池田の下へ
昭和二十九年の元日づけで、私は東京支社の政治部デスクとなっていた。その年の暮れ、鳩山派が吉田内閣に挑戦し、吉田は解散か総辞職かの岐路にたった。吉田は明らかに解散を考え、幹事長であった池田もその決心であった。しかし、自分の後継者と選んでいた緒方竹虎副総理の離反にあって、総辞職に追いやられた。
『・・・鳩山のもとで解散があり、選挙があり、保守合同となって自由民主党が結成された。合同に参加することは、鳩山を擁する三木武吉や河野一郎、岸信介らの軍門に下ることで、吉田を中心とする人びとはずいぶん迷った。スジを通せば無所属に残ることが正しい。時代の要請に従えば参加しなければならぬ。池田は、自由民主党のなかで再起をはかろう、それがより大きくスジを通すことだと考え、吉田の了解を得て合同に参加した。
佐藤は吉田とともに無所属にとどまる。この二人が自由民主党に入党したのは、何年かあとであった。実兄の岸が保守合同の立役者であるから、佐藤はいつでも入党できるのだろうと私は思っていた。いずれにせよ、池田と佐藤は保守政界にあって、鳴かず飛ばずの状態であった。
昭和三十年の暮、社内の人事異動に私の名があげられているという噂を聞き、妙に気になった。・・・三月になって異動の噂はいよいよ濃くなった。・・・
四月に異動が発令され、私は整理部勤務として本社に赴任することになる。池田は私邸で送別会をしてくれたうえ、「福岡に行って、いやになったら、いつでも帰ってこい」と言って、赴任のさいは、東京駅までわざわざ見送ってくれた。・・・
実際の政局とは完全に没交渉となった。はれやかな河野農相の訪ソや鳩(ハト)マンダーと言われた小選挙区法案のなりゆきを、私はただ活字のうえで追っかけたにすぎない。昭和三十一年の鳩山、石橋の政権交代も遠雷を聞く思いであったし、池田がふたたび大蔵大臣になったのも遠く福岡の地からながめていた。石橋内閣は三カ月つづいた。解散を目前にひかえて病気による退陣となり、かわって岸内閣が登場した。・・・
二年たった。西日本新聞がテレビ会社をつくり、約二〇〇人程度の人事異動があった。私はそれにもはいらず、いぜん整理部に残る。・・・
早春の風はまだ冷たかった。・・・母の手紙に誘われて私は上京することにした。一直線に池田のもとへと急いだ。
三月二十六日、私は信濃町の私邸で池田と会った。「支社転勤というかたちで東京へ帰れると思い、いままでやってきたんですが、かえれそうにもありません。新聞社を辞めて、東京に出たいんです」「どんな仕事がいいんだ」「あなたのそばにおいてもらいたいんです」
「ちょっと待て・・・・・」池田は風呂にはいり、出てくるなり、汗をふきふき、言った。「君は新聞社を辞めてくるんだネ」
「そうです」
「そうか・・・・伊藤君、死ぬまで俺と一緒に行くかい。その気持ちならきてくれ」「いつからにしますか」「準備ができしだい、いつからでもいいよ。宏池会という会がある。そこの職員ということにしよう」
これで私の運命はきまった。私は四月から池田邸にはいることになった。』
本稿『 』内は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です。