうだ。平均気温で比べれば、日本で最も高い地方と言えるだろうが、沖縄は本州や九州よりさらに小さな島であり、海洋の冷却効果で、真夏にもこれまで猛暑日がなかったのであろう。近年海水温が上昇、加えて高層ビル建設などが進んだため、市街地では熱を溜め込んだようだ。

 暑いと言ってもいまの所、現代は、冷房施設が普及しているため、日常生活に大きな障害は感じない。勿論、住環境、所得の関係などで、クーラーも十分使えない人も居るわけで、行政の目配りが大切である。それと冷房設備は大量の電気を食らう。私的な話、私の1200ccの乗用車では、春、秋の燃費は14km/lを少し超えるが、この真夏期は13km/lを切ってしまう。ガソリン補助金があるうちはいいが、家庭の電気代の上昇と挟み撃ちされれば負担が大きい。

 そんなことより、停電が頻発するようにでもなれば、熱中症患者は倍増し、産業界でも多くの業種が立ち行かなくなる。「原発反対」「原発0」を主張する元首相も居られるが、原子力発電所の事故確率や、廃棄物処理の不具合などを勘案しても、現状では原子力発電は有効と評価できるのではないか。

 再生可能エネルギーとしての太陽光発電は、その設置場所の環境破壊から非常に評判がよろしくない。この現在のシリコン系太陽電池に替わる太陽電池として、ペロブスカイト太陽電池が注目されている。軽量であり、その原料であるヨウ素は国産で賄えること、材料をフィルムなどに塗布・印刷して作れるなど、非常に大きなメリットがあるそうだ。ただ、まだまだ課題も大きく実用化に至っていない。

 人類はこれまでも大きな難題を解決しながら、文明を発展させてきた。東京都のように「ばらまきは馬鹿でもできる」と首長が言われないように、政治家は大きな視点で国家・国民のための課題と向き合って欲しい。地球温暖化も少子化も待ったなしであり、選挙で「勝てば官軍」の時代ではすでにないことを自覚すべきであろう。




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四季のある国 第8回

2024年07月22日 | ブログ
台風

 1959年とあるから、あの伊勢湾台風は私が12歳の夏だったのだ。当時の台風被害としても飛び抜けたもので、子供心にも衝撃を受けた。当時すでにわが家にもテレビがあったので、被害状況をテレビ画面で見たこともあったかも知れない。

 伊勢湾台風は、台風の接近と伊勢湾の満潮の時刻が重なったため、大規模な高潮被害が発生したといわれている。死者行方不明者5,000名という大災害であった。

 『これを契機に、台風の位置や進路を早く確実に把握することが、社会的要望となり、気象庁は富士山測候所にレーダーを設置することとなった。富士山頂は周辺にレーダーの電波を遮るようなものがないことから選定された。従来から測候所として機能していた富士山測候所にレーダー棟を増設することになったのだ。

 工事は設置場所までの資材搬入経路の確保が格別に困難なこと、設置場所の気象条件が過酷なこと、納入機器が他に例を見ない性能であることから、気象庁は取引先選定で競争入札は機能しないと判断し、公共工事としては異例の随意契約により、三菱電機と大成建設に発注した。設置費用は2億4千万円、着工は1964年5月であった。』byウキペディア

 富士山レーダーは、気象衛星の発達もあってか、1999年に運用を停止したが、そのレーダードームは、富士吉田市立「富士山レーダードーム館」として移築され科学館としてその役割を続けているという。

 テレビの連ドラの今年の4月-6月期、フジテレビ系で「ブルーモーメント」という 小沢かな氏の同名コミックのドラマ化があった。主役「晴原」には山下智久さん。

 奇をてらうだけのテレビドラマが多い中で、現代日本の課題のひとつを見事に切り取った科学ドラマである。「天気予報は国民の命を守るためにあった」ことを知った。主役の「晴原」は数学の天才的な人物であった。恋人(演者:本田翼さん)から、その数学の才能を気象学に活かせば多くの災害死を救えると諭され、SDM「特別災害対策本部」のメンバーとして活動するようになる。ここらあたりの経緯は、原作やドラマと微妙に異なるかもしれない。原作コミックは読んでないし、ドラマも途中から観たためである。

 列島への台風の上陸は毎年のことで、風雨による甚大な災害も繰り返されている。このドラマでは、台風だけでなく、地震、雷、竜巻、濃霧、雪崩、巨大雹(ひょう)など、人命を脅かす自然災害を素材とする。現代の気象学で、どこまでの予測が可能かは知らぬが、台風に関しては、その進路や規模など精度はあがっている。ただ、派生して発生する降水量などに伴う洪水やがけ崩れ、土石流などピンポイントで予測は難しい。

 またドラマにあるSDMのような国家組織が、警察・消防に加えて必要なのか、設立が可能なのか。ただ、数学を単なる学問ではなく、気象学に活かすという実学的応用への取り組み志向が、素晴らしいと感じ共感したドラマである。




 
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四季のある国 第7回

2024年07月19日 | ブログ
暑い夏

 暑い夏は、勿論日本だけの話ではない。インドなど気温が5月で50℃を超えた所があり、各地で45℃を超える日が続いているという。その1か月で少なくとも46人が熱中症で亡くなった。インドでは4月から総選挙で、そのための業務に従事した人が、多く熱中症で死亡したとも伝えられる。

 砂漠での熱波なら、そのような場所に行かねばいいと思うが、日常の生活空間で気温が45℃を超えるとなると地獄であろう。

 日本の最近の夏は、インドと比較すれば10℃は低い。それだけ赤道から遠い本来は温帯地方だし、四方を海に囲まれた島国と言うのも恵まれている。それでも連日35℃の猛暑日を超える地点が数多く出るようになっている。

 昔から東北地方のような比較的緯度の高い地方では、フェーン現象で日本での記録的な高気温を記録することはあった。現代は東京及び関東地方の内陸部で、連日猛暑日がある。熱帯夜の日数は1970年代から倍増(14日→27日)しているという。これは東京の高層ビル乱立の影響だという説がある。

 『東京都心部の年平均気温は過去 100 年間に 3℃ も上昇しており,地球平均気温の 5 倍の上昇率である。都市高温化の要因としては、第一に人工排熱(ルームクーラー)の増 加による都市大気の直接加熱、第二に都市構造の変化、すなわち地表面の人工化や高層建造物の増加、緑 地・水面の減少が挙げられる。』

 気象学者の三上岳彦さんは、「東京近郊の都市環境を長年調査してきました。調査で分かったのは、都内の高層ビルが風の流れを防いでしまい、急速な気温上昇をもたらせていること。・・・」<都市ヒートアイランド研究の最新情報(東京都事例)>

 東京の不動産投資の経済効果は、政治家への裏金の流れとなっているのだろうか、高層ビル開発は進む一方となっている。

 わが国では少子化対策と、この酷暑対策は政治家の取り組まねばならない優先課題だと思うが、酷暑は自然現象扱いで政治課題ではないと考えている節があるのだ。

 それにしても日本の夏は熱い。それは気温だけの所為ではなかろうと思う。思えば8月6日は広島、9日は長崎の原爆忌であり、8月15日は終戦記念日と続く夏でもあるのだ。

 戦後、原爆も敗戦もすべて戦前の軍属の責任とされ、それは一理ある話ではあり、連合軍による戦犯の処刑などが行われた。日本人の戦災死亡者310万人の責任は誰かが負わねばならない。圧倒的な工業力と軍事力を誇る米国に叩き潰されたのだ。

 実は終戦の詔書は、1945(昭和20)年8月14日発布され、戦争終結が公式に表明された。 同日、天皇は詔書を録音、翌15日正午、その内容はラジオ放送を通じて広く国民に報じられた。国民に伝えられた日を記念日としたらしい。なお、俳句の世界で「原爆忌」の季語は「初秋」とある





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四季のある国 第6回

2024年07月16日 | ブログ
花火大会

 花火大会は、夏の風物詩の筆頭に数えられるが、子供の頃、夏にも打ち上げ花火を見た記憶がない。具体的には知らないが、花火大会を行うには、それなりの費用が掛かる。しかし、大抵見る側はお金を払うわけではない。有名な花火大会ともなれば、特別観覧席を設けてそこでは席料を取ることはできるが、全体の収支で採算が取れるほどでは無かろうと思う。

 地元商店街などがスポンサーとなって開催する場合がほとんどたったと思うが、有名な花火大会では、スポンサー企業も多くなっているようだし、ネット等で協賛者募集も出ているので、個人でも協賛者となることができるようだ。要は、昔の田舎ではお金の制約から、打ち上げ花火に至らなかったのであろう。技術の蓄積を要する花火師も居なかったのかも知れない。

 18歳で故郷を出て、山口県と広島県の県境の町(当時は村)に住むようになったが、県境には中級の河川、小瀬川(広島側の呼称は木野川)があり、そこでは夏には花火大会があった。川向うの広島県大竹市は、JR(当時は国鉄)の大竹駅に続く商店街があったため、経済的にも打ち上げ花火が可能だったのだろう。会場は、会社の独身寮から近くで歩いて行ける。直下で見られる打ち上げ花火は壮観であった。立派な花火大会であった。この地で17年間を過ごしたが、ほとんど毎年見物させて貰ったように記憶する。

 西隣の岩国市では錦帯橋の花火大会が有名だった。こちらは川下の米軍基地に至る、清流錦川がある。自転車で行ける距離でもあり、桜の名所でもある錦帯橋には、その季節にはよく出かけたが、花火を見るために出かけたことはない。

 こちら千葉県に来てからも、隅田川の花火大会などもっぱらテレビ中継で見るくらいで、わざわざ人混みに出掛ける気はしない。元々出不精である。申し訳程度に、山下清画伯の「長岡の花火」の一枚がわが家の食堂に飾られている。

 参考までに、全国や東京にどの程度の花火師が居られるのか調べてみた。<厚生労働省jobtag> 全国で22万人程度で、千葉や埼玉、神奈川はそれぞれ1万4千人近く居られるが、意外と東京は7千人足らずと少ない。大阪などにも1万5千人程度居られることで、東京に花火師が少ない理由はよく分からない。ただ、花火師を抱えるのは代々世襲制の中小企業が多いこととは関係しているかもしれない。それと当然火薬を多量に扱うため、製造工場などは、市街地から離れた山間部に設置されることが多いことは大きな理由なのかも知れない。

 危険な仕事であり、機械化できない工程も多く華麗な花火を作る職人技は貴重であるが、師の平均年収は41歳で500万円+α程度とずば抜けた好待遇ではないようだ。





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四季のある国 第5回

2024年07月13日 | ブログ
夏合宿

 私にとっての夏の思い出と言えば、小学生時代は近くの海での海水浴だが、高校生では柔道部の夏合宿である。1年生の時の主将(3年生)の実家のある、瀬戸内の島、当時の愛媛県温泉郡中島町で始まった。ここには松山市内の県立普通高校の分校があり、柔道場もあった。東京オリンピックを間近に控え、初めて正式種目に取り上げられた「柔道」は人気絶頂期であったから、島の分校にも柔道場ができたのかも知れない。

 この島は、平成の大合併で、今は松山市となっている。怱那諸島最大の島である。主将の実家は何を生業としていたか知らぬまま、毎日3食をお世話になった。朝昼晩と3食6膳ずつ食べたもので、各自持参した米が尽き、皆で港で荷揚げのアルバイトをしたのも思い出である。

 この年は、集落の公民館的なところで畳の上で寝た。2年生の時は、島の分校でお世話になる。教室の板の間にゴザを敷いて寝た。食事は分校の家庭科調理室を使わせて貰い自炊した。3年生の時は、自炊の部分を分校の女子生徒が肩代わりしてくれた。練習は毎年朝のランニングに始まり、昼前の道場での通常練習。夕方も同様の柔道練習と、結構みっちりと練習した。1週間だったか10日間だったかは記憶が定かでない。

 3年生の時の最終日には、食事を作ってくれた女子生徒の何人かが、港まで見送りに来てくれたけれど、合宿中も会話さえ交わしてなかったほどだから、ただそれだけのすれ違いに終わった。工業高校では、学年400数十人中女子生徒10数人、1割にも満たなかったから女子高生に対する免疫が全くなかったのだ。

 工場勤務になっても柔道部に入り、夏はやはり合宿を行った。せいぜい2泊3日程度の、海水浴場に付随するキャンプ場が宿泊所だった。入社後数年は宮島、今や世界遺産の宮島である。その裏手に包ケ浦海水浴場がある。キャンプ場設備もあって合宿と言うより単なるキャンプだった。その後場所を岩国市の柱島に替えて、砂浜での打ち込みシーンがアルバムに残されている。

 『風光明媚な瀬戸内海の波間に浮かぶ柱島群島の12の島々。このうち「柱島」「瑞島」「黒島」の3島が有人の島です。岩国市(山口県)新港町にある岩国港から高速艇で約1時間。3島あわせても人口250人あまりの小さな島々ですが、豊かで美しい自然、新鮮な魚介類や野菜、そして人情味あふれる島の人々がこの島の魅力です。

 島の南端に「戦艦陸奥英霊之墓」があります。日本海軍に所属した戦艦「陸奥」は、昭和18年(1943年)6月8日午後12時10分ごろ、柱島南西沖約2キロメートルの地点に停泊していたところ原因不明の爆発が起こり沈没。乗組員1,122名が犠牲となりました。柱島には多くの遺体が流れ着き、陸奥沈没の事実が敵方に知られないよう秘密裡に荼毘に付されました。』

 私共が合宿した当時はある筈もないインターネットに、この頃はこのような島の紹介が載せられている。




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四季のある国 第4回

2024年07月10日 | ブログ
七夕(たなばた)

 『琴座のベガと呼ばれる織女(しゅくじょ)星は裁縫の仕事、鷲(わし)座のアルタイルと呼ばれる牽牛(けんぎゅう)星は農業の仕事をつかさどる星と考えられていました。 この二つの星は旧暦7月7日に天の川をはさんで最も光り輝いているように見えることから、中国でこの日を一年一度のめぐりあいの日と考え、七夕ストーリーが生まれました。<織姫と彦星の伝説>

 「棚機(たなばた)」とは古い日本の禊ぎ行事で、乙女が着物を織って棚にそなえ、神さまを迎えて秋の豊作を祈り人々のけがれをはらうというものでした。 選ばれた乙女は「棚機女(たなばたつめ)」と呼ばれ、川などの清い水辺にある機屋(はたや)にこもって神さまのために心をこめて着物を織ります。そのときに使われたのが「棚機」(たなばた)という織り機です。 やがて仏教が伝わると、この行事はお盆を迎える準備として7月7日の夜に行われるようになりました。現在七夕という二文字で「たなばた」と当て字で読んでいるのも、ここから来ていると言われています。<棚機(たなばた)とは?>

 「乞巧奠(きこうでん)」は、中国の行事で7月7日に織女星にあやかってはた織りや裁縫が上達するようにとお祈りをする風習から生まれました。 庭先の祭壇に針などをそなえて、星に祈りを捧げます。やがてはた織りだけでなく芸事や書道などの上達も願うようになりました。<乞巧奠(きこうでん)とは?>』岩井製菓HP byグーグル

 七夕祭りは、仙台が有名。東北4大祭りのひとつであり、全国的に行われている民間の祭りだが、仙台では伊達政宗公が女性に「日頃の労働の苦労を労い、楽しみを与える」という意味から盛大に行うようになったと言われている。

 私の故郷愛媛県の中予地方でも、ずっと旧暦の7月7日にあたる8月7日が七夕であった。笹に願い事などを書いた栞を飾るだけの質素な行事だが、家族で毎年やっていたので、懐かしい夏の行事の一つである。

 遠い仙台で始まったイベントが、四国の田舎にまで普及しているのは、江戸期にも大名は参勤交代で、庶民はお伊勢参りでと遠路間の交流があった。四国では四国八十八か所巡りなども未だに盛んだ。四国愛媛の里で七夕が盛んだったのは、愛媛県南予の宇和島藩が、江戸期仙台伊達藩の分家であったことにもよるのではないか。幕末の宇和島藩伊達宗城公は、小藩にあって気宇壮大な方であったようだ。「ペリーの蒸気船に日本中が尻もちをついたのは、わずか三年前だ。三年後のいま宇和島湾で蒸気船が動いている」とは、司馬先生の「花神」にある。長州藩の村田蔵六の大村益次郎を主役に、シーボルトが長崎丸山の遊女にうませた娘「イネ」が色を添える。『蔵六はシーボルトとはなんのゆかりもないが、かれの運命が、彼女の個人教師をさせた時期がある。』新調文庫「花神」より

 司馬先生の文春文庫の発行部数は一位「竜馬が行く」、二位「坂の上の雲」、三位「翔ぶが如く」であるらしい。文藝春秋8月特大号の塩野七生氏の「『翔ぶが如く』を読む」にある。私もその三作の素晴らしさに異論はないが、私の司馬作品一推しは、「菜の花の沖」そして「花神」。千葉への転勤は昭和58年(1983年)で、「花神」はその前年に新潮文庫を買って読んだ。当時はまだ長州(山口県)に住んでいたのだ。





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四季のある国 第3回

2024年07月07日 | ブログ
夏の風物詩

 花火・花火大会、すいか割り、海・海水浴、浴衣、風鈴、蚊取り線香などなど。夏と言えば思い出す「夏の風物詩」はいっぱいあるが、今年第106回大会を迎える高校野球の甲子園大会もそのひとつに数えられるのではないか。

 夏の甲子園大会は、1915年(大正4年)当時は中学生の大会として始まったとある。太平洋戦争後、学制変更で旧制の中学は高校となった。戦前昭和15年の中学への進学率は7%とあり、当時の中学生は超エリートだったのだ。戦後の新制高校への進学率は昭和25年で40%に達したとあるから、戦後のわが国の産業構造の変化、経済的な格差是正が進んだことによるものと思われる。

 連日のNHKニュースの最期を飾る、大リーグ大谷選手の活躍もあり、未だ日本人は野球好きである。高校野球が100年の歴史を超えて色褪せないのも、酷暑の炎天下、ひたすらに白球を追う甲子園球児の姿に嘘がないからであろう。

 どこかの都知事選挙の惨状は、現職が嘘で固めた経歴で、都民の税金を餌に支持を求める姿に象徴される。その人物を与党(自民、公明)そして総理・総裁候補に名のあがる人物までもが支持しており、メディアもそれを容認している構図は、民主政治の終焉近かしの感さえするものだ。

 私の母方の祖父は、愛媛県松山市の甲子園の名門松山商業高校の近くに住んでいた。松山は勿論「野球」の名付け親、正岡子規の出身地のこともあり特に熱心なファンも多かったのではないか。夏休みに祖父の家に行くと、いつもラジオからは甲子園実況が流れていた。当時祖父は自宅で木製家庭用品を作る職人をやっていたようで、部屋の奥にあぐらで陣取って、桶などを器用に作っていた。その資質は孫にあたるわが家の長兄に引き継がれ、自分で作った竹ひごから、見事な鳥かごを作っていたものだ。

 7月4日の読売新聞に、松山商業高校のことが載っていた。『大正時代に始まった高校(当時は中学)野球大会で、大正、昭和、平成と各時代を制している(優勝している)のは、松山商業1校だけであり、4元号Vを狙える唯一の高校というのである。春夏の甲子園大会で優勝は7度。しかし、今の選手たちが生まれてからの期間に、甲子園出場はない。

 春夏の甲子園で優勝回数が一番多いのは中京大中京(愛知)の11度(春4、夏7)、続くのは大阪桐蔭の9度(春4、夏5)。春夏連覇も2度。優勝を全く経験しない都道府県は、青森、岩手、秋田、山形、福島、新潟、富山、石川、滋賀、鳥取、島根、宮崎の12県』とある。

 私の母校は、当時野球も柔道も県大会1回戦ボーイだったが、野球だけは別格で、その県大会(甲子園予選)には、松山城堀之内の県営球場まで、生徒全員応援に駆り出されていた。内野席でもむき出しのコンクリートベンチだから熱い。日差しも半端ない。1回戦で負けていたからまだ良かったのかも知れない。




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四季のある国 第2回

2024年07月04日 | ブログ
梅雨

 『日本の稲作は紀元前3世紀に始まります。 中国・揚子江の流域で発達した技術が、農具とともに伝えられたのです。 最初、農具は木でつくられたものでしたが、鍬(くわ)をはじめとして、たくさんの種類がすでにそろっていました。 当時の水田はすべてが低湿地の沼田だったので、木製でも十分に役に立ったのです。

 5、6世紀の頃になると、中国の華北地方から朝鮮半島を通って、新しい稲作技術が伝えられました。これは、夏の間に水田をいったん乾かすという方法です。この方法では、鉄でできた農具が必要で、鉄製農具(すなわち土を切る部分に金属をかぶせた農具)も同時に伝えられました。そして、この新しい技術を取り入れ、勢力をつけていった部族が、古代国家を統一するようになっていったのでした。』亀田製菓株式会社「お米の国の物語」byグーグル

 日本列島でも九州から東北地方に懸けて、毎年6月半ばから7月半ばくらいの1か月は、うっとうしい梅雨の季節である。しかし、これは日本人の主食である米の栽培に取って必要不可欠の季節の移ろいであった。

 米作を基礎として、この国には「荘園(しょうえん)」という社会制度が生まれ、古代・中世(8世紀~16世紀)に存続した。その後太閤検地などを経て「荘園制度」は衰退したが、米の取れ高による武家の格付けのようなものは石高で表され、江戸時代を通じて残された。石高制(土地の生産量を基準に年貢を徴収する制度)は1873年に明治政府によって廃止されている。

 中学に入り1年生の時、社会科では「日本歴史」を学んだ。クラス担任でもあった先生は、この「荘園」について学ぶことで、日本歴史が紐解けるというような話をされていたことを懐かしく思い出す。

 この頃の梅雨は、うっとうしいだけでなく、各地に豪雨による浸水、崖崩れなど人命を脅かす大災害まで引き起こすようになった。昔から河川の増水・氾濫による被害は多かったが、近年の温暖化で一層過激化しているのだ。

 梅雨が明けると、本格的な夏の到来である。子供の頃は金銭的には貧しかったけれど、夏休み、夏祭り、海水浴、セミ取り、家族で伝馬船を借りて魚釣り、そして夜は近くの小川で蛍狩りができた。梅雨は、そんな楽しみのお預けの時間でもあった。




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四季のある国 第1回

2024年07月01日 | ブログ
酷暑の夏が来る

 コロナが明けて訪日客が大挙して押し寄せている。世界の国々のことは直接にはほとんど見ていないので、個人的な比較は出来ないのだけれど、この国が世界でも有数の、四季の移ろいを感じられる美しい国であることは間違いないであろう。

 加えて街がきれい。ゴミなどが舗道に散らかっていない。公共交通機関の利用に際しても、大声で話すことはなく、静かである。古都である京都や奈良に限らず各地に古い由緒ある建造物が保存され、その類まれなる美しく気品のある庭園と共にある。新幹線が素晴らしい。食べ物がおいしい。ネットのYouTubeなどからの受け売りではある。加えて物が安い。1ドル160円なのだ。

 それらは、その四季の移ろいのデリケートな趣が、人々の感性を育んできた長久の時の流れによるものであろう。ただ、昨今の政治に関わる人々の低級さはいただけない。都知事選挙は今月、そして自由民主党の総裁選挙は9月という。いすれも碌な候補者が居ないことが哀れだ。伴ってマスメディアも凋落している。このような状態が続けば、遠からずこの国は沈没しかねない。都知事選では少しまともかなという有力候補が現れると、これを打ち消しに掛かる著名人が居る。肝心の消えて欲しい方には、バラマキ効果で無知な方々からの支持がある。都民のお金で選挙を戦わないで貰いたいものだ。加えて本人からの期日前投票を促している広告を見たが、本性がばれない内の逃げ切りを目指しているように見える。

 そして酷暑の夏がやって来る。しかし、夏はいい。この年も千葉県では今月1日から順次18市町村55か所の海水浴場が開場するらしい。子供の頃は、もっとも千葉の海ではなく、海水浴場とも呼べない、瀬戸内の遠浅の穏やかな白砂の海岸だったが、夏休みには毎日泳ぎに行ったものだ。砂洲が現れる潮時には、ここでバカ貝や一部シャゴ貝が獲れた。60年から70年前の話だから、今のような気温が35℃を超えるなどということは無かった。30℃を超えるかどうかだったと記憶する。

 思えば世界の当時の人口は現在の半分くらい。しかもお隣の大陸の国のGDPが、今や世界で2番目となっており、そのエネルギーの放出量は半端ではない。黄砂ややPM2.5にコロナ菌迄まき散らす大陸でもある。

 四季、すなわち「春」、「夏」、「秋」、「冬」の国民の人気ランキングなるものは見たことはない。恐らく「春」と「秋」に人気が集まると思われるが、列島の東北、北海道を除けば四季は、3か月ずつの等分期間であったものが最近は、「春」と「秋」が各2か月程度となり、「夏」が5月から9月までの5か月になった感がある。過ごしやすいい季節が少なくなっているように思う。

 夏のいいところは、冷やしそうめんがおいしい。スイカやメロン、サクランボに梨に桃にぶどうなど果物がおいしい。もっとも昔は秋でないと出回らなかった果物が早くから店頭に並ぶ。

 実家の狭い庭には、ブドウ棚が2か所、桃の木が3本、いちじく、琵琶、柘榴など多くの果物の木があり、桃やブドウはひとつ、ひと房ごとに袋掛けが欠かせないが、ほとんど母がやっていた。お陰で、ブドウや桃は子供の頃、ふんだんに食べることができた。兄弟6人、65歳から83歳、揃って元気なのも、夏の十分な果物摂取も一因かも知れないと、今頃になって思う。






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