中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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日本の夏 その10

2018年08月28日 | ブログ
祭り

 日本の夏と聞けば祭りを思う人も多いと思う。地方の祭ながら全国版となっているものも数多い。青森ねぶた、京都祇園、大阪天神、高知よさこい、福岡祇園山笠、仙台七夕、徳島阿波踊りなどなど。もっとも私はいずれの祭も現地で観たことも参加したこともない。

 各地の盆踊りや花火大会もお祭りであり、パレードあり、大型の山車あり。毎年それぞれの祭の主催者、関係者の労力も相当なものがあるように思うけれど、それがやりがい生きがいになってもいるのであろう。

 しかし、今年阿波踊りでは、市長と祭の世話役が総踊りの安全面配慮からその開催を巡ってもめたり、ある花火大会では警備面で予算が高くつき過ぎるようになって開催が危ぶまれるなどの話もあったようだ。

 子供の頃は近所の小さな神社などの縁日が結構たくさんあって、屋台が一杯出て賑やかで楽しかった。屋台ではカーバイトからアセチレンを発生させ火力としていたが、その匂いはまさに夏の匂いだった。

 まだ2,3歳の頃にも親から小遣いを貰って兄たちと縁日に出かけていた。すでに小学生の兄たちは将棋とか動物合わせ(十二支の動物にkinngのライオンを加えて13種、トランプと同じ遊び方ができる)など、後から皆で遊べるものを買うのに対して、私は食べれるお菓子類を買って一人食べなてしまい、遊び道具では一緒に遊ぶので、兄たちから顰蹙を買った記憶もあったりした。

 山口県に居た頃は、すぐ近くを県境の小瀬川(広島県側では木野川と呼ぶ)があり、ここでの花火大会が会社の寮や社宅から歩いて行ける距離にあり、毎年見物したものだが、錦帯橋や岩国港でも花火大会はあっても出かけたことはなかった。こちらに来てすでに35年にもなるが、隅田川の花火大会などもテレビで見るくらいで出かけたことはない。江戸川の花火大会は中小企業診断士試験日(初日の土曜日)と重なるので、市川市の千葉商科大学が試験会場である年には、その賑わいはJR市川駅周辺の人出から感じることはできたくらいだ。

 縁日では、女の子は浴衣を着て団扇を持って楚々と歩く。浴衣姿は見るからに涼しげでいい。最近は外国人の女性にも貸衣装の着物が結構人気のようだが、祭そのものが日本の伝統文化で、世話役の方々は大変であろうが、今後とも永く継続して貰いたいものである。

 現在、インドネシアの首都ジャカルタでアジア競技大会が佳境であるが、これはアジアの祭。2年後には東京に世界の祭であるオリンピックがやってくる。この時期のジャカルタも暑くはあるが、日本のように四季があるわけではなく年間を通じて30℃前後の気温のようで、8月開催に異論はなかったものであろう。

 水泳の池江選手の大活躍はじめ、多くの競技でメダルラッシュ。この成績を東京まで引き継いで、地元での世界の夏祭りを盛り上げて貰いたいものである。


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日本の夏 その9

2018年08月25日 | ブログ
怪談

 昔から夏には幽霊、お化けなど霊現象の類の怖い話が涼を呼ぶと好まれている。高度経済成長以前のわが国の夜は暗かった。父親はこの手の話が上手で、夜にはよく聞かせて貰ったものだが、午前0時も過ぎた丑三つ時には、家の軒先も三寸下がるとか聞くと、いかにもそれらしく怖いから早く寝ようと言う気になったものだった。父は田舎住まいの頃の体験として、住民が狐や狸に騙された話も得意だった。

 テレビでも例年のこの時期、そんな怖い話の実話か作り話かの境界線のようなドラマが放送される。

 しかし、現代の怖い話は現実的でさらに怖い。現政権の不作為が続き、野党なども全くと言ってよいほど追及しないからどんどん深みに嵌って、この国が危ない。副総裁や幹事長という自民党の親中派(勿論経団連も後押ししている)と謀って延命を図る安倍総理は、中国への貢献の見返りに総裁任期を延長する制度を幹事長の働きで手に入れた。

 先の民主党政権は、韓国に阿る半島政権であったが、安倍政権は実は中国に阿る大陸政権だったようだ。米国に逆らってはこの国の政権は持たないことを第一次安倍政権の挫折で思い知った安倍さんは、勿論米国にはまず配慮する。しかし、肝心なところで中国の新植民地政策と言われる一帯一路にさえ協力するようなコメントを出す。中国人の日本国内跋扈に目を瞑る。憲法改正案も親中公明党に配慮して加憲に留める。

 ネットの産経ニュースを、現代版この国に起こっている「怪談」として引用させていただく。

 『全国から集まった学生16人が8月20、21日の両日、外国資本による土地買収が進む北海道の山林や原野を視察した。土地買収の実態をリポートしている産経新聞連載「異聞 北の大地」(産経ニュースでは「北海道が危ない」で掲載)の筆者、宮本雅史編集委員が案内役として同行し、学生は「国土侵食」の危機を目の当たりにした。

 北海道、東京都、神奈川県、大分県在住の大学生・専門学校生ら有志の男女16人は北海道平取町、登別市、洞爺湖町、赤井川村など約10カ所を回り、主に中国系資本が買い占めている土地を訪ね歩いた。学生は宮本氏の説明を真剣に聞いていた。

 視察に参加した別府大国際経営学部3年の根之木誉主(たかゆき)さん(20歳)は「買収の実態を知って驚いたと同時に、率直に怖いと感じた。われわれも問題意識を持って、同世代に事実を伝えていきたい」と語った。』

 少し前には、このような記事もあった。『昨年一年間で外国資本に買われた森林は実に“東京ディズニーランド”15個分。今年の4月28日、農林水産省が発表した調査結果が永田町や霞が関に衝撃を走らせている。

 同省が森林法に基づく市町村等への届け出情報などから全国の森林の土地所有者を調査したところ、昨年1年間で202ヘクタールもの土地が所在地を海外に構える外国資本によって買収されたことが判明したのだ。前年の同67ヘクタールと比べると3倍もの伸びを示し、調査を始めてから最大となった。かねて取り沙汰されてきた海外からの土地買収が、急激に拡大していることを窺わせる。

 注目すべきは買収された森林のほとんどが北海道にあること、そして香港・台湾を含む中国系の土地取得者による買収面積が81%にものぼる点だ。中国資本が日本の土地を易々と手に入れることができる背景として「法制度の不備」を指摘するのは丸山穂高衆議院議員(日本維新の会)だ。』

 先般、中国の李克強首相訪日の際、わざわざ北海道まで行ったことも納得がゆく。これを安倍さんは歓待した。この後3年安倍政権が続けば、北海道は沖縄より先に中国領になるかもしれない。まさに怪談である。





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日本の夏 その8

2018年08月22日 | ブログ
終戦記念日

 毎年8月15日はやってくる。昭和20年の8月15日、玉音放送があった。日本の一番長い日であった。もっとも私が生まれたのはその2年後の晩夏である。

 終戦記念日には毎年、日本武道館に天皇皇后両陛下のご臨席の下全国戦没者追悼式が行われている。平成も今年限り、今上天皇は最後の戦没者追悼式を勤め上げられたことになる。

 終戦時11歳であられた陛下にとって、先の大戦は鮮明な記憶として残しておられることで、心ならずも戦争に向かわれた昭和天皇への思いも馳せ、そして戦後の米軍(連合軍)統治下となったわが国の行く末を案じられたことか。

 毎年の追悼のお言葉は儀礼的であれ、万感の思いは国民には伝わっている。300万人以上の同胞を失ったわが国が、今日の繁栄を築くことが出来たのも、その犠牲の上にこそとの天皇と共にその思いを共有できたからではなかろうか。平和を望まぬ人は居ない。しかし、そのための方策は、覚悟はそれぞれである。

 明治維新後の日本の急務は、北のロシアからの脅威への対処であり、当時の中国清国との軋轢もあった。ヨーロッパ列強の植民地になってはならないという思いは、幕末の志士の討幕の要因でもあった。貧しい国家財政の中、富国強兵政策で軍備を整え、日清戦争に勝利し、その後朝鮮半島や満州の地からロシアを追い払った。

 中国大陸へのロシアの進出阻止は、当時の英国や米国との利害とも合致し、日英同盟はロシアのアジア進出を阻むことに成功する。

 しかし、やがてその大陸において日本は欧米と衝突する。その覇権争いと白人が律するこの世界に黄色人種の日本人の跋扈は彼らには許すことはできなかったのだ。2発の原子爆弾投下が当時の彼らの有色人種への意識を表している。

 明治憲法の欠陥が、維新を成した元勲たちの逝去で顕在化する。力を持った軍部が政府を軽視し、天皇の権威を勝手に乱用して意を通すようになる。天皇でさえ軍部の大陸での活動を律することは出来なかったのであろう。これを中国共産党が蒋介石中華民国打倒に利用する。蒋介石中華民国は連合国の一員として第二次大戦において確かにわが国と戦った。漁夫の利を得たのは今の中国共産党であり、そのことは毛沢東も述懐している。戦後中国共産党が行っている対日戦勝利のイベントは、全くの絵空事なのである。

 戦後、両陛下は先の大戦の多くの激戦地を訪れ、追悼の旅を重ねられた。自然災害の甚大な被害に苦しむ国民を慰問して回られた。それらの思いは次の天皇陛下にも受け継がれてゆくものであろう。

 このお盆の時期を過ぎると、日没が早くなることを感じ、秋の気配が漂ってくる。日本の夏は戦火に散った多くの同胞への送り火と共に過ぎてゆく。





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日本の夏 その7

2018年08月19日 | ブログ
この世界の片隅に

 日本の夏には、先の大戦を描いた映画やドラマ、ドキュメンタリーなどがテレビで放送されるのが定番で、今年の夏は本数が少なめな印象であるが、NHKではあまり知られていない史実の新たな発掘に、ドキュメンタリーとして意欲的に取り組んでいる印象はある。その中で7月からの連続ドラマ「この世界の片隅に」(TBS日曜劇場:こうの史代原作)の人気が高いという。存在感を高めている。

 戦時下の呉市を舞台にしていることで、私の両親と重なり、昨年アニメーション映画は観た。兄二人は呉で生まれているので、ぜひ観るように勧めた。以前テレビドラマ(日テレ終戦スペシャル2011年)として、北川景子さんがすずを演じた。

 アニメ映画は、第90回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第1位、第40回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞などを受賞。私などは賞を受けたことで知って、映画館に行ったような次第。アニメと実写版、そして演出や配役の違いで同じ原作でも違った趣となる。連続ドラマの場合は、与えられた時間が十分なので、結構原作を端折らずに再現できる。今回のドラマで遊女が登場し、何と今年のNHK大河「西郷(せご)どん」でさらに評価を高めた二階堂ふみさんが、その遊女を演じている。

 それにしても戦時下の庶民の生活を、淡々と丁寧に描いていることに感心する。大河「西郷どん」などでも何度も出てくる会話に、「家に女手がないから兄さん早く嫁を貰え」があるが、戦前戦中まで江戸時代と変わらぬ風習なり、女性の社会的位置づけがある。

 浦野すず(松本穂香さん)は、足が悪く十分家事のできない婿(北條周作:松坂桃李さん)の母親に代わり、二世帯同居の家事担当の女性として嫁に入る。そして周作が先に好きで結婚まで考えた遊女の存在があったことを知る。戦争が劣勢でモノ不足の深刻化する中、食料も代用品で賄うような状態であり、すずは自分は代用品であったという僻みを持ったりする。

 結婚までの経緯は兎も角、すずは周作と喧嘩しながらも夫婦としての愛情を育み深め、現代とは真逆のモノのない生活の中でもささやかな幸せを感じるようになる。

 しかし、戦火は日本本土に及び、空襲がある。防空壕を掘り、竹やり訓練があったりする。実の兄の戦死、そして石ころの入った骨箱の帰還。実家の母の息子を失ったかも知れない悲しみと、国や軍のつれない仕打ちへの物言えぬ悔しさがよく表現されていた。いつの世にも国家のためとはいえ、息子を戦地に送りたい母は居ない。しかし、当時の多くの男子は、その母や姉や妹や恋人を、妻を守るために生まれたものとして、使命を全うすることに疑いはなかったろう。それは当時の洗脳教育の成果だったとしても、いずこの民族にあっても永遠の必然であり、男子の存在意義である。

 そして、嫁ぎ先の夫の死で離縁して実家に帰っていた周作の姉の娘(晴美:子役のキャステイングが見事)との悲劇がある。悲劇は戦地だけではなかったのである。

 戦争という今や日本人の大半が経験していない悪夢を、淡々と思い知らせてくれるこのドラマは長く語り継がれるであろう秀作である。




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日本の夏 その6

2018年08月16日 | ブログ
高校野球

 この夏の炎天下、日本の高校球児代表たちは頂点を目指して甲子園で激闘する。今年は丁度100回大会ということもあり、多くの観衆が詰めかけ盛り上がっているようだ。

 高校野球が長期に亘り高い人気を誇るのは、いつも筋書きのないドラマが展開することにある。その劇的なシーンが生まれるということは、日々の鍛錬があってのことで、そのプレーの品質の高さが、観客を魅了する。

 加えて、ボクシングなどのように判定で勝ち負けが決まることはなく、同点であれば既定の延長戦があり、再試合まである。一つ一つのプレーにあってストライク、ボールの判定やクロスプレー時のアウト、セーフの判定に疑義を挿む余地も全くなくも無かろうが、プロ野球のように抗議は許されず、誰かの指示による恣意的な片方のチームへの肩入れは感じられない。まさに公明正大のスポーツマンシップに沿う印象が強いことも人気を支える。

 問題点として挙げられていたのが、出場校への多額の寄付金集めや、甲子園出場に可能性の高い地方への野球留学が盛んになり、出場校の選手に地元選手が居ないような現象が取りざたされたこともあった。加えて、野球部員の非行にライバル校がそれをチクリ出場停止に持ち込むなど。

 一方われわれ外野は、職場でトトカルチョなるものを楽しんでいたりした。結局予想し得ないようなチームが優勝した場合、一人で10万円近くの配当を得たような事例もあり、職場での賭博行為はダメとなった。公益ギャンブル以外、仲間同士の賭けマージャンも違法ということで、本来やってはいけなかったようだ。しかし、一口100円程度で沢山賭ける人でも20口2000円程度が限度で、集めた金は全て分配されるから胴元が利益を得るようなこともない。遊びの範疇を出るものではなかった。

 トトカルチョをやらなくなってこの30年、高校野球への興味も薄れていた。なぜかプロ野球にも興味はない。小学生の頃の巨人川上の現役時代に始まり、長嶋、王の時代は夏のオールスター戦も秋の日本シリーズも楽しみにしたものだった。日本のプロスポーツは大相撲に野球に限られた時代でもあった。個人的な興味は兎も角、毎日のペナントレースにも万を超える人々が観戦に駆けつける今も人気競技である。ホームランの醍醐味、ピッチャーの剛速球や変化球の妙、華麗な守備。観客からの軽妙なヤジあり、応援チームを通じた一体感。何よりその戦略、戦術も素人にも分かりやすい事。監督の采配を云々できる観客にとって参加型のスポーツであることが人気の要因ではなかろうか。

 甲子園にはプロ野球のスカウトも目を凝らしているだろうけれど、選手は純粋にチームファースト、そして野球を精一杯楽しんでいるに過ぎないのではないか。億円を超える契約金が提示されたとしても、それは結果であり、そんなものを目指すのは今の球児の本分ではないだろう。

 オリンピック、FIFAはじめ商業主義に汚染されたスポーツ界の中で、いつまでも純粋スポーツを維持して貰いたいものである。
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日本の夏 その5

2018年08月13日 | ブログ
お盆

 毎年、お正月とお盆は里帰りするものだった。高校を出て故郷の対岸の山口県の東の端にある工場に就職した私は、岩国港から周防大島の伊保田港と柱島を経て松山港まで帰った。岩国港から松山の三津浜港にフェリーが竣工して後は、これを利用した。500トン程度のフェリーだったが、それまでのポンポン船と比べると格段に旅情が味わえたものだ。

 父は農家の次男坊だったから、家に仏壇があるわけではない。もっとも近い先祖は自転車でどのくらいかかったろうか。父親の実家の近くに祖父母の眠る墓地があった。父親の母(祖母)は父が小学生の時に亡くなり、祖父も父が結婚する時には亡くなっていたようだ。それでも享年55歳は、母親が早世したこともあって、父にとっては随分長生きのように感じたと言う。子供の頃はなぜか父は数ある子の中で私だけを連れて墓参りをした。石を積んだだけの粗末な墓だった。

 御影石の墓ができたのは大分後になってから。父の兄すなわち伯父さんが亡くなって、その子である従兄弟たちが祖父母と一緒に埋葬するために建立したようだった。

 四国愛媛の夏も結婚して家族で帰省するようになった1970年代後半頃からは猛烈に暑くなっており、玄関端の板間に寝たものだ。クーラーなどなかった。もっとも現在もクーラーの無い部屋で寝ている。しかし、熱中症も私を避けているようだ。

 私の子供たちは都内に住んでいるが、お盆だから帰省するという習慣はない。我が家にも先祖の仏壇はない。ただ、両親の遺影は神棚の隣に飾ってある。神仏同居を好ましくないように言う方もあったけれど、そんなことには頓着しない。

 千葉に来て間もなく父が亡くなり、3年後母も亡くなった。昭和末期のことだ。故郷は遠くなった。帰省では新幹線と岡山から松山までは特急電車。四国までは鉄道橋も通っているのだ。朝早く出て着くのは夕方。

 こちらに来て、故郷からの帰路時、広島港へ山口県柳井港へ船旅を楽しむことがある。岩国と松山をフェリーで往復していた頃にはあまり感じなかった瀬戸内海国立公園の素晴らしさを実感するようになる。

 景色が良いだけではない。地方創生とはよく聞く言葉だけれど、瀬戸内海の島々には漁業は勿論、柑橘類の栽培、マリンスポーツの拠点として観光資源として、大きな可能性が残されている。日本の地中海なのだ。安芸の宮島は言うに及ばず、村上水軍や江田島海軍兵学校跡地などの歴史的建造物に本四架橋(しまなみ海道)の自転車道など、海外からも人を呼んでいる。淡路島は結構大きく、立派なホテルもある。「二十四の瞳」とオリーブの小豆島は昔から有名だけれど、多くの無人島有、広島県竹原市沖のウサギ島(大久野島)も近年外国人に人気と言う。

 お盆は今日13日から16日まで。先祖を故郷を偲び、地方創生を考える4日間にしたい。





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日本の夏 その4

2018年08月10日 | ブログ
災害大国

 災害大国のわが国の夏は、台風そして豪雨。毎年のように繰り返される河川の氾濫とがけ崩れに土石流。昨日まで元気だった家族や隣人が一夜で消える。その悲しみはどれほどのものか。経験のない者が述べることは憚る。

 治水は昔からの為政者の大きな課題であった。江戸時代には江戸をはじめ多くの雄藩では、川の流れを変えてでも洪水を防止し、飲料水を城下に引くための水路を設けるなどの治水工事が数多く行われた記録があるようだ。

 戦後のわが国においても電力を得るため、そして乾季に備え水源の確保、また一時的な豪雨から河川の氾濫を防止する目的で多くのダムが作られた。そして河川には堤防が築かれた。大きな川の氾濫は少なくなっていったように思う。また昭和34年(1959年)の伊勢湾台風では、満潮時と重なる高潮による被害が甚大で死者・不明合わせて5000名を超す人的被害があった。このことを受け、海岸の各地防波堤建設も進んだ。

 これらのダム建設、堤防や防波堤の整備には多額の費用が掛かることは事実だ。ダムはもう要らない(脱ダム宣言)。「コンクリートから人へ」。確かに必要以上の建設やそれに伴う不正な税金の流れもあったことはあろう。しかし、所詮税金は一人一人ではできない事業を国や地方の行政機関に委ねるもので、集めたお金を子供手当や老人介護に配分するものでは本来なかった。弱者への救済策は必要だが、バラマキであってはならない。それには限度の見極めが重要である。

 中途半端な民主主義が、有権者の票を得るための形を変えた票を金で買う公約が堂々と行われるようになり、実行して税不足が出れば国債で賄うようになる。究極は子供手当一人26,000円に高速道路無料化等々にだまされた人々多し。自由民主党にしたって介護保険制度を新設して、国民のためと言うけれど、介護など要らぬ健常者から巻き上げた金で、儲かるのは事業者だけ。新手の姥捨て山政策である。

 最悪の政権が3年続いた揚句、これに懲りた国民は安倍一強なる権力私物化政権になすすべはない。一度変えてみれば良いなどと、国家権力の有り様も知らぬ指導者層の脆弱性が産んだ政権の後遺症を未だに引きずっているのだ。

 頻々と出てくるスポーツ界の不祥事やブランド企業の品質問題。少なくとも最近のレスリング、アメフト、そしてボクシング協会の内部からの告発は、安倍自民党へのアンチテーゼに見える。自浄作用のないのは自民党だけと国民の良識者からの暗黙の批判である。

 今年の夏の西日本豪雨における、その降水量や土砂災害発生数は、記録の残る範囲において最悪であった。2百数十名の命が奪われ、27,000戸が浸水した(8月5日読売新聞)。ただ浸水しただけでなく、流れ込んだ土砂が民家を再生不能に落とし込んだ事例も多かった。

 続く台風12号は列島を逆走し、小田原市や熱海市の海岸に高潮の爪痕を残した。




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日本の夏 その3

2018年08月07日 | ブログ
花へんろ

 先に愛媛県と広島県では、対岸にありながら原爆について、その認識に雲泥の差があると書いた。しかし愛媛県人であっても原爆投下による犠牲者はあり、人生に大きな傷を負った人も多かろう。

 今は松山市になっているけれど、私が愛媛にいた頃は北条市であった地の出身者に、脚本家、早坂暁(1929-2017)氏がある。

 NHKドラマ「夢千代日記」、「花へんろ」の作者として有名である。「夢千代日記」の主人公は体内被曝児という設定であり、吉永小百合さんが演じて好評であったという。1981年から1984年に放送されたとある。「花へんろ」は早坂暁氏の母親が主人公で、1985年から1988年にかけてやはりNHKで製作放送され、主役は桃井かおりさんが演じた。

 四国88か所巡礼の遍路道に面した大正から昭和の商店が舞台で、店の前の道路に捨てられていた女の子を育てることになる。今年の8月4日(土)にNHKプレミアムで、早坂氏の実話であり、書きかけの遺稿でもあった「花へんろ特別編「春子の人形」」が放送された。早坂暁氏の3歳年下の少女は、兄を尊敬し慕うようになる。

 この話は、30年近く前、目を患って長く入院生活をした折に、毎晩眠れぬままにラジオ深夜便聞いており、その時に聴いた話だ。15歳で海軍兵学校に入った兄に会いたいと、船で広島に渡り、その地で原爆に遭って彼女は消える。早坂氏の中で彼女はいつまでも清らかな少女のまま。

 「夢千代日記」のあとがきに、早坂氏は悪夢のような原爆の惨状を次のように記している。

 『昭和20年夏、正確に言えば8月20日、私は貨物列車に乗って東へ向かっていた。夜になって、なまあたたかい雨となった。列車がゆっくり停車した。外を見ると、何もない。一面の荒野に見えた。

 「ヒロシマア、ヒロシマア・・・・」駅員の声で、そこが広島駅と知った。

 何度か見たことのあった広島の街は、あきれるばかりの荒野になっている。原爆が落ちたことは聞いていたが、これほどまでに破壊され尽くしているとは思ってもみなかった。まるで掃除したようになっているのだ。

 「あれはなんだ・・・・」誰かが低く叫んだ。見ると、小さな火が燃えている。それは青い火である。目をこらせば、なんと、何百、いや何千の青い火が、廃墟の中で音もなく燃えている。

 「燐だ。燐が燃えているんだ・・・・」折からの雨に、何万の死体から流れ出た燐が燃えているのである。私たちは呆然として何千の青い火を眺めていた。それは悪い夢のように、美しくすらあった。

 仲間の一人が泣き出した。その仲間は広島の人間だった。燃えている青い火の一つが、彼の母か、妹の火かも知れない。

 私たちは、15歳。海軍兵学校の生徒であったが、敗戦となって、それぞれの故郷へ急いでいる途中であった。・・・・』この時、仲間の一人が「赤ん坊の泣き声を聞いた」という話から体内被曝時としての夢千代が生まれたという。





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日本の夏 その2

2018年08月04日 | ブログ
原爆忌

 今年も8月6日、9日がやってくる。日本の夏の一面である。私の父は戦前戦中呉の海軍工廠に勤めていたので、この日は呉の音戸の瀬戸辺りに居たそうだ。風圧を感じたと言う。翌日には呉の海軍病院に向かう被災者の群れを見たと言う。

 職場の先輩で、2,3歳の頃爆心地から2km程度の自宅で被爆した方がおられた。祖母に背負われ逃げ延びて、その後の黒い雨を免れたため、原爆病の症状は出なかったという。被爆女性と結婚されたが、奥さまは早世されてしまわれた。

 会社の寮の同室だった先輩が広島の原爆病院に入院されたというので、お見舞いに行った。病名は知らない。深刻な病気ではなかったとは思う。初めの原爆病院は暗い木造の建物だったことだけが印象深い。

 広島と生まれ故郷の愛媛では瀬戸内を挟み隣の県だけれど、原爆に対する想いは雲泥の差がある。就職して広島県に隣接する町に住むようになった昭和41年、まだ戦後20年しか経っておらず、職場には徴兵されて戦争体験された先輩はあり、前述のように身近に原爆を目の当たりにした方もおられたことで、ドラマや小説などノンフィクションであっても創作の世界とは迫力が違う。

 平和公園には何度も行ったし、原爆記念館も見学した。休日の公園には岩国基地の米兵も多く見られ、女子高生などが英会話の勉強とばかり取り囲んでいたりした。帰りの電車で、ベトナム帰りの米軍戦闘機のパイロットと話をしたこともある。彼らは強く平和を望んでいた。昭和40年代半ば頃は、太平洋戦争の記憶は遠くなり、ベトナム戦争の悲惨さが多くのフォークソングなどの反戦歌につながった時代だった。

 最近、アメリカのカリフォルニア州の山火事がテレビで連日報道されていた。日本と同じようにかの地も相当に暑いという。連日40℃前後の気温で、ただ日本と違うところは湿度が異常に低い。日本は80%程度あるのに対して、カリフォルニアでは湿度が10%に満たない時もあるそうだ。一度燃え上がるともうどうにも止まらない。テレビの火災映像は地獄図だけれど、思えば原爆投下後の広島や長崎はさらに極限地獄であったろう。

 それでも人類は核兵器を手放せない。世界をわがものにという周回遅れの帝国主義の一党独裁国家が勢力を伸ばしている限り、北には不法に占拠した領土を、文句があれば戦争で取り返せと言う国家がある限り、きれいごとだけでは生きてゆけない現実がある。いずこの国であれ、国土防衛のために備えなければならない。

 広島にオバマ大統領が来たけれど、たとえトランプ大統領が来たとしても当面世界の核軍縮が進むことはない現実がある。

 8月6日、9日はせめて犠牲者の霊に祈るしかない。



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日本の夏 その1

2018年08月01日 | ブログ
熱暑

 日本がこんなに暑くなったのはいつ頃のことかと振り返ってみるに、どうもこの国とお隣の大陸の国の経済発展と軌を一にする気がする。

 転勤で千葉県にきたのが1983年、35年前のこと。社宅では「クーラーはあるけれどあまり使わないよ」というご近所さんの話だった。それまで山口県の広島県との県境の町の社宅住まいで、瀬戸内の夕凪の風のない時間帯が長く、周囲はみんなクーラーを付けるから、上下左右のベランダの室外機の熱気が伝わって、尚更熱い夏を過ごしていた。救われた気分だったのに。

 当時中国のGDPは現在の45分の1程度。現在中国のGDPは1400兆円程度ではないか。わが国が530兆円。1983年当時の中国の経済力はわが国の10分の1程度。一人当たりにすると100分の1となる。

 北京では自転車の洪水の写真がよく紹介されていたのに、瞬く間に自動車の洪水となり、さらにガソリン車から電気自動車に進化しているそうだ。

 僅か30数年で日本の2倍超のGDPを誇る経済大国になった中国。そのエネルギー消費量たるや南の海の海水温を上げるほどではないかと思ってしまう。

 後から来る開発途上国のエネルギー使用量や炭酸ガス発生量をとやかくは言えない。今の世界のエネルギー依存の経済は、英国の産業革命に端を発し、欧米そして近年日本が加わってリードしてきた。

 もっともこの世界的な気温上昇は、炭酸ガスやメタンガスなど温室効果ガスは要因ではあっても、太陽の活動の影響が大きいとも言われる。この地球は6万年から1万2千年前頃は厳しい氷河期で、海水の氷結で海水面は数十メートルから100メートルも低かったとものの本にある。太陽の活動期かどうかが、空気中の温室効果ガスの量より影響力は大きいとも言われている。

 それにしても熱い。改めてこんな暑い時期の東京でのオリンピック開催に疑問の声が上がっているが、商業主義の権化のようなIOCに今更とやかく言っても始まらない。開催国としてオリンピックを成功させ楽しむしかない。

 そうはいって、観客、ボランンティア、警備員、役員などが次々と熱中症で亡くなったりしたら、折角の平和の祭典が、自衛隊を紛争地帯に派遣するリスクと結果は変わらなくなる。

 夏時間を導入して、マラソンのスタートは実質今の時間の朝の5時にしようという案がある。舗装道路の特殊舗装で表面温度が10度程度は下がるという。ミスト発生装置も各所に設ける。知恵を絞り犠牲者を出さないことだ。スイカ、梨、トマトに茄子にきゅうり、体から熱気を取ってくれそうな夏の果物野菜類もふんだんに準備することだ。

 究極の暑さ対策は、日常の熱中症対策ともなる。熱中症に一旦罹ると、思っている以上に体へのダメージは大きいと言う。備えあれば憂いなし。この夏を乗り切ろう。




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