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日本仏教をゆく 第10回

2019年11月28日 | ブログ
親鸞

 親鸞は、平安末期1173年、後に室町時代の足利将軍の妃を出す家として栄えた京都日野家に生まれた。当時日野家はまだ中級貴族であり、父は以仁王(もちひとおう)の乱に連座し失脚していた。9歳の時、四度も天台座主を務めた宗教会の大ボスである慈円の弟子となり、将来の出世を期待される身となった。

 しかし、純潔な心を持つ親鸞には叡山仏教の腐敗堕落が耐えがたく、29歳で京都の六角堂に百日参籠し、聖徳太子の夢のお告げによって法然門下となる。この時法然は69歳。浄土念仏の教えを説いた法然の名声は高く、彼の教えに対する旧仏教側の反撃も起ころうとしていた。

 すでに法然には多くの弟子があり、親鸞が特に法然から重んじられていたとはいえない。親鸞は法然の外様の弟子としかいいようがないが、親鸞は「法然に騙されて地獄に落ちてもかまわない」と語り、一生師を厚く敬い、深く慕い、師の教えを反芻しながら思索し、布教し、著作した。法然を宗祖とする浄土宗に代わって、浄土真宗という教団を興す意志などなかった。親鸞が「浄土真宗」と語る時それは「浄土宗」という意味であった。

 法然の教えに従えば、「ナミアミダブツ」と称えればどんな人でも必ず極楽往生できるという。ならば戒を守ることはほとんど意味を持たない。法然自身は固く戒を守り、それが世の僧俗の尊敬を集める所以でもあったが、親鸞は純粋に法然の教説に従って戒を廃棄し公然と妻帯を主張する。

 その頃、法然教団に対する弾圧運動が激しくなり、1207年、法然はじめその主要な弟子が流罪・死罪となる。この時親鸞も連座し死刑と決まっていたが、親族の公卿の尽力で越後に流罪となる。親鸞への重い刑罰は、公然と妻帯を主張するなど過激な行動が、旧秩序を重んじる人々の憎しみを買ったゆえであろう。

 親鸞は、これらの事件をでっち上げだと後鳥羽上皇はじめ君臣の非を激しく責める。日本の仏教界の祖師にして、時の上皇にこれほど激しく批判を投げつけた人はいない。そして彼は法然から貰った善信という名を捨てて、天親と曇鸞(どんらん)という二人の浄土教の祖師からとった「親鸞」を名乗る。すでに親鸞には法然とはいささか異なる浄土念仏の教えを立てようとする意思の表れではなかったか。

 流罪となった親鸞は、流罪地で恵信尼(えしんに)と結ばれ、子をなした。5年で赦されたが、都には帰らずしばらく越後にととまった後、常陸に行き約20年間をそこで過ごす。常陸の国のひとびとも親鸞の人間救済への純粋な熱情を知り、かなり多くの弟子や信者ができた。しかし、60歳を超えて彼を慕う弟子や信者を捨て都に帰る。

 親鸞ほど自己の中にある悪を深く見つめた仏教の祖師はいない。悪の自覚と懺悔において親鸞ははるかに師の法然を凌駕した。

 そして、法然の阿弥陀仏のおかげでこの世から極楽へ往生するという往相廻向だけでなく、再び極楽からこの世に還ることができる還相廻向を説いた。極楽往生した人間は利他のためにそこにいつまでもとどまるわけにはいかず、この世に再び帰って、悩める人たちを救わねばならないというのである。この還相廻向こそ浄土真宗の要であると親鸞はいう。

 亰に帰った親鸞は著作にいそしみ1262年、90歳の天寿を全うした。法然が哲学者であったのに対し、親鸞は詩人であった。


本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から引用編集したものです。


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日本仏教をゆく 第9回

2019年11月25日 | ブログ
法然

 法然には祖師の中でもっとも多くの御影(みえい)が現存しているという。その像には一様に聖僧の面影がある。子供の頃から甚だ賢くかつ慈悲深く、しかも厳しく戒律を守った僧であったことを偲ばせるものである。

 法然は、押領使(おうりょうし:地方の治安維持にあたる在地豪族)を務める父を持ち、平安時代後期の1133年、美作国(岡山県)に生まれた。

 14歳で叡山に上り、師の叡空(えいくう)から戒を受け、正式な僧となる。師の叡空は法然の人一倍学問好きを見込み、天台宗の根本経典である「天台三大部」の書を学ばせた。法然は短期間にそれらの書物をマスターし、以後叡空の書庫の中に籠居して、ひたすら解脱を求めて仏教研究に耽った。

 叡空の教説は、源信が『往生要集』で語った浄土念仏の説であった。それは、末代の凡夫は天台、真言のような難行苦行によって成仏することは難しく、西方浄土にいる阿弥陀仏を念仏する(観心修行:阿弥陀仏及び極楽浄土がありありとみえるようになる修行)か、寺に寄付するなどの善行を積んで成仏するというものであった。

 しかし法然は、そのような普通の人にはできない観心修行や寺に多くの財物を寄付することのできる人でなければ往生できないというなら、それはすべての衆生を平等に救いとるという大乗仏教の精神に反すると考えた。

 そして法然は7世紀唐代の僧、善導の書いた、「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」の注釈書である『観経疏(かんぎょうしょ)』を読んで、善導が念仏を口で「ナミアミダブツ」と称える口称念仏であると解釈していることを見出し、このような善導の説をとれば、いかなる凡夫も往生できることになり、すべての衆生を平等に救う阿弥陀如来の意に適うと、ひとえに善導の説による念仏の教えの道を進んだ。

 こうして法然は、頑固に観心修行にこだわる師の叡空との思想的対立によって叡山を下る。1175年、法然43歳であった。法然は、知も徳もない凡人でもまた悪人さえも「ナミアミダブツ」と称えれば間違いなく極楽浄土へ行けると説いたのである。

 法然自身は厳しく戒律を守る人であった。その法然が師に逆らってまで悪人までも救済したいと考えた訳は、彼の両親への想いがあったのではなかろうか。

 押領使であった父は、律令制度の秩序を乱す悪党とも称される武士たちの取り締まりの中で、血で血を洗う土地争いに巻き込まれ、恨みをかって殺された。また母の里は秦氏であり、絹織物を生産する業をしていた。秦氏は渡来の民であり、しかも律令国家の基本となる農業ではなく手工業に従事していたとすれば、農業に携わる土着の日本人からは、出身と職業の面で二重に差別される身で、差別する側から悪人といわれる人間であった。

 法然は父や母を悪人と考えざるを得ず、自身は堅く戒律を守り、一生不犯の清僧であったが自分の中における悪を深くみつめざるを得なかったのであろう。

 法然が叡山を下りて間もなく、源平の戦乱が起こり、加えて地震、台風、飢餓などが起こった。戦乱は律令社会を崩壊させ、権力は京都の王朝から鎌倉に移る。公家たちさえ自分たちの階級的基礎が崩壊してゆく不安にかられ強い無常感におそわれた。そのような時代に法然の教説は身分を超えて人々の共感を呼んだ。法然の教えが燎原の火のように広がったのは源平の戦乱が終わった戦後であった。

 しかし、念仏を称える人であれば自分の弟子だという法然浄土教の隆盛は、旧仏教、特に延暦寺や興福寺などの反発を招き、法然は四国に流罪となる。

 流罪4年、法然は京都に帰ったが、すでに老耄の徴候がひどく間もなく死んだ。1212年、80歳であった。


本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から引用編集したものです。


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日本仏教をゆく 第8回

2019年11月22日 | ブログ
浄土教を広めた二人の聖

 法然・親鸞による鎌倉浄土教以前に、すでに浄土教は平安時代に発展し、日本人の多くが浄土教の信者になっていた。一つの思想が発展するときには、その思想の権化のような行の人とともに、その思想を理論的に明らかにする知の人が出現するものである。

 浄土教の発展は、行の人・空也と知の人・源信という二人の聖(ひじり)によるところが大きい。空也と源信には約40年の年齢差があるが、当時の人は空也によって浄土教信仰に心ひかれ、源信によって浄土教の素晴らしさを理論的に知った。

 空也は903年に生まれ、尾張国(愛知県)国分寺で出家した。父は醍醐天皇とも仁明天皇ともはたまた常康親王ともいわれるが、空也の残した宗教詩が、学識に裏づけされた比類なく高い調べをもちながら、どこかに深い疎外感、孤独感を宿していることからも、高貴な生まれの人であったと感じられる。

 空也は若き日、行基の如く日本の各地を遊行し、道を造ったり、井戸を掘ったりした。さらに生きし生けるものに異常なまでの愛情を示した逸話が多く残されている。空也が蛇に飲み込まれようとする蛙を哀れみ、錫杖(しゃくじょう)を振ったところ、蛇はやがて蛙を放ったという。

 彼は死人にもやさしかった。京都の東、六波羅のあたりは、昔は死骸の捨て場であり、骸骨が散乱していたが、空也はその骸骨を一か所に集め、阿弥陀仏(西方の極楽浄土にいるとされる仏)の名を唱えながら油を注いで焼き、そこに西光寺という寺を建てた。西光寺は後に六波羅密寺になったが、そこには日本の木造彫像の最大傑作の一つであろう空也の彫像がある。

 源信は942年に大和国(奈良県)に生まれ、9歳にして叡山に上り、天台宗の中興の祖といわれた良源の弟子となる。良源とは台密の完成者であり、今の延暦寺は、伝教大師最澄の寺であるというより、元三大師(がんざんたいし)良源の寺とみえるとまで言われる高僧である。

 源信は天性聡明、特に論理の才に恵まれ、37歳で『印明論疏四相違略注釈(いんみょうろんしょしそういりゃくちゅうしゃく)』という論理学の難問を解く書物を書き、学僧としての名声は高くなるが、母の名利よりも清らかな僧にとの願いから、横川(よかわ)に隠棲する。

 源信はまた984年、『往生要集』三巻の執筆を始めわずか6カ月で完成させた。源信44歳であった。たちまちこの書の写本が作られ、人々は争ってそれを読んだ。藤原道長も、紫式部も、後の鴨長明、西行もこの書物を愛読して多くの影響を受けた。

 源信は詩や書物ばかりでなく、絵や彫刻もよくした。特に地獄の世界の描写はすごい。あたかもサディストの如く、これでもかこれでもかと、悪いことをした人間が死後に往くべき地獄の世界の凄まじさを示すが、そこには人間の悪と苦への深い洞察がある。

 源信はこのような六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の徹底的に苦の世界、不浄の世界、無常の世界)の世界を離れて、浄(きよ)く美しい極楽を欣(ねが)い求めよといい、その極楽の比類なき浄さ美しさを経典から引用して語り、素晴らしい極楽の絵を残した。多くの画家が彼にならって多種多様の極楽の絵や阿弥陀来迎の絵を描いた。宇治の平等院は極楽のみごとな造形化である。

 この極楽への往生する方法が念仏である。源信の念仏はあくまで美的創造力を行使する観想の念仏であり、平安浄土教は多くの素晴らしい造形芸術を生んだ。



本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から引用編集したものです。

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日本仏教をゆく 第7回

2019年11月19日 | ブログ
天台と密教の融合(台密)

 最澄そのものは「法華経」(大乗仏教の経典)の強い信者であったが、仏教が国家鎮護の役割を引き受けるときに、やはり加持祈祷によって呪力を発揮する真言密教がどうしても必要であった。しかし密教の理解において最澄は空海に劣り、空海に教えを請わねばならなかった。それゆえ最澄の弟子たちは密教を本場の唐で学び、密教においても天台宗を真言宗の上に置こうとする強い願望があった。

 最澄の後継者にあたる有力な僧に円仁(えんにん)、円珍が居た。円珍は円仁より20歳若く、二人は風貌・性格も対照的な僧であった。円仁は見るからに慈悲溢れる聖者の相であり、唐においても周囲の人々に気を遣い、また唐人たちも円仁を心から愛した。一方円珍は、頭は丸くとがってすりこぎ状で、甚だ珍奇な風貌をしていたばかりか、その知性はまことに鋭く、その言葉は一言で人を威圧した。仲間に対する疑惑や非難も手記に残し、毒舌を吐いた。人格の円満さを欠いていたようだ。

 伝教太師最澄が開いた比叡山延暦寺はやがて座主制をとり、第一世の座主は最澄が入唐にあたって通訳を兼ねて伴った僧、義真(ぎしん)が就任した。義真は最澄の直接の弟子ではなかったため、最澄の弟子との派閥争いを生じた。義真の死後第二世座主は最澄の愛弟子円澄が着く。円仁は最澄門下のエースとして、唐で天台仏教とともに密教を学び、帰国後すぐに天台座主(ざす)となっている。一方円珍は義真門下のエースであり、円仁同様入唐僧であったことで、同様に天台座主になっているが、二人は最澄の直接の弟子か否かで派閥を異とした。すなわち最澄・円仁系と義真・円珍系である。

 その対立は日々激しくなり、ついに円珍系の僧は叡山を下り、三井寺(園城寺)を根拠地として、山門仏教に対して寺門仏教を立てた。

 このように円仁と円珍は派閥こそ異なるが、思想的には間違いなく円珍は円仁の後継者であり、両者によって日本の天台宗は大きく変貌した。それは天台と密教の融合であり、真言宗の密教に対して台密(天台宗の密教)という。

 円仁は794年、下野国(現在の栃木県)都賀に生まれ、鑑真の門下の弟子が住職を務める生家の近くの大慈寺で僧となり、15歳で比叡山に上り最澄の弟子となる。学業きわめて優秀、温和な性格で最澄にかわいがられ頭角を現す。838年入唐し、当時の中国仏教界の碩学から天台教ばかりか真言密教や華厳を学ぶ。847年、円仁54歳で帰国。翌年に京都に帰ると伝燈大法師、854年天台座主。松尾芭蕉の句(「閑さや岩にしみ入蝉の声」)で有名な山形の立石寺(山寺)は860年に清和天皇の勅命で円仁が開いたと伝わる。上下の厚い尊崇を受け、864年71歳で死んだ。

 円珍は814年、讃岐の国(香川県)那加の郡金倉郷に生まれた。母は佐伯氏の娘で、空海の姪にあたる。幼くして異常な学才を現し、828年叔父の僧仁徳に伴われて叡山に上り、義真の弟子となる。12年の籠山行を行って後、33歳で真言学頭となり入唐。6年後858年帰国すると、とんとん拍子に出世し、55歳という異例の若さで天台座主となる。数々の著作を残し、78歳で死んだ。


本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から引用編集したものです。


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日本仏教をゆく 第6回

2019年11月16日 | ブログ
最澄

 最澄は、日本天台宗の祖師である。近江国滋賀郡を根拠とする豪族である三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として767年に生まれた。空海の7歳年長である。

 14歳で近江国分寺に入り得度し、19歳のとき、一人叡山に上った。彼の生家が叡山の登り口に在り、当時隠遁の僧が叡山に上って、庵を建てて隠棲することがあり、その影響を受けたこともあろうが、最澄には堕落した奈良仏教への強い嫌悪があり、人里離れた山中で新しい仏教を模索しようとしたのではないかと言われる。

 当時、奈良の都で全盛を誇っていたのは華厳仏教であるが、天台仏教は、唐で栄えていた華厳仏教より一時代前の隋の時代に栄えた仏教であった。

 最澄が、このように歴史の流れに逆行するような旧仏教の興隆が日本に必要であると考えたのは、彼が聖徳太子の仏教の伝統を継ごうとしたからで、太子の重んじた「法華経」を根本経典として巨大な思弁体系を構築した天台智顗(ちぎ)の教えを信奉する教団を日本につくる必要があると考えた。また、日本に戒律の教えを伝えた鑑真が天台宗の僧であり、鑑真および鑑真の弟子たちの厳しい戒律を守る精神に共鳴し、天台宗をもっとも優れた仏教と考えたためであろう。

 孤独な隠遁者最澄に思いがけない光が差す。僧と高貴な女性との結びつきによって腐敗した奈良の都を捨てて、新しく京都の地に都を定めた桓武(かんむ)天皇との出会いである。桓武天皇は厚く最澄を崇拝し、彼を入唐還学生(にゅうとうげんがくしょう)に選んだ。空海が在籍20年の義務を持つ留学生に選ばれた時である。

 最澄は在唐わずか9か月で、天台ばかりか禅、戒律、密教などを学んで帰ってきた。ただ、唐で十分真言密教を学んでこなかったため、空海にそれらの経典を借り、自分の弟子を空海の下で学ばせるなど、密教においては空海の下手の立場に置かれる。天台仏教を奈良仏教に代わる新しい時代の仏教にするには、国家鎮護と玉体安穏を祈る呪力が必要であった。巨大で思弁的な理論体系と止観というすぐれた修行の方法をもつ天台宗も、呪力の点で物足らなかったのだ。

 時代は空海を寵僧とする嵯峨天皇の御代である。空海は最澄の要請を拒絶するようになる。両者の間には大きな亀裂が生じる。

 最澄は「法華経」にもとづいて、すべての人間は仏性をもっていて、必ずいつかは仏になれると主張していた。その主張は鎌倉仏教に受け継がれ、日本仏教の大きな特徴となる。

 また最澄は延暦寺に新しい戒壇の設立を望んでいたが奈良仏教の反対が根強く、生前に実現することは敵わなかった。彼は、奈良仏教の戒は真に大乗仏教の戒とはいえず、小乗仏教の戒も交じった不純な戒であり、純粋な大乗仏教の戒を与える戒壇を叡山に作るべきと主張していたのだ。

 その戒壇は西暦822年、最澄の死後7日目に残された門弟の奔走で実現された。


本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から多くを引用編集したものです。


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日本仏教をゆく 第5回

2019年11月13日 | ブログ
空海

 空海(弘法大師)は幼名を佐伯真魚(さえきのまお)といい、西暦774年、讃岐国(現在の香川県)多度郡弘田郷屏風ヶ浦に生まれた。佐伯氏は祖先がヤマトタケルの東征に従ったことを誇りとしている地方の豪族である。

 『空海の生誕の地は、いまの善通寺の境内である。・・・空海のころは海がいまの善通寺のあたりまできており、山は屏風のように入江にのぞみ、瀬戸内海をゆく白帆も、館の前の砂浜から見た。

 空海の幼少期に、摂津の難波ノ津を発した丹塗の遣唐使船が内海を西へ帆走してゆく姿も、おおぜいの里人とともに浜に立って見たであろう。・・・遣唐使船4隻が777年、空海4歳の時讃岐屏風ヶ浦の沖を過ぎている。・・・

 要するに空海の生まれた環境は、唐へゆくという、普通ならばとほうもないことが、ごく現実的な風景として、耳目で見聞できるような機会が多かった。空海はその夢想を育てるためには、とびきり上質の刺激に富んだ環境にうまれたということができる。』司馬遼太郎「空海の風景」中央文庫から抜粋、一部省略編集。

 幼にして学才を現した空海は、15歳の時に母方の伯父である漢学者の阿刀大足(あとのおおたり)を頼って上京し、18歳の時に大学に入ったが、大学を中退して、山岳修行者の仲間に入った。そして24歳の時「三教指帰(さんごうしいき)」を書いて、儒教、道教、仏教の比較をし、仏教の優越を論証したが、儒教や道教を全面的に否定しているのではなく、それらは仏教に含まれるものであると考えていた。

 空海は、乞食坊主の如き山岳修行者になったが、その後の経歴はよく分からない。ただ、修行の中で、彼は真言密教がもっとも優れた仏教であることを発見したが、それが十分日本に伝わっていないのを嘆いていた。

 そんな空海は幸運にも804年留学生に選ばれる。20年の唐への留学を命じられ、戒を受けて正式に僧になったと推測される。

 長安の都で、玄宗皇帝に厚く信愛され、インドからやって来た密教僧である不空(ふくう)の高弟の惠果(けいか)に出会った。惠果は空海の異常な才を認め、不空から授けられた真言密教を空海一人に授けた。しかし、すでに真言密教の全盛時代は終わり、中国の朝廷では廃仏の動きさえあった。情勢を感じた空海は、密教を中心とする多くの仏教経典やや法具を集め、2年で帰国する。彼の行動は闕期の罪に値するため、しばらく大宰府にとどめられていたが、嵯峨天皇の御代になって許され、天皇の寵愛を受けて、一躍時の人となる。

 真言密教は大乗仏教の発展の最終段階で生まれた仏教であるが、華厳仏教の影響を強く受けている。華厳は、一木一草の中に毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)が宿るという思想であり、密教もまた、大日如来は一木一草の中に宿り、私自身の中にも存在すると考える。

 真言密教の日本の思想に対するもっとも大きな影響は、真言密教によって神と仏が一体となったことである。仏教伝来後、蘇我・物部の戦いという日本の神道との宗教戦争まで起こしたが、東大寺建造にあたり、神と仏の新しい蜜月関係が生まれ、空海の真言密教によって決定的となった。

 嵯峨天皇は空海に高野山と都での活動の中心地、東寺を与え、さらに宮中に真言院を建てることさえ許した。こうして空海は一代にして真言密教を深く日本の地に下し、事終えて835年春、高野山に帰って死んだ。




本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊を中心に、司馬遼太郎氏「空海の風景」中央文庫からの引用を加え編集構成したものです。
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日本仏教をゆく 第4回

2019年11月10日 | ブログ
続、鑑真

 『・・・この寺の一室で一行は鑑真と会った。鑑真の背後には三十数人の僧が控えていた。この時鑑真は55歳であったが、骨格のいかにもがっちりした感じの大柄な人物で、額は広く、眼も鼻も口も大きくしっかりと座っており、頂骨は秀で、顎は意志的に張っていた。普照の眼には、准南江左、浄持戒律の者、鑑真独り秀で、これに及ぶものはないといわれている高名高徳な僧は、故国の武将に似ているように見えた。

 道抗が一行を紹介し終ると、栄叡は、仏法と東流して日本に来たが、単に法が弘布しているばかりで、未だに律戒の人がいない、適当な伝戒の師の推薦を賜りたいと言った。栄叡はまた聖徳太子のことを話し、・・・現在日本には舎人皇子(とねりのみこ)があって、皇子がいかに仏法を信奉し、伝戒の師僧を求めるに熱心であるかを語った。

 話を聞き終わると、鑑真はすぐ口を開いた。・・・諄々と説くようなその口調には魅力があった。

 「私は聞いている。昔南岳の思禅師(しぜんじ)は遷化の後、生を倭国(やまとのくに)の王子に託して仏法を興隆し、衆生を済度されたということである。またかかることも聞いている。日本国の長屋王子(ながやのおおぎみ)は仏法を崇敬して、千の袈裟を造ってこの国の大徳衆僧に施された。・・・こういうことを思い併せると、まことに日本という国は仏法興隆に有縁の国である。いま日本からの要請があったが、これに応えて、この一座の者の中でたれか日本国に渡って戒法を伝える者はないか」

 たれも答える者はなかった。暫くすると祥彦(しょうげん)という僧が進み出て言った。

 「日本へ行くには渺漫(びょうまん)たる滄海を渡らねばならず、百に一度も辿りつかぬと聞いております。・・・」

 相手が全部言い終わらぬうちに、鑑真は再び口を開いた。「他にたれか行く者はないか」

 たれも答える者はなかった。すると鑑真は三度口を開いた。「法のためである。たとえ渺漫たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきではあるまい。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」・・・鑑真と、17名の高弟が日本へ渡ることが須臾の間に決まったのである。・・・

 もともと四人の日本僧の帰国のための渡航さえ非合法的なものであったが、況して唐土から鑑真ら18名、道抗ら4名、総勢20名を越える一団が日本へ渡るというのは表向きには許されるべきことではなかった。事はすべて隠密に運ばなければならなかった。・・・』

 鑑真は、西暦752年に派遣された遣唐使が翌年に日本へ帰るに従って無事日本についた。最初の渡航の計画から12年、6度目の航海であったことになる。すでに鑑真は盲目となっていた。

 奈良の都に着いた鑑真は、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇、太政大臣藤原仲麻呂らの熱い歓迎を受け、伝燈大法師(でんとうだいほうし)を賜り、大仏殿の前に設けられた戒壇で、上皇、天皇以下に戒を授けた。そして755年、東大寺に戒壇院が設けられ、翌年、鑑真は大僧都(だいそうず)に、鑑真の弟子法進(はつしん)は律師に任じられる。

 当時の日本になぜ優れた戒師を唐から呼び、戒の制度を確立する必要があったのか。当時僧になって課税を逃れようとする人民が多く、国家財政安定化のために授戒の制度が必要であり、僧の腐敗、堕落を正す必要もあった。

 そして確かに財政的要求を満たし、東大寺の地位も著しく高くなった。しかし、鑑真が大僧都になって2年後の756年、鑑真はその地位を失う。戒壇院をつくれば東大寺に鑑真という僧は必要なくなったのである。

 鑑真は新田部親王の邸宅の跡地を与えられ、759年そこに彼自ら唐招堤寺という私立の寺を建てた。

 鑑真の来朝以後、日本の僧侶の腐敗が改められることはなかった。戒の軽視あるいは無視が日本仏教の滔々たる流れになってしまったのである。

 鑑真は688年唐の揚州江陽県に生まれ、763年に日本で亡くなった。



本稿は井上靖氏の小説『天平の甍』新装版(昭和54年)からの引用に加え、梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊を基に編集しています


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日本仏教をゆく 第3回

2019年11月07日 | ブログ
鑑真

 『すべての人々は仏になることができるとして、自分だけが悟りの境地に到ることだけを目指すのではなく、大きな乗り物(大衆)のように多くの人々を悟りに導くことを重要視する大乗仏教は、釈迦の滅後、紀元前後から興った仏教思想である。この仏教思想は、この世は無常であり、苦であると考え、出家して修行を積み、煩悩を捨てて自ら悟りの境地に至ることを目指す禁欲主義の原始仏教と異なり、ありのままの生命を肯定した。そして仏教は少数の人のものでなく、大衆のものとなったが、大衆的な仏教には、同時に堕落の影がさす。それは戒律の無視であり、僧尼の俗化である。・・・

 大乗戒の思想をこの国に伝えんとして、5度渡航を計画、5度失敗。密告、逮捕、投獄、漂流、難破、そして失明。あらゆる苦難が鑑真の運命となったが、鑑真の人類救済の意思は微動だにしなかった。ついに渡航の計画をたててより十二年目、66歳のときに奈良の都につき、東大寺に戒壇(僧侶が戒律を受ける儀式のために造られた壇。中国では3世紀頃から存在した)をつくる。・・・

 戦後、鑑真が有名になったのは井上靖氏の小説「天平の甍」昭和32年12月初版、中央公論社刊、の影響にもよろう。この小説は演劇にもなり、各地で上演され、鑑真の名をあまねく日本人に知らしめた。』

 以降本稿は、井上靖氏の小説『天平の甍』新装版(昭和54年)から引く。

 『・・・時の政府が莫大な費用をかけ、多くの人命の危険も顧みず、遣唐使を派遣するということの目的は、主として宗教的、文化的なものであって、政治的意図というものは、若しあったとしても問題にするに足らない微小なものであった。大陸や朝鮮半島の諸国の変遷興亡は、その時々に於いて、いろいろな形でこの小さな島国をも揺すぶって来ていたが、それよりもこの時期の日本が自らに課していた最も大きな問題は、近代国家成立への急ぎであった。中大兄皇子に依って律令国家としての第一歩を踏み出してからまだ九十年、仏教が伝来してから百八十年、政治も文化も強く大陸の影響を受けてはいたが、何もかもまだ混沌として固まってはいず、やっと外枠ができただけの状態で、先進国唐から吸収しなければならないものは多かった。・・・

 平城京はその経営に着手されてから二十三年、唐都長安を模したという南北九条、東西各四坊の整然たる街衢(がいく)は一応完成はしていたが、都の周辺には夥しい流民が屯し、興福寺、大安寺、元興寺、薬師寺、紀寺を初めとして四十余寺が建立されていたが、壮大な伽藍には空疎なものが漂い、経堂の中の経典も少かった。・・・

 二人の全く型の異なった若い僧侶、普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)に、隆尊は持前のおだやかな口調で説明した。日本ではまだ戒律が具わっていない。適当な伝戒の師を請じて、日本に戒律を施行したいと思っている。併し、伝戒の師を招くと一口にいっても、それは何年かの歳月を要する仕事である。招ねぶなら学徳すぐれた人物を招ばなければならないし、そうした人物に渡日を承諾させることは容易なことではあるまい。併し、次の遣唐使が迎えに行くまでには十五、六年の歳月がある。その間には二人の力でそれが果たせるだろう。・・・

 この時、普照が入唐の話を承諾する気になったのは、十数年という長期に亘る唐土の生活が許されるということのためであった。・・・』(続)




本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊を基に、井上靖氏の小説『天平の甍』新装版(昭和54年)からの引用により構成しています。



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日本仏教をゆく 第2回

2019年11月04日 | ブログ
役小角と行基

 聖徳太子の後に続く飛鳥・奈良時代の重要な僧として、役小角(えんのおづね)が挙がるが、太子に匹敵できる僧と言えば、行基(ぎょうき)となる。ただし、行基は役小角より半世紀ほど後の人であり、行基の中にはすでに役小角の影がさしている。

 役小角は大和(現在の奈良県)の葛城山に住み呪術で有名となり、朝廷の呪禁師(じゅごんし:病を治す呪文唱えることを仕事とする)の師となったが、人々を妖惑し、朝廷に反逆の心があるとの疑いを持たれ、699年に伊豆に流された(3年で放免)と続日本紀にある。しかし、その他については彼を知る確度の高い資料はほとんど残っていない。

 そんな役小角がなぜ聖徳太子の次にくるのか。日本の基層文化を縄文文化とし、日本という国家は、渡来した弥生族が土着の縄文人を征服してつくった国家である。この弥生人である最終的な日本の征服者がいわば皇室の祖先にあたる天孫族である。天孫族はもともと南九州に渡来したが、初代ニニギノミコト(天照大神の孫)の曾孫にあたる神武天皇がはるばる大和に出征し、ナガスネヒコ(長髄彦:大和の指導者)を殺害し、日本国の最初の王となる。

 弥生人に征服された縄文人は山に逃れた。縄文文化は甚だ呪術的な文化であり、役小角のように山人は縄文時代から脈々と伝わる呪術に長じ、また新しい呪術である道教や仏教を取り入れ、里人がとうていもつことのできない呪力を持ったのであろう。

 山や森は縄文時代以来、神のいるところであった。蘇我・物部の戦いという仏教と反仏教の天下分け目の戦いによって仏教側が勝利し、日本は仏教国となった。山に逃れた山人の心の奥には、怨念がたまる。本来その反逆性を持った修験を仏教は取り込み、反逆性を弱めたとも言える。

 仏教が山に入るとき、そこには必ず神がいて、何らかの意味で神と仏が合体し、役小角の如き信仰が生まれる。彼は修験道(修行者を山伏と呼ぶ)の祖として後々まで厚く尊敬されたのである。

 行基は、河内国に生まれ、西暦682年出家した。その後、仏教と社会事業を結び付けて精力的に活躍した僧、薬師寺の道昭(どうしょう)に師事し、やがて山野にこもり、山岳修行者となる。

 行基の活躍が目立つのは710年、すなわち、平城京遷都の頃からである。律令制の完成に伴い国家の統制が厳しくなる中、行基は僧の統制を乱すとして国家から非難された時期があった。しかし行基は、単に仏教の教えを説くばかりではなく、師である道昭にならって道を造り、橋を架け、地を掘り、旅人が泊まることのできる家を建てた。山岳修行者であった行基はこのようなことのできる工人集団を抱えていたのであろう。

 僧としての行基の評判は高く、行基が行けばそこに大勢の人が群れ集って彼の説法を聞いた。行基がとどまったところ、そこに道場ができ、寺には行基集団による多数の素木の仏像が残された。

 聖徳太子は死の前に、「私はこの国の皇子として生まれて仏教を広めたが、次には貧しい家に生まれて衆生を救済したい」と言ったというが、この太子の生まれ変わりが行基であるという伝承が強くある。

 行基はまことに貧しい女の私生児として生まれた。自らを「が子なり、海辺の旋陀羅(せんだら)が子なり」といった日蓮よりも。もっと身分の低い貧しい家庭であったという。このような生まれゆえに、彼は民衆の生活の苦しさをつぶさに知ることができ、多くの衆生を救済することができた。

 その民衆のカリスマは、東大寺建造という国家の一大プロジェクトに際し、民衆の協力が必要な国から大僧正という最高の僧位を授与され、大仏開眼3年前に82歳で亡くなった。

 千葉県鋸南町の鋸山にある日本寺(日本一の大仏(石像)がある)は、725年行基が聖武天皇の勅詔と、光明皇后のお言葉を受けて開山したものである。



本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から多くを引用編集したものです。



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日本仏教をゆく 第1回

2019年11月01日 | ブログ
仏教伝来

 仏教は、西暦552年、大和朝廷欽明天皇の御代、百済の聖明王によって日本に伝来した。歴史書に仏教伝来は538年としているものもある。いずれにしても時代区分ではわが国の古墳時代(3~7世紀頃、弥生~飛鳥~奈良時代)。この時代全国に多くの前方後円墳が造られている。大阪平野に残る仁徳天皇陵を中心とする「百舌鳥・古市古墳群」は今年ユネスコの世界文化遺産に登録された。

 仏教伝来から200年後の752年、東大寺(奈良、大仏殿)という巨大な寺が建立された。この200年で日本は仏教国家になったのである。仏教を日本国家の根底においた最大の功労者こそ聖徳太子(574-622)であった。

 聖徳太子は、「憲法十七条」(604年)や「冠位十二階」(603年)を制定したことで知られる。当時、わが国は中国文化を朝鮮三国の百済・高句麗・新羅を通じて受け入れていたが、未だ古い氏姓制(大和朝廷の政治的な身分制度で、氏(うじ)という血縁を中心とする集団が、姓(かばね)という家柄や職業に応じた称号を持つ)が支配する国家であった。太子は、日本を中国並みの成文法を持つ律令制(律:刑法、令:民法・行政法など、法律に基づく国家制度)の国にするため、遣隋使を派遣し、先進国中国の文化を積極的に移入した。

 太子は用明天皇の子として生まれたが、用明天皇の父は欽明天皇であり母は蘇我(稲目)氏の娘であった。蘇我氏は欽明天皇以上に熱烈な仏教の崇拝者であり、太子も幼いころから仏教崇拝の心を植え付けられたものであろう。太子が生まれた574年は仏教に懐疑的であった敏達天皇の御代であったが、没後用明天皇が即位した。しかし、用明天皇が亡くなると、崇仏の蘇我氏と排仏の物部氏の間で争いが起こった。このとき太子はまだ14歳であったが、木で四天王の像を造り戦勝を祈ったと言われる。争いは崇仏軍の勝利に終わり、崇峻(すしゅん)天皇が即位。この時「法興」という年号が制定されたが、それは日本が仏教国になったことを宣言するものだった。

 崇峻天皇は蘇我(馬子)氏と対立して殺され、敏達天皇の皇后であった推古天皇(欽明天皇の娘、用明天皇の同母妹)が即位する。推古天皇は太子の叔母であり、その摂政となり(593年)、蘇我(馬子)氏と共に政治を司ることになる。

 「憲法十七条」の第二条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧(ほとけのりほうし)なり」とあり、これははっきりとした仏教国家の宣言である。第一条の「和を以て尊しとなす」、第十条「忿(ふん)を絶ち瞋(しん)を棄て人の違ふを怒らざれ」や第十四条「羣臣(ぐんしん)百寮(ひゃくりょう)嫉妬あること無(なか)れ」も仏教の和の奨励、怒りの抑制、嫉妬の否定の思想である。

 「冠位十二階」も、身分の上下を問わず、広く才あり徳ある者を用いるという精神によってつくられている。太子はそれを実践した人でもあった。


本稿は梅原猛著「梅原猛、日本仏教をゆく」朝日新聞社2004年刊から多くを引用編集したものです。



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