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中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

この国の論点その10

2014年07月28日 | ブログ
福祉に名を借りたぼったくり

 この国の福祉政策は、「中福祉・中負担」ということになっている。すなわち北欧などの福祉国家ほどの手厚い社会保障はないが、その代わり税負担もそれほど大きくないということ。北欧諸国では十分な福祉が約束されている半面、やたらと税金が高いことが知られている。しかしこの国の政治家は、選挙対策で福祉政策を進めながら、税金もほどほどに押さえてきたのかどうか、国は借金が増えて首がまわらなくなりそうである。いずれさらに大増税となる。

 政治家は直接自分の懐が痛むわけではないので、国も地方議員も選挙に有利なばらまきを公約する。議員は自分が議員である間、この国が持てばいいのであろう、国債で賄って問題を先送りにしている。それどころか、議員歳費すなわち税金を私的に使ってやりたい放題は、号泣記者会見の県議さんだけではけっしてないであろう。粛清が必要なのは隣の国の政治家や公務員だけではないのである。

 年金にしても介護や医療にしても、現行の国民が負担できる税や保険料の範囲で賄えるように給付額を見直し、介護や医療では高齢者の自己負担を増やすべきである。それにしても介護保険制度ができて、確かに要介護者を抱える家族は助かっていますとなるけれど、誰もが明日は我が身で制度そのものに反対はし難いけれど、この制度を画策した政治家が実は介護施設を経営していた、繋がっていたなどがあるのではないかと疑いたくなる制度だ。

 介護と名が付けば、患者家族からは勿論、確実に国から保険が降りる。本人が1割負担なら実に9割は保険と国から支払われる。受給者は負担額が少ないから、サービスレベルが低くても文句を言い難い、取りはぐれの無い商売となっている。元気で働いている者からは容赦なく高額の介護保険料が強制的に徴収される。勿論年金生活者からも同様である。弱者救済に名を借りたぼったくりである。

 すなわち、年金保険料も健康保険料も介護保険料も名を変えた税金である。老人医療も70歳を超えると1割負担を2割にしますと法律で決めておいて、だいぶん実施を先送りした。老人の選挙の投票率は高いから反発が怖い。それより、医師会が客が減るから反対である。介護保険だって同じだ。本人負担率が少ない方が要介護者は増える。業者は介護スタッフを安く使って儲けが増える*1)。そして保険料は割高となり国民は苦しみ、さらに税金からの給付金が増えて、国の国債という名の借金が膨らむ。

 北欧の福祉国家では、働いて収入が増えても税金が増えるだけだと働くことを控える人もいるそうだ。医者など週に3日しか働かない人も居るらしい。税金の徴収方法がこの国より徹底している為なのだろう。そう、この国のいい加減な所は、税の抜け道が多すぎること。しっかり税金や年金などの保険料を収入に見合った形で納入するのはサラリーマンだけで、宗教法人やその他税金を端から納めなくてもいい種族も居るらしい。その為か、GDPに対して税収が少な過ぎるように感じる。税務署で捕捉された所得額は所得税だけでなく、県民税に市町村民税から健保、介護保険料にも反映される。立派な家に住み、普通のサラリーマンよりはるかに豊かな生活を送りながら、申告納税者の納税額や保険額は非常に少ないのが現実ではないのか。

 年金、医療、介護など福祉政策を語る時には、それらの保険料額の実質収入に応じた平等性を担保し、受益者負担を増やすことで、国の税収や保険料収入を増やし、税金からの拠出負担を軽減する必要がある。その為には、福祉政策を税制、それらを運用する組織の効率化、福祉施設の運用管理強化や公務員制度などと一体で捉えた改革が必要である。



*1)7月24日の日本経済新聞に「特養(特別養護老人ホーム)の「黒字の蓄積」にメス」という記事があった。公費の介護費がうなぎ昇り(14年度予算ベースで10兆円)の中、施設の内部留保(利益の蓄積額)が全国で2.5兆円にも上っているという。経営者などへの報酬を払った残りがこうなっている。一体、特養などの経営者が年俸いくら取っているか知らないけれど、福祉を隠れ蓑にした、人の弱みに付け込んだ一部の人間が儲かる商売となっている向きがある。
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この国の論点その9

2014年07月25日 | ブログ
徴兵制度

 集団的自衛権の閣議決定に関連して、これに一部の批判勢力が、集団的自衛権容認で徴兵制度が始まるように吹聴している向きがあるが、言論の自由と言って天下の公党の国会議員が、根拠の無いことで民衆を惑わせるのは一種の犯罪行為である。

 集団的自衛権と徴兵制に何の関係もなかろうと思う。米国でさえ徴兵制は止めている。徴兵制は敷いていても他国との軍事同盟等を持たず、従って集団的自衛権を行使しない国もあるようだ。自分達の主張を正当化するために、あることないこと言いふらすのは、個人レベルなら仕方ないところもあるだろうけれど、公認政党に所属し、国家から給与を得ている国会議員の発言であるなら問題と思うが、誰もそのことを糾弾しないことが問題である。

 一般的に権力側への批判は容認されるが、批判に対する批判は少ない。要は政治家や政権に対する批判は自由だが、野党や評論家の弁はほとんど批判されない。討論番組などで評論家同士の議論はあるが、お互い言い放しで終わる。勿論権力を監視し、権力の横暴に歯止めを掛ける意味で、政権やその政治家に対する批判は当然に必要だが、野党であっても政治家やプロの評論家が影響力の大きいテレビで発言する以上、これにも相応の責任がある。民主党への政権交代の前に「高速道路は無料化されるからETCなど要りません」と言っていた民主党議員が、その後大臣にさえ成り、そのことを突っ込まれてもカエルの面にしょんべんで済ませていたけれど、それで本当にいいのだろうか。

 そもそも徴兵制度は、ノルウェーやスウェーデン、フィンランドなど北欧の平和な福祉国家のイメージのある国でも実施されているようで、現代においてもそのこと自体悪い制度ではなかろうと思う。

 ただ、現在のこの国においては現政権さえ、徴兵制は考えられないのではないか。民意への配慮からだけでなく、この国の産業を支える労働力が、ただでさえ不足気味なのに加え、訓練や施設・装備に費用が嵩み、指導教官の人手まで考えると却って現状では防衛にマイナスになると考えられるからである。そんなことは野党の政治家にも分かっている筈なのだ。もっとも徴兵制は、集団的自衛権に最も反対しているような政党が政権を取れば、それこそ人民解放軍などと称して、国民皆兵を目論む公算が高い。自分達が考えているから他人も考えると邪推するのである。

 もっともあらゆる制度は、制度そのものより、その運用方法で善悪が決まる場合も多い。徴兵制も、この国の昔の軍隊のような暴力的なイメージの運用ではなく、若者が社会に出て行く前に、一定の規則正しい生活を送る習慣や体力・精神力を身につける場と捉え、軍隊が嫌なら警察学校でも消防学校でも、またその他福祉施設などでのボランティアでも、体力などに応じた選択が可能な制度にすれば悪くない制度だと思う。いずれにしても、これを実施するためには国民的コンセンサスと相応の準備体制を整える必要があり、数十年オーダーの時間が必要となろう。今回の集団的自衛権の閣議決定とは全く別の論点で進めるべき課題である。
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この国の論点その8

2014年07月22日 | ブログ
女性活用論

 何でもかんでも欧米の、特にヨーロッパの真似をする必要はない。行き過ぎた福祉政策などもそうだけれど、女性の地位向上と銘打った女性活用論などもそうだ。一部の野心ある女性政治家はこのムードを高め、この国初の女性宰相待望論が狙いかもしれないが、お隣の大統領のお粗末さを見ても、女性だと云うだけの実力が伴わない権力者など百害あって一利なしである。

 そもそもこの論議には、女性の、現在でもこの国において低いとは思わないが、地位向上策と女性のみなさんもっと働いて下さいという、成長戦略という名の女性酷使論がごっちゃになっている。確かに実力がありながら、女性であるというだけで、組織の中で登用されないというなら問題であり、本来論外である。しかし、そのような事例は、現在では相当に少なく、本人のやる気の問題である場合が多いのではないか。

 数値目標で管理職登用をすることが、本当に多くの女性にとって幸せなことなのかどうか。組織にとってその成長につながるのかどうか。確かに物ごとの見る目が変わり、それが一時的な業績向上に寄与する場合もあろうが、トータルでみてプラスに成らなければ意味は無い。また、最近の若者には、男性であっても組織の中で出世などに価値観を持たない人も増えているようだが、女性ならなおさらではないか。オリンピックを目指すアスリートにはあるようだが、ビジネスの最前線でも、女性の生殖機能さえ停止させるような過酷な現場に晒される恐れもあるかもしれない。そもそも男性と女性では生理が異なるように、この社会における役割が異なるのである。

 最近の女性活用論は、非常に強い世論であるかのような風評があるが、肝心の女性の意見が本当に反映されているものかどうか怪しい。お茶くみが仕事とは言わないまでも、「職場の華」で結構、企業戦士を脇で支える癒しの存在に価値観を抱く女性も居るかもしれない。専業主婦が憧れで、寿退社や出産退社を幸せと感じる人も居るかもしれない。今やそのような女性は成長戦略の敵と言わそうな勢いすら感じる。企業の数値目標達成のために家庭を犠牲にしても管理職を引き受けざるを得ない女性が現れるようになれば、新たなブラック企業の出現である。

 確かに一般男性以上に出世欲の強い女性も、また管理能力に優れる女性もいることは確かだ。女性経営者として成功している方も多いし、男性社会と言われ続けたこの国の中でも、あらゆる分野で活躍する女性は数多い。民主主義と自由経済を標榜するこの国は、それで良いわけで、国が欧米先進国と女性活用率を競うために、女性を無理やり企業戦士に駆り立てるのは本来おかしいことだ。

 もっとも思い切り働きたいという女性のために、働きながら安心して結婚、出産、育児が行える良い環境を提供する責務は企業にも行政にもある。管理職数値目標など、企業側の自由裁量に任せて、女性が安心して働ける環境整備と法整備を整え、セクハラなどにもさらに対処すべきであろう。近年、企業などであれだけセクハラ追放が叫ばれながら、都議会でセクハラやじが飛び交うようでは、この国の行政こそが、女性認識に時代遅れである証左である。






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この国の論点その7

2014年07月19日 | ブログ
外国人労働者の受入れ

 結論から言えば、基本的に単純労働者の無条件の受入れには反対である。日本文化に馴染まない人々がこの国で根を張って、将来それこそありもしない強制連行、強制労働があったなどと訴えられたりされるのはお断りである。

 現在台湾などでは労働者の受け入れ体制が整い、ベトナム人労働者などが多く働いているようなニュースがあり、わが国が遅れを取っているような報道ぶりがあるけれど、それぞれの国で固有の歴史・文化とそれに基づく方針があることで、煽られて真似をする必要はない。

 きちんとした受入れに対するルールを設け、人権擁護などの立場からクレームが付かない形で進めるべきだ。最近のわが国でも、研修生という名目で受入れ、低賃金で働かせるなどの問題があった。この国にもブラック企業と呼ばれる会社組織も、反社会的勢力の関連企業もあるかもしれない。不埒な輩はどこにも居るからである。

 そしてそのルールの中には、反日国家において、反日教育を受けたような労働者は受入れをしないことを盛り込むべきである。あとあと日本人には考えられない発想による問題が生じる懸念があるからである。例えば、米国に移住していながらその州や市の議会に働きかけ、韓国従軍慰安婦の像をその地に建立する勢力が、米国内に増殖しているなどその一例だ。

 韓国とは、1965年の日韓基本条約に批准によって国交正常化がなされ、当時の韓国の国家予算(3.5億ドル)の3倍もの経済協力金をわが国は韓国に支払っている。わが国だってまだまだ経済成長途上の時代(1ドル360円の時代)であった。この条約によってあらゆる問題は韓国政府の責任で処理すべきとなっている。また日中平和友好条約は1978年に交わされたが、その第1条の1に「両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする」。とあり、2には「両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和手段により解決し及び武力による威嚇に訴えないことを確認する」。とある。にも拘わらず現在、両国のわが国に対する態度は、これらの条約を全く無視してかかっている。

 両国との付き合いは必要最少限に留める必要がある。特に労働者や留学生の受け入れには明確な歯止めを掛けるべきである。何を言っても行っても、日本政府は何の報復処置も講じないから彼らはわが国を完全に舐め切っている。相応の対応、制裁が必要である。「倍返し」のドラマが流行った背景には、そんなことに対する国民のフラストレーションもあったのではないか。

 別に反日教育を受けたわけでもない、無辜の国の労働者にあっても同胞が増えて、この地に一定の勢力が築かれれば、わが国の歴史や伝統文化を無視した言動を集団で行うようになる懸念がないわけではない。

 これだけ世界的な交流が盛んになり、人の流れも流動化する中で、国が門戸を閉ざすような施策は控えるべきとの意見は間違ってはいない。しかし、現実の世界は各国の国益の綱引きで進んでいる。日本人は長いスパンで物ごとを捉えるところがあり、「情けは他人の為ならず」的価値観を持っているけれど、世界はそうではなかろう。甘い顔をしておれば、利用されるだけなのは中韓との関係が明瞭に教えているではないか。高齢者雇用や引きこもりの若者など、この国の労働資源をまだまだ活用して、安易に他国の労働者に頼らないことだ。



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この国の論点その6

2014年07月16日 | ブログ
橋下維新

 大阪に橋下さんが現れた時は、いろんな意味でこの国の仕組み、公務員改革などが大いに進むのではないかとの期待が持てたものである。事実大阪においては、かなりの改革を遂げたのではないかと敬意を表する。ただ、大阪都構想を実現するためには、国を動かす必要があると、国会議員を抱き込んで国政レベルで政党化した頃から怪しくなってきた。

 橋下さんは政党要件を満たす算段に、民主党離党組を受け入れたが、あまりに軽い。重しが要る。当初、当時野党議員であった現総理の安倍さんを党首に仰いで体制を築きたかったようだが、流石に安倍さんも元総理の肩書や再登板の夢もあって、自民党を離れるわけにはゆかない。そこで、最終的に取り巻き連中は気に入らないが、現存する最後の大物である石原さんを抱き込んだ。ここら辺りの橋下さんの人物鑑は流石である。

 しかし、野党再編などの数合わせのゲームに参画して民主党から逃げ出した連中に加え、みんなの党離党組とも協力関係を築こうとする。石原さんと橇が合うわけはなくなった。

 そもそも橋下さんのブレーンの一部はあまり感心しない。すでに過去の人である老人や、原子力発電反対の元官僚に頼っているようでは駄目だと思う。橋下さん自身が感化されたかどうかは知らないが、原発反対と言っているのは違うと思う。ブレーンには同年代か、さらに若いこの国の新しい知性を見つけ出して登用して欲しいものだ。若い原石のような逸材を見つけ出すことこそ次世代のリーダーの役割である。

 結いの党や民主党の一部と連携して数合わせなどしていたら、政権奪取した当時の民主党と変わらなくなってしまう。議員同士同床異夢という状況。どこにも寄って立つ理念が共有されず、橋下イズムはさらに実現できなくなるであろう。

 大体原発は危ないから止めろというようなきれいごとだけの議員は駄目だ。勿論、単なる経済優先で、働く人の安全無視や、パラハラ、セクハラに、お金儲けのために政治をやっているような品の無いのも当然に駄目なのだけれど。この世界は表向き、きれいごとを並べていても実態は弱肉強食の修羅場なのだ。甘いことを言っているようでは、お隣の国に取って食われる。しっかりと物事の本質を見極めることのできる政治家は、けっして民衆の甘い要求を受け付けたりしない。福祉は充実しろ、最低保証年金に子供手当、コンクリートから人へ、高速道路無料化など国家財政を無視したポピュリズム政策で選挙を戦ったような政党に属していた議員は、選挙対策だけを重視する連中だ。国家観は希薄で、個人主義だ。風向きが悪くなれば、避難先を求めてうろうろするばかりの連中である。切り捨てるべきだ。

 橋下さんの従軍慰安婦問題に対する発言などで、顰蹙を買った時期があった。それより前、みんなの党の渡辺喜美さんなど、維新にすり寄っていたけれど、これを機会に袂を分けた感があった。民意は橋下さんから去ったとの判断もあったかも知れない。「従軍慰安婦の問題は何もわが国の軍隊にあったわけでもなく、どこの国もやっていることだ」。本当のことを言ったことで、女性蔑視だとなる。もっとも韓国に関して歴史上の事実を述べた政治家は、この国のマスコミ(マスゴミとも言う)から徹底して叩かれて、大臣なども首が飛ぶ習慣がある。在日韓国人などがマスコミはじめこの国の中枢に巣くっているためとの説がある。

 この国の論点として橋下維新を挙げたのは、この人の目指しているであろう方向性、新しい形のこの国の「保守」を支持しますかどうですかということ。その発信力は素晴らしく、行政にお金が掛りすぎるこの国のシステムや既得権者を一掃しようとする意思と実行力は多くの共感を得ているけれど、原発問題やこの国の経済に関する成長戦略などは、不満な点もある。大阪府知事の松井さんは良きパートナーだと思うが、取り巻きから過去の人を排して、この国の新しい知性をどんどん登用して、共に信じる道を進んでいただきたいものである。



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この国の論点その5

2014年07月13日 | ブログ
死刑廃止論

 『欧州連合(EU)は、いかなる場合や状況下であっても、極刑を使用することに反対しており、その普遍的廃止を一貫して提唱しています。EUは日本が死刑廃止国グループの仲間となることを求めます。

 日本は、世界に冠たる民主主義国のひとつであり、EUと基本的価値を共有しています。共に内外において人権尊重を徹底し、世界全体で人権推進の活動を積極的に繰り広げています。

 日欧共有の価値という強い絆を強化するために、EUは日本に対し死刑の使用を止めることを求めています。2012年、日本は世界で最も多くの死刑を執行した10カ国のうちのひとつでした。世界に存在する195カ国の中で、同年に死刑を執行したのは21カ国にすぎません。

 世界のすう勢は、明らかに死刑廃止に向かっており、米国内でも死刑を廃止する州が増えています。国連総会は死刑廃止と執行停止を呼びかける決議の採択を繰り返しており、決議を支持する国の数も毎年増え続けています(2012年には111カ国)。EUとその加盟国は、日本がこの国際的すう勢に合流することを希望します。・・・』駐日欧州連合代表部からのメッセージ(ネットより転載)

 これはEUから日本に寄せられた死刑制度に対する要望のようです。現在死刑制度のある国は、米国、日本、中国など世界の3分の1に満たないようだ。上記メッセージにある通り、欧州を中心に死刑は制度そのものの廃止、執行の停止という形で全世界の趨勢になっている。

 しかし、上記メッセージの中に死刑制度が人権尊重に反する制度のように訴えていることに違和感を持つ。権利とは義務や責任を伴う。他人の尊厳を著しく毀損する行為を行い、果てにその人の命さえも奪った人間に人権が認められるものか。その意味で、死刑制度は、被害者及びその遺族の尊厳を最大限に尊重した、ある意味死刑廃止論に卓る人権擁護制度だと考える。ただ、それが極刑であるかどうか。ある意味、最低限生活できるだけの独房での終身禁固刑の方が受刑者にとっては辛いかもしれない。

 人間は所詮愚かな動物である。欲望に苛まれ、制御不能となって、または制御するつもりも失くして暴走する場合がある。その犯した罪の大きさに応じて、恩赦や特赦無しの終身刑や死刑があって当然である。

 犯罪は、被害者本人は勿論、その家族や友人、関係者までに深い悲しみを与え、大きな傷を残す。殺人事件には偶発的なものもあるが、死に至らしめるまでに幾重にも恐怖と肉体的苦痛や恥辱を与え続けた事例もある。それも加害者が被害者に対する怨恨があったわけでもなく、単なる自身の欲望と残虐性による場合がある。そのような加害者に裁判の結果においてなお人権があるとは到底思えない。

 人それぞれ、国家なり世界の中に役割があり、例えば裁判官が人に対して、その罪によって死刑の判決を下すこと。法務大臣がその執行書に署名することはつらい事だとは推測する。それなら裁判官などならなければいい。法務大臣は断ればいい。ステーキがおいしい、トンカツが好きだと喜々としておいしい食にありついている人々の陰で、自分の育てた牛や豚を他人の食用に提供する人達もいる。家畜の場で働く人達も居る。仕事と割り切っていると思うけれど、それでも乗り越えているのだと思う。

 死刑があるから残酷な殺人事件が起こるわけではない。あまりに残虐な事件があるから已む負えず死刑制度を設けているのだ。EUはEU、わが国はわが国の考え方があっていい。世界的な人権擁護活動は、死刑廃止ではなく、武力で圧迫され続けている少数民族に対して、国家によって言論の自由さえ奪われ、国家指導者を自分達で選ぶこともできないような体制下にある民衆に対して、救いの手を差し伸べることこそ優先すべきである。


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この国の論点その4

2014年07月10日 | ブログ
続、原子力発電

 こちらも元首相だけれど、小泉さんがある日突然脱原発を言いだして、その後細川さんとタッグを組んで活動しているけれど、その根拠は、原発の安全性より、放射性廃棄物の処理に未だ目途が付いていないことにあるようだ。半減期が10万年ということで、地中深く埋めるしかなく、どこの原発保有国にも大きな問題であることは事実だ。ただ、必要は発明の母であり、放射性物質の半減期を300年とか100年に縮める研究がわが国で進んでいるらしい。さらに研究を進め実用化を図って貰いたいものだ。

 当面は埋めることしかないけれど、まずはその量を減らす工夫が必要であろう。今は海底5000mの深海からでさえ海底資源を採掘する技術が進行中であるくらいだから、人里離れた沖合の海底に深く穴を掘り、埋め立て場とするしかないかもしれない。
 
 これまでの何度も述べてきたけれど、福島第一原発の事故は、原発そのものの脆弱性というより、津波の最大高さを5m程度と想定して建屋を設計した人的なミスによるものである。緊急時の二次電源を確保するための建屋を本体よりさらに津波に弱い所に置いていたようだけれど、これも全く分からない設計思想だ。緊急時の防災訓練も不十分で、住民に当日の風向きによる安全避難方向指示もなく、右往左往させたことも人災である。現場確認、陣頭指揮と称して現場を混乱させた人もいた。海水注入の判断さえ専門家が躊躇した。現在安倍政権は原発輸出に熱心という批判があるが、世界に買い手がつくということは、その運用を誤らねば、わが国の原発そのものは信頼されているのである。

 そして、当時の防災担当責任者であった、首相はじめ、官房長官など前政権の誰も責任を取っていない。与党、野党というけれど、政治家は政治家同士変に庇いあって、あれだけ住民を苦しめながら、当事者は素知らぬ顔で、すべて原発そのものの所為にし、脱原発・反原発を唱えている。そのような政治家の脱原発論や反原発でも卒原発でも信用などできるものではあるまいに。

 エネルギー消費量は世界的に2030年には1990年の約2倍に膨らむという予測がある。人口の増加、新興国のすさまじい工業化があればそれも当然である。益々化石燃料の奪い合いは激しくなりすべてのコストは上昇する。再生可能エネルギーの割合を増やしてゆかねばならないことは当然であろうが、時間はかかる。原発の再稼働が進まなければ、この国の経済そのものが危ない。また、温室効果ガスの増大は食い止めねばならない。やはり現在存在する原発くらい十二分に活用すべきである。

 また、原発には核武装のための役割もある。わが国は、最低でもいつでも核武装できるという状態を維持しなくてはならないのだ。米国議会がいつまでも日本を核の傘の下に入れておいてくれる保証はない。中国は日米同盟における米国の意向を測りながら、わが国に戦争を仕掛けるタイミングを図っているとさえ思える状態である。日本の東には広大な太平洋が広がっている。この権益を米国と分け合いましょうというのが当面の中国の野望である。

 元経済産業省のお役人さんの原発批判には、いつも経産省官僚の原子力ムラという利権構造批判があったけれど、確かにそのような不埒な輩も事実あったと思う。翻って反原発、自然エネルギー派がすべてクリーンかどうか。以前から反原発のグリーンピースの活動費は石油資本から出ていたと云う説がある。自然エネルギーにしても買い取り価格を高く誘導することで、儲ける政商と呼ばれる実業家もいるかも知れない。どっちもどっちである。さらに原子力ムラでは、安全管理における隠ぺいもあったかもしれない。それならなお原発そのものの危険性というより、運用に携わった連中の愚かさ拙さである。それなら関係した政治家、東電関係者、官僚を相応の刑事罰に処し再発防止を図るべきである。

 原子力発電を持つ地元の人の中には、交付金など要らないから出て行ってくれという気持ちを持つことも当然あるだろうけれど、すでに原発及びその関連の仕事によって地元には相当の雇用が生まれ、多くの事業者が波及的に恩恵を得ている筈である。地元への経済効果は交付金だけではないのである。

 物事は常に多面的に見て考察する必要がある。安全・健康・平和・豊かさは誰もの願いではあるけれど、それを達成するためには、やはり相応の負担とリスクを取る必要がある。そしてリスクに立ち向かい最少化する渾身の努力と勇気もまた必要なのである。




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この国の論点その3

2014年07月07日 | ブログ
原子力発電

 この件に関しても、一般に著名な文化人と呼ばれる人に情緒的反対意見がある。少々電気代が高くなろうが、ガソリン代が高かろうが関係ない人達である。原発反対の庶民は庶民で、豊かなこの国がどのようなメカニズムでこの繁栄を築き、維持出来ているかに想いを馳せることなく、この国の繁栄はどうやっても続くものと勘違いしているのではなかろうか。先の民主党への政権交代を許したように。

 原子力発電はやっぱり危険だった。放射能汚染は人々の生活を根こそぎ奪う。だからすべての原発の再稼働に反対し、廃炉にすべきである。それによってこの国が貧しくなる恐れがあることも、ゆえに他国に侵略されることになった場合の悲惨さなど覚悟も想像もしてはいない。戦争もこちらが仕掛けない限り起こらないと思っている節がある。

 化石燃料の輸入は増大し、電気代やガソリン代は徐々に生活を圧迫している。それはいずれすべての物価に波及してくる。温室効果ガスの発生は増大し、世界との約束の削減目標などどこかに忘れ去っている。太陽光、風力、水力、潮流、地熱など再生可能エネルギーの利用があるじゃないのと言うけれど、それらの建設にまた膨大なエネルギーが必要である。太陽光発電の買い取り価格を高く設定しているのは、それを推進するための方策でもあるけれど、結局は投資、すなわち必要な資源(ヒト、モノ、カネ)に対する効果(発電量)を考慮すれば、どうしても高くなるのだ。それだけ効率の悪い発電であるということ。

 先日NHKテレビでやっていたけれど、原発“0”宣言のドイツでは、高止まりした電力料(10年で2倍)を回避するため、企業はお隣のチェコに避難している。需要増大で周辺国は原発を増設せざるを得なくなる。すなわちこれをグリーンパラドックスと言うらしい。

 先の東京都知事に反原発で立候補した元首相など、「原発が動いてなくてもどうにかなっているではないですか」。との発言を繰り返しているようだけれど、このような経済音痴の御仁が、一方向からの視点で原発反対と叫んでも説得力はない。お金があるうちは、少々高くても原油も天然ガスも手に入る。しかし、当面再生可能エネルギーだけでこの国のエネルギー需要を賄えるとは思えず、この間原発をなくした状態で、中東などの騒乱が拡大したり、シーレーンが封鎖されたりで、原油が入って来なくなった場合の対策は考えての発言だろうか。政治家たる者、常にワーストケースへの対応も考えておく必要があるのではないのか。

 原発から離れた所に住む人はいいけれど、原発地元住民の気持にもなってみろ。という反論も当然にある。しかし、今原発を停止しても、放射性物質がすぐに消えるわけでもなくリスクは残る。原発は絶対安全という説明で建設に同意させられたと考える地元民も多かろうと思う。しかし、絶対安全などこの世にはあり得ない。今更撤去すれば膨大な資産が消える。元々「絶対」が付くほど安全なら、地元に高額の補助金(電源三法に基づく交付金)を支払ったりはしない。出す方も貰う方も確信犯(納得づくの了解)ではなかったのか。停止していてもリスクはあると交付金は受け、安全基準を満たしてさえ再稼働に反対するなら、道理が通らない。

 もっとも、こちらも電源三法対象となるようだが、大きなダムが建設される場合、集落全体が消える話はよく聞いた。原子力発電所周辺の住民についても、一定の保安距離を設定して、事前に必要な立ち退きを考える必要はある。そのような対策にお金を掛けても、この国から原発をなくすなど、考えない方がいいように思う。次号に続く。


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この国の論点その2

2014年07月04日 | ブログ
集団的自衛権

 米国カリフォルニア州で今年5月、飼い猫が一家の4歳の男の子を襲った近所の飼い犬に体当たりして撃退した様子がネットに流れ、大きな感動を呼び話題となった。わが国でも最近クマに襲われた飼い主や飼い主の子供を助けた飼い犬が話題になった。子供を助けた柴犬は、日頃はおとなしく気が弱い犬とさえ思われていたそうだ。子供は柴犬が飼われるようになって一年後に生まれたため、兄弟のように過ごしていたという(NHKニュースから)。

 猟犬が、獰猛なヒグマにさえ立ち向かう姿はテレビなどで見たような気がするが、同じ犬であっても相応の訓練があって成せるもので、日頃平和な暮らしに慣れ切った飼い犬が、野生のクマに立ち向かうなど、やはり飼い主との絆がなければできることはなかろうと思う。人は一人では生きてゆけず、また人と動物でさえ助け合って生きているのである。

 国と国の関係だってそうだと思う。友好国や同盟国ならなおさらである。万一の場合に備えて、同胞を救うためのガイドラインを設けておくことは一人前の国家なら当然のことで、これまでが異常であったのである。本来国論を分けるような論点でもないが、なぜか公党の中にさえ、これを阻止する動きがあることがこの国の幼稚さを表している。確かに「日本人とユダヤ人」ではないが、「全員一致の採決は無効」との考えに立てば、反対意見があることは、今回の閣議決定の有効性を担保するもので、一概に反対勢力を批判するのも大人気ないかも知れない。

 7月2日の新聞の一面には、「集団的自衛権の行使容認」(日本経済新聞)、「集団的自衛権限定容認」(読売新聞)の大見出しがあった。1日夕、政府が臨時閣議を開き、憲法解釈変更を決定したことによるものである。

 これを受けて野党は、共産党、社民党、生活の党は明確に反対。結いの党は慎重で民主党は党としての判断を先送りとしているが、海江田代表は閣議決定撤回を求めている。橋下さん(日本維新の会)や石原さん(次世代の党)、みんなの党は基本的に賛同といったところのようだ。

 反対や慎重意見の中には、集団的自衛権限定行使は、憲法解釈に関わる問題であるため、まず憲法を変えてからにしろというものもあるが、憲法改正には時間が掛るから、要は集団自衛権行使に反対なのである。

 民間人の意見として、2日の日本経済新聞によれば、集団的自衛権行使容認に反対する憲法学者や作家による「戦争をさせない1000人委員会」が開いた記者会見で、ノーベル賞作家の大江健三郎さんが「(政府の決定は)日本の平和憲法をひっくり返した」と批判した。作家の落合恵子さんも「集団的自衛権の行使容認で国民の命を守るというが、日本が戦争して敵国とみなされれば、国民の命を危険にさらすことになる」と強調したという。日弁連も「容認は違憲」との抗議声明を発表したそうだ。

 昔、三田誠広氏の「僕って何」という小説が芥川賞を取った時に、「芥川賞って何」と単に語呂合わせで揶揄されたりしたが、大江健三郎氏といい、STAP細胞騒動で怪しげな内情を暴露されながら、「小保方氏は未熟」で切り捨て、何とか研究所の理事長にしがみつく学者といい、「ノーベル賞って何」と言いたくなる。オバマ大統領もノーベル賞受賞者だけれど、韓国に行って女性大統領に阿り、従軍慰安婦問題を酷評したが、その国では、駐留米軍へ売春を強要された元慰安婦百数十名が韓国政府を訴えた。

 「戦争をさせない1000人委員会」など「自国が安全なら同盟国であってもどうなっても知りません」と言っているようなもので、見て見ぬふり、人類愛とは対極の意見のように感じてしまう。冒頭のわが身を挺した猫や犬に恥ずかしい人達である。

 わが国の現行憲法は、占領軍によるすなわちわが国が主権を回復していない状態下に連合国に押し付けられたもので、自主憲法に程遠い。吉田茂首相などはこれを逆手に取って、経済復興に足がかりをつけた。その意味でこの国の復興に大きな役割を果たした功績はあるが、すでに時代遅れである。しかし憲法改正にはまだまだ時間が掛りそうである。時代・環境の変化には政府の憲法解釈変更で応じるしかないわけで、日弁連のような杓子定規の抗議は国益を損なうばかりである。

 ここ10年で中国は軍事費を4倍に膨らませたという。わが尖閣諸島での領海・領空侵犯や戦闘機の自衛隊機への異常接近、また南シナ海での横暴にはベトナムやフィリピンが悩まされている。一方で米国は軍事費を圧縮しており、世界のパワーバランスに大きな変化がある。誰も戦争などしたくも巻き込まれたくもない。しかし、現実を直視すれば、国家を預かる者は備えを怠るわけにはゆかない。大江氏や落合氏の時代錯誤の批判には、その現状認識の乏しさに哀れみさえ覚える。まさに「作家って何」である。




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この国の論点その1

2014年07月01日 | ブログ
日中友好の「欺瞞」と「幻想」
                            
 1972年9月、田中角栄首相と大平正芳外相が訪中し、毛沢東や周恩来との間で、日中国交正常化が成された。しかし一方で、友好国であった中華民国(台湾)は切り捨てられることになった。当時の批判記事で印象深いのに、中国と国交を結ぶと云うことは、「グラマーな裸の美女が、乞食と寝るようなもの」というのがあった。

 前年1971年の7月に米国のキッシンジャー大統領補佐官が密かに中華人民共和国(中国)政府を訪問して、ニクソン大統領の訪中を約束しており、ニクソン大統領は1972年2月に北京を訪問し事実上中国を承認した。わが国政府としても、この流れに乗り遅れるまいと猛進したのか。ただ、米国が中国と正式に国交樹立したのは1979年1月カーター大統領の時である。

 日中国交正常化は、自民党の重鎮であった大平外相、三木武夫副総理(当時)が親中派だったため、就任間もない田中首相が党内基盤を盤石にするために急いだという憶測もあるようだ。(自民党総裁選挙の決選投票で、三木氏は日中国交に取り組む事を条件に田中氏に投票したとされる。byウキペディア)

 日中国交正常化は当時の自民党内部でも台湾派を中心に反対勢力があり、台湾を切り捨てることになる信義上の問題もあった。石原慎太郎氏などは青嵐会を発足(1973年7月)して媚中外交を批判することになる。当時中国は内政の失敗やソ連との関係悪化もあり、非常に苦しい経済状態にあり、政権発足3カ月であった田中内閣が、十分な準備もなく進めなければならない外交案件ではなかったと思われる。しかも当時尖閣諸島周辺海域に石油資源が豊富であることを知った中国は、突然尖閣諸島を自国領だと主張するようになっていたのだ。

 この件については、正常化交渉において何となく中国からの棚上げ論に同意したかのような曖昧な応接があったと云われるが、事実なら外交交渉における素人同然の仕業であった。そのことが、現在においても野中元自民党幹事長が、棚上げ論を当時田中首相から直接聞いたなどの発言があったり、元外交官という専門家氏の棚上げ論擁護の根拠となったりしているのである。その意味で田中、大平両氏の外交上の失政は大きいと言わざるを得ない。さらに1978年8月の日中平和友好条約締結時の園田外相(当時)と小平副主席(当時)の会談でも小平副主席から棚上げ論を押し付けられたらしい。もっともいずれも正式な外交文書に残っているとは聞かず、棚上げ論は当然に無効である。

 当時の日本の貿易額からして中国は、問題にならない相手国(全体の2%程度)であり、工業技術力においても取るに足らない存在であった。日本の経済力、工業力とその技術を必要としていたのは中国(中国の対日貿易額は、全体の20%程度)であったにも関わらず、これに阿(おもね)ることからスタートした関係は、わが国からは多額のODAを供与することになったあげく、中国の国内にあっては反日教育、南京大虐殺記念館、首相の靖国参拝への罵詈雑言と中国を増長させた。反日大暴動、尖閣諸島を中国の核心的利益と宣(のた)まい、現在の度重なる領海領空侵犯につながっている。

 中国報道官のわが国への批判の文言やその態度は、完全にわが国を見下し、馬鹿にしたもので、「友好」からはほど遠い。それでもなお親中派と目される政治家や実業家は多いようで、媚中外交は止まない。日本国内の世論も踏まえながら中国政府は、中国の横暴に反発する安倍内閣を無視し、右傾化と批判し、わが国の国論を対立構造に導くべく工作する。美人局によるものか資金供与を受けてか、経済進出に便宜を図る見返りか。親中政治家や親中経済人諸兄よ、日中友好は「欺瞞」であり「幻想」であり、尖閣諸島の帰属は本来この国の論点にさえならぬことを知ると共に、その姿勢がこの国の国益を損ない、あなた方の子孫にも禍根を残すことに想いを馳せるべきである。



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