中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

代表的日本人「柴五郎」 第10回

2023年10月28日 | ブログ
終章(日英同盟)

 『日本から臨時派遣隊千三百名が急派された。指揮官として参謀本部の情報部長、福島安正少将が選ばれた。・・・福島は子飼いともいうべき柴を救うために北京に一番乗りだ、と勇んだ。各国の連合軍一万人の中心となった福島は、上陸して十日足らずで三倍の兵力をもつ清国軍を壊滅させ天津を制圧した。

 籠城が長く続いた公使館区では食糧も弾薬も欠乏していた。公使館で飼っていたロバやラバも食べてしまったし、草を食べつくした支那人たちからは餓死者が続出していた。

 日本軍の活躍で連合軍が北京を制圧するや、福島は真先に公使館にかけつけた。福島と五十日余りにわたる最前線での指揮により穴だらけ泥まみれとなった軍服をまとった柴とが、万感の思いをこめて黙ったまま堅く長い握手を交わした。・・・

 翌朝二人は馬に乗って日本軍を指揮し、大蔵省を封鎖し、紫禁城の四つの正門のうち三つを日本軍が、一つを米軍が占拠し封鎖し、城内の膨大な美術品を守った。日本軍は紫禁城で確保した財宝や芸術品すべてを清国帝室に返却した。英米仏露などの兵隊や将校までが狂ったように北京のあちこちにある宮殿の略奪に走り、それを敗戦清国兵や他国軍の仕業に転嫁しているのと対照的だった。日本の廉直に好印象をもった清国は、四年後の日露戦争で日本に種々の便宜を図ってくれた。この日の午後、マクドナルド公使は列国指揮官会議に出席し、「籠城における功績の半ばは勇敢な日本兵に帰すものである」と語った。

 日本兵には農民や商人出身の者もいたが、明治二十年くらいまでに生まれた日本人に未だ勇敢、沈着、忍耐、惻隠といった武士道精神が埋火として根付いていたのである。

 義和団の乱の後、日本軍の実力と規律を目の当たりしたイギリスは、極東においてロシアに対抗できるのは日本のみと考えるようになった。北京に籠城し、柴中佐の有能さや人間性に感銘を受けた英国タイムズ紙のモリソン記者などが、紙上でしきりにロシアの脅威を訴え日英提携論を掲げた。日英同盟は数年前から川上参謀次長や福島少将、林董(ただす)外務次官など先見の明のある人々が構想していたものだった。

 日本にとって幸運だったのは北京籠城の際のマクドナルド駐清公使が、次の赴任地として駐日公使になったことである。・・・マクドナルドは、夏休みを取るという名目でロンドンに直行した。彼はヴィクトリア女王、首相、外相などに会い、北京籠城について詳しく報告し、日本軍のすばらしさを説き、「光栄ある孤立」の政策を捨て日英同盟を結ぶための根回しをした。ロシアが義和団の乱に乗じて満州を占領し、朝鮮にまで触手を伸ばし始めたこと、このままでは北京や揚子江流域のイギリス権益が脅かされ、ひいてはその脅威が英領のビルマそして生命線のインドにまで及びかねないこと、などを説いた。南アフリカでボーア戦争をしているイギリスには極東に割く兵力がない。・・・一方の日本はイギリスの有する世界一の海軍力、そして何より世界中に網を張ったイギリスの情報力に期待した。

 日英同盟は1902年1月30日、正式に調印された。・・・』

 本稿『 』は文藝春秋2023年10月号「私の代表的日本人」数学者・作家の藤原正彦先生の著作からの引用であり、ブログ誌面の関係上、一部については編集または省略させていただいています。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代表的日本人「柴五郎」 第9回

2023年10月25日 | ブログ
義和団の乱

 『「眠れる獅子」と思われていた中国が「眠れる豚」にすぎないと知った欧州列強は、死体にとりつくハイエナのように中国に群がった。ドイツが膠州湾を占領、租借し、ロシアは日本に返還させた(露独仏の三国干渉)遼東半島をちゃっかり租借して旅順を自らの軍港とし、イギリスは旅順から海を隔てて二百キロの威海衛と香港のある九龍半島南部を租借し、フランスは広州湾を占領し租借した。

 列強の目に余る横暴に、当然ながら清国民衆の憤慨は頂点に達した。「扶清滅洋(清を助け西洋を滅ぼせ)を唱える宗教団体、義和団と一緒になり1900年に武力蜂起した。西洋のシンボルたる教会を焼き討ちにし、西洋の建設した鉄道を破壊し、西洋人やキリスト教徒を攻撃し始めた。山東半島で始まった義和団の乱は天津そして北京へと移った。放火や略奪などが続出していたが清国政府は十分な取り締まりを行わなかった。十分理解できることだが、政府も義和団と同様、外国人に対し怒り心頭だったのである。

 日英米仏独露伊墺(オーストリア)など八か国の北京の公使館はまとまって公使館区域にあったが、危険を感じ天津沖にいる各国軍艦に護衛兵の急派を打電した。八カ国合わせて四百人余りの海軍陸戦隊員が集まった。日本軍からは二十五名だった。一キロ四方もある公使館区域をこれだけの人数で守るのは難しい。老幼婦女を含む居留民三百人、百名ほどの公使館員、それに逃げ込んで来た支那人キリスト教徒三千人もいる。増派を打電したが、北京・天津間の鉄道も電信線も切断されていた。清国政府に再三の警護要請をしたが何もしてくれなかった。

 中国というのは理解を絶する国である。一カ月ほどして清国政府が何とこれら八カ国に宣戦布告したのだ。八カ国のどの一国にも負ける清国がである。翌日から清国正規軍が公使館区域を包囲攻撃してきた。各国は守備隊補強のため居留民からなる義勇軍を作った。

 八カ国の兵がバラバラでは守り切れないから、連合軍を作り陸軍にいたことのある英国公使マクドナルドが指令官となった。ところが実際の戦闘が始まるとすぐ、マクドナルドは作戦や実戦指揮の上で、日本隊の司令官柴中佐が抜群の能力を持っていることに気付いた。自然に柴五郎が総指揮をとることとなった。黄色人種が白色人種の上に立つというのは、人種差別の激しい当時、前代未聞のことだった。柴中佐は勇敢さ、冷静な判断力、公平な指揮、そして人格など、誰から見ても一頭地を抜いた存在だったのである。

 各国勢が柴中佐の指揮に従った。中仏英の各語に流暢なのも役立った。我の強い国々同士のもめ事があっても柴中佐の一言で決まった。数百人の清国兵が英国公使館を包囲し、壁に穴をあけ侵入し、火を放ったことがあった。マクドナルド公使の急報を受けた柴は直ちに安藤辰五郎大尉以下八名を救援に送った。八人は群れなす清国兵の中にサーベルを抜いて突進し、たちまち敵兵を一掃してしまった。公使館の英国人達が窓から射撃している前でこれが行われたから、讃嘆の的となった。』

 TBS日曜劇場の「VIVANT」に、日本軍の「別班」という言葉が登場し話題となった。柴五郎はその先駆けかも知れないと思ったりした。

本稿『 』は引き続き、文藝春秋10月号「私の代表的日本人」藤原正彦先生の著作からの引用です。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代表的日本人「柴五郎」 第8回

2023年10月22日 | ブログ
清国の凋落

 『明治十七年、陸軍士官学校を卒業後、中尉にまで昇進した五郎は「渡清を準備せよ」との内示を受け、福建省の福州へ派遣されることになった。山川大蔵や野田裕通など恩人が送別の宴を開いてくれた。

 この頃、ハーバード大学に留学していた四兄の四朗が帰国し、その経済学に関する知識が谷千城農商務大臣の目に留まりその秘書官に採用されていた。・・・

 山紫水明の福州で二年半ほど、北京語に慣れ英語を学び、諜報活動を隠すための写真館を開いていた五郎は、北京に移り、将来、清国と戦争になった場合に必要な、北京及び周辺の精密な地図を作った。

 帰国して陸軍士官学校で兵器学の教官をしていた五郎は、明治二十四年旧土佐藩士の娘くまえと結婚した。五郎三十歳、くまえ十八歳だった。優しいくまえとの新婚生活に五郎は何十年も忘れていた心の安らぎを覚えた。翌明治二十五年には支那の専門家として参謀本部第二部支那課に戻るなど順風満帆だった。ところがその後、長女みつを産んだくまえは産後の肥立ちが悪く、急逝してしまった。

 悲嘆にくれている暇はなかった。陸軍一の切れ者川上操六参謀次長に随行して清国と韓国の視察に行くことになったのである。川上操六中将は、明治二十年に乃木希典少将や福島安正大尉とともにドイツへ留学し、欧州一のドイツ兵制を学んだ後、参謀次長として日本陸軍の近代化に取り組み、陸軍参謀本部育ての親とも言われる大物だった。

 当時、清国は1840~42年のアヘン戦争と1856~60年のアロー戦争で香港と九龍半島南部をイギリスに奪われ、1884~85年の清仏戦争ではベトナムをフランスに奪われ、ロシアには満州の北から沿海州までの膨大な地域を掠め取られていた。貪欲あこぎなヨーロッパ列強に次々に戦争を仕掛けられ、すべてに惨敗し領土を蚕食されてきた弱兵しかない清国が、かつての属領朝鮮に目をつけ、欧米勢が興味を示さないのをいいことに再び属領にしようと親清政権を作った。日本は、いずれやってくるロシアの南下から本土を守る砦として、朝鮮を支配下に置くことが不可欠と考え、清国の動きに神経を尖らせた。日本の思惑に感づいた清国は明治十九年、丁汝昌提督率いる自慢の北洋艦隊に、友好という名のもと、恫喝する目的で日本各地を訪問させた。長崎では日本の許可なく五百人の水兵たちが略奪、婦女暴行などの乱暴狼藉を働いたが、我が国は北洋艦隊の主力艦「定遠」と「鎮遠」に対抗できる戦闘艦を保有していなかったため、抗議すらできなかった。

 明治二十六年、五郎が川上参謀次長と行った三か月にわたる清韓視察の結果、「日本軍は清国に規模でははるかに下回るものの、鍛錬度や愛国心ではるかに上回り圧勝できる」という結論に達した。翌年からの日清戦争はその通りとなった。

 帰国した五郎は参謀本部第二部(情報)に戻り、中佐に昇進した。情報マンとは世界中を歩くのが仕事だが五郎も例外ではなく、日本で寛ろぐ間もなく半年後の1900年(明治三十三年)には清国公使館附けとして北京に赴任した。「柴中佐」が世界にとどろくことになる大事件が起こるとは夢想だにせず、懐かしい北京へ向かった。』

本稿『 』は引き続き、文藝春秋10月号「私の代表的日本人」藤原正彦先生の著作からの引用です。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代表的日本人「柴五郎」 第7回

2023年10月19日 | ブログ
陸軍士官へ

 『明治五年八月、十二歳となった五郎は二年ぶりに東京に戻った。・・・東京は二年前と大きく変わっていた。とりわけ仏閣が壊されているのには驚いた。日本は奈良時代の頃から神仏習合と言われ、寺の境内に神社があったり、神社に仏像が置かれたりしていた。「神と仏は一つ」と教えられてきた五郎にとって増上寺などいくつもの寺が壊されたりひどく縮小されていたのは衝撃だった。慶応四年に神仏分離令が発布され、廃仏毀釈(仏教弾圧の一環として仏像や寺院を次々と破壊すること)が盛んになったのである。戊辰戦争で天皇利用に味をしめた薩長が、日本を国家神道一本とし、これまでのように天皇の威を借ることで権力を掌握し続けようと企んだのである。

 廃仏毀釈は千年余りにわたる伝統文化を破壊した恐るべき犯罪であった。薩長の無知無教養な若輩たちによる歴史上類のない蛮行であった。実際大政奉還のあった1867年、四十九歳の西郷隆盛を除き、坂本竜馬三十一、伊藤博文二十六歳、山県有朋二十九歳、大隈重信二十五歳、板垣退助三十歳、木戸孝允三十四歳、大久保利通三十七歳と若造ばかりだった。松下村塾出身者もいるが、吉田松陰の四天王と言われた久坂玄瑞や高杉晋作など秀才四人は、大政奉還前に死んで、残ったのは無教養の凡才ばかりだった。彼等の良識の欠如は維新の犠牲者を祭るため明治二年に建立された靖国神社に、会津など東北人犠牲者を祭ることを禁止したことにも表れている。維新時、すでに佐久間象山、橋本佐内、藤田東湖など維新をリードすべきだった高い知性の人々がいず、薩長の見識も良識もない若い武断派下級武士たちによるクーデターとなったため、法外の人的犠牲や文化的犠牲が発生したのだった。・・・

 知己を頼りに、下僕として働きながらあちこちを転々としていた五郎に、青森県大参事を解任され上京していた野口裕通より手紙が届いた。「近々陸軍幼年生徒隊にて生徒を募集する試験あり、受けてみよ。これに合格すれば陸軍士官になることを得、汝武士の子なれば不服あるまじ」というものだった。五郎は嬉しさで飛び上がり、さっそく野口裕通と斗南藩大参事だった会津藩家老の山川大蔵の両恩人に保証人となってもらい願書を提出した。同時に下宿先の書生に頼み読書や算術の猛勉強を始めた。

 十一月初旬に和田倉門外の兵学寮で受験した。翌明治六年三月に「入校を許可す」との報が届いた。起居していた山川邸では大蔵も夫人も涙を流さんばかりに喜んでくれた。・・・

 明治九年になって、斗南で頑張っていた父親と三兄と兄嫁が、ついに開墾を諦め会津に戻った。・・・

 翌明治十年には西郷率いる薩摩勢による西南の役が起こった。旧会津藩士たちはこれを千載一遇のチャンス、「汚名返上戦争」ととらえ、こぞって政府軍に参加した。学業中の五郎を除いた柴家の兄弟達も「今こそ芋侍たちを木っ端微塵に叩きのめさないと泉下の母親たちに申し訳がたたない」と勇んで参戦した。・・・半年後に政府軍の総帥大久保利通が東京の紀尾井坂で暗殺された。権力掌握のため、何の理由もなく会津に朝敵の汚名をかぶせた上、血祭りにあげた元凶二人が、非業の最期を遂げたのである。五郎は国を守る陸軍にいながら、国の柱石たる二人の死を「天罰」と密かに思い溜飲を下げた。』

本稿『 』は引き続き、文藝春秋10月号「私の代表的日本人」藤原正彦先生の著作からの引用です。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代表的日本人「柴五郎」 第6回

2023年10月16日 | ブログ
曙光(しょこう)

 『長く辛い冬を生き抜いた三人は、このままでは次の冬を越すことはできないと、食料を得るため開墾を決意した。明治四年春、雪が溶けるのを待って、三人は藩から与えられた鋤や鍬を手に生まれて初めての荒地の開墾に精を出した。三人の苦境を知った三兄が東京から助けに来た。出来上がった畑に何種類かの種を蒔いた。やせ大根と小ぶりのジャガイモだけが少量だが収穫できた。野菜作りはうまく行かなかったが付近にはセリ、ワラビ、フキ、アサツキなどの山菜がいくらでもあった。主食は相変わらずオシメ粥だった。

 五郎は兄嫁を気の毒に思った。世が世なら深窓の令嬢として華道、茶道、琴、和歌などに勤しんでいるはずなのに、今はボロを着て、髪を整える油もなく、やつれた顔でオシメ粥をすすっている。冬は毎日、むしろのすき間から吹き入る寒風に震えながら、父、兄、兄嫁が無言のまま部屋の中で縄をなっている。斗南に来た人々にとっては過去も未来もなく、ただ寒さと飢えにじっと耐えるだけで、話すことなど何もなかった。

 この年(明治四年)、廃藩置県が実施され斗南藩は消滅し弘前県に併合され、次いですぐに青森県となった。斗南藩の消滅に伴い、容保の嫡子、容大公も去ったこの地に多くの藩士たちが見切りをつけ、会津、東京、北海道など各地に散って行った。

 この年の寒風吹きすさぶ師走、雪に埋もれた最果ての荒野で夢も希望もなくしていた五郎に、ついに曙光が見えた。旧斗南藩から選抜され、青森県庁の給仕として働くことになったのである。青森県のトップは二十五歳の大参事、野田裕通(ひろみち)だった。薩長軍についた熊本藩士だが、横井小楠門下として学識がり、義侠心が強く、惻隠の情に溢れた人物だった。戊辰戦争で荒廃した東北から有望な若者を書生として取り立て、有為な人材を養成しようとしていた。会津の柴五郎の他にも、水沢藩の後藤新平(満鉄初代総裁)、同じく水沢藩の斎藤実(首相)などを育てた。自らの娘を会津藩士の家に嫁がせたりもした。五郎の仕事は職員の出勤前に役所へ行き、火を用意し鉄びんや茶釜を配るといった仕事だった。斗南での仕事に比べれば何のことはなかった。飢餓と厳寒に生命を脅かされていた五郎にとって、米を食べ布団に寝る生活は夢に見たものだった。誠実さや仕事ぶりを見込まれた五郎は給仕の身分そのままで野田大参事の邸に住みこむことになった。野田は五郎を可愛がり、五郎の将来のため夜間には読書や習字の先生をつけてくれた。五郎も、討幕派、佐幕派などを一切気にせず人物本位で人を見る野田に、自らの心の底にあったこだわりが次第に融けていくのを感じていた。

 半年ほど県庁で働いた五郎は、この地に給仕として安穏に暮らしていても将来がない、兄たちのいる東京に行き、戦乱でままならなかった勉学に励みたいと思うようになった。野田大参事もすぐに賛同し励ましてくれた。』

 五郎を可愛がってくれた野田大参事の話に、自分の工場勤務に始まる高卒のサラリーマン人生で出会った、上司や歴代工場人事課長さんたちの姿を思い出していた。

  本稿『 』は文藝春秋2023年10月号「私の代表的日本人」数学者・作家の藤原正彦先生の著作からの引用し、一部については編集しています。







コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代表的日本人「柴五郎」 第5回

2023年10月13日 | ブログ
全藩民流罪

 『明治二年の六月まで山荘にいた五郎と、戦闘で負傷した長兄は、他の藩士百余名とともに東京に護送される。負傷の兄を戸板に乗せ、十数日をかけ東京に歩かされ、幕府の旧食糧倉庫に入れられた。柴家の次男は日光口の戦いで死亡していたが、生き残った父、三男、四男も同様に東京へ護送され別の所に入れられた。監視つきの言わば俘虜収容処であった。

 明治二年九月、新政府は会津藩を南部藩領であった下北半島三万石に移封した。六十七万石だった大藩の会津藩にとって三万石とは厳しい処遇であった。新領地が米もできない寒冷な瘦地で、実収わずか七千石に過ぎないこと、すなわちこの移封が新政府による日本史上ほかにない残酷無比な「全藩民流罪」であることなど誰一人知らなかった。実際この明治二年、南部藩は未曽有の大凶作で、下北は餓死者、行き倒れ、捨子で溢れていた。下北を日本一の荒地と確認したうえで会津藩を移封したのだった。

 三万石では会津藩士四千戸を養うのはとうてい無理ということで、斗南(となみ)藩と名づけられた新領地に行く者は全体の七割ほど、二千八百戸、全一万七千人となり、残りは会津、江戸、北海道などに分散した。五郎の父親は斗南に行く前に会津で墓参りをすませたいと陸路を行き、三男と四男は東京に残り将来のために勉学することになった。

 明治三年五月、五郎は長兄と品川沖で八百トンばかりの蒸気船に乗せられた。二か月ほど遅れて着いた父親とともに、一家は陸奥湾の北東端にある田名部で空家を借りた。一階が十畳ばかりの台所兼用の板敷で、二階は六畳間だった。畳は一枚もなく、障子には何も貼っていなかった。十月というのに陸奥湾からの寒風が吹きつけ、父、長兄、再婚したばかりの長兄の嫁、十歳になった五郎の四人は、板敷にむしろを敷き、骨しかない障子に米俵を縛り付け、暖炉裏に火を焚き続けて寒さをしのいだのだ。

 最果ての火山灰地である上、夏には山背と呼ばれる、冷たい親潮の上を渡ってくる北東風が吹きつけるため米も麦も育たず、どうにか育つ穀物といえば稗と粟くらいであった。・・・

 移住当初に新政府から斗南藩に下げ渡された米は二か月ほどで食べつくした。急場をしのぐため、長兄が使者として函館のデンマーク領事から米を買い付けた。ところが仲介の貿易商人が、斗南藩の支払った多額の米代を横領して逃走したため、長兄がその罪を被り東京に護送される。あばら家に残された父と兄嫁と十歳の五郎のさらなる苦難は続いた。』

 これら明治維新前後の、新政府から受けた会津藩の悲惨な有様は、昭和55年のNHK大河ドラマ第18作「獅子の時代」で、主役の菅原文太さんが架空の会津藩士「平沼銑次」を演じ、斗南藩での会津藩士の言語を絶する辛苦の様子が描かれており、それを熱心に観ていた私などには想像に難くない。

 また、太平洋戦後の衣食住に亘る貧困の経験は、会津藩士の足元にも及びもしないけれど実体験として記憶がある。さらにラジオドラマで聴いた「にあんちゃん」など、戦後の厳しい炭鉱と炭鉱夫家族の生活がだぶる。   
  
 本稿『 』は文藝春秋2023年10月号「私の代表的日本人」数学者・作家の藤原正彦先生の著作からの引用し、一部については編集しています。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代表的日本人「柴五郎」 第4回

2023年10月10日 | ブログ
悲劇

 『城下から二里ほど南の、山荘に住む大叔母きさに誘われて、母たちにも喜んで貰おうと五郎は泊りがけで、茸や栗の実取りに叔母の山荘に出掛けた。一日この沢あの峰と茸や栗を拾い集め、翌日の大雨の中を、下男と山荘を出て城下に向かうが、泥道を十分も歩かないうちに、大砲の音が大地を這い大気を震わせ始め、雨具もなくずぶ濡れの裸足の避難民と遭遇する。城の見える所まで行くと、天守閣は黒煙に覆われ、町の各所で炎が上がっていた。母や家に残した家族を案じ、五郎は走り始めた。行き交う避難民に制しされながらも必死で家を目指すが、すでに一面火の海となっており、「母上、母上」と叫ぶしかなかった。下男に慰め励まされ、山荘に戻るしかなかった。

 午後になって高齢の叔父が疲れ切った表情で城下から山荘に到着した。しばらくして奥の間に呼ばれた五郎に語った叔父の言葉に、五郎は声も出ず、涙も出ず、そのまま気を失った。

「今朝のことだ。敵が城下に侵入したが、お前の祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人は退去せず、いさぎよく自刃された。私は懇願され、介錯し、家に火を放って来た。母は死ぬ間際に、お前の養育を私に頼まれた。悲しいだろうがこれが武家の常なのだ。あきらめるのだ。いさぎよくあきらめるのだ。」

 親戚一同が密かに相談し「男子を一人でも生かし、柴家を継ぎ、藩の汚名を雪(そそ)ぐべし」ということで、最年少の五郎が選ばれたのだ。また戦闘に役立たない婦女子は、城の兵糧の浪費となると籠城せず、敵侵入とともに辱めを受けぬため自害することになっていたのだ。』

 このような悲劇は、現代の世界にも珍しいことではない。ロシアのウクライナ侵攻。ハマスとイスラエルの紛争。アフリカでは、北アフリカのリビア、西アフリカのマリからナイジェリア北部、中央アフリカ共和国とコンゴ民主共和国東部、そして東アフリカの南スーダンとソマリア南部といった地域で、近年深刻な紛争が続いている。

 このような状況の改善に、国際連合などほとんど役立っていない。世界は米露の対立から米中の対立となり、経済力を付けた中共の開発途上国の取り込みが進み、ヨーロッパ先進国でさえ、自国の国益を重視して中共に阿る。一方の旗頭である米国も、民主党と共和党、共和党の中でも前大統領のトランプ支持派とその他勢力の対立。人間の欲望のままに民主国家も複雑である。 

 これに、大水害、大地震という自然災害が加わる。北半球の被災地では冬季に向かい、家を失った人々の救済も待ったなしだが、先進国にも救助に割ける人材も資金も乏しいのが現状であろう。明日は我が身であり、自国に備えも必要である。

 地球上の人類は増加の一途を辿っているが、押しなべて先進国は少子高齢化が進んでいるのだ。そして何処にも居るが、国家や組織の方針に勝手に異議を唱え、好きな行動をとることが民主主義と取り違える国会議員も、県知事も出る始末である。

 本稿『 』は文藝春秋2023年10月号「私の代表的日本人」数学者・作家の藤原正彦先生の著作からの引用し、編集しています。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代表的日本人「柴五郎」 第3回

2023年10月07日 | ブログ
続、柴五郎の生まれた時代

 『錦旗を相手に日本人は戦えないのだ。江戸城も四月には無血開城となり、将軍慶喜は水戸に謹慎となった。薩長などの軍はここで止まらなかった。江戸城開城で矛を収めよう、という意見もあったが、長州の木戸孝允(桂小五郎)が会津征討を強く主張して譲らなかった。1864年の禁門の変(蛤御門の変)で、御所に大砲を撃つという前代未聞の不敬を働いた長州を、京都守護職の会津藩は徹底的に撃破したうえ、その後の長州征伐でも中心となったからである。また薩摩藩は庄内藩も討伐したかった。江戸の治安を乱すことで幕府の威信を傷つけようと、薩摩は江戸で浪人やヤクザなどを用い集団で放火、略奪などの狼藉を働いていた。彼らが決まって三田の薩摩藩邸に逃げ込むのを見た江戸市中取締役の庄内藩は犯人を出せと言ったが一切言うことを聞かなかったので薩摩藩邸を焼き払ったのであった。長州は会津藩に、薩摩は庄内藩に強い怨念を抱いていたのである。私怨であり逆恨みであった。薩摩藩邸焼き討ちの報を京都で耳にした主謀者西郷隆盛は、「これで開戦の口実ができもうした」と、居合わせた谷千城に言ってニヤリと笑った(隈山詒謀録)

 満八歳の柴五郎にとっても、薩長を中心とする西軍が五月に北上を始めたのは理解しがたいことだった。すでに藩主の容保公は、すべての幕府要職を辞任し、藩主の座を嗣子に譲り謹慎している。それに北上する新政府軍に何度も恭順と謝罪を表明している。会津と庄内に同情した奥羽諸藩は、まとまって新政府に対し会津と庄内の赦免歎願までした。これらすべてを拒否しての討伐だったからである。

 会津藩は座して辱めを受けるよりは、と総動員体制をしいた。可能な限り頑張り、和平の機会を探ろうという計画だった。武士だけでは不足ということで農民、町人などに募集をかけた。何と三千名近い志願者が即座に集まった。戦闘では彼らも勇敢に戦った。庄内藩でも同様だった。後年、「会津藩や庄内藩は封建制護持の元凶として討ったが会津や庄内の農民やや町民は新政府軍を歓迎した」などと薩長政府は言ったが、よくある権力者による歴史捏造に過ぎない。五郎が入学したばかりの日新館はまもなく休校となった。教室は負傷者のための病院となり、道場は弾薬製造所となった。新政府軍の北上に対応し、国境守備を固めるため、柴家では、父は場内に入り、長男と三男は越後口へ次男は日光口へと向かった。白虎隊員だった四男は熱病になり家で床についていたが、母が「柴家の男子なるぞ、父はすでに城中にあり、急ぎ父のもとに参じて、家の名を辱めるなかれ」と大声で𠮟責し無理やり送り出した。四男は蒼白な顔のまま、家族一同に見送られふらふらと城へ向かった。母は目頭を袖で押さえながら家に入った。家に残ったのは八歳の五郎以外には八十一歳の祖母、五十歳の母、長男の嫁、姉、妹の女五人だった。』

 近年まで、福島県人は山口県人を徹底嫌悪していたように聞いた。薩摩や長州の官軍の指導者であった西郷や木戸(桂)の私憤による、降伏後の会津や庄内に対する仕打ちに100年の時を経ても拭えない恨みが残った。明治維新における、明らかな薩長の勇み足であった。

 本稿『 』は文藝春秋2023年10月号「私の代表的日本人」数学者・作家の藤原正彦先生の著作からの、そのままの引用です。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代表的日本人「柴五郎」 第2回

2023年10月04日 | ブログ
柴五郎の生まれた時代

 『柴五郎は会津藩士柴佐多蔵の五男として1860年に生まれた。佐多蔵は常に上下(かみしも)着用を許された280石の上士で11人の子沢山だった。五郎は名の通り五男だが、四男五女の次に生まれたので、最年少の男子として皆に可愛がられた。

 幕末の頃、京都には諸国から尊王攘夷の過激志士が集い、天誅(要人暗殺)や強盗が横行し、治安を受け持つ京都所司代や京都町奉行はお手上げとなっていた。そこで幕府は1862年に、所司代や町奉行の上に立ち、京都の治安、御所、二条城の警備などを担う役割として京都守護職を設置した。この任を引き受けるのを会津藩を含め徳川親藩はこぞって固辞した。どの藩も財政的に苦しく、千人もの藩士を派遣する余裕などなかったからである。会津藩の家臣たちも「焚火を背負って火の中に飛び込むようなもの」と大反対した。しかし藩主、松平容保は藩祖、保科正之(三代将軍家光の異母弟)の作った会津家訓(かきん)の第一条、「大君(徳川家)の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」を説得役の松平春嶽に持ち出され、ついに承諾した。家臣たちは「これで会津藩は滅びる」と慟哭した。

 慶応四年(1868年)、長兄に手をひかれ、藩校の日新館に入学したばかりの五郎の周辺が騒がしくなった。前年の十月十四日、十五代将軍徳川慶喜が欧米の議会制度を模範とした合議制の政体を想定して大政奉還をしたが、まさにその日、幕府が単なる一大名になるのを待っていたかのように朝廷から「討幕の密勅」が下ったのであった。日本近代史の故石井孝東北大教授など多くの学者が「偽勅」とみなすものである。まだ十四歳で天皇になったばかりの明治天皇のまったくあずかり知らぬもの、西郷隆盛、大久保利通、および孝明天皇を毒殺したとの論が絶えない岩倉具視ら三人の謀議による偽文書と推測されている。薩長には新政府における権力を握りたいという強い動機があり、そのためには隠然たる勢力をもつ幕府を武力討伐すべきと考えたのである。いずれにせよ、討幕の勅旨が出たということは、幕府そしてそれを支えてきた会津が朝敵、逆賊になったということである。京都守護職として京都の治安を守り、天皇を命がけで守ってきた会津藩としては寝耳に水のことだった。すでに大政を奉還した後なのに、幕府と会津を討伐せよ、というのだから尚さらである。薩長を中心とした西軍は「錦の御旗」を掲げ」、慶応四年一月には鳥羽伏見の戦いで幕府軍を打ち破り、各地で略奪暴行を繰り返しながら江戸に進軍した。』次稿に続く。

 「勤王の志士」鞍馬天狗と言えば、正義の味方であり、幕府や会津の味方新選組は悪役と相場は決まっていた。それはお芝居の世界であり、実際にやっていたことは武力による権力闘争であり、一方が正義で他方が悪者ということはなく、結果まさに「勝てば官軍である」。ただ、歴史の転換期にあっては、たとえ密かに天皇を毒殺したことが事実であっても、長足の進化を遂げている欧米諸国、白人国家の植民地にされる懸念もあったことで、260年続いた幕府の体制を早急に根本から変える必要があり、結果としては致し方なき選択であった。

 本稿『 』は文藝春秋2023年10月号「私の代表的日本人」数学者・作家の藤原正彦先生の著作からの、そのままの引用です。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代表的日本人「柴五郎」 第1回

2023年10月01日 | ブログ
序章

 今年、文藝春秋創刊100周年記念として、8月号に「代表的日本人100人」副題「現代の知性24人が選ぶ」の特集記事があった。本稿でも7月10日にその一部を紹介している。この時24人の先生方が選ばれた代表的日本人は、それぞれ選者のコメント付きで紹介されているのだが、藤原正彦先生の選ばれた5名の代表的日本人については、毎月1名ずつより詳細な紹介が、藤原先生から述べられることになっていたようで、10月号では、3人目の「柴五郎」が紹介されていた。因みに1人目(8月号)は江戸時代の数学者「関孝和」であり、2人目は「上杉鷹山」だった。

 「上杉鷹山」は、ジョン・F・ケネディが日本の歴史上最も優れた政治家として挙げたこともあり、テレビドラマ化されるなどで衆知の人物となり、「関孝和」ついては、私も名前くらいは聞いたことはあった。しかし、3人目の「柴五郎」については、恥ずかしながら全く知らなかった。藤原先生の筆力に拠るところもあろうが、一般にあまり知られないところにも、本当に凄い日本人が居たことに感動した。そこで、本稿で藤原先生の文章をなぞって紹介したいと考えた。

 文藝春秋は国内最大の発行部数を誇る優れた月刊誌ではあるが、40万部程度、電子版もあることで、記事によっては50万を越える読者もあろうが、1億2000万人の人口の1%にも満たない。私が知らなかっただけで、すでに数百万否、数千万人の日本人は知っている(特に会津の方はほとんど知っておられるのだろう)かも知れないが、さらに多くの日本人に知って貰いたい人物であると、僭越ながら、本稿の今月のテーマに挙げさせてさせていた次第である。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする