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日本の名詩その10

2010年01月28日 | Weblog
昨日にまさる恋しさの

 昨日にまさる恋しさの
 湧きくる如く嵩(たか)まるを
 忍びこらへて何時までか
 悩みに生くるものならむ。
 もとより君はかぐはしく
 阿艶(あで)に匂へる花なれば
 わが世に一つ残されし
 生死の果の情熱の
 恋さへそれと知らざらむ。
 空しく君を望み見て
 百たび胸をこがすより
 死なば死ぬかし感情の
 かくも苦しき日の暮れを
 鉄路の道に迷ひ来て
 破れむまでに嘆くかな
 破れむまでに嘆くかな。
       -詩集『氷島』

 『この詩は、萩原朔太郎(1886-1942)の後期を代表する一篇で、すでに四十の半ばをすぎての作品であるが、少年のようなひたむきな情熱が感じられる詩である。

 「あなたを恋しく思う気持ちは、きのうよりきょうと、日ましにたかまってくるのに、それをいつまで忍んで、悩みながら生きていかなければならないのであろう。むろん、あなたは、“かぐわしく、阿艶に匂へる花”(美しく装って客席に侍る女性でもあろうか)であるから、わたしの生涯にたったひとつ残された、最後の情熱をかたむけたこの恋さえ、知ってはいないであろう。・・・・」というのである。

 萩原朔太郎は、明治19年群馬県前橋市に生まれた。24,5歳ころから詩作をはじめ、大正5年室生犀星らと雑誌「感情」を創刊。従来の古典主義的・形式主義的美学を否定する一方、自然主義的リアリズムの卑俗性をも否定し、詩における感情の優位性をかかげて、抒情詩の新しい展開をはかった。』-榊原正彦氏編「日本の名詩」-

 2004年テレビや映画も大ヒットし、セカチューブームを巻き起こした片山恭一(1959- )*8)の青春恋愛小説「世界の中心で愛をさけぶ」の主人公「松本朔太郎」(サク)は、この詩人萩原朔太郎由来とのこと。作家片山恭一氏の萩原朔太郎に寄せる想いは知らないけれど、萩原朔太郎の恋愛詩に懸けた情熱がその小説を通じて現代に蘇ったというのは云い過ぎであろうか。

 蛇足ながら付け加えさせていただければ、長沢まさみさん演じる廣瀬亜紀(アキ)がグランドを走っていた、サクとアキが通う木庭子高校の映画*9)のロケは、愛媛県伊予郡松前(まさき)町北黒田の県立伊予高校で行われたとのことだけれど、「松前町北黒田」は私の故郷だ。もっとも私が高校生の頃には伊予高校はまだなかったのだけれど。


*8)片山恭一(1959- )愛媛県宇和島市出身。小説家。宇和島東高等学校から九州大学農学部、同大学院博士課程中退。「世界の中心で愛をさけぶ」小学館2001年4月刊は故郷宇和島を舞台にしている。by Wikipedia
*9)2004年5月東宝系にて公開。by Wikipedia
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日本の名詩その9

2010年01月25日 | Weblog
素朴な琴

 八木重吉(1898-1927)という詩人がいた。僅か29年の生涯であった。『明治31年東京南多摩に生まれ、大正6年東京高等師範卒業後兵庫県で師範学校そして千葉県の柏で中学(旧制)の教諭を勤める傍ら詩作をおこなっていた』とある。『大正15年肺結核に罹り、神奈川県茅ケ崎で療養生活を送ったが、昭和2年に永眠した。内村鑑三の著作にしたしみ、熱烈なキリスト信徒として敬虔な生涯を送った』ともある。『没後、遺稿をまとめて3つの詩集が出版されている』。-榊原正彦氏編「日本の名詩」-   

 この明るさのなかへ
 ひとつの素朴な琴をおけば
 秋の美しさに耐へかねて
 琴はしづかに鳴りいだすだろう
         -詩集『貧しき信徒』 
                   
 表題の「素朴な琴」という詩である。今私の身近に琴はないが、秋の日のすがしい空気の中に琴を置けば、ほんとうにひとりでに糸が弾けて鳴りだしそうな想いが伝わってくる。言われてみればそんな気にさせるけれど、そのように詩に表した作者の並々ならぬ感性が好きだ。

 「秋」
 草をふみしだいてゆくと
 秋がそっとてのひらをひらいて
 わたくしをてのひらへのせ
 その胸のあたりへかざってくださるような気がしてくる
         -『八木重吉詩集』

 「虫」
 虫が鳴いている
 いま ないておかなければ
 もう駄目だというふうに鳴いている
 しぜんと
 涙をさそはれる
         -詩集『貧しき信徒』

 この詩は、虫の鳴きごえと作者自身の詩作を重ねているように思える。作者の29年の生涯は、確かに短すぎるものであったろうけれど、「いま ないておかなければ」と思える時期は長寿の人のそれぞれにもあろう。私も自らの人生の秋の今、この拙いエッセーを綴っている。
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日本の名詩その8

2010年01月22日 | Weblog
老漁夫の詩

 人間をみた
 それを自分は此のとしよった一人の漁夫にみた
 漁夫は渚につっ立ってゐる
 漁夫は海を愛してゐる
 そしてこのとしになるまで
 どんなに海をながめたか

 漁夫は海を愛してゐる
 いつまでも此の生きてゐる海を

 じっと目を据(す)ゑ
 海をながめてつっ立った一人の漁夫
 此のたくましさはよ
 海一ぱいか
 海いっぱい、
 否、海よりも大きい

 なんといふすばらしさであろう
 此のすばらしさを人間にみる
 おお海よ
 自分はほんとうの人間をみた
 
 此の鉄のやうな骨節(ほねぶし)をみろ
 此の赤銅(あかがね)のやうな胴体をみろ
 額の下でひかる目をみろ
 ああこの憂鬱な額
 深くふかく喰いこんだその太い力強い皺線(しわ)をよくみる

 自分はほんとうの人間をみた

 此の漁夫のすべては語る
 曽(かっ)て沖合でみた山のやうな鯨を
 たけり狂った断崖のような波波を
 それからおもはず跪(ひざまず)いたほど
 うつくしく且つお厳(ごそ)かであった黎明(よあけ)の太陽を
 ああ此のあをあをとしてみはてのつかない大青海原
 
 大海原も此の漁夫の前には小さい
 波は寄せて来て
 そこにくだけて
 漁夫のその足もとを洗っている。
           -『風は草木にささやいた』

『これは、牧師の聖職にあった山村暮鳥(1884-1924)が34歳のときに出版した第三詩集の中の一篇である。山村暮鳥は、決して英雄や天才などの特殊な人間のなかに理想の人間、ほんとうの人間を求めていたのではなく、平凡な人間のなかにそれを求めていた。そして、その理想の人間像とは、「仕事を愛し、職場を愛し、苦悩にたえて、ひたすらに生きる」ことにあった』-榊原正彦氏編「日本の名詩」-

この大自然に比べればわれわれ人間は何とちっぽけなものよ。との感慨が一般的であるように思うけれど、この詩は「否、海よりも大きい」と歌っている。まさに人間讃歌である。

元々そこにあった自然よりも、意志、克己、忍耐、滅私、苦悩、恐れ、努力、夢、希望、創造力、それらを通して得られた人格に寄せる敬意がある。確かに昔の日本人にはそれがあった気がする。政治家に実業家に、学者にそしてこの漁夫のような市井人の中にも。私もそんな人間を遠い昔に見た気がする。
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日本の名詩その7

2010年01月19日 | Weblog
小景異情その二

  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや
  うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
  帰るところにあるまじや
  ひとりの都のゆふぐれに
  ふるさとおもひ涙ぐむ
  そのこころもて
  遠きみやこにかえらばや
  遠きみやこにかえらばや
        -『抒情小曲集』*5)

 格別、文学や詩歌に興味を持っていない人もこの詩のはじまりの2行は何となく聞き覚えがあるのではなかろうか。恐らく多くの人がいろんなところで引用したり、機会ある毎に講釈したためではなかろうか。それにしても名句である。

 『「小景異情」は、室生犀星(1889-1962)の初期の作品で、「その一」から「その六」まで、六章にわかれているが、各章は、それぞれ独立した形をとっている。そのなかで、この「その二」は、古くから「望郷の詩」の傑作として、多くの人にしたしまれてきた作品である。・・・

 -具体的に述べられていないが、作者には、なにか故郷に帰れない事情、もしくは帰りたくない理由があったことがうかがわれる。だから、作者にとっては「ふるさとは遠きにありて思ふもの」であり「悲しくうたふもの」なのだ。・・・』-榊原正彦氏編「日本の名詩」-

 また、福永武彦氏による「室生犀星伝」*6)によれば、『犀星は明治22年金沢市*7)に生まれた。父はもと加賀藩で足軽組頭として150石を取っていて、維新後は剣術道場を開いて暮らしていた。齢六十すでに正妻はなく、犀星は家事手伝いの女中ようやく三十を過ぎた年頃にあった“はる”を母として生まれた。そして犀星は名前もつけられぬまま、謝礼金をつけて不義の子を買い受ける常習犯であった赤井初という女性の手に渡された。この赤んぼは照道(てるみち)と命名されて、赤井初の私生児として届けられた。ただ、初は近くの寺の住職である室生真乗と内縁関係にあり、照道7歳でその養嗣子となったため、以後室生の姓を名乗ることになる。

 実の父は、照道(犀星)が九歳の時に死に、そのあと“はる”はその家から退散し行方不明となったため、犀星の実母への記憶は淡々しいものであり、この後彼はついに実の母に再会することが出来なかった。』とある。

 犀星の詩友山村暮鳥(1884-1924)の詩集「雲」にある
    おうい雲よ
    ゆうゆうと
    馬鹿にのんきそうさうじゃないか
    どこまでゆくんだ
    ずっと磐木平の方までゆくんか
の詩を中学で学んだ時、教師から「作者は磐木平に悲しい思い出があり、ただののんきな詩ではない」ように学んだ記憶がある。先生は詩の意味の深さを教えられたものと思うけれど、犀星の詩も同様の趣があり、その生い立ちを知ればより強く悲しみが伝わる。

 この1月10日(日)の日本経済新聞に「うたの動物記」「腐っても鯛―別格の魚」と題する小池光氏のエッセーの中に、室生犀星の子供向け詩集からの引用を見つけた。この原稿を書こうとしていた時期に犀星と出会えて偶然の妙を感じた。


*5) 勝手な引用は著作権(作者の死後50年間有効)に触れる恐れがありますが、エッセーの趣旨に鑑みご容赦ください。
*6)「現代日本文学館21」昭和43年文藝春秋刊
  福永武彦(1918-1979)東京帝国大学仏文学科卒、小説家、詩人
*7)金沢市は徳田秋声、泉鏡花そして室生犀星と同時期に3人の文豪を輩出した。他にも西田幾多郎や鈴木大拙のような大思想家も生んでいる。
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日本の名詩その6

2010年01月16日 | Weblog
相思

 与謝野鉄幹のことは晶子の詩で触れたけれど、そこに出てきた「相思」という詩も全篇を掲載しておかねば片手落ちのような気がした。

   梅といふな 百合といふな
   譬喩(たとえ)つめたきに ただ少女(おとめ)と云へ
 
   このやは手 夕べもゆるに 野の羊追はんは 人の鞭なり

   さらば君 かぎりありや はじめありや
   恋は我れ想ふ 遂に夫(そ)れそぞろ

   すくせ間はば 髪みだれたり
   きぬ破れたり 人の子のまへ 栄えある二人か

   巌(いわ)かげの寒きに またたく星見て
   さは云へどしばし ああわりなし 世すてられず

   名には盲児(めしい) なさけには乞丐児(かたい)
   もろきいのち ながきそしり それも悔いじ

  ひそかに誇る くれなゐの袖かみて
  また千とせ説かず つよくつよき このふたりが恋

  ほそ糸に 何の永久(とわ)の音
  春みじかく 琴は裂くるも ああ我歌よ激しかれ
                   -詩歌集『紫』 
『与謝野鉄幹は、明治33年に雑誌「明星」を発刊したが、まもなく鳳晶子と相識り、やがて相愛の仲となった。しかし、当時、鉄幹にはすでに妻があったため、その恋は道ならぬものとして、世の非難をうけずにはいなかった。結局、鉄幹は翌年、前妻と別れて、晶子と結婚したのだが、この詩は、前述のような世間の非難のなかで書かれたものである。』とある。

『美しい女性をたたえるのに、一般には、梅や百合などの花にたとえるが、そのたとえには冷たさがあるから、彼女をそのような花などにたとえてはいけない。つまり、女性を花にたとえる場合は、その女性を精神的な存在として眺めるだけで満足する気持ちがあるわけだが、自分はそれだけでは満足できない。』に始まり、

『「それならば君、恋に限度があるだろうか。始め・終わりがあるだろうか。いや、ない」(第3節)・・・「ふたりが、このように狂おしいほどに愛しあうのも、前世からの定めであろう。たとい、人から非難の鞭を加えられようとも、恋に生きる二人は、栄光につつまれているのだ」(第4節)・・・「名誉は失っても恋は捨てたくない。もろい命を思えば、長く人からそしりを受けることになっても、決して悔いない」(第6節)・・・「世間の人がなんといおうと、いっさい釈明せず、つよい、つよい、このふたりの恋を心のなかに誇るばかりである」(第7節)・・・「人生の青春は短く、歓楽はいつか終わるだろうが、わたくしの恋をたたえる詩歌は、永遠の生命を持つのだから、はげしくあれ」(最終節)』で結んでいる。-榊原正彦氏編「日本の名詩」-

 妻をめとらば才たけて 顔うるはしくなさけある
 友をえらばば書を読んで 六分の侠気四分の熱

 恋のいのちをたづぬれば 名を惜しむかなをとこゆゑ
 友のなさけをたづぬれば 義のあるところ熱をも踏む

 ・・・ ・・・     「人を恋ふる歌」-詩歌集『鉄幹子』
 の作者、芸術を讃美し、恋愛を至上とした詩人とあるけれど、これらの詩を通しても明治日本の気骨が垣間見える気がする。
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日本の名詩その5

2010年01月13日 | Weblog
智恵子抄「あどけない話」

 智恵子は東京に空がないといふ。 
 ほんとの空が見たいといふ。

 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、切っても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ。

 智恵子は遠くを見ながら言ふ。
 阿多々羅山の山の上に 毎日出ている青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。

 あどけない空の話である。
-詩集『智恵子抄』

「智恵子抄」といえば、二代目コロンビアローズさんが歌った歌謡曲(丘灯至夫作詞、戸塚三博作曲)を思い出すのは、われわれ世代では私だけではないだろう。二代目コロンビアローズさんは、昨年NHK「歌謡コンサート」に登場されたそうだけれど、見逃してしまった。それにしても便利な世の中、You Tube*3)では昭和39年当時*4)の彼女のステージが見れる。こんなにも清楚でしかも色気のある素敵な女性だったんだ。というのが感想である。当時高校2年生の私には単なる3歳も年上の女性歌手だった。青山和子さんが歌った「愛と死を見つめて」とレコード大賞を競ったとあるけれど、昭和39年(1964年)と言えば東京オリンピックの年、なぜか哀しげな曲がヒットした。

 『高村光太郎(1883-1956)は、明治45年、29歳のとき、福島県安達郡油井村出身の智恵子と結婚した。智恵子夫人は、のちに脳をわずらい、昭和13年の秋になくなったが、光太郎の夫人に対する愛は、夫人の生存中はもとより、死後も変らず、おりにふれて、夫人に対する愛の詩を書いた。それらの夫人にかかわりのある作品だけをあつめて、一冊にまとめたのが、有名な詩集「智恵子抄」である。・・・

したがって、「智恵子抄」には、恋人であった智恵子に捧げた詩から、健康な若妻であった智恵子に捧げた詩、そして、病床につくようになったいたましい妻、智恵子に捧げた詩、および故人となった妻におくった詩がおさめられている。・・・この詩(「あどけない話」)は、たぶん、新婚後間もないころをうたったものであろう。』-榊原正彦氏編「日本の名詩」-

 You Tubeの「智恵子抄」の映像に、安達太郎山(こちらが正式名)が出てく」るけれど、その山麓に「この上の空がほんとの空です」という柱状のモニュメントが映る。ユーモラスでもあり、智恵子を悼むようでもある。

*3)jfkd85さんの素晴らしい編集によるものです。
 *4)カラー映像なので、昭和39年のリリース当時ではないかもしれません。
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日本の名詩その4

2010年01月10日 | Weblog
白玉

与謝野晶子(1878-1942)の作品では、「君死にたまふことなかれ」があまりにも有名である。『その詩の傍題に、「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」とあり、明治37年(1904年)の夏、日露戦争に応召していた晶子の弟籌太郎(ちゅうたろう)が、旅順攻撃軍に加わったと聞き、その身を案じて書いた一遍』とある。国の命運を賭けた当時の超大国ロシアとの戦争最中の反戦歌として、当然に世間の非難を浴びたけれど、晶子は怯むことなく、『「歌ならい候からには、私、どうぞ後の人に笑われぬまことの心を歌いおきたく候、まことの心をうたわぬ歌に何のねうちの候べき。出征軍人を見送るとき、親兄弟や友人・親類などは、みな無事で帰れよ。気を付けよ。といい、大声で「万歳。」というが、この「無事で帰れよ、気を付けよ。万歳。」というのは、すなわち私のつたなき歌の「君死にたまふことなかれ」と申すことに候はずや。」と駁論したのである。』とある。

有名な話で書くまでもないが、妻ある鉄幹(1873-1935)との恋によっても晶子は世間の非難を浴びた。当時鉄幹は「相思」(詩歌集『紫』)でその恋を歌い。晶子も「やは肌の熱き血潮に触れもみでさびしからずや道を説く君」と応えている。結婚した晶子は、夫鉄幹との間に11人の子を儲けている。長女と次女は双生児なので都合十度の出産をし、その8度目の出産を無事終えた時の感激を「産室の夜明け」(詩歌集『舞衣』)という詩に残してもいる。そんな晶子の全詩作品のなかでも、もっともすぐれたもののひとつにあげられているのが、「白玉」(詩集『恋衣』)である。

しら玉の清らかに透る うるはしのすがたを見れば
せきあへず涙わしりぬ
しら玉は常ににほいて ほこりかに世にもあるかな

人のなかなる白玉の をとめ心はわりなくも
ひとりの君に染めてより
命みじかくいともろき よろこびにしもまかせはてぬる

『「白玉」というのは真珠のことで、第1節の大意は、「真珠の透きとおるばかりに美しいようすを見ると、涙が、とめようとしてもとまらず、流れた。真珠は、いつも美しく、ほこらしそうに見えるものだ。」となるが、ここで真珠といっているのは、処女、または処女性の象徴である。第2節では、「人のなかの真珠である乙女の心は抑えようもなく、ひとりのひとに思いを寄せてからは、短い生涯をかけてつかの間のよろこびに身をまかせるようになった。」すなわち、失った処女性を愛惜する女性の心(第1節)と、その処女性を愛するものに捧げた喜び(第2節)とを得意の古語を使い、典雅な調べでうたった佳篇である。』-榊原正彦氏編「日本の名詩」-
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日本の名詩その3

2010年01月07日 | Weblog
ふるさとの

 ふるさとの 小野の木立に
 笛の音の うるむ月夜や。

 少女子(おとめご)は 熱きこころに
 そをば聞き 涙ながしき。

 十年(ととせ)経ぬ おなじ心に
 君泣くや 母となりても。*2)

 この詩は童謡「赤とんぼ」の作詞者として高名な三木露風(1889-1964)18歳の時の作品とのことである。『明治の末期から大正の初めにかけて、独自の瞑想的な象徴詩風を完成し、北原白秋と並び称された三木露風の第二詩集「廃園」(明治42年)におさめられているもので、かれの初期を代表する好短唱である』とある。

『おぼろにかすむ月夜のこと、ふるさとの野の木立のあいだから、愁いをふくんだ笛の音が流れてきた。少女は、夢中でそれをききいって、涙をながした。それから十年の月日がすぎて、母となっても、君はあのときと同じ純な心で泣くことができるのだろうか、というのである。』-榊原正彦氏編「日本の名詩」-

 三木露風の流れを汲む詩人に西条八十氏がおり、「支那の夜」、「誰か故郷をおもわざる」、「青い山脈」、村田英雄の「王将」、舟木「絶唱」まで戦前戦後を通して多くの歌謡曲の作詞も手掛けられ、大ヒットメーカーでもあった。当時の歌謡曲は、今も演歌ではそうだけれど、歌詞が重視されていた。その後シング・ソングライターなどの登場で分業が崩れ、歌謡曲の歌詞が詩の奥深さを持たなくなっているけれど、当時の歌謡曲におけるしっかりした作詞(詩)は、その後のなかにし礼氏や阿久悠氏などの活躍の源流ともなったのではないか。

私などの青春時代は、橋、舟木、西郷の初代御三家に伊東ゆかり、園まり、中尾ミエの三人娘から郷、西条、野口の新御三家さらに百恵、淳子、昌子の中三トリオ。森進一に五木ひろしと挙げればきりがない歌謡スターが誕生した。「ロッテ歌のアルバム」からTBS「ザ・ベストテン」へつながる歌謡界全盛時代だった。多くの名作詞家とその手になる名詩があった。

 昨年亡くなられた丘灯至夫氏の初代御三家のおひとり舟木一夫さんが歌った「高校三年生」は不朽の名作であるけれど、新御三家のひとり野口五郎さんが歌った「私鉄沿線」はこちらもヒットメーカーである山上路夫氏の作詞である。

改札口で君のこと いつも待ったものでした
  電車の中から降りてくる 君を探すのが好きでした・・・*2)

歌謡曲にもこのように名詩が多いのである。

 *2) 勝手な引用は著作権(作者の死後50年間有効)に触れる恐れがありますが、エッセーの趣旨に鑑みご容赦ください。
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日本の名詩その2

2010年01月04日 | Weblog
菫(すみれ)

 俳句や短歌は今でも愛好者が多いのであろう、毎週定期に新聞に俳壇欄が登場する。日経は日曜日、読売は月曜日、この2紙しか知らないのだけれど、ちょくちょく目は通している。しかしながら、どうも俳句や短歌は漢文の素養が必要ではないかと私には思われ、十分理解出来ない句も多く、自分では作ることができない。
 
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日*1)–サラダ記念日―

俵万智さんの出現は、そんな短歌の世界を変えて、案外漢文の素養なしでも短歌は作れるのかもしれなくなった。若い娘が自分の恋心を31文字に込めて、少し横から恋する自分を見つめてみるのもいい。

詩の世界にも、そんな革新的なスタイルは生まれないのだろうか。と思ってみたけれど、詩の世界は元々何の制約もないのだから、繰り返し革新は起こっていろんなスタイルがすでに溢れているのであろう。それにしても新聞や一般の雑誌で新しい創作詩に出会うことはない。俳句や短歌のように一般の人からの投稿欄を設ければ、それなりにもっと盛んになるかも知れないと思う。

 『国木田独歩は、小説を書く前に詩を書いており、藤村の処女詩集である「若菜集」が出るのと前後して田山花袋等との合著で、「抒情詩」を出版し、近代詩の興隆に一役を果たした』とある。-榊原正彦氏編「日本の名詩」-

 国木田独歩の「菫(すみれ)」という詩は、実は私の最も好きな詩のひとつである。恋というものがどのようなきっかけで始まるにせよ、その始まりの頃のほのかな想いほど純粋なものはないと思う。人として自然な営みとして異性を好きになる。それが通りすがりの人であれ、昔から知っている身近な人であれ同様ではないか。星の数ほどのほのかな恋心があって、チョット振り向いてみるだけの恋がそれはそれで幸せなのかもしれない。そんな恋心をも含めて「ただよそながら告げよかし」と菫の花に託すところがいつまでも新鮮である。

 春の霞に誘われて
 おぼつかなくも咲きいでし
 菫の花よ心あらば
 ただよそながら告げよかし
 汝(な)れがやさしき色めでて
 摘みてかざして帰りにし
 少女や今日も来りなば
 「君をば恋ふる人あり」と
       -独歩吟-

 *1)勝手な引用は著作権(作者の死後50年間有効)に触れる恐れがありますが、エッセーの趣旨に鑑みご容赦ください。
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日本の名詩その1

2010年01月01日 | Weblog
初恋

 「日本の名詩」という古い本がある。昭和42年に金園社から出たものである。“珠玉150選の鑑賞”という副題が付いている。編者は榊原正彦氏。「世界の名詩」と姉妹本であったようで、同時に買って持っている。1冊350円。給料が2万数千円の頃である。現在のネットの本市場によれば、同じ内容と思われる昭和51年に出たものが300円とあった。他にも詩集は持ってなくはないが、日本の詩集は他には手元にない。この本をよりどころに話を進める。

 産業とか文明とかいうものは、豊かな文化の土壌があって栄える。「武士道」が現代になって多くの人に読まれたり、「歴女」なる言葉が生まれたりは、日本人の郷愁の1形態であろう。デジタリゼーションや効率化は必要だけれど、本来の少々だらしない我々人間が非効率な時間を過ごすことも、当然に許容されてもいいだろう。そんな時、日本の珠玉の名詩に触れることもいいのではないか。これも現在の文明社会に住まうオアシスのようであり、文明を支える文化であろう。

 島崎藤村は、明治5年の生まれというから「坂の上の雲」の子規や秋山真之より4~5歳遅れではあるが、ほぼ同時代に青春を生きた。もっとも国木田独歩は学年でいえば同輩にあたり、泉鏡花は1年後輩となり、漱石、鴎外、幸田露伴など明治の文豪の多くは、大きく離れない同じ時期に輩出している。

 そこで「初恋」。この詩(うた)は昭和の時代に舟木一夫さんが歌謡曲として歌った。昭和46年の作となっているが、私など今でも口ずさめるメロディーがついている。

まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたえしは
薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

わがこころなきためいきの その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃を 君が情けに酌みしかな

林檎畠の樹(こ)の下に おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ
                   -若菜集-

 長野と岐阜の県境の山深い村の代々庄屋、本陣そして問屋を兼ねていた旧家に生まれながら、両親の恋愛上の不祥事に苛まれ、本人も後年同じような轍を踏む藤村の、それだからこそ生まれた珠玉の恋歌であるのかもしれない。
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