中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

読書紀行10

2009年01月28日 | Weblog
勝負の極北
 これはもう10年も前に刊行された本のタイトルで、囲碁の藤沢秀行名誉棋聖と将棋の米長邦雄永世棋聖(現、日本将棋連盟会長)の対談本である。『秀行(しゅうこう)先生にお会いすると、いつも心が安らぐのを覚え、元気が出てきます。・・・これは私に限ったことではなく、多くの人がそうなるようです。では秀行先生が孔子やキリストのような聖人君子かというと、まったくの逆。飲んでは禁句を連呼し、博打を打っては大借金を作る。・・・やりたい放題の人生です。それでいて、碁石を持てば天下一品、60歳を超えてタイトルを手にし、二度のガンにも負けないというのですから、これはもう「神様に好かれている」としか思えません。・・・』米長永世棋聖の「まえがき」からの抜粋である。

 将棋、囲碁棋士も芸人同様、昔は「芸の肥やし」などと称して遊蕩に耽り、破滅型の人生を送る人もいたようだ。しかし、今の棋界を代表する精鋭たちには、そのような風評はほとんど聞かない。それだけ全体のレベルが向上し、遊んでいても勝てる時代ではなくなったのではないか。プロ野球選手なども同様のように思う。傍から見ている分には面白みに欠けるかもしれないが、勝負事は結果がすべてで、別のところでの面白おかしい人生では長くは続かない。負け続ければ消えてゆくしかない。

 それだから、勝負師は吐く。『われわれの世界は盤面で、・・・負けるのは自分がヘボだからです。タイトルを獲られても、それはすべて悪手を指した自分の責任です。ところが政治家と官僚は、悪手を指したことを認めません。認めないですむシステムになっている。・・・世の中には1ドルが1円違っても、顔色真っ青という中小企業のオヤジさんがたくさんいるわけです。ところが、・・・総理大臣にも、大蔵大臣*5)にも、事務次官にも関係ない。赤字が400億だろうが、400兆だろうが、自分の懐とはまったく関係ない。・・・世の中を取り仕切ろうというのなら、一局、一局を対局者として生きていなくてはいけないでしょう。ところが、今の政治家なり官僚にはその自覚がない。言わば、対局と関係ない人が碁を打ってるようなものです。』「勝負の極北」(株)クレスト社 平成9年3月刊

 父や兄たちの影響で、私は子ども頃から将棋も囲碁にも親しんだが、熱心に取り組んだのは30歳頃からだった。そんなことで、その頃から棋士に関する本を読み、若い頃の「人生論」とは異なる切り口から人生を学んだように思う。升田幸三「勝負」サンケイ新聞出版局、中平邦彦「棋士・その世界」(株)講談社、大崎善生「聖(ひさし)の青春」(株)講談社、など名著としても知られる。

米長永世棋聖の「人生一手の違い」祥伝社、平成元年12月刊 は、化学総連の将棋大会で初めて日本将棋会館に行った際、その売店で買った。帰りの電車の中で読みはじめたのだけれど、プロ棋士を目指す一途な若者たちの話に、涙が出て仕方がなかった。この本が出て3年余後7度目の挑戦で史上最年長50歳の名人米長邦雄が誕生する。

 『今回の勝因は、なんといっても“女神に好かれた”ことに尽きます。・・・失敗しても、挫折しても、“どうしたら女神に好かれるか”と念じつつ努力さえしたならば、必ずや勝利の美酒に酔いしれることができる。・・・』米長邦雄「運を育てる」(株)クレスト社、平成5年7月刊。この女神は、後々診断士受験の私を励まし続けてくれることになる。

  *5)本が出版された当時の呼称
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読書紀行9

2009年01月25日 | Weblog
蜘蛛の糸
 この小説が発表された大正7年(1918年)以降、日本ではどれだけの蜘蛛が落としそうになった命を救われたことかと思う。しかしながら、「浦島太郎」の物語にしても「鶴の恩返し」にしても、最後に”落ち”があって、人間の欲望に抗し切れない煩悩が描かれている。この「蜘蛛の糸」もその点凄いと思う。『「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体だれに尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多(かんだた)のぶら下がっている所から、ぷつりと音を立てて断たれました。』90年後の現代社会までも見事に見通しているではないか。

 芥川龍之介は、辰年辰月辰日辰刻の出生にちなみ、龍之介と命名されたそうである。母フクは龍之介の生後八ヶ月のころから発狂したとあるけれど、この世には相容れないほどの感性の遺伝子は母譲りであったのだろうか。

 「現代日本文学館」第20巻「芥川龍之介」には、この「蜘蛛の糸」を含め39編の短編が集録されている。「羅生門」、「鼻」、「地獄変」、「杜子春」、「河童」など誰もが懐かしい物語であろうと思う。

日経ビジネスの2009年1月5日号は、特集「日本主導」。その第3章の温故知新”「実利」と「道徳」二兎を追う”で、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」という二宮尊徳(1787-1856)の残した言葉を掲げて、道徳なき経済が暴走する現代の「犍陀多」たちを戒めている。そして、日本で戦後のある時期から顧みられなくなった二宮尊徳が、北京大学の研究者によって、今中国で注目を集めていることを伝えている。

その二宮尊徳の話を芥川は書いている。まず次のように尊徳を讃えている。『貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は草鞋(わらじ)を造ったり、大人のように働きながら、健気にも独学をつづけて行ったらしい。・・・実際また十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合わせの一つにさえ考えていた。・・・我我少年は尊徳のように勇猛の志を養わなければならぬ。』しかし、次にしっかりと芥川らしい突込みが入っている。

『けれどもこの立志譚(だん)は尊徳には名誉を与える代わりに、当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。彼らは尊徳の教育に寸毫の便宜をも与えなかった。いや、むしろ与えたものは障害ばかりだったくらいである。これは両親たる責任上、明らかに恥辱と言わなければならぬ。しかし我我の両親や教師は無邪気にもこの事実を忘れている。・・・』*4)。

*4)芥川龍之介「侏儒(しゅじゅ)の言葉」”二宮尊徳”の稿より。
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読書紀行8

2009年01月22日 | Weblog
細雪
 20歳代の始め頃、私は少し小説のようなものを書いていた。当時購読していた月刊誌の「時」新人賞募集に応募したこともある。舞台としてイメージした真夏の海岸の日照りの強さは今も思い出される。当時は歌謡曲の作詞募集にも挑戦した。応募する前に職場の大先輩に見せたら、「これはいい。賞金を貰ったらぜひ飲ましてくれよ。」と随分期待されたけれど、こちらも一方通行で音沙汰がなかった。それでも作詞の方は、その後後輩の結婚式の時の替え歌や、50歳も半ばに至り工場の囲碁部の詩を作ったりと、その頃の訓練が役に立った。

 小説を読んでいて、なるほど「このように書けばいいんだ」みたいな気づきを得ることがある。「時」新人賞応募作品は、ある文学小説からその構成のヒントを得たものであった。漱石の「我輩は猫である」なども真似て、「我輩はチュー公である」なる小説を書き掛けたこともあった。少々長い小説でも、最初の言葉と最後の言葉が浮かべば、後はどんどん繋げていけばいいような要領も分かったつもりの時期もあった。

 そんな思い上がり者の鼻をぺしゃりと折り曲げ、2度と小説を書こうとは思わせなくさせた小説がある。谷崎潤一郎(1886-1965)の「細雪」である。繰り返し、舞台に映画に女優さんたちが美を競った4姉妹の物語である。

[この小説の中心になっているのは三女雪子の見合いである]。[作者が、鶴子、幸子、雪子、妙子という4人の女性たちの人となりと、それに根ざす美しさを、・・・丹念に描き出そうとしている。かっての大阪船場の旧家の娘たちが持ち、いまも多少その名残が残っている特殊な雰囲気を・・・見えるか見えないかの個性の違いを、作者は、なみなみならぬ情熱をもって撰り分けているのである]。 [物語は昭和11年11月の雪子の見合いのところから始まり、16年の4月に雪子が何回目かの見合いの果てに、漸(ようや)く縁談が成立して上京するところで終わっている]*3)。谷崎はこの小説を戦争最中の昭和18年から、戦後の混乱が続く昭和23年の間に書き綴ったという。

 大阪言葉での日常会話の美しさ、行間に滲む色気、これらを切り裂く中巻の水害描写。物語の組み立ては兎も角、微妙なニュアンスを外国語に訳すとすれば至難とさえ思う。主に家庭の日常を描きながら、なぜにこれほどのスケールを感じさせるのか。これぞ小説だと思った。後にも先にも私にとって「細雪」以上の小説に出会っていない。 *3)[ ]内は解説(井上靖)書からの引用
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読書紀行7

2009年01月19日 | Weblog
志賀直哉
 『「助かるにしろ、助からぬにしろ、とにかく、自分はこの人を離れず、どこまでもこの人に随いて行くのだ」というようなことをしきりに思いつづけた。』志賀直哉(1883-1971)の代表作「暗夜行路」の最終節である。短編小説に優れ、小説の神様といわれた志賀直哉の唯一の長編小説であるこの暗夜行路は、25年の長きに亘って書き継がれたことでも有名である。

 島崎藤村の「家」などを読んだ時もそうだったけれど、20歳を少しまわった当時、私はこれらの小説を読み終えるには正直苦労した。内容もよく覚えていない。しかし、暗夜行路はこの最終節で、作者の言いたかったことが分かったような気がしたし、藤村の「家」では「そうか!」みたいな重い読了感だけは印象として残っている。それが文学小説の「文学」と呼ばれる由縁かもしれない。所詮当時の私などに作者の深い意図など分かりはしないのだけれど、背伸びして読んだ達成感は残っている。

 志賀直哉との出会いは「清兵衛と瓢箪」である。中学か高校の教科書に載っていた。清兵衛が丹精込めた瓢箪を教師は取り上げた挙句、清兵衛の母親に捩じ込んだ。もっとも清兵衛がこともあろうに修身の時間にその瓢箪を磨いていたのだ。教師が、生徒やその家庭に圧倒的な権力を持っていた時代があった。そして今がある。その瓢箪を教師は、『穢れた物ででもあるかのように、捨てるように、年取った学校の小使いにやってしまった。』しかも清兵衛が家に飾り大切にしていた瓢箪も、話を聞いた父の手によって打ち割られてしまう。しかし、『・・・清兵衛は今、絵を描くことに熱中している。』のである。

 「現代日本文学館」では、巻頭に作家の伝記が載っている。第13巻「志賀直哉」では安岡章太郎がそれを書いているのだが、これが、『阿川弘之がアメリカへ留学に出掛けたのは・・・』に始まり、前編は『阿川は』、『阿川が』と繰り返し「阿川」が登場する。その阿川弘之氏も志賀直哉の弟子であることを折々誇りのように書いておられる。良い交流があったことが偲ばれる。

今は娘さんである阿川佐和子氏の方が若い世代には有名かもしれないけれど、弘之氏は文芸春秋の巻頭コラムをもう長く担当されておられ、日本を代表する知性のお一人だ。「山本五十六」は面白いだけでなく、優れた伝記小説としての評価も高い。同じく第二次世界大戦当時の海軍提督を描いた「井上成美」や「米内光政」も非常に味わい深い。志賀直哉に連なる峰の高さを思う。(3作とも(株)新潮社刊)
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読書紀行6

2009年01月16日 | Weblog
結婚の生態
 『「女の尊さは感情の美しさだ。感情の美しい女ならばその他にいろいろな欠点があっても最後まで愛して行けると思う」大方の夢をなくしたのちに私が女に期待する要素はただこの一点にまで縮められていた』。『高い程度の文学を愛読する人は一応信じてよいと私は考えている。良い小説というものは不思議に人間の魂を静めまた清めるものであり、そういう小説を愛読する人は清らかな性情をもちまたそれを希望する人であると私は考える。・・・私の希望する唯一の条件であるところの(感情の美しい女)というのは、良い小説を愛する女とかなり共通なものであったかもしれない』

 40年も前に読んだ小説、石川達三(1905-1985)の「結婚の生態」からの抜粋である。内容はすっかり忘れているのに、この抜粋部分だけはずっと心に残っていた。人を好きになるという感性の仕業に、具体的なよりどころを与えているところに引かれたのだと思う。改めて、この小説が昭和13年に書かれたことを知り、小説家の時代を超えた普遍性に対する洞察の確かさを感じる。

 同じ「現代日本文学館」第38巻「石川達三」に収められた「48歳の抵抗」も心に残る作品であった。保険会社の次長である主人公は48歳。この本が書かれた昭和30年頃は、日本の経済的復興と相俟って都会のサラリーマンの生態がひとつの小説のテーマともなっていた。源氏鶏太の「三等重役」などサラリーマン小説は一世を風靡した。森繁久弥社長の映画もシリーズ化された時代である。

主人公は顕在化する肉体的老化を実感し、かつ[巌のように良人の生活の上にのしかかり、それを支配している偉大なる妻がある]*2)中で、自分の娘より若い少女に恋をする。『僕は怖くなんかないよ。僕みたいな年寄りは、もう女性を苛めたり弄んだりするような野心は無いんだ。ユカちゃんみたいな可愛い娘を見ると、本当に大事にしてやりたい。僕に出来ることなら、何かしら力になってやりたい。そんな気がするんだ。・・・』

当時の48歳は現代では58歳くらいに相当するであろうか。当時からもっと器用に、若い娘を口説き落とした中年男性は星の数ほどあるだろうけれど、作者は、したたかな女という生き物を捉えて、若い娘のアバンチュールに翻弄される中年男性の性(さが)の悲喜劇を、敢えて描いてみせている。この本を読んだ20歳代前半の私にも、暮れ行く人生に抵抗する中年男性の想いは理解できるように思った。

 *2)[ ]内は解説(山本健吉)書からの引用
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読書紀行5

2009年01月13日 | Weblog
続、日本大好き
 日本の高度経済成長の時代。1960年代から70年代は、「エコノミックアニマル」、日本の住居は「ウサギ小屋」、「日本の常識は世界の非常識」、「家族をかえりみない企業戦士」はたまた「日本経済発展の活力源は銀座のママさんにあり」、など、中には誤訳から生まれたコピーもあるようだけれど、欧米のジャーナリストのやっかみ半分の評判が面白おかしく国内にも流布された時代でもあった。

「ル・ジャポン」に描かれた1970年当時の東京は、『飛行場から出る。とつぜん蒸風呂のような空気に包まれる。ベトベト、ドロドロした熱気が一瞬衣服を皮膚に張りつける。・・・周囲を見回してみると、雲はないが、空には重い乳色の幕がたれこめている。・・・飛行機から見てこのことはすでに気づいていたのであるが、実際に地上を走ってみると、東京の空気の汚染が、いかにひどいものであるかがわかる。・・・ごちゃごちゃした電柱と電線。巨大な工事現場を通っているかのようだ。もう10分も走っているのに、緑地帯にはぜんぜんお目にかからない。一本の木にも出会わない』というものである。ルポを書こうとする人の思惑によって事実は歪曲されたり、誇大に喧伝されたりするものだが、当時の日本では各地で公害問題が噴出していたことは事実だ。

私が初めて首都東京を訪れたのは、20歳になる直前の夏であった。1967年である。しかし、「ル・ジャポン」に描かたほど空気が悪い印象はなかった。大きな道路が地下鉄工事で掘り起こされていたことが印象深いが、なにより街全体から受けた活力というか都市のエネルギーに圧倒される思いがした。

また、「ひよわな花日本」には、『日本は超大国でもなければ、21世紀は日本の世紀でもない。日本はひよわな花である』とある。『世界政治転換の激動のなかで、過大な経済成長による経済危機を内包し、価値観の根本的変化を迫られる日本のひよわな体質を鋭く分析し、日本社会をつなぐきずなの連鎖的分解を予見、目標なき日本の前途に衝撃的予言と警告を発した問題の書』とカバーに紹介されたこの書は、1972年2月5日に発行されたものである。現在の日本を見事なまでに言い当てている。
ひとつの事例に複数の占い師をあて未来を予測させると、中に当たっているのがあるらしい。その類と言えなくもないが、本質的に日本という国の構造的欠陥が欧米の評論家には見えるところもあるのであろう。

 しかし、「梅干と日本刀」にあるように、わが国には高度な伝統文化や古代からの知恵の集積がある。だからこそ明治以来の文明開化があり、列強に伍する富国強兵があり、戦後の高度経済成長があった。公害問題も完全ではないものの、その多くを克服してきた。独自の文化の上に「ものづくり大国」としてのゆるぎない地位を確立しているではないか。四季と山海の美味にも恵まれたこの国に生を受けた幸運に感謝し、自信を持って世界をリードしてゆく気概を持とうではないか。
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読書紀行4

2009年01月10日 | Weblog
日本大好き
 昨年9月財団法人日本規格協会から「JSQC(日本品質管理学会)選書」全4巻が出版された。その第1巻が「Q-Japan」(よみがえれ、品質立国日本)で著者は東京大学大学院教授の飯塚悦功先生である。先生は2003年から2005年の2年間品質管理学会の会長を務められ、2006年にはデミング賞本賞を受賞されている。私などとはまさに雲泥の相違の方であるけれど、その著書から同じ1947年のお生まれであることを知り親近感を覚え、何より私に輪をかけて「日本大好き」であることが分かって嬉しかった。

 『私は“日の丸”が大好きである。世界の国旗一覧を見せられて“どれが一番よいか”と問われれば、別に“えこひいき”をしなくても“日の丸”を選ぶに違いない。白地に赤い丸、太陽をかたどった実にセンスのよいデザインではないか。どの国に生まれても、普通の教育を受けて育てば、自分の国を好きになるだろうが、私は、普通の水準を超えて、愛国者といってもよいくらい、日本そして日本人が大好きである。愛国者といっても別に狂信的というわけではない。質分野に長いこと身を置き、品質立国日本の盛衰を冷静に分析し、1980年代に世界の注目を集める国になれた理由を考察したうえでの愛国者である。』と先生は「Q-Japan」の中で述べておられる。素朴な言い回しがまたいい。 

確かに私たちの世代には、「狂信的というわけではない愛国者」が多いように思う。当時の日本では、まだ「普通の教育」が行われていたのだ。入学式や卒業式で日の丸や君が代に異を唱える教師などけっして居なかった。小学1年生では修学優秀・皆勤で賞品があった。4年生くらいまでは、学校の運動会の駆けっこで上位入賞するとノートや鉛筆が貰えた。変な平等主義はなかった。

 「人生論」に続いて、昭和40年代後半から50年代前半にかけて、私は「日本」についての著作を好んで読んだ。私も日本が大好きであった。ただこの時代は、日本の戦後のめざましい経済復興に世界が注目を始め、日本と日本人についてあらためて研究が盛んに行われた時代でもあった。

この頃私が読んだ日本評論本には、「日本人とユダヤ人」イザヤ・ベンダサン、山本書店。「日本人の忘れもの」会田雄次、PHP研究所。「ひよわな花日本」ブレジンスキー(大朏人一訳)、サイマル出版会。「みにくい日本人」高橋敷、原書房。「ル・ジャポン」デラシュス(高木良男、柴田増実共訳)、日本生産性本部。「日本人の意識構造」会田雄次、(株)講談社。「菊と刀」ルース・ベネディクト(長谷川松治訳)、社会思想社。「梅干と日本刀」樋口清之、祥伝社-小学館。「日本人材論」会田雄次、(株)講談社などがある。ただこの程度。しかし、人生論によって自身を見つめ直した私は、この時期大好きな日本についてもっと知りたいと思っていた。
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読書紀行3

2009年01月07日 | Weblog
人生論
 日本文学全集は購入したけれど、入社して数年は「人生如何に生きるべきか」との命題に、私の心はサプリメント書籍を欲していた。一般の小説を読むことから得られる気付きや処世訓よりも、もっと直接的な導きを求めていた。

まずは亀井勝一郎(1907-1966)の「現代人生論」、「青春をどう生きるか」および「人間の心得」を読んだ(3冊とも(株)青春出版社刊)。当時これらの本が相当数の読者を得ていたことは、その増刷の凄まじさから伺われる。「人間の心得」などは、第1刷が昭和40年10月15日で7ヵ月後の昭和41年5月15日で第67刷である。私などその時代の空気の中に居たに過ぎない。

時代は高度経済成長の真っ只中であった。産業が勃興し経済的に豊かになって行く過程において、社会体制の歪も顕在化する。青年の純粋性がそんな世に人生論的書物を求めると共に、その矛盾に鋭敏な棘となって突き刺さる。1960年代後半からの大学紛争や日本赤軍などの一連の破壊行動があった。人生論的書物は、高度経済成長を下支えした働く尊さを称える精神的支柱ともなった反面、ラジカルな反体制的活動を誘発した思想につながるものもあったのではないか。

亀井勝一郎氏は私が社会に出た昭和41年の11月に59歳の若さで亡くなっておられる。当時私は、氏の消息や経歴はほとんど知らずに、ただその書物を好もしく思い読んでいた。その後も武者小路実篤編集の「新編亀井勝一郎人生論集」全5巻(講談社刊)を購入して読んだ。併行して、岡潔、武者小路実篤、芥川龍之介、井上靖、大宅壮一、笠信太郎、堀英彦、丹羽文雄そして石川達三等の同様の書物を読んだ。中でも石川達三は好きで合わせて数冊購入している。多くの識者の考え方を、その断片ではあろうが摂取してきたつもりである。

亀井勝一郎は、『青春時代の邂逅と友情こそ人生の重大事ではないだろうか』、『人生に対する謝念とは邂逅の歓喜である。邂逅の歓喜あるところに人生の幸福がある。私はそれ以外の人生の幸福を信じない』と語りかける。また、『人生とは広大な歴史だ』と説く。『歴史とは無数の人間の祈念と願望の累積だといってもいい。あるいは果そうとして果しえなかったさまざまな恨みを宿すところともいえるだろう』と述べている。氏の人生論にはその体験の断片も記されていないけれど、東京帝国大学在学中、マルクス・レーニン主義を学び共産主義青年同盟に加わって活動し、昭和3年大学を退学。翌昭和4年治安維持法違反で投獄されている*1)。氏の果しえなかったさまざまな恨みとは何であったのだろうか。

  本稿文中ほとんど敬称を略させていただきました。
 *1)はこだて人物誌 亀井勝一郎
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読書紀行2

2009年01月04日 | Weblog
苦学
 会社に入って給料を貰うようになって、自分で好きな本が買えた。入社2年目、月給は2万数千円だった。この頃、意を決して小林秀雄編集の「現代日本文学館」全43巻(文芸春秋)を購入することにした。1巻480円。最後の方の配本では680円になっている。現在価格では1冊4,5千円程度の感覚であろうか。今も使っているスチール製の本棚も買った。

 この全集と本棚には後日談がある。入社5年目で柔道部の会計幹事を仰せつかり、他工場との親睦試合のための旅費の積み立てを部員から徴収して預かっていた。郵便貯金で積み立てていたのである。ところが、寮の部屋から印鑑と通帳が盗まれ、貯金はみごとに下ろされて消えていた。当時の私の月給を上回る額であった。

調査のため中年の郵政監察官が何度か寮の私の部屋に来られた。「印鑑も届出印に間違いはなく、通帳も本物であれば郵便局に落ち度はなく、郵便局に下ろされた貯金を返済する義務はない」。とのお話であった。ただ、監察官は私の部屋の本棚に並ぶ蔵書を見られて、「苦学されているのですね」と言われた。

当時私は三交代勤務の傍ら、柔道ばかりやっていた。ただ、合間に小説のようなものや詩を書いたりしていたけれど、その分量たるや微々たるもので、到底自身「苦学」とは思えなかったけれど、たまたま担当された監察官ご自身が若い頃に「苦学」されたのであろう。このような場合の詳細な規則や監察官の裁量など、当時考えもしなかったけれど、結論として「あなたが虚偽の申し立てをしていないことは良くわかりました。全額郵便局で返済します」。と言って下さり、事実新しい通帳に引き落とされた金額が入金された。そんな計らいをいただくきっかけとなったのである。

 後日談をもうひとつ。時々部屋に遊びに来ていた柔道部の後輩が、本棚から全集の中の「太宰」を持ち出した。彼はその後柔道部は止めたけれど、私との交流が自分の本を読むきっかけとなり、感謝しているというようなことを言ってくれた。そんな他愛のない話だけれど、若い頃の微かに誇りあるエピソードとして今も思いだす。
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読書紀行1

2009年01月01日 | Weblog
旅立
 小中学生の時もそれなりに本は読んだけれど、本当の意味で読書に目覚めたのは高校生の時だった。クラスメートと図書館の貸出カードを埋めることを張り合った。図書カードを誰より早く埋めてゆく友がいた。彼は授業中も図書館で借りた本をひたむきに読んでいた。工業高校でありながら、クラスには私など聞いたこともない日本の文学者とその作品をすらすら唱える友人もいた。国語の時間に教師さえ驚かせていた。彼は剣道部で私は柔道部、いつの頃からか気があって、彼の家に行って驚いた。彼の部屋は本で満たされていた。その彼から市内の古書店回りを教わった。子規、虚子そして漱石の坊ちゃんを生んだその街は、文化の香気に満ちていた。市内には多くの古書店があった。 

高校時代の図書館では主に世界文学に親しんだ。ゲーテの「若きウェテルの悩み」がその端緒だった。パールバックの「大地」やミッチェルの「風と共に去りぬ」など長編も読んだ。スタインベックの「怒りのぶどう」やヘミングウェーの「武器よさらば」、ヘルマンヘッセの「車輪の下」「知と愛」。若い心に沁みた。外国文学以外にも、五味川純平の「人間の条件」も読んだ。高校2年生の時には富田常雄の「姿三四郎」の文庫本に古書店で出会い、これは繰り返して読んだ。さりとてこの程度の読書は誰でもしているもので、私はけっして同級生の中でさえ特に読書家であったわけではない。

 これまでの61年間の人生の中でさえ、趣味を「読書」ですと言えるほどの読書量を誇っているわけではない。言い訳がましいが、高校時代は柔道と授業科目の勉強に努めた。社会人となって日本文学が少し理解できるようになった頃に、23歳で左眼網膜剥離を患い、44歳で再び今度は両眼網膜剥離の手術を受けた。この時右目は、一時全く視力を失っていた。4回の全身麻酔の手術、加えて両眼白内障の手術。散々な目に遭いながら、その病の隙に読み繋いで来た程度なのだ。

 それでも折々に読んだ本は今の自分を形成するものに違いなく、その足跡を自ら振り返ってみたいと思った。
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