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司馬遼太郎「義経」を読む 第10回

2022年05月28日 | ブログ
弁慶

 九郎は、奥州平泉で六年の歳月を送っているが、三年目の春を迎えたとき、「もはや、我慢できぬ、京へ上り清盛入道を討つ」と宣言して秀衡を困らせた。ただ、秀衡の舅である基成や秀衡の息子たちは九郎を快く思っておらず、京へ放逐したいと思っている。

 秀衡は、九郎と共に毛越寺に参拝した後、九郎が鞍馬を脱走してからの話や、正気で、清盛を討ちたいと思っていること、仏は嫌いだと吐き、父の仇を討つため無数の殺生をするため地獄へ落ちることは覚悟しており、父、義朝も地獄にいると言った。秀衡が九郎に感じた「儚さ」の要因であったろう。

 『結局、九郎は京へのぼることになった。ただ仇討ちという点は妥協し、「ただ平家の様子を見に」ということにした。出発の季節も、晩春にまでのばした。そのころ奥州塩釜から摂津(大阪府・兵庫県)大物(だいもの)ノ浦(尼崎港)まで、藤原家の貢船が出航するからである。・・・(これは、わがために幸いかもしれぬ)と、九郎の思いは、平家討滅にしかない。奥州は日本一の馬どころだけに騎馬には熟達したが、船は知らない。源氏は馬、平家は船、という。将来、騎馬戦に長じた源氏武者をひきいるだけの騎馬技術こそ身につけたが、しかし平家と船戦さをする場合の海事知識がない。この航海を幸いに、船頭、梶取(かんどり)、水夫たちから風や潮のことについて学ぼうとした。「いくらでも、お教えしますとも」と、藤原家の海員たちはいってくれた。・・・

 京にのぼった九郎は、奥州からつれてきた雑人ひとりとともに、平家の屋敷町である六波羅のああたりに住み、女装した。・・・それにつけても、平家の繁栄は、ほとんどその極に達していた。すでに平家一門は、武門の風をひそめて、藤原公卿のまねをし、むしろそれ以上に華美になっているようである。・・・

 滞留もあと数日というとき、九郎は女装で清水に物詣をし、人混みもまばらになった夕刻、狭い坂をくだった。途中、妙な法師に出会った。・・・尋常の僧ではなく刃杖を横たえた荒法師であった。それでも鞍馬法師ではなく、服装からみれば叡山法師であろう。顔を白麻の五条袈裟でつつみ、素絹を着、その下に黒糸縅の腹巻を着け、四尺あまりの大太刀を佩き、足駄を踏み鳴らしている。・・・背は六尺を越え、肩肉が山のように盛り上がり、足駄をふみ鳴らすごとに地がいちいちくぼむかと思われるほどの魁偉な男なのである。・・・

 「お名を、きかせられ候え。拙僧は、熊野ノ別当湛増の子、叡山西塔に住む武蔵房弁慶と申す法師でござる」・・・「申されずば、拙僧(こち)が独り語りをつかまろう。聞かれよ」・・・

「若い男が女装して黄昏、蝙蝠(かわほり)のごとく辻から辻へ舞いあるくのを見るのは乱のきざしである、と陰陽道(おんようどう)にある」・・・「求めるや久し」と、法師は顔をちかづけ、小声でいった。乱をである。「鹿(しし)ケ谷の一件をご存じか」・・・法師はみずから問い、みずから語った。法皇(後白河)は平家の横暴をよろこびたまわず、ひそかに近臣をあつめ、平家覆滅の謀議をめぐらされたという。・・・「久しく山にあって乱を恋、都に出ては狼藉をはたらいていたが、いまついに恋を遂げ、その兆しの舞い歩くのを見た。すなわち、足下である」』


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第9回

2022年05月25日 | ブログ
藤原秀衡(ひでひら)

 与一は餞別に馬と銭を九郎にくれた。その銭を頼りに北上し、白河の関を超えると雪になった。この地はすでに蝦夷(えびす)の地であった。北上しようにも道しるべは雪に埋もれ、馬も脚を奪われ進めなくなった。馬を質に長者の家に春まで居候することになった。長者の家には十四、五歳の娘がいた。奥州では都の血を欲することは渇いた者が水を恋うよりもはげしく、若者の顔を畿内人とみて歓迎した。

 春が来た。若者がいつものように阿武隈川の河原を馬で駆けていると、吉次が待っていた。吉次は奥州筋を白河ノ関向こうまでさがし、やっと人のうわさからここに辿り着いたのだ。

 平泉に着いたが、吉次は、九郎を客殿に置いたまま秀衡にも会わせない。奥羽の王藤原秀衡は、「東夷ノ遠酋(おんしゅう)」などといわれるのをきらい、黄金の力を借りて清盛を動かし官位を、さらに列記とした藤原家から妻を得ており、そのことで都に居れなくなった舅(藤原基成)も付いてきていた。すべて吉次等(馬商人)の計らいである。娘が秀衡の息子泰衡を産んで、基成は舅の地位を確固なものにした。この舅が「源氏の小童ごとき」と卑下するため、秀衡は逆らえず、吉次にも言い含め機会を待っていた。九郎はただ馬術に専念している。

 一年が過ぎ夏のある日、秀衡が供をひきい、牛車に乗り、平泉郊外の毛越寺(もうつじ)に参拝すべく居館を出た途中、秀衡の行列の先頭を、馬で突っきった者がある。「たれぞ」先駆の者はさけび、それを追った。ところが笑いながら帰ってきた。牛車の秀衡は驚いた。ここ一年、九郎を飼い放して謁見も許していないのに、家臣はごく自然にかの若者を敬愛していたのだ。秀衡は九郎と会う絶好の機会を得た。

 『「和殿は、源九郎殿か」と秀衡は微笑とともに声をかけ、自分が秀衡でありまする、とみずから名乗った。・・・「歩いて毛越寺にまでともどもに」・・・藤原秀衡は、六十を越えている。かれの祖父清衛、父基衛は、いずれも奥羽の王者たるにふさわしい豪宕(ごうとう)な人物であったが、三代秀衡の器量はそれを越えている、という評判がある。創業の清衛は毒をぬった利刃のように油断のならぬ人物であったが、二代目基衛にいたって風貌に山岳のような大きさを加えた。三代秀衡は、前二代のそういう英気を継承しつつ、さらに寛仁大度を加え、潮の満ちあふれるような包容力があるといわれている。

 (これが秀衡か)九郎は歩きつつ、まだ見ぬころ漠然ともっていた秀衡像を、わが手であわてて掻き崩さねばならぬ狼狽を、内心に感じつづけていた。・・・

 九郎は、歩きつつおもった。倶(とも)に歩いている秀衡がなにを語り、どうふるまっているかということではなかった。秀衡のしわぶき、息づかい、ゆるゆるとした歩きかた、それらがすべて九郎を包み、九郎は何を語ることもなく、秀衡という老人の優しさを感じることができた。・・・(儚い・・・・)

 秀衡は、むしょうにこの若者の存在が気がかりになった。気になるような儚さが、この若者にはつきまとっている。(儚さが)と、秀衡はその言葉を通してこの若者をながめると、いかにもその語感にふさわしい。・・・双方、相呼ぶようななにかが、この二人を急速にむすびつけた』


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第8回

2022年05月22日 | ブログ
那須ノ与一

 義経は、頼朝に直接会いにゆかなかったが、思いは捨てきれずにいた。武蔵を過ぎ、下総の堺に入っとき、鞍馬にいる頃、東光坊の老師蓮忍を訪ねてきた立派な武士にやさしく話かけられたことを思い出し、在所を訪ね、頼朝に連絡をつけて貰おうと思った。「一足おくれて奥州へくだる」と告げて吉次と別れた。義経の奥州への苦難の旅の始まりである。

 門人に「源九郎義経」と名乗り、あるじに告げよと命じた。三日後に義経はこの屋敷に火を放って遁走している。

 『若者の孤独が続いている。道中、食と宿を得るため、農家のあらしこ(使用人)になったり、地侍の牧場で追いつかわれて 牧夫の下働きをしたりし、一日もやすらかな日を送ったことはない。・・・どの家にやとわれても食事は土間で立ながら笥(け:食器)をかかえて食い、寝るときは一朶(いちだ)のわらをあたえられて納屋のすみでわらじ虫のように背をまるめて寒をしのいだ。・・・(それにしても)と、若者はおもう。この坂東の野のひろさはどうであろう。天は闊(ひろ)く、草は遠く、遠霞むはてが見えぬほどに地がひろがっている。手をつくした盆景のような京都盆地に育った若者は、この世界にこれほどにひろびろとした野があろうとは思わなかった。・・・若者がこの関八州の地に足を踏み入れた時代には武士という新階級の天地になっていた。・・・武士とは、後世の武士ではない。大農場主、大牧場主といったようなものである。この時代、東国の農業技術が進歩した。・・・関東に住む武士団が歴史の表面に登場するにいたるのは、このせいであろう。

 若者は、奥州にゆかねばならぬ。このため関東の村々を転々としつつ北へゆき、やがて那須岳が火を噴く那須に入った。・・・国境をこえれば白河ノ関があり、・・・那須地方こそ本土のさいはての地といえるであろう。』

 若者は那須七党の中でも最も大きい那須家をたよろうと思い、ひたすらその屋敷をめざした。那須氏は今は平家の庇護をうけているが、かっては源氏に属し、義朝に隷属していた。

 那須家の当主はすでに老人であるが子が多い。開墾と戦闘に利があり、家門は強勢になる。息子だけで十二人いるがそれぞれ母親が違い、関東武士の常で兄弟仲はよくない。十一番目の与一は孤立していた。母が牧場の下人の娘で身分が格段に低かったこともある。

 与一は若者と同じ十六歳、母親の家にいることが多い。野で二人は出会った。「今夜、宿はあるのか」宿どころか、腹も空き切っている。父の館は素性の知れぬ旅人をいっさい泊めない。若者の放火事件の噂はこの地にも聞こえていたのだ。「この向こうの母の家に頼み泊めてもらってやる。」

 与一は、喋りながら馬上で弓をひきしぼった。矢を放つと蒼鷹が羽の付け根を射貫かれて落ちて来た。その妙技に若者は、ただおどろかざるをえない。

 与一の母は、花井と言う名で三十二、三歳と見え、何となく常盤に似ているように若者には思えた。花井は九郎の亡父である頭ノ殿を三度ばかり見たことがある。十日ほど経った夜、あらたまって聞いた。「もしや源家の九郎殿ではありませぬか」「もしも九郎殿におわしますならば、与一を平家への復讐の軍勢にお加えください」


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第7回

2022年05月19日 | ブログ
頼朝

 賊は退散し、吉次の隊列は進みはじめた。昨晩の騒動の中、こっそり現場にもどった吉次は事態を見た。吉次の若者への処遇がすっかりかわり、若者(義経)には馬一頭があてがわれ、口取りまでつけられた。吉次は馬上、昨日までの酷い仕打ちをくどくど詫び、「人の耳目をごまかすためで近江路に入れば詫びて処置を変えねばならぬと思っていた」といった。しかし若者は吉次が商人であり、自分を商品としてしか見ていないことを知っていた。

 『伊豆に、蛭ケ小島という在所がある。そこで国中の平家武者の監視を受けつつ流人暮らしをつづけているのが、嫡兄の頼朝であった。(どういうお人か)鞍馬にいたころから、若者はさまざまに想像をめぐらしたが、よくわからない。わかっているのは頼朝は齢十三のときに源氏が瓦解し、東国に落ちる途中、尾張で逮捕された。そのときからかぞえればもう三十近い壮齢であった。若者のなかの頼朝像は、―――亡父の寵を一身に受けた人。・・・それだけの理由で尊敬し、ほとんど宗教的尊崇に近い気持ちをいだいて成人した。

 駿府まできた。このまま南下すれば頼朝のいる伊豆の蛭ケ小島である。(兄に会いたい)・・・しかしいまそこを訪ねてゆけばどのような禍難が頼朝にふりかかるかもわからない。結局通過した。』

 当の頼朝は、数えて十四のときにここへ流された。流人には給付がないため、本来ならば飢え凍えるべきところを、比企ノ尼という女性の情けで夜具や飯米を恵まれている。武蔵比企の住人比企掃部充(ひきかもんのじょう)の妻で、頼朝に乳をくれた乳母であった。この尼が頼朝の境遇をあわれみ、はるばる武蔵から米を送り届け、頼朝の暮らしを二十年にわたってささえつづけた。さらに比企ノ尼の娘とその婿安達藤九郎盛長夫婦が配所のそばに住み、頼朝のために食事や洗濯の世話までしてくれていた。

 『頼朝の幸福は、その風ぼうであった。色白く目涼やかで、彼ほど貴族的な顔立ちを持った者は都にも少なかったであろう。・・・物言いはゆるやかで声がひくく深沈としている。そのうえ日常は物静かで、読経にあけくれていた。その声律の清らかさは、僧も及ばない。

 僧も及ばぬといえば、この若い流人の読経の量であった。毎日、心経十九巻、観音経一巻、寿命経一巻、薬師呪(やくししゅ)二十一反、尊勝陀羅尼(せんしょうだらに)七反、毘沙門呪八反、それに南無阿弥陀仏の念仏を千百ぺん唱えつづけている。

 人にきかれると、「亡父亡臣のためである」と答えた。とくに念仏の千べんは亡父義朝菩提のため、あとの百ぺんは義朝と最期を共にした鎌田正晴(正近の父)のためだというのである。父はともかく、亡臣の菩提のために十数年のあいだ毎日百ぺんの南無阿弥陀仏をとなえつづけるというのは尋常なことではない。「さすがは武門の棟梁のおん子、それほど他人(ひと)には優しや」・・・頼朝はこの読経の評判が高まるにつれ、自然その効用に気づくようになったに違いない。いまひとつこの流人にはこの地方の心ある者を惹きつける魅力があった。というより、教養へのあこがれといったほうが適当かもしれない。この流人は物をきくことがすきで、この地方の教養ある者をひどく尊敬し、謙虚に物をたずねた。・・・そういう暮らしが、続いている。』


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第6回

2022年05月16日 | ブログ
奥州へ

 吉次が遮那王と会うことは、正近に比べればはるかに容易だったかも知れない。何と言っても黄金の威力がある。寺も坊主も袖の下には弱い。祈願の筋あり、ぜひ参籠(寺などにある期間こもって祈願すること)をしたいと申し出、参籠の場所を遮那王のいる禅林坊とした。あとは従者に遮那王に渡りをつけるように命じた。

 『「吉次、おれを奥州に連れていけ」と、遮那王のほうから言いだした。遮那王の地理知識ではまだ奥州がどういうところかはよくわからない。しかしその国には古来日本の律令がおよびにくく、いまも平家の力のおよばぬところと聞いている。鞍馬を脱走して亡命するとすれば、行くさきは奥州以外にない。「頼む」遮那王はいった。事情がある。この少年の年齢であった。この齢になるまで喝食(稚児)をつづけて来られたことさえ奇跡だった。ことしこそ髪をおろし僧形になり、永久に俗界にもどれぬ身にさせられてしまうであろう。師の覚日や老師蓮忍も平家に気がねして遮那王の得度をいそぎはじめている。・・・吉次もずるい。・・・「迷惑ながら、おおせによって奥州へお伴いたしましょう。他日使いのものをよこしまする」・・・』

 吉次の隊商は二、三百にのぼる。腹巻を締め、薙刀をきらめかせ、馬に鞍を置いて三条の屋敷前の路上に集結している。都から東国への旅人も百人ほど同行する。侍、僧侶、婦人、商人、みな途中の国々での盗賊の難を避けるために加えてもらっているのだ。おびただしい荷物も、吉次が都で買い付けた商品ばかりではなく、朝廷や僧侶からことづかって途中通過する国々への手紙類も積まれる。吉次は都からの郵便業務も引き受けていたのだ。

 吉次は当初、奥州迄の道中の間に牛若を馴らし上げあげ、のちのち自分の鞭と手綱のきく人間に仕立て上げたい魂胆で、事実そう振る舞った。その立場が逆転する事件があった。

 隊商の宿は分宿する。旅籠ではなく、通例、土地の長者の屋敷に泊めてもらう。そこで、牛若は一人で元服する。そして自身で「源九郎義経」と命名する。その夜、盗賊の群れが吉次の宿舎を襲った。吉次はそれを牛若の脱走を知った六波羅の追手と思い、その場から遁走する。『(つまらぬいたずらをしたものだ)闇を走りながら、源氏の子を盗むなどという自分の酔狂を後悔した。いかに吉次が屈強でも六波羅の軍勢にはかなわない。一方、九郎冠者は部屋にいた。・・・「賊」と、とっさに直感した。・・・「逃げるな、わが指図に従え」と、吉次の雑人たちを一挙に掌握した。まず、若者は自分の素性を名乗った。源氏の棟梁源義朝の子だという。・・・八幡太郎義家以来の武門の総帥の名は、護符を頂いたように雑人ばらを安堵させた。・・・

 「賊のおもだつ者を見つけ次第、わしは素早く一太刀を行く。そのあとからすかさず群がり、滅多打ちにして打ち殺せ。賊が百人いようと、おもだつ者三、四人も打ち取れば崩れ立って退くだろう」それが戦の骨法であるということを、この若者は鞍馬のころ、異形の者どもからきいて知っている。四条の聖の鎌田正近の出現から十六の年までこの若者は毎夜、僧正ケ谷で木刀をふるって剣と体技を自修した。その間、ときどき「異形の者」があらわれ、合戦の法や先例の話などをした・・・天狗であろうといわれた。』


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第5回

2022年05月13日 | ブログ
奥州藤原

 正近は、遮那王に人皇五十六代清和天皇に始まる一巻の源家系図を示した。『いずれも遮那王でさえ知っているこの国の武門をひらいた高名の武人たちである。・・・その源家の棟梁佐馬頭(さまのかみ)義朝のもとに九人の子があり、長男が平家のために殺された源家第一の勇者といわれる異名悪源太義平であり、次男朝長はおなじく平治の乱で落ちゆくときに死ぬ。四男義門は早・・・・とたどってゆくうちに九男の項になんと、平治元(1159)年出生、母九条雑仕女牛若とある。・・・四条の聖・正門房・俗名鎌田三郎正近という人物は、歴史
のこの瞬間に出現し、そして永遠に消え去るのである。・・・

 歳月がすぎた。この歳月は鞍馬山の遮那王にとって黄金のごとく貴重であった。かれはひたすら自分の体と齢が闌(た)けることを待ちこがれた。』

 ただ、その歳月は平家をさらに強靭にしていた。平家の知行国は三十余国、その荘園(私領)は五百余ケ所。しかも草創時代からもっとも得意としていた対外貿易でも財をなし、宮廷の血さえ独占しようとしていた。清盛はその娘徳子十五歳を宮廷に入れ、翌承安二(1172)年、それを中宮に登らせている。義朝が都を落ち、尾張で死んで足掛け13年になっていた。遮那王は14歳となっていたのである。

 『その翌々年の承安四年の春、都に背の高い、髯の剃りあとのおそろしく青々とした壮漢がやってきた。「吉次(きちじ)がきた」と、この男が逢坂山を超え、粟田口から三条に入ってきたとき、すでに噂は洛中にひろまっている。ふしぎな男といっていい。商人のくせに侍烏帽子に腹巻姿の武者百人ほどをまじえた大人数を従えている。その大一座のみごとさは、人目をそばだたせる駿馬百頭をむぞうさに荷駄としてつかっていることであった。奥州の男なのである。・・・「あの荷駄はことごとく黄金ぞ」・・・

 都では坂東を未開地と見、それより北の奥州を厭うべき異国とみていた。・・・行政的にも白河以北は津軽海峡にいたるまであたかも独立国のていをなし、・・・その種族の酋長がこの広大な地帯を世襲的に支配している。その家はことさら藤原氏を名乗り、平泉を首都とし、都城の規模は京にまね、その豊かさは・・・馬だけでなく、黄金が出るのである。・・・

 奥州藤原氏は、当代秀衡から四代前の「散位(さんに)藤原経清」という位だけあって官職を持たぬ貴族の傍流の血がながれこみ、それによって夷ながら藤原氏を称するにいたっているのである。』

 当時、清盛は伊勢の白子、筑前の博多津に貿易港を持ち、摂津の福原(神戸)を整備中であった。そして清盛は吉次の奥州から運ぶ黄金で対宋貿易を行っていたのだ。吉次の目には清盛も商人としかうつらない。天下の富を動かしているのは、俺と清盛だと内心思っている。ただ、吉次が百尺下がって拝謁できる立場ではない。

 吉次はひそかに奥州に産する黄金で、直接対外貿易を行えばとほうもない富が得られると考えていた。しかし、それには平家を転覆させる必要がある。

 吉次は三条に屋敷を持ち、京の女を養っている。今回の上京で、吉次は、都のまわりのどこやらの山で、源家の御曹司が、姓を藤原と称し、ひそかに生きているという情報を掴む。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。


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司馬遼太郎「義経」を読む 第4回

2022年05月10日 | ブログ
遮那王

 牛若が鞍馬に入り、遮那王(しゃなおう)と呼ばれ、禅林坊の稚児として暮らしている頃、京では源氏の残党と言うべき、義朝の重臣鎌田次郎正晴の子「鎌田正近」が僧に姿を変えて、多くの信者を抱え「四条の聖」とあがめられるほどになっていた。

 『源氏は亡び、正近は世に敗れた。平家は諸国の富を集めて史上空前の栄華を誇っている。義朝の下で我ありと知られた鎌田正近は、あやしげな聖になって京の磧(砂地)に小屋を結び、庶人の懐を狙うしか生きる道がない。・・・源氏に所属していた坂東の武者たちもいまはことごとく平家の家人となり、その支配を受けることによってわが私領や荘園の権益を保護され保障されているのである。』

 正近は、義朝が通った「常盤」と面識があり、ひそかに常盤を訪ねて牛若の消息を聞いた。「義朝の忘れ形見の牛若が、洛北の鞍馬山にいる」絶大な勢力を誇る平家に、源氏の再興は難しいと知りながら、彼は一縷の望みを捨ててはいなかった。

 当時、鞍馬山は叡山などと同様、山そのものが宗教都市の観をなしており、麓には寺の傭兵として寺の権益を守るための僧兵の集団がある。正近は、その僧兵のなかに多数の源氏武者がまぎれこんでいることを知っている。

 正近は遮那王をさがすため、源氏武者を頼ってこの無頼の傭兵団に加入したのだ。しかし、僧兵はいわば地下人で正式の僧の世界とは往き来が少ない。しかも坊や子院の数は多く、稚児の数も多い。しかも稚児たちは山にあり、僧兵どもは麓にいる。それでも正近は、源氏武者の残党の手を借りて遮那王が禅林坊覚日にあずけられ起居していることを掴む。しかし、直接会うことなどできない。

 『遮那王のいる禅林坊は山腹にあった。山麓の仁王門をくぐって禅林坊までのあいだは、一条の坂がつづいている。坂は葛籠(つづら)の組目のようにまがり、山頂までたれが数えたか九十九の曲がり角があるという。・・・その坂を、正近は遮那王にいつかは逢えると思い、毎朝、毎夕のぼった。・・・

 師の坊の伽稚児(とぎちご)にされて以来、まるで一変したこの境遇に遮那王は動物的に反撥した。・・・ついに僧を突きのけて夜昼かまわず無断で外へ飛び出すことが多くなった。それを追っても飛鳥のようで追えるものではない。山を平地のように走り、木に登り、登るだけでなく木から木へ飛び移り、その離れ技が人間のようとも思えない。・・・

 ある宵、暮れもせぬのに天に利鎌(とがま)のような月がかかった。遮那王はその月のふしぎに憧れ、僧坊を走り出てそこここの樹間に跳梁していたが、ふと坂の下から大頭の法師が腰に太刀を佩(は)き、柏の生枝を杖についてのぼってくるのをみた。

 正近は尋常の法師ではない。若年のころから戦技を唯一の生きる道とし、兵馬のなかで五官を利(と)いできた男である。・・・足を止めた。・・・太刀をひねった。・・・(妙な法師だ)と樹上の遮那王がおもったのは、太刀をおさえこじりをあげ、体を自然に構えたこの法師の姿が、名人の舞をみるような、いかにも運動の秩序にかなったぬきさしならぬ美しさがあったからである。』牛若と正近の出会いであった。


本稿は、司馬遼太郎「義経」04年刊行の文春文庫を参考にし、『 』内は直接の引用です。


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司馬遼太郎「義経」を読む 第3回

2022年05月07日 | ブログ
「平家にあらざる者は人ではない」

 牛若が寺送りされることを知った以上、その監督者の長成としては彼と世間を遮断する必要があった。屋敷内に軟禁状態にして春を待った。

 ところが、事件が起こる。牛若はこの家に仕える者の子に自分の衣装を着せ、長成等の目を逃れ、ときどき屋敷の外へ脱けており、ある時、平家一門の三十人ばかりの派手な出で立ちの行列に遭遇する。その主は、牛若と違わぬ童形の者であったことから、より接近して見ようとしたことで、警護の武者から手痛い打擲(ちょうちゃく)を受けながら、牛若はさらに行列に向かっていった。

 幼い公達は、平清盛の孫で重盛の子、資盛(すけもり)であったと思われるが、牛若には分からない。後に一ノ谷の合戦で義経に敗れ、屋島でも敗れ、壇ノ浦の海戦で海に身を投げて死ぬ。

 この騒動で、長成は平家の執事から厳重な戒飭(かいちょく)を受け、さらに尋問される。長成は泣きたくなる思いで、平家の一執事の前で叩頭し、牛若が源義朝の遺児であることを知らないと応えた。

 『その年の春、この幼童は都の大路から姿を消している。鞍馬の山にのぼり、禅林坊の稚児にされた。平家との約束によるもので、ゆくゆくは髪をはらって僧になり、生身の人間界の籍から消されるべき運命にあった。その洛北の山中で春秋が過ぎた。
 ・・・・・・・
 都でも、同じ春秋が過ぎている。平家はいよいよ栄華をきわめ、平家一門の平(へい)大納言時忠などは、「平家にあらざる者は人ではない」とまで豪語した。この一門の栄耀驕奢(えいようきょうしゃ)は日本人がかつてその歴史の中で経験したことのないものであったろう。なぜなら平家ほどの強力なかたちで日本が統一されたことはそれ以前にはなかったのである。彼等は日本人として最初に経験した権勢の陶酔者だった。それだけにその酔いざまのみごとさはそれ以後にも例がない。平家以後、源氏、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏といった統一者があらわれたが、彼等はすでに平家の例をみている。勢い、自制心が働いた。

 都に、禿髪(かむろ)という童子がいる。「平家の」とわめいて歩くのである。「悪口をいう者はいないか」と、都の大路小路をのし歩いてゆく。「平(へい)一門への悪口雑言、陰口をたたく者あれば容赦はせぬぞ」平家が設けた官設の陰口聞き込み隊である。

 人数は、三百人もいる。禿髪とはおかっぱのことだ。そういう揃いの髪に、揃いの真赤な直垂(ひたたれ)を着ている。一目でわかる。「禿髪がきた」といえばもうそれだけで人々は口をつぐみ家のなかへこそこそと逃げこんだ。もし悪口を聴かれようものなら、禿髪どもはその家へ乱入し、家財道具を叩きこわし、当人をからめとって六波羅役所に曳いてゆく。・・・

 この禿髪という少年警察隊の創設こそ」、平家の無邪気な陶酔のあらわれであったろう。』

 この平家の時代から850年。禿髪少年警察隊をIT・AIに代えて民を監視統率する国が、この日本の近隣にある。その国に媚びる政財界人がこの国に多い。笑止である。


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司馬遼太郎「義経」を読む 第2回

2022年05月04日 | ブログ
鞍馬山へ

 牛若は、『「お父(もう)さま」という呼び方で長成を呼んでこの一条坊門の屋敷で長じた。かれは藤原家の子だと信じきっていたし、継父の長成もこの義朝の子を愛した。なんの波瀾もない。が、六つのときに弟がうまれた。自然、母の手は乳呑児の弟にとられた。「お母(たあ)さまはなぜ菊丸のみを可愛がりゃる」と、牛若は顔色を変えて抗議することがある。・・・(いやな子だ)と、実の母の身でさえおもうことがあった。・・・牛若は常盤を独占しようとし、それがままにならぬと知ると、常盤の注意をひくようないたずらをした。庭の木にのぼってわざとまっさかさまに落ち、池の水を血で染めるほどの怪我をしたこともある。

 そのくせ剛毅な性格ではない。泣き虫で甘ったれで、どこにも後に源義経になるような片鱗もなかった。いやあるいは見方によっては、牛若のこの幼児性格は形を変えて源義経のなかに生きつづけていた、ともいえるかもしれない。・・・

 牛若には異常さがあった。異常なほどに肉親の情愛を欲しがる性格で、できれば二六時中常盤の肌に自分を密着させて暮らしていたかった。常盤はそうしてやるべきであった。そうしてやれば牛若の心に人並な平衡感覚も育ち、野生も消せ、やがて平凡な大人になり、僧になり、日本歴史はかれの居ないことで別のものになったかもしれない。

 牛若は、つねに淋しさの中にいた。その淋しさが鬱屈(うっくつ)し、かれの心を鋭くした。大人たちの会話に鋭敏になった。(自分は、ひょっとするとこの家の子ではないのではないか)六歳の心情のなかでは信じられぬことだが、そんな、象(かたち)をなさぬ疑念がつねにあった。そのことが、大人の会話に関心をもたせた。・・・・

 六つの秋、牛若は彼等(奉公人たち)の立話からもっとも衝撃的なことをきいた。「牛若丸さまは、来年にはもういらっしゃらぬ」というのである。屋敷を出される、というのであった。屋敷を出て、寺に入る、というのである。信じられることではなかった。寺に入る、ということは、浮世の外に連れさられ、母や弟と切りはなされるということではないか。

 牛若はすぐ北ノ対屋に走って常盤にたしかめた。「うそでしょう?」と、この幼童も、さすがに祈るような気持ちできいた。が、うそでない証拠は、常盤の態度の急変によってわかった。常盤は泣きはじめた。常盤は、ついになにもいわなかった。・・・

 長成としては、この家で七歳まで育て、あとは無事に寺へ送らねばならない。牛若の養育、監視、寺送りの三つは、長成が平家から課せられている容赦のない義務であった。

 法的にいえば牛若は幼童ながらも時の政権から死一等を減じられた罪人である。その預かり人を長成は命じられている。もしものことがあれば平家の断獄は長政にくだる。「年が明ければすぐに鞍馬山に送ろう」と長政はいったが、常盤は哀訴した。その季節では山が寒い、というのである。「せめて春に」と常盤は頼んだ。・・・

 「春になれば、物詣(ものもうで)にも連れていって頂けましょう」と、奉公人たちはなだめた。・・・それを口実に連れ出され、鞍馬山へゆき、ついにこの屋敷へ帰ってくることはないであろう、ということを奉公人たちは知っていた。・・・』

『 』内は司馬遼太郎「義経」2004年刊行の新装文春文庫からの引用です。



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司馬遼太郎「義経」を読む 第1回

2022年05月01日 | ブログ
NHK大河の義経

 「鎌倉殿の13人」の義経は、2005年のNHKの大河に観た「義経」(原作:宮尾登美子、義経役:滝沢秀明)とは異なるイメージがある。史実の要点は曲げることは出来にくいが、英雄であっても物語となれば作者の手の中でどのようにも表現できる。

 「鎌倉殿の13人」に義経が登場するのは、第8回の「いざ、鎌倉」の回。野武士と矢をどちらが遠くに飛ばせるか競うことになり、野武士が矢を遠くに放った後、義経は矢を突然野武士の胸に向け、射殺してしまう。このシナリオを事前に読んだチーフプロデューサーさえ驚いたという、脚本の三谷幸喜の離れ業であった。

 義経を演じる菅田将暉さんの奔放な演技と相まって、概ね好評な流れで、義経の真骨頂平家討伐へドラマは佳境に入る。

 ただ、野武士を射殺した回には、田中泯さん演じる奥州藤原秀衡との義経の別れの場面もあり、秀衡の義経への深い信頼のような雰囲気が表現されており、そのことと野武士へのだまし討ちとの落差に、私には疑問が残った。

 司馬さんの小説「義経」は、義経の母常盤御前が、平治の乱に敗れた源義朝(よしとも)の間に儲けた3人の子(今若、乙若、牛若)を連れて都から逃れ、あげく清盛に救われて後、末席の公家(藤原長成)に払い下げられるところから始まる。

 常盤御前は清盛との間に女児を産んでいるが、『平家にひきとられ乳母をつけて養われている。・・・余談ながらこの清盛の娘はのちに、「三条殿」といわれ、琴と書の名手として一世を風靡し、やがて大納言藤原有房の妻になり、源平の争乱をよそに、貴族女性としての幸福な生涯を送っている。』

 時代は、皇族間の皇位継承の争い(保元の乱:1156年)に端を発し、台頭した武家同士(平家と源氏)が争った平治の乱(1159年)を経て、平清盛を頭領とする平家一門の天下となっている。

 義朝の長男は、捕らえられ六条河原で処刑されたが、三男頼朝13歳(義朝と熱田大宮司藤原季範の娘との子)は清盛の継母の池ノ禅尼の命乞いで、伊豆に流罪となり命をつないだことは誰もが知る史実である。

 『清盛は常盤へも厳重な捜索を命じ、ついに行方が知れぬとわかると、常盤の母をからめとり、六波羅役所にひきたて、手痛く調べた。そのうわさが常盤の耳に入った。たまりかねて常盤は都にあらわれ、清盛の尋問を受ける。(かの評判の常盤とはどのような女か)清盛は最初から常盤に興味があったのであろう。これがこの男の末代までの失敗になった。「三人とも、助けてやれ」兄の今若は醍醐寺に入れ、弟の乙若もゆくゆく僧にすべく叡山にあずけた。ただ末子の牛若だけは、なお乳呑児であったため常盤の手もとにいる。』
 

『 』内は司馬遼太郎「義経」2004年刊行の新装文庫。初出誌「オール讀物」昭和41年2月号~昭和43年4月号、原題は「九郎判官義経」からの引用となります。



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