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司馬遼太郎「義経」を読む 第20回

2022年06月28日 | ブログ
義経の合戦(下)

 『―――迅速こそ、勝利である。というのが、義経の原理あり、かれにとっては信仰のようなものでさえあった。その原理は、奥州の山野で馬を駆けさせているとき、自然に自得した。これが、義経の初陣であった。「九郎は、戦いに馴れていまい」と、当然なことながら鎌倉の頼朝はおもい、このため老巧の梶原景時をえらび、「その指示にしたがえ」と言いふくめたのだが、しかし義経はいっさい軍監の差し出口に耳をかたむけず、みずから鞭を鳴らして全軍を下知した。

 しかもこの若者は大将の身分でありながら中軍に位置せず、つねに先頭を駆け、「殿輩、われを見ならえ」と、風をまくようにすすんだ。―――いくさの法も知らぬ。と、景時などは大声でわるくちを言い、それに同感する将も多い。が、馬の巧みさはどうであろう。・・・

 義経の馭法(ぎょほう)をみるに、たづなのさばきようがみごとなばかりでなく、馬を疲れさせぬよう、まるで雲に駕(が)するようにふわりとした御しかたで御してゆく。このたくみさは、この若者が馬の産地である奥州で成人したせいであろう。・・・

 やがて樹間に平等院のいらかがみえはじめ、宇治に出たことを知った。宇治川がながれている。この急流は、京都盆地をまもる自然の外堀といえるであろう。』

 対岸には常陸志田の住人志田三郎義広が陣取り、矢倉をかまえ、橋板を外し、河中には馬ふせぎのための乱杭、逆茂木をうちこみ、大網小網をはりめぐらせてある。

 志田先生(せんじょう)義広は義経の亡父義朝の弟であり、頼朝・義経兄弟の叔父にあたる。かつて頼朝が関東の旗あげに成功したとき、相応の待遇を受けることを期待して陣営に祝賀に出掛けた。しかし、頼朝からまるで家来同然の扱いを受け対立し、追討をうける身となり、行家と同様、義仲に身を寄せた。骨肉ずきの義仲は大いに歓待し、叔父として遇した。その志田義広が、いま義仲に殉ずべくこの宇治川の守備を引き受け、百五十騎程度を擁して白旗をなびかせている。

 『・・・水流のはげしさは馬筏をもってゆるめ、集団のいきおいをもって対岸に駆けあがった。水からあがったいきおいのまま志田勢を押しくずし、ただの一撃で粉砕した。・・・やがて「駐(とど)まり候え」と、駆け逸る武者どもをひきとめ、全軍を停止させた。―――なんのことだ。と坂東武者にとっては不可解以上に不愉快であった。坂東の流儀では―――坂東だけでなくこの時代、いくさはものの勢いだけで押し進む。戦法などなく、すべては個人の武勇のみであり、戦いはその算術的総和に頼るにすぎない。が、この若い指揮官は、戦法を用いた。・・・軍を四隊にわけた。四面から京都市街に乱入しようというのである。・・・梶原はじめおもだつ小名どもは、部隊々々の兵力が希薄になるという理由で反対したが、・・・評定による衆智などを信ぜず、わが直感のみを信じた。・・・が関東武士団の習慣からすれば、これは異様であった。

 もともと関東武士団は、血族団の連合であり、それぞれの族長が、一族郎党をひきいて馳せ参じ、それが寄せあつまることによって一軍の体裁を成している。・・・族長どもへの行きとどいた同意を得ることが必要であった。・・・義経はそれをしなかった。・・・』


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。




司馬遼太郎「義経」を読む 第19回

2022年06月25日 | ブログ
義経の合戦(上)

 『義仲は、時勢に絶望した。(なんと、栄華のみじかかったことか)かれ自身そう思った。都に入って、わずか四カ月の栄燿(えいよう)である。あとはほろびるしかないが、こうとなっては自分を意地わるくうとんじた法皇や諸卿につらあてをし、都でさんざん荒れ狂い、そのはて狂い死んでやるしかない。その度胸をきめ了(おお)せた。

 その気魄が、なんとなく法皇にもつたわったのであろう。「木曽は傷負い猪のようになっている。・・・」と、法皇は近臣にひそかに耳打ちした。・・・』

 頼朝は法皇からの院宣がなければ義仲追討の兵を出せない。敵の義仲を賊にしたうえで討ちたいと思っていた。しかし、法皇もここにきて頼朝を頼るしかない。期日は明確にしなかったものの院宣の早馬を鎌倉に発した。頼朝はその報告に接して、ようやく慎重さから脱し、弟の範頼(亡父義朝が遠州池田宿の遊女にうませた、頼朝の腹違いの弟である。頼朝が大軍を擁して、富士川で平家軍との対峙した時期に使いを出して鎌倉に呼んでいた)に三千騎をさずけ、義経と尾張熱田で合流するよう申し渡した。

 すでに近江まで進出していた義経は尾張まで後退せねばならなかったが、義仲との戦ができる立場になった。実は鎌倉に来て戦に従軍するのは2度目となる。頼朝が常陸の佐竹氏を討つため大軍を率いて出陣した時以来である。しかし、この時は頼朝の謀略が成功し、合戦に至っていない。頼朝軍の最大の豪族であり、佐竹義昌と親戚のあいだである上総介広常が義昌を城外に誘い出して不意打ちしたのだ。

 『(これが、兄の合戦か)・・・義経は、合戦については奥州にいるころ、奥州の古老から実歴譚(じつれきだん)もきき、僧に唐土の書物も読んでもらい、みずから種々工夫するところもあったが、それはこういうものではない。義経にとっては合戦はなによりも美であらねばならなかった。・・・』

 今、法皇は死に物狂いであった。鎌倉軍が救出にくる間、義仲をどう手なずけておくか。結果、義仲を征夷大将軍にしてやることにする。「旭将軍と申せ」後白河法皇みずから、義仲に宣うた。すでに滅亡を覚悟している義仲であったが、一期の思い出、後世への名誉となる。『義仲が館にもどると、新しい情報が待っていた。尾張・美濃のあたりで屯集していた鎌倉軍が、近江にむかってうごきはじめているという。人数も、以前とはくらべものにならぬほどにふくれあがっているという。・・・鎌倉軍の戦略は、京をひとつの広大な城域と見たて、北方の入り口である近江瀬多を大手(表口)とし、宇治の搦手(裏口)とした。大手を攻めるのは、美濃から近江をへて急行軍しつつある範頼の部隊である。これが本隊であった。

 義経は、搦手を担当している。伊勢、伊賀をまわり、間道をとおって宇治に進出する。兵力はさほどでもない。範頼軍が八千騎ほどで、義経軍は千騎ほどにすぎない。義経がとった経路は、街道としてはほとんど道路のていをなしていない、いわゆる、―――伊賀みち・・・
「御曹司、いますこしゆるりと」と、頼朝からつけられている軍監(参謀兼監視役)の梶原景時がなんどもいった。が、義経は黙殺した。速度こそ、かれの戦いの原理であった。かつかれが世界戦史に先鞭をつけた騎兵作戦のかなめでもあった。・・・』


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。




司馬遼太郎「義経」を読む 第18回

2022年06月22日 | ブログ
法皇の策略

 法皇は義仲、行家を治めるため、平家追放の功を賞し、義仲に伊予の守、行家には備前守という格式の高い上国の官位を与えた。位は従五位の下である。

 一方で、法皇は頼朝に義仲を討たせたい。しかし、頼朝の人物も胸中も知れない。鎌倉へ使者を幾度も送り頼朝の上洛を促したが、頼朝は動かない。官位も望まない。

 法皇は行家を籠絡し、侍臣のようにそばにはべらせ頼朝や義仲について情報を得ていた。法皇は、義仲が京を占領してまだ二カ月というのに、すでに三分の二は逃散し、兵の逃亡はなお続いていることを知る。法皇の知る限り瀬戸内海沿岸一円の地盤に拠った平家は、都にいたころよりもはるかに兵威があがり、戦備もととのい、強大な軍事圏をきずきつつある。

 弱体化した木曽軍がそれに立ち向かえば粉砕されることは、法皇にも義仲にも分かっている。法皇は義仲を京から消したい。義仲に平家討伐を急がせるが、義仲は西国へ兵を動かせば、頼朝が京に上るであろうことも気がかりで動けない。

 法皇は、行家を使う。「ついては十郎行家を追討使に任命したいと思うが、汝の意向はどうか」この言葉に義仲は同意するわけにはいかぬ。自分が平家追討の魁であり、そのことは叔父であっても譲れない。西国に向かうと答えるしかなかった。

 義仲が西国で平家と戦っている頃、頼朝は大飢饉と木曽軍の狼藉で飢えに苦しむ京の貴族の窮状を救い、外交上の優位を維持するため、坂東の米を京に送ることを約していたが、木曽軍の追放までは約束しない。頼朝にも後ろに奥州藤原という脅威がある。大きく兵を動かせば、鎌倉を衝かれる恐れがある。法皇は富士川の平家敗走の際、奥州に頼朝追討の院宣を出している。また義経と秀衡の仲を知っていればこそ、義経に頼ることは義経と奥州藤原の結びつきが強くなり、自身の地位が脅かされる懸念も頼朝にはある。

 頼朝は義経に、京へ米を運ぶための護衛の軍勢の指揮官に任じた。義経を大将に遇することで、秀衡からの敵意を逸らせると踏んだのである。

 頼朝は義経に兵五百騎を与え、米は朝廷への献上米であり、身分は頼朝の名代、代官であること。そして木曽軍と戦うのではない、合戦をしてはならぬ。重要な役割は京の木曽軍の威力偵察と、義仲に見切りをつけた京都近国の源氏どもを鎌倉に直属させる工作を申し付けた。義経は合戦でないことに失望したが、鎌倉から京へ発するはじめての軍隊派遣であり、それは院(法皇)の要請であることを告げ慰撫した。

 この行軍は、京都偵察であるため、極秘とされており、法皇へさえ知らせていない。さらに多くの荷駄を伴うため、牛のあゆみのように遅かったが、噂は行軍速度よりはるかに早く京に達し、備中(岡山県西部)で平家と戦っていた義仲にまで伝わった。義仲は九郎(義経)の存在を知らず、その能力など分かりはしなかったが、噂は膨れ上がり、五百騎が数万騎になっていたのだ。

 ただでさえ平家との負け戦のなか、京を取られる無念さを思い、義仲は残る千騎ばかりの兵を連れて急遽京にとって返した。法皇は「なぜもどった」「合戦の模様はどうか」聞かずとも西国の義仲の敗戦は都の評判になっている。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にして構成しています。




司馬遼太郎「義経」を読む 第17回

2022年06月19日 | ブログ
京の木曽軍

 平家との北国での戦いの余勢を駆って、その年(1183年)の七月半ば義仲は京にせまり、近江に入った。平家は京都が防戦に不適当であると判断し、都を捨てて戦略的撤退を行い西国に向かった。それはいざという際の清盛の遺言でもあった。

 『―――叔父御、新宮の叔父御よ。と、木曽義仲は、無邪気なほどの人なつっこさで、伯父の新宮十郎行家を待遇した。頼朝からすてられた行家にとって、これほどの満足はない。こう、行家が謀略家の目で義仲をながめてみるに、なにもかも頼朝と反対のおとこだった。(いやいや、みごとなほど人間があまくできている)

 頼朝のような教養はない。田舎者まるだしで都ぶりのたしなみなどなにひとつ持っていないが、しかし人はおもいきり好い。軍中で焚火をしているときなど、―――汝(われ)も来てあたれ、汝も来よ。などと、雑兵であろうが侍大将であろうがかまわずに手まねきして火に当たらせた。ひとが凍えているのをみるのが、性分として堪えられぬ男なのであろう。

 旧知の者や親族に対しても、他愛のないほどに親切である。(毒気がないわ)と、行家は観察した。行家のいう毒気とは政治眼といいなおしてもいい。たとえば叔父の行家に兵を貸したり、機能をもたせたり親切にすれば、ゆくゆくは庇貸して母屋とられるというはめになるなどという危惧をいっさいいだかない。・・・』

 宗盛の退去命令は朝八時に出た。家財や食料の運び出しから天皇の行幸支度、それらを四、五時間でやり、正午すぎには宗盛ら平家七千騎は天皇を守護して南に落ちた。残った多少の兵で六波羅と平家の館々に火をかけ二十年の栄華の始末をして京を去った。三日後、義仲は近江の瀬多川を渡り、行家は南の宇治から京に入る。無血入城である。

 この報に接した頼朝はただ一言「義仲は京で飢えるだろう」といった。京の飢餓の惨状については、頼朝は豊富すぎるほどの情報を持っており、そのため軽々に兵を動かさない。

 「ついに頼朝を出し抜いた。京に入れば、義仲などは山猿にすぎぬ。宮廷、女院、宮門跡、京を動かしているすべての場所はわが狩場である」京に入った行家は思った。

 しかし、京には後白河法皇が居る。頼朝が後に「日本一の大天狗」とののしった妖怪ともいえる人物である。

 義仲と行長は後白河法皇と御簾越しに面談するが、法皇は行家のほうが御しやすいとみる。それにしても、『とにかく、木曽兵の狼藉のすさまじさは、史上空前というべきであろう。むろん絶後である。何万という盗賊が入り込んだとおもえばよい。群れをなして横行し、一群れが女をみつければ、路上、軒下にひきだして犯し、その一群れがつぎつぎに犯すために多くの女がそのために息が絶えた。また軒なみに略奪し、家をこわして物品をさがし、さらには蔵をくずし、その床下まで掘る者もある。・・・義仲も行家も、これには手のつけようがない。・・・義仲じきじきの木曽部隊は―――ほんの千人そこそこ・・・もともとが雑軍なのである。・・・土地ももたぬあぶれ者が多い。それどころか、本物の盗賊さえ加わっている。「京にさえのぼれば」という、手に唾(つば)するような意気ごみでついてきた者であり、元来が物盗りが目的であった。』


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。




司馬遼太郎「義経」を読む 第16回

2022年06月16日 | ブログ
乱世

 遠江(とおとうみ)以東の東国はほぼ頼朝でおさまったが、諸国で他流の源氏や不平分子が平家討滅のために蜂起し、あわよくば自立しようとしていた。

 頼朝、義経の叔父にあたる策士新宮十郎行家は、頼朝の勢力のおよばぬ三河・尾張で兵を集め、俄かに勢力を築きつつあり、先に京で行家が策し、藤原頼政が乗り、以仁王を担いでその令旨を出したが、その令旨を木曽谷で受け取っていた木曽義仲も一大勢力となっていた。これに清盛亡き後も京都から四国にかけてまだまだ大きな勢力を持つ平家が健在で、まさに乱世となっていた。ただ、折からの京から東海道の箱根にかけての連年の飢餓がすさまじく、大部隊の遠征や会戦は控えられていた。

 清盛の死の翌年(1182年)、平家は清盛の遺言を実行すべく、まずは三河・尾張の源氏、すなわち行家を打ち取るべく兵を展開した。頼朝は無視したかったが、源氏がただ負けたと風聞がたつのも困る。頼朝は義経の兄にあたる義円禅師に千騎を与えて従軍させた。

 行家軍は大敗し、義円も死んだ。ただ、飢餓のため平家は東国への追撃は行わず京へ帰り、行家は命をつなぎ鎌倉に逃げ帰った。義経は行家から今回の合戦の陣立てなど聞いたが、戦下手の行家には応える気もなかった。鎌倉に居場所はなく、義仲を頼り木曽に旅立つ。

 『木曽義仲は、義朝の弟にあたる帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)の遺児であり、この行家にとっては頼朝や義経と同様、甥にあたる。その亡父義賢は悪源太義平(頼朝ら兄弟の長兄)と土地問題であらそって殺された。当時義仲は二歳であった。生母は遊女である。抱かれて木曽谷へのがれ、そのあたりの豪族である中原兼遠にあずけられた。兼遠は義仲の乳母の夫にあたる。これを貴種として鄭重にそだてた。長じるにつれ、武勇は群児を圧した。体は大きく、運動に機敏で、騎射に長じた。個人としての武勇の点では、現存する源氏の族員のなかで義仲ほどの男はいないであろう。・・・・

 木曽川流域に白旗をかかげて兵をつのり、近在の平家党を駆逐するごとに勢がふえ、やがて信濃を征服し、ついには越後に侵攻した。その合戦のはげしさは烈風のようでとうてい坂東の緒将のおよぶところではない。(頼朝よりもむしろ義仲のほうが一足さきに京を占領するのではないか)とさえ、行家は思っていた。・・・』

 頼朝は無断で鎌倉から脱して木曽に向かった行家を討つとして兵を挙げ、信濃に進出し、善光寺に本陣を構えた。同行を懇願した義経は鎌倉に残している。

 これに対して義仲は北方の越後に身を避け源家同士の争いを回避したばかりか、行家を差し出すかそれがいやなら実子の義高を人質に鎌倉に差し出すように要求した頼朝に対して、義高を差し出したのである。「行家は叔父である。これを粗略にすることはできない」と言い訳したが、頼朝は、思いのほか義仲の戦力は低いと推測した。しかし義仲は頼朝との戦を後方、西の平家軍に衝かれれば、亡びるしかないとしての頼朝との思い切った講和であった。人質が木曽を出る日、木曽軍の将校たちの妻はみな泣いて送った。  
                                  
 翌年の春、義仲は公称十万騎といわれた平家の義仲追討軍を北国の山野で戦い、その主力部隊を粉砕、この当時までの戦史で空前の勝利をおさめ、京にのぼっている。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。




司馬遼太郎「義経」を読む 第15回

2022年06月13日 | ブログ
鎌倉の新府

 『義経は案内されて幕営のなかに入り、庭へまわった。庭は、幔幕ではりめぐらされている。義経は階(きざはし)の下にすわろうとすると、上から頼朝の声が落ちてきた。「上へ、上へ」その声は、懐かしさとうれしさで、すでにみだれている。義経は階をあがった。頼朝は、屋内にいる。板敷のうえに畳一枚を敷き、その畳の上に敷皮をしきかさねていたが、あがってきた義経の顔をみると、すばやく敷皮をとりつけ、それで弟の座をつくってやった。義経はもうそれだけで感動し、うつぬき、涙をぬぐった。・・・

 義経が退出し、自分の宿所に帰るべく幕営の門を出たとき、そのあたりの路上は武者や雑人でうずまっており、それらが石段をおりてくる義経をみてどよめいた。義経の足もとを、・・・らの坂東で錚錚たる大農場主が、まるで奴(やっこ)のごとくみずからたいまつをとって照らし、いんぎんに先導した。
「御曹司よ、御曹司よ」とひとびとは叫びあった。・・・

 若者は、石段をおりてくる。その小柄で清げな姿が、いっそうかれの姿を劇的にし、ひとびとを感動させた。・・・

 このころ頼朝は寝所に入ろうとしていたが、路上からきこえてくるさわぎはなおやまない。その騒ぎが、頼朝を不愉快にした。頼朝はさわぎがなにによっておこっているかを、よく知っていた。「九郎は、人気があるようだな」・・・

 そのあと、頼朝は根拠地の鎌倉に帰り、まだ頼朝に屈せずにいる常陸の佐竹氏ら二、三の豪族を討伐する準備をした。「まず関東を鎮めるのだ」と、頼朝はその方針を、何度も左右にいった。義経も、それを何度もきいた。この若者の戦略思想からいえば理解できにくいことであった。まず、京の平家を覆滅するのが先決ではないか。・・・

 頼朝にすれば、まず関東で王国をつくりたい。関東を奥州のごとく独立させることであった。不合理な公家支配の律令国家から独立し、別の土地所有体系をつくりたい。関東の地主どもにそれへの希望と期待があったればこそそれらの豪族は、源氏・平家を問わず、頼朝を盟主として押し上げたのである。頼朝はその支持者の要望にこたえねばならない。しかし頼朝とは系列のちがいすぎる義経の頭脳にはそのことが理解できなかった。・・・』

 ほどなく、奥州から秀衡が差し向けた武者が、また京から武蔵房弁慶が馳せ下り、義経の郎党に加わった。弁慶は頼朝の旗揚げを京できき、あの公達も奥州からはせ参じたであろうと、山伏姿で東海道を駆け下った。

 鎌倉に着いた弁慶は、道がととのい、家屋敷がにぎやかに普請され、武士や商人が路上に行き交う姿をみて、頼朝の新都構想を感じた。鎌倉は三方山でかこまれた要害で、一方は海に向かって開いている。一見狭いようで山際には谷が多く(五十いくつある)、すでに谷ごとに関東豪族の新邸がつくられている。その中に義経の屋敷はない。まだ頼朝の寄人にすぎない。「頼朝も、なかなか吝(しわ)い」と弁慶は思う。相応の荘園を与えられていないのだ。

 『義経は、弁慶の来着をよろこんだ。弁慶は坂東の諸豪傑などおよびもつかぬほどの怪力のもちぬしだが、世間のことにうとい義経にとってなによりの心強さは、この僧兵くずれの男がひどくわけ知りであることだった。・・・』


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。




司馬遼太郎「義経」を読む 第14回

2022年06月10日 | ブログ
富士川

 清盛が病死した前の年の十月『頼朝は、富士川西岸における平家との決戦を二十四日に予定し、先鋒の甲斐武田軍に対して、―――それまでは抜け駆けせぬように。と申しきかせてある。かくて公称数万騎をひきい、十八日に箱根山を越え、黄瀬川の宿についた。

 『山木ノ判官攻めの挙兵(八月)からまだ六十日たらずしか経っておらず、ふとわれにかえると、いまの自分が現実(うつつ)とは思えない。古来一介の流人が六十日後には忽然と大軍のぬしになり、時の政府軍を数において圧倒するにいたるなどの例はないであろう。本朝にもなく、唐土にも絶無である。おそらく後世にもあるまい。(なぜ、こうなったか)・・・頼朝はこの点、利口な男であった。かれら東国武士の不平のありかを知っていた。武士、つまり荘園の非合法な所有者たちは、自分の私有地につねに不安を感じている。自分の土地でありながら、しかし土地公有を原則とする律令国家の体制のなかではその私有が不完全にしか認められない。それを権力者によって保護してもらおうと思い平家の傘下に入ったが、その平家が地方武士の保護者たるべき自覚をうしない、公卿化し、一門の奢りにのみふけり、逆に武士どもを圧迫さえし、諸国の目代(平家官僚)を通じて徴税と労役を強化した。

 「いっそ東国は独立すべきだ」ということが意識ではなく気分として村々に満ちはじめていたとき、にわかに頼朝の決起があり、それによって噴火し爆発によってむくむくと天にのぼる噴煙に乗じたといっていいだろう。・・・・

 前線の富士川東岸に滞陣中の甲斐源氏の棟梁武田信義から急使が来陣し、――――平軍が、野から消えた。という。消えた、としか言いようのない逃げ方だという。むろん源氏と一戦にも及ばない。・・・源氏先鋒の武田軍の一部で抜け駆けを策する者あり、夜陰ひそかに川を渉ったところ、・・・幾万となく水鳥が棲んでいる。その鳥どもが人の気配におどろき、一時に翔び立った。・・・西岸から蒲原一帯にかけて宿営している平家の耳には源氏の夜襲と聞こえた。・・・

 諸将が祝賀にやってきた。「追撃して京までのぼられよ」と人々はいった。が頼朝は賛同しなかった。凶作と飢餓の上方へ攻め入れば、こんど敗北せねばならぬのは源氏であろう。それよりも鎌倉に府をつくり、関八州を律令国家から独立させることが急務だと思った。』

 義経は平泉で、頼朝の決起を知る。居ても立っても居られず、秀衡に暇乞いをして、留めるも聞かず、昔、坂東で盗賊だった二十五、六の手足の逞しい男(伊勢三郎義盛)に駄馬二頭をひかせ、平泉を去る。

 義経は箱根を越え、伊豆に入ったあたりで、富士川の平家退却を知る。頼朝もすでに黄瀬川までひきあげ、その地の寺を宿舎とした。寺の山門の前で義経は馬を降り、源家の九郎であることを告げたが、勝ち戦側の利権にあやかりたい流人や渡り神主の類と思われ、なかなか頼朝まで取り次いで貰えない。

 頼朝は今一族を持たない、北条氏の婿殿の他力本願の立場だ。縁者を慕う心は強い。奥州の義経はきっと来るという期待があった。頼朝は夕餉の後、側近から山門の若者の話を聞き、九郎であろうと直感する。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。




司馬遼太郎「義経」を読む 第13回

2022年06月07日 | ブログ
清盛

 この時期、平家の頭梁平清盛は、地方の反乱より摂津福原(神戸市)への遷都を強行していたことで忙殺されていた。ここには天然の良港があり、貿易家の清盛とって、この遷都は年来の構想であった。

 『清盛は東国武者とはまるでちがう欲望をもっている。土地よりも財宝を欲した。家代々伊勢の白子浦で内外貿易をおこない、その利のうまさのなかで成人した男だけに、この男は純然たる商人の経済観をもっていた。この点、土と稲に執着する開発地主あがりの坂東武者たちには理解できぬ男であったろう。

 公卿たちにも理解できなかった。かれらは京に執着し、福原をきらった。清盛は公卿たち一人のこらずの悪感情のなかで、この年の六月、福原に遷都を強行した。遷都は多端のなかでおこなわれた。源三位頼政の挙兵・敗死の翌月であり、頼朝挙兵の前々月である。しかも遷都の号令は突如発せられた。

 ―――すぐひきうつれ。という厳命である。天皇、法皇、上皇まっさきにひき移らされたが、かといって御所の建物もない。とりあえず平家一門の人々の別荘を宿舎としたが、その他の月卿雲客(げっけいうんかく:公卿と殿上人)たちの屋敷はなく、村寺などを宿所に借り、それ以下の官人どもにいたっては道路に寝ざるをえない者まで出た。

 ―――物に狂われたか。と、人々は清盛のわがままを恨んだが、清盛は意にも介しない。数万の人夫を追いつかい、京都の御所、公家屋敷などをこわしては福原に運ばせた。この灰神楽の立つような多忙の中で、平家の政庁は頼朝反乱の報に接したのである。実感としては遠い東国の変事より、さしあたって雨露をしのぐ仮屋敷づくりのほうが切実であった。』

 一方頼朝は、目代屋敷を急襲したが、その規模は野盗でしかなかった。あとがつづかず、大庭景親を盟主とする地方官軍三千騎に鎧袖一触されまもなく惨敗し、頼朝自身も行方しれずとなっていた。

 『第三度目の警報が福原に入ったときは、・・・石橋山から消息を絶った頼朝は、伊豆から海路安房(房総半島の先端)に渡り、しだいに坂東武者の支持を得つつあるという。・・・かれらの想像力では、せいいっぱいのところ、「捨てておけば坂東は奥州同様に独立するのではないか」という程度であり、さしあたっての現実問題は反乱が拡大しては租税が入らない。それのみを、いまはおそれた。

 征討軍が、編成された。総大将は、清盛の嫡孫維盛である。副将には、清盛の弟である薩摩守忠度(ただのり)と清盛の子三河守知度(とものり)が命じられた。・・・』

 征討軍の不運は、この年近畿五洲から山陽道にかけて農業史はじまって以来かと思われる凶作であった。一方駿河(静岡県)以東、坂東の野は豊作であった。京を九月二十九日に出発した維盛は、飢餓の野を征くこととなり、美丈夫で亡き父の重盛より英気に優れるといわれた平家武者は、この富士川の一戦に大敗した。

 翌、治承五年(1181)二月、清盛は「供養は無用、東国を討滅し頼朝の首をわが墓にかかげよ」と遺言して病死した。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。



司馬遼太郎「義経」を読む 第12回

2022年06月04日 | ブログ
頼朝起つ

 『行家が伊豆の北条屋敷に仮寓中の頼朝をおとずれたのは、治承四年四月二十七日である。・・・頼朝は、この来訪者を不審におもい、取つぎの安達盛長に問わした。「叔父である」と、行長は答えた。かつ「令旨をたずさえている。おれを粗略にするな」とも、取りつぎの盛長にいった。・・・』

 頼朝は、令旨の筐をひらくまえに舅である北条時政を呼び、時政に筐を開けるよう促した。時政は、伊東祐親とならぶ伊豆における最大の豪族である。もし挙兵ともなれば、時政の軍勢をかりなければ、頼朝は小戦もできない。

 令旨は清盛の罪を鳴らし、源氏の奮起をうながす簡潔なもので、取次ぎ者として、源三位頼政の子、仲綱の名があった。もしこの決起が成功すれば、以仁王の側近にいる頼政とその子仲綱が源氏の主流となり、頼朝は下風に立たされることが懸念される。頼朝は、ことさら諾否を明快にせず、甲斐の武田氏へもまわるように促した。行家にとっては予定の行動であり、翌朝甲斐へ発った。軽挙妄動はせず、諸方の豪族の意向をさぐり、あくまで外見は平静を装うことが頼朝の方針である。

 京の頼政も同様である。息をひそめ(頼朝は起つであろう)と待っていた。最初に起つ者が不幸である。頼朝は捨石になると目論んでいた。しかし、行家が熊野に寄って漏らした令旨の件が速やかに平家に伝わり、頼政が先に起つ羽目となり、五月二十五日宇治川付近で平家に敗れた。

 『この時期、行家は、都の急変を知ることもなく旅の空にいる。伊豆の頼朝も知らない。頼朝がこの報を知ったのは、翌六月十九日、京の通信者三善康信によってである。康信はよほどあわてたのであろう、いつものように東くだりのあきんどに頼まず、衣服を売って旅費をつくり、息子の康清を走らせている。』

 頼朝の乳母には比企ノ尼のほかに三人あり、三善康信はそのうちの一人の乳母の甥に過ぎない。その薄縁の者が十数年のあいだ、月に三度手紙を送り続けた。中宮 (皇后)のための役所の下級官吏であった三善康信。平家の世である限り、下積みの官吏で終わる自分を頼朝の将来に賭けていたとも言える。

 平家が源氏を討とうとしている。源氏の正嫡といえば頼朝である。しかし、逃げる所などない。ついに、決起に踏み切った。集まる者は北条時政の郎党を主力として二、三百に過ぎない。しかし座して待てば殺される。頼朝は挙兵の為、すでに亡くなっている以仁王の令旨を利用した。

 『この年、治承四(1180)年秋のなかば、関東から一騎、汗みずくの伝令が福原の新都に到着した。・・・「伊豆の流人頼朝が—--」と、その伝騎はその反乱を告げた。・・・近在の目代(国司の代官)屋敷を襲い、目代の山木ノ判官(ほうがん)兼隆を討ちとった、という変事である。ただし頼朝に加担したその同勢は、せいぜい二、三百人内外だという、都の印象では、地方の小暴動に過ぎない・・・』


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。




司馬遼太郎「義経」を読む 第11回

2022年06月01日 | ブログ
行家

 『時代の風雲は、まさに動こうとして、なお動かない。「いや、動かせるべきだ」と思った男が、意外な土地にいた。場所は、関東でも奥州でもなく、この地の浜の断崖を、はるかに南からきた黒潮が岩を噛んであらっている。場所は、紀州熊野の新宮であった。新宮は紀伊半島の東南端にあり、都の者からみれば、鬼がすむかと思われるような僻地であろう。

 ただ都の貴族に熊野詣という信仰習慣があり、・・・この時節から半世紀ばかりまえ、仏道楽で評判だった白河法皇が熊野詣のついでにこの新宮まで足をのばされ、・・・源氏の九代目、つまり頼朝や義経の祖父にあたる源為義も、このとき白河法皇に供奉してこの海の明るすぎる浜にきている。・・・このあたりの山伏の大将の娘のところにかよい、女児ひとりをうませ、ほどなく京へ帰り、そのあとそういう女児の存在をわすれてしまった。そのうち、この為義は保元ノ乱に敗戦して殺され、その余類も処罰された。その余類のなかで為義十男の十郎が新宮に流された。』

 流人とはいえ、十郎はこの地の連中からあたたかく迎えられた。亡父為義の落胤がいる。十郎の異母姉にあたり、土地では、「烏井(うい)ノ禅尼」とよばれてその血統を貴ばれ徳望があった。この姉が十郎を大事にそだててくれた。新宮十郎行家(当時、義盛)とよばれたこの男も、歳月がたち、禅尼も死に、流寓の地で齢三十五になっていた。

 『・・・この新宮や那智は諸国の山伏のゆききがさかんなため、僻地でありながら意外に都のうわさが多く入る。・・・後白河法皇が平家をきらい給い、一度は御謀叛をくわだてまでされた、という。九郎義経も都できいた鹿ケ谷事件である。(すわこそ、時節が到来したわ)と、行家はおもい、そう思うとこの野望家は、矢もたてもたまらなくなり、流寓の地を出奔しようとした。「おれにも、花が咲くわ。都へのぼり、源氏を再興するぞ」と、行家はその女にうちあけた。・・・行家は、山伏姿で京に潜入した。』

 ただ、行家そのものには、兵も財貨なく、源氏の傍流に過ぎない。しかし、彼には能弁があった。京に住む源氏別流の長老源三位頼政七十六歳に目をつけていた。彼は弓の名手として知られ、加えて世渡り上手である。平治ノ乱では義朝があぶないとみるや、身をひるがえして清盛に加担し、京都における源氏として唯一生き残っていた。

 丁度その頃、清盛の後継であった重盛が胃がんで死に、重盛とは似ても似つかぬ愚者宗盛がその地位についていた。その宗盛と頼政老人の息子仲綱が馬の貸し借りで諍いを起こしており、付け入る隙があった。併せて、平家一門の娘が生んだ弟の高倉天皇を帝位つけたため、後白河法皇の第二子でありながら兄の二条天皇を継ぐことができなかった以仁王(もちひとおう)の平家への不満が大きくつけ込む隙があり、頭(かしら)に仰ぐことにする。

 以仁王から令旨(りょうじ)を取り付け、これを東国の源氏にばらまき、乱を起こさせ、その鎮圧のため平家軍が手薄になった都を手中に収める算段をし、行家は令旨を携えて頼朝の下に向かった。頼政は頼朝に乱を起こさせ漁夫の利を目論んだ。しかし、行家はまっすぐ東国に行かず熊野に立ちより、令旨の件を漏らした。熊野から急使が六波羅に届いた。「以仁王ご謀叛」。頼政、仲綱は腹を切り、以仁王は流れ矢に当たって死ぬ。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。