中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

閑話つれづれパートⅡその20

2009年10月28日 | Weblog
続、デジタル化

 手塚治氏の「鉄腕アトム」がハリウッドによるアニメ映画化もあって、復活している。確かに「アトム」が視野に入るほど、人型ロボットが実用化されつつある。アトムが10万馬力(ジャンボジェット機並み)で空中をマッハ3(=音速の3倍)で飛ぶと、風を切る頭部は、空気抵抗で1000℃以上の温度になるそうである。しかし、それだけの耐熱性を有した炭素と珪素から成るプラスチックも開発されているようだ。

 また、美人の受付嬢ロボットは、体重か何かを問いかけた男性のからかいに、顔をゆがめて、不愉快さを表現したと聞いたけれど、集積回路とコンピュータソフトの発達によって、限りなく人間の感情に近い表現力を持つ人型ロボットが完成するのもそう遠くない気がする。

 そんなことを考えていて思ったのだけれど、コンピュータが人間に近づくと同時に人間もまたコンピュータに近づいて、お互いに歩み寄っているのではないか。日本の幕末の頃、日本人はよく泣いたという。国を憂い、家族を想い、己の使命を思い、議論が沸騰しても泣いたという。「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という逆説的な表現もあるし、「男は泣くものではない」、「人前で泣く男を信用するな」などとも聞くけれど、これらもケースバイケースで、兎に角現代人は泣かなくなった。それだけ感情の襞が少なくなっているのではないか。

 学問に励むこと、スポーツの世界で、芸術の世界でまた職人が技を磨くこと。それらに共通するキーワードは、己の感性を高めることにある。極め抜いた暗黙知をいかに形式知に変えるかという役割の人材も必要だけれど、兎も角修業は感性を鍛えることは間違いないし、そもそも修業の目的は感性の陶冶にあると考える。

 昔は、「床屋の政治談議」などと庶民が語り合う政治評論は、大筋で間違いが少なかった。そもそも民主政治における国政選挙では、感性以外に候補者を選択する尺度はない。マニフェストなどは、あくまで補助的なツールでしかない。それを逆転させるアピールを行い、「お客様は神様です」と同じレベルの発想で選挙を行う政党が登場した。

 何でも便利になった世の中で、テレビを見て暮らす現代人は修業の機会を少なくしているだけでなく、自身で考える機会さえなくしている。己が必死で求めない限りその感性が陶冶される機会は少なくなっている。先の選挙結果に国民が賢くなったなどと迎合する向きもあるけれど、当時の与党のリーダー不在と稚拙な候補者選びや内部抗争のドタバタを差し引いても、現実はデジタル化された大衆の感性の衰退を示すものでしかない。
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閑話つれづれパートⅡその19

2009年10月25日 | Weblog
デジタル化

 デジタル化と聞けば、この頃ではテレビが地上デジタルテレビ放送へ完全移行することを思い浮かべるのではないか。2001年の電波法の一部改正によって、2011年7月24日がその期限となっている。随分前から広報されているからすぐにも実施されるようなイメージもあったけれど、まだ2年近くある。

 アナログ放送では叶わなかったクイズ番組への視聴者の参加など、双方向機能がインターネットに繋ぐことで実現している。何より鮮明な画像は録画しても劣化することがないのも強みであろう。テレビの買い替えを強制されるようで、不満を持つ人もいるかもしれないけれど、テレビのデジタル化への流れは政治の問題ではないではなかろうから、いかに新政権でも、まさかこれまでも反故には成されまい。そうかマニフェストになかった?

 また近年IT革命などと言われるように、パソコン、携帯電話の普及発達によるインターネットはすでに多くの人の生活の一部に入り込んだ。だからここ数十年だけで急速にデジタル化が進んだイメージあるけれど、実は人類が言葉を得、文字を得たときから始まっており、人類からすればその時のインパクトの方が現在のデジタル化より大きかったのではないか。またすべての学問は哲学に始まるといわれるけれど、そこから始まった学問体系の確立にしても立派なデジタル化であろう。人類は延々とデジタル化を進めてきたのだ。

 会社の研究所時代のこと。当時の研究課題は化学物質単体を対象とするモノマーとプラスチックを扱うポリマーに大別出来た。後からバイオが入ってきたけれど、それは兎も角。当時私の属したポリマー部隊の研究者は、モノマー研究者に比べて出世の見込みが少ない、と言われていた。事実歴代の取締役所長はモノマー出身者だった。研究所での出世など、私には全く関係ない話だったけれど、組織・人事関係の話は昔から好きだったから、その原因を私なりに考えてみた。当時すなわち40年近く前には、実はプラスチックなどを扱うポリマー領域の学問はまだ十分に解明されていない部分が多かった。このため研究成果の会社幹部への説明がデジタル的(論理的)に成し得なかったためではないか。と自分なりに結論づけた次第である。

 人類はすでに己の感性よりもデジタル的、論理的な説明しか信じられにくくなっていたのであろう。
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閑話つれづれパートⅡその18

2009年10月22日 | Weblog
二次試験

 この日曜日(10月25日)は、平成21年度の中小企業診断士の二次筆記試験が行われる。診断士の二次試験は、2~3ページ2000字から3000字程度の与件文があり、それら与えられた条件の下に4、5題の問題と設問に沿って解答を各20字から200字程度で記述させる試験だ。すなわちシンプルに言えば、「読むチカラ」と「書くチカラ」が問われる試験だ。与えられる時間は1科目80分。これを1日に4科目。時間との戦いもあり、非常に疲れる試験でもある。

だから60歳以上の受験生の年代別合格率の落ち込みは、一次試験の場合より激しい*4)。企業の管理職など社会的経験を十分積んでいる分、記憶力に依存する知識問題より小論文形式のこの試験が相対的に有利と思われるけれど結果は逆となっており、この試験の過酷さを物語っている。

 私は一次も二次試験も3回目の試験でようやく合格した。当初一次試験さえ合格できれば二次試験はどうにかなるように考えていた。文章を書くということには、昔から抵抗が少なかったからである。しかし、振り返ってみれば会社の研究室時代、研究報告書の作成では上司から匙を投げられていた。研究報告書は、あくまで論理的でなければならず、想いのままに綴る散文的な文章では全く通用しない。その過去を忘れていた。

 ゆえに当初二次試験対応にはとまどった。出題者から模範解答は出ないし、資格の学校の答えも各社まちまちだから、当然普通の受験生にとって取り組みは難しい。このような試験で篩分けることへの恨み辛みも湧いた。そんな時に出会った本があった。斎藤孝明治大学教授の「読むチカラ」株式会社宝島社2004年8月刊 である。

 『出題者の存在と意図に思いを馳せ、出題者と同じ地平に立ったとき。そこに全く新しい世界が見えてきます。100人に1人しか思い浮かばない答えは「正解」にはなりません。いくつもの読み方が考えられる中で、常におよそこの辺りだな、という共通理解を求めていく。その妥当性、客観性があってこそ、人間社会は成り立っているのです。・・・受験勉強の苦しさの中でも、点を取ることだけではなく、もう一歩先のことまで考えていて欲しい。』*5)あうそうか、診断士の二次試験もこれなんだと腹に落ちた。

 受験生は大変だけど、その分鍛えられる。良質な問題を作られる先生方、公平な採点に腐心する採点者の方々も大変だ。記述試験は最初から最後まで関係者すべてに大変な試験ではあるけれど、このような試験は必ずや診断士の質の維持向上に有効となっている筈で、良き試験制度だと思う。
 
 
*4)平成20年度60歳以上(70歳代も含む)合格率1次試験14.1%(全体23.4%)。2次試験11.3%(全体19.8%)
*5)斎藤教授は、東京大学の「現代国語」入学試験問題から論評しています
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閑話つれづれパートⅡその17

2009年10月19日 | Weblog
書と政治家

 文藝春秋11月号の『現代政治家「文字」に品格を問う』は、やっぱり来たかという感じである。社民党党首の丸文字で話題になった、例の「三党連立政権合意書」の3党首の直筆署名の感想に始まり、『・・・だからこそ私は言う。政治家諸君、書に向き合いたまえと。書や詩に向き合うことは政治に向き合うことを意味する。書や詩の不在は、政治の不在を意味するのだと。』で終わる、書家で京都精華大学教授の石川九楊先生の論評である。書を命とされる先生方には、いかに文明の世といえど、国のリーダー層が書を疎かにしていることに一言、いいたくなるお気持ちは十分に分かる。

 それにしてもこれは私などにも耳の痛い話ばかりだ。私は別に政治家でもなければ、それを目指す者でもないが、やはり日本人に生まれながら書のひとつのたしなみもなく、和歌も解せぬ身には、このような話は辛い。外資系企業に勤めながら英会話も出来なければ、出世はおぼつかないのは当たり前だけど、「書」どころか政治のイロハも分かっていないと思われる人でも国会議員に成れるところが、民主主義の緩いところでもあり、まあいいところかもしれない。

 ともかく「書」については、世のリーダーに求められる資質というものも時代とともに、シフトするということでもあろう。しかし、石川先生の論評は恐らく正しい。書に向き合うことで、ある意味精神が陶冶され、自身の経験知識というものが己の信念に沿って集中してゆくものであろうと思うからである。

 しかし、現代の政治家に書が必須科目かというと、それぞれ個人の価値観でいいようにも思う。書は中国や日本では重用されても、元々欧米の政治家には無縁の代物だ。それでいて政治力は欧米の政治家が劣るわけではない。日本では、例えば大平元首相に代表されるような「アー、ウー」政治家でも十分通用した。すなわち「巧言令色鮮し仁」「沈黙は金」のお国柄だ。書は評価されても、すぐれた演説の妙はあまり評価されていなかった。反して欧米では、現在もオバマ大統領に代表されるごとく、いかに言葉で聴衆を魅了するかの話術を必要とした。最近のグローバル化は日本でも明らかにそちらのスキルが政治家に要求されるようになった。英会話くらいは必須となりそうである。政治家に書が疎かになっても仕方がないところもあるように思う。
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閑話つれづれパートⅡその16

2009年10月16日 | Weblog
幻の東京オリンピック

 石原知事が独断先行したというイメージもあってか、国内の盛り上がりを欠いたという減点もあって、2016年のオリンピック開催地候補東京は、結局シカゴの次に落選してしまった。しかし、客観的にみて今回はリオで正解ではないか。知事はじめ当事者たちからすれば、納得がいかないかもしれないが、所詮オリンピックが参加することに意義があることと同様、開催都市選考レースにも参加することに大いに意義がある。150億円以上ともいわれる招致費用の責任問題云々もあるけれど、十二分に健闘した招致チームであれば、その労をねぎらってこそあれ、誰にも責任など無い。国民一人150円足らずで、都民一人当たりにしても1500円程度の夢をみたと思えばいいのではないか。開催地リオデジャネイロへは、東京に開催準備ノウハウがあるなら教示して大いに協力すべきであろう。

 冒頭に「石原知事が独断先行したというイメージもあってか」と書いたけれど、現在の日本では何かあればリーダー不在とブツクサ言う癖に、リーダーシップを発揮すれば民意のコンセンサスがどうとかまた文句をいう。確かにリーダーシップの発揮に巧拙もあろうが、東京オリンピックなど石原知事くらいでなければ発想できない。

 それにしても、落選が決まったその直後のテレビの報道番組で、コメンテーターの一人が「私は東京に住んでいるけれど、今でもオリンピックを東京に招致する意義が分からない」のような発言をされていた。人それぞれで、思想は自由で勿論発言は自由である。しかし、人情の機微として招致委員が一生懸命頑張り、たとえ形だけであろうが1国の総理も出向いた招致レースであるなら、全国ネットのテレビのこと、もう少し言い方もあるのではないかと思ってしまった。そこらあたりにも、この国の知識層といわれる人々の「知の衰退」をみる思いがした。

 私は山口県に住まう頃、広島市が近かったこともあって平和公園にはよく行った。かの地でアジア大会は開催されたことがあるけれど、広島でオリンピックはいいのではないかと考えたことがある。都市機能や財力もあって無理なのかもしれないけれど、これまで国内選考都市にも立候補していないのではないか。核廃絶のオバマ大統領のノーベル平和賞もあったことだし、周辺地方都市の活性化の目論見も含めて、平和都市ヒロシマへのオリンピック招致を企画して欲しいものである。

 と、これを書いた翌日(10月11日)の新聞の一面を見て驚いた。広島、長崎共同で2020年のオリンピック招致を行うというのである。私はこれまでも書いてきたように夢想する理想論は好きではない。しかし、オリンピックは例えばディズニーランドがひと時の夢の世界に人々を誘うように、たとえ架空であったとしてもその空間においては、確かな平和の世界が現出されるものなのだから。広島、長崎は世界の平和の祭典に相応しい地であろうと思う。
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閑話つれづれパートⅡその15

2009年10月13日 | Weblog
K大臣の逆襲

 小泉元首相との総裁選に敗れてしこりを残し、郵政民営化反対で自民党を離れたK金融相の鼻息が荒い。何といっても郵政民営化見直し担当大臣でもある。さる関西系テレビの報道番組に呼ばれたK大臣は、居並ぶコメンテーターの発言をひとつひとつ切り返して吼えまくっていた。「私は、わが党のために政治をやっているのではないですよ。存在感を示そうなどと考えてもおりません。国民のための政治です。」「どこで郵便局のサービスが良くなったなどと、地方に行ってみなさい。みな泣いていますよ。」多少異なった表現になっているかもしれず、K大臣がこれを読めばまた怒るだろうけれど、趣旨はそんな感じだった。

 コメンテーター諸氏は従来の自民党政権時代の大臣相手とは勝手が違い、声なく茫然としておられたけれど、本来が無責任な政権批判で飯を食ってきた連中には丁度よい刺激であったかもしれない。

それにしても、K大臣は当初防衛大臣で決まりのような報道があったけれど、現大臣ポストに急遽変更になったそうな。どうも今回の組閣の妙は到底鳩山総理のご発想ではなかろうと思う。これは囲碁などのお強い方の思慮遠謀というか策謀というか、私など囲碁の級位者にも透けて見える欠点はあるけれど、一般にそこまで考える国民は少ないであろうし、証拠もないから問題は少ない。敢えて内容には触れない。
   
しかし、流石がK大臣にも読めている。大学時代の学園祭の運営でもあるまいに、何かとニタニタとしている新大臣の多くに反して不機嫌である。他の大臣に対しても結構挑発的な言葉を発している。騒ぎを起こしたくない民主党の足元を見ながら、せめてもの影の総理への反発ではないか。

 それにしても、K大臣が何と言おうと、郵政民営化は進めるべきだが。私など就職したての頃、宅配便などない時代、故郷の家族に郵便小包で贈り物を送ろうとして、宛先か何か書く場所を間違えただけで、田舎の特定郵便局のおばちゃんにひどく怒られた不愉快な記憶がある。親方日の丸の連中は仕事がない方が楽でいいんです。手の掛かる仕事を持って来る奴は、地元の名士でもない限り邪魔なだけだったんです。しかしこの頃は、郵便局に行くと、このおっさんでもいつも笑顔で迎えてくれる。民営化はやはりいいことなんです。真に過疎地で不都合があるなら、それは別途その地域の救済策を考えればいい。

大臣であろうが東大出ていようが、それだからこそか所詮本当の庶民のことなど分かってはいない。自分の主張を正当化するための方便に、恵まれない人々とか弱者とかを使っているようにしか見えないのだけれど。

 ただし、K大臣、経団連会長を捉まえて「家庭内殺人などが増えたのは、小泉構造改革に便乗した経団連の諸策の所為だ」と言ったという話は大いに結構である。
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閑話つれづれパートⅡその14

2009年10月10日 | Weblog
知の衰退(下)

「日本の底が抜ける」という懸念を表現する言葉がある。低体重児(2500kg未満)が出生率の1割近くまでに増加(この30年で倍増する勢い)*3)し、65歳以上の寝たきり老人の数は米国の5倍に達する(ラジオである医師の方が話されていた)そうである。さらに、文藝春秋本年10月号の“総力特集「政権交代」”の3人の論者から見えてしまう、現在の日本の知識層と言われる人々に蔓延する「知の衰退」を感じ、相俟ってすでに「日本の底は抜けた」のではないかと思ってしまう。

三者三様にもっともらしく現政権にエールを送っておられるけれど、その内容は隙だらけで、真にこの国の人々の安寧を願っているとは思えない。上面の理想論であったり、経済の本質をご自身の知識に照らして真摯に考えた末の発言とは思えなかったり、単に人情に流されているだけというものである。

オバマ大統領の核廃絶や軍縮にしても、自国の経済のどうにもならない現状があるゆえの方策であることを無視して、理想論を鵜呑みにする単純性。また中国の突出した軍事増強を押さえ込む方策は全く述べることなく、ただ国際社会に引き込めとするだけで曖昧にするリスク感覚の欠如。東アジアの安定のためには、米国が手を引いた分を本来日本の自衛隊増強でカバーして、軍事バランスを保つことが必要である。それを行う覚悟もないくせに米国との対等な関係を唱える国際的非常識さ。

元財務官僚の“「バラマキ」「財源論批判」はナンセンスだ”。“「成長戦略」などなくていい”。は兎も角も、国民の貯蓄額と国債発行額のバランスにおいて、日本は債権国という無責任な論評には多くの読者も異議を唱えるのではないか。それは、貨幣が信用の上にこそ成り立っていることを無視した論理に思えるのだが如何であろう。

また、高速道路無料化による経済効果に期待するように言っているけれど、環境対策としての二酸化炭素削減と、高速道路無料化やガソリン税の廃止とははっきりとチグハグではないのか。総合的にみて本当に経済効果があると考えておられるのか。すでに現政権が言い出した「環境税」が必要となり、結局国民のためにはならないのではないか。さらに「経済回復の鍵は農業振興」の“農業振興”の部分は大いに共感できるけれど、農業生産高は8.2兆円に過ぎず、パナソニック1社の売り上げにも満たない(2009.5.4日経ビジネスからのデータ)。大衆受けを狙った論評も結構だけれど、現実を把握され信念を持って論評されているのであろうか。どうせ誰にも分からない経済論に感けて、単なる政権迎合論に思えてならない。

実績がおありで高名な大実業家氏の発言にも疑問符が付く。小泉構造改革以来のアメリカ追従型の市場原理主義の副産物として生み出された深刻な格差社会といわれるが、それが現実にあるとするなら、それはあなた方の長年のお仲間である大企業を中心とした財界人の責任ではないのですか。さらに子供手当てなど国民への現金支給は、政治の王道といえるのでしょうか。そして角栄流政治家の人誑し術に引っかかったに過ぎない過去を誇らしげに書くところは、成功者に見られる自己陶酔としか思えない。

鳩山首相に、訪中の前に「友愛の海に」とやらの現実を、お忍びで見ておけと言うくらいの人物が取り巻きに居ないのが現政権の限界であろう。


 *3) 文藝春秋10月号「炉ばたに学ぶ」辰巳芳子氏「みそ汁のこと」から引用。低体重児は体力、智力ともに低下しがちの上、成人後は生活習慣病になりやすい。とある。
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閑話つれづれパートⅡその13

2009年10月07日 | Weblog
知の衰退(上)

 日経ビジネス2009年9月14日号の「リポート考える人材」の中に、東京大学大学院教授の姜 尚中(かん・さじゅん)氏の“役立たずの「人文知」が付加価値を生む”と題する談話が載っていた。現在日本の知の衰退を食い止める処方箋とも思える。

 その内容を勝手ながらダイジェスト版に要約させていただくと、「この20~30年は、すぐにカネに結びつくような専門知識がもてはやされてきたが、人文知のような具体的な成果がすぐに見えないものは、あまり重視されなかった。しかし、人文知は組織のリーダーに求められる資質であり、部下に金銭的な報酬以外のモチベーションを発揮させるための、自分の仕事や会社の行動に意味を与える能力は、人文知からしか生まれない。

 コスト高の日本企業が中国やインドの企業と競争するには、価格とは別次元の付加価値をつけなくてはならない。新しい付加価値を生み出す源泉とは人文知、つまり宗教や哲学、日本文化、社会の成り立ちなど、人生をいかに生きるべきかを考えるという、ある種の教養を身につけることである。

 最近書店にマルクスやケインズ、ポラニーなどの古典作品が、ビジネス書コーナーに並ぶようになった。20年前には考えられなかったことであるが、鋭敏なビジネスパーソンほど、見えない総合としての人文知を求めていることではないか。人文知を磨くことは時間のかかる作業であるが、中堅幹部にきっちりと人文知を教育することが、これからの企業には、必要な取り組みになる。」というものである。

 この談話を読み、逆説的に言えば、この20~30年いかに人文知がおろそかにされてきたかということで、砂上の楼閣とよくいわれる足元を固めずに、見える部分のみを飾ろうとしてきたツケが、現在の日本に顕在化してきたことの原因に、ようやく日本の知識層が気付き始めたことに他ならない。

 私が本稿「一陽来復その1、その2」(昨年10月19日、22日)に書いた「戦後日本の指導者層3代目説」を直接的でないにしろ裏付けていただいたような談話で意を強くした。
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閑話つれづれパートⅡその12

2009年10月04日 | Weblog
マニフェストの怪(下)

 現政権のマニフェストの「子供手当て」と称する現金支給には、私は選挙前からこれは新手の選挙買収ではないか、また実施すれば、それは国民の精神を堕落させることになるのではないかと再三危惧を訴えて来た。同様の批判はマスコミ評論家諸氏から全く上がっていないけれど、私は単なる自身の感性だけから批判しているわけではない。

 長年産業界では、従業員のやる気と給与をはじめ昇進・昇格制度、作業環境等諸々との関連を研究してきた。それは一部「中小企業白書を読む第9回-仕事のやりがいを求めて-」に書いた。ハーズバーグ「動機づけ-衛生理論」などである。

 関連して、面白い話がある。東京大学21世紀COEものづくり経営研究センターの藤本隆宏先生の著書で「ものづくり経営学」光文社新書2007年3月20日初版、に紹介されている話である。第1部第3章に「人は金のみのために働くにあらず」とあり、『誤解を恐れずに明言すれば、給料を上げれば勤労意欲が高まるというナイーブなアイディアは科学的根拠のない迷信である』とあり、有名な心理学者であるエドワード・L・デシの実験を紹介している。

 「実験室に大学生一人ずつを入れてパズルを解かせるもので、途中に一定の休憩時間を設けて、その間は何をしてもいいことにした。当然報酬を払う約束はなかったが、一方のグループにはパズルを解いた数に応じて報酬を払うようにする。すると、そのグループの学生の方が休憩時間に休むことが多くなり、無報酬のグループの方が休憩時間にもパズルを解いている時間が長かったという。いろいろパターンを変えて実験を行ったが、結果は同じだった。金銭的報酬をもらうと、本来は面白いはずのパズルであっても、自由時間を休憩するようになる」。

『実は、お金はモチベーションに効果がないのではない。逆にインパクトが強すぎるのだ』。続いて「ものづくり経営学」には、デシが引用しているという次のような話を紹介している。その部分をそのまま引用させていただく。

『第一次世界大戦後、ユダヤ人排斥の空気が強い米国南部の小さな町で、一人のユダヤ人が目抜き通りに小さな洋服仕立て屋を開いた。すると嫌がらせをするためにボロ服をまとった少年たちが店先に立って「ユダヤ人!ユダヤ人!」と彼をやじるようになってしまった。困った彼は一計を案じて、ある日彼らに「私をユダヤ人と呼ぶ少年には10セント硬貨を与えることにしよう」と言って、少年たち一人ずつに硬貨を与えた。

 戦利品に大喜びした少年たちは、次の日もやってきて「ユダヤ人!ユダヤ人!」と叫び始めたので、彼は「今日は5セント硬貨しかあげられない」といって、再び少年たちに硬貨を与えた。その次の日も少年たちがやってきて、またやじったので、「これが精一杯だ」と言って今度は1セント硬貨を与えた。すると少年たちは、2日前の10分の1の額であることに文句を言い、「それじゃあ、あんまりだ」と言ってもう二度と来なくなった。』

 「もともとは内発的動機づけの状態で、仕事(やじること)と満足はくっついていた。つまり「仕事それ自体が報酬」の状態だったわけだ。それはパズル実験でも同じだった。ところが、そこに金銭的報酬が投げ込まれると、インパクトが強烈なので、仕事と満足の間に割り込んで両者を引き離してしまい、満足を報酬の後に追いやってしまう・・・報酬のインパクトが仕事の喜びを奪ってしまう」。子育ての喜びや苦労の中に現金を投げ込んではいけないのである。

 「子育て」は「パズル」や「嫌がらせ」とは質が違い、また国からの手当てと報酬では異なるとの反論もあろうが、現金支給ということに変わりはなく、そのインパクトが心に与える影響の強さを省みる必要があることに変わりはない。政治家や社会的強者の位置にあるマスコミ評論家諸氏にとっては、たかだかの額と思えるものであっても、平のサラリーマンを長くやった私は、月間数万円の価値を知っている。だからそのインパクトの大きさが伝わってくる。私が再三再四現政権のマニフェストなるものを批判する論拠なのである。
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閑話つれづれパートⅡその11

2009年10月01日 | Weblog
マニフェストの怪(上)

 民主党政権が誕生して半月。概ね好評で支持率も小泉内閣発足時に次ぐ記録だそうな。しかし、その根幹の部分がまだ見えない。不安要因は数々あるけれど、それらの不安が的中してしまった時は、先の大戦で結果責任をいくらA級戦犯に求めても栓なきように、すべては選択した国民の責任に帰することを覚悟せねばならない。先の大戦は民族の誇りをかけて戦ったからこそ民族は滅びず、見事な経済的復興を果せた。今回はそうはいかない。

 よくわからないのが、現政権が考える東アジア共同体構想。元々自民党政権はASEAN(東南アジア諸国連合)10カ国に中国、韓国に加えオーストラリア、インドを含むと考えて居た筈である。中国が主導しやすいオーストラリア、インドを外した構想に与することは絶対に止めなければならない。戦前わが国が唱えた大東亜共栄圏構想は、アジアで突出した軍事力を持っていた当時のわが国なればこそ国益に沿うもので、またそのことが、周辺諸国への制圧構想との批判もあったと考えられる。

 さりとて、サル山のボス猿にしてもガキ大将にしても腕力に優れておればこそ勤まる役割で、ひ弱な金持ちのボンボンが仲間におやつや小遣いを配ってリーダーになろうとしても、いいところで腕力を持った恐持てから脅されて持ち出しが増えるだけで、実権は持ち去られるのが落ちだ。下手をすれば属領扱いにされる懸念がある。

 内政問題。死刑廃止、外国人参政権などその手の論者が勢いを増す恐れが強い。憲法改正も現連立政権では議論も出来ないであろう。郵政民営化も大幅に後退する。そしてマニフェストの、額まで明示した子供手当て。財源をどうするのかとか、受給者の所得制限を設けるべきだとか、子供のために使うような支給方法を考えるなどなど、枝葉の話しか出てこないけれど、一番の問題と私が考える、現金を受け取る国民の精神の堕落の恐れに言及した議論は皆無だ。選挙があったお陰で、食うや食わずの時代でもなかろうに、この飽食とさえ言われる時代に、子供が居ることで、所得が急に増えるのである。こんなものは麻薬と同じで、一度貰いだすと止まらない。また別件でも何かの折には手当てを期待するような精神構造になる。糖尿病的体質に国民が蝕まれてゆく危険を感じないわけにはいかない。貧困層はいつの世にも生じる。貧困にはそれぞれに原因がある。現金を配って救済するやり方は、最後の手段と心得るべきだろう。

 少子化対策というなら、働くお母さん達のケアこそ重要で、本来現金支給など多くのお母さんは考えていなかったのではないか。元々、国は小中学校の運営だけでも十分に子供達のために国家予算を割いている。一人の子供に年間50万円程度かかっているように聞いたことがある。税金の扶養者控除による減税処置もある。

 また、高速道路無料化には国民の7割程度が支持していない。八ツ場ダムに至っては地元住民が今更中止はないだろうと怒っている。50年前からの計画をここに来て反故にする。マニフェストで約束したから。それだけの理由である。国民は民主党のすべての約束を支持して投票したわけではなかろうに。まさに逆手に取った横暴としかいえない。

 そもそも具体的なマニフェストなるものを掲げた時点で、国会という議論の場を無視した専横であるのに、いかにも公約は守るべきだという意識が先行し、原理原則主義に固まるところは、社会主義者や共産主義者に見られる特徴ではないか。そのうち、われわれの自由にモノが言える自由も束縛されるような懸念さえ感じる。国会議員の多数を占めたら、自分達が計画した政策はいかな反対があろうが通すというならば、それはまさに野党時代に自分達が批判していた与党の数の横暴であるのに。
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