中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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新渡戸稲造「武士道」を読む 第10回

2021年04月28日 | ブログ
「大和魂」

 『武士道の徳目は私たち日本人一般の道徳水準よりはるかに抜きんでている。今まで、私たちは連山のようにそびえ並んでいる武士道の徳目の中で、ひときわ秀でているほんのいくつかの峰を考察してきた。

 太陽が昇るとき、まずもっとも高い山頂を朱に染め、やがて次第に下方の山腹や峡谷へ光が注がれる。このことと同じように、当初、武士階級を啓発した武士道の道徳体系は、一般大衆の中からこれに追随する者を引きつけていった。

 民主主義は、天成の指導者をはぐくみ、貴族制度は人民の中に君主制にふさわしい精神を注入する。美徳は悪徳に劣らず伝染した。

 「たった一人の賢人が仲間の中にいれば良い。そうすれば全員が賢くなる。伝染力というものはかくも急速である」とエマソン(ラルフ・ワルド・エマーソン:1803-1882:米国の思想家、哲学者、詩人)はいう。・・・ 

 過去の日本はサムライにそのすべてを負っている、といっても過言ではないだろう。彼らは民族の花であり、かつ根源でもあったのだ。・・・社会的存在としては、武士は一般庶民に対して超越的な地位にあった。けれども彼らは道徳の規範を定め、みずからその模範を示すことによって民衆を導いた。・・・

 サムライは民族全体の「美しき理想」となった。「花は桜木、人は武士」と歌われた俗謡は津々浦々に行き渡った。

 武士階級は営利を追求することを堅く禁じられていたために、直接商売の手助けをするということはしなかった。しかしながら、いかなる人間の行動も、いかなる思考の方法も、武士道からの刺激を受けずにはいられなかった。日本の知性と道徳は、直接的にも、間接的にも武士道の所産であった。・・・

 武士道は当初、「エリート」の栄光として登場した。だがやがて国民全体の憧れとなり、その精神となった。庶民は武士の道徳的高みにまで達することはできなかったが、「大和魂」、すなわち日本人の魂は、究めるところこの島国の民族精神性を表すにいたった。・・・

 本居宣長は、“しきしまのやまと心を人とはば 朝日ににほふ山ざくらばな”と詠んで日本人の純粋無垢な心情を示す言葉として表した。たしかに、サクラは私たち日本人が古来から最も愛した花である。・・・サクラの花の美しさには、気品があること、そしてまた、優雅であることが、他のどの花よりも「私たち日本人」の美的感覚に訴えるのである。・・・

 武士道は、ひとつの無意識的な、あがなうことのできない力として、日本国民およびその一人一人を動かしてきた。近代日本のもっとも輝かしい先駆者の一人である吉田松陰が刑死前夜にしたためた次の歌は日本国民の偽らざる告白である。

 “かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂”

 系統立てて説かれるわけではないが、武士道は日本の活動精神、推進力であったし、また現に今もそうである。』  了

 本稿は、奈良本辰也氏訳、新渡戸稲造「武士道」(1997年初版、株式会社三笠書房)からの引用により編集したものです。



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新渡戸稲造「武士道」を読む 第9回

2021年04月25日 | ブログ
武士道が求めた女性の理想像

 『人類の半数を占める女性は、時には矛盾(パラドックス)の典型とよばれる。というのは、女性の心の直観的なはたらきは、男性の「算数的理解力」をはるかに超えているからである。「神秘的」あるいは「不可知」を意味する「妙」という漢字は、「若い」という意味の「少」と「女」という二つの漢字が組み合わされている。というのは女性の身体の美しさと、繊細な発想は、男性の粗雑な心理的理解力では説明できないからである。

 ・・・妻を意味する漢字である「婦」は箒(ほうき)を持っている女性を表している。その箒は当然のことながら、結婚相手に対して攻撃したり、防御するために振り回すためではない。また魔法を用いるためでもない。それは箒が最初に考案されたときの無害な使い方にもとづいている。

 英語の場合、妻(wife)は織り手、娘(daughter)は乳しぼりという語源から発生したが、漢字の「婦」の場合も、それらに劣らず家庭的な語源である。・・・

 武士道は本来、男性のために作られた教えである。したがって武士道が女性について重んじた徳目も女性的なものからかけ離れていたのはむしろ当然であった。・・・

 武士道は、同じく「自己自身を女性の有する弱さから解き放ち、もっとも強く、かつ勇敢である男性にもけっして負けない英雄的な武勇を示した」女性を讃えた。したがって若い娘たちは、感情を抑制し、神経を鍛え、武器、特に長い柄の「薙刀(なぎなた)」とよばれる武器をあやつり、不慮の争いに対して自己の身体を守れるように訓練された。

 しかし、この種の武芸習得の主な動機は、戦場でそれを用いるためではない。それは二つの動機、すなわち一つは個人のためであり、もう一つは家のためであった。主君をもたない女性は自分の身を護る術を鍛えた。女性は夫たちが主君の身を護るのと同じくらいの熱意でわが身を潔く守った。女性の武芸の家庭における効用は、のちにみるように息子たちの教育にあった。・・・

 ・・・貞操はサムライの妻にとってはもっとも貴ばれた徳目であって、生命を賭しても守るべきものとされていたのである。・・・

 ・・・サムライの子女の踊りは立居振舞をなめらかにするためにのみ教えられた。詩吟や鳴り物は父あるいは夫の憂さを晴らすためのものであった。・・・

 家を治めることが女性教育の理念であった。古き日本の女性の芸事は武芸であれ、文書であれ、主として家のためのものであった。・・・

 女性が夫、家、そして家族のために、わが生命を引き渡すことは、男が主君と国のために身を捨てることと同様にみずからの意志にもとづくものであって、かつ名誉あることとされた。・・・妻たちが果たした役目は「内助」の功として認められた。・・・彼女は夫のために自己を捨て、夫はそれによって主君のために自己を捨て、最後に主君は天に従うことが出来るというわけである。』

 本稿は、奈良本辰也氏訳、新渡戸稲造「武士道」(1997年初版、株式会社三笠書房)からの引用により編集したものです。



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新渡戸稲造「武士道」を読む 第8回

2021年04月22日 | ブログ
「切腹」そして「刀」

 『・・・日本人の切腹に対する考えが、嫌悪や、まして嘲笑によってそこなわれることはないと信じる。

 徳、偉大、優しさなどという考えは驚くほど多様に変化する。したがって死のもっとも醜い形式にも崇高さを帯びさせ、そして新しい生命の象徴にさえなるのである。・・・

 日本人の心の中で切腹がいささかも不合理でないとするのは、・・・身体の中で特にこの部分を選んで切るのは、その部分が霊魂と愛情の宿るところであるという古い解剖学の信念にもとづいていたのである。・・・

 ・・・切腹は一つの法制度であり、同時に儀式典礼であった。中世に発明された切腹とは、武士がみずからの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、朋友を救い、みずからの誠実さを証明する方法であった。

 法律上の処罰として切腹が行われるときには、それ相応の儀式が実行された。それは純化された自己破壊であった。きわめて冷静な感情と落ち着いた態度がなければ、誰も切腹などを行いうるはずはなかった。・・・切腹はいかにも武士階級にふさわしいものであった。
 ・・・
 武士道は刀をその力と武勇の象徴とした。・・・

 サムライの子弟はごく幼いころから刀を振りまわすことを学んだ。彼らは五歳になると、サムライの正装に身をつつみ、碁盤の上に立たされた。そして、それまでもてあそんでいた玩具の短刀のかわりに本物の刀を腰にさすことで、武士の仲間入りを許された。・・・ 

 ・・・十五歳で元服し、独り立ちの行動を許されると、彼はいまやどんな時にも役に立ち得る鋭利な武器を所持することに誇りを感じる。危険な武器を持つことは、一面、彼に自尊心や責任感をいだかせる。

「伊達(だて)に刀はささぬ」

その腰に差しているものは、彼がその心中にいだいている忠誠と名誉の象徴である。・・・

 刀匠は単なる鍛冶屋ではなく、神の思し召し受ける工芸家であった。その仕事場は聖なる場所ですらあった。彼は毎日、神仏に祈りを捧げ、みそぎをしてから仕事を始める・・・・

 ・・・鞘から引き抜かれた瞬間、表面に大気中の水蒸気を集める氷のごとき刀身、その清冽な肌合い。青白く輝く閃光。比類なき焼刃。それらは歴史と未来が秘められている。それに絶妙な美しさと、最大限の強度を結びつけている“そり”のある背----これらのすべてが力と美、畏敬と恐怖の混在した感情を私たちに抱かせる。・・・

 武士道は適切な刀の使用を強調し、不当不正な使用に対しては厳しく非難し、かつそれを忌み嫌った。やたらと刀を振り回す者は、むしろ卑怯者か、虚勢をはるものとされた。沈着冷静な人物は、刀を用いるべきときはどのような場合であるかを知っている。そしてそのような機会はじつのところ、ごく稀にしかやってこないのである。・・・』


 本稿は、奈良本辰也氏訳、新渡戸稲造「武士道」(1997年初版、株式会社三笠書房)からの引用により編集したものです。



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新渡戸稲造「武士道」を読む 第7回

2021年04月19日 | ブログ
サムライが追求した「品性」とは何か

 『武士の訓育にあたって第一に必要とされたのは、その品性を高めることであった。そして明らかにそれとわかる思慮、知性、雄弁などは第二義的なものとされた。 

 ・・・それらは教養ある人にとっては不可欠であるが、サムライの訓育にあたって本質をなすもの、というよりむしろ外見であった。知能が優秀であることはもちろん重んじられた。だが知性を意味するときに用いられる「知」という漢字は、第一に叡知(深遠な道理をさとりうるすぐれた才知:広辞苑)を意味し、知識は従属的な地位を与えられるにすぎなかった。

 武士道の枠組みを支えているかなえの三つの脚は「智、仁、勇」といわれ、それぞれ、知恵、慈悲、勇気を意味している。・・・

 また儒学や文学は武士の知的訓練の主要な部分を形成している。しかしそれらを学ぶときでさえ、サムライが求めたものは客観的真実ではなかった。つまりそれらは戦闘場面や政争を説明するためでではなく、文学の場合は勉学の合間を埋めるものとして、儒学はその品性を確立するための実践的な補助手段として追及されたのである。

 以上述べたことから、武士道の訓育においては、その教科とされるものは主として剣術、「柔術」もしくは「やわら」、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、そして歴史によって構成されていることは、驚くにあたらないだろう。・・・

 多くの藩で藩財政は小身の武士か僧侶に任されていた。もちろん思慮のある武士は誰でも軍資金の意義を認めていた。しかし金銭の価値を徳にまで引き上げることは考えもしなかった。武士道が節倹を説いたのは事実である。だがそれは理財のためではなく節制の訓練のためであった。

 奢侈は人格に影響を及ぼす最大の脅威と考えられた。もっとも厳格かつ質素な生活が武士階級に要求された。多くの藩では倹約令が実行された。・・・

 このように金銭や金銭に対して執着することが無視されてきた結果、武士道そのものは金銭に由来する無数の悪徳から免れてきた。

 このことがわが国の公務に携わる人びとが長い間堕落を免れていた事実を説明するに足る十分な理由である。だが惜しいかな。現代においては、なんと急速に金権政治がはびこってきたことか。

 頭脳の訓練は今日では主として数学の勉強によって助けられている。だが当時は文学の解釈や道義的な議論をたたかわすことによってなされた。・・・若人を教育する主たる目的は品性を高めることであった。・・・単に博学であるだけで人の尊敬をかちうることはできなかった。・・・

 教える者が、知性ではなく品性を、頭脳ではなくその心性を働きかける素材として用いるとき、教師の職務はある程度まで聖職的な色彩をおびる。

 「私を生んだのは父母である。私を人たらしめるのは教師である」この考えがいきわたるとともに、教師が受けた尊敬はきわめて高かった。・・・』


 本稿は、奈良本辰也氏訳、新渡戸稲造「武士道」(1997年初版、株式会社三笠書房)からの引用により編集したものです。



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新渡戸稲造「武士道」を読む 第6回

2021年04月16日 | ブログ
「名誉」そして「忠義」

 『名誉は武士階級の義務と特権を重んじるように、幼児の頃から教え込まれるサムライの特色をなすものであった。・・・

 人の名声、それは「人を人たらしめている部分、そしてそれを差し引くと残るのは獣性しかない」という考えはごく当然のことと思われた。その高潔さに対するいかなる侵害も恥とされた。そして「羞恥心」という感性を大切にすることは、彼らの幼少のころの教育においても、まずはじめに行われたことであった。「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」などということばは過ちをおかした少年の振舞を正す最後の切札であった。・・・

 名誉に対するサムライの極端な感覚の中に、私たちは香り高い徳の素地を認めることができる。・・・些細な挑発に腹を立てることは「短気」として嘲笑される。

 よく知られた格言に「ならぬ堪忍、するが堪忍」というのがある。偉大な人物であった徳川家康は、後世の人びとに「人の一生は重荷を負うて行くが如し。急ぐべからず。堪忍は無事長久の基・・・。己を責めて人を責めるべからず」といっている。家康はみずからが説いたことを自分の一生で証明した。・・・

 寛容、忍耐、寛大という境地の崇高な高みにまで到達した人はごく稀であった。・・・名誉は「境遇から生じるものではなく」て、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ、と気づいているのは、ごくわずかの高徳の人びとだけである。・・・

 若者が追求しなければならない目標は富や知識ではなく、名誉である。・・・

 もし名誉が名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われていた。したがって生命より大切とする根拠が示されれば、生命はいつでも心静かに、かつその場で棄てられたのである。

 どのような生命の犠牲を払っても高価にすぎる、と思われるものの中に忠義がある。それは封建制度の中のかずかずの徳を結びつけ、均衡のとれたアーチとする要石である。

 封建道徳はそれ以外の徳目を他の倫理体系や他の階級の人びとと共有している。しかしこの忠義という徳目、すなわち、主君に対する臣従の礼と忠誠の義務は封建道徳を顕著に特色づけている。・・・

 私たち日本人が考えている忠義は、他の国ではほとんどその信奉者を見出すことはできないだろう。そのことは私たちの考え方がまちがっているからではない。

 それは他の国では忠義が忘れ去られていたり、また私たちが他の国では到達しなかったくらいまでその考え方を進めたからである。・・・

 武士道は私たちの良心を主君や国王の奴隷として売り渡せとは命じなかった。・・・

 おのれの良心を主君の気まぐれや酔狂、思いつきなどの犠牲(いけにえ)にする者に対しては、武士道の評価はきわめて厳しかった。そのような者は「佞臣(ねいしん)」すなわち無節操なへつらいをもって主君の機嫌をとる者、あるいは「寵臣」すなわち奴隷のごとき追従の手段を弄して主君の意を迎えようとする者として軽蔑された。』
 

本稿は、奈良本辰也氏訳、新渡戸稲造「武士道」(1997年初版、株式会社三笠書房)からの引用により編集したものです。



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新渡戸稲造「武士道」を読む 第5回

2021年04月13日 | ブログ
「礼」と「誠」

 『優しい感情を育てることが、他者の苦しみに対する思いやりの気持ちを育てる。他者の感情を尊重することから生まれる謙虚さ、慇懃さが礼の根源である。礼とは他人に対する思いやりを表現すること。・・・礼とは、他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することである。・・・

 礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づく。 私たちは敬虔な気持ちをもって、礼は「長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない」ものであるといえる。・・・

 礼儀作法を社交上欠くことができないものとして、青少年に正しい社会上の振舞を教えこむための入念な礼儀の体系が出来上がることは当然のことのように思われた。人に挨拶するときはどのようにお辞儀をするのか、どのように歩を運び、どのように座るのか、などがこと細かな規範とともに教えられ、かつ学ばれた。食事の作法は学問にまでなった。

 茶をたてたり飲んだりすることも儀式にまで高められた。教養のある者は、これらすべてのことを当然のこととして身につけていることが期待された。・・・

 茶の湯は儀式以上のものである。それは芸術である。それは詩であり、リズムを作っている理路整然とした動作である。それは精神修養の実践方式である。茶の湯の最大の価値はこの最後の点にある。茶の湯の愛好者の心の中にはその他の点にこだわる場合も決して少なくはない。しかしそのことは茶の湯の本質が精神的なものではない、ということを意味するものではない。・・・

 なぜなら礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちよってものごとを行うので、いつも優美な感受性として表われる。礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。・・・

 真実性と誠意がなくては、礼は道化芝居か見世物のたぐいにおちいる。伊達政宗は「度を越えた礼は、もはやまやかしである」といっている。・・・

 孔子は『中庸』の中で誠をあがめ、超越的な力をそれに与えて、ほとんど神と同格であるとした。すなわち「誠なる者は物の終始なり。誠ならざれば物なし」と。そして孔子が熱心に説くところによれば、誠は次の通りである。まず至誠は広々として深厚であり、しかも、はるかな未来にわたって限りがない性質をもっている。そして意識的に動かすことなく相手を変化させ、また意識的に働きかけることなく、みずから目的を達成する力をもっている。・・・

 嘘をつくこと、あるいはごまかしは、等しく臆病とみなされた。武士は自分たちの高い社会的身分が商人や農民よりも、より高い誠の水準を求められていると考えていた。・・・

 武士のことばは重みをもっているとされていたので、約束はおおむね証文無しで決められ、かつ実行された。・・・

 「嘘」という日本語は真実(誠)でないこと、あるいは本当でないこと全部を示すために用いられている。』


本稿は、奈良本辰也氏訳、新渡戸稲造「武士道」(1997年初版、株式会社三笠書房)からの引用により編集したものです。



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新渡戸稲造「武士道」を読む 第4回

2021年04月10日 | ブログ
「仁」“人の上に立つ条件とは何か”

 『民を治める者の必要条件は「仁」にあり』

 最近のわが国の政治家には、残念ながらこの「仁」がほとんど感じられない。口先の出まかせで嘘をつき、官僚を怒鳴りつけ、人事で恐れさせて従わせるという、「仁」とは正反対の人心収攬の反語である妖言惑衆による政治では、ほとんどの国民には響かない。民を治める者の必要条件を総理大臣さえ満たしていないのだ。政治家や財界のリーダー層が小粒になった以前に、目先の欲得(金銭欲・権力欲)に目がくらみ、人間として最も大切な心の修練を怠っているのだ。

 『愛、寛容、他者への同情、憐憫(あわれみ)の情はいつも至高の徳、すなわち人間の魂がもつあらゆる性質の中の最高のものと認められてきた。・・・

 孔子(BC551-BC479:春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒教の始祖)や孟子は、幾度となく民を治める者がもたねばならぬ必要条件の最高は仁にあり、と。

 孔子はいう。「君子は先ず徳を慎む。徳あればここに人あり、人あればここに士あり、士あればここに財あり、財あればここに用あり、財とは末なり」と。・・・

 私(新渡戸)はいかなる種類の専制も支持するものではない。だが封建制を専制と同一視することはあきらかに誤りである。フリードリ大王(1721-1786:プロシア王。啓蒙専制君主の典型としてながくプロシア精神の象徴とされる。官僚制、軍隊の改革を通じてプロシア国家の近代化の努力を続けた)が「朕は国家の第一の召使である」と書いたとき、法律学者たちは、自由の発達が新しい時代に到達したのだ、と正しくも信じた。

 あたかも時を同じくして日本の東北の山間部にある米沢では、上杉鷹山はまさに同一の宣言をしていたのだ。「国家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民には之無候」と。封建君主は自分の家臣に対して相互的な義務を負っているとは考えなかった。しかしながら祖先や天に対しては高い責任感を持っていた。・・・

 ビスマルクは「絶対主義は第一に支配する者に対して公平さ、正直さ、なさねばならぬことへの献身、精力的活動、および内的な謙遜さを要求する」といっている。・・・

 仁は、やさしく、母のような徳である。高潔な義と、厳格な正義を、特に男性的であるとするならば、慈愛は女性的な性質であるやさしさと諭す力を備えている。私たちは公正さと義で物事を計らないで、むやみに慈愛に心を奪われてしまうことのないように教えられている。伊達政宗は、そのことをよく引用される警句をもって「義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる」と的確にもいい表わしている。・・・

 「武士の情け」すなわち武士の優しさは私たちの内にも存在するある種の高潔なものに訴える響きを持っている。このことはサムライの慈悲が他の人びとも持っている慈悲とその種類を異にする、というのではない。それはサムライの慈悲が盲目的衝動ではなく、正義に対する適切な配慮を認めているということを意味している。・・・
か弱い者、劣った者、敗れた者への仁は特にサムライに似つかわしいものとして、いつも奨励されていた。』

本稿は、奈良本辰也氏訳、新渡戸稲造「武士道」(1997年初版、株式会社三笠書房)からの引用により編集したものです。



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新渡戸稲造「武士道」を読む 第3回

2021年04月07日 | ブログ
「義」と「勇」

 『「義」は「勇」と並ぶ武士道の双生児である・・・

 サムライにとって裏取引や不正な行いほどいまわしいものはない。・・・

 ある高名な武士はそれを決断する力と定義して次のように述べている。「勇は義の相手にて裁断の事也。道理に任せて決定して猶予せざる心をいふ也。死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ事也」

 また他の武士はいう。「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ることを得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」と。

 孟子(BC372-BC289:儒教の思想家・哲学者)は「仁は人の安宅なり、義は人の正路なりといった。・・・孟子によれば、要するに義とは、人が失われた楽園を再び手中にするために必ず通過しなければならぬ、直(すぐ)なる、狭い道である。

 封建制の末期、長く続いた泰平が武士階級の生活に余暇をもたらした。あらゆる種類の遊興や、上品な技芸のたしなみを生んだこの時代でさえ、義士というよび名は、学問や技芸の道をきわめたことを意味するいかなる名前よりすぐれたものと考えられた。四十七人の忠臣は、私たちが受けた大衆教育では四十七人の義士として知られている。

 ・・・この素直で、正直な、男らしい徳行はもっとも光り輝く宝の珠であった。それは絶大なる賞讃をかちえた。義は、もうひとつの勇敢という徳行と並ぶ、武道の双生児である。

 だが勇について語る前に、私は義から派生したあるものについて、しばらく語ってみよう。・・・つまり、ここで私は「義理」について述べようとしているのである。これは文字通り「正義の道理」なのである。しかしそれはしだいに世論が果たすべき義務と、世論が期待する漠然とした義務感を意味するものになってしまった。その本来的、あるいは純粋な意味において、義理とは純粋かつ単純な義務をさしていた。・・・

 私(新渡戸)は、義理は人間が作りあげた社会のひとつの産物だと思う。ある社会では、誕生の偶然や功なくして得た恩典が階級的な差異を決める。家族が社会の単位であり、才能の優秀さよりも年長者であることが重んじられる。・・・

 なぜ娘は父の放蕩のために費やされた金を得るため、その身を売らねばならないか・・・・のように。・・・「正義の道理」からはるか別のところへ持ち運ばれてしまった義理は、驚くべきことばの誤用である。義理はその翼の下にあらゆるたぐいの詭弁と偽善をかかえこんだ。

 もし「武士道」が鋭敏で正当な勇気の感性、果敢と忍耐の感性をもっていなかったとすれば、義理はたやすく臆病の巣に成り下がっていたに違いない。

 勇気は、義によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はないとされた。・・・「勇気とは正しいことをすることである」・・・』
 
本稿は、奈良本辰也氏訳、新渡戸稲造「武士道」(1997年初版、株式会社三笠書房)からの引用により編集したものです。


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新渡戸稲造「武士道」を読む 第2回

2021年04月04日 | ブログ
武士道とは何か

 『武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である。わが国の歴史の本棚の中におさめられている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本のひとつではない。それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手に触れる姿や形は持たないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちをひきつけてやまない存在であることを十分に気付かせてくれる。』第1章冒頭の一説である。この本が書かれた19世紀末の当時の日本の今は、21世紀も20年を過ぎた日本の今ではない。

 今や、この国にあって「武士道」は、「ひからびた標本」にさえ思えるのは私だけであろうか。政治家や官僚など国家のリーダー層の体たらくを見せつけられる度に、逆説的に武士道を思うのである。

 それなら、西洋のごとく宗教教育が道徳を学ぶのにこの国でも有効かどうか。日本の政治の世界で、宗教団体が支援し成立している与党の一角を成す公明党の現在の党首が、次のような発言をしているのを見ると、宗教というものも全く信じられないと確信する。オウム真理教の事件もそんなに昔の話ではない。

 『公明党の山口代表は30日の記者会見で、中国新疆ウイグル自治区の人権問題を廻る対中制裁について「人権侵害を根拠を持って認定できる基礎がなければ、いたずらに外交問題を招きかねない」と述べ、否定的な考えを示した。山口氏は「中国は最大の貿易相手国で圧倒的な交流があり、(対中制裁を行っている)欧州の国々とは厚みが全く違う」と強調した。』<3月31日、読売新聞朝刊>

 これは財界人の発言ではないのだ。「人権侵害を根拠を持って認定できる基礎がなければ」とは詭弁に過ぎない。宗教は建前であっても博愛主義、人道主義を標榜するもので、経済重視の資本主義社会にあっても、貧富の差を是正し、すべての人々に幸を導く存在でなくてはならない。経済的つながりが強いから、隣国の人権迫害にも目を瞑れとは、言いも言ったりである。この国の政治を腐らせた元凶のようにさえ映る。

 『私(新渡戸)がおおまかに武士道(シバルリー)と表現した日本語のことばは、その語源において騎士道(ホースマンシップ)よりももっと多くの意味あいをもっている。ブ・シ・ドゥとは字義どおりには、武・士・道である。戦士たる高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味している。

 武士道は一言でいえば「騎士道の規律」、武士階級の「高い身分に伴う義務(ノブレス・オブリージュ)」である。・・・武士道とは、武士が守るべきものとして要求され、あるいは教育をうける道徳的徳目の作法である。・・・武士道はどのような有能な人物であろうとも、一個の頭脳が創造しえたものではない。また、いかなる卓抜な人物であったとしても、ある人物がその生涯を賭けて作りだしたものでもなかった。むしろ、それは何十年、何百年にもわたって武士の生き方の有機的産物であった。』



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新渡戸稲造「武士道」を読む 第1回

2021年04月01日 | ブログ
プロローグ

 新一万円札の肖像として渋沢栄一が選ばれ、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」はその渋沢栄一の物語である。渋沢栄一の「論語と算盤」は、その晩年の著書というが、そこには論語にとどまらない武士道精神が流れている。

 『渋沢栄一は、国家のため命をかけ、武士道を貫き通した実業家でもある。日本の経営者も平和への過剰適応から脱して、世界的視野に立った知略に基づく、実践知経営に転換する必要がある』。-日経ビジネス「野中郁次郎「人間的」経営論」より-

 新渡戸稲造の「武士道」は、1898年、新渡戸が37歳の時、アメリカ滞在中に英文で書かれ、欧米人に大反響を巻き起こした名著である。英語版だけでなく、ポーランド、ドイツ、ノルウェー、スペイン、ロシア、イタリア語などさまざまな国の言葉に訳された。岡倉天心の「茶の本」にならんで、明治の日本が世界に誇る、質の高い堂々たるベストセラーであった。

 新渡戸がこの本を書こうと思ったきっかけのエピソードが、第1版序文にある。『約10年前、著名なベルギーの法学者、故ラブレー氏の家で歓待をうけて数日を過ごしたことがある。ある日の散歩中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。

 「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。

 そのとき、私はその質問にがく然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫(みち)たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりだされたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹き込んだものは武士道であったことにようやく思いあたった。

 ・・・私は封建制と武士道がわからなくては、現代の日本の道徳の観念は封をしたままの書物同然であることがわかった。

 ・・・それらは主として封建制度がまだ勢力をもっていた私の青年時代に、人から教わり、命じられてきたことである。』

 この本の訳者である奈良本辰也氏も、この翻訳本(1997年初版、株式会社三笠書房)の解説の中で、『新渡戸氏は、文久二年(1862年)南部藩士新渡戸十次郎の三男として生まれた。まさに歴とした武士の家に生まれ、武士としての生き方で幼年から少年の時代を送られた人物である。もちろん、それはその一生涯を規定するものであったろう。

 私(奈良本)の生家は、武士と名のつく家ではない。しかし、それでも外国で私の受けた道徳教育などについて語れ、と言われたら、武士道の教えのようなものを話出すかも知れない。「義を見てせざるは勇なきなり」とか、「卑怯であってはならぬ」とか、また「名を惜しむ」などということは、何より子供の頃から、頭の中に叩き込まれてきた言葉だった。』とある。





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