春や昔
『この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。そのうちのひとりは、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規である。子規は明治二十八年、この故郷の町に帰り、「春や昔十五万石の城下かな」という句をつくった。・・・
「信さん」といわれた秋山信三郎好古は、この町のお徒士(かち)の子にうまれた。・・・
信さんが十歳になった年の春、藩も城も秋山家もひっくりかえってしまうという事態がおこった。明治維新である。「土佐の兵隊が町にくる」ということで、藩も藩士も町人もおびえきった。・・・
「朝廷に降伏せよ。十五万両の償金を朝廷にさしだせ」・・・
この支払のために、藩財政は底をつき、藩士の生活は困窮をきわめた。
十石取りのお徒士の家である秋山家などはとりわけ悲惨であった。すでに四人の子*註)がある。この養育だけでも大変であるのに、この「土州進駐」の明治元年(慶応四年)三月にまた男児が生まれた。
「いっそ、おろしてしまうか」・・・が、武士の家庭ではそういう習慣がなく、さすがに実行しかねた。結局は生まれたが、その始末として、「いっそ寺へやってしまおう」ということになった。
それを、十歳になる信さんがきいていて、「あのな、そら、いけんぞな」と両親の前にやってきた。・・・「あのな、お父さん。赤ン坊をお寺へやってはいやぞな。おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどお金をこしらえてあげるぞな」
ウチというのは上方では女児が自分をいうときに使うのだが、松山へいくと武家の子でもウチであるらしい。「お豆腐ほどのお金」というたとえも、いかにも悠長な松山らしい。藩札を積みかさねて豆腐ほどのあつさにしたいと、松山のおとなどもはいう。それを信さんは耳にいれていたらしい。・・・』
好古はその後、大阪に師範学校という無料(ただ)の学校が出来たと知り、大阪に発つ。明治八年の正月である。合格できなければ、国に帰る運賃もなく、当時の大阪に職はなく、食ってもゆけず、はじめての大阪で飢えて死ぬしかなかった。
当時、新政府のやった仕事のなかで、もっとも力を入れたのは「教育」だった。しかし、学校を作っても教師が不足であった。もともと松山藩は教育に熱心で、「明教館」という藩校があり、好古も八歳からそこで学んでいた。好古は大阪での本教員への登用試験に「首席」で合格している。
本稿は、小説「坂の上の雲」第1巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。
*註) 秋山両親夫婦には五男一女があり、好古は3男、真之は5男だった。らしい。