鎮魂
子規は一時期小康を得て、日清戦争では現地で従軍記者まで務めたが、結核の悪化と共に当時の医者の診断でいう「ルチュー毒類似」というリューマチに似た症状を併発し、床ずれという悪性腫物がくわわり、言葉に絶する激痛に襲われるようになる。
子規が死んだのは、明治三十五年九月十九日午前一時である。短い生涯の三分の一近くを拷問のような難病の苦痛と闘い続けた。ただ、母の八重、妹の律、弟子ともいえる高浜虚子、弊悟桐(へきごどう)らに加え、陸羯南からも初対面以来の厚い親交と介護を受け続けたことはせめてもの、その人生に救いであったと思われる。漱石や真之との交友もしかりである。
子規の死はすぐ秋山家にしらせられたが、真之は当時海軍大学校に教官として勤めていたが横須賀に出張中であり、横須賀線の車中で、隣席の乗客から新聞「日本」九月二十日号「新俳壇の巨星正岡子規」の記事を見せられて知る。(死んだか)真之は、この男にしてはめずらしくぼう然とした。
『秋山真之の生涯も、かならずしも長くはなかった。大正七年二月四日、満五十歳で没した。・・・(生前)第一次世界大戦がおこったとき、かれは公務でパリへゆき、この大戦の進行と結末についての予想をたて、ことごとく的中させたことぐらいが真之らしい挿話というべきものであった。真之は大正六年中将に昇進したが、すでに健康をそこなっていたためそのまま待命になり、その三カ月後に死んだ。かれはたまたま小田原の知人の別荘に泊めてもらっているときに慢性腹膜炎が悪化し、二月四日未明、吐血して臨終をむかえた。臨終のとき枕頭にあつまっていたひとびとに、「みなさんにいろいろお世話になりました。これから独りでゆきますから」といった。それが最期のことばだった。兄の好古は検閲のために福島県白河に出張中で、小田原にあつまっているひとびとに「ヨロシクタノム」という電報を打っただけであった。
好古はやや長命した。かれは大正五年に陸軍大将になり、同十二年に予備役に入った。その翌年故郷の北世中学の校長になり昭和五年満七十一歳で病没する年までその職をつづけ、やがて死の年の四月に辞任して東京に帰った。老後を養うつもりであったが、ほどなく発病した。
病名は糖尿病と脱疽である。・・・やがて牛込戸山町の陸軍軍医学校に入院し、はじめて酒のない生活に入った。医師たちは左脚を切断することにずいぶんためらったが、結果はその手術をおこなった。しかし脱疽菌は切断部より上部に侵入していた。手術後四日間ほとんど昏睡していたが、同郷の軍人で白川義則が見舞いにきたとき、好古の意識は四十度ちかい高熱のなかにただよっていた。彼は数日うわごとを言いつづけた。すべて日露戦争当時のことばかりであり、かれの魂ばくはかれをくるしめた満州の戦野をさまよい続けているようであった。臨終近くなったとき、「鉄嶺」という地名がしきりに出た。やがて、「奉天へ。―――」とうめくように叫び、昭和五年十一月四日午後七時十分に没した。』
本稿は、小説「坂の上の雲」第2巻と6巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。