弁慶
九郎は、奥州平泉で六年の歳月を送っているが、三年目の春を迎えたとき、「もはや、我慢できぬ、京へ上り清盛入道を討つ」と宣言して秀衡を困らせた。ただ、秀衡の舅である基成や秀衡の息子たちは九郎を快く思っておらず、京へ放逐したいと思っている。
秀衡は、九郎と共に毛越寺に参拝した後、九郎が鞍馬を脱走してからの話や、正気で、清盛を討ちたいと思っていること、仏は嫌いだと吐き、父の仇を討つため無数の殺生をするため地獄へ落ちることは覚悟しており、父、義朝も地獄にいると言った。秀衡が九郎に感じた「儚さ」の要因であったろう。
『結局、九郎は京へのぼることになった。ただ仇討ちという点は妥協し、「ただ平家の様子を見に」ということにした。出発の季節も、晩春にまでのばした。そのころ奥州塩釜から摂津(大阪府・兵庫県)大物(だいもの)ノ浦(尼崎港)まで、藤原家の貢船が出航するからである。・・・(これは、わがために幸いかもしれぬ)と、九郎の思いは、平家討滅にしかない。奥州は日本一の馬どころだけに騎馬には熟達したが、船は知らない。源氏は馬、平家は船、という。将来、騎馬戦に長じた源氏武者をひきいるだけの騎馬技術こそ身につけたが、しかし平家と船戦さをする場合の海事知識がない。この航海を幸いに、船頭、梶取(かんどり)、水夫たちから風や潮のことについて学ぼうとした。「いくらでも、お教えしますとも」と、藤原家の海員たちはいってくれた。・・・
京にのぼった九郎は、奥州からつれてきた雑人ひとりとともに、平家の屋敷町である六波羅のああたりに住み、女装した。・・・それにつけても、平家の繁栄は、ほとんどその極に達していた。すでに平家一門は、武門の風をひそめて、藤原公卿のまねをし、むしろそれ以上に華美になっているようである。・・・
滞留もあと数日というとき、九郎は女装で清水に物詣をし、人混みもまばらになった夕刻、狭い坂をくだった。途中、妙な法師に出会った。・・・尋常の僧ではなく刃杖を横たえた荒法師であった。それでも鞍馬法師ではなく、服装からみれば叡山法師であろう。顔を白麻の五条袈裟でつつみ、素絹を着、その下に黒糸縅の腹巻を着け、四尺あまりの大太刀を佩き、足駄を踏み鳴らしている。・・・背は六尺を越え、肩肉が山のように盛り上がり、足駄をふみ鳴らすごとに地がいちいちくぼむかと思われるほどの魁偉な男なのである。・・・
「お名を、きかせられ候え。拙僧は、熊野ノ別当湛増の子、叡山西塔に住む武蔵房弁慶と申す法師でござる」・・・「申されずば、拙僧(こち)が独り語りをつかまろう。聞かれよ」・・・
「若い男が女装して黄昏、蝙蝠(かわほり)のごとく辻から辻へ舞いあるくのを見るのは乱のきざしである、と陰陽道(おんようどう)にある」・・・「求めるや久し」と、法師は顔をちかづけ、小声でいった。乱をである。「鹿(しし)ケ谷の一件をご存じか」・・・法師はみずから問い、みずから語った。法皇(後白河)は平家の横暴をよろこびたまわず、ひそかに近臣をあつめ、平家覆滅の謀議をめぐらされたという。・・・「久しく山にあって乱を恋、都に出ては狼藉をはたらいていたが、いまついに恋を遂げ、その兆しの舞い歩くのを見た。すなわち、足下である」』
本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。