中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

歴史に学ぶ 第10回

2018年06月28日 | ブログ
日本のフィロソファー

 歴史と聞くとどうしても昔々のお話となるが、現代にあっても歴史は刻々と積み上がっているわけで、特にすでに鬼籍に入られた方々は歴史上の人物となる。

 西暦2000年というと、すでに18年も前のことになったが、私にとってはコンピュータの2000年問題ということで、職場で大晦日を迎えたことを思い出す程度だが、世間では千年紀ということで、この機会にと経済的繁栄で取り残された「日本のこころ」を持った歴史上の偉人たちを振り返ってみたいと本を出された人が居る。

 「日本のこころ」(私の好きな人)地の巻、天の巻、講談社2000年7月刊。

 挙げられた歴史上の人物は聖徳太子に始まり、田中角栄(1993年没)、司馬遼太郎(1996年没)まで30名。執筆者も各界の著名人の論客30名。2000年には確かに健在であられたが、その後亡くなられた方も多い。

 「日本のフィロソファー」とは昨年亡くなられた渡部昇一先生(1930年生)が好きな人に挙げられた松下幸之助((1894-1989)氏のことである。

 松下幸之助氏のことはあまりに有名なので、紹介は要らないと思うけれど、すなわち「経営の神様」である。東京浅草寺のシンボルである入口の巨大提灯は、日本がまだ貧しかった頃、松下電器(現、パナソニニック)の寄贈によるものとは、私は最近になって知った。

 小学校4年生(満年齢9歳)で和歌山から大阪に丁稚奉公に出た。別に学校が嫌いだったわけではない。『奉公先のお向かいに、同じ年の男の子がいました。寒い朝、こちらが真っ赤になった手をフウフウと息であたためながら、ほうきを使い、冷たい水で表のふき掃除をしているとき、「行ってまいります」と、その坊ちゃんが元気に中学へ出かけて行く。僕は、その都度手をとめ、後ろ姿を見送りながら、人知れずため息をついたものでした。「ああ、僕も学校へ行きたいな」そのうらやましさを、いまご説明しても、みなさんにどこまでおわかりになっていただけるか・・・』昭和49年に毎日新聞社から出された松下幸之助「道は明日に」にある。

 フィロソフィーとは、哲学者または哲人を言う。ある時、米国の雑誌記者が松下幸之助氏を実業家で出版者であり著述家であると紹介しながら、彼をフィロソフィーとも呼んでいたという。それを見つけた渡部先生が、これは鋭いと感じた。松下幸之助氏は日本人で世界に対してフィロソフィーと呼べるごくごく少ない人間の一人だと思った。その根拠は、彼はPHP(ピース&ハピネス・スルー・プロスペリティー)「繁栄による平和と幸福」という運動を行い、それに関して出版社も始めた。出版事業も成功させている。

 氏は取引先の方から勧められた宗教の寄合に参加して考えた。金儲けを本業とする企業経営は、信仰とは真逆の行為のように思えたのである。しかし、信仰による平和と幸福の途もあるかも知れないが、会社を儲けさせて、ちゃんと給料を貰って結婚して子供を養い、教育をする、そうして死ぬ前にも平和と幸福に至る道があるのではないかとの考えに行き着いたのである。漠然とではなく、そのことをPHP運動を通じて一つの思想として打ち出したのである。



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歴史に学ぶ 第9回

2018年06月25日 | ブログ
(続)上杉鷹山

 鷹山は1751年7月、日向の国(宮崎県)高鍋藩主秋月種美の次男として江戸の麻布で生まれた。母は筑前の秋月城主黒田甲斐守の娘で、米沢藩の8代藩主上杉重定のいとこに当たる。重定に男の子がいないと知り「私の方に秋月の次男で松五郎(鷹山の幼名)という子供がいます。まだ九つですが、とてもりこうな子です。それに、毎日の遊びなども、普通の子供と違って、みんなの褒めものになっています。この子を養子に推薦します」この養子縁組は鷹山10歳にして成り、17歳で重定の娘である幸(よし)と結婚し9代目の米沢藩主となる。

 しかし、鷹山と同い年である幸は生まれながらに心身障害者であり、17歳にしても幼女のような肉体と精神状況は変わらなかった。若き鷹山は、日々障害者の妻のために、紙で鶴を折って持っていった。幸は、それを糸でつなげて、鶴が日々増えていくのを手を打って喜んでいたと言う。

 鷹山のこのような優しさは、身分の低い足軽から藩士にまで差別なく、そのことが心ある藩士に伝わってゆく。

 「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、良い人のまわりには良い人が、悪しき者のまわりには悪人ばかりが集うものである。米沢藩の心ある藩士は鷹山に期待する。この殿様なら我々の藩を良くしてくれるのではないか。

 鷹山は、江戸屋敷のこれはと思う藩士を集めて、財政再建のための藩政改革案の作成を命じる。「しかしその目的はただ一つ、藩内の弱者を労わる政治を実現したい。米沢藩の藩政改革は民を富ませることにある。藩政府が富むことではない」。

 「上杉家は、大家から小家になった。しかしそれにも拘わらず、藩の上下は、諸事についていまだに大家の昔を慕い、家格に囚われている。・・・これほど衰えた藩をどうしたら立て直すことが出来るだろう。・・・皆がギリギリの力を出し合って努力するしか道はない。どうか頼む、最後の努力をしてくれ、この通りだ」と鷹山は藩士に向かって頭を下げたという。

 鷹山の藩政改革が現代の経営学に通じるところがあるとするなら、それは、「あらゆる生産物に付加価値を与えよ」ということであったろう。米沢藩の気候や土壌に適した漆や楮(こうぞ)や桑、藍、紅花などを増産し、それを藩内で加工すれば非常に利益を生む。塩分を多く含んだ温泉から、塩まで生産したという。他藩から技術者を招いて作り方を教わり、原料の農産物は武士も植林に、加工には武士の妻も労力として動員した。250年前にすでに女性活用を実践していたのだ。

 江戸中期には、8代将軍吉宗の幕政改革が有名で、吉宗は徳川幕府中興の祖と呼ばれるほどだ。しかし大奥と称して、将軍一人のために1000人もの女性を抱えていた幕府と、米沢藩とでは窮乏状態は天と地ほどの違いがあったのではなかろうか。

 「ほんとうの優しさをもつことのできる人は、しっかりした心構えのある人きりだ。優しそうに見える人は、通常、弱さだけしかもっていない人だ。その弱さは、わけなく気むずかしさになり変わる」上杉鷹山が本物のやさしい人だったからこそ乗り越えられた改革であった。



本稿は、童門冬二著、「上杉鷹山の経営学」1992年初版。PHP研究所刊を参考にしています。
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歴史に学ぶ 第8回

2018年06月22日 | ブログ
上杉鷹山

 江戸時代半ばというより後半、10代将軍徳川家治(在位1760-1786)から11代徳川家斉(在位1788-1837)の時代に米沢藩主であった上杉鷹山(1751-1822)は、逼迫した米沢藩財政をみごとに再建したことで、経営本などで取り上げられるようになって久しい。

 もっとも江戸時代は、貨幣経済の急速な発展に米の石高で暮らす幕府も藩も取り残され、格式に囚われ極度の財政難に陥った話は多々あり、いずこもその立て直しに狂奔したとある。

 そんな中で、鷹山がなぜ注目されるのか。企業は人なりとはよく聞くけれど、本当に従業員を大切にし、その能力を如何なく発揮させ、事業を成功に導く経営者は現代にもあるが、封建時代の殿様が古い因習に囚われがちな家来を、意識改革に導くのは容易ではなかったろうと思う。

 そもそも日本で鷹山が一般にも知られるようになったのは、ジョン・F・ケネディ大統領が日本人記者団と会見した際、もっとも尊敬する日本人を問われ、上杉鷹山の名を出したことによるらしい。ケネディ大統領は、封建時代にあって民の幸福を願い民主的な政治を行い、自身の日常生活をあくまで質素に律した鷹山に、自分の理想とする政治家の姿を見たのである。

 当時の米沢藩がどの程度の困窮状態にあったか。その成り立ちから探ってみよう。まず米沢藩であるが、殿様の名に上杉とある通り、武田信玄との川中島の戦いで有名な上杉謙信の家の流れを汲む。謙信は戦国武将の中でも最強の一人であり、謙信当時の石高は200万石を超えるものだった。謙信の養子である上杉景勝の時に、秀吉から会津120万石に移され、さらに関ヶ原で西軍に与したため、家康から米沢藩30万石に滅封された。米沢は家臣直江兼続の領地で、兼続は領地を一旦幕府に返上し、新たな領主として景勝を迎える手続きを取ったという。

 景勝の死後その子の定勝が継ぎ、続く網勝が27歳の若さで1664年に急死する。この時に相続の手続きに遅れがあり、忠臣蔵で有名な吉良上野介の息子網憲を急遽養子に迎えたが、領地は半分の15万石に減らされる。しかし、上杉家では藩祖景勝以来どんなに領地が減っても家臣をリストラしなかった。このため享保年間(1725年)5000人の家臣の石高合計が約13万石で、15万石に占める人件費は実に90%に達していたのだ。

 藩は財政が厳しくとも大名の格式を守るため諸費用は嵩む、参勤交代は昔と変わらず仰々しく、江戸屋敷の生活も切り詰めることはしない。幕府からの江戸城修復などの負担も強いられる。しかも吉良から養子を迎えたことで、吉良から吉良家の贅沢のつけ回しもあったという。

 鷹山の先代8代藩主重定の代では藩から家臣に不当たりの金券が給与として支払われる始末で、武具を売るなど序の口で武士を捨てる者もあり、商人も米沢藩には一文の金も貸さなくなった。暮らせない人々は逃散し、生まれた赤子は間引きする。14万人弱の人口は1760年には9万人まで落ち込んだ。重定は幕府に版籍奉還を願い出る。

 鷹山が重定の養子として米沢藩に来たのはそんな時代であったのだ。(続く)



本稿は、童門冬二著、「上杉鷹山の経営学」1992年初版。PHP研究所刊を参考にしています。




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歴史に学ぶ 第7回

2018年06月19日 | ブログ
太平洋戦争

 1941年12月8日午前3時19分(ハワイ時間7日午前7時40分)、日本海軍航空隊はアメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃を開始した。

 これが、英米への宣戦布告に数時間早かったことでだまし討ちとされ、長く日本は卑怯者扱いを受けることになる。ただ、米国大統領ルーズベルトが自国民の戦争参加意欲を高めるための演出(日本軍の動きを察知していながらその攻撃を黙認した)であったという陰謀説もある。

 当時のわが国は、結構軍国主義が徹底していたのであろう、中国大陸で欧米利権と衝突した日本は、アメリカに石油を止められ、鬼畜米英となり、国民も大新聞さえも開戦ムードになったのに対して、当時から結構民主主義が徹底していたのであろう米国では、国民を戦争に巻き込むのに手続きが要る。

 今でも似たようなもので、近隣国でも中国や北朝鮮またはロシアは、トップが何らかの口実を付けて煽れば、一気に戦争モードで侵略してきそうだ。それに比べ、わが国では骨の髄までの平和主義者が居り、いかなる戦争であっても参加させるのは難しい。米国だって日本ほどではないが、似たようなところがある。しかもベトナム、イラク、アフガン、シリア等々への派兵や攻撃に世界から批判を浴びた。

 現在米中は貿易戦争になりそうな気配だけれど、元々ルールが違うゲームを一緒くたで行っているようなところに無理がある。中国の自由貿易に言う「自由」と民主国家の「自由」は違うのである。ここらあたりの認識が日本の経団連にもない。トランプ大統領は中国だけを貿易不均衡のターゲットにするのではなく、EUにも日本にも同様の要求をする。敵国も同盟国も経済においては差別しない。トランプ大統領にルールの認識はないようだ。勿論中国と日本やEUの貿易問題は米国の知ったことではない。

 日米開戦の時、私の母親(大正8年:1919年生)は、アニメ映画で評判になった「この世界の片隅に」の舞台広島県の呉に居た。すでに子が一人いた。夫である私の父親が呉の海軍工廠で働いていたからである。開戦の報を聞き、母は恐ろしくて体が震えたという。一方同世代の「創価学会を斬る」(1969年)で一世を風靡した評論家藤原弘達(1921-1999)氏は、当時東京大学の学生であったが、「日本が負けるなどとは全く思っていなかった」と地方の講演会で当時の思い出話をされていた。当然開戦の報に接しても意気軒昂で武者震いくらいで震えたくらいだったかも知れない。

 何が言いたいのか。要は、いろんな局面で習い覚えた知識などは、よっぽど綿密に組み上げない限り、世の中の判断材料として危うい。知識を持って自分で賢いと思っているからさらに危うい。知恵足らずは日本の政財界人にも多いのではなかろうか。政治家で言えば、野党は平和憲法死守でリベラル票を取り込み、自身が国会議員であれば良いと思っている節がある。自民党でも多くが今の身分が維持できれば、自衛隊は戦力でなくてもいいといういい加減なのが多くなっている。自民党代議士の旧民主党員化である。そこでは国を愛する心が希薄だ。鎌倉以来の外敵から国土を守り抜く使命感などない。

 太平洋戦争は白人社会が、日本という黄禍を絶つために起こした。その論法からすれば、いずれ中国も潰される。それを知っているから中国はいち早く、大国化する前に核武装し、北朝鮮もそれに倣った。

 ただ中国は潰されないためではない。周辺諸国を従えてこれまでの世界ルールまで変えようと目論んでいる。これに対して、米国でもマティス国防長官くらいなると、中国の現実を良く見ており対策を急いでいる。

 一方、日本には戦争は経済的に割が合わないし、日米同盟があるから中国もわが国に戦争を仕掛けないという見方の人が多い。しかし、トランプ大統領は実業家だから、国家の経営から見て損と判断すれば同盟国も見捨てるかも知れない。トランプさんには、太平洋戦争後にも自国の兵隊を多く失い続けた米国に対して、日本はそんな犠牲を一切払わず、米国よりも平和で豊かにさえ見えているのではないか。

 戦後70数年。太平洋戦争の敵国同士は、同盟関係を築き繁栄を分け合った。そろそろわが国も米国の庇護から独り立ちせねばならない時期ではないか。経済力に相応しい軍事力を持ち、米国と対等の同盟関係を構築すべきである。






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歴史に学ぶ 第6回

2018年06月16日 | ブログ
聖徳太子

 昔の千円札や一万円札の肖像でなじみ深い聖徳太子(574-622)。飛鳥時代に推古天皇の摂政として、遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った人物。仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめ、法隆寺も建立した人物とされる。この業績には豪族であった蘇我氏(蘇我馬子)の働きも大きかったとされる。

 ムシゴロシ(645年)と覚えた大化の改新の年号。聖徳太子が亡くなったあと、天皇を凌ぐまでに勢力を強めた蘇我氏に危機感を持った中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我氏を滅ぼし、天皇中心の政治を確立した。

 しかし、聖徳太子の死後100年近く経って712年に書かれた日本書紀に残されたこれらの歴史は、実は藤原不比等の編纂による寓話であり、聖徳太子は存在さえしなかったという説があるらしい。当時次々起こる身内の不幸を蘇我氏の怨霊と考えた藤原氏が、大化の改新の正当性と蘇我氏に配慮する意味もあって、聖徳太子を登場させ歴史を歪曲したと言う説があるのだ。そもそも太子の肖像画にある服装は、太子が生きていた時代より後世のものだという。

 太子の存在やその功績が事実であろうがなかろうが、歴史学者などを除き現代人には今更影響はないが、昨今の政治においても公文書の改ざんが堂々と行われ、改ざんを主導した人物がほとんど罪に問われない現実をみると、歴史は権力者によって勝手に捏造されることを目の当たりにする。

 嘘であっても自信を持って断言すれば突破できるという、自身のオリンピック招致の際の「汚染水は完全にコントロールされている」の成功体験(この時はそれで良かった)から、モリカケ関連の疑わしい発言のつじつま合わせに付き合うため、記憶がないと嘯き、その割には指示されたことはないという記憶はしっかりしている官僚たち。廃棄したという文書が廃棄し切れず後から出てくる不徹底な仕事ぶり。文書の不都合な部分を削除するという改ざんは、書き換えではないとの論理なのか知らないけれど不起訴にする検察。関連して自殺して果てた官僚がいることなど素知らぬ顔の関係者。

 内政の不人気を外交で取り戻そうとしても、トランプさんもプーチンさんもすでに日本のマスゴミよりしっかりした官邸情報を掴んでおり、その人物との信頼関係はすでに壊れている表情をしていたものだ。

 唯一残された政権余命の長期化手段である拉致問題解決で日朝首脳会談を図っても、向こうから見える日本の総理の顔は、ドル紙幣にしか見えていないのではなかろうか。

 それでも、政権党の感受性の欠如した先生方は、今後もこの政権でおいしい汁が吸えると踏んでおられるようだ。

 民主政治とは何であろうか。もっとも野党の政治家がさらにレベルが低いのだから仕方がない国である。世間を騒がすトンデモ凶悪犯罪やスポーツ界の不祥事は、今の政権だから起きているとは言えはしないが、政治に全く関係がないものではもない。信頼できない政権は国の雰囲気を悪くし、乱れの元を醸成する。大企業中心の経団連は、史上最高額の夏のボーナス支給で政権の援護射撃を行っても、儲かっている連中だけが維持したい政権など、美しくない国にまっしぐらの現状である。



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歴史に学ぶ 第5回

2018年06月13日 | ブログ
古代の日本と世界

 6万年~1万2千年前の地球は厳しい氷河期で、海水が凍結し海面が下がっていたため日本列島は大陸と陸続きで、日本海は湖の形であったと推測されている。

 ジャワ原人や北京原人などの出現は紀元前60万年~50万年と言われ、ネアンタール人(旧人)は紀元前10数万年、クロマニヨン(新人)が紀元前3万年頃に出現したとされる。人類の先祖である猿人の出現は400万年前。猿人の化石はアフリカでしか見つかっていないことで、人類はアフリカで生まれ、遠くユーラシア大陸を経て氷河期で陸続きであったベーリング海を渡り、南北アメリカまで到達したと考えられている。

長い長い旅の間に人類は環境に適応させながら、体格や皮膚の色、顔立ちなども変化させ、多様な人種が生まれたものであろう。ヨーロッパ文明を基にして15世紀末、コロンブスのアメリカ大陸発見となるが、南北アメリカ大陸にはすでに多くの文明が栄えていた時期があった。彼らは東洋人に近い黄色人種系だ。

 日本は火山国であり土壌は酸性が強いため、人骨は化石になる前に溶けてなくなる。原人の化石は出土していないのだ。兵庫県明石で見つかった明石人が最も古く一説には~5万年前(旧人~新人)。沖縄県や静岡県、愛知県、愛媛県などで1万5千年~2万年前(新人)の人骨の化石が見つかっている程度。ただ、人骨はないが、20万年くらい前からの石器は各地で見つかっており、その頃から人類の存在した痕跡はある。

 日本列島がほぼ今の形になったのは氷河期を過ぎた1万年くらい前という。その頃から紀元前10~3世紀頃までを縄文時代、その後紀元300年頃までを弥生時代と呼んでいる。区分の時期には諸説あるが、出土された土器の文様で名称が区分されたことは有名である。狩猟生活の縄文時代から農耕が盛んになったことで弥生時代には生活様式も大きく変わっていったであろう。

 農耕が盛んになったことで当時の人々の平均的生活は豊かになったであろうが、格差が増大し富を得た者たちはそれを守るため武力を持ち、他部族からの略奪によっても、権限を増大させたであろう。国王から奴隷まで厳しい格差・封建社会となっていったのである。

 日本の縄文時代、世界ではエジプト文明(紀元前3000年~頃)が栄え、チグリス・ユーフラテス川の古代メソポタミア文明はエジプト文明より500年くらい早く始まったとされる。インダス文明、黄河文明(それぞれ紀元前2500年~)を加え世界4大古代文明である。

 日本で縄文から弥生に変わる頃、西洋ではアレクサンダー大王の東方(アジア)遠征があった。秦の始皇帝が中国を統一したのは紀元前221年。ローマ帝政の始まりは紀元前27年という。

 中国では秦に続き前漢、紀元後に後漢、三国時代と続くが、日本は古墳時代で、邪馬台国女王卑弥が登場するのは紀元3世紀。大和政権が成立したのは4世紀中ごろ。仏教伝来は538年(他説あり)。593年聖徳太子が推古天皇の摂政となる頃から飛鳥時代と呼ばれる。古墳時代から平安時代(~1185年または~承久の乱1212年)までは西国が中心の国家)であった。

 紀元300年頃から700年頃にかけて、ヨーロッパでは人類の大きな移住現象(ゲルマン民族大移動)が起こったが、ヨーロッパが古代から中世に入ったのである。

 589年中国では隋が国家を統一。当時の日本(倭国)から大陸の技術や制度を学ぶため派派遣された遣隋使(607年小野妹子など)は有名。しかし短期間に隋は亡び618年中国は唐(~907年)の時代となる。

 空海のちの弘法大師(774-835)が讃岐(現在の香川県善通寺市)に生まれたのは中国が唐の時代(日本は奈良時代~794年)で、日本全国で人口は約500万人。『宝亀8年(777年)空海4歳の時、4隻の遣唐使船が讃岐屏風ヶ浦の沖を過ぎている。・・・要するに空海の生まれた環境は、唐へゆくという、普通ならばとほうもないことが、ごく現実的な風景として、耳目で見聞きできるような機会が多かった。空海はその夢想を育てるためには、とびきり上質な刺激に富んだ環境に生まれたということができる。』(司馬遼太郎「空海の風景」)

 私たち世代は、中学2年生で「日本の歴史」を高校2年生で「世界史」を習ったが、歴史は双方照らし合わせながら学ぶことで理解が深まるように思う。

 歴史から何を学ぶか、権力者の横暴はじめ人類の醜さを知ること(現代も似たようなものだから)も大切だし、時々の人類の生き抜く知恵を学ぶことも大切だと思う。





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歴史に学ぶ 第4回

2018年06月10日 | ブログ
失われた文明

 手元に「世界最後の謎」という1978年にリーダーズダイジェスト社の出した本がある。すでに40年も経っているため、その後の考古学の進歩で、この本に書かれている内容にはすでに陳腐化した部分もあるかも知れないが、大筋では現代でも謎は謎だ。さらに最近のテレビ番組「世界ふしぎ発見」で放送されていた海に沈んだ「ジーランディア大陸」など、宇宙からの衛星写真で認知されたという新たな謎も加わっている。

 エジプトのピラミットはじめ古代文明の遺跡は、巨石文明である。もっとも石で作られていたから現代にまで残った。

 単に巨石と言うが、現代の最強のクレーンでも持ち上がらないという巨石まであるようで、古代人がどのように切り出し、運び、設置したか未だに謎である。しかもエジプトのピラミットに至っては、絶妙・精緻に組み上げられている。そのため、宇宙人説や最近では物体を自由に浮遊させる音響浮遊説まで登場しているらしい。

 ピラミットは砂漠の中に君臨するエジプトのものが有名だが、メキシコ南部からユカタン半島に存在したマヤ遺跡にも、神殿の土台としてのピラミットがある。こちらはジャングルの中、紀元前1000年頃のものが見つかっているそうだ。マヤ文明は紀元800年頃(日本では平城京から平安京に移った頃)に最盛期を迎えたが、急速に衰えてゆく。一説には200万人の人口が何処へともなく消えたとも言われる。高度な天文学からの暦を持ち象形文字も残している。

 密林の中に存在した文明としては、カンボジアのアンコールワット(アンコールのヒンズー教寺院)も有名である。アンコール王国は、西暦元年頃から起こったが、15世紀に至る約600年間に亘り文化(クメール文化)、軍事、技術の各分野で高度に発展し、多くの遺跡を残した。こちらもマヤ文明と同様滅亡し都市は廃墟となった。

 巨石遺跡ではイースター島の巨人像(モアイ)も有名である。人里離れた南太平洋の孤島に重さ~20トン、高さ5~4.5mに達する石像(最大のモノは高さ10m、90トン)を1000体も残したのだ。7世紀頃に始まり17世紀まで刻まれ続けたと言われる。

 失われた文明では南アメリカのアンデス文明もある。ナスカの地上絵やマチュ・ピチュの遺跡。16世紀スペインの侵攻で亡んだインカ帝国。

 古代の文明が衰退し亡んでいった原因には、急激な気候変動や疫病の蔓延、部族間の抗争激化、他民族の侵攻、指導者層の衰退、技術伝承の失敗などなどいろんな推論があろうが、多くは、宗教に囚われ、得意な天文学や土木技術に驕り、近代ヨーロッパ文明が成したようなエネルギーや機械文明への革新に至らなかったことが大きいように診る。それは時間軸の長短はあっても、現代の企業の盛衰にも通じる現象である。

 ただ、ナイルの砂漠に聳える大ピラミットは紀元前2600年ごろに造られたとされるが、最大のギーザのクフ王のピラミットは周辺のピラミットが造られる前から存在していたという説もあり、内部の温度までが年間を通じて一定になるようにまで作られているという。しかも高さ146.59m(現在の高さは138.74m)、平均2.5tの石灰石を270-280万個程度積み上げ、方位誤差は数分程度という。考古学による人類の歴史をそのまま遡って、石器時代の人類に造れるような代物とはどうしても考えにくい。

 グラハム・ハンコック氏の「神々の指紋」にある(学会では無視されているそうだ)通り、人類は一度築いた文明を地球規模の天変地異で失い、残された人類が一から出直したという仮説を信じたい気がする。人類の先祖が地球上に現れて700万年という。因みに恐竜が絶滅したとされる白亜紀末は6500万年前。地球の年齢は46億年。猿から人間が進化したとしても700万年を何度も繰り返せるほど地球の歴史は長いのである。

 考古学も企業経営も政治・経済もこれまでの知見に囚われることなく、より多くの可能性や仮説に取り組むべきであろう。人権、司法、民主などのあるべき姿も同様であり、見直しが必要な気がする。現代の文明を滅ぼさないために。






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歴史に学ぶ 第3回

2018年06月07日 | ブログ


 明智光秀がなぜ本能寺の変を起こしたかは、歴史の謎とされている。関連して秀吉の中国大返しも謎の部分があるという。いろんな小説家がその結果を基に過程を検証して推測し、物語としている。

 それら多くの物語を勝手に総括して推測すると、明智光秀は足利将軍家や朝廷とのつながりから、信長の天下に大きな不安を覚えた朝廷に動かせられた公算が大きいとみる。光秀がこれまで通り、各大名がそれぞれの領地を安堵された上での天下を考えていたのに対して、信長はすでに中央集権的国家を構想しており、光秀や秀吉は優秀な高級官僚として遇する制度を考えていた気配があった。この大きな齟齬が本能寺に至ったとする考察も有力ではある。

 信長が光秀に中国遠征を指示し、その際彼が手塩に掛けた坂本を取り上げるという一事が謀反の着火源であった可能性は捨てきれない。しかし、そのような私事より光秀には根底に、朝廷を守るという大義があったように思う。しかし、すでに将軍足利義昭(1537-1597)は亰から追放(1573年)されており、また朝廷も秀吉に刃向う力はなく、光秀を捨て駒にした。

 秀吉の中国大返しは、おそらく十分事前にシュミュレーションされたもので、信長や光秀の行動は多くの密偵から逐一情報を得ていたのではないか。秀吉は信長の近習へも金品を贈りその行動を報告させていたという。秀吉の人間観察力と情報力の勝利である。

 これは当然、現代の企業経営にも通じる教訓である。勿論時代を見る目も重要であるが、まずはトップの重要な資質の一つは人間観察力。部下と言えど、信頼してくれる上司であろうが、敵が味方のフリをしているだけかもしれない。

 今、この国に抜け落ちていると思われるのが、情報収集・管理力。スパイ防止法もなく、公安警察はあっても本格的な諜報機関はなく、政治家、公務員の脇は甘く、ハニートラップの餌食にされる。中国、ロシア、韓国、北朝鮮、勿論米国や英国など同盟、友好国からさえ情報は盗まれ放題のように感じている。どのような内閣であれ、米国に追従するしかこの国の国体は維持できない仕組みが出来ているようだ。

 幕末の坂本龍馬の暗殺についても、誰が、何のために実行したのか謎であるとされる。実行犯さえ特定できていないのだ。

 坂本龍馬については、司馬遼太郎「竜馬がゆく」の大ヒットで、一躍時代を変えた立役者の一人となった。ただ幕末の混乱に乗じた英国(薩長を支援)や仏国(幕府側を支援)の暗躍については十分明らかになっているとは言えず、龍馬が海援隊などを立ち上げるための多額の資金の出所などに疑問を呈する人も居る。

 大政奉還を実現したが、その後の政治の仕組みについては薩長と龍馬の摺合せは十分ではなく、特に西郷率いる薩摩には武力による革命により、徳川将軍家を葬り去る意向があったのではかないか。江戸城無血開城には、同じ薩摩出身で島津斉彬の縁戚にある篤姫救済の心情が西郷に働いたかもしれない。その後の会津戦争では徹底して会津藩を叩いた。

 龍馬は15代将軍慶喜を議長とし、主な大名を議員とする合議制の新しい政治体制を考えていたかも知れない。恐らく土佐の山内容堂もその方向性ではなかったか。龍馬自身に政治家としての栄達を求めるたり、自身でこの国を統率しようという野心はなかったのだ。しかし西郷や大久保にすれば、世の中を変えるには慶喜は廃嫡する必要があった。

 新しい時代に向けて、薩摩は龍馬が邪魔になったのではなかろうか。






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歴史に学ぶ 第2回

2018年06月04日 | ブログ
イフ

 歴史や人生、勝負事にイフ(if)は憑き物である。あの時、ああしていたら、ああなっていたら歴史は、自分の人生はどう変わっただろうかと、想像することは勝手で楽しくもある。未来は誰にも分からないし、現在の生き方で変えようもあろうが、過去の結果は変わらない。もっとも考古学の進歩で、例えば古代人の生き様の推測は変化している。戦国時代の話でも結果に至る経緯に修正が入る。

 『武田信玄入道晴信、52歳。所領120万石余から選りすぐった兵力2万2千(北条氏政よりの寄騎2千を含む)。徳川三河守家康31歳。所領50余万石から抽出した決戦兵力9千(織田信長よりの寄騎3千を含む)。時は元亀3年(1572)12月22日。上洛の障害を排除しようとする武田軍と、領国を蹂躙されまいと阻む徳川勢は、遠州浜松の北方1里余(約5キロ)の荒蕪地、三方ケ原において激突しようとしていた。・・・

 家康にとって、大惨敗は人生最大級の危機であった。歴史に<もしも・・・・>という仮説は無益でしかないが、信玄が従来通りの戦法をもってすれば、暦年敵対し続けた徳川勢を見過ごす筈がなかった。余勢を駆って浜松城に攻めかかれば、旬日を経ぬ間に城は木っ端微塵に打ち砕かれ、家康は確実に首を獲られていたであろう。だが、信玄はいつになく急いでいた。4カ月後に迫る生命の終わりに、予感があったかも知れない。・・・』(池宮彰一郎著「遁げろ家康」上、朝日新聞社刊1999年より)

 歴史学者磯田道史氏の最近の発見によれば、信玄が浜松城を攻めなかったのは、上洛を急いだためではなく、周辺に徳川の同盟軍信長の兵2万が要所に配備されていたことによるものだという。信長は徳川をさんざん利用しながら三方ケ原にも3千の兵しか派遣せず、冷たい素振りを見せていた。しかし、実は陰で強力に家康を援護していたのだ。ここにも織徳同盟が途切れなく続いた理由が見える。

 その信長の本能寺の変(1582年6月)での横死はまさに歴史を変えた大事件で、もし光秀の謀反がなければ、その後の日本の歴史はどのように変わったであろうか。義経以来の戦争の巧みさに加え、新しい時代を読む慧眼、さらに楽市楽座など経済政策にも長けた天才武人であった信長が後20年ほどでも生きていたら。

 信長はこの国の神になろうとしていたのか。信長天下の間に武家と朝廷との関係がどうなるか。秀吉のように海外にまで覇権を求めたかどうかなど興味は尽きない。ただ確実に外国との交易は進めたであろう。

 信長の子供にそれほどの逸材はいなかったようだから、秀吉と同様一代の天下で終わったかも知れない。しかし、61歳で逝った秀吉(1537-1598)の天下は可能性が少ない。そして結果はやはり、飽くなき健康志向で当時の医師より薬草等に詳しかったという「鳴くまで待とう」の長寿家康(1543-1616)の手に天下は落ちたのではなかろうか。

 加藤廣氏の「信長の棺」(日本経済新聞社出版部2005年刊)ではないが、信長を葬ることで秀吉の天下取りは成った。




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歴史に学ぶ 第1回

2018年06月01日 | ブログ
いい国つくろう鎌倉幕府

 日本史年号語呂合わせの代表と言えば、表題の「いい国(1192)つくろう・・・」ではなかったか。世界史で言えば、その丁度300年後の「イヨ!国(1492)が見える」が殊更有名である。勿論コロンブスのアメリカ大陸発見である。もっともコロンブスは東洋のインドが見えたと思った。カリブ海の諸島を西インド諸島と名付け、今もそう呼んでいる。

 鎌倉幕府が成立したのは源頼朝が征夷大将軍になった1192年と長く信じられていたが、最近になって鎌倉幕府の実効支配は1185年に始まったとして、1185年からが鎌倉時代となったそうである。因みに1185年は各地に守護・地頭が置かれた年で、その目的は当初義経を捕縛する目的であった。

 なぜ、平家を打倒した最功労者の弟を、兄の頼朝は捕縛しなければならなかったか。朝廷と台頭する武士勢力との確執もあった。後白河上皇が頼朝に無断で義経に官位を与え、頼朝追討の院宣を与えたらしい。これを頼朝が逆手に取って義経を討つ口実にした。両雄並び立たずで、いずれ兄弟の争いが起これば幕府は分裂する。その後の戦国時代にも骨肉の争いは珍しくもない。

 頼朝は、守護・地頭の全国的配置と兵糧米の徴収および田地の支配などを朝廷に公認させたことで、全国の軍事と警察権をにぎり、貴族や寺社の荘園に対してもその力が及ぶようになり、東国に限られていた頼朝の権力は全国的規模へと発展するようになった。さらに、守護・地頭に頼朝の御家人が任命されることにより、頼朝と御家人の私的な主従関係も公的なものとなった。守護・地頭の設置は、武家政権の確立にとって極めて大きな意義を持ったのである。(一部ウキペディアから引用)

 しかし、頼朝の時代、朝廷の力は強く、武家国家に変わるのは、1221年の承久の乱で後鳥羽上皇を北条が破った時だという。(文藝春秋2018年6月号、東京大学保立名誉教授)

 鎌倉時代は、多くの仏教(鎌倉仏教)の宗派が生まれた時代でもあった。法然(1133-1212):浄土宗、親鸞(1173-1262):浄土真宗、一遍(1239-1289):時宗、日蓮(1222-1282):日蓮宗、道元(1230-1253):曹洞宗、栄西(1141-1215):臨済宗。

 この中で、特に親鸞は、五木寛之氏の小説などで現代人に夙に有名であるが、蒙古襲来の中で、神風を呼んだ日蓮は、戦後の昭和の時代「日蓮と蒙古大襲来」などの映画で、この国を救った英雄の感があるものだ。

 日蓮は得宗北条家執権(5代、8代)であった時頼、時宗親子の時代、「立正安国論」を起草し、大蒙古の襲来を予言した。鎌倉の辻辻で「仏法が乱れ、僧らが奢り高ぶり、国が道を失えば必ずや天変地異起こり、国主らに身内の争いが生じ、やがては外敵によって国土が焦土となろう」と討えた。(高橋克彦「時宗 参」NHK出版2001)

 現在の日本も中華人民共和国の膨張覇権主義によって、鎌倉時代以来の大陸からの脅威に晒されている。しかるに政府与党の一角を成す日蓮宗をルーツに持つ創価学会の公明党は、日蓮とはあまりに異なる主義のようだ。また自民党内でも財界と謀る親中派が、現政権の弱みを押さえて操っている。

 経済優先は分からぬでもないが、企業活動や宗教がグローバル化する中で、政治家までが国家観を曖昧にし、全く主義主張の異なる独裁国家を利するばかりだ。先の民主党政権で天変地異は確かに起こった。今の政治状況では、次は外敵によって国土が再び焦土化し兼ねない。根っこの腐った政権は交代が必要である。




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