中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

池田勇人その生と死 13

2024年11月07日 | ブログ
苦難の時代

 『池田勇人は、五高から京大の法科へ進んでいる。これは一高、東大というエリート・コースからはずれていた。

 秀才の雲集する大蔵省に実力ではいったのはうれしかっただろう。ところが池田は、望月圭介の世話で内務省にも就職がきまってしまう。こまった池田は望月のところに相談に行った。

 望月はちょうど朝めしを食っていた。話を聞き、ひょいと箸をとりあげて、こっちへ倒れれば大蔵省、あっちへ倒れれば内務省と言った。箸は大蔵省のほうにころがった。望月は「そうか、それじゃお前、大蔵省にはいれ。国のお父さんも喜ぶだろうから」と言った。

 池田の父は酒造りと郵便局長をやっており、地方の名家だった。母はあねごはだの世話好きで、夫婦二人して、望月の選挙の応援をやっていた。吉名村は望月の選挙区である。結局、後年、池田は同じ選挙区で代議士に立つという因縁になる。

 池田は大蔵省にはいったことははいったが、なかなか出世しない。そのうえ宇都宮の税務署長時代に例の有名な天苞瘡にかかる。五年間の闘病生活は、池田自身が語りたがらなかったほど、悲惨なものであったらしい。身体じゅうからウミがでて、かゆくてかゆくて、部屋中をころげまわる苦しみだ。何度か自殺を考える。奥さんは看病疲れのはてに死ぬ。ようやく回復して、病気のなかで知り合った新しい夫人と結婚するが、この結婚には、家から反対があり、いわば勘当のようなかたちになる。

 病み上がりの身でなんとか独立の生計をたてなければならない。とても大蔵省は復帰させてくれないだろうと思い、ツテをたどって日立製作所に就職がきまった。しかし、大蔵省に帰りたいという気持ちはなくならない。税務署の小使いでもいいと思いつめ、上京したある日、デパートの公衆電話から、当時の谷口秘書課長に電話をかけた。

「なんだ、お前生きていたのか。いまなにしているんだ。早く帰ってこいよ」
 池田は天にも昇る気持ちで大蔵省に復帰した。池田は谷口の恩を感じた。後年谷口の死後、池田は大蔵省の後輩とともに谷口会をつくり、その命日には毎月会合して故人をしのんだ。

 同期生から五年もおくれて、大阪の玉造税務署長に出される。胸を病んでやっと回復したばかりの前尾繁三郎が和歌山の税務署長になってきていた。前尾は一高、東大で学歴はちがうが、境遇がまったく同じところから親しくなり、やがて刎頸(ふんけい)の交わり結んだ。

 池田は熊本に転任して、直税部長になり、仕事一途にうちこんで鬼直税部長と言われる。ついで、異例の抜擢で、大蔵省主税局の事務官になった。しかし、派閥のなかにのっていけない池田は、本省でもあいかわらず冷やめしを食わせられる。当時のことを述懐して池田が言ったことがある。「重要会議がおこなわれる。ぜんぜん俺を呼んでくれないんだ。俺ひとりだけポツネンととりのこされれる。こんちくしょうと思った」

 役所でどんぶりめしの夜食をたべながら、税務の下積み官吏と一緒に仕事をする。親しくなる。もちろん鬼のように仕事を言いつけるけれども、連中の苦しみはわかるようになるし、下僚のやっている仕事をすっかり把握することができた。』

本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です




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池田勇人その生と死 12

2024年11月04日 | ブログ
続、反岸闘争

 『バルザック言っているように、ひとつの政府の衰退のはじまる時期ぐらい、予測のむずかしいものはない。そのむずかしい時期に、岸内閣はさしかかっていたのであった。

 いまのところは、いぜんとして、岸内閣は、かつての吉田内閣がそうであったと同じように、未来永劫につづく岩のように見えていた。しかし、国会の会期がだんだんとつまってくるにつれて、事態はしだいに危機の様相を見せてくる。

 法案が上程される。社会党がこれを流産させようとする。流産させまいと、会期を延長しようとする。延長には衆議院本会議の議決が必要である。与党の議長はこれを強行しようとする。そこで議長のうばいあいになる。社会党は議長を議長席につかせない。・・・混乱した事態が続く。そうなるとまた、かならずと言っていいほど議長のあっせん案がでてくる。

 こういうコースは、このあともしばしばくり返されるのだが、この十月八日にはじまった警軄法問題を契機とする変則国会は、そのパターンをつくった最初のケースであった。

 社会党は院外へ呼びかけ、総評も全労も中立労連も、いっせいに実力行使のデモをかけ、そのデモが国会をとりまいた。院内では社会党議員の登院拒否がおこなわれた。

 政局がデッドロックに乗りあげると、こんどは与党のなかの暗礁が頭を出してくる。執行部はなにをしているんだ、こういう事態をまねいた責任をとれ、という声がつよくなって、党内にゴタゴタがおきてくる。・・・

 日本の国会は、寛容もなければ忍耐もない荒廃した精神状態におちいって、荒れに荒れていた。・・・

 結局、もめにもめたすえ、十一月二十二日、両党の党首会談がおこなわれ、警軄法審議未了、衆議院は自然休会、参議院は補正予算を通し、正副議長は党籍を離脱するという、与党にとってはさんざんのていたらくで終結することとなる。・・・

 (池田派は)この事態をまねいた責任の所在を明確にし、党の姿勢をただそう。そのためには執行部の責任を追及し、人事を一新することを岸総理に進言する。もし総理がきかない場合には、反主流三派の閣僚、池田(国務相)、三木(経済企画庁)、灘尾(文相、石井派)が辞任しようということになった。

 結局、三人ががん首そろえて岸のところへ行き、三木に記者会見をしてもらう、という手はずにした。・・・

 池田はなぜこのようなたたかいをしたのだろうか。一口に言って、岸のやり方に不満だったのだ。警軄法を唐突にだして、一挙に強行可決しようとし、政局を混乱にみちびいた責任を追及したかったのである。「民主主義はそんなもんじゃない。日本の国民はあなた方が心配するほどバカじゃない。あなたの考え方と私の考え方はちょっとちがうんじゃないですか」ということを言いたかったのである。岸と池田では、「民主主義」の理解がはっきり違うのだ。思想が違うのだ。それは戦前派と戦後派の断層でもあった。・・・

 結局、岸総理は翌年一月当初に内閣の改造をおこない、さらに党役員のうち、総務会長を河野から池田派の益谷にかえた。われわれの主張は通ったのだ。』

本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です




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池田勇人その生と死 11

2024年11月01日 | ブログ
反岸闘争

 『三、四日たった。私は、池田から呼ばれた。秘書官をやれというのである。・・・私は、「ハイ」と答えた。たいした感激はなかった。あとで聞くところによると、まだ右も左もよくわからないのに、という反対も周囲であったらしい。「無任所大臣だから、あれでもつとまる」と池田は言ったという。

 それから、毎日、池田の車に同乗して、官邸に出かけるという秘書官生活がはじまった。居室は首相官邸の中二階、副総理のいた部屋だった。・・・

 私はもっぱら記者会見のあっせん役に終始した。池田は、当時、岸とかならずしもよくなかったし、仕事のほうもたいしたことはなかったのだろう。新聞記者が伝書鳩とあだ名したように、昼ごろになると家に帰り、めしを食ってまた官邸に行く。・・・

 池田は、伝書鳩と言われていたばかりでなく、赤電車とも言われた。というのは、閣議がはじまるとき、もっともおそく入るのが彼のならわしだったからである。ここにも、岸内閣における彼の姿勢がうかがえた。・・・

 大臣になってから、池田は週一回、朝めし会というものをはじめた。同志の代議士たちが朝の八時に、プリンス・ホテルに集まる。イラク問題がおこればイラク問題の権威者を呼ぶ。争議問題がおこれば労働問題の権威者を呼ぶ。こういう勉強会を通じて、同志的結合がジワジワと固まっていった。

 朝めし会には、だいたい、いつも二〇名ぐらい、多いときには三四~五名集まった。・・・

 朝めし会では、いろいろなことが討議された。とくにこのころ政治の重要問題になりつつあったのが、日米安保条約の改定だった。

 この年の九月十一日、ダレス・藤山会談がはじまったが、これは、もとはと言えば、現行安保条約には日本の自主性がないのではないかという、社会党の考え方に対する反論であった。日本も安保条約には修正権をもっているんだ、それにもとづいて修正すれば、社会党も納得するんじゃないか。こういう考え方で、アメリカと接触をはじめたのである。したがって、この安保改定問題が、近近、二年もたたぬうちに、日本全国の大問題になり、そのために岸内閣がたおれるなどということは誰しも予想しないことであった。

 こうした雰囲気のなかで、第三十国会が、その年の九月末に開かれた。十月八日、突如として、警察官職務執行法改正案が国会に上程された。朝めし会でも、当然そのことが話題となった。出席者たちも、ほとんどそのいきさつを知らなかった。私も、警察官の職務の執行範囲を拡大するこの法案はえらい反動立法だな、歴史を逆行させるものだ、と感じた。もっとも多少はヤジ馬的新聞記者根性も残っていて、おかしいなと思いながらも、ひとつこの法案をやらせたら面白い、岸内閣はだいぶガタガタするだろう、とも思った。

 はたせるかな、社会党は国会でこれを問題すると同時に、院外に大きく訴えた。とくに、当時、社会党の中枢にいた人びとは、戦前、治安維持法にいためつけられた経験の持主だけに、異常な関心をいだいたのである。・・しかもこれは安保改定の前段階をなすものだ。もしこれをくいとめなければ、ふたたび戦争になる。・・本気にこれを阻止しようとかかった。』

本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です。




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池田勇人その生と死 10

2024年10月28日 | ブログ
無任所大臣

 『宏池という名は、「高光の榭(うてな)に休息して宏池に臨む」という、後漢の碩学馬融の文句から、安岡正篤氏がとって命名したものだ。・・・

 昭和三十三年四月二十五日、私が池田邸に入ってからほぼ一か月ぐらいたったとき、岸首相は、国会を解散した。この解散は、いわゆる話し合い解散と呼ばれる。当時の、社会党の鈴木茂三郎委員長と自民党の岸信介総裁が、その一週間まえに話しあい、岸総裁は、民主主義のルールにしたがって、二大政党間でフェア・プレーでいくと言明した。池田は、宏池会に、前回の選挙の次点落選の候補者たちを結集して、選挙にそなえていた。当時は、岸派、佐藤派、河野派、大野派の主流四派というのがあり、自分たちの派の候補者を党の公認するため、池田の息のかかった連中を、なかなか公認しない。したがって、池田派の連中は、ほとんど非公認のまま立候補しなければならないという苦況にあった。池田は、その連中の当選のためにあらゆる努力をすると約束し、自派すべての候補者の応援に出かけることにしていた。

 私は、解散の一週間ほどまえに、池田から言われて、その全国遊説の日程をつくることになった。ところが弱ったことに、私は、まず、池田派の立候補者の名前を知らない。それがわかっても、池田がいったい、誰のところに応援に行くのかがわからない。・・・

 「俺がやるから、お前そこへすわれ、そこで俺が言うから時刻表を繰れ」と言う。なれないうえにどぎまぎしながらやるので、いっそうわからなくなる。冷汗をかきながら、それでも、どうにかつくりあげたが、これが非常な強行軍の日程で、昼夜兼行、夜汽車の連続となって、ほとんど休息する時間がなかった。のちに夫人から、あんな強行日程は組まないでほしいと言われたが、その応援のなかから五〇名の池田派が生まれ、池田勇人が政界に飛躍する基礎ができたのである。 

 池田派は五〇名当選という大勝利だった。地元の人びとのお祝いをうけて、東京へ帰る。こんどはどういうポストかということが最大の話題だ。池田も、胸中いろいろなことを考えていたにちがいない。宮沢(当時参議院議員)をはじめみんなが、今度は幹事長か総務会長だ、などと言うのを微笑をうかべながら黙って聞いていた。

 ところが、帰京して、いよいよ三役改選となったが、幹事長も総務会長も素通りである。組閣となっても、なかなか声がかかってこない。池田は新聞記者会見で、「気をそろえてやらなければいかん」と、暗に挙党体制をほのめかしたが、事態はそうは運んでいないらしい。結局、主流四派中心の組閣がすすみ、池田のところへは最後になって声がかかってくる。あとでの話によると、防衛庁長官の椅子を提示され、それをことわったので、無任所大臣ということでけりがついた。

 五〇名という多数をとりながら、なおかつ無任所大臣という軽い役であったから、池田派のメンメンは大分不服そうだった。池田は奥の部屋で同志を集めて、状況を説明していた。私はまだそのなかにはいる勇気がなく、別の部屋で、家の子郎党たちの話を聞いていた。』

本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの
引用です。




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池田勇人その生と死 9

2024年10月25日 | ブログ
新米秘書

 『昭和三十三年四月、福岡の新聞社に話をつけ、家を東京に移し、私は池田邸に通いはじめた。当時の池田邸には、大御所の登坂はじめ、小島、木原、木村という四人の秘書、それに二、、三人の書生がいて、すっかり役割がきまっていた。私には、とくにこれといってやる仕事はない。池田にしても、私はプラス・アルファーであるというより、飛び込んできたものを抱きかかえたというかたちだから、何をやらせるかはきまっていない。

 当時、内閣にも党にも役職のない池田だったが、面会者は毎朝十人ほどもあり、池田はそれを応接間と茶の間に待たせておいて、部屋のあいだを往復しながら、かたづけていく。私は、池田が茶の間に行くと応接間に、応接間にくると茶の間に、逃げるように移動した。・・面会がすみ、池田が出ていくと、池田に同行する秘書、用向きで外出するものなどで、池田邸はガランとしてしまう。私ひとり仕事がなく、ただポツネンと茶の間にすわっていなければならない。職場の宏池会に行っても、なにもすることはない。

 新聞記者当時、四万五〇〇〇円の給料だったので、池田邸に入るときには、五万円にしてもらったのだが、金をもらって仕事がないというのは、なんともやりきれない。・・・

 たしか、池田邸に通いだしてから一日か二日したときのことだと思うが、当時代議士になっていた大平がやってきて、顔をあわせたことがある。「伊藤君、池田のところへきたそうだね」「そうなんですよ」「つらいよ」

 大平は、池田が大蔵大臣時代に秘書をしていて、池田という人の人間性をよく知っており、新聞記者として外側から見た池田と、内側から見た池田とはちがう面があるということを教えてくれたのだろう。・・・

 そうしているうちに、私があまりに手持ちぶさたにしているのを見てか、池田は私に、新聞の切り抜きをすることと、記事の要旨をまとめることを命じた。はじめて仕事らしい仕事にありついたので、私はさっそく、その日からとりかかった。もとは新聞記者だから、たいしたことがないと思ったのだが、六、七種の新聞に全部目をとおして、重要なものを選びだし、その要旨を書くのは、なみたいていのことではない。・・・

 ひとつだけ仕事はできたが、それは朝のうちに終わってしまう。池田は面会をかたづけると、外へ出ていく。話をする機会はほとんどないし、それ以上に、こちらから話すべきことがない。・・・当時、池田は、夜は二つ三つの宴会に顔を出し、九時か十時ごろ帰ってくる。たまに、帰宅したしたとき私がいないと、「俺が寝るまえに秘書が帰ったりしちゃいかんじゃないか」などと、それも私に言うのではなくて、夫人に言う。

 私は池田邸に、宏池会の職員という資格で入った。宏池会というのは、もっともわかりやすく言えば、池田を総理大臣にしようという組織だった。それまでは金の面でいろいろと苦労があり、池田も金集めをしなければならなかったが、会ができてからは、財界人の有志から恒久的に一定の政治献金が出るようになる。宏池会は溜池にあるアメリカ大使館前の短波放送ビルに本拠をかまえた。私が入ったときは、宏池会ができてから半年ほどたったころだった。』

本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です




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池田勇人その生と死 8

2024年10月22日 | ブログ
池田の下へ

 昭和二十九年の元日づけで、私は東京支社の政治部デスクとなっていた。その年の暮れ、鳩山派が吉田内閣に挑戦し、吉田は解散か総辞職かの岐路にたった。吉田は明らかに解散を考え、幹事長であった池田もその決心であった。しかし、自分の後継者と選んでいた緒方竹虎副総理の離反にあって、総辞職に追いやられた。

 『・・・鳩山のもとで解散があり、選挙があり、保守合同となって自由民主党が結成された。合同に参加することは、鳩山を擁する三木武吉や河野一郎、岸信介らの軍門に下ることで、吉田を中心とする人びとはずいぶん迷った。スジを通せば無所属に残ることが正しい。時代の要請に従えば参加しなければならぬ。池田は、自由民主党のなかで再起をはかろう、それがより大きくスジを通すことだと考え、吉田の了解を得て合同に参加した。

 佐藤は吉田とともに無所属にとどまる。この二人が自由民主党に入党したのは、何年かあとであった。実兄の岸が保守合同の立役者であるから、佐藤はいつでも入党できるのだろうと私は思っていた。いずれにせよ、池田と佐藤は保守政界にあって、鳴かず飛ばずの状態であった。

 昭和三十年の暮、社内の人事異動に私の名があげられているという噂を聞き、妙に気になった。・・・三月になって異動の噂はいよいよ濃くなった。・・・

 四月に異動が発令され、私は整理部勤務として本社に赴任することになる。池田は私邸で送別会をしてくれたうえ、「福岡に行って、いやになったら、いつでも帰ってこい」と言って、赴任のさいは、東京駅までわざわざ見送ってくれた。・・・

 実際の政局とは完全に没交渉となった。はれやかな河野農相の訪ソや鳩(ハト)マンダーと言われた小選挙区法案のなりゆきを、私はただ活字のうえで追っかけたにすぎない。昭和三十一年の鳩山、石橋の政権交代も遠雷を聞く思いであったし、池田がふたたび大蔵大臣になったのも遠く福岡の地からながめていた。石橋内閣は三カ月つづいた。解散を目前にひかえて病気による退陣となり、かわって岸内閣が登場した。・・・

 二年たった。西日本新聞がテレビ会社をつくり、約二〇〇人程度の人事異動があった。私はそれにもはいらず、いぜん整理部に残る。・・・

 早春の風はまだ冷たかった。・・・母の手紙に誘われて私は上京することにした。一直線に池田のもとへと急いだ。

 三月二十六日、私は信濃町の私邸で池田と会った。「支社転勤というかたちで東京へ帰れると思い、いままでやってきたんですが、かえれそうにもありません。新聞社を辞めて、東京に出たいんです」「どんな仕事がいいんだ」「あなたのそばにおいてもらいたいんです」
「ちょっと待て・・・・・」池田は風呂にはいり、出てくるなり、汗をふきふき、言った。「君は新聞社を辞めてくるんだネ」
「そうです」
「そうか・・・・伊藤君、死ぬまで俺と一緒に行くかい。その気持ちならきてくれ」「いつからにしますか」「準備ができしだい、いつからでもいいよ。宏池会という会がある。そこの職員ということにしよう」

 これで私の運命はきまった。私は四月から池田邸にはいることになった。』

本稿『 』内は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です。




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池田勇人その生と死 7

2024年10月19日 | ブログ
権力闘争

 『私が池田邸にせっせと通いつめた時期は、保守・革新の両党が、講話独立を契機にいずれも分裂し、またふたたび合同した激動期で、日本の戦後政治史における疾風怒濤の時代であった。吉田首相はこの三年間に二度解散し、三度目の解散を決行しようとしてならず、ついに総辞職するのである。

 保守党だけについて言えば、昭和二十六年五月の追放解除以来、鳩山一郎、三木武吉、河野一郎など戦前派の政治家がぞくぞく政界に復帰して、戦後派政治家とのあいだに摩擦をおこした。吉田か鳩山かの争いが中心問題で自由党の分解作用がおこり、最後に保守合同というかたちでまとまった。政治が完全に、闘争の指導という色彩を濃厚にした時期でもある。

 池田は佐藤栄作とともに、吉田をまもる勢力の中心人物であった。私と池田との距離が近まるにつれ、池田から政略の可否を聞かれるようになる。私は池田邸に行くときはかならず新聞社の旗をとって車を別のところかくしていたのだが、「蛇の道はヘビ」で、記者仲間はうすうす感づいていた。三木武吉が、鳩山擁護運動のために、自由党のなかに民主化同盟という党中の党(派閥)をつくってからは、派閥活動ははげしくなった。抜き打ち解散(昭和二十七年八月二十八日)につづくバカヤロウー解散(昭和二十八年二月二十八日)のころになると、池田も同志的結束の必要を痛感したのだろう。わたくしにつぎのように言ったことがある。 

「自由党の代議士で言ってくる人があるが、あぶなくって、うっかり乗れない。君たちの目で見てくれるのがいちばんいい。料理屋を使ってよいから、ひとつ政治家と会って、いい人物を推薦してくれ」

 カール・シュミットの「政治とは敵と味方を分類することだ」という考え方がぴったりあてはまる情勢となった。この情勢下で、闘争の指導性をみごとに発揮したのが三木武吉である。彼はまず同志を結集して、四〇名近い集団をつくる。党内では反主流の孤立した存在だが、国会が与・野党対立という状況になると、力関係から、これがキャスティング・ヴォートをにぎってしまう。民主化同盟が欠席すると、与党である吉田の自由党は過半数を割ってしまうのだ。池田通産大臣の不信任案成立、吉田首相の懲罰動議可決は、いずれも三木の欠席戦術が背後にあった。

 予算案や法律案の成否はもちろん、案件の審議における答弁までが、失言すると、直接政情にむすびつく。だから、政局はつねにこの脅威のもとで緊張状態におかれる、与党内に動揺がおこり、三木との妥協を考えるものがあらわれる。彼はたくみな心理作戦で、吉田の側から大野をうばい、広川をはなし、緒方をひきつけて、吉田を孤立化した。きのうの敵はきょうの友となり、きょうの友はあすの敵となる。三木の戦略は河野一郎の実践力と結びついて、日ましに凄みを加えていった。・・・』

 昭和二十七年、二十八年、二十九年と吉田派は、その抗争を制したが、とうとう最後に負けてしまった。昭和二十九年の師走、吉田内閣は総辞職し、三日あとの十二月十日鳩山内閣が成立した。

本稿『 』内は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です。




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池田勇人その生と死 6

2024年10月16日 | ブログ
政治家と情報 

 『池田はしだいに大胆に政情を教えてくれるようになった。

 一か月ほどして、佐藤幹事長の任期が切れる。後任が問題となった。絶対過半数をにぎる与党の幹事長更迭は、官房長官の更迭より大きな意味がある。吉田ワンマンの肚は。つかめない。佐藤幹事長自身は渦中の人だ。後任は誰だ、佐藤は留任ではないか、というので、われわれ政党記者はひどく混乱させられたものだ。しかし、政治記者一年生の私は、池田蔵相の判断をたよりに、この問題を難なくのりきった。「佐藤幹事長の後任が増田甲子七で、広川弘弾は総務会長になるだろう」ということを最初に知らせてくれたのは池田であった。たいてい、党三役から閣僚の更迭を聞くのが常道なのに、党人事を閣僚に聞くのだから、話は逆である。池田が吉田政権の中枢にはいりはじめ、人事に関与していたのだ。私は改造人事のたびごとに、党三役への夜まわりがすんだあと、かならず池田の私邸に行って、その判断と反応を聞くのが例となっていった。

 政治家は情報を食って生きている。それがなければ彼の頭脳は回転のしようがない。私が党内の情勢を池田にぶっつける。池田はそれにたいして判断と見通しを言う。ときには吉田の肚のなかを述べる。私はその考えをもとにして、広川や佐藤や、林・益谷の長老に会う。重なりあった部分は実現可能なことと思う。また池田に連絡する。こうして私は池田からニュースを、池田は私から党内情勢をつかんでいった。

 十九世紀の国際政局のなかで、イギリスのディズレーリは、エジプトのファイサル王子と知己だったある新聞記者の報告をもとにして、スエズ運河を手中におさめることができた。エジプトは財政が困難となり、金が欲しいというのだ。フランスのド・レセップスが粒々辛苦して掘りあげた運河を、イギリスは買ってしまった。

 これほど大がかりではないしても、日常の政治活動のなかで、類似の現象はきわめて多いはずだ。現代では、この種の情報は、新聞という一般的な形式で政治家に供給されている。しかし、きわめて注目すべきことは、その新聞記者が意識するとしないとにかかわらず、彼の接触する政治家とのあいだに、あるいは質問というかたち、あるいは判断というかたちで、情報の交換をおこなっているということである。これが、直接あるいは間接に、その政治家の決心に影響をおよぼすことが多い。新聞記者は地下水のようなものだ。二人の政治家は、表面はなんら関係はなくとも、ある場合敵対関係にあるにしても、地下では情報を媒介としてつながっている。

 私は知らず知らず、そんな役割を演ずるようになった。昭和二十六年から二十九年にかけての三年間、私は政治家池田勇人とたえず接触し、たえず池田の側にたって政局を見つめていた。

 池田もまた、大胆に、私に本心を話してくれるようになった。なぜそうなったか、じつは私にもわからない。・・・ 私は政治現象が面白くてたまらなくなっていった。池田の言ったことは嘘ではなく、かならず、一、二週間後には事実となってあらわれるからである。それに、なにか私に目をかけてくれているということがわかるからでもある。』

本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です。




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池田勇人その生と死 5

2024年10月13日 | ブログ
池田の周辺

 『私は経済記者としてあまり敏捷なほうではなく、多少ボーッとしているといったほうがあたっていた。大蔵省に移ってから三月ぐらいして、ある友人の記者からこう言われた。

「君、宮沢(秘書官)の話を聞いたかい」「いや、いや、よく知ってはいるが、あまり聞かない」
「聞かなきゃダメだよ。あれが全部やっているんだ」

 池田蔵相は英語が得意ではなく、総司令部と折衝するときはかならず宮沢秘書官をつれていく。相手方の考えも池田の考えも、両方知っているのは秘書官の宮沢だというのである。たしかに、目から鼻へ抜けるような宮沢喜一の頭脳は、その語学力とともに、すばらしいものに思えた。

 大平正芳も秘書官だった。いつも居眠りをしているような顔で、ボサッと秘書官室の椅子に腰をかけていた。キビキビとうごく宮沢とは対照的である。なにをしているのかさっぱりわからないが、そのくせかならずなにか大きなことをやっている。ときどき秘書官室から姿を消してしまう。大平に聞くと、「待合い通いだ」と、とぼけていた。

 顔なじみの登坂秘書(のちの衆議院議員)にもよく会った。選挙区の世話を一手にひきうけていつも忙しそうにとびまわっていた。

 あとからこれに稲田耕作秘書官が加わった。みなそうとうなクセ者ぞろいで、内と外に任務がわかれ、そのときどきの問題点を整理して池田に報告し、池田もこの人びとを相談相手にしているらしい。いわば池田勇人の神経系統で、われわれ記者団にたいしては、じつは池田のバリケードでもあった。私などは、ぜんぜんこれに歯がたたず、記事をもらったことはほとんどない。私は遠まきに池田とその周辺をながめているにすぎなかった。池田は遠い存在であった。

 翌昭和二十六年の三月ごろ、私は政治部にかわって、与党である自由党担当の政党記者となった。講和が現実の政治的日程にのぼってきて、政党に権力が移行するだろうことを予感したからである。私の接近目標は佐藤栄作幹事長となった。

 ところが、佐藤幹事長に、なかなかくいこめない。・・・・

 このまま正面から幹事長にぶつかっても、答えが出ないのはわかりきっている。よし、側面攻撃を考えよう。私はいったんひきかえした。池田の側から調べるとするとどうするか。そうだ、登坂に会おう。登坂はいろんなことを教えてくれた。
「・・・じつは池田と佐藤は五高の同期生で、友達である。代議士に出たのも同じ時期だ。役人時代は、池田大蔵次官、佐藤運輸次官で、次官会議を牛耳っていた。二人とも吉田総理に可愛がられている。池田は佐藤のあずかる党の財政にも協力し、党運営についていろいろ相談をうけている」・・・佐藤幹事長攻略は、実は池田攻略である。

 それから池田邸に、連日、夜うち朝がけをかけ、二週間ほどたった頃、院内の廊下でバッタリ池田蔵相と会った。「おう、どうしたんだ。最近ぜんぜん顔をみせなんじゃないか」「大蔵省から党(平河クラブ)のほうへかわったんです」「そうか、ときには家に寄れよ」そんなやりとりがあって、私はやっと池田邸への出入りができるようになった。・・・』

本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です。




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池田勇人その生と死4

2024年10月10日 | ブログ
大蔵大臣

 『東京に帰ってから、私は当選した池田にいちど会ってみようと思って、信濃町の私邸にはじめて出かけた。「一度会ったら二度会え」という原則を実行したのである。家族づれでどこかへ出かけるところを、玄関先でばったり会った。
「よう、君か。選挙のときにきてくれたな。お前、おぼえているかい」池田は夫人をかえりみて言った。名は忘れたが顔はおぼえているというところだろう。「ときどき、遊びにきたまえ」このときも愛想がよかった。私は好感をもって別れた。

 二月になって、池田は一年生議員で第三次吉田内閣の大蔵大臣となった。私はそれを追うように一か月ほどたって大蔵省詰めの記者になる。さっそく池田蔵相にあいさつに行ったが、「よう、よう」といういちおうの受け答えで、吉名や、私邸の玄関先での雰囲気は薄かった。なにか昴然として他人をよせつけぬところがある。そうとう威張っているな、と感じた。ドッジとかいうデトロイト銀行の総裁が総司令部の懇情で来日し、インフレ解決に頑張っていたが、それとの折衝にあけくれている最中だった。

 池田が蔵相の金的を射とめたのには、いきさつがあった。国会での絶対過半数をにぎった吉田がいちばん心配したのは新内閣の大蔵大臣の人選で、吉田はこれを日清紡会長の宮島清次郎に相談した。宮島は向井忠晴をおしたが、追放中で起用できない。困った宮島は腹心の桜田武に相談し、桜田が池田をおしたのである。のちになって池田はこのことを私に教えてくれたが、当時は、もちろん、私はなにも知らなかった。池田蔵相は、日本の産業界の予望をになっていたのだ。池田の自信はそんなところにあったかもしれない。

 総司令部は、池田との折衝過程が日本側の新聞にもれることを極度にきらった。占領軍は絶対の権威だ。池田も新聞記者にたいしては警戒的にならざるをえない。これが記者団の気にくわない。いつのまにか、新聞記者と池田はおかしくなっていった。私が大蔵省詰めになったときは、ちょうどこんな雰囲気が醸成されつつあるころだった。・・・・

 そのうちクラブの中心人物が、なんとかして池田をたたこう、と言いはじめた。さんざん考えたあげく、「池田は単純だから、誘導尋問で怒らせたうえ、失言をひきずり出そう」という作戦になった。

 年があける、二月、三月は徴税期で、引き締め政策(当時はドッジ・ライン)をとっているときは、いつでも危機感が経済評論家の売りものになるころだ。「これだ。これ、これ」というので、三月一日(昭和二十五年)、国会の委員室をかりて大臣会見をおこない、その質問の矢を放った。案のじょう、「ヤミをやっている中小企業の二人や三人、倒産してもかまわない」という放言がとび出した。、それ書け、とばかり各社いっせいに砲列をしく。旬日にして、こんどは衆議院予算員会の質疑応答から、「金のない、貧乏人は米をたべずに麦をたべればよい」という池田式経済哲学があらわれた。池田自身が麦めしをたべていたので、つい本音が出てしまったのだろう。これは「貧乏人は麦を食え」という名文句に早がわりして、日本中にとび散った。・・・・』

本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です




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