中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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時事私観その20

2013年07月28日 | Weblog
破綻

 米国ミシガン州デトロイト市が財政破綻した。デトロイトといえばGMで有名な車の街であることは良く知られる。米国のビッグ3の凋落はわが国のトヨタ、日産、ホンダなどの北米における躍進によるものであろうが、今後似たような話として、わが国のパナソニックやシャープ、ソニーを凌駕する勢いの韓国サムスン電子やLGエレクトロニクスの関係に喩えられないようにしないといけない。その点自民党政権復活が危ういところで間に合った。

 うなぎが獲れなくなったという。わが国には土用の丑の日に、暑さに耐える体力維持にスタミナのつくうなぎを食べる習慣があった。元々高価だったうなぎがさらに高くなって庶民には手が届きにくくなったという。これは単にうなぎだけの問題ではなかろうと思う。すべての食用魚に漁獲量の低下が懸念される。地球温暖化の生物の生態系への影響、海洋汚染の進行による沿岸漁場の環境悪化、乱獲、捕鯨の禁止などによって水産資源が枯渇し始めていることは間違いないであろう。自分達がコントロールできる範疇ではすでになくなっているけれど、古来、魚を主要な蛋白源としてきたわが国も近年肉食にシフトしているとはいえ、鮨ネタなどに大きな影響が出ることは懸念される。

 うなぎの減少が魚全体の減少の予兆であるごとく、デトロイト市の破綻は、わが国の多くの都市にもその懸念があることを警告しているのではないか。炭鉱の街だった夕張市は閉山後の人口減少と観光投資などの失敗もあって破綻したと聞いているが、電機・電子、石油化学など国際競争力の低下による工場縮小や撤退が始まれば、それまでは企業からの税収で潤っていた街は途端に苦しくなる。事実ここ千葉県市原市も臨海部の石油化学コンビナートで潤っていたけれど、今年地方交付税受給団体に転落した*8)。「原発反対」などと多くの政党が公約に掲げ、市民は正義面してデモでもやっておれば気が済むかもしれないが、原発を抱える街も原発を停止されて雇用がなくなり、原発交付金が消滅すれば終わる。

 中小製造業の街だって、原発停止と円安でさらに高額となった電気代負担を強いられ、コスト増しに悩む。成長戦略の中で、ものづくりにこだわっているからわが国は遅れを取っているのだというご高説もあるが、「ビジネスモデルの開発や製品のデザイン、高級ブランドを創る知恵と市場管理の情報力」などソフトだけでは十分な雇用を確保できるとは思えず、1億2700万人を養うことはできない。

 同じように言われ続けたドイツはものづくりを止めず、3Dプリンターなどの発達もあって、米国、英国が急速にものづくりに回帰しているという。*9)

 ものづくりは規格大量生産型だけではない。わが国は現在でも他国では作れないような優れた製品を数多く作っている。確かに家電製品のようなモジュラー化が進みコモディティー化*10)した製品は競争力を失ってはきているけれど、これまで進めてきた効率の良い生産技術の開発だって立派なイノベーションだった。そしてそれはやっぱりものづくりの現場からでないと生まれない。

 ロボットも航空宇宙産業も自動車などからみれば市場規模がまだ小さいが、それらの技術は新興国が追随し難い。ものづくりを諦めることなく、企業はそれらインテグラル型*11)製品にシフトし、行政は常に経費節減に努め、いかなる時代であっても倒産や破綻を回避しなければならない。

 世の中に絶対安全はない。リスクをいかに最小化するかの努力でしかない。リスクを一切取らず発展する国はなく、経済が破綻すれば国民の生命財産も結局安全も担保されないことを知るべきである。





*8)千葉県内不交付金団体は成田市、浦安市および袖ヶ浦市の3市のみとなった。7月24日、日本経済新聞。
*9)日経ビジネス2013.2.25号「識者に聞く:ドイツ企業から強さの秘密を学ぶ」より
*10) モジュラー化の進行等によって、市場に流通している商品がメーカーごとの個性を失い、消費者にとってはどこのメーカーの品を購入しても大差ない状態になること。
*11)部品設計を相互調整することにより製品毎に最適設計して製品全体の性能を出す方式が、インテグラル型。組み合わせ(モジュラー)型は、部品間のインタフェースを標準化して、各部品を寄せ集めて多様な製品を作る方式。
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時事私観その19

2013年07月25日 | Weblog
参議院選挙

 結果は事前のマスコミ予測通り、自民・公明の連立与党が勝利した。特に民主党の凋落は著しいが、それでもまだ生き残った議員がいるだけ日本人の甘さが滲んでいる。しかし、「生活」はみごとに当選者なし。口は重宝で良いように言えるが、そのリーダーがすでに国民の信頼を完全に失っていた。

 今回の選挙結果を見ながら、二つの言葉が浮かんだ。一つは「天網恢恢疎にして漏らさず」(老子)、もう一つは「民は信なくんば立たず」(論語)。いろいろ問題のある政治家が、徐々に選挙で落選して消えてゆく。国民はある程度までは、見極めようと軽々には彼らを否定しないけれど、仏の顔も三度である。まだまだ生き残りはいるけれど、今後選挙のたびに消えてゆくことは間違いなかろうと思う。

 党を割って信義はわれわれにありと離党して新党を立ち上げても、結局出るも地獄残るも地獄だった。ある人は国を愛するという根本のところに心なく、ある者は私利私欲、自身の立身出世で政治を行っていたと知れた。外国人から献金を受け、他国に行って反日デモなど事実なら、国会議員どころか国家を裏切る犯罪者ではないのか。そのような人物の多い政党など今後消えて当然である。国民の信頼を取り戻すなどない。

 ダメ押しが、東京選挙区の候補者一本化に反して、元の党首だった人物がこともあろうに公認漏れ候補を公然と応援する。考え方によれば、一本化で外れた候補者への温情とも取れるが、残念ながらその応援者はすでに国民からの信を全く失っていた。それを認めていないのは本人だけだ。同じ「反原発」でも信じられない人の弁では却って支持はしない。その逃げた票が、「反原発」一本のタレント無所属候補に流れたとみる。

 維新やみんなの党も伸び悩んだ。両党が唱える公務員改革による行政の効率化などは大いに賛同できるけれど、如何せん少数政党で成させる技ではない。維新は都議会選挙前の橋下さんの慰安婦問題発言で各方面から顰蹙をかった余波があったと捉えられるが、民主党離党議員の隠れ蓑になったりしていることや原発でも反対にまわっていることは、保守としての一貫性が疑われ、却って支持を落としているように思う。その点ではみんなの党も同様である。みんなの党は単に自民党公認を得られない政治家志向の人物に庇を貸しているに過ぎなく見えていたが、最近の一部新聞報道によれば、今後の野党再編の流れの中で分裂の危機がある。

 一時は総理候補とまで言われた舛添さんもなぜ自民党から離れたのか知らないけれど、新党改革は消えた。みどりの風のような市民ネットワーク的な政党は、市民活動家出身という首相にまでなった方の正体を国民が知ってしまった今となっては、票にほとんどならないことに気づくべきだった。風と共に去りぬである。

 共産党が善戦したようだけれど、このように主張の明確な政党にはいつの世も一定の支持はある。確かに自民党の対極にあることは事実だろうけれど、「自民党の悪政」と毒ついても、これほど多くの人口を抱えながら住みよい国は、世界の中に少ないのだから説得力はない。皇室を否定し、自由経済を否定して国が成り立つわけはない。この国の文化を理解していない集団に政治を委ねるわけにはいかない。戦後瞬く間に経済大国に、世界一の長寿国に仕立てた先人の功績を否定することはできない。

 現代の日本にも若者の雇用などをはじめ問題は多い。しかし、それらも今のところ自民党でなければ解決できない。勿論自民党にも怪しげな方はいる。今回の選挙でも当選したけれど、二足のわらじの人物や党の方針に相容れない人も結構居そうだし、権力を手に入れたら私利私欲に走る方も未だに居そうだ。高級官僚と結びつき自分達の優雅な生活を描こうとする輩は退場すべきである。郵政民営化の際に離党してまで反対した人達が要職にあるが、改革の時計の針を逆回ししそうな勢力だ。友党に足を引かれたポピュリズム政治から脱却すべきも課題である。



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時事私観その18

2013年07月22日 | Weblog
振りかざす

 昔、自民党の有力代議士が、同じく同党の有力政治家が陰で自分の出自を理由に総理総裁の資格なしとケチを付けられたことに立腹して、仲間の面前で当該代議士をそのことをもって痛罵したという話を何かで読んだ。真偽のほどは知らない。マスコミを通じて知る両氏のイメージからして在り得そうな話ではある。

 最近女性の社会進出に関して議論が多い。まさか現代において「あの方は女性だからトップの資格がない」などと言う人は居ないと思うけれど、あれば論外で、逆に被害妄想で自分が女であるから出世の道が閉ざされているとか思っている人は居るかも知れない。自身の野心を遂げるために「女性」を武器に不当な扱いを主張する向きがあるように感じ、それを「振りかざす」と表現する。

 一方、いろんな所で女性枠があったりするが、民間組織がその発展の営業上そうすることは勝手だけれど、兎に角数値目標で代議士数、大臣数に始まり、企業の管理職や重役の椅子まで割り振る考え方はおかしな話だ。女性のセンスが企業戦略上必要だと思う企業はとっくに女性を登用している。女性割合の少ない政党が遅れているなどの論もナンセンスである。オリンピックに男女別があるから女性も金メダルが獲れる。但し、男性の新体操やシンクロは見たくもないので、ここの金メダルは女性枠。囲碁・将棋でも未だ同じ土俵で女性がトップになったことはない。近い将来あったとしてもごく少数に留まるであろう。しかしそれらのことは、体力と頭脳構造や趣向の男女差によるもので、絶対的な優劣を論じるものでは当然にない。女性には男性には出来ないこと、優れることも一杯ある。すべてのところで男女が競い合う必要などないと言いたいだけだ。

 職業には向き不向きがある。向き不向きは当然個人差が大きいが、やはり男女差もある。病院に入院した時に、男女を問わず患者にとって看護師さんは女性の方が良いに決まっている。旅館の女将も男では勤まらない。保育園の保母さんや幼稚園の教諭は女性が圧倒的に多いけれど、確かにそれらは女性向きの職業である。男女差による向き不向きは多くの職業にあるのではないか。かといって絶対的なものでないことは、看護婦を看護師と言い換えた如くである。向き不向きと言って、0対100の世界では当然にないし、単にイメージからくる思い込みもあるからも知れない。昔からの習慣的にそうなっていて、悪習の類だと考える人も居るかもしれないが、逆に長年に亘って落ち着くところに落ち着いているとも言える。

 例えば政治家は女性が比較的少ないが、女性の中にも政治家として優れた人は当然に居る。ただ、その割合が男性のそれより遥かに少ないのは、何も社会的な制約のためだけではないと思われる。職業として向き不向きの問題だと思う。一般に感情量が論理性を覆い尽くす人は、国家の命運を左右するための冷徹な決断が必要な職業には向かない。

 一般企業の経営者として活躍する女性も多いことだけれど、管理職や重役の割合を男女同程度にしなくては、これからの世の中やっていけないという論理には、女性の弱い者を装った「振りかざし」が透けて見える。

 統計の世界では確率を重視する。男女の数はほとんど同じだけれど、それでは女性の中で大企業などでの総合職のキャリアとして活躍したいと思う人がどの程度数あり、その能力を兼ね備えた人が幾人いるのか。その中で実際に企業の幹部がどれほど居るかの割合で議論する必要がある。ここで能力とは、ペーパーテストで判定し得る知識量だけでは当然にない。

 女性が溌剌と活躍できる社会は確かに優れた社会であり、そのための環境整備は今後とも行政の責務だと思う。しかし、それは自身の適性の上に成り立つ話で、一部の声高な女性に引きずられて、多くの女性が心ならずも男性と同じような人生を送る必要はない。


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時事私観その17

2013年07月19日 | Weblog
漁業権

 先日たまたま昼時のテレビを見ていて知ったのだけれど、最近東京都と神奈川県境を流れる多摩川の水質が大いに改善し、河口付近の干潟で多量にシジミが獲れるようになったという。シジミ獲りは付近の人々の楽しみともなっているらしい。

 ところが地元漁業団体がここに漁業権を設定し東京都に申請、9月には認可される予定という。多摩川の水質改善は行政はじめ流域の不特定多数の人々の努力があってのことだけれど、河口干潟付近に限れば地元の人々がボランティアの清掃作業を長年続けて来た成果でもあるらしい。ゴミの中には地元漁師が放置したと思われる魚網などの漁具も多いと言う。それにも関わらず漁業者が新たな果実を独占しようという。東京都への問い合わせに都の職員は、「漁業権が設定されても地元の一般の方々にも干潟は開放し、シジミは獲ってもいいことにしています。」のように電話の声で伝えていたけれど、無期限開放との保証はない。

 また地元の人々の最大の懸念は、近い将来この付近には多摩川を跨ぐ橋が掛る計画があり、その際にまた漁業権を盾に漁業補償として税金が使われるのではないかということ。昭和37年に東京都内湾全面漁業権については330億円の巨費を投じて埋め立てなどの工事に備えたらしい。漁業者個人宛当時のお金で800万円ずつがばらまかれたという(額はテレビ報道と多少異なるかも知れない)。当時の高校卒の初任給は1万数千円。従って当時の800万円は、現在価値では1億円ほどの金額になる。

 千葉県の市原市や袖ケ浦市でも過去に同様のことはあり、袖ヶ浦市のノリの養殖業者は多額の補償金を手に入れ、ある人は土地を購入し子孫に残し、ある人は呑んで叩いたなど泣き笑いがあったことを実際に聞いたけれど、地元で漁が出来なくなっても、新たな産業が地元に起こり雇用が生まれるため、補償金で食い繋ぐ必要などないのが通例だとしても、確かに長年の営みを停止させられる場合は対価としての補償は当然に必要である。

 漁業補償について都の職員は、漁業補償と漁業権は関係なく、そこで漁をして生活している人がいれば、必要な補償はされる。というように答えていたけれど、いずれもまやかしの詭弁に聞こえた。すでに裏取引で漁業権は既成事実化しているようだ。何で新たに生まれた自然界の幸を一部の人に特権的に付与するのか。それが分からない。

 確かに国家にとって食料自給は必要な政策であり、生命産業と言われる農業漁業は保護政策の対象ではあろうが、そのことをいいことに既得権を振り回し、ある時は地元政治家も使って過剰な権利を主張する様は相当に格好悪いだけだ。それを易々認可する東京都はどうなっているのか。マスコミもプロ野球の飛ぶボールに大騒ぎする暇があれば、このような問題をもっと徹底的に白日の下に晒して追及すべきだ。

 話は逸れるが、先日も埼玉県の県民共済だったか理事や理事長の高額の退職金が問題視され、埼玉県は是正を勧告したような新聞報道があったけれど、若者の非正規雇用で吸い上げた利益が回りまわって一部の上層部の人間の私腹を肥やす。外資系などの会社でも取締役などの退職金は公表されていないが、米国ナイズされた一部の人だけが不当に高い報酬を得る社会システムは、如何に自由経済社会とはいえ間違っている。

 漁業や農業団体しかりである。徒党を組んで圧力団体化し、行政に不当に関与し自分達の利益のみ追求することは邪道である。本業を真っ当に貫いてそのことで富を築いて貰いたいものだ。



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時事私観その16

2013年07月16日 | Weblog
日本は孤立するか

 安倍政権の外交・安全保障のスタンスが気に入らない韓国や中国が、何かとわが国にケチを付け、経済界の交流にさえわが国企業を疎遠にする動きがあるようで、経済界からも懸念の声が上がっている。

 評論家や経済誌の一部にも歴史認識問題などで、オバマ大統領からまで不信を抱かれているような発信があり、わが国の外交・経済での世界からの孤立を危ぶむ声があるが、参院選を控えこれ以上自民党を勝たせたくない勢力の陰謀とも思える。元々韓国や中国は常にわが国はじめ、世界各国の反日分子を動員して日本を排斥する活動を展開していることで、友好国としての信義を疑うところだ。韓国など、東京オリンピック招致活動にさえ妨害する動きがあり、もうこれはまともに付き合える国でないことがはっきりしたに過ぎない。

 米国については、昔から民主党はその支持母体のビジネス上の関係から中国寄りであり、オバマさんも民主党だからその流れにある。とは言って米国の民主党はわが国の同名の党とは異なり、一応筋は通っているだろうから、中国に対してダメなものはダメで、第一中国が進める太平洋への海洋進出を容認するわけはない。ただ、何となく韓国が強調する従軍慰安婦問題のような件に関しては、オバマさんは耳を傾けるところがあるかもしれない。其処ら辺りで外野から安倍さんへの不信のような批判も出るのだろうけれど、法律や契約、条約を重んじる国際間のルールからして、事実に基づく判断が一流の政治家の証で、アメリカ大統領が一流の政治家でないわけはない。という三段論法を持って、オバマ大統領が同盟国であるわが国の総理大臣に対して不信感を募らせていることはないと信じる。

 経済界の心配はいつも当らない。賭けごとの当事者は冷静な判断が難しいように、企業経営者などは、自分の損か得かの判断で物事を見ているから、事業的にはうまくやる人でも政治の情勢判断まではうまくない。小泉さん(元首相)の靖国参拝にも結構苦言を呈していたけれど、実はそのことで日中の経済関係が冷えたことはなかった。毅然とした小泉さんには却って中国人からも人気があったと聞く。

 今中国は本気で海洋進出を企てていると思える。尖閣について中国は、まずは日中国交正常化交渉の頃から味噌を付け、何となく棚上げ的に仕組んだ趣がある。僅かな取りかかりにすがって国際的に紛争地であることを認知させようと必死である。隙あらば力ででも取りにくる勢いは事実であろう。

 其処ら辺りも絡めて、経済面でも日本企業を冷遇するそぶりで、はっきり言えば関係する経営者達を取り込み、領土問題などで日本に譲歩を迫る戦略である。ここら辺り中韓の狙いや利害が一致する。

 このような他国の思惑に乗る発言を行う人が日本にはなぜ多いのか。言論は勿論自由であるが、一定の社会的地位にある者には国家を背負う責任もある。所謂国益に照らした言動が必要であるが、それが出来ない政財界、評論家が多いのはこの国のひとつの衰退を表すものだ。要は大局的な物事の捉え方が出来ていない人が多いのだ。

 新聞報道によれば、このたびの防衛白書は、日本領海への侵入を繰り返す中国を厳しく批判している。それでいいのだ。いじめられっ子からわが国は脱皮すべきだ。国際法上戦後処理は終了している。やられた方は忘れないというが、戦後捏造され増幅された感情論も多いように思う。教育によって自国民を洗脳し、自国政治への反発を他国への非難にすり替えているだけだ。そのような思惑に日本人が乗ることはない。毅然と対応することが、却って国際社会で存在感を増し、孤立することなどありえない。どんどん信用をなくしているのは中韓及びそれに媚びて現政権を懸念する貴方達なのである。



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時事私観その15

2013年07月13日 | Weblog
真夏の方程式

 勿論東野圭吾氏原作の映画、あのガリレオ湯川学(福山雅治)が登場する。6月30日の日曜日に公開2日目で観た。美しい海を守るというテーゼ(命題)は、メタンハイドレートなど海底資源の調査に対抗する形にはしていたのだけれど、沖縄普天間基地移設先の辺野古辺りの海を模したものかと思ったりもした。湯川先生は「文明の利便性を人類は享受しており、開発か自然保護かは善悪の問題ではなく関係者の協議判断による選択だ」と、一方的な論理を展開する反対派を諭す。

 気になったのはロケ地で、映画のエンドロールで「伊予鉄道」という字幕を見たからである。ネットで検索してみると、実際愛媛県松山市の伊予鉄道高浜駅の看板を差し替えて架空の玻璃ヶ浦駅に仕立てたとあった。海は西伊豆辺りか。駅舎を撮るため何で四国の田舎まで行ったのか、伊豆辺りにはそれらしいところが一杯ありそうな気がするのだけれど。高浜駅は松山市駅を起点の伊予鉄道高浜線の終着駅で、松山観光港の最寄り駅だ。一つ手前の駅が梅津寺駅で、松山の代表的な海水浴場の駅。1990年代初頭の東京ラブストーリー(織田裕二、鈴木保奈美)のロケ地となったことでも有名で、そこにはその記念碑があるらしい。

 私ごとだけれど、松山市の高浜は18歳で故郷を後にして松山観光港から山口県岩国新港に向けて出発した記念の場所だ。高校3年間毎年夏休みに、柔道部の合宿で忽那諸島中島本島(当時は温泉郡中島町、現在は松山市)に行ったのもこの港からだった。小学校の修学旅行で大分県の別府温泉に関西汽船で渡ったのもこの港からだ。ただ、映画で見た現在の高浜駅に見覚えはなかった。就職してからすでに47年の月日が流れている。

 因みに私の故郷の町は、やはり松山市駅から伊予鉄道に乗るが、こちらは郡中線。高派へは松山市駅から海に向かって右方向へ、郡中線は左方向へ進む。私の故郷の町には伊予高校という県立高校が後になって出来たのだけれど、そこのグランドで昔「世界の中心で愛を叫ぶ」のロケがあったそうだ。長沢まさみさんがグランドを走るシーンが撮られたらしい。映画やテレビのロケは都内などでは頻繁に行われていそうで、珍しくもなかろうけれど、田舎者には結構故郷紹介のネタにもなったりする。

 ところで、テレビのガリレオシリーズは当初全く観てなくて、柴咲コウさん出演の分は最近になって再放送で見た。福山さんがNHK大河の「竜馬伝」で主役になった時は、人気歌手の大抜擢なのかと思っていたくらいだけれど、ガリレオの湯川博士役は板についている。演技も「実に上手い」のではないか。今年はカンヌで主演の映画が賞を取った。「実に素晴らしい」。

 それにしても、今年は映画だけでなく実際に真夏の訪れが早かった。連日熱中症で搬送された人数がニュースになっている。毎日のように亡くなる人もいる。あれだけ各方面から警告されながらも倒れる人は後を絶たない。まさに異常な暑さなのだ。一説には千年猛暑であるらしい。電力不足が懸念される中、原発阻止勢力は現実を無視して福島事例を拠り所に危険性をアピールしているが、単に津波対策がお粗末だったのと、官邸政府の初期対応の混ぜ返しによるもので、他の原発が同じではなかろうに。

 [m(猛暑)×o(多湿)+(熱帯夜)+s(節電)+(直射日光)-y(水分摂取)-(塩分摂取)-(首筋冷却)-(着帽)-o(早めの休息)=Y]こちらは熱中症確率の真夏の方程式である。




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時事私観その14

2013年07月10日 | Weblog
アラブの春の嵐

 2010年、一青年の焼身自殺事件に端を発する反政府デモが国内全土に拡大し、軍部の離反によりベン=アリー大統領がサウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊したチェニジアのいわゆるジャスミン革命*5)。これがエジプトに飛び火しムバラク政権が崩壊したのは2011年2月だった。これら民主化運動は他のアラブ諸国へも広がり、各国で数々の政変や政治改革を引き起こした。11年10月にリビアのカダフィ大佐が殺害されたのも記憶に新しい。これらアラブ諸国の民主化への動きを「アラブの春」と呼んだ。

 アラブの春の一連の活動では情報共有のため、Facebookなどを通じたインターネットによる情報交換が力を発揮したほか、YoutubeやTwitter、WikiLeaksといったネットメディアも重要な役割を果たしたという。そこが現代の革命連鎖の由縁でもあり特徴であろうけれど、ムードに流される民衆の想いが仮想空間で増幅されている感も否めない。

 アラブの春の発端となったチェニジアでは国の経済は成長していたものの失業率は14%、若者層に限れば30%近い数字であったことが、暴動に繋がったという。一般国民による大規模なデモや騒動は、経済の行き詰まったギリシャでも多発したし、最近でもトルコやブラジルでも起こっている。しかし、デモや暴動では、結局何も変えられないことが多い。政権に代わり得る確かな政治家集団が必要であり、民主国家にあってはやはり正規の選挙による政権交代が望まれる。

 ムバラク政権崩壊後のエジプトでは、2011年11月からの2012年2月にかけて議会選挙が行われ、2012年6月には大統領選挙が行われ、前政権時代の最後の首相であったシャフィク氏を僅差で破ったモルシ氏が新しい大統領となった。しかし、経済政策で有効な手を打てず行き詰まった。そして、この夏民主化された筈のエジプトで、反政府を叫ぶ大規模なデモが続き大統領支持派との対立が激化した。その混乱を収拾する名目で軍部が動き、日本時間7月4日未明モルシ大統領は失脚した。実質的なクーデターであろうが、混乱は続いている。

 『チェニジアやリビアでも議会選挙が実施されたが、民主主義の素地は脆弱で、革命後の民衆の生活水準が却って悪化しており、新体制への不満が高まっている』*6)という。

 昔わが国でも、60年安保、アイゼンハワー大統領の訪日阻止に始まり全学連、革マル派、中核派、赤軍派などが結構暴れた時期もあったけれど、結局一般大衆を心底巻き込むまでには至らなかった。当時から議会制民主主義は定着していたこと、高度経済成長によって国民の多くが昔よりも豊かになったことを実感していたためである。しかし、21世紀になって暴動ではないにせよ、無責任なマスコミに扇動された単なる政権交代が合言葉のムードに、自民から民主への政権交代が起きてしまった。後出しジャンケンのように批判することでのし上がった人物群に国を真っ当に治められるわけなどない。国内の反日勢力が加担して火を付けた政権交代でもあったと診る。

 昨年3年ぶりに自民党が政権に復帰したが、わが国の若者の現状を考えれば、騒動が起こっても不思議ではない状態ではないか。わが国の失業率は4%程度とヨーロッパ諸国と比べても低い。若者に限っても8%に達せず一桁。問題は非正規雇用が36%を超えるという現実がある。『1995年には998万人だった非正規雇用者は年を追うごとに増え続け、直近では1850万人と20年弱でほぼ倍増の勢いだ』*7)。この雇用形態が若者の失業率の上昇を抑えているに過ぎない。

 政治家は一部の批判でも恐れて、本当に言うべきこと、やるべきことができない。それでいて橋下市長の従軍慰安婦発言や辛坊氏遭難に対しての批判のようにつまらない批判はする。左派政党は時代遅れの綺麗事で空想の中に鎮座している。原発反対なども一時デモの拡大が吹聴されたが、周囲の人達と意見を交わすに絶対反対なんて実はほとんど居ない。それでも自民を除くすべての政党は原発をなくすという。どこで乗せられたか国民の多数意見と勘違いしている。

 若者の雇用と所得を少々強引でも、経団連などの反発を招いても、大幅に改善する政治を行うことは、実は憲法改正より優先されるべき課題ではないか。そして、まず若者が結婚できる環境を整えることが政治の役割であり、真の少子化対策でもある。

 アラブに吹き荒れる嵐を他人事と看過せず、先行き不透明な成長戦略に頼らずに、今出来ることを今やるべきである。



*5)ジャスミンはチェニジアを代表する花であるところからネットを中心に命名された。byウキペディア
*6)7月5日、日本経済新聞朝刊より
*7)日経ビジネス2013年7月8日号「点検アベノミクス」
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時事私観その13

2013年07月07日 | Weblog
世代間格差

 若者の雇用問題は深刻だと思う。われわれの青春時代がバラ色であったわけでもないが、仕事面で少なくとも現代のように、「フリーター」だ「派遣」だということは少なかったように思うし、現在のブラック企業と呼ばれるような企業が大きな顔してのさばってもいなかったように思う。昭和39年の東京オリンピックを挟みわが国は長期に高度経済成長を続けていた。われわれ団塊世代は、そのさなか昭和40年代に就職した。終身雇用、年功序列、企業内組合は御用組合と言われながらも合わせて、この3つが日本企業の三種の神器だった。

 大型のステレオ購入がステータスとなり、マイカーが持てるようになった。30歳代でマイホームという者も多かった。バブルの前にマイホームを手に入れたのは主に先輩世代だが、彼らは年金受給についても厚遇された世代だ。しかし彼らの世代は太平洋戦争期に生まれ、物心ついた時期に多くの者は究極の貧しさを体験している。焼け野が原となった日本を見ている。

 対して今の若者は飽食といわれる時代に生まれた。生まれた時から家庭にテレビがあり、冷蔵庫があった。団塊の世代と比べてもはるかに進学率も上がり、円高で海外旅行も容易になった。自分の可能性を多くの選択肢から引き出せる環境があった。世代間格差と言うけれど、国土のインフラなども整った時代に生まれた者は、それだけで、先輩世代の投資の恩恵を受けているわけで恵まれている。押し並べて比べれば世の中、世代間でそんなに不公平とはなっていないのではないか。

 そうは言って、厚生年金や健康保険料の乗率にしても上昇し、高齢者を背負う負担が現在の若者の肩に重く圧し掛かっていることは否めず、年金の受給年齢も引き上げられそうな雰囲気では先に不安を抱えることも分かる。国民年金では保険料を払っていない人が4割程度もあるという。

 その年金も所得税に市町村県民税、健康保険料、介護保険料と引かれると、手取りは瞬く間に薄くなる。これに固定資産税、自動車関連の保険・税金、火災保険に生命保険、町内会費に何々会費、NHK受信料にネット・携帯料金、電気、ガス、上下水道料金に加えて僅かばかりの預金の利息からもちゃっかり税金は引かれている。その上消費増税とくると、仕方ないとは思いながら「持ってけ泥棒!」と言いたくなる現状にも関わらず、国も地方自治体も赤字だという不思議。生産性の低い仕事に、生産性に見合わない不当に高い給与を支払い続けているためとしか思えない。格差は小泉改革の所為ではなく、行財政改革が進まなかったこと、ポピュリズムの政治と大企業経営者のお手盛りや企業の株主優遇にある。

 それにしても現在年金保険料さえ払えない者の多くは、フリーターと呼ばれる人々と思われ、将来生活保護に頼ることになる確率が高い。プライドさえ捨てれば、医療費さえ要らないという生活保護の方が年金よりいいかもしれないと思わせるようでは、いい政治とはいえない。大企業は率先して派遣やアルバイト的な雇用を廃し、正社員にして厚生年金を折半で払うべきだ。企業は若者の養成機関としての社会的役割もある。それが一番大きな企業の社会貢献だと思う。それを果たさないで、何が企業減税だ。

 また、個人は老後を年金だけに頼るのではなく、必要な蓄えをしておくべきだ。年金支給額も支給開始年齢も国の財政状況に応じた見直しに備えるべきで、現役世代だけに負担を押し付けることはできない。社会的弱者に健常な老人や女性が一括りで含まれるのは元来おかしいことなのだ。

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時事私観その12

2013年07月04日 | Weblog
二足のわらじ

 国会議員の2012年分所得が公開され、平均で2,006万円は5年ぶりの増加だという。もっとも所得トップは3億3,263万円というから、平均で論ずるより中央値か最頻値で論じる方が実態を表すと思われる。それにしても2位以下は億円に届いておらず、所得隠しが上手になったのか、政治家には富豪が少なくなったのか。

 これらのニュースに付随して、今月投票が行われる参議院選挙立候補予定者の高所得者のランキングも出ていたけれど、議員活動をしながら会社社長や大学教授、弁護士など「二足のわらじ」を履き続け、その副業で議員歳費(1871万円)を超える所得を得ている議員もいるというのには驚いた。

 政治家であっても、保有する資産から得られる所得や政治活動余暇に執筆活動や講演、テレビ出演などからの報酬を得ることまでは悪いことではなく、会社関係でもせいぜい顧問的な立場、大学の先生も非常勤で月1回程度講義に出向くくらいでそれぞれ相応の報酬を得る程度までは許容範囲だと思うけれど、現役の経営者や大学教授、または弁護士などとほぼ同等の活動をしながら国会議員だというのはいかがなものであろうかと思う。

 確かに国会議員の報酬は、一流会社の役員や一部芸能人やスポーツ選手、著名な弁護士や公認会計士などと比べれば見劣りするかもしれないが、元々そのような地位を捨ててでも国家国民のために奉仕しようというので国会議員になったのではないのか。弁護士や大学教授、企業経営者の職に未練があるなら、きっぱりと議員の椅子は返上すべきである。

 国会議員は、国会会期中に国会に出て、所属する政党や政治グループが推す法案に賛成票を投じるだけが仕事ではなかろうと思う。法案を自ら作らないまでも、提出された法案を吟味し、関連の勉強をし、国家国民のために本当に必要で役立つものかどうか議員個人でも結論を得て採決に臨むべきであろう。それだけでも相当の労力と時間が必要であると思う。また、日頃から幅広い人脈作りも必要である。選挙の際の票田にするためではない。事ある際にどこを突けばどれだけの人々が国家のために動いてくれるかのネットワークを持つためである。ここが抜ければいくら個人で能力があるようでも政治家とは言えない。

 確かに国会議員といえど、昔の金権政治が普通に行われていた時代と異なり、国から支給される歳費だけでは選挙活動費も嵩むことで、清廉な政治家は副業でもなければペイしないのかもしれないが、そう考えるなら大学教授や弁護士や会社経営者に返るべきだ。

 もっとも政治家を選ぶのは国民であり、弁護士先生であろうが会社経営者であろうが、被選挙権はあるし、そのような兼業者でも国民がいいというならそれもいい。前の東京都知事は都知事時代も一部作家活動もされていたようだ。しかし選挙民はそのことも十分承知で彼に投票していた筈だ。来るべき参議院選挙には、各候補者はすでに昔からやっているのかも知れないが、ポスターに副業を明記すること。政党は比例区で公認する場合、その旨そのことを国民に周知すべし。それでなお、国民が選ぶのであれば民主政治にそれ以上の拘束はない。しかし、公務員は副業禁止ではなかったのだろうか。大企業などの多くは明確な副業は禁止していると思うのだけれど。国会議員に許されるに理由があるのだろうか。




本稿は、7月1日(月)読売新聞夕刊の記事からの情報によります。
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時事私観その11

2013年07月01日 | Weblog
裁判

 昔、弁護士といえば正義の味方のイメージがあった。テレビドラマでは冤罪を晴らすヒーローとして描かれることが多かった気がする。医術は昔、「仁術」と言われたが、今は「算術」だと揶揄されるように、時代と共に弁護士もイメージを落とし、絶対正義を守ることより、裁判に勝つことが正義となったようだ。

 だからテレビドラマなどでも、そのような弁護士を風刺的に描くものが出てきた。もっともドラマは、結局主人公の弁護士が裁判に勝利する結果、社会正義を守っているような設定にはしているのだけれど。

 それにしても、高齢者の財産管理のため任意後見人となった弁護士が、不当に高い報酬をその財産から引き落としていた。などという事件が報道されると、弁護士のイメージは大きく毀損することは仕方がない。弁護士といえば昔からエリート職業で、収入も高いというイメージがあり、それは大筋で現在も変わらないと思うけれど、一方で年収100万円未満の弁護士が2割も居るという話もある。最近の弁護士増産のツケが顕在化し、背に腹は代えられず不正に走る弁護士の割合も多くなっているかと寂しくなる。

 不正とは見わけが付かないやり方だけれど、殺人犯などを精神異常者に仕立てて、無罪を勝ち取る手法は如何なものかと思う。弁護側は証拠が揃っている場合の逃げ道として、精神鑑定を要求することが多い。しかし鑑定の結果、被告に責任能力ありと認定された殺人事件の裁判で、警察や検察の取り調べでの自供を翻し、被告が裁判で無罪を主張するケースがあった。これなども弁護士の入れ知恵なのかとまで思ってしまう。自供しか決め手がない犯罪なら兎も角、明らかな証拠が揃っているにも関わらず、自供は強要されたと供述したのである。普通には考えにくい行動であるが、その異常性を周囲に印象付けることで再度精神鑑定に持ち込み、鑑定者の意識まで撹乱する魂胆ではないかと思ってしまう。

 私は、そもそも精神鑑定で異常と鑑定されれば無罪になることがおかしいと思っている。犯罪者の中で計画的な殺人者にしても、計画までは責任能力ありの精神状態であったにしても、いざ実行段階では異常な精神状態になっているのが普通ではないか。勿論、特殊な機関で殺人訓練を積んだ人物は別だろうが。その意味からすれば殺人者はほとんどが異常者である。

 殺人を犯した罪の意識と、予見される罪科の大きさに潰されて、犯罪後精神異常を来す犯人もいるかもしれない。いずれにしても精神鑑定如何に関わらず、罪相応の刑罰を受けるべきである。正常な人間なら更生も可能かもしれないが、通常が精神異常でしかも殺人まで犯す人間は、一定の療養で治癒したと診られて解放すれば、同じことを繰り返す恐れが高いのではないか。

 欧州はじめ死刑廃止論も行き渡ってきており、わが国にも死刑廃止論者は政治家の中にもいる。さらに未だ自衛隊の縮小を唱える政党もあるが、世の中それら綺麗事だけでうまくゆくほど甘くはないことは、世界の犯罪や紛争、軍事大国の横暴を見れば分かりそうなものだけれど、現実を無視して綺麗事を並べる人達は、逆に他人に対して薄情で自己中心的な人間や政党ではないかと思えてしまう。自分や家族が犯罪に巻き込まれないなら、犯罪被害者の恐怖やその家族の喪失感に思い至ることはなく、国土が侵略されても自分に危害が及ばなければ、祖国や同胞をみんな(国家)で守り合おうという心も無いのだ。

 犯罪者の弁護は重要であるが、細工しても裁判に勝てばいいでは手段が目的化している。一方最近検察側の不祥事も続いた。冤罪事件も現実にある。法律を守る立場の司法関係者が法を犯すようでは、裁判そのものへの信頼が崩れる。三権分立の大きな柱である司法に、血が通いかつ冷徹な法律の番人の心構えを期待したい。


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