苦難の時代
『池田勇人は、五高から京大の法科へ進んでいる。これは一高、東大というエリート・コースからはずれていた。
秀才の雲集する大蔵省に実力ではいったのはうれしかっただろう。ところが池田は、望月圭介の世話で内務省にも就職がきまってしまう。こまった池田は望月のところに相談に行った。
望月はちょうど朝めしを食っていた。話を聞き、ひょいと箸をとりあげて、こっちへ倒れれば大蔵省、あっちへ倒れれば内務省と言った。箸は大蔵省のほうにころがった。望月は「そうか、それじゃお前、大蔵省にはいれ。国のお父さんも喜ぶだろうから」と言った。
池田の父は酒造りと郵便局長をやっており、地方の名家だった。母はあねごはだの世話好きで、夫婦二人して、望月の選挙の応援をやっていた。吉名村は望月の選挙区である。結局、後年、池田は同じ選挙区で代議士に立つという因縁になる。
池田は大蔵省にはいったことははいったが、なかなか出世しない。そのうえ宇都宮の税務署長時代に例の有名な天苞瘡にかかる。五年間の闘病生活は、池田自身が語りたがらなかったほど、悲惨なものであったらしい。身体じゅうからウミがでて、かゆくてかゆくて、部屋中をころげまわる苦しみだ。何度か自殺を考える。奥さんは看病疲れのはてに死ぬ。ようやく回復して、病気のなかで知り合った新しい夫人と結婚するが、この結婚には、家から反対があり、いわば勘当のようなかたちになる。
病み上がりの身でなんとか独立の生計をたてなければならない。とても大蔵省は復帰させてくれないだろうと思い、ツテをたどって日立製作所に就職がきまった。しかし、大蔵省に帰りたいという気持ちはなくならない。税務署の小使いでもいいと思いつめ、上京したある日、デパートの公衆電話から、当時の谷口秘書課長に電話をかけた。
「なんだ、お前生きていたのか。いまなにしているんだ。早く帰ってこいよ」
池田は天にも昇る気持ちで大蔵省に復帰した。池田は谷口の恩を感じた。後年谷口の死後、池田は大蔵省の後輩とともに谷口会をつくり、その命日には毎月会合して故人をしのんだ。
同期生から五年もおくれて、大阪の玉造税務署長に出される。胸を病んでやっと回復したばかりの前尾繁三郎が和歌山の税務署長になってきていた。前尾は一高、東大で学歴はちがうが、境遇がまったく同じところから親しくなり、やがて刎頸(ふんけい)の交わり結んだ。
池田は熊本に転任して、直税部長になり、仕事一途にうちこんで鬼直税部長と言われる。ついで、異例の抜擢で、大蔵省主税局の事務官になった。しかし、派閥のなかにのっていけない池田は、本省でもあいかわらず冷やめしを食わせられる。当時のことを述懐して池田が言ったことがある。「重要会議がおこなわれる。ぜんぜん俺を呼んでくれないんだ。俺ひとりだけポツネンととりのこされれる。こんちくしょうと思った」
役所でどんぶりめしの夜食をたべながら、税務の下積み官吏と一緒に仕事をする。親しくなる。もちろん鬼のように仕事を言いつけるけれども、連中の苦しみはわかるようになるし、下僚のやっている仕事をすっかり把握することができた。』
本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です