中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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経済学のすすめ18

2011年07月28日 | Weblog
IS曲線

 マクロ経済学が分析対象とする重要な市場には、集計量としての一国全体の生産物市場である「財市場」、そして「労働市場」および「貨幣市場」がある。財市場の分析には、一国の国民所得(総生産、GDP)の水準と、それが政府の政策から受ける影響などを分析するが、この分析にはケインズ経済学が用いられる。

 先に(経済学のすすめ15「ミクロとマクロ」)投資と利子率の関係に触れた。利子率が高い場合投資は少なく、利子率が下がれば投資は増加する。なぜか。投資を1単位増加させるときに見込まれる収益率は投資の限界効率と呼ばれるが、通常企業は収益率の高い案件から投資を行うから、投資を増加するほど企業にとって有利な投資案件は少なくなり、投資の限界効率は低下する。企業は追加的な投資費用を収益が上回るまで投資を行うと考えられ、投資費用とはその資金を借り入れた場合はその利子となるから、利子率が低ければ低いほど投資の機会は増えるわけだ。

 IS曲線のIは投資であり、Sは貯蓄で、IS曲線は両者の均衡(投資I=貯蓄S)を意味する。先に「乗数効果」として、例えば佐久間ダムに100億円投資した場合、その時の国民の限界消費性向を0.9とすると、投資の10倍である1000億円の国民所得が増加することを示した。国民は増加した所得からも1割の貯蓄を行うため、貯蓄額は投資額と同じ100億円増加することになる。例えば銀行が貯蓄を煽って国民が所得の2割を貯蓄するようになったとしても、その時には投資における乗数効果が半減するため増加所得も半分となり、結果として国民の貯蓄総額は変わらないことになる*63)。このような投資(I)と貯蓄(S)は等しくなる財市場の均衡をIS曲線は示すのである。

 またIS曲線は財市場の均衡を示す利子率と国民所得の組み合わせを表す右下がりの曲線である。そこで、IS曲線の導出過程を考察する。

 国民所得は、総供給と総需要の交点(均衡点)で決まるが、総供給は総生産に等しく、すなわち国民所得(GDP)に等しいから、縦軸に総供給と総需要、横軸に国民所得の図において、総供給(Ys)は原点から45度の傾きを持った直線所謂「45度線」となる。一方総需要(YD)は、ある利子率で均衡する投資の額を総需要に含めるとYD=c・Y+A+I(cは限界消費性向で、Yが国民所得、Aは所得に依存しない消費、Iが投資で輸出入は考えず、この時点で政府支出はないものとする)で表される。この総需要(YD)線と総供給(Ys)線の交点が均衡国民所得となり、ある利子率で均衡する国民所得となる。この利子率をパラメータ(変動因子)として、各利子率に対応する投資額を先の総需要の式に代入して総供給線との交点の変化(均衡国民所得)をプロットすればIS曲線が得られるのである。

 均衡国民所得でのIS曲線と均衡する利子率において、政府支出(G)などが加わると、⊿G分YDが上方にシフトし、乗数効果である⊿G/(1-c)分45度線との交点が右にずれる。すなわちその分均衡国民所得が増加する。この状態はIS曲線からは超過供給の状態であり、通常の均衡であれば利子率が下がり総需要を喚起しなければならない*64)が、政府の財政政策では、IS曲線は右へ⊿G/(1-c)シフトして均衡する。減税(T)という財政政策であれば、c・⊿T/(1-c)だけ国民所得の増加をもたらし、IS曲線もその分、右にシフトする。

 財政政策の効果は、IS曲線の動きからだけでは結論できないが、次のIS-LM分析に備えて、財政政策によるこのようなIS曲線のシフトを理解しておく必要がある。





*63)このように、個々の人々が貯蓄を2倍にしようとして、貯蓄率を2倍にする。それが社会全体としては2倍にならない。個々の人々の意思を離れて別個のものによって決定されているところに、マクロ理論の面白さがある。これを「結合の誤り」と呼ぶ。
*64)単なる国民所得の増加は等しいだけの総供給を増加させるが、総需要は国民所得のすべてではないため、財市場は超過供給(IS曲線の上方)の状態となる。ここで財市場を均衡させるためには利子率を低下させて総需要を増加させなくてはならない。すなわち利子率は低下しなければならない。

 本稿は、伊東光晴、佐藤金三郎共著「経済学のすすめ」筑波書房1968年刊、西村和雄編「早わかり経済学入門」東洋経済新報社1997年刊およびTAC中小企業診断士講座「経済学・経済政策」テキストなども参考に編集しています。
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経済学のすすめ17

2011年07月25日 | Weblog
乗数効果

 管首相が副総理兼財務大臣当時の2010年1月、参議院の予算委員会で自民党の林芳正議員との質疑の中で、「1兆円の予算で1兆円の効果しかないやり方をやってきた」と自民党政権時代の投資は経済波及効果が低かったと批判した。そこで、林氏が鳩山内閣の目玉である子供手当の乗数効果をただしたところ、子供手当の支給額のうち消費に回る「消費性向」を持ち出して「おおむね0.7程度を想定している」と答えた。そこで林氏が「消費性向と乗数効果の違いを説明してほしい」と追及すると、菅氏はしどろもどろになって審議は中断。脱官僚依存の筈が、官僚の助言を仰いで答弁する羽目に至った。この顛末で有名になった経済学用語「乗数効果」の話をしようと思う。

 それにしても1億3千万近い人口を持ちGDPでも世界有数の規模を持つ経済大国日本の財務大臣が「乗数効果」も知らなかったと、ネットなどでは随分馬鹿にされ、呆れられ、かつ政権のレベルの低さを嘆かれたものだけれど、その半年後、その御仁は財務大臣どころか総理大臣となった。大震災に当たっての対応の不手際、世相のムードに便乗する思いつき発言と相も変らぬ口先だけの無能ぶりを発揮して、国民を最大不幸社会に誘導中であるが、政権党の執行部も手をこまねいて対処できない輪を掛けた体たらくである。結局震災復興*60)も国民のこともほとんど考えていない。衆院多数の「民主党を壊さないこと」が一番の政党のなせる業なのである。

 ところで「乗数効果」、伊東光晴、佐藤金三郎共著「経済学のすすめ」筑波書房1968年刊から「乗数理論」として直接引用させていただく。

 『マクロ理論の成立を促した理論上の契機は何と言っても「乗数理論」の成立です。乗数理論とはいったい何かといいますと、例えば政府が失業者を雇ったとします。そのとき、失業救済の社会全体の効果は、単に政府が初めに雇った失業者、それだけではありません。その失業者は自分の得た収入を消費財の購入にあてるでしょう。そうすると、その消費財はそれだけ売れることによって、経済活動量がいままでよりも増え、この分野の企業では今まで以上の人を雇うことになります。雇用の第二次増加です。このことは、さらにより多くの人々が収入を増し、消費量が増え、そのことがまたより多くの雇用を促進する、というように政府雇用の増大はつぎつぎに社会全体に影響を与えていくわけです。

 こうした場合に、いったい政府が、初め一定量の人を雇ったとするならば、社会全体として、何倍の雇用量が増大するか、これを推計する必要に迫られたわけです。・・・その倍数が雇用乗数と呼ばれ、乗数理論のもととなり、これがケインズの投資乗数論へと進んだわけです。

 たとえば新たに佐久間ダムに100億円の投資*61)をした結果、その分だけ社会全体の投資が増加したとします。この場合、社会全体でどれだけの所得が増加するのでしょうか。直接、間接の効果をすべて合計する。これが通常の乗数理論です。そして乗数理論はいかなる時点においても、次のような式が成り立つということを解明しました。

 所得の増加={1/(1-限界消費性向)}×投資の増加
 
 ここで限界消費性向というのは、所得の増加分のうち、人々は社会全体として平均して何%程度を消費するかという割合であります。もし人々が所得のうち9割を消費し、1割を貯蓄している社会であったとするならば、限界消費性向は0.9になります。そして投資が増えるとその{1/(1-0.9) }倍*62)、つまり10倍の所得が生み出されるということをこの式は示すわけです。』

 因みに子供手当の場合はどうか、菅当時の財務大臣は消費性向を0.7としたが、国民に直接現金をバラまくのは減税効果と同様と考えられるため、投資効果の第一段階が抜け、乗数の部分の分子が0.7となり、乗数は{0.7/(1-0.7) }≒2.3倍程度となると考える。政府が同じ額を設備等に投資する場合より小さい効果しかもたらさない。「コンクリートから人へ」への民主党政権の方が、経済波及効果は小さい投資をやろうとしたのだ。しかも今回子供手当は増税とセットとなったため、乗数はほぼ1(国民所得は増加しない)と考えられる。(均衡予算乗数の定理)







*60)9日間で辞めた復興大臣が岩手県で言い放った「本当は仮設はあなた方の仕事だ(仮設住宅の要望をしようとする達増知事に対して)。」「知恵を出したところは助けるけど、知恵を出さないやつは助けない。そのくらいの気持ちを持って。」とは、大臣のというよりこの政権の本音で、現政権は何からどうやっていいのか分かっていないのだと思う。
*61)マクロ理論で投資とは、新たに資本設備が作られること。個人の株式投資は売り買いで相殺されるため、マクロ的(社会全体として)投資ではない。古い資本設備を購入することも同様である。 
*62){1/(1-限界消費性向)}の部分を乗数という。

本稿は、伊東光晴、佐藤金三郎共著「経済学のすすめ」筑波書房1968年刊の他、TAC中小企業診断士講座「経済学・経済政策」テキストなども参考に編集しています。
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経済学のすすめ16

2011年07月22日 | Weblog
マクロ理論の成立

 『経済学の流れには、大きな屈折点がある。アダム・スミスの「国富論」を経済学の生誕と考えるなら、それ以後「比較生産費説」のリカードまで、古典派経済学が大きな一つの流れになっている。この流れを大きく屈曲させたのが、1870年代のメンガー*54)、ワルラス、マーシャルらの限界革命。そこで近代経済学(新古典派:ケンブリッジ学派)のミクロ理論が発展する。この大きな流れが再び折れ曲がったのが1930年代の半ば、ケインズ*55)の「一般理論」*56)が成立した1936年である。後に“ケインズ革命”と呼ばれるものだ。

 きっかけは1929年に始まる世界大恐慌とそれに基づく資本主義経済の危機に、経済学がどう対処するかという課題と無関係ではない。これまでの需要供給価格決定論(ミクロ理論)を労働市場に適用した場合、労働者の賃金率が高止まりするところに大量失業の原因が求められたが、現実には賃金率は下がり、安い賃金でも働きたいとする人たちが山をなしているにも関わらず、大量失業があった。これまでの不況、失業は一時的で、せいぜい失業率は10パーセント以下であった。ところがこの大恐慌では、1933年にはアメリカで24パーセントまで高めた。明らかに説明がつかない。

 このような状態を前にして語られた有名な言葉は、「いままで我々は自動車の運転さえ知っていれば良かった。ところがいまや自動車のエンジンそのものが故障したのだ。」つまり、ミクロ理論が指し示すように、価格の動きに従って、人々は合理的に適応しさえすれば良かった。ちょうど信号機の動きに従って、赤なら止まり、青なら進む、というように自動車の運転をすれば良かったように・・・。しかし、いまや資本主義という自動車のエンジンが故障したのだ。それはいままでのように運転技術を教えるミクロ理論ではどうにもならないことを意味した。

 かくして、ミクロ理論をこえて、資本主義のエンジンそのものを分解し、構造を解明し、そしてこの故障した資本主義を、ふたたび稼働させる責務が経済学に生じたのである。そこに「現実こそ最大の師」であり、現実に対して謙虚であり、自己の理論に対して絶えず反省する人たちによって、マクロ経済学の大きな流れが形成されていった』。

 従来のミクロ理論(古典派理論)においては、労働市場における需要と供給の関係にあっても通常の財の需給曲線と同様の関係にあると考えた。すなわち、実質賃金が低いほど労働への需要が増加し、実質賃金が高いほど、より多くの労働を供給しようとする。いかなる物価水準が与えられても、名目賃金が伸縮的に変化するため労働市場は均衡する。自発的失業*57)はあっても非自発的失業*58)は存在しないと考えられた。このため、与えられた物価水準に対し、経済全体でどれだけ労働者が雇用され、生産が行われるかを表す総供給曲線(AS曲線)は、完全雇用国民所得で垂直になる。これに対してケイイズは、名目賃金の下方硬直性によって、均衡実質賃金より高い水準の実質賃金が成立し、非自発的失業が存在することを指摘した。そこでは、AS曲線は初め右上がりで完全雇用国民所得のところでようやく垂直になる。

 この図(縦軸に物価P、横軸に国民所得Yをとる)に右下がりである総需要曲線(AD曲線)を加えると、古典派理論の垂直なAS曲線の場合は、均衡国民所得は需要側(AD曲線)には全く依存せず供給側だけで決まる。所謂「供給はそれ自身に等しい需要を生み出す」セイの法則*59)である。

 一方ケインズ理論の場合、AD曲線がAS曲線の右上がりの部分と交わるとき、労働市場は均衡しておらず、非自発的失業が発生しているが、ここで拡張的な財政政策を行いAD曲線を右側にシフトさせれば、国民所得を増加させ、労働市場も均衡に向かう。すなわち総需要管理政策が有効となるのである。こうして政府の財政の力を利用しながら市場を作り出してゆくという、経済政策としての有効需要操作が定着してゆく段階を迎えたのである。
 






*54)カール・メンガー(1840-1921)オーストリアの経済学者。オーストリア学派(限界効用学派)の祖。ミクロ経済学の理論はあくまで合理性の追求にあり、現実が非合理的な社会であればあるほど、近代的合理的な自我を持った人間は、経済的にはこのような行動をするに違いないという前提でミクロ理論の基礎を築こうとしたといわれる。
*55)J・M・ケインズ(1883-1946)。1929年の大恐慌とそれにつづく慢性的不況に、在来の経済理論では対処できない中、従来のミクロ分析に加えて、マクロ分析を導入し、国民的所得分析の手法を一般化して、均衡財政至上主義にかわる伸縮的財政政策(景気の変動に合わせて、政府が政府支出の額や税率を調整し景気の安定を図る=総需要管理政策)を登場させ、雇用・景気のための国家の経済への介入を理論化した。1930年代のなかば以降の新しい経済学の建設者である。
*56)「雇用・利子および貨幣の一般理論」
*57)労働者が現行賃金では働かないことを選択するために生じる失業
*58)現行の賃金で働くことを希望しても就業できない労働者が存在することによる失業
*59)古典派の経済学では、自由放任主義を展開しており、どのような供給規模であっても価格が柔軟に変動するならば、必ず需要は一致しすべて需要されるという考えに立っていた。

 本稿は、伊東光晴、佐藤金三郎共著「経済学のすすめ」筑波書房1968年刊を参考にし、『 』内は直接引用しています。またTAC中小企業診断士講座「経済学・経済政策」テキストなども参考に編集しています。
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経済学のすすめ15

2011年07月19日 | Weblog
ミクロとマクロ

 経済学は、その視点からミクロ経済学とマクロ経済学に分けられる。企業なり、消費者なり個々の経済主体を取り上げ、その経済行為に即して経済理論を展開するのが、ミクロ経済学であり、これに対して個々の経済主体の集合としての経済全体(たとえば一国全体)の経済活動を分析の対象とする経済学をマクロ経済学*51)という。ことはすでに述べた。

 ミクロ経済学はいわば森の中の個々の木を調べることによって森についての理解を深めるものであり、マクロ経済学は森全体を鳥瞰することによって、そのたたずまいを知るものである。ミクロ経済学とマクロ経済学は、一方が正しければ他方は正しくないというものではなく、両者相補って現代の経済学を構成する不可分な成分である*52)。

 現在の日本は、長くいわゆるゼロ金利政策を採っているけれど、全般的に景気は悪く相変わらずデフレ気味である。物価と利子率の問題を考えた時、ミクロ経済学的視点からすれば、利子率が高くなれば製品原価に占める金利負担が上昇するため、製品価格は高くなると考えられる。しかし、マクロ経済学の理論に即していうと、利子は高いほうが製品価格は安くなる。理由は、利子を上げると投資が減り、その結果は社会全体の有効需要*53)が減り、全体としての景気を抑制することによって物価は上昇せず、却って低下することになるという理屈である。ゼロ金利政策は利子を下げることで投資を誘発し、景気の底上げを図ったものであろうがそうはなっていない。

 ミクロとマクロではタイムラグもあることで、時系列的考察も必要かもしれないが、問題は利子が下がれば投資が増えるということである。経済理論は、現実を調べてそこから得た結論ではなく、この場合も、もしも企業家が合理的行動をし、利潤から利子を差し引いた残りを極大にするならば、利子率が低くなればもっと資金を借りて投資をするという経済行為が、利子率を縦軸に投資を横軸にとった図において、右下がりの均衡曲線が描けるという論理の上から引き出されただけだ。

 現代のわが国では、政府が景気政策を打ち、その結果企業は経営に余裕が出ると投資の多くがアジアに向かう現実がある。中小企業でさえそうだ。円高と低金利政策は日本国内の総有効需要の増加に貢献していないのである。しかも少数大企業からなる寡占状態や消費者の生活様式の変化が市場を、古来の経営学者が前提としたものから大きく変化させているのだ。

 それなら経済学は単なる机上の空論なのか。現実の社会の構造変化に無力なのか。否、そうではなかろうと思う。これまで述べてきたミクロ経済学に続いて次回以降マクロ経済学について考察したい。






*51)多和田眞編著「経済学講義」(株)中央経済社 平成3年(1991年)刊
*52)福岡正夫著「ゼミナール経済学入門」第3版 日本経済新聞社2003年刊
*53)貨幣的支出のある需要。「有効」という言葉は、貨幣支出(購買力)に基づいていることを示す。経済学では、有効需要とはマクロ経済全体で見た需要を指し、消費・投資・政府支出純輸出(輸出から輸入を差し引く)の和である。(byウィキペディア)

本稿は、伊東光晴、佐藤金三郎共著「経済学のすすめ」筑波書房1968年刊、多和田眞編著「経済学講義」(株)中央経済社 平成3年(1991年)刊、福岡正夫著「ゼミナール経済学入門」第3版 日本経済新聞社2003年刊、伊東光春著「経済政策はこれでよいか」(株)岩波書店1999年刊およびTAC中小企業診断士講座「経済学・経済政策」テキストなどを参考に編集しています。
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経済学のすすめ14

2011年07月16日 | Weblog
国際貿易の比較生産費説

 国際貿易については、その技術格差によって大国には利益をもたらすけれど、小国にとっては不利益になるのではないかとの懸念があるかも知れない。しかし、経済学の理論では、二国間の貿易は両国に利益をもたらすことができる。その基本的な考え方を比較生産費説(比較優位の理論)といい、200年も前にイギリスのD.リカード(1772-1823)によって示されている。

 例えば先進国Aと発展途上国Bの2国(以下A国、B国)が労働力を使い2つの財(工業製品と農作物)を生産していると仮定する。A国では工業製品の1単位の生産に労働が2単位必要であり、B国では10単位必要である。一方農作物の生産にはA国は4単位、B国では5単位の労働が必要である。いずれもA国の労働投入量が少なく、A国はいずれの生産技術にも優れることが分かる。すなわち、A国はB国に対して両財について「絶対優位」を持っている。

 しかしながら、A国の労働賃金をw1、B国をw2とそれぞれ一定のものとし、市場を完全競争的として財の価格を単位生産費とすると、2財の価格はそれぞれ、2w1、4w1および10w2、5w2となり、2国それぞれの工業製品と農作物の相対価格は2w1/4w1、10w2/5w2となる。すなわちA国は1単位の工業製品を生産するために農作物コストの1/2しかかからないが、農作物は工業製品の2倍のコストがかかる。一方B国は工業製品に農作物の2倍のコストがかかるけれど、農作物は工業製品の半分のコストで生産できる。

 A国は両財について「絶対優位」を持っており、工業製品にも「比較優位」を持っているが、農作物についてはB国が「比較優位」を持っているのである。従ってB国が農作物に生産を特化し、A国が工業製品に特化して両国が貿易を行えば両国に利益をもたらすというのが結論となる。

 w1とw2に数字を入れてみるとはっきりする。A国は単位当たり2財の生産に必要な労働は合計6単位で、B国は15単位である。少なくとも両国の労働賃金の支払い総額を同じと仮定すると、単位賃金額の比率は1:0.4(w2/w1=0.4)となる。従ってA国での工業製品と農作物の単位価格はそれぞれ2と4に対して、B国のそれは4(10×0.4)と2(5×0.4)となり、明らかに工業製品はA国産が安く、農作物はB国産が安くなることが分かる。工業製品はA国からB国へ、農作物はB国からA国へ輸出することで、両国共に利益を得ることができるのである。

 『D.リカードは、イギリスの産業革命が展開し、やがて最終段階に入らんとするときの経済学者である。ナポレオン戦争*49)が終わり、1815年過渡期的恐慌がイギリスを襲う。この原因とそれに伴う労働者の貧困を、彼の論敵であるマルサス*50)は、資本の過度な蓄積による有効需要の不足にあるとし、対策として、地主階級、不生産的階級の有効需要の確保のため、穀物関税を引き上げ安い海外の穀物流入を阻止することを主張する。事実、穀物法はナポレオン戦争終了に伴う安価な外国穀物の流入を阻止する目的で1815年に成立する。

これに対してリカードは、この恐慌を生産部門間の不均衡から生じた一時的部分的なものとみなした。戦争下に海外からの穀物流入が減少し、そのため耕作限界が劣悪地主まで広がり、穀物価格が高騰したというゆがみは、清算されなければならない。穀物法が取り除かれ安い穀物の海外からの流入がみられれば、賃金水準は下がり、同時に自由な貿易体制による市場の拡大に支えられ、産業資本の発展が促進すると彼は考えた。地主対産業資本の対立の中で、リカードは産業資本の立場に立ち、それを経済学の原理の確立へとつなげたのである。』






*49)1803年にアミアンの和約が破れてから1815年にナポレオン・ボナパルトが完全に没落するまでに行われた戦争。ナポレオン率いるフランスとその同盟国が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強の対仏大同盟と戦った。(byウィキペディア)                       *50)T・R・マルサス(1766-1834)古典派の代表的なイギリスの経済学者。社会問題、社会悪や労働者の貧困の原因をすべて人間性にもとづく人口の増加に還元した「人口論」(1798年)によって、その名を不朽のものとした。全般的過剰生産を主張して、地主階級の利益を代弁し、リカードなどと対立した。

 本稿は、伊東光晴、佐藤金三郎共著「経済学のすすめ」筑波書房1968年刊を参考にし、『 』内は直接引用しています。また西村和雄編「早わかり経済学入門」東洋経済新報社1997年刊およびTAC中小企業診断士講座「経済学・経済政策」テキストなども参考に編集しています。
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経済学のすすめ13

2011年07月13日 | Weblog
自由貿易の理論

 国家間で自由な貿易を行うことは、両国にとって有益であるということを理論的に説明する手法が経済学にはある。先に本稿(経済学のすすめ10「市場の失敗」)でも取り上げた余剰分析*47)によるのである。ある国のある財における市場が完全競争市場であると仮定すると、その市場均衡は需要曲線と供給曲線の交点であり、貿易論では「自給自足均衡」といわれる。

 ここで取り上げる「ある国」は、その財が世界市場に占める割合が非常に小さく、その国の貿易量は世界市場価格に影響を与えない、すなわち「小国」であると仮定される。その小国の需給均衡(自給自足均衡)点における価格が、世界市場での価格より高い場合、その国はその財を輸入することになり、逆であれば輸出することになる*48)。

 すなわち、世界市場価格が低い場合には、ある国の需要は輸入によってその価格と均衡するまで増加する。一方国内生産量は、世界市場価格と均衡するまで縮小する。これを図で示すとすれば、この国の需給の均衡点(国内価格)の下方(世界市場価格のポイント)に一本横に補助線を入れる。この補助線と需要曲線の交点が消費量を示し、供給曲線との交点が国内生産量となる。ゆえに需要量と国内供給量の差が輸入量となるのである。この図に見る通り、ある財を輸入することになった時、消費者余剰は大幅に増加し、その国の生産者余剰は小さくなることが分かるが、元々の均衡点の下に生じた三角形の面積分総余剰は増加するのである。

 逆の場合、すなわち、世界市場の価格が国内価格より高い場合は、この国の需給の均衡点の上方に補助線が入ることになり、貿易(輸出)によってその国の生産量は補助線と供給曲線の交点まで増加し、生産者余剰が拡大する。一方、国内価格は高い世界市場価格に追随することになるため、需要量はこの場合の補助線と需要曲線の交点まで減少し、その国の消費者余剰も小さくなる。しかし、総余剰は元々の均衡点のこの場合は上部に生じた三角形の面積分増加することになる。

 いずれにして、自由貿易によって「小国」の総余剰は自給自足均衡に比べて拡大するため、経済は発展すると考えられ、「自由貿易の利益」を享受できることになる。これが国家間自由貿易の有益性を示す理論である。

 わが国も戦後家電製品などを輸出することで生産者余剰を増大し、外貨獲得によって資源等原材料確保を図って総余剰を拡大し、高度経済成長を達成、国民生活の向上を図って来た。ただ、この場合は理論的な完全自由貿易論のようにはゆかず、輸出価格は国内販売価格より安い所謂二重価格となった。これは各国の関税障壁に対抗し、世界市場での価格競争に勝つためであり、量産技術と量産によるコストメリットがこれを可能にした。しかし、世界市場の競争に打ち勝った一大成功要因は、価格によるものだけではなく、世界に冠たる高品質にあったことは言うまでもない。



 




*47) 本来必要な費用に対して、効率化によってどれだけの便益が得られたかを解明すること。
*48)理論を説明するための仮定として、輸出入に係る物流費用等は考慮しない。

本稿は、TAC中小企業診断士講座「経済学・経済政策」テキストおよび西村和雄編「早わかり経済学入門」東洋経済新報社1997年刊などを参考に編集しています。
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経済学のすすめ12

2011年07月10日 | Weblog
囚人のジレンマ

 経済本には、「ゲームの理論」として独立に章立てして、「囚人のジレンマ」を取り上げているものや、不完全市場の1種である寡占市場における企業戦略の一端を説明するためにこれを紹介しているものもある。

 二人の共謀犯が逮捕され、別々に取り調べを受ける中で、証拠が確定しない部分において自供を求められる。自供の条件として、相棒が黙秘を続けている中自供した者は放免、黙秘して相棒が自供した場合は懲役3年。共に自供した場合は証拠が揃って懲役2年、お互いに黙秘を続け、証拠不十分が残れば双方懲役1年ということになる。すなわち、放免(懲役0年)、懲役1年、懲役2年あるいは懲役3年のいずれかの選択を双方が独自に求められることになる(非協力ゲーム)。

 二人にとって一番いい(先の余剰分析を借りれば、最も合計の余剰が多い*41))のは[黙秘-黙秘]であり、最悪は[自供-自供]であるが、相棒が自供した場合のリスクを恐れて*42)、双方自供するというのがこの「囚人のジレンマ」の結論である。

 この理論を実際の企業活動のケースに当てはめてみる。独占企業や完全競争市場では、ライバル企業が無いかまたは無数であるため、他社の戦略に直接的に影響を受ける「価格戦略」はない。しかし、少数の有力企業が市場を独占している寡占市場においては、同じ製品においてライバル企業がどのよう価格を設定するかが自社の価格設定に重大な影響を与える。

 高速道路に沿った2社(A社とB社)のガソリンスタンドの場合で、ゲーム理論を考察する。この高速道路を通る車は、A社かB社のガソリンスタンドを利用して、価格に関係なく月に12万リットルの需要がある。2社はガソリン価格を自由に決めることはできるが、相談して価格を決めるのは「価格カルテル」という独占禁止法に触れる恐れが強いため、自社の戦略のみによって価格を決めることになる(非協力ゲーム)。ここでは簡略的に考察するため1リットル120円(低価格政策:L)と150円(高価格政策:H)のいずれかの価格設定を考える。

 両社のガソリンの品質やサービスに差はないため、消費者であるドライバーは安い方から買うことになる。もし双方が同じ価格の場合は、消費者はそれぞれから6万リットルずつ買うことにする。A社とB社の価格の組合せは①(H-H)、②(H-L)、③(L-H)、④(L-L)の4通りになる。

 ①のケースでは、A社とB社合わせて1800万円の売上となり、折半して900万円ずつの収入となる。②ではA社の売上は0となり、B社が1440万円の売上を独占することとなる。③はその逆でA社のみ1440万円の売上。④は合わせて1440万円の売上でA社、B社共に720万円ずつの収入となる*43)。

 この結果はどうなるか。両社が協力できるなら、当然合計利得の一番大きい①を選択するであろうが、そこで仮にA社が、150円の価格を打ち出せば、B社は同じ150円で得られる収入の900万円よりも120円の価格で1440万円を独占することを選ぶであろう。そうなればすかさずA社も120円に値下げを行う。B社は、A社が追随してきても150円にすることは、売上を0にすることになるため動けない。双方ともこれ以上戦略を変えるインセンティブ(行動の動機となる報酬など)がないため、一種の安定状態となる。この状態を「クールノー・ナッシュ均衡」*44)*45)*46)というが、この状態は両社の合計利得は最大とは言えず、この現象も「囚人のジレンマ」である。

 独占禁止法によって禁じられている「価格カルテル」が後を絶たないけれど、競争するために敢えて低い価格でしか販売できない企業にとっては、その誘因がいかに強いか、この理論をもっても分かるのである。







*41)この場合「利得」という表現をする。片方の犯人の利得を計算すると、放免(相棒が黙秘を続け、自分だけ自供する)の場合で3、懲役1年(共に黙秘を続ける)なら2、懲役2年(二人とも自供してしまう)で1、懲役3年(自分は黙秘を続けたが相棒が自供してしまう)では0とする。従って二人合計の利得は順に(3+0)=3、(2+2)=4、(1+1)=2、(0+3)=3となり、利得の一番大きいのは(黙秘-黙秘)の場合の4で、利得の最小は(自供-自供)の2である。
*42)ここは感情論で、「黙秘したいけれど、相棒の自供を恐れて自分も自供する」ように書いたが、次のような論理的な考察による行動である。黙秘した場合の利得は良くて“2”、悪ければ“0”なのに対して、自供した場合は、良く出れば利得は“3”、悪い場合でも“1”と利得の可能性がいずれも黙秘の場合を上回るのである。
*43)話の便宜上ガソリンの仕入れ価格を考慮しない。
*44)クールノー(1801-1877)1838年に「富の理論の数学的原理に関する研究」において寡占企業がまったく同じ財を生産しているときに企業はどのような行動を取るか分析した。彼の分析はクールノー寡占モデルといわれ、その後に発展を遂げた不完全競争研究の基礎となった。
*45)ジョン・F・ナッシュ(1928- )アメリカの数学者。1950年代にフォン・ノイマン(1903-57)のゲーム理論を利用してこれらのモデルを極めて一般的なナッシュ非協力ゲームにまとめた。この貢献から1995年ノーベル経済学賞を授与される。ハリウッド映画「ビューティフル・マインド」2001年のモデルとしても有名。
*46) 「クールノー・ナッシュ均衡」は企業数が多いほど企業全体の生産量は多く、価格は低くなることが知られている。企業数を無限にすると完全競争均衡に一致する(クールノーの極限定理)。

本稿は、多和田眞編著「経済学講義」(株)中央経済社(1991年)刊、西村和雄編「早わかり経済学入門」東洋経済新報社1997年刊および吹春俊隆著「経済学入門」新世社2004年刊などを参考に編集しています。
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経済学のすすめ11

2011年07月01日 | Weblog
不完全競争

 完全競争市場では参加者はすべてプライステイカー(価格受容者*38))であった。しかし、現実の市場は一部の大企業に握られているケースも多く見受ける。また寡占市場*39)では、暗黙のうちに市場価格を調整し、独占利潤を分け合うことも可能のようにさえ見える。このような大資本の横暴を阻止するために、日本では独占禁止法、米国では反トラスト法が制定されている。独占企業の存在は消費者が損害を受けるだけでなく、社会全体としても効率性が低下することを社会的余剰の考え方で論証する。
 
 独占企業も当然利潤の最大化を目指すから、もっとも効率的な生産量を設定したい。すなわち、もっとも売上高が多くなる生産量で、その生産費用が最小であればいい。先に「生産者の供給曲線は、操業停止線より数量の多い部分での限界費用曲線となる」(本稿、経済学のすすめ7「生産者の理論」)と述べた。すなわち限界収入を求め、限界費用と重なる数量が、独占企業にとっては利潤最大となる。

 限界収入曲線は需要曲線と同じ切片を持ち傾きが2倍になる*40)ことが分かっており、この限界収入曲線と限界費用曲線の交点での数量となる。この数量とその供給量に対応する需要曲線から求めた価格は、完全競争市場で求めた均衡点より当然に高くなる。従って消費者余剰は大幅に減少し、生産者余剰は増加するものの、前稿で述べたガソリン税の導入で供給曲線が上方シフトした場合と同じように、「死荷重」を生じて社会的余剰を減少させるのである。

 このように独占企業は社会的余剰を減少させるだけでなく、料金設定などに国の関与があるため、真の民間企業の有り様(顧客第一主義)から離れるのではないか。今回の東京電力福島原発事故に際してなど、電力会社の事故発表は何か他人事の印象を受けた。平常時にあっては明らかに独占利潤を享受しており、社員は給与福利面でも厚遇されていた印象がある。お役人の言うことを聞いておれば世間にすぐる給与が保障されていたところに緩みはなかったか。

 JR東日本なども一種の独占企業で、震災時帰宅の足をなくした勤め人を寒空の下、駅構内からさえ締め出したとして、東京都知事のお叱りを受けて社長が謝ったという話があったけれど、そんなところにも独占ということの弊害があるように思う。いずれも公務員などと同じ官僚制の弊害が垣間見えた有り様で独占企業の弊害と思う。










*38)参加者(経済主体)単独の行動は市場に全く影響を与えず、市場で決定された価格を所与として行動する経済主体。
*39)価格支配力を持った少数の企業が存在する市場をいう。
*40)需要曲線の価格と数量の関係から、生産者の収入関数が求められ、それを数量で微分すれば需要曲線と同じ切片を持ち傾きが2倍の限界収入曲線が得られる。

本稿は、吹春俊隆著「経済学入門」新世社2004年刊、多和田眞編著「経済学講義」(株)中央経済社(1991年)刊およびTAC中小企業診断士講座「経済学・経済政策」テキストなどを参考に編集しています。
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