中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

兵法経営塾第10回

2012年12月28日 | Weblog
経営と兵法

 「兵法経営塾」の著者である大橋武夫氏は、戦後中小企業経営者として活動していた。そこでは軍隊に無かった困難にもぶつかる。増加する受注に対応するため40%もの増員を行ったが、却って生産が落ちるようなことが起こる。このため、戦後我が国に導入されたアメリカ式の経営学も本を読み、学者の講演を聞いて自社に取り入れようと試みたりもした。しかし、「新戦法の導入よりも、旧戦法の追い出しの方がむつかしい」と言われるように、中々思うように進まない。そんな中、得意の兵法を経営に取り入れることを思いついたという。

 熱心に兵書を読み直してみると、戦争をしていた時より感心することが多いのに驚かされた。まずは、民主主義の誤解から生じていた職場規律を徹底すること。そのためには、戦後軍国主義の遺物であると思われていた「命令」の必要も感じた。また生産量など、打ち合わせで終わるのではなく、しっかりと生産計画を作成して、組織的に生産活動を行うことなどである。そして昭和37年10月には、「兵法で経営する」という本まで出した。しかし、その本は、世間から理解されなかった。

 丁度その頃ピーター・F・ドラッカーがたびたび来日して、独特の経営論を展開して日本の経営者をうならせていたが、大橋氏は彼の著書を読み「これは戦争論と共通するものが多い」と気付き、ドラッカー理論をかざして自身の兵法経営論の正当性を主張したのである。

 『ドラッカーの名言に兵書と共通するものが多いからといって、わたくしは決して「ドラッカーの学説は戦争論である」というのではない。真理は一つであり、経営も兵法も「組織の効果的運用」を目指すものである以上、つきつめていけば、その原則が一致するのは当然である。またドラッカーはオーストリア(現在はハンガリー)出身と聞いているが、「戦争論」の著者のクラウゼウィッツ*22)はプロシア(現在のドイツ)人であり、オーストリアもプロシアもかつてナポレオンに惨敗し、その後、苦心惨憺の結果ナポレオンを倒しており、その経験を集めて兵学としたのが「戦争論」なのである。オーストリア人やプロシア人の脳裏には「戦争論」的思考が強く底流している。・・・』

 以下、兵法経営塾にあるドラッカー語録(D)とクラウゼウィッツ(K)のそれを併記する。

「組織の中心的存在は頭脳を用いて仕事をする知識労働者である」:(D)
*軍の戦力は、これを指揮する将軍の精神によってきまる。:(K)

「幹部は生まれながらの才能や地位だけで作られるものではない。また幹部の仕事の能力
と知識とはあまり関係がない」:(D)
*古来、卓越した将師は博学多識な将校(知識があるだけの幹部)の中からは出ていない。:(K)

「決定の場面においては、トップはつねに孤独であり、それに堪えられる人物でなければ
ならない」:(D)
*いかなる名参謀も将師の決断力不足だけは補佐することはできない。:(K)

 『兵法経営塾は「凡人の凡人による凡人のための統率と指導」法を学ぶものである。われわれがいくら努力しても、歴史上の英雄のような名将にはなれないからだ』と大橋氏は言う。加えて『戦後、どっと入ってきたアメリカ流の経営の影響を受けた日本はマーケティング・・・など「科学的経営」を学んだ。しかし、アメリカの経営が元来「異なった言葉と考えを持ち、意思疎通困難で、流動的な異民族の移民を対象とする」ものであり、少数の英才が多数の凡才を駆使するもの、手足だけを働かせることを主とするもので、頭を働かせることを考えるものは少なかった。昭和50年代になると、アメリカ式経営をマスターした日本の経営は、さらに「日本に定住する同一民族を対象とする」ことを基盤とする、より高度なものを目指すことにより、「小集団活動」に見るような、社員の自主積極的な努力を発揮させる「心の経営」にまで発展し、アメリカの企業を圧倒し、経済摩擦まで引き起こすようになった。これは「第三の経営」だと思う。第三の経営の究極的なものは兵法であると思う。兵法は決して「勘の経営」「科学的経営」を否定するものではなく、これらを最も効果的に活躍させるソフトウェアなのである』





*22)カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ(独)(1780 -1831)プロイセン王国の軍人で軍事学者である。ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校として参加しており、シャルンホルスト将軍およびグナイゼナウ将軍に師事。戦後は研究と著述に専念したが、彼の死後1832年に発表された『戦争論』で、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績を示した。

本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊に基づいています。『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています
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兵法経営塾第9回

2012年12月25日 | Weblog
参謀の条件

 『トップもその参謀も、その他の兵または従業員に比べて、格段に優秀でなければならないことは共通しているけれど、具体的な要件は全く逆である』と、兵法経営塾の著者大橋氏は述べている。例えば、『トップは細部にこだわらず、部下を委縮させない寛容さが必要であるが、参謀は細事もゆるやかにせず、いささかの隙もあってはならない』とある。トップは部下の感情を支配し、参謀は理性をコントロールするとも読める。

 具体的な要件が全く逆であるということは、『換言すれば、スタッフとして優秀であればあるほど、トップとしては不適格者ということになる。ところがスタッフとして優秀な実績をあげた者でなくては、トップの座につけないのが現実で、ここに現代の悲劇がある』

 この兵法経営塾には、参謀のための十ヶ条が記されている。このうち特に大切と思う5ヶ条をあげる。

1.参謀は考案者であり、演出家である。
2.参謀に命令権なし。
3.参謀は冷厳非情に計算せよ。
4.参謀はいつも将師の考えを念頭において判断しなくてはならない。
5.参謀は減磨オイルであれ。(あるときは悪役となって、部下の憤懣の受け手となる)

 本書では、名参謀の事例として豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛をあげ、官兵衛の本能寺の変を受けた対応を記している。本能寺の変(天正10年(1582年)6月2日未明)は最もよく知られた史実のひとつであるけれど、明智光秀勢の必死の探索にも関わらず、信長の遺体が見つからなかったということは歴史ミステリーの一つともされている。

 加藤廣氏の「信長の棺」*21)によれば、本能寺からの地下の抜け道を事前に秀吉が塞いだことになっており、岡山からの秀吉の大返し(中国の大返し)の謎と関連付けているけれど、本書は以下通常の史観によるものである。

 『「信長死す」の報を秀吉は、翌6月3日の夜に受けた。彼は茫然とした。目の前に毛利軍と対峙しており、しかも戦地は京都から遠い。それまでの秀吉は、信長あっての秀吉である。・・・言わば信長の操り人形のようなものである。その信長がいなくなれば、秀吉はただの人形になりかねない。・・・しかも現在秀吉の配下の大名も信長の死によって毛利方に寝返る不安もある。そうなれば秀吉は全軍に対する統率力を失い、彼の軍は一気に崩壊するおそれがある。

 この危機を乗り切るために、官兵衛は、まず気が動顚し木偶の坊になった秀吉に活を入れる必要を感じた。秀吉を奮起させ、それを見た諸将が秀吉に付く利を感じさせることである。意を決した参謀官兵衛は、秀吉の耳元でささやく。「よくさせ給え、君の御運の開かせ給う時ぞ」という有名な台詞である。官兵衛は、「これはピンチではなく、天下取りのチャンスですよ!」と励ましたのである。・・・

 参謀の第一の任務は「トップの決心の資料を呈供すること」すなわち「トップは今どうすればよいか」を考えることである。・・・』。

 官兵衛は、勿論それだけではなく、抜かりない状況判断を行い、秀吉を返した後に毛利方との和平を進めた。自分達が退く際には、近くの河の堤防を決壊させて毛利軍の全面一帯を泥海化させ、追撃にも備えて秀吉の後を追ったという。
 





*21) 2005年5月日本新聞社刊

本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊に基づき構成し、『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています。
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兵法経営塾第8回

2012年12月22日 | Weblog
号外!「衆議院選挙」2

 事前のマスコミ報道の通り自民党が圧勝した。これで普通の国に返ることができると多くの人は安堵したのではないか。自民党の勝利は民主党の「オウンゴール」という評が一般的だが、元々天下の公党としてフィールドに立つことさえ憚られる政党(綱領がない)に「自殺点」もない。

 民主党政権とは、元の社会党や小沢党、批判で食ってきた市民政党、自民党では公認が得られ難く、出世が見込めない何とか政経塾出身者や元官僚など、哲学を持たず、国家観のない連中の野合に過ぎない政党が、国家の金庫を当てにしたバラマキで国民の歓心を買い、売国マスコミの力を借りて成した虚構でしかなかった。

 マスコミはこの機に及んでも、第三極の集結ができなかったことが自民党を利したとか、反対にくっついてはいけない政党同士がくっついたと、またまた真逆の論理を同時に発信する貞操観念のなさである。少数政党がまとまれば、比例で自民に勝る票数を得ているなど、ナンセンスな結果評をする評論家もいるけれど、未来の党の当然の大苦戦*17)が何を物語るか。仮に維新と「国民の生活が第一」が合併したら、これにみんなを加えてもそれこそ第2選挙互助会政党ができるだけで、結果何人が当選したでしょうか。

 日本維新の会は躍進した*18)。特に比例では自民党に次ぐ票を獲得した。橋下氏はこの結果に非常に不満なようだけれど、国政選挙を相当甘く考えていたのではなかろうか。取り巻きにも太陽の党との合併を失敗だった公言する輩もいるけれど、大阪での評判は兎も角、合併したからこそ比例であれだけ取れたとも思う。小選挙区では元々大阪以外は、いくら橋下維新の会と叫んでも、初心者候補で勝てる訳が無い。国民は民主党の何とかガールズやチルドレンで懲りているのだ。逆に老舗の自民党は小選挙区で圧倒的な強さを見せた*19)。どう考えても選挙民のまともな選択だ。

 アジェンダの好きな少数政党も倍増させた*20)。結党から3年、それでも初めての国政選挙に名を連ねた日本維新の会の議席の1/3に過ぎない。アジェンダにすべて同調できなければ共同出来ないと言うが、国論を2分するアジェンダが3つあれば、(1/2)の3乗で、12.5%の人しか仲間に入れない。そんな政党に天下が取れるわけがない。物事には多数決で決めて結果少数者が従えばいいアイテム(利害が対立する政策)と、例え一人でも引けない信念や大義のアイテムがあるものだ。脱原発を公約するなど論外で、消費税やTPPなどは、皆で議論して落とし所を決めてゆけばいいことだ。憲法や国防、教育問題とは次元が異なる問題であろう。

 すでに、安倍総裁は精力的に動いておられるようだけれど、トップの要件のひとつ、徹底して孤独に耐えていただきたい。お友達は要らない。名参謀を持つことこそ重要であろう。




*17)62議席→9議席
*18)11議席→54議席
*19)全300小選挙区のうち約8割で自民党が勝利した。
*20)8議席→18議席
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兵法経営塾第7回

2012年12月19日 | Weblog
トップの条件(下)

 兵法経営塾では、この「トップの条件」の項に、日露戦争において満州軍総司令官として、総参謀長児玉源太郎と絶妙のコンビを組んで、大任を果たした大山巌をあげてその人となりをトップの条件事例としている。

 日露戦争は、現在の中華人民共和国の遼寧省から吉林省、黒竜江省、内モンゴル自治区北部まで(中国東北地区)にあたる旧満州の南部を主戦場とした。ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉によって我が国は日清戦争で得た遼東半島を清国に返還させられたが、遼東半島は清国内の内乱(義和団の乱)を経て、帝政ロシアの勢力圏となっていた。我が国にとってはロシアの南下を食い止める必死の戦いであった。日清戦争では1日で落とした旅順要塞は、その10年後、ロシア支配下での堅固な砲台や塹壕によって、日本軍を苦しめることになる。

 『満州に上陸してから連戦連勝して全世界を驚倒させながら北進した満州軍も、明治38年(1905年)1月25日以来、きわめて優勢なロシア軍の反抗を受け、苦戦に陥っていた。所謂黒溝台会戦*13)である。新たに南下してきたロシア軍に対して、この方面に配備されていた日本軍は甚だ微弱であった。満州軍総司令部は慌てて、各方面から兵力をかき集め、臨時立見*14)軍を編成して差し向けたが、当然これは兵学上最も不利とされている「兵力の逐次使用」となり、「焼石に水」の観を呈し、参謀部はすっかり狼狽していた。・・・

 この時、のっそりと作戦室に入ってきたのが大山総司令官である。「児玉さん。今朝からだいぶ大筒の音がするようですが、いったいどこですか」と、彼はおよそ場違いな声をかけた。・・・この素頓狂な発言が部屋の空気をいっぺんに和らげてしまった。・・・「満州軍は、一挙に渤海(ぼっかい)湾に追い落とされるのではないか」と心配されたこの危機を何とか収拾することができたのである・・・』。

 同じような話を司馬遼太郎「坂の上の雲」第4巻「203高地」の章では、『大山巌は、幕末から維新後十年くらいかけて非常な知恵者で通った人物であったが、人の頭に立つにつれ、自分を空しくする訓練を身につけはじめ、頭のさきから足のさきまで、茫洋たる風格をつくりあげてしまった人物である。海軍の東郷平八郎にもそれが共通しているところをみると、薩摩人には、総大将とはどうあるべきかという在り方が、伝統的に型としてむかしからあったのであろう。

 ついさきごろの沙河会戦*15)で、激戦がつづいて容易に勝敗のめどがつかず、総司令部の参謀たちが騒然としているとき、大山が昼寝から起きてきて部屋をのぞき、「児玉サン、今日もどこかで戦(ゆつさ)がごわすか」といって、一同を唖然とさせた人物である。大山のこの一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、ヒステリックな状態がしずまったという。・・・』
 
 先に『満州に上陸してから連戦連勝して全世界を驚倒させながら北進した満州軍』とあったが、有名な203高地攻略は、1904年8月19日の旅順への第1回総攻撃による戦死者15,800人に始まり、乃木軍は計6万人にのぼる犠牲の上に、児玉総参謀長の第三軍司令代行によって、その年12月ようやく成し遂げたものだった。旅順陥落は翌年1月となっている。

 さらに北進する日本軍を待ち受けていたものは、『戦線が、沙河の線で凍結している。「冬営」という軍事用語が、このときはじめてできたが、文字通り、凍結であった。満州平野は褐色の死の色をいっそうすさまじいものにしている。気温は平均して零下20度であり、風が吹けば体感温度は同30度以下になり、ときに夜は同40度以下に下がることもあった』。とは、同じく「坂の上の雲」第4巻「黒溝台」の章の冒頭にある。当地の1月の厳しい環境を指している。

 極限の世界で、将たる者の器の差が装備や兵力数を超えて勝利をもたらした。「坂の上の雲」にある『人の頭に立つにつれ、自分を空しくする訓練を身につけはじめ、頭のさきから足のさきまで、茫洋たる風格をつくりあげてしまった人物・・・』とは、トップの在るべきひとつの姿を象徴している。また『大山は、緒戦の遼陽戦において「児玉サア、戦のことは全部お頼み申します。責任は全部オイが負いますので。存分にやってくりゃんせ」と語った』とある*16)。我利我欲、責任はどこかへの多い現代人には見られなくなった風格・胆力である。

 それにしても、我が国にとっても過酷な日露戦争なくば、現在の韓国は尚、北朝鮮のごとくであったかも知れず、未だ日本統治を根に持つ韓国の国民感情が、如何に歴代当国の為政者の恣意により、歴史を踏まえていないかを物語るものであることを改めて思う。







*13) 黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)とは、日露戦争中の1905年1月25日-1月29日にロシア満州軍の大攻勢により起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘。ロシア側の奇襲により始まり日本軍は緒戦苦戦したが、結果的には日本の辛勝に終わった。司馬遼太郎の言う沙河会戦もこの会戦の一部と捉え、大山大将の同じエピソードとなったものであろうか。
*14)立見尚文(1845-1907):桑名藩士、陸軍大将、男爵。
*15)沙河会戦(さか(しゃか)かいせん)は、日露戦争において、1904年10月、ロシア陸軍が日本陸軍に対して行った反撃により始まった会戦。この戦い以降冬季に突入し、沙河の対陣と呼ばれる膠着状態に陥った。日本軍12万に対してロシア軍22万。戦死者は日本軍約2万人に対してロシア軍4万1千人。<by Wikipedia>
*16) 文藝春秋2010年12月臨時増刊号「坂の上の雲」“日本人の奇跡”大山巌の稿「素顔は理数系の実践家」堺屋太一より

本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊の他、司馬遼太郎「坂の上の雲4」昭和46年4月初版(文藝春秋社)及び文藝春秋2010年12月臨時増刊号「坂の上の雲」“日本人の奇跡”を参考にし、『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています。
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兵法経営塾第6回

2012年12月16日 | Weblog
トップの条件(上)

 「トップの条件」これもよく俎上にのせられるテーマだ。まず健康であって、責任感が強く、先見性があって決断力があるなど、幾つかの条件は誰もが思い浮かぶのではないか。兵法経営塾でも議論され、これを6カ条にまとめたという。以下の6つである。

 1.経営哲学
 2.大局観
 3.人材育成能力
 4.統率力
 5.演出力
 6.国際感覚

 そして、『最終的に一つに絞るとすれば、いろいろ上がった多くの項目において、優れていなければ「統率力」はつかないから、「トップに必要な資質は統率力」というしごく平凡で単純な結論になった』。とある。

 ただ、物事の意味には広義と狭義がある。広義の「統率力」には確かに一般にあげられる多くのトップの条件の項目がすべて包含されるのであるから、この結論は間違っていない。しかし、大いに「統率力」を発揮して、企業の発展に貢献したけれど、気がついてみれば後継者も何も育っておらず、トップが交代した途端に業績が低迷したというような事例もあるように思う。その意味で狭義の「統率力」もあるのではないか。さすれば、トップの条件としては「統率力」の他、「大局観」、「人材育成能力」、さらに現代の経営においては「国際感覚」は外せないであろうから、以上4項目を並立的に挙げるのが妥当のように思う。

 『企業の運命はトップにかかっている。トップの責任は重大であり、トップたるものは、その職責を果たすために必要な資質を認識し、これを身につけるために万全の努力をしなくてはならない』。そして、著者は次の6カ条を、統率力を身につけるための条件としている。

 1.心身ともに健康であること。
 2.仕事についての哲学を持つ。
 3.人間的魅力を持つ。
 4.人材の育成評価の能力を持つ。
 5.まず自ら燃える。
 6.統率・指導の原則を知る。

 「統率力」すなわちリーダーシップ。トップは孤独だと言われ、またぎりぎりの判断を下さねばならない時は、孤独の中に身を置いてこそ決断すべきものであるからこそ、孤独に強い資質が必要と言われたりする。「孤独に強い」こともトップの条件に加えたい重要な資質である。しかし、所詮あらゆる能力に優れた人間など、どこにも居はしない。どの条件もそこそこの秀才型よりも、欠陥はあってもずば抜けた才が尊重されるケースはトップにだってあろう。トップが自身の能力の限界を知り、補佐させる人材の登用こそ必要であり、「汝自身を知ること」もトップの条件かもしれない。




本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊に基づき構成し、『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています。
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兵法経営塾第5回

2012年12月13日 | Weblog
組織

 「数は力なり」とは民主主義を悪用する政界の常識のようだけれど、軍隊などにあっても「戦力は兵数の自乗に比例して増大する」ということがあり、「多勢に無勢」、「寡は衆に敵せず」とも言う。『しかし「多数はただ困惑を招くのみ」とも言われている。多数になれば、その統率・交通整理・補給などの困難性が飛躍的に増大することは、今日の大都市の状況がよく示している。多数に統率力を浸透させて、その威力を至半ば当に発揮させるには、まず組織を適切にしなければならないが、これには4つの基本的原則がある。

 1.誰もが一人の命令によって動けるようにしておく。
 2.集団を区分して硬直化を防ぐ。
 3.ラインの編成。
 4.ライン・スタッフ編成をとる。この典型的なものが軍隊で開発されたライン(部隊長、実行する細胞)とスタッフ(参謀、考える細胞)の編成である』。

 企業組織は、その規模の拡大と共に機能別組織から事業部制組織に進歩し、カンパニー制やマトリックス組織なども生みだしたことはよく知られている。前の4原則は、機能別組織で止まっているが、これが基本であることは間違いない。

 『ナポレオンはライン・スタッフ制による命令戦法で勝ち、ディビジョン制による訓令戦法に敗れたと言われている。ナポレオン以前(18世紀半ば)のヨーロッパの将師たちはスタッフ(参謀)を持っていない。彼らの直接指揮した軍はたいてい数千人から数万人で、密集隊形をとり、行動も単純であった。彼らはライン編成による軍隊を号令で指揮し、その戦法は号令戦法と言われた。ナポレオンの時代(18世紀末)になると、直接指揮する軍隊は数万人から十数万人となり、戦場もひろがり、作戦行動も複雑になっていた。ナポレオンはスタッフの活用を思いつき、参謀部を編成し、・・・常に大敵を破ってついに全ヨーロッパを席巻してしまった。・・・スタッフを使い、命令によって革新戦法を駆使するナポレオンに対し、依然としてライン編成による号令戦法に執着していたヨーロッパの将師たちの歯が立たなかったのは当然であった』。

 しかし、『ナポレオンは、この成功に甘んじ、情勢の変化に応じる工夫を怠った。彼の軍隊がますます増大して数十万となり、その作戦行動がさらに広域に展開するようになると、ナポレオンの赴かない戦場のフランス軍はほとんど破れるようになった。ナポレオンは部下を厳しく統制してきたため、彼の部将たちは現場の実情に応じ、自らの責任において勝つ方法を求め判断し、決心し、行動することができなくなっていた。電気通信の無い時代、一人の天才の威力は彼とその参謀が乗馬で駆けていける範囲にしか及ばなかった。

 プロイセン(後のドイツ)の参謀たちは、ナポレオンに完敗した原因を捉え、ナポレオンの弱点を看破した。プロイセンの連合軍は、各方面の軍を独立作戦能力と権限を持つ戦略兵団(ディビジョン)に編成し、ナポレオンを撃つという共同目標だけを掲げ、進退攻防は各軍司令官の自由とした。各軍はナポレオンが来たら逃げ、去ったらその後を突き、各方面策応して逐次ナポレオンを追い詰める戦法を採ったのである。・・・』。

 著者は、「現代の企業で大きすぎるものはない」と言っている。『現代の企業の中には大きくなりすぎて統率力の浸透性を失い、「分割しなくては」と論じられているものがある。後期のナポレオンと同じ病根を持っているわけであるが、・・・組織は大きい方が良い。分割する前に編成と統率法を考えて、大規模の利を発揮するように工夫すべきである』。

 以下は蛇足である。大企業病とは良く聞く言葉だ。実際大企業に居てみれば、結構綻びが見えるけれど、それは部署の数に必要な適切なリーダーの数が不足してくることで起こっている。ただ、企業業績は円高とか原料コストなど外部要因とトップリーダーのかじ取りに左右されることが大きく、末端組織の綻びは直接業績に影響を与えにくい。だから見えにくく怖い。人体でいえば血糖値が高い状態で、症状が顕在化していないだけ。「組織は頭から腐る」とは事実だろうけれど、その鏡は末端にあるものと思う。




本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊に基づき構成し、『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています。
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兵法経営塾第4回

2012年12月10日 | Weblog
情報・諜報・謀略

 「情報」は企業経営にとっても欠かせざる「ヒト」、「モノ」、「カネ」と同等の経営資源とされる。一方、「諜報・謀略」と聞けば、いかにも卑怯な敵を欺く手段のようにさえ受け取られるイメージがあるが、兵法経営塾では情報工作としての正当な手段と位置付けている。

 英国のスパイを描いた映画「007」シリーズや、米国CIA、ソ連時代のKGB(現ロシア、SVR)など有名であるが、我が国にそれらに相当する機関があるのかどうか。公安警察などはテレビなどにもしばしば登場するので、何となくあるようだが、オーム真理教が起こした松本や地下鉄でのサリン事件を、未然に防止できなかったばかりか、松本サリン事件では一般市民を被疑者にしてしまったレベルからして、心もとないものだ。現在に至っても我が国はスパイ天国とさえ言われている。太平洋戦争の後遺症で人権への過剰な配慮が、却ってどれだけの人々を傷つけ命を奪い、国益を損ねていることか。毅然とした諜報活動機関の設置と犯罪抑止のための厳罰処置が国家司法には必要である。

 『情報工作は、目的をはっきりときめ、適任の指導者をおき、審査機関を設け、組織的に活動しなければ効果をあげることはできない。・・・国際情報工作は世界各国とも半ば公然と行い、相互に認めあっているもので、「やられる方が間抜け」ということになっている。そんなにうしろめたい思いをすることはない』。

 この本が書かれた当時からすれば、現代は情報技術(IT)の発達普及が凄まじく、コンピュータへの不正なアクセスや操作によって、国家の中枢機関の情報が脅かされる時代である。諜報活動も高度な文明社会の中で複雑さを増大させている。

 情報工作の実例としてこの本には、ゾルゲ*12)工作の概要が記されている。『第二次世界大戦のヨーロッパ戦場でドイツ軍と死闘を続けているソ連軍の運命は、日本の方向にかかっていた。日本が北を向いているかぎり、ソ連の極東軍をヨーロッパ戦場へ転用できないからである。日本に潜入していたソ連スパイのゾルゲが発した「日本の方向は南」の暗号電報を受け取ったスターリンの喜びは目に見えるようである。・・・』

 『一般の命令には「発令者の企図と受令者の任務」を必要とするが、スパイに発令者の企図を知らせることは禁物で、それに与えるのは、受令者の任務だけを示す「号令」でなくてはならない。スパイは敵に捕えられることがあり、裏切ることもある。最初から両方のスパイを兼ねたものがあり、またスパイ市場ができていて、両方のスパイが互いに情報を持ち寄って取引していることもある。・・・スパイを使えば、同時にそのスパイからスパイされることを覚悟しなくてはならない』。

 著者は元第一線の軍人であった。人間の魔性にさえ想いを至らせる記述が、この経営本にスパイスを利かせ魅力となっている。日本人の多くは、特に戦後教育で育った人々は性善説をベースに思考する癖がある。要するに甘いのである。それが良い人間関係を育むこともあるけれど、熾烈な国家間の外交やビジネスの世界では、甘さは命取りとなり兼ねない。

 『謀略とは、実力をなるべく使わないで、相手を自分の思うようにすることで、「孫子」の主張する「戦わずして勝つ」ためのもっとも有効な手段である。謀略工作の本来は、相手に自主的に計算させ、わが主張に同調する方が有利だと、情勢を判断させることである。目先のトリックのようなことでは大きなことはできない。・・・謀略に諜報はつきものである。しかし謀略は相手をわが思うように動かすことであるが、諜報はただ相手の状況を知るだけである。・・・桶狭間合戦を予期した織田信長が一番重視したのは、今川義元の行動を知ることであった。・・・信長はそのために数年も前から諜報網を植え付けていた。・・・また清州城内外に張り巡らされている今川方の諜報網に、自分の出撃企図を察知されないため、いろいろと苦心の演出をしている』。

 他国の企業に易々と重要な技術情報を持ちだされる愚を繰り返さないためのも、我が国の企業は、諜報活動に対する備えを徹底する必要がある。国家は各種スパイ目的の外国人の出入国を厳しく規制すべきである。





*12) リヒャルト・ゾルゲ(1895- 1944)は、ソ連軍のスパイ。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動を行い、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性等の調査に従事しており、ゾルゲ事件の首謀者で日本を震撼させた。<By Wikipedia>

本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊に基づき構成し、『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています。
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兵法経営塾第3回

2012年12月07日 | Weblog
統率・統御

 『上州箕輪*7)の城主、長野業政(なりまさ)*8)とその子業盛(なりもり)がひとしく武田信玄に対し、同じ場所で、同じ部隊をもって戦い、業政は大勝し、業盛*9)は大敗して滅亡した事例を引いて、統率力において、子は父に遠く及ばなかった』とある。

 解説によれば、当時の豪族は中核となる城を持つだけでなく、周囲に幾つもの砦を持っていた。主力部隊同士が睨み合い戦闘する状況に応じて、砦の役割も変化し機敏に的確な役割を果たせるかが大きな組織力の差になる。すなわち一国一城の主は、これら組織全体を統率する力量を持たねばならない。すなわち同じ部隊が同じ戦闘の布陣を布いたとしても、周囲の砦群まで一瞬の隙もなく統率する力量がなければ、巨敵に勝つことは難しい。統率力の差が父子の勝敗を分けたというのだ。

 衆院選挙戦が始まり、いつものごとく立候補者の世襲が問題になったりする。破れかぶれの政権党は、兎に角、野党の弱みを突くことに必死だけれど、急に世襲を禁止しても素人政治が蔓延るだけだ。政治の世界の世襲を必ずしも正義とは思わないが、立候補するのは個人の自由で、選ぶ権利は国民にある。国民の判断を信じるしかない。しかも世襲には子供のころから帝王学を学べる良さがある。すべてを排斥するのは、どこかの馬の骨の横暴である。

 口先だけの人材を育成した感のある松下政経塾が成功したとは思わないが、各政党が同様の政治家養成機関を持って、世襲に頼らない資質ある人材を育成する必要はある。政党助成金は人材育成のためにも使うべきだ。
 
 長野業政、業盛親子も当然に世襲であったが、業盛も武勇に優れていたといい、世が世なら後継者として不足はなかったのではないか。子が父の天賦の才の全てを受け継ぐのは難しく、また経験の不足は大きい。父と同様の統率力を持つには若すぎたに過ぎない。

 とはいって重要な「統率力」でありながら、『かつての我が国の陸軍士官学校や海軍兵学校に於いてもリーダーシップを専門とする講座はなく、陸海軍大学校は参謀養成学校であったため当然にそれはなかった。結果、統率や指導の理論化ができておらず、とくにその定義がはっきりしていないため、議論しても噛みあわず結論が出ない』。

 兵法経営塾では、この統率・統御・指揮に定義を与える。さらに「号令」、「命令」、「訓令」などの違いについても明確にしているのだ。

 『我々は本能的に「命令」を嫌う傾向があるが、それは「命令」というものを理解していないためで、真剣に仕事をしていないことによる。・・・「命令」は、受令者にあることを実行するように要求するとともに、その結果起こり得るトラブルについては、一切発令者が責任を負う保証なのである。・・・上司は命令すべきものであり、部下は命令を歓迎すべきものである。・・・「命令」の二大要件は「命令者の意図と受令者の行うべき任務」である。受令者の任務だけを示したものは「号令」であり、逆に発令者の意図だけを示して、実施方法を受令者に一任するのが「訓令」である*10)。・・・(「号令」も「訓令」も命令であることに変わりなく)、いずれの方式をとる場合でも、それを実行した結果については発令者の責任である』。

 では、「統率」とは、『「人事権にもとづく強制力を持つ者」が行うのは、それを意識して行使するとしないとを問わず統率であり、それを持たないものが行うのは指導である。・・・統率とは、統御し、指揮することである。・・・統御とは部下にやる気を起こさせることであり、指揮とは部下のやる気を生かすことである。・・・指導とは人びとの支持を得て、これを誘導することである』。

 「統御」のための社会的勢力として、①報酬勢力、②強制勢力、③正当勢力、④準拠勢力、⑤専門勢力の5つがあり、それはリーダーシップの源泉であるとされた*11)。この兵法経営塾の理論では、統御の法則として、第一法則、成功する。第ニ法則、利益(賞)を与える。第三法則、恐怖(罰)を与える。第四法則、感情を刺激する。となっている。

 なかでも賞罰のさじ加減は難しい。グローバル化が進行した昨今、日本企業でも欧米並みの成果主義が取り入れられたが、単なる賃金抑制策の一環として導入された趣もあり、結局定着しなかったのでないか。この頃では、終身雇用や年功序列という安心感が、却って全体としての成果を高めるという説もある。企業の業務内容だけでなく、その国の文化や風土によっても人事管理手法は異なって当然であり、賞罰も要は程度問題であろうと思う。






*7) 現在の群馬県群馬郡箕郷町
*8)長野業政(1491~1561)。業正と表記している場合もある。隣国の武田信玄から6回にわたって城を攻められたが、これをいずれも僅かな兵で撃退したと言う。
*9)長野業盛(1546-1566)。父、業政の死によって14歳でその家督を継ぐ(兄はすでに討ち死にしていた)。武田軍に敗れ自害した時は19歳であった。<By Wikipedia>
*10)『この他、相手が高級者である場合には、「情報」を伝えるにとどめる方がスムーズに事が運ぶ。』(本文から)
*11)中小企業診断士基本テキスト「企業経営理論」2006年TAC中小企業診断士講座による。

本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊に基づき構成し、『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています。
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兵法経営塾第2回

2012年12月04日 | Weblog
兵法経営塾の要諦

 戦略という言葉をよく聞くようになったのは、1980年代半ば頃からではなかったと思う。「兵法経営塾」という本が出版された時期と符合する。「兵法」すなわち戦争に勝つための方策である。すなわち戦略(Strategy)。我が国の戦国時代、戦(いくさ)に敗れた大名はほとんど切腹して果てた。戦は究極の競争なのだ。そこに企業経営を模した。経営も厳しい企業間競争を勝ち残っていかねばならない。

 この本には、家康、秀吉当然に信長など戦国時代の覇者や武田信玄などの戦国武将、孫子、諸葛孔明、ナポレオンなど古今東西の英雄に、桶狭間から関ケ原、日露戦争などにおける戦略の実際。これに東西の古典からの教訓を盛り込みながら、戦いの中で、トップリーダー(大将)はどのように考えてどう動いたか。スタッフ(参謀)はどう考え作戦立案したかを解説している。そこから統率・指導・リーダシップなどの在り方を抽出しているのだ。そして第2編「経営と兵法」では「ドラッカーに学べ」とある。この本というより、兵法経営塾というセミナーにリピータが多く、盛況であった理由が分かる。出がらしの経営理論では味わえない、生の歴史と歴史観、人間観がそこには溢れているのだ。

 その中からまず、少しページは進むが、ピンチをチャンスに変えた成功事例として、我が国最大のみごとな国家戦略を取り上げる(第十三講「国家戦略」)。明治政府が発足し西洋文明に触れて僅か40年足らず、当時の大国ロシアと対峙し開戦するという最大のピンチに当たり、我々の近い先祖である当時の日本政府や日本軍が、どのように行動したか。

 『国家戦略を理解するには日露戦争(1904~5年)を研究するとよい。これはわれわれの父祖(1906年生まれの作者からすれば、まさに父や祖父の年代の人々の時代だ)が残した傑作であり、各種の戦略や謀略が比較的単純に、しかも総合して使われているので、成功した国家戦略のモデルケースとして、その全てをつかみやすい・・・』とあり、次のようにある。

 『ロシアという国は、ナポレオンに首都モスクワを占領され、ヒトラーにレニングラード、モスクワ、スターリングラードを一斉に攻め立てられても、頑として手をあげなかった国である。それが日露戦争で負けたのはなぜだろう?・・・ロシアが負けたのは、日本の打ったあの手この手の総合威力に屈したのである。日本の打った国家戦略の主なる手は、次のように七つある。

 1.国民を奮起させ、しかも暴走させなかった世論指導
 2.国際情勢を日本に有利に導いた外交工作とくに日英同盟
 3.ロシアの内部崩壊を策した明石元ニ郎*5)の革命工作
 4.開戦時に手を打った金子堅太郎*6)の終戦工作
 5.わが戦費を調達し、敵国の資金源を絶った高橋是清の資金工作
 6.連戦連勝の軍事工作
 7.満州作戦の舞台裏で活躍した特別任務班(軍事探偵団)の後方撹乱工作

 強大国ロシアに追いつめられるという最大のピンチにおいて、日本の指導者の打った七つの手はすべて成功し、その総合力を発揮している。』

 ピンチに動じることなく難局を切り抜けたまさに明治の元勲、当時の国家指導者達の逞しさ、したたかさを見る。引き換え現在の政治家達の口だけは滑らかであるけれど、何と頼りなきことよ。中韓ごときに翻弄され、内弁慶で政敵を批判するだけ。力も無いくせに代議士に成りたがり、国家の最高責任者までにもなってしまう身のほど知らずの怖さ。この章(第十三講)は企業経営者のためではなく、著者の政治家への教訓であろうと思う。






*5) 明石元二郎:(1864-1919)明治・大正期の陸軍軍人。陸軍大将・勲一等・功三級・男爵。第7代台湾総督。福岡藩(現在の福岡県福岡市)出身。日露戦争中、山縣有朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。<By Wikipedia>

*6)金子堅太郎:(1853-1942) 明治期の官僚・政治家。司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官を歴任し栄典は従一位大勲位伯爵。日本法律学校(現日本大学)初代校長、二松學舍専門学校(二松學舍大学)舎長。伊藤博文の側近として、大日本帝国憲法の起草に参画する。また、皇室典範などの諸法典を整備。日露戦争においては、アメリカに渡り日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉・外交工作を行った。<By Wikipedia>
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兵法経営塾第1回

2012年12月01日 | Weblog
ピンチはチャンスなり

 『ピンチとチャンスは同じ姿をしている。したがって、恐ろしいときや苦しいときには、ピンチとチャンスの見分けがつかなくなり、同じ状況でも、名将はこれをチャンスと見、凡将はこれをピンチと見、双方凡将なら、ともに負けたと思って退却するようなことが起きるのである』。これは大橋武夫氏(1906-1987)*1)が昭和59年(1984年)4月に株式会社マネジメント社から出した「兵法経営塾」のまさに第1講の命題である。

 大橋氏はその著書のカバー(まえがき及び本文から引用)に『兵法経営塾研修者の名簿を整理してみたら驚いた。兵法経営塾は昭和55年10月「兵法経営」をテーマにして、帝国ホテルで開講して以来、今年で4年目になるが、1ヶ年コースであるにもかかわらず、4年間続けている人が10人、3年間が17人もいる。いずれも活発に発展している企業経営の中枢にあって重責を担っている方々である。この経済激動期において、国の内外にわたって活動し、多忙をきわめている方々が、同じゼミで3~4年の長期にわたって研修を続けるというのは尋常一様のことではない。何がそうさせたのか? 実のところ私自身にもわからない。塾の内容の一部を紹介して、皆さんのご批判を仰ぎたいと思って出したのがこの本である』。と記している。

 この本が出た昭和59年当時の経済史を振り返ってみる*2)。その年(昭和59年)1月9日、東証の平均株価が1万円台に乗せた。株価はその後、昭和62年1月30日初の2万円台、昭和63年12月28日の東証大納会、平均株価3万円の大台を経て、平成2年(1990年)1月4日の東証大発会で、平均株価が前週末終値比202円99銭安の3万8,712円88銭で引ける(バブル崩壊の始まり)まで、暴騰を続けることになる。

 また、昭和60年(1985年)9月のプラザ合意*3)を受けて、1ドル240円程度だった円相場も急騰し、翌昭和61年初頭には200円割れ、昭和63年11月11日には東京外為市場でドルが急落し、1ドル121円52銭の当時として最高の円高を記録している。

 私が山口県の研究所から千葉県の工場に転勤で来たのは昭和58年(1983年)3月。当時石油化学業界は不況の真っただ中で、研究所予算の削減のための人事異動でもあった。工場の稼働率は5割程度、最新のポリマープラント建設も中断されている状態であったし、我々従業員は、雇用調整助成金を得るための社内セミナーを何度か受講する有様であった。日本の石油化学産業には、もう過去のようないい時は来ないのではないか、という悲観論が横溢していた。バブル崩壊後の日本経済の低迷を、失われた10年とか20年とか言っているけれど、今から見れば我が国にとって栄光の1980年代*4)も、かように企業活動は安穏と出来ていたわけではない。

 未だ、急激な円高に晒される前の1980年に始まった兵法経営塾が、著者が語るように盛況であったことは、その内容も然ることながら、当時の我が国の企業経営者が常に謙虚に学びの姿勢を持っていたかを伺わせるものだし、栄光の陰には人知れぬ努力の積み重ねがあることを物語っている。勝ちに偶然の勝ちもあるかもしれないが、その多くは流した汗の結晶であろうと思う。

 前稿の「ものづくり白書を読む」では、デジタル化の進展で、モジュラー型製品の分野で品質差がなくなり(コモディティ化)、円高と相まって電機電子業界を中心に我が国のものづくり企業が急速に競争力をなくした実態を明らかにしたけれど、現代にあっても「ピンチはチャンス」である。日本企業の再建は、経営者はじめ全従業員の奮起にかかっている。





*1)愛知県出身。日本の陸軍軍人(最終階級は陸軍中佐、第53軍参謀)、実業家、経営評論家。終戦直後、激しい労働争議で倒産した東洋時計(株)の小石川工場を、昭和26年に東洋精密工業(株)として再建。その後独特の「兵法経営論」を提唱し、講演活動を行った。<By Wikipedia&著書の著者紹介>。

*2) 1993年/毎日新聞社発行、エコノミスト創刊70周年[臨時創刊号]「戦後日本経済史」による。

*3)プラザ合意:1985年9月22日、G5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)により発表された、為替レート安定化に関する合意。呼び名は、会場となったアメリカ・ニューヨーク市のプラザホテルに因む。アメリカの対日貿易赤字が顕著であったため、 実質的に円高ドル安に誘導する内容であった。<By Wikipedia>。

*4)1980年、日本の自動車生産台数は110万2,884台に達し、台数で米国を抜き世界1になっている。またトヨタ自動車が5兆円企業(売上高)になったのが1984年。一方1985年8月には大協、丸善、コスモの大手石油会社3社が合併を発表、1987年2月、新日本製鐵は高炉5基休止、1万9000人の人員削減など合理化計画を発表している。<1993年/毎日新聞社発行、エコノミスト創刊70周年[臨時創刊号]「戦後日本経済史」>
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