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中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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坂の上の雲 第10回

2025年04月28日 | ブログ
鎮魂

 子規は一時期小康を得て、日清戦争では現地で従軍記者まで務めたが、結核の悪化と共に当時の医者の診断でいう「ルチュー毒類似」というリューマチに似た症状を併発し、床ずれという悪性腫物がくわわり、言葉に絶する激痛に襲われるようになる。

 子規が死んだのは、明治三十五年九月十九日午前一時である。短い生涯の三分の一近くを拷問のような難病の苦痛と闘い続けた。ただ、母の八重、妹の律、弟子ともいえる高浜虚子、弊悟桐(へきごどう)らに加え、陸羯南からも初対面以来の厚い親交と介護を受け続けたことはせめてもの、その人生に救いであったと思われる。漱石や真之との交友もしかりである。

 子規の死はすぐ秋山家にしらせられたが、真之は当時海軍大学校に教官として勤めていたが横須賀に出張中であり、横須賀線の車中で、隣席の乗客から新聞「日本」九月二十日号「新俳壇の巨星正岡子規」の記事を見せられて知る。(死んだか)真之は、この男にしてはめずらしくぼう然とした。

 『秋山真之の生涯も、かならずしも長くはなかった。大正七年二月四日、満五十歳で没した。・・・(生前)第一次世界大戦がおこったとき、かれは公務でパリへゆき、この大戦の進行と結末についての予想をたて、ことごとく的中させたことぐらいが真之らしい挿話というべきものであった。真之は大正六年中将に昇進したが、すでに健康をそこなっていたためそのまま待命になり、その三カ月後に死んだ。かれはたまたま小田原の知人の別荘に泊めてもらっているときに慢性腹膜炎が悪化し、二月四日未明、吐血して臨終をむかえた。臨終のとき枕頭にあつまっていたひとびとに、「みなさんにいろいろお世話になりました。これから独りでゆきますから」といった。それが最期のことばだった。兄の好古は検閲のために福島県白河に出張中で、小田原にあつまっているひとびとに「ヨロシクタノム」という電報を打っただけであった。

 好古はやや長命した。かれは大正五年に陸軍大将になり、同十二年に予備役に入った。その翌年故郷の北世中学の校長になり昭和五年満七十一歳で病没する年までその職をつづけ、やがて死の年の四月に辞任して東京に帰った。老後を養うつもりであったが、ほどなく発病した。

 病名は糖尿病と脱疽である。・・・やがて牛込戸山町の陸軍軍医学校に入院し、はじめて酒のない生活に入った。医師たちは左脚を切断することにずいぶんためらったが、結果はその手術をおこなった。しかし脱疽菌は切断部より上部に侵入していた。手術後四日間ほとんど昏睡していたが、同郷の軍人で白川義則が見舞いにきたとき、好古の意識は四十度ちかい高熱のなかにただよっていた。彼は数日うわごとを言いつづけた。すべて日露戦争当時のことばかりであり、かれの魂ばくはかれをくるしめた満州の戦野をさまよい続けているようであった。臨終近くなったとき、「鉄嶺」という地名がしきりに出た。やがて、「奉天へ。―――」とうめくように叫び、昭和五年十一月四日午後七時十分に没した。』

本稿は、小説「坂の上の雲」第2巻と6巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。



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坂の上の雲 第9回

2025年04月25日 | ブログ
ほととぎす

 真之が兵学校に入校して三年目の明治二十一年八月、兵学校は広島県江田島に移転する。文明開化で華美になってゆく東京都下の風が海軍教育にふさわしくないというのがおもな理由であったらしい。真之にとっては故郷の松山が近くなった。移転早々休暇が出て帰省する。

 兄の好古は、明治十九年陸軍騎兵大尉に任官したが、旧藩主久松家の御曹司のフランス留学のお供武官として、明治二十年フランスに自費留学となっており、この時期日本にはいない。好古の留学は5年に及んだ。ただ、この間、日本陸軍がフランス式からドイツ式に変わったが、馬術については、好古の進言もあり、合理的なフランス式を継続できたのである。


 『この年、子規は健康ではない。・・・かれは前年までいた高等中学(大学予備門の改称。のちの第一高等学校)の寮からこの旧松山藩の書生寮である常磐会の寄宿舎に移っていた。・・「常盤会寄宿舎二号室(子規の部屋)は坂の上にありて、家々の梅園を見下し、いと好きながめなり」という風景になる。・・まわりは旧幕時代からの屋敷町で、家々の庭にはかならず梅の古木が植わり、春秋を告げている。「梅の香をまとめてをくれ窓の風」

 子規の喀血は、この前年の夏、鎌倉へ行ったとき、路上でつづけさま二度吐いているからはじめてではない。が、最初のこのときは、子規は「のどかもしれぬ」とおもい、さほど気にもとめなかった。

 この二十二年の喀血は、楽天家の子規でも他の解釈の仕様のないほんものであった。

 「ほととぎす」杜鵑、時鳥、不如帰、子規、などとかく。和名では「あやなしどり」などと言い、血に啼くような声に特徴があり、子規は血を喀いてしまった自分にこの鳥をかけたのである。子規の号は、このときにできた。・・・・

 人一倍疲れやすいからだをもっていながら明治二十年ごろからベースボールに熱中し、仲間を組んではほうぼうで試合をしたりした。ちなみにベースボールに、「野球」という日本語をあたえたのはかれであった。・・・

 「全国に知られた松山の野球は、正岡子規によって伝えられた」と、昭和三十七年刊行の「松山市誌」のスポーツの項に書かれている。子規は明治十七年大学予備門に入学するとまもなく野球をおぼえ、これに熱中した、とある。その後、これを松山にもちかえった。ちなみに、かれは明治二十一年新聞「日本」に書いた「ベースボール」という一文のなかで野球術語を翻訳した。打走、走者、直球、死球などがそうであった。』

 子規の病は、寄宿舎の監督官に知れることになり、松山への帰省をうながされる。子規は大学予備門の卒業試験を受けて、結果をみずに東京を離れる。このとし、明治二十二年に東海道線が全通している。神戸まで汽車でくだり、神戸から三津浜までは汽船であるが、三津浜には松山までの一里半を汽車が開通していた。

 当時子規の実家は、母の里の大原家の好意で、その屋敷内に閑静な小家屋を立ててくれており、そこに移っている。子規の三つ違いの妹の律は十九歳、すでに他家に嫁いでいたが、「私が看護するけん」と言い切った。子規の幼児期、悪童にいじめられ泣いて帰るだけの兄に、「兄(あに)ちゃまの仇(かたき)」と、石を投げに行く兄想いの娘であった。

 予定より遅れたが、子規の帰省を知った真之が江田島から子規を見舞に帰った。真之が海軍に転身して、そのことを告げる置手紙を子規に残して以来の再会であった。

本稿は、小説「坂の上の雲」第1巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。

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坂の上の雲 第8回

2025年04月22日 | ブログ
伊予水軍

 真之への兵学校合格通知は、保護者である好古の下宿に届いた。

 『「淳、これだ」と好古は、やってきた真之にその通知書をみせた。・・「よろこべ」と、好古はいったが、真之はさほどうれしいともおもわなかった。大学予備門の在学生なら、合格するのがあたりまえというあたまが真之にある。

 「おまえ、秋山家の先祖が伊予水軍であることを知っているのか」と、好古はいった。真之は知らない。もともと秋山家の家父は無頓着なひとで、子供たちにふるめかしい家系伝説や系図のはなしなどをしたことがなく、こどもたちもそんな知識なしに成長した。

 伊予は、水軍の国である。

 源平のころにはすでに瀬戸内海の制海権をもち、源氏も平家もそれぞれこの水軍を抱き入れようと腐心し、最初平家に属したため平家は瀬戸内海岸に源氏を一兵もちかづけなかった。のち源氏に属したために制海権は源氏にうつり、平家はついに壇ノ浦でほろんだ。

 戦国期も、伊予水軍は生きている。

 さらには江戸末期にいたっても、伊予の水夫(かこ)たちの実力は天下にひびおいており、幕末、幕府の遣米使節をのせて「咸臨丸」が太平洋をわたるとき、幕府はその水夫を伊予の塩飽島(しあくじま)から徴募したほどであった。

 秋山氏は、伊予の豪族河野氏の出で、戦国期から江戸初期まで讃岐や伊賀を転々とし、やがてこの兄弟から七代前の秋山久信という者が伊予松山にもどってきて久松家につかえた。

 「とにかく伊予人の遠祖はみな瀬戸内海に舟をつらねて漕ぎまわった連中ばかりだ。おまえがその伊予人のなかから出てはじめて日本海軍の士官になる」

 好古は、腕をあげ、横殴なぐりに鼻をこすって水洟(みずばな)をすてた。目がうるんでいる。が、すぐ声をあげて笑いだし、「海軍のめしはうまいぞ」といった。』

 日本海海戦において東郷司令官の採った丁字戦法は「秋山軍学」から生まれた。すなわち、あらゆる雑多なものをならべてそこから純粋原理をひきだしてくる真之の得意芸である。

 米国留学から帰朝し、常備艦隊参謀として少佐にすすんだ明治三十四年頃、彼は胃腸を病み、入院生活をしている。この時、九州唐津の大名だった小笠原家の当主であった小笠原長生大尉が見舞いにゆくと「あなたの家に、海賊戦法の本はないか」と、彼の家柄を見込んで問うた。小笠原は家に帰り、旧家臣などをたずねたりしてめずらしい本をさがしだした。「能島(のじま)流海賊古法」という写本である。能島は伊予大島に付帯する島で、瀬戸内の諸水軍を大統一した村上氏の一派である能島村上氏の根拠地であり、全島城塞化されていたという。能島流戦法はここで生まれた。

 真之は、入院中ほとんどおぼれこむようにして読みふけったといい、あとで見舞いにきた小笠原長生に、「目がひらかれた」と何度もいった。「日本海軍の戦術は、秋山の入院中にできたのだ」と、小笠原はのちになって人に語った。

 日本海海戦の戦役後、その戦史編纂委員を命ぜられた小笠原は、戦闘詳細の付図を書くについては、真之に相談したが、あるとき小笠原は、「どうもこれらの戦法には水軍のにおいがするようだ」と、笑いながらいった。「白砂糖は、黒砂糖からできるのだ」真之は、不愛想に答えた。

本稿は、小説「坂の上の雲」第1巻と2巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。




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坂の上の雲 第7回

2025年04月19日 | ブログ
海軍兵学校

 好古は、明治十六年二月、かぞえて二十五歳で陸軍騎兵中尉に任官している。この年の二月には陸軍大学校に入校を命じられた。日本陸軍のすべての青年士官のなかから、わずか十人の中に選ばれたのである。

 子規と真之は上京して1年後の九月、大学予備門を受験して合格する。ただ、真之の頭痛のたねは、学資であった。予備門から大学にすすんで学士になるには相当な学資が必要であり、これまで通り兄に頼る訳にはゆかない。もう一つ自身の適性である。真之は好古に相談した。

 『「あしは、いまのまま大学予備門にいれば結局は官吏か学者になりますぞな」「なればよい」「しかし第二等の官吏、第二等の学者ですぞな」――ふむ?と、好古は顔をあげ、それが癖で、唇だけで微笑した。「なぜわかるのかね」「わかります。兄さんの前であれですが、大学予備門は天下の秀才の巣窟です。まわりをながめてみれば、自分が何者であるかわかってきます」「何者かね」「学問は二流。学問をするに必要な根気が二流」「根気が二流かね」「おもしろかろうがおもしろくなかろうがとにかく堪え忍んで勉強してゆくという意味の根気です。学問にはそれが必要です。あしはどうも」と真之は自嘲した。「要領がよすぎる」・・・・

 「なるほど、要領がいいのか」

 好古は、真之の自己分析をまじめにきいてやった。そのあと「学問には痴(こ)けの一念のようなねばりが必要だが、要領のいい者にはそれができない」といった。が、かといって好古はこの弟のことを、単に要領がいい男とはみていない。思慮が深いくせに頭の回転が早いという、およそ相反する性能が同一人物のなかで同居している。そのうえ体の中をどう屈折してとびだしてくるのか、ふしぎな直観力があることを知っていた。(軍人にいい)と、好古はおもった。

 軍人とくに作戦家ほど才能を必要とする職業は、好古のみるところ、他にないと思うのだが、あるいはこの真之にはそういう稀有な適性があるかもしれぬとおもった。「淳、軍人になるか」と、好古はいった。真之は、兄の手前いきおいよくうなずいた。が、よろこびは湧かなかった。軍人になることは、かれ自身がもっとも快適であるとおもっている大学予備門の生活をすてることであった。子規の顔がうかんだ。思わず涙がにじんだ。』

 海軍士官の養成学校は明治二年から、当初「海軍兵学寮」と呼ばれ築地にあった。明治九年までのことで、その後は名前が「海軍兵学校」とかわっている。

 入学試験は、二回にわけておこなわれる。九月二十六日に身体検査などで、学科試験が十月十二日におこなわれた。真之は、この年の十二月に入校した。この期に入った者は五十五人であり、真之の入学試験の成績は十五番だった。しかし、その後一学年をおわって首席となり、卒業まで通した。

本稿は、小説「坂の上の雲」第1巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。




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坂の上の雲 第6回

2025年04月16日 | ブログ
子規

 上京した『子規は浜町の久松家(元、松山藩主)のお長屋に起居することになった。着いた翌日、叔父の加藤恒忠を向島にたずねた。・・加藤にとっては十日ほどすればフランスゆきのために東京を離れねばならなかったので、気ぜわしい時期であった。

 「大学予備門はむずかしいぞな」と、まずこのおいをおどした。そのための準備に予備校にゆかねばならない。「赤坂の須田学舎がよかろう」と加藤恒忠はいった。その入学手続きも、すべて加藤がやってくれていた。「あとのことはあしの友人陸羯南(くがかつなん)にたのんでおいたけれ、あすにでもあいさつにゆけ」といった。陸羯南はのち子規にとって生涯のよき理解者になった。

 子規が東京でひとりうごきできるようになったのは、叔父の尽力によるが、加藤よりもさらにかれのために力になったのは加藤の友人の陸羯南である。羯南は子規にとって生涯の恩人だった。「羯南」本名は実。旧津軽藩士の次男である。

 明治九年に上京して、当時司法省が秀才養成のためにつくっていた司法省法学校に入った。そのとき加藤恒忠もこの学校に入った。ほかに、原敬(はらたかし)がいる。・・

 この当時、この学校は校長以下薩摩閥で運営されており、その運営態度が羯南にとって気にくわず、ついに校長と衝突して放校になってしまった。

 その後北海道にわたったが、ほどなく東京に帰り、太政官(政府)書記局の翻訳官になり、フランスの法律関係のものなどを訳していた。ほどなくやめ、新聞「東京電報」の社長になり、やがて新聞「日本」をおこし、明治三十九年病没するまで明治の言論界の巨峰をなした。

 子規がたずねていったときは、羯南はまだ若く、翻訳官のころだった。羯南は後年、当時を追想して、「ある日、加藤がやってきておいのやつが田舎からやってくる、わしはその面倒をみねばならんのだが、すでにフランスゆきがきまっているから、君にそれをたのみたい、といった。やがてその少年がやってきた」といっている。

 初対面のときの子規の印象は、「十五、六のほんの小僧で、浴衣一枚に兵児帯といった、いかにも田舎から出てきたばかりという書生ッコだった。そのくせどこかむとんじゃくなところがあって」と羯南はいう。「加藤の叔父がゆけというからきました」というほか、子規はなにもいわなかったらしい。羯南はその素朴さが気に入った。羯南はことばの丁重なひとで、「いかにも加藤君から話はきいております。ときどきあそびにお越しください」と、羯南のいう小僧にいった。しかしそれ以上は双方に話題がなく、羯南はしかたなく、「私のほうにもおなじとしごろの者が書生をしております。ひきあわせましょう」といった。羯南のおいであった。小僧には小僧を配するのがいいとおもったのだろう。

 ところがその羯南のおいと話しはじめた子規の様子は、初印象の小僧ではなかった。「ことばのはしばしによほど大人びたところがある。相手の者は同じくらいの年齢でもまるで比較にならぬ」「叔父の加藤という男も」と羯南はつづける。「私より二つもわかい男だが、学校のころから才学ともにすぐれて私よりは大人であった。さすが加藤のおいだと思った」

 子規はのち、羯南の世話になり、そのことを思いだすといつも涙が出る、と言い、その友人夏目漱石にも「あの人ほど徳のあったひとはない」と語っている。・・・・・・

 「あれはおれのあずかりものだ」と、羯南はよくいった。友人の加藤恒忠からあずかっている、という意味だが、あずかりもの、という羯南のことばによほどふかい心がこもっているらしい。

 羯南はこの若者との接触がふかくなるにつれて、そのなかにねむっている才能を見出した。「ひょっとしたら、天からのあずかりものかもしれない」という予感をもちはじめた。羯南は子規という一個の才能のために自分は砥石になってやろうとおもい、書籍を貸したり、体をいたわったりした。

 羯南の言論はのちに政府をふるいあがらせるほどにするどかったが、しかし、子規に対してはあくまでやさしく、高いところからものをいう態度はいっさいみせず、むろん叱るようなこともなかった。』

本稿は、小説「坂の上の雲」第1巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。





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坂の上の雲 第5回

2025年04月13日 | ブログ
騎兵

 好古は大阪で教員試験に合格した後、名古屋師範学校の付属小学校に月給三十円で赴任することになる。正岡子規がこの時期よりはるかのち、明治二十五年、二十六歳で日本新聞社に入社した時の給料が十五円であった。「お豆腐ほどお金をこしらえてあげるがな」と、信坊といわれた十歳のとき、父にいった言葉が八年後に実現したことになる。

 名古屋には、同じ松山藩で上司筋の家柄の出であった和久正辰という人物が居た。和久は、名古屋師範学校の付属小学校の主事を務めていたのだ。彼が好古に便りし、薩長藩閥が天下を独占し、ひきかえ松山藩がふるわぬことを嘆き、同郷の好古に激を飛ばした。

 好古は、和久がととのえてくれた下宿から毎日学校に通った。年が明けて明治十年、その和久が、東京に軍人の学校(士官学校)があり、日本人なら誰でも入れる。月謝も生活費もただであるだけでなく、師範学校と同様、小づかいもくれる。と好古を促した。三期生の申し込みに間に合うからと軍人になることを勧める。当時、好古に明確な進路設計はなかった。できれば学者にでもなりたいと勉強してきた。この度外れの親切者の同郷人に、身をまかせるに仕方ない成り行きとなり、結局名古屋を後にして東京に向かった。

 士官学校は市ヶ谷の尾州屋敷にあった。願書手続きに出掛け、はじめて士官というものの実物を見た。この寺内大尉には、合否確認で再会したがよく覚えてくれていた。

 『「兵科はなにを選ぶかね」「なにとなにがございます」「歩兵、砲兵、騎兵、工兵じゃ」「あしは騎兵にしますらい」と好古がいったことが、日本の運命のある部分を決定づけたことになるであろう。寺内はそういう好古の体格を、ちょうど道具屋の手代のような目でながめていたが、やがて、「騎兵にはうってつけかもしれん」といった。』

 本当の騎兵を日本史にもとめるとすれば、源義経と織田信長であり、義経の一ノ谷の坂落としの奇襲や信長の桶狭間の合戦をあげ、その戦法は「天才のみがやれるもの」と好古はいった。話を聞いていた真之は、「この兄は天才かもしれない」と、ひそかにおもった。

 この兵科のおこりは、モンゴルのジンギス汗であり、彼がヨーロッパを侵略したとき、騎兵集団の白刃突撃の戦法をくりかえしおこない、つねに成功した。また、プロシャのフレデリック大王は、蒙古の古法を採用し近代化した。彼は騎兵の特徴である速力を最大限に評価し、百戦百勝した。ついで、この用法の天才はナポレオンであった。

 しかしわが国では、その必要性の認識が薄かった。明治維新政府は、幕末の尊王攘夷運動から成立したものであり、外国からの侵略を防ぐことに主眼を置き、他国に戦場をもとめるような思想はなかった。むろん、維新成立の三十余年後に、満州の広大な野で世界最大の陸軍国と決戦するというような予想をもった者はたれひとりなく、「騎兵は無用の長物だ」と発足当時からつねにささやかれつづけた。

 好古は後年、「騎兵の父」といわれたが、この人物は二十四、五の下級尉官のころから日本騎兵の育成と成長についてほとんどひとりで苦慮し、その方策を練りつづけてきた。

本稿は、小説「坂の上の雲」第1巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。





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坂の上の雲 第4回

2025年04月10日 | ブログ
青雲

 『四年生の正月、真之が子規の書斎にあそびにゆくと、「淳(真之)さん、あしは中学校を中退しようとおもうのじゃが、どうじゃろうか」ときいた。なぜそんな心境におなりぞな、ときくと、「おもしろくないけれ」と子規はいった。・・・

 「あしの心境はこれじゃ」と稚拙な漢詩を真之に示した。「松山中学只虚名」というところからはじまる。「地ニ良師スクナク孰(いずれ)ニ従ッテカ聴カン」とつづく。

 「そんなにすくないか」真之は、まだこどもであった。どの教師もりっぱじゃがなあとおもうばかりだったが、子規の目からみればそうではないらしい。

 「それでも漢学の先生だけはりっぱなものじゃろが」と真之がいうと、子規は急に深刻な顔になって、「先生はりっぱでも、ちかごろあしのほうが漢学をうけつけんようになった」・・・

 「考えてもお見ィ」子規がいうのには、松山の漢学の先生はいくら学問がおありでもみな腐儒(ふじゅ=役に立たない儒者(学者))じゃ。日本に国会開設を要求してのさわぎあり、ロシアが清国をおかして世界の論議がわき、さらにイギリスがどう、フランスがどうというこの地球上が湧きたっちょるのに、松山の漢学の諸先生の目には見えざるごとく耳には聞かざるごとく、田園に悠々閑居して虫食い本をめくっておられる。

 「やっぱり、英語じゃ。英語をしっかり学ばんけりゃならん」と子規が机をたたいたとき、真之はあやうくふきだすところであった。松山中学では英語がよくできるのは真之で、子規は他学科にくらべれば格段におちた。・・・

 子規は要するに東京へ出たい、というのが本音であった。「出たい、出たい。どうにもならんほどあしは東京へ出たい」・・・この時期の子規はむろん自分を英雄のたまごだとおもっており、大まじめであった。』

 幕末から明治初年にかけて駐在した英国公使パークスが驚いたこの国の改革に、明治四年の廃藩置県がある。革命そのものに思える変革が、一発の砲弾ももちいずして完了したことを彼は奇跡とした。それから十年そこそこの歳月で、「なにをするにも東京だ」という気分が、日本列島の津々浦々の若い者の胸をあわだたせていた。日本人の意識転換の能力のたくましさ、明治新政府への信用の高さ(西南戦争で薩摩軍を潰した)を示している。 

 子規の東京へのあこがれも、こういう時勢の気分に息づいていた。「東京の大学予備門にゆきたいんじゃ」と子規は真之にいった。子規には東京に、松山でも秀才の誉れ高く、すでに大学を出て外務省に入っていた叔父(加藤恒忠=母親の弟)が居り、その伝手があった。加藤恒忠は真之の兄好古とは、少年のころからの無二の親友でもあった。

 明治十六年六月、正岡子規は中学を五年で中退し、家族や親類、友人たちにおくられて三津浜から出帆した。子規はかぞえて十六歳である。残された真之もこの年の秋、兄、好古の手引で東京に旅立つことになる。

本稿は、小説「坂の上の雲」第1巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。




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坂の上の雲 第3回

2025年04月07日 | ブログ
真之

 『伊予松山の町では、九つ下の弟真之が成人している。幼名を淳(じゅん)五郎といった。―――秋山の淳ほどわるいやつはいない。というのが、近所の評判であった。他のこどもよりずっと小柄で、色が黒く、目が小気味いいほどに光っている。走るときは弾丸のように早く、犬も及ばなかった。このため近所の大人は真之のいたずらをこらしめようとしても、たれもうまくつかまえた者はいない。・・・

 真之が十一歳のとき、明治十年の夏、暑中休暇で好古は帰ってきたが前ぶれはしていない。・・・

 兄が見ちがえるほどの大人になって帰省したことが、十一歳の真之にはちょっとはずかしくもあり、好古の顔をみたとたん、家を裏口からとびだして溝川へ川えびを獲りに行ってしまった。

 母親が、それを追った。「えび」と一声叫んで駆けだそうとするそのえりがみを母親がつかんだ。「逃がさんぞな。兄(あに)さんにあいさつお申し。あの兄さんは兄さんであるだけでなしにお前にとっちゃ命の恩人ぞな」

 (それがいやなんじゃ)と、真之はおもった。真之がうまれたとき家計が貧窮をきわめ(いまもそうだが)父の久敏が、この赤ん坊は寺ィでもやらにゃ育てられんと、といったのを、十歳になった好古が諫めた話(前稿)を真之は両親からさんざんきかされてきた。むろん真之も、(信兄(あに)さんのためなら命もいらん)と子供心におもってきたが、そういう自分にとって重すぎる関係の兄だけに顔を見合わせることがむしょうにはずかしいのである。

 とうとう母親にしょっぴかれるようにして好古の前に出され、あいさつをさせられた。

 「いつ、少尉になるんじゃ」と、父の久敏がきいていた。・・・

 「二年経ってあしが少尉になると、淳は小学校を出る。金を送るけん、淳を中学に入れてやってくだされ」好古は、「父さんこれは約束ぞな」と真顔でいった。真之を助けてやってくれといった十歳のときの言葉を、好古は大まじめにまもろうとしていた。』

 明治十二年、真之も子規も、勝山小学校を卒業して松山中学校に入った。新制松山中学の二期生となる。今の愛媛県立松山東高校の前身である。

 子規が真之を自宅に招いたのは、中学三年の夏休み前とある。「秋山、あしの家にあそびに来んかな」と子規がいい、「なんぞ、目をむくようなことがあるか」と真之は返しながら結局同行した。子規の正岡屋敷は、市内を流れる中ノ川と呼ばれる灌漑用の小川(石手川のえだ川)に南側の生け垣を映し、東側に土塀がつづき、表門がある。屋敷のひろさは百八十坪。正岡の家は御馬廻役であり、低い身分ではなかった。

 「これがあしの書斎じゃ」と子規が言ったが、真之のような子沢山のお徒士の家では信じられない。真之には御殿のように見えた。

 この書斎三畳は、母親の八重が建て増したもので、のちに子規堂として保存された。

本稿は、小説「坂の上の雲」第1巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。




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坂の上の雲 第2回

2025年04月04日 | ブログ
春や昔

 『この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。そのうちのひとりは、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規である。子規は明治二十八年、この故郷の町に帰り、「春や昔十五万石の城下かな」という句をつくった。・・・

 「信さん」といわれた秋山信三郎好古は、この町のお徒士(かち)の子にうまれた。・・・

 信さんが十歳になった年の春、藩も城も秋山家もひっくりかえってしまうという事態がおこった。明治維新である。「土佐の兵隊が町にくる」ということで、藩も藩士も町人もおびえきった。・・・

 「朝廷に降伏せよ。十五万両の償金を朝廷にさしだせ」・・・

 この支払のために、藩財政は底をつき、藩士の生活は困窮をきわめた。

 十石取りのお徒士の家である秋山家などはとりわけ悲惨であった。すでに四人の子*註)がある。この養育だけでも大変であるのに、この「土州進駐」の明治元年(慶応四年)三月にまた男児が生まれた。

 「いっそ、おろしてしまうか」・・・が、武士の家庭ではそういう習慣がなく、さすがに実行しかねた。結局は生まれたが、その始末として、「いっそ寺へやってしまおう」ということになった。

 それを、十歳になる信さんがきいていて、「あのな、そら、いけんぞな」と両親の前にやってきた。・・・「あのな、お父さん。赤ン坊をお寺へやってはいやぞな。おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどお金をこしらえてあげるぞな」

 ウチというのは上方では女児が自分をいうときに使うのだが、松山へいくと武家の子でもウチであるらしい。「お豆腐ほどのお金」というたとえも、いかにも悠長な松山らしい。藩札を積みかさねて豆腐ほどのあつさにしたいと、松山のおとなどもはいう。それを信さんは耳にいれていたらしい。・・・』

 好古はその後、大阪に師範学校という無料(ただ)の学校が出来たと知り、大阪に発つ。明治八年の正月である。合格できなければ、国に帰る運賃もなく、当時の大阪に職はなく、食ってもゆけず、はじめての大阪で飢えて死ぬしかなかった。

 当時、新政府のやった仕事のなかで、もっとも力を入れたのは「教育」だった。しかし、学校を作っても教師が不足であった。もともと松山藩は教育に熱心で、「明教館」という藩校があり、好古も八歳からそこで学んでいた。好古は大阪での本教員への登用試験に「首席」で合格している。 

本稿は、小説「坂の上の雲」第1巻を参考にし、『 』内はそこからの直接の引用です。
*註) 秋山両親夫婦には五男一女があり、好古は3男、真之は5男だった。らしい。



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坂の上の雲 第1回

2025年04月01日 | ブログ
故郷の英雄

 「坂の上の雲」は勿論、司馬遼太郎(1923-1996)の長編小説である。2009年秋にNHKがテレビドラマ化し、その再放送がNHKで昨年秋に開始され、先月完結した。2009年の放送も今回の再放送もむさぼるように観た。

 『まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。』これがこの長い長い小説の巻頭にある。『のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。』こちらは初刊の「あとがき」にある。いずれもドラマの幕開けに使われた一節である。

 司馬先生のあとがきは『子規について、ふるくから関心があった。ある年の夏、かれがうまれた伊予松山のかつての士族町をあるいていたとき、子規と秋山真之(さねゆき)が小学校から大学予備門まで同じコースを歩いた仲間であったことに気づき、ただ子規好きのあまりしらべてみる気になった。小説にかくつもりはなかった。調べるにつれて妙な気持ちになった。このふるい城下町に生まれた秋山真之が、日露戦争のおこるにあたって勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊をほろぼすにいたる作戦をたて、それを実施した男であり、その兄の好古(よしふる)は、ただ生活費と授業料が一文もいらないというだけの理由で軍人の学校に入り、フランスから騎兵戦術を導入し、日本の騎兵をつくりあげ、とうてい勝ち目はないといわれたコサック騎兵団とたたかい、かろうじて壊滅をまぬがれ、勝利の線上で戦いをもちこたえた。』と続く。

 この小説の主人公がなぜ「故郷の英雄」であるか。私の母(大正八年生)は、この古い城下町松山に、下級士族(秋山家と同等の身分と推測)の娘として生まれた。父(明治45年生)は西に松前(まさき)町を挟む、現在の伊予市に農家の次男坊として生まれた。父は先の大戦中は広島県軍港呉の工廠で働いており、戦後は一時伊予の実家に身を寄せた後、松前町にあった東洋レーヨン(現、東レ)愛媛工場に採用され、松前町に住んで私が生まれた。

 中学一年生の担任が、国語と社会の先生であり、子規の事、子規堂の存在を教えてくれた。自宅から10km程度か、話を聞いて直ぐに、自転車を踏んで子規堂に行った思い出がある。しかし秋山兄弟のことは全く知らなかった。司馬先生の小説と出会って初めて知った。千葉県に転勤で住む前年(昭和57年)の暮れに、岩国市の古本屋で全6巻を買っている。「全6冊2000円」との本屋のメモが6巻目に残っている。因みに第一巻の第一刷は昭和44年4月で、第6巻昭和47年9月初版。新本の定価はいずれも550円。

 秋山兄弟の像は、市内の梅津寺海水浴場の公園にある。秋山兄弟の生誕地は生家が原型に近い形で復元され、好古の騎馬像が建っている。そうだ。また「小説」としての顕彰は、市内一等地(松山城麓)に「坂の上ミュージアム」として建築家安藤忠雄氏の手になる記念館が2007年4月開館している。

 子規堂も別途、道後温泉公園に「子規記念博物館」として建立されており、故郷の英雄として相応しい扱いを受けている。松山は、漱石が旧制松山中学(現、松山東高等学校)の教師として赴任しており、小説「坊ちゃん」を残した。子規とは東京大学予備門時代からの友人であった。




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