中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

世相横断13

2008年12月28日 | Weblog
年の瀬
年の瀬恒例今年の国内十大ニュース*7)のトップは、「中国製ギョーザ事件」だった。昨年は安倍総理の辞任がトップだったが、今年の福田総理辞任劇は2位に留まった。1国の最高責任者の突然の辞任も、続くと確かに新鮮さはない。それにしてもギョーザでの中毒事件が国内10大ニュースのトップ(正確には「中国製ギョーザで中毒、中国産食品のトラブル相次ぐ」)になるとは私は予想しなかった。顕在化した人的被害からすれば、秋葉原での殺傷事件(第5位)や大阪個室ビデオ店の放火事件(19位)、岩手、宮城地震(第9位)がはるかに大きい。しかし、食の安全は目に見えないため、潜在する不気味さを人々が敏感に感じているためであろう。それにしても食料自給率が低下し続けているわが国が、お金さえあれば何でも買えるとの慢心や、経済学的論拠の比較生産費説*8)を今後も推進するわけにはゆかないことに気付いたことは不幸中の幸いである。以前は、所詮日本は石油が入って来なくなれば何も出来ないのだからと、食料の自給率向上策に懐疑的な論者もいたが、流石にこの頃はその類の評論家をテレビでも見掛けなくなった。地産地消という言葉がよく聞かれるようになったが、業務の「見える化」に倣い、食の「見える化」も必要で、そのためにもやはり近隣で採れることが必要であろう。

世界の十大ニュース*7)は、オバマ次期大統領がトップ。2位は中国四川大地震、リーマン破綻金融危機が3位に続く。こちらの方が何となく分かり易く合点がゆく。ニュースではないが、今年の国内ヒット商品ランキング*9)の第1位は任天堂WiiFit(ウィーフィット)。2位は米アップルのiPhone(アイフォーン)。先端技術はやはり強い。

今年スポーツでは、オリンピックでの北島選手の連覇やプロスポーツ大賞に輝いた石川遼君の活躍は見事であったが、この年末にタレントの間寛平氏(59歳)が、ヨットとランニングで世界一周にスタートしたニュースには、驚きと同時に畏怖の念さえ感じた。完走すればオリンピックの金メダルの比ではない凄さだ。マラソン2万キロ、ヨット1万6000キロ、まさにアース・マラソン。途轍もないことを実行に移す人もいるものだ。

将棋の竜王戦も年末の話題の一つだった。結果羽生名人の3連勝から4連敗で幕を閉じたが、両者永世タイトルを賭けた戦いも初めてなら、将棋のタイトル戦7番勝負で3連敗から4連勝での決着も初めてとなった。第4戦に名人が敗れた時、というより3連勝した時点でいやな気分がした。24歳と38歳。どの世界にも共通であろうが、若い方は戦いながらも強くなる。羽生名人は25歳の時、先輩の谷川17世名人を王将戦で倒して7冠独占という快挙を成し遂げた。栄光もあれば屈辱もある。勝負の世界の厳しさを感じる。

この年の瀬36歳の孤独死がテレビのワイドショーの話題をさらった。「孤独死」の表現の適否は置くとして、彼女の何となく淋しげであった笑顔は、お金の在るなし、有名無名、老若男女に関わらず、なぜか人と人の間に吹く風が乾燥している時代を映していたのであろうか。

未曾有の不況と言われる中で、平成20年西暦2008年は暮れるけれど、一時200円近くまで高騰したガソリンは現在100円程度となり、11月では100円以上した灯油も60円台まで値下がりしている。また円高で、海外に出かける人には結構だろう。世の中悪いことばかりではない年の瀬である

*7)国内、世界の十大ニュースは読売新聞による。
*8)2国が、自らの得意な産業に特化して、貿易を行うことは両国に利益をも
たらす。という理論。日本では工業に比して農業の効率が悪いため、自由
貿易が保証される状況では、農産物は輸入に頼り工業製品を輸出すること
が効率的というもの。
*9)日経ビジネス08.12.15号
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世相横断12

2008年12月25日 | Weblog
正月
 子供の頃は正月が待ち遠しかった。小学校の低学年の頃は50円程度のお年玉だったが、紙芝居の飴が買えるのが嬉しかった。紙芝居はタダでも見ることができたが、子供心にも後ろめたさがあった。他にも凧を買い、独楽を買って遊んだ。元旦の朝は父親が作ったお雑煮を食べる慣わしがあった。主婦の年1回の休息日なのだ。

しかし、正月を迎える準備は結構大変で、子沢山の我が家は一杯餅をついたから、その準備に母は大変だった。餅の搗き手は父や兄で、幼い頃の私は餅米を蒸すためのかまどの火の番をした。玄関等に飾る正月飾りは、農家出の父が農家から藁を仕入れて器用に作った。自家製の大きなお供え餅にも干し柿など一杯飾り付けた。暮れの大掃除では、必ず畳をすべて上げ、下に敷いた新聞紙を差し替えて「蚤(ノミ)取り粉」を散布したものだ。夏の蚊は未だにどうにか頑張っているが、蚤はいつの頃からか全く姿を消したが当時は活躍していたのだ。小さい体で体長の相当倍数ジャンプする。朝の布団の中で、腹一杯になって動きの悪い蚤を捕まえて、両手の親指の爪に挟んでつぶしたものだ。

 正月の遊びでは百人一首もまだまだ盛んだった。父は読み上げが得意だった。父(明治45年生)の世代の田舎の農村で、百人一首が囲碁や将棋と共に親しまれていたことは、当時のわが国大衆の文化の高さが垣間見える。私も小学校の低学年の頃には2,3おはこ(十八番)ができて、上の句が読み上げられると取る事ができた。小学校の1年生の折、クラスの女の子の家にお呼ばれした時、女の子の母親が読み手で、この百人一首で遊んだ思い出がある。百人一首を使った遊びでは「坊主めくり」も面白い。家族で楽しんだものだ。小学生向け雑誌の付録のカルタや双六、目隠しをして顔をつくる「福笑い」も正月遊びの定番だった。夜には近所の家から招かれて、ミカンなどを持ち寄り、それを賞品にして近所の子供たち大勢でゲームなどを楽しんだ。

 子供の遊びが時代と共に変わってゆくことや、街の装いがお正月よりクリスマスが晴れやかになったことに異議はないが、玄関の正月飾りさえやらない家はまだ少ないものの、個人住宅の元旦の国旗掲揚はほとんど見られなくなったことは寂しい限りだ。我が家は、ホームセンターで買ったちゃちな国旗ではあるが、団地内でも極々少数派の国旗掲揚を継続している。あの戦争の爪跡さえ残る私たち世代の幼かった時代は、何処の家でも元旦は玄関に国旗を飾っていた。私も父や母と仕舞っておいた国旗を取り出し、毎年飾って新年を祝った。皆なぜ国旗を飾らなくなったのだろうか。不思議でしようがない。

 ただ、神社等への初詣は健在だ。その神社での御神籤も依然人気は高いようだ。自身の血液型、生まれ年の干支、生まれ月の星座などによる運勢と違い、射倖的要素の加わった御神籤は、現代人の趣向にもマッチしていると見受ける。それにしても初詣で、和服に着飾った女性の姿をみることは少なくなった。昔は比較的裕福な家庭の女性は、暮れに遅くまで髪を結い和服で正装しての初詣が、義務であり誇りであるようにさえ見受けていたのだが。すべてに効率重視の風潮が、無駄から発する文化さえ大衆から奪っているのではないか。

とはいえ大晦日からたった1日、そのすべてが改まる不思議な感慨を大切にして、いかに困難が待ち受けていようとも、新しい年を希望を持って迎えようではないか。
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世相横断11

2008年12月22日 | Weblog
2009逆転の日本興国論②
 慶応義塾大学の権丈善一教授は、「年金は破綻しない」と述べている。年金保険料の未納率が増加続けているため、将来年金は破綻する。だから、「基礎年金はすべて税金でまかなうべきだ」という租税方式が持ち出されるが、これには重大な難点があると教授は指摘する。まず、具体的な年金財政のシミュレーションによれば、未納者が出る第1号被保険者(自営業者、農業従事者など基礎年金部分のみの加入者)の納付率が上下しても給付率(正確には所得代替率)にほとんど変化はない。すなわち年金は破綻しない。また、消費税UPで賄う租税方式には大きな問題がある。過去の未納者に対する給付をどうするのか。未納者には給付しないのであれば、消費税という形の負担のみ課される。給付するということであれば、現在でも高額の所得がありながら国民年金を払っていない人(世帯所得1千万以上の11%)への給付に納得ができない。また消費税UPは、すでに年金を完納している世代も直撃するため、保険料の二重取りになる。現役のサラリーマン世代にも、保険料減額分の事業主負担が消費税で跳ね返ってくるため、結果負担増しとなる。また現在保険料免除を受けている低所得者層にも消費税負担は掛かってくる。などである。民主党などは、「税財源の方が国民に優しい制度」とアピールし続けてきたが、実際はまるで逆なのだ。そうだ。
 本田宏医師の「給付金より2兆円で医療再建を」はいいとして、市場原理型の医療制度改革への批判は納得できない。増え続ける国民医療費を一体どうするのか。われわれ患者側も保険料は増額され、窓口負担は3割負担となった。応分の負担増は医療機関や医師側にもあってしかるべきだ。そもそも強力な医師会組織が時の政界と結んで、国民皆保険の護送船団方式ですべての病院、医院、クリニックも淘汰されることはなかった。現在の医療機関の苦境は、交付金や補助金で脆弱な体質となった地方公共団体と同様ではないのか。確かに増額された保険料を払えないために医者に掛かれない人が出ているとすれば問題である。国と医師会によって実態を把握して、全体の保険料の問題とは分けて救済策を考えるべきだ。また、過酷な勤務医の実態も深刻だと思われる。医師数はOECD加盟国の人口当たりの平均値に照らせば、10万人以上不足しているという。
 しかし、医療現場の問題は、政治の問題と医療機関の運営方法、すなわち企業でいう経営の問題の部分を分けて考える必要があるように思う。病院の理事長は原則医師でなければならない。大相撲の理事長は元力士であり、病院の理事長が医師で悪いわけがない。実は病院の運営すなわち経営は事務長(医師である必要はない)が行うのが普通であるが、事務長に権限がない場合や、単に理事長の身内だったりで、手腕に問題がある場合に経営がダメになる。一般に大病院であれば建物は立派だ。高額の医療器械を備えている。それらの資産がうまく働くような経営ができればいいが、必ずしもそうでもないのではないか。特に「全国に約1千ある自治体病院のうち、約7割の病院が経営赤字で、閉鎖の危機にある」と本田医師は述べているが、その病院に国の援助を求めることは、患者を人質にした恫喝にさえ聞こえてしまう。効率化した病院経営によって自立化を促すとともに、組織・人事制度の見直しによる勤務医の処遇改善を、まず内から行うことこそ必要ではないのか。
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世相横断10

2008年12月19日 | Weblog
2009逆転の日本興国論①
 文芸春秋新年特別号からの借り物で、はなはだ恐縮だけれど、世相横断という主題からすれば、この小題は時機を得たものであろう。文芸春秋のこの論文集は評論家/宮崎哲弥氏の編集によるもので、序文は同氏が綴られている。内容は、「税金」、「年金」、「医療」、「資産」、「官僚」、「会社」、「金利」および「格差」の8項目に亘っている。全編に流れる論調は、従来の日本人の生き方、考え方を良しとするもので、これまで政府やマスコミから報じられていた為にする論理もまやかしであると喝破している。ただ、済生会栗橋病院副院長の本田宏氏の「日本医療はまさに瀕死の状態にある。」という論文は切実ではあるが、私には疑問がある。個人の意見であるが次号に述べたい。
 今回の金融危機を契機に、アメリカ型経済モデルが崩れた今、ヒトが勤勉に働き、自分たちの持つ技術に磨きをかけることで付加価値を生み出す日本型経済モデルが説得力を増す。金融大国アメリカを手本に、日本でも「貯蓄から投資へ」という言葉がもてはやされていたが、状況は一変した。アメリカ型経営の主役はカネ(資本)である。株主こそが会社の主人であり、株式の時価総額、株主への配当を最大化することが経営の最大目標。一方日本の企業では、主人公はヒト(社員)だといえる。ただ、そこが近年崩れてきているのが私には問題だと思うのだが。
 大和総研チーフエコノミストの原田泰(ゆたか)氏は、消費税率UPは15年後で良いという。麻生首相は多くの借金を次世代に残さないために増税は避けられないというけれど、1997(平成9)年度、消費税は3%から5%に上がったが、かえって財政赤字が増えた。高度経済成長期には税収が増えるとともに、支出も膨らんだ。その後オイルショックなどで景気が悪化しても財政支出は増え続け、バブル期の増収増しで膨らんだ財政支出によって財政赤字が続いている。つまり、税収が増えれば、政府はその分使ってしまう。増税での財政赤字削減は期待できないというのだ。政府は「将来の高齢化社会の深刻化に備えて、いまから消費税を上げておく必要がある」というけれど、いま増税すれば、いま使ってしまう。団塊世代が後期高齢者となる15年後に増税すればいいというのが論旨だ。
 国民誰しも増税は喜ばない。敢えてそこに踏み込む政治家は立派とも映るが、どんな集いも組織も運営する側にすれば、資金が潤沢にあるに越したことはなく、安易な運営者(国であれば政治家や官僚)は放漫になり易いから十分な注意が必要であり、原田氏の論には大いに賛成である。
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世相横断9

2008年12月16日 | Weblog
紅白歌合戦
 今年も早や年の瀬、歳と共に月日の流れを早く感じるのは誰しものようで不思議ではないが、61歳ともなり結構自分の時間が持てる身でありながら、この1年は早く過ぎた。時の流れが年齢と共に速く感じられる根拠として2説ある。一つが経験則で、例えば10歳時点で1年は経験年数の1/10だが、20歳になればこれが1/20となるため、感じる速度は10歳時の2倍になるというもの。実際には経験のすべてを記憶しているわけではないので、比例的に早まるわけではないと思われる。もう一つは医学的検証によるもので、人体の代謝速度が年齢と共に低下するため、自分の意識した時間よりも実際の時間は早く過ぎているというもの。同じ人でも、朝の時間が早く経つように感じるのは、朝は人体の代謝が悪いためだそうだ。
 閑話休題。私にとって年末の楽しみは「NHK紅白歌合戦」(以下、「紅白」)だ。毎年ほぼ全部見ている。出演歌手のレベルは勿論、応援サポート陣や舞台演出は質・量共に豪華そのもの。やっぱりすごいイベントだ。その年に活躍された著名人の特別審査員もいい。日頃は歌謡曲には縁の薄いと感じられるような方までが、ほんとうに楽しんでおられる。昨年は近々に「紅白」が無くなるとの噂が流れ、確かに毎年視聴率は低下傾向で、費用対効果が悪くなっているためかとも心配していた。噂の検証はできていないが、兎も角今年もある。永遠に続けて欲しいものだ。
 先日、作曲家の遠藤実先生が亡くなられた。5000曲以上の作曲を手がけられ、ヒット曲も数限りない。われわれ世代にも歌いやすいメロディーがいい。舟木一夫さんが「高校三年生」で初めて登場した「紅白」も見た。私が高校1年生のときだから、もう45年前だ。千昌夫さんの出世作「星影のワルツ」は昭和43年だったと思う(リリースは昭和41年3月)。入社3年目で、こちらは寮のバスハイキングのバスの中、先輩の素晴らしい歌声と哀調をおびたメロディーに痺れた思い出がある。森昌子さんの「先生」は、工場の新入社員向けクラブ紹介で同席した陸上部の幹事さんが、なぜかこの歌を歌ってアピールされたことで印象深い。毎年豪華な衣装で「紅白」を盛り上げる小林幸子さんの「雪椿」は、山形県の会社にご縁があって出張し、職場の宴会に招いていただいた折、この歌をみごとに歌い上げた女性がいて感動した。雪国の風情にみごとにマッチしていた。それまで知らなかったこの歌が、好きな歌の一つになった。これら遠藤先生作品の私との縁(えにし)を紐解くまでもなく、流行歌には各人それぞれに想い出があり、一時その時代にタイムスリップさせてくれるほどの力がある。
 昨年の紅白歌合戦では、白組司会が笑福亭鶴瓶さんで、私は「鶴瓶の家族に乾杯」が好きなもので、余計楽しみに見た。テーマ曲の「Birthday」を作詞・作曲のさだまさしさんがこの「紅白」で歌った。『幸せをありがとう、ぬくもり届きました。何よりあなたが元気で良かった。宝物をありがとう、思い出届きました。生まれて来て良かった』。今年は同番組の司会をされている小野文恵アナウンサーが「紅白」の総合司会だ。
 昨年はまた美空ひばりさんの生誕70周年ということで、ひばりさんが映像で登場し、小椋佳さんと「愛燦燦(さんさん)」*5)を歌った。『~人生って不思議なものですね~人生って嬉しいものですね』。映像での出演といえば、昨年亡くなられたZARDの坂井泉水さん。生前「紅白」に出場したいと言っていたそうだ。映像での初出場となった。『・・・負けないでもう少し最後まで走り抜けて、どんなに離れていても心はそばにいるわ・・・』*6)彼女の歌はどれだけ多くの若者を勇気づけ励まし続けて来たことか。彼女の魅力を私はこの「紅白」で知った。
 今年は、演歌復活の年らしい。例年になく演歌が売れていると聞く。氷川きよしさんなど以前から活躍していたが、今年はジェロさんの出現が大きいそうだ。おばあちゃんが日本人で、おばあちゃんの家で演歌を聴いて育ったという。「紅白」に初出場だ。日本一のステージから、米国ピッツバークに眠るおばあちゃんへ届く歌声がまた楽しみである。

  *5)「愛燦燦」作詞、作曲:小椋佳 1986年
  *6)「負けないで」作詞:坂井泉水、作曲:織田哲郎 1993年ポリドール
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世相横断8

2008年12月13日 | Weblog
世論調査
 世論調査で内閣支持率が落ちている。総理に相応しい人でさえ、麻生総理が小沢代表に遅れを取ってしまった。12月8日読売新聞朝刊によれば、『5~7日に実施した全国世論調査(電話方式)で、麻生内閣の支持率は20.9%となり、11月初めの前回調査(40.5%)からほぼ半減した。不支持率は66.7%で約25ポイント跳ね上がった。麻生首相と民主党の小沢代表のどちらが首相にふさわしいかでも、麻生氏は前回比21ポント減の29%に落ち込み、14ポイント増やした小沢氏の36%を初めて下回った。国民的人気の高さを背景に自民党総裁選で圧勝して誕生した麻生政権だが、わずか2か月余で“刷新効果”は消え去った格好だ。』とある。
 この世論調査の方法とそのサンプル数だが、全国の有権者を対象にコンピューターで無作為に作成した番号に電話をかけるRDD方式。有権者在住世帯判明数1819件、有効回答1091人(回答率60.0%)。とのこと。NHKなどの調査方法も同様で、サンプル数や有効回答割合も大体いつも同様のように見受けている。結果についても各社同様の傾向であることから、世論の動向を示していることには間違いがないようだ。
 この結果をどのように判断するかが問題で、自民党内でも早くも麻生内閣を見限る動きがある一方、それを牽制する動きもある。そもそもまだ内閣発足2ヶ月で世論調査の支持率の変動に一喜一憂することの方がおかしい。確かに方針が定まらないとか、多少失言があった。3年後の消費税UPを公言した。新KYが誕生した。くらいのことで、地方を精力的に廻られたり、外交では各国首脳と結構うまくやっているようにお見受けしている。失言にしてもそれで世の中がどうなったわけでもなく、消費税のUPは従来言われてきたことだ。漢字の読み間違いなど、昔からの思い込みを立場上誰も指摘してくれてなかっただけで、漢字に限らず誰にでも間違った思い込みはあることだ。国益を損ねるような失政や、総理大臣の立場を利用した蓄財や汚職が出てきたわけでもない。枝葉末節のことを面白おかしくマスコミが取り上げるから、テレビで1億総白痴化したわれわれが踊らされているだけだ。
 そもそもマスメディアに巣くう人種は、この頃は庶民感覚など持ち合わせてはいないように見受ける。多くが高給を食む人々で、大企業をスポンサーとして生きている。不都合はみな政治家の至らざるに押さえ込んで、核心を外してコマーシャル収入の維持を図っているのではないのか。自分達に不都合な発言をするキャスターやコメンテーターは次回から降ろせばいい。広告収入に頼るメディアの限界が見える。
 政府は、国家・国民の自由と民主主義を守るゆえに自由な経済活動を尊重しなくてはならない。いちいち法律を作ってその活動や企業内部の制度を規制すれば、それは共産主義や社会主義国家となる。そこに政府の踏み込みにくいバリアがある。その為自由と民主主義を守るためには、経済力を持った組織や人々のより高いモラルと、より強い自己規制が必要なのだ。自衛隊にシビリアン・コントロールが必要なように。
 政府与党内にも複数の考え方があり、議論があることは健全であろうが、選挙を行って皆で選んだばかりの総裁であれば、総力で盛り上げてゆく努力こそが、政治家の本領ではないか。世論調査結果はあくまで一時の移ろいに過ぎないのだから。
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世相横断7

2008年12月10日 | Weblog
テロ
 先月末インドでの同時多発テロ*4)は、世界にあらためてテロの脅威を知らしめた。今回は日本人も巻き添えになっただけに、日本のマスコミも身近な問題として深刻に取り上げた。宗教、人種、イデオロギーまたは富める者と貧困に喘ぐものの対立がテロに至る。しかし、イラクでの反米テロもそうだけれど、武器や爆薬もタダではなく、相当の資金がテロ集団に流れていることは間違いない。純粋な宗教や人種対立だけでは、多くの外国人を巻き込んだ今回のようなテロは解釈し難いし、イラクの反米テロも継続は難しいように思う。武力で対抗することより、大きな資金の流れを突き止め、それを断ち切ることが先決のような気がするけれど、大国間の障壁で手を付けられないということか。
 日本で発生した最近の厚生省次官OB宅連続襲撃事件もテロと言われた。秋葉原の無差別殺傷事件も一種のテロだと思うけれど、背後関係や組織の関与が見られず、一定の政治的な目的が希薄であるため、単なる狂気として処理されることになろう。彼らの怒りや悲しみが、社会の中で非常に特異で個性的、狂信的なものであるうちは社会の根底が揺るがされることはないだろう。
 しかし、テロはゲリラと共通点があるようで、民衆の鬱積した気分が混乱を求める空気を醸している土壌に発生しやすいのではないか。ゲリラは民衆の支援がなければ成立しない戦術だ。また他国の組織からの扇動や資金の提供が懸念される点も共通している。急速に米国流経営を取り込んだ日本の財界が、不安定雇用労働者集団を増大させ、それでも足らず成果主義との名目で中堅層従業員の処遇にまで手をつけた。経営者層が、見掛けの企業価値増大で己の評価を高めることに腐心したここ数年、好景気が続いている中で共産党への入党者が倍増したり、マスコミの取材に戦争が起こればいいと公言する若者が現れたりしていた。そこにこの不況が襲った。「一陽来復」で散々述べたけれど三代目にあたる現在の指導者層の思慮の浅さが、危うい土壌を醸成しつつあるようで情けない。
 1959年から1960年(昭和35年)の三井三池の労働闘争。同年の安保闘争。1968-69年の東京大学安田講堂攻防に象徴される1970年に至る全共闘学生運動の嵐。この頃は機動隊に追われる学生を保護する町の人も居たと聞く。これも1972年2月の長野県浅間山荘事件で収束に向かった。しかしその後、1974-75年の東アジア反日武装戦線と名乗る民衆とは乖離したグループによる連続企業襲撃事件。他、1976年北海道庁爆破事件。翌1977年には楯の会による経団連襲撃なども起きている。また、1978年3月成田空港開港を阻止する管制塔占拠事件や1985年に成田市三里塚での過激派と警官の衝突事件が起きて、成田空港闘争はくすぶり続けたが、豊かになった国民にすでに過激な暴力的活動を許容する素地は消え失せていた。地下鉄サリン事件(1995年3月20日)などの妄信的な例外を除いて、わが国では大きなテロ的事件は長く起きていない。故に、喉元過ぎればではないが、今財界には慢心ゆえの油断があるのではないか。

  *4)現地時間11月26日夜。インド西部の商業都市ムンバイで、高級ホテルや駅、病院など約10箇所を同時に狙った銃撃テロ。米国人や英国人を中心に外国人が狙われたとの情報もある。11月29日制圧時点での死者195名、負傷者約300人。インド治安当局は、隣国パキスタンを拠点とするイスラム過激派組織がかかわったとする見方を強めている(読売新聞ニュースウイークリー)が、パキスタンはこれに強く反発している。
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世相横断6

2008年12月07日 | Weblog
人員整理
 格差拡大が言われ出して久しいが、ここに来て深刻さを増している。超一流企業までが簡単に人員整理を始めた。この格差は小泉改革の歪だと言われていた。野党ならいざしらず、政権党の元有力政治家が権力闘争に敗れた腹いせに小泉改革をこき下ろす。これにマスコミや竹中平蔵氏と意見を異にする経済評論家たちが同調する。確かに一時期より格差は拡がっており、結果責任として行政府の長が糾弾されることは已む無きところはあろうが、私にはこれは全く違うと思っていた。格差を生んでいるのは、バブルの清算と破綻寸前にある国家の財政再建のためにとった政府の改革路線を隠れ蓑にして、利を貪り保身を図った大企業とそのトップの面々に責任がある。
 今のアメリカ発の世界同時不況の少し前までわが国は、いざなぎ景気*3)も超える長期好景気にあった。しかしこの間、ほとんどの大企業は社員への処遇を向上させなかった。従って折角稼いだお金が一般国内消費につながらなかった。そればかりか、正社員の採用は抑えて非正規社員の雇用を増やした。または子会社を作り、業務をより薄給の子会社プロパー社員へと転換させた。従業員の退職金制度は大幅修正し、2007年以降の大量退職に備えた。現在従来の退職金制度を維持している公務員の退職金に、多くの民間の大企業さえ遠く及ばなくなっている。国内消費が増える道理がない。これらは人事戦略として当然必要であった施策もあろう。しかし、調子に乗って明らかにやり過ぎた。精巧であるべき外科的手術を素人がやったようなものだ。
 政府や労働団体は対応策に奔走しているが、経済団体のトップの傘下企業さえ他社に先駆けて人員整理を計画する。最近の大企業トップのレベルの低さが露呈すると共に、格差を生み出した犯人像が見えたではないか。たとえ非正規社員であろうが、その職を解くことを命ずるならば、企業のトップはその前にあらゆる施策を打つべきだ。もう少し頑張れるだけ頑張るべきだ。アメリカなどに長期間駐留して、向こうの経営手法に染まった人間が財界を主導するからこうなってしまう。
 人事制度に留まらない。中小企業庁はパンフレットを配り、「違法な下請取引を解決します!」というけれど、現場では「そんなことをすれば次の仕事がこなくなるから黙っておいてくれ」というのが現実で、大企業の横暴は随所にある。政府や官僚もそれを知っているからパンフレットができる。
 大企業の言い訳は国際競争力だ。人件費が高い、税金が高い。企業への課税は少なくしないと企業が海外に逃げて行く。代わりに消費税を上げればいいと。経営者層は、自分達の無能を天下に公表しているようなものだ。それでいて、短期に見掛けの企業価値を引き上げることでゴーンの日産、米国企業に倣い、億単位の年俸や退職金を指向していたのか。そんなことをして自分たちだけ幸せになれると思っているのであろうか。

  *3)1966年-1970年。3Cすなわち、マイカー、カラーテレビおよびクーラー(家庭用)の普及が牽引したといわれている。
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世相横断5

2008年12月04日 | Weblog
流行語大賞
 その年の世相を反映する流行語大賞も、10大ニュース等とともに年末の話題に上るようになって久しい。中曽根当時首相の「100ドルショッピング」(特別賞)は流行語が表彰されるようになって2年目の1985年だった。23年後のわれわれ庶民には100円ショッピングが似合っている。小泉内閣発足年の「塩爺(しおじい)」(トップテン)や「米百俵/聖域なき改革/恐れず怯まず捉われず/骨太の方針」(大賞)から7年が経ち、またぞろ息を潜めていた族議員からは改革見直し論が出てきた。今年の政治家発の流行語には、福田前首相の「あなたとは違うんです」(トップテン)と中川元幹事長の「埋蔵金」(トップテン)が入っていた。前者には選者のエスプリというか皮肉が込められていて面白い。後者は勿論徳川埋蔵金のことではないけれど、お金はあるところにはあるよということか。不況でリストラに怯える若い人も多い中、プロ野球選手の契約更改やプロゴルファーの賞金ランキング争いで、億単位の報酬が報じられるのも皮肉だ。1996年長島ジャイアンツの「メークドラマ」は大賞となったけれど、今年の原ジャイアンツの大逆転セリーグ制覇では流行語は生まれなかったようだ。
 オリンピックイヤーで、今回も北島康介選手の大活躍はあったけれど、4年前の「チョー気持ちいい」(大賞)の再現はなかった。しかし、「上野の413球」(審査員特別賞)も確かにわれわれに素晴らしい感動を与えてくれた。彼女が発した言葉ではないけれど、流行語大賞のなかった時代の「神様、仏様、稲尾様」に並び称されて後世に語り継がれる言葉となろう。
 今回の大賞の「グ~!」は私が常用している目薬の箱にもそのシールが貼られているので、よく知っていたが、もうひとつの「アラフォー」は初耳であった。聞いたこともない言葉が流行語大賞の「大賞」に選ばれるとは、私が時代遅れなのであろう。「アラウンドフォーティー」の略で、日本語訳では「40歳前後」とのこと。昨年は2007年問題とまで騒がれ、われわれ団塊世代の先頭集団が定年退職を迎えたけれど、想えば今のアラウンドフォーティーは、その団塊世代が社会に巣立った時代に生まれた。何かのめぐり合わせなのか。彼ら彼女らの生まれ育った時代の変遷は、われわれ団塊世代の青春時代から初老までの変遷に重なる。特に女性にとっては激変といえる変化の時代にあたるのではないか。
 私が就職した昭和40年代の初めは、まだ旧い道徳観が強く、独身女性には処女性が強く求められていたように思う。当時深夜の繁華街で一般の若い女性の姿を見ることはなかった。会社では結婚退職がごくごく当たり前だった。ゆえに工場では、毎年新しい地元女子社員が多数採用されて、春の訪れを告げた。一方テレビの深夜番組などで、何ゆえかは知らぬけれど女性の性の解放が唱えられ、ミニスカートが一般女性のファッションとなるなど、現代に通じる風俗の萌芽が見られた時代でもあった。
 「アラフォー」世代の先頭集団が、高校を卒業し、成人式を迎える頃は、先の「100ドルショッピング」に象徴される円高からのすさまじいバブルの嵐が吹き荒れる。バブルのあだ花と言われた「ジュリアナ東京」は、一部都会の「アラフォー」世代が主役だったにせよ、これもひとつの女性の解放を象徴するものだったのか。物心共に中身の希薄な、ただ膨張した時代が、大人となる彼ら彼女らを待っていたのだ。加えて「蟹工船」、「後期高齢者」、「名ばかり管理職」(いずれもトップテン)。今年の流行語に何か切なさを感じるのは私だけであろうか。
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世相横断4

2008年12月01日 | Weblog
裁判員制度を考える
 先日JR中央線御茶ノ水駅前で、裁判員制度の是非を問うシール貼りアンケートが実施されており、行きかけの駄賃で参加させて貰った。想えばこの種のアンケートに応えるのは2度目であった。以前JR千葉駅前で行った、インド洋における自衛艦による洋上給油活動の是非を問うアンケートが初回である。この時は圧倒的に給油活動に反対が多く、私など周囲にわざと聞こえるように、「民意が低いなあ」と言いながら「賛成」箇所にシールを貼ったら、担当の親爺さんが好意的な笑顔を向けてくれたものだ。今回も私の投票時点で大きな差ではないが「反対」箇所にシールが多かった。私は、今回は「反対」箇所にシールを貼った。この制度に詳しいわけではない。深く関心があるわけではなかったが、以前から何でこんな制度を始めるのかと疑問は持っていた。
 改めて調べてみると、『裁判の進め方やその内容に国民の視点、感覚が反映されていくことになる結果、裁判全体に対する国民の理解が深まり、司法が、より身近なものとして信頼も一層高まることが期待される。』とある。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア等でも行われているそうだ。反面、裁判員に指名された国民は半強制的に拘束され、仕事も介護も家事も育児もその間放棄せざるを得ない。当然守秘義務も課せられる。守秘義務は慣れていない人にとっては、結構苦痛を伴うのではないか。また交通費や日当も出るそうだが、国債残高が増える一方のわが国で、何で新たな出費を作り出すのであろう。疑問は深まった。
 裁判については、テレビや映画で随分見慣れているので、国民は現状でもそこそこ理解しているように思う。とは言って私など、殺人はじめ凶悪犯罪の量刑が軽いことには常々大いに疑問を持っているが。そう考えることが理解力不足だと言われれば、見解の相違としか返せない。わが子とはいえ乳飲み子を折檻死させても数年の実刑で済んでしまう。犯罪者の人権には大いに五月蝿いけれど、被害者のプライバシーでさえ晒しものにされる。また遺族の憤怒に耐えぬ事件も多いように思う。このため、被害者の遺族が裁判で発言できるような制度が出来るようだが、これは少し方向性が違うように思う。裁判員制度と相俟って、裁判が審理よりも感情論に傾く懸念を持ってしまう。
 まあ国民がその義務の一環として一時期拘束されることや、国に新たな費用が発生することは、格別重大な問題とは思わないが、裁判員制度に私が疑問を呈するのはもっと根源的な問題だ。人が人を裁くことは、社会形成上まさに已む負え無い究極の仕業といえる。それだからこそ、司法に携わる人は難関の国家試験を突破し、その後も研修を続けている。確かに頭は良くても社会性に問題がある人は居ろう。裁判官も人の子、その判断に間違いが皆無とはいえぬ。しかし、人間は研鑽努力を続けることで、その分野を中心に解釈が深くなり判断力が陶冶される。それゆえに裁判にあっては裁判官や検事、弁護士という所謂専門家にその任を委ねる。人はそれぞれに社会の中で役割があり、それぞれに得手不得手があり、仕事には専門領域がある。人の犯した罪を裁き最終的な判断を下すことと、政治や社会の事象に意見を述べるのとは訳が違う。司法において一般人がその判断に参加すれば、専門家の意見に引きずられるために実質権限は無く、万一大きな判断ミスが生じた場合に、悔恨という責任のみ負わされる羽目になるのではないか。
 先進国の多くが採用している制度だからというのも問題だ。わが国は確かに明治建国以来、あらゆる分野で西洋を模倣して来た。しかし、西洋の先進国がやっているからいい制度と考える時代では、すでにないのではないか。
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