終章(日英同盟)
『日本から臨時派遣隊千三百名が急派された。指揮官として参謀本部の情報部長、福島安正少将が選ばれた。・・・福島は子飼いともいうべき柴を救うために北京に一番乗りだ、と勇んだ。各国の連合軍一万人の中心となった福島は、上陸して十日足らずで三倍の兵力をもつ清国軍を壊滅させ天津を制圧した。
籠城が長く続いた公使館区では食糧も弾薬も欠乏していた。公使館で飼っていたロバやラバも食べてしまったし、草を食べつくした支那人たちからは餓死者が続出していた。
日本軍の活躍で連合軍が北京を制圧するや、福島は真先に公使館にかけつけた。福島と五十日余りにわたる最前線での指揮により穴だらけ泥まみれとなった軍服をまとった柴とが、万感の思いをこめて黙ったまま堅く長い握手を交わした。・・・
翌朝二人は馬に乗って日本軍を指揮し、大蔵省を封鎖し、紫禁城の四つの正門のうち三つを日本軍が、一つを米軍が占拠し封鎖し、城内の膨大な美術品を守った。日本軍は紫禁城で確保した財宝や芸術品すべてを清国帝室に返却した。英米仏露などの兵隊や将校までが狂ったように北京のあちこちにある宮殿の略奪に走り、それを敗戦清国兵や他国軍の仕業に転嫁しているのと対照的だった。日本の廉直に好印象をもった清国は、四年後の日露戦争で日本に種々の便宜を図ってくれた。この日の午後、マクドナルド公使は列国指揮官会議に出席し、「籠城における功績の半ばは勇敢な日本兵に帰すものである」と語った。
日本兵には農民や商人出身の者もいたが、明治二十年くらいまでに生まれた日本人に未だ勇敢、沈着、忍耐、惻隠といった武士道精神が埋火として根付いていたのである。
義和団の乱の後、日本軍の実力と規律を目の当たりしたイギリスは、極東においてロシアに対抗できるのは日本のみと考えるようになった。北京に籠城し、柴中佐の有能さや人間性に感銘を受けた英国タイムズ紙のモリソン記者などが、紙上でしきりにロシアの脅威を訴え日英提携論を掲げた。日英同盟は数年前から川上参謀次長や福島少将、林董(ただす)外務次官など先見の明のある人々が構想していたものだった。
日本にとって幸運だったのは北京籠城の際のマクドナルド駐清公使が、次の赴任地として駐日公使になったことである。・・・マクドナルドは、夏休みを取るという名目でロンドンに直行した。彼はヴィクトリア女王、首相、外相などに会い、北京籠城について詳しく報告し、日本軍のすばらしさを説き、「光栄ある孤立」の政策を捨て日英同盟を結ぶための根回しをした。ロシアが義和団の乱に乗じて満州を占領し、朝鮮にまで触手を伸ばし始めたこと、このままでは北京や揚子江流域のイギリス権益が脅かされ、ひいてはその脅威が英領のビルマそして生命線のインドにまで及びかねないこと、などを説いた。南アフリカでボーア戦争をしているイギリスには極東に割く兵力がない。・・・一方の日本はイギリスの有する世界一の海軍力、そして何より世界中に網を張ったイギリスの情報力に期待した。
日英同盟は1902年1月30日、正式に調印された。・・・』了
本稿『 』は文藝春秋2023年10月号「私の代表的日本人」数学者・作家の藤原正彦先生の著作からの引用であり、ブログ誌面の関係上、一部については編集または省略させていただいています。