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中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

日々是好日10

2010年11月28日 | Weblog
続、テレビ

 子供の頃のわが家にテレビが来たのは、私が小学校5年生の時、年末には聖徳太子の一万円札が発行された1958年。翌年(昭和34年)には当時皇太子であられた天皇陛下がご成婚されたことで、パレードを見るためテレビが大幅に普及した。しかし、以前からすでに富裕層には普及しており、理髪店なども置いていた。昭和30年代は大相撲が全盛時代で、理髪店の窓の外にテレビの大相撲見物をする人だかりが出来たり、「月光仮面」などは知り合いの家を頼ってテレビを見せて貰いに行っていた時代だった。

 テレビは相撲、プロレスに野球とスポーツ中継に当時から威力を発揮したけれど、ドラマでは西部劇やウォルト・ディズニーものから「パパは何でも知っている」などアメリカ発のものが多く、アメリカ文化の影響を強く受けるツールともなったのではないか。その後、NHKの大河ドラマが始まったのが昭和38年(1963年)で、第1回は「花の生涯」とあるけれど、3年目の緒方拳さんが主演した「太閤記」は見た記憶がある。信長を演じた高橋幸治さんが嵌まり役で、視聴者から延命コールが起こり、NHKもこれに応えた。大河ドラマも来年50回の節目となる。

 ハナ肇とクレージーキャッツが活躍したバラエテー番組「シャボン玉ホリデー」や藤田まことさんの「てなもんや三度笠」、坂本九さんらが活躍したNHKの「若い季節」も1960年代初期の人気番組だった。先日クレージーキャッツの谷啓さんが亡くなられたけれど、往年のテレビ界を支えた名タレントの多くがすでに鬼籍に入った。

 大宅壮一氏の「テレビで一億総白痴化」現象は確実に進行したとは思うけれど、それはテレビの罪ではなく、番組の制作者にあり、視聴者の活用の仕方に問題がある。それにしても昨今のニュース番組のコメンテーターの質は悪い。尖閣漁船問題で中国とこじれた時には、「小沢さんに仲介を頼めばいいのに」というコメントがあったのにも驚いた。相変わらず小泉改革で格差が広がったと根拠を示さないままのコメントも多い。そのような評論家を使うテレビ局のレベルが低いことはいうまでもない。そんなことだから安易な政権交代につなげて国益を損なっている。今頃現政権を批判してみても、昔にも流行った「マッチポンプ」でしかありはしない。

 しかし、テレビはドキュメンタリーなど、良質な番組も多い。製作者の渾身の意気込みが伝わるものも多い。先日NHKで放映された「天空の一本道~秘境・チベット開山大運搬~」にも感動した。真夏の2カ月間だけ通行できる幅1mにも満たなく見える断崖絶壁の山道を、村人はそれぞれの荷を背負い、委託された米などを馬の背に、家族の待つ秘境である自分たちのを目指す。気温0℃の標高4650mの峠を越えて、麓は30℃を超える多湿のジャングルを経る3日がかりの過酷な旅だ。5000km離れた中国の学校に進学する娘を送り出す母親の涙。その旅もまずはその峠を歩いて越えなければならない。

 このような民族がまだ世界には居る。一方わが国民は、これほど物とインフラに恵まれ欲ボケ平和ボケして、格差社会だと大騒ぎする。挙句、もうダムは要らない道路は要らない、戦争はご免だから基地は要らないとお経のように唱えて、その上国民には借金を重ねるバラマキをやると訴えれば代議士に成れて、政権さえ取れる民族であるらしい。

 もっともこのようなドキュメンタリーを、機材を抱えて撮影取材したスタッフも凄い。まさに彼らも命がけの仕事であったことを思うと、政治家は兎も角この民族のテレビ局スタッフにもまだまだ骨のある人材がいることで心強い。
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日々是好日9

2010年11月25日 | Weblog
テレビ

 薄型テレビが売れている。昨年同月の6倍で、ここ2カ月の売上だけで通年の年間売上にさえ匹敵するそうな。そんなことで、23日の日本経済新聞には、「薄型テレビ、購入価格上昇」との見出し記事があった。低価格帯商品は在庫が底をつき、納品が正月に間に合わないということもあるらしい。客にとっては仕方がないので、お持ち帰り出来ますという高価格帯商品でも買って行くらしい。

 勿論この現象は、エコポイントの付与額が半分に減る12月が目前に迫ったためであり、来年7月の完全デジタル化も見据えたものでもあろう。どうせ買い替えしなくてならないなら、エコポイントが多いうちにの合理的なブームである。しかしメーカーとしては、反動も考慮しておかねばならないだろう。今後エコポントが終了し、完全デジタル化も終わり、すでに始まっている3D対応型の普及が始まれば、当面普通の薄型テレビの需要は激減必至で、今後の生産計画には頭が痛かろうと思う。

 実は私は先月32型の液晶テレビを買った。2000年に購入していたアナログテレビが、そろそろ買い換えないと思っていた矢先に、プツリと自ら退場を宣言してしまった。家電量販店に行くと、平日の昼間に関わらずテレビコーナーは人だかり。勿論現役世代は少なく、ご年配者中心。それでもエコポイントがまだ切羽詰まった状態ではなく、売り場はすでに3Dテレビの売り込み中心と見えた。そこで私は、従来の薄型テレビは表示価格よりかなり値引いても売ってくれると踏んだ。3D対応でないテレビを在庫するのは店側にリスクが高いと考えたからである。事実、店員はすんなりとはいかなかったけれど、こちらの要求額に応じてくれた。しかし、あれから1カ月、今の状態を聞くと、私の見込みは間違っていたと思える。店側も予定以上の値引きしてまで売る必要のない時機であったかもしれない。

 テレビなど耐久消費材の新製品価格は、初期高価格政策(上澄吸収価格政策、スキミングプライス政策)を取る*11)。高価格でもその製品を購入する革新的な消費者をターゲットとして、新製品開発費用を早期に回収する。高価格でないと買った人のステータスも満たせないばかりか、新製品の性能への猜疑心も加わる懸念がある。しかし、技術の進歩が早い家電業界では新製品の値下がりも早い。一般の薄型テレビは32型で5万円台まで値下がりしていた。価格が反転するのは稀な例ではなかろうか。

 それにしても最近のテレビ画面の精緻さはどうであろう。特にNHKのハイビジョンキャンネルでもないのに、その映りのいいこと。一昔前にハイビジョン放送が始まった頃、テレビは番組の内容が問題で、当時のレベルでこれ以上の鮮明な画像は不要と考えていたけれど、こちらも私の想い込みは間違っていた。このたび購入した映りのいいテレビを見ていると、それだけで気分がいいもので、テレビを見るのが楽しくなった。文明は時に人類を不幸にもするが、庶民の使う家電製品は、医療技術などと共にやっぱり文明の利器の代表格であることをしみじみ実感するこの頃である。






*11) 一方、消費者の購入頻度が高いいわゆる「最寄品」では初期低価格政策で市場浸透を図る。インスタントラーメンや菓子類なども新製品は安売りで、兎に角買って貰って味わって貰って、商品ブランドを認知させる必要がある。
 「最寄品」:スーパーマーケットの食品コーナーや日用品コーナーに置かれているような一般消費材。消費者の購買頻度が高い消耗品で、購買に関する意思決定が早い。一方衣類や家電製品は、「買回品」といわれ、消費者はその購買に際して、品質・価格などの比較に時間をかける消費材である。
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日々是好日8

2010年11月22日 | Weblog


 読書は私の趣味の一つであるが、もっとも読書家といえるほどのものではない。私の読書歴は、本稿に昨年1月、「読書紀行」として12回に亘って綴ったけれど、最近読む本にも印象深いものがある。小説の類は、すべて古本屋でしかも大抵文庫本を買うので昔の作品ばかりだけれど、これまで読んだことのなかった作家とその作品との出会いがあった。「剱岳<点の記>」*8)の新田次郎氏、遠藤周作氏「男の一生」*9)や壇一雄氏の「火宅の人」*10)など。

 「剱岳」は映画を見てから読んだので、登場人物が役者さんとダブルけれど、主人公の陸地測量手の佇まいは、知りはしないのだけれど、作者である新田次郎氏を彷彿とさせる。苦学して任官し、厳しい測量の仕事を黙々とひたすらに進める主人公の有り様は、作者そのものではなかろうかと思う。そしてこの小説は、現代の便利な世の中が、先人の地道な努力の積み重ねの上に成っていることをしみじみと教えてくれる。

 「男の一生」は、豊臣秀吉が信長の一兵卒時代から仕えた男の出世と老いての挫折を描いているのだけれど、権力者の横暴への静かな憤りが溢れている。秀吉は、信長に仕えた当時は、冷血、無情の信長に対して、温情あふれる所業で部下である主人公達の信頼も得ていたけれど、一旦天下人となってからの変貌ぶりは、まさに本性が剥きだされたものであったろう。利休を切腹させ、朝鮮に兵を送り、秀頼誕生で邪魔になった関白秀次並びにその重臣たちに切腹を命じ、秀次の妻、側室とその子供に至る婦女子39名を処刑。信長の殺戮には、戦国の世を平定するための大義との言い訳も出来ようが、秀吉のそれは全くの私心でしかない。

 現代の日本にも政権交代があって、眺めてみれば、あれほど前政権の在り様を批判していた面々が、みごとに手のひらを返して同じ批判に全く応えようともしない。いつの世も愚かな権力者は我利我欲の権力亡者と化すものらしい。

 「火宅の人」には何とも言えぬ衝撃を受けた。わが子の発病と情人との関係に始まり、その死と別れで終わるのだけれど、絵描きでいえば、カンパスに投げやりに絵具を塗りたくったような文章でいて、その中に登場人物が見事に浮き上がってくる。主人公である作者とその妻、病を得た息子、情人たちの哀しさが言い得ぬ迫力で迫ってくる。

 「老いてこそ人生」などとも言われるけれど、確かに私も小説に描かれた見知らぬ人生への勝手な洞察は深まっているのかもしれない。





*8)(株)文藝春秋2009年6月第6刷
*9)(株)文藝春秋1994年10月第1刷 上、下共
*10)(株)新潮社平成12年4月43刷(上)、35刷(下)
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日々是好日7

2010年11月19日 | Weblog
囲碁、将棋

 囲碁、将棋は私の趣味の分野だけれど、どちらも腕前は現在2、3級といったところで、出来る内には入らない。ただ、将棋は30歳頃から40代始めくらいまで結構熱心にやっており、当時は初・弐段くらいの力はあったかもしれない。囲碁は息子が高校、大学の囲碁部で鍛えていたことで、相手をするうち、市ヶ谷の日本棋院道場に月1回程度通うようになり、5級くらいから打ち始め、弐段までは上がった。将棋は44歳の時の眼の手術で、囲碁は診断士の勉強のため中断した。

 山口県の工場研究所時代は、昼休みに毎日将棋を指した。お互い考えるので1局の決着が着かぬことも多かったが、勝った将棋は帰宅してから並べ直して棋譜を残したりした。日本将棋連盟の雑誌「将棋世界」の昇段試験問題を往復葉書で毎月出して、約4年間で参段までは上がった。初めの初段コースに最も苦労した。24か月の間に所定の点数を取らねばならないところを22カ月掛かった。弐、参段コースは11、12カ月で駆け上ることが出来た。ペーパー段位と蔑(さげす)むことなかれ、初段コースを卒業するころには、周囲の普通に将棋を指す面々にほとんど負けなくなっていた。そんなことで、工場将棋部の創設メンバーに加わったりもした。

 千葉の工場将棋同好会では、世話役が学校の先輩でもあったことで、随分と目をかけていただき、日本武道館で開催されていた職団戦に何度か出場させて貰った。職団戦は当時AクラスからFクラスまであって、私たちのチームはEクラス。ここで好成績を残してDクラスに上がると、すぐにEクラスに戻されるレベルであった。メンバーは、高校時代神奈川県で鳴らし、大学は東工大に進んだ社内No.1の強豪を大将に、東大卒で今は役員になっているような方や、私が居たりの不揃いの仲間達だったけれど、世話役の先輩が定年で故郷に帰る時には、すでにバラバラになって久しかったそれらの仲間が20年ぶりに再会して将棋を指した。

 千葉の工場囲碁部では、プロ棋士を講師に招き、月1回指導対局をしていただいた時期があり、久保秀夫先生には随分とお世話になった。指導碁の後にカラオケに付き合って貰ったり、合宿にも同道いただき、参加部員一巡で一晩に10局以上打っていただいたりもした。

 囲碁部の合宿は私が50代で幹事になって始めた。会社の房総の契約保養所に一泊して夜遅くまで囲碁を打った。段位によるハンディー戦で工場本因坊位を争ったが、私は1級で打ってほとんど勝っていない。未だに息子には7子置いてほとんど勝てない。下手の横好きとはこのことである。

 眼の手術で将棋から離れて後、囲碁を打ったりでしばらく将棋から離れていたけれど、なぜかまた将棋に魅力を感じる。将棋好きの例えば企業経営者が、囲碁に転向するのは気が弱くなった証拠で、企業業績にマイナスの影響があるという。この説は、昔将棋雑誌にあったプロ棋士の弁だけれど、逆に将棋にまた気持ちが戻ってきた自分は、気力が少し戻って来たのかな、と思うこの頃である。
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日々是好日6

2010年11月16日 | Weblog
鍛える

 若い頃柔道をやっていた関係で、歳は取っても動ける体を維持したい気持ちが強く、未だに2日に1日程度のペースでは、団地内の公園で1時間ほどのトレーニングの時を過ごす。「雀百まで踊りを忘れぬ」は、「歳を取っても道楽の癖は直らない」という余りいい意味ではないようだけれど、私のトレーニングもその程度のものではある。

 若い時にしっかりと学んだ人は、歳を取っても勉強の仕方を心得ているので学び易いように、スポーツに勤(いそ)しんだ者は、体の鍛え方を知っているので、歳を取ってもそれができる。逆の場合もないわけではない。若い時に十分やったから「もういいや」であったり、いつまでも出来るつもりの慢心もある。逆に若い時に出来なかったことを悔いて、高齢になって学び始めたり、鍛え始めたりする人も多いことも事実ではある。

 若い頃に三交代勤務をしながら工場の柔道選手をやっていた当時は、練習帰りに工場の大きな浴槽に浸かり汗を流していると、なぜか自身の明るい未来を信じることができたものだ。出世とかお金の面からすれば、けっして成功といえるほどの人生でないにせよ、この年齢まで元気にトレーニングできることは、幸せな人生の一つの形ではあろうと思う。

 柔道には右技と左技があり、一般的には右利きの人は右組みで右技を、左利きの人は左組みで左技を使う。左組みが有利ということで、右利きでも左組みの人もいる。野球のバッターで稀にスイッチヒッターという選手がいるが、柔道の場合、左右どちらの投げ技もできる選手はいるものの、どちらの組手でもいいという選手は知らない。得意の組手が違えば、試合で延々と組手争いになるケースは多い。

 私など現役時代、右技しか出来なかった。だから右腕と左腕では大きさが違う。両方の技を会得したとすれば、格下の組手の違う相手には効果的であったろうと思うけれど、不器用な私には出来なかった。その反省があって今は、公園の立木相手の打ち込みで、左右の技を交互に練習するようにしている。当初左技はぎこちなかったけれど、年数を経てこの頃は同じようにできる。

 現役時代、腕立て伏せや腹筋は相当に鍛えた。しかし、背筋を鍛えることを怠っていた。また同じ腕の筋肉でも引きつけの筋肉を鍛えるトレーニングをしていない。今は公園のベンチを使って背筋運動もやる。低鉄棒を使って引きつけ訓練をやる。腕立て伏せは、コンクリートの上で拳突きでやる。当て身のためだ。

 年齢相応の健康対策なら、軽いジョギングかウォーキングだけれど、柔道は瞬発力が重要だから、坂道の駆け上がりを息が切れる程度にやる。勿論ストレッチはやるし、言うほど全体としてハードなトレーニングではないので健康を損ねる心配はない。そんなこんな日々やっていると体を動かすことがおっくうでない。左右を均等に使うようにしているし、腹筋、背筋両方やるので、現役時代より明らかに体のバランスがいい。

 トレーニングをしているから長生きするものではないし、それを目指すものでもない。ただ、死ぬまで元気でいたい。暇な時は体を労わって、夏は冷房、冬は暖房の清潔な部屋でテレビでも観て、本でも読んでばかりの暮らしの方が寿命を長らえるにはいいかもしれない。しかし、それだけでは酒がまずい。家内に言わせれば「あなたはビールをおいしく飲むためにトレーニングしている」正解である。
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日々是好日5

2010年11月13日 | Weblog
寿命

 長寿の国とはいえ、60歳も過ぎると死亡率は上昇のターニングポイントを迎えるらしい。企業の承継問題などにしても、それを論拠に経営者に承継準備を促したりする。私なども久しぶりに会った知り合いから、「若々しいですね」などとお世辞をいただく年頃になり、体重計にセットされた体年齢表示は7,8歳は若いけれど、それでも気持ちよりは相当に高齢である。確実に寿命を意識する年頃になったことを感じる。

 団地内の公園で、トレーニングらしきことをしていると、時に知らない子供たちがじゃれついてくることがある。柔道技で投げ飛ばして、また投げられてやったり裏拳の使い方を教授したりしていると、次に顔を合わせた時には「格闘技の先生!」になっていたりする。その子供たちの内の一人が、私のことを「じいじ、じいじ」と呼ぶので、一体幾つぐらいに見えるのか聞いてみると、その場に居た数人の子供たちほとんどから実年齢に近い答えが返ってきた。子供の目はごまかせない。

 私が小学校の5年生の折、学年の課外授業として、少し離れた山のお寺に1泊したことがある。宿坊に泊まり、夜は僧侶からお説教を聴いた。食事は米、野菜など所定量を持参し、持ち寄った材料を寺で調理して夕食と朝食が出た。

 ふもとの町までは電車と汽車を乗り継ぎ、ふもとからは歩いて登った。それほどくたびれた記憶はないので、高い山でもなかったと思うけれど、山頂の朝は霧に覆われて、雲の中に居るような感じを味わった記憶がある。寺の名は郷里では有名な「出石寺」*6)。瀬戸内海国立公園に属する景勝地でもある。

 この寺でおみくじを引いたのだけれど、そのおみくじに「あなたの寿命は64歳」とあった。満年齢なのか、数え年なのか、「・・歳くらい」だったのかどうなのかなど明確でないが64という数字は鮮明である。当時11歳の私にすれば64歳は現実味のない遠い未来であったけれど、何となくその時「自分はそんなに長寿ではないな」という気はした。それにしても、その後いろんな所でおみくじを引くけれど、寿命を予言したものはない。おみくじの予言などに囚われる必要は全くないのだけれど、63歳まで生きてみると、その予言は少なくともすでに半分は当たっていることに気付く。自覚の有無に係わらず、これまで幾多の危険を排して生き延びてこれたわけだから。

 NHK歌謡コンサートの「時代の歌、こころの歌」コーナーで、石橋正次さんの「夜明けの停車場」*7)を久しぶりに聞いた。その歌は、若者が恋人を残して勝手な旅に出る悲恋を描いたものだけど、もしかすれば、もっと普遍的に人生の旅の終着駅で、誰の所為でもない、死んでゆくという人生の別れも象徴的に描いているのではないかと感じてしまった。どこまで行っても生ある身、いつかは愛しい人々とも期せずして別れなければならないのである。





*6)愛媛県大洲市に所在する真言宗御室派別格本山の寺院。山号は金山(きんざん)。812m。本尊は千手千眼観世音菩薩。山号を冠して「金山出石寺」と呼ばれることが多い。平安時代前期、この地で空海(弘法大師)が冬期に雪中修行を行ったとの伝説がある。byウィキペディア
*7)丹古晴見作詞、叶弦大作曲 昭和47年 2010年10月19日放送
  歌詞はネット(ウィキペディア)でご確認下さい
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日々是好日4

2010年11月10日 | Weblog


 私が、会社を定年退職する前までは、社長からの感謝状に添えて、旅行券か相応の記念品が貰えていた。しかし、会社にとっての2007年問題は、退職者への餞別が増えることだったようで、僅かな退職記念品代も会社は惜しむことにしたらしい。

 しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」で、その年に限ってお中元の懸賞で高級ホテルの無料宿泊券(2名分)と旅行券が当たった。家内と二人、自前では経験できない高級温泉ホテルの上等な部屋に泊まることが出来た。

 8月で定年を迎えた年、私はまだ診断士試験の受験生で、10月後半の二次試験までは終日勉強の日々であったから旅行などとんでもなかったけれど、二次試験を終えてようやく時間が取れるようになった。秋の1日一人旅もした。

 やりたかったのは、新社会人となっている息子との旅だった。囲碁や将棋のタイトル戦は各地の旅館やホテルで行われる。地方の旅館で息子と碁を打つことを楽しみにしていたのだ。

 その年(2007年)の11月、行き先は西伊豆松崎町。後で知ったことだけど、「世界の中心で愛を叫ぶ」のテレビ版のロケの多くがこの町で行われたらしい。しかし、私が松崎町を選んだには観光や囲碁目的だけでない訳があった。

 千葉県に転勤になった当時(1983年頃)は息子はまだ幼稚園生。家族で湯河原の会社直営の保養所に電車で行ったのだけれど、空いた車両に乗り合わせた漁師さんとおぼしき男性数人の内の一人が、私と息子のやり取りを見ていて、「子供を非常に大切に思い育てているのが良く分かる。気に入った。自分は西伊豆松崎町の者だ。ぜひ今度遊びに来てくれ」と言われたのだ。結構酒が入っていたようで、酒の上の外交辞令と本気に取った訳ではないけれど、息子との二人旅は、その意に遅ればせながら応える気持ちがあった。あれから20数年、漁師氏の名前も知らず、顔も忘れ、その方を訪ねる宛などない旅ではあった。

 旅の途中に、息子に初めてその話をした。息子もその旅の意義に好感を持ってくれた。途中修善寺に寄り、松崎町ではなまこ壁や長八美術館を見て、夜は碁を打ち、仕事での体験談も聞かせた。翌日は西伊豆の海岸をめぐり、富士宮市でやきそばを食べ、富士山湧水が滔々と流れる本宮浅間大社に寄り、甲府を経由して東京に帰った。

 私にとって長年やり残していた宿題をようやくやり終えた気がした1泊2日の二人旅であった。>
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日々是好日3

2010年11月07日 | Weblog
尖閣

 中国が牙を剥いた。鳩山前総理の言った「友愛の海」の現実である。自民党政権当時から、一部は報道さえされない由々しき状態は続いていた。ガス田開発を巡って、中国は日本独自の開発を、恫喝をもって阻止したように聞いた。当時の日本の担当大臣は悔しさを紛らせるために酔いつぶれた。聞いた話で、真偽のほどは私には分からない。敢えて書く。

 そんな現実の確認を怠り、新政権は政権奪取の調子に乗って、その政党の中枢にある政治家が日米中正三角形外交などと、子供でも怪しむ絵空事を並べはじめた。一党独裁で人権も保証されない国と、我々日米のような自由と民主主義の国家が同列である筈がなかろうに。元商社マンで鳩山前総理のブレーンの一人だったといわれるテレビのコメンテーター氏は、戦後65年今なお米軍基地が日本にあることを異常なこととし、さらに米中とのそれぞれ対等な関係をと吹聴した。マスコミもそれに同調しているスタンスであった。

 さらに、新政権は米国などのアフガン支援の自衛隊艦艇による海上給油の延長を認めなかった。米国政府日米同盟関係者の顔をつぶすことにならなかったか。その後インド洋シーレーン関連の情報は日本には入って来なくなったそうな。この話は私の聞きかじりではなく、一部マスコミで報じられていた。事実であろう。

 そして、「海外、最低でも県外」と当時の日本の総理が猛った普天間基地移設問題だ。長年地元と協議を重ね、ようやく妥協に漕ぎ付けた先人の苦労は水泡に帰した。これだけ続いて、日米関係にヒビの入らないわけがない。現総理が、今さら日米同盟の重要さをいくら説いても、行動が伴わない限り米国の不信感は払拭できないであろう。尖閣は日米同盟の範疇と、ヒラリーさんは当たり前のことを言ったけれど、「知りません」と言われたらどうするつもりだったのか。

 ここぞと、中国だけでなくロシアも行動を起こした。世界に向けて日本の領土である4つ島を永遠に自国領土と宣言したようなものだ。ソ連時代さえ遠慮していた行動をこの時にと起こしたのだ。日本がポツダム宣言を受諾して戦争を終えた後に、日ソ不可侵条約*5)を一方的に破棄して侵攻し占領しながら、正当なる戦利品のごとく言うかの国は、ヤクザ顔負けである。

 それにしても、世界があらゆるパワーのそのバランスの上に成り立っている現状を、認識さえしていなかった幼稚な政治屋集団の現政権は、即刻退場して貰わなければこの国が持たない。





*5)1941年締結の日ソ中立条約で5年間有効としていた。ソ連は1945年4月に条約延長しないことを通告していたが、同年8月8日ソ連は一方的に条約破棄を宣言して満州、南樺太、千島列島等に侵攻した。by Wikipedia
条約破棄は日本のポツダム宣言受諾前だが、北方四島への侵攻は8月15日以後である。
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日々是好日2

2010年11月04日 | Weblog
記録

 大リーグイチロー選手の10年連続200本安打。加えて今年も大リーグ最多安打でこちらも7回目、大リーグ最多タイ記録とのこと。大相撲横綱白鵬関の62連勝。連続優勝も4に伸ばした。このまま、朝青龍関の7場所連続優勝の記録も抜くのではないか。将棋の羽生善治名人、王座戦19連覇。しかも6年連続すべて3連勝のストレート防衛。タイトル獲得数も78期となり、大山15世名人の80期にあと2つ。ゴルフの石川遼選手の昨年史上初の9冠*2)と最年少(10代世界初)賞金王に続き、今年日本オープンで躓いたが、連続賞金王も射程内だ。世界体操個人総合で内村航平選手の2連覇も特筆に値する。日本人初、世界でも3人目の快挙とのことである。間寛平氏のアースマラソンも凄い。再来年のロンドン五輪では、水泳北島康介選手の2種目(100m、200m平泳ぎ)3連覇に期待したいものだ。

 経済1流、政治3流と言われていた時代があったけれど、今や経済は2流に低迷、政治などは番外となっている我が日本国において、ノーベル賞受賞者の輩出などもそうだけれど、いろんな分野で大記録が生まれている。これも格差社会といわれる所以か。などと皮肉も言いたくなるけれど、我が国の戦後の経済復興の余禄の部分もあるように思う。

 それにしても、昨年の政権交代以前から、本稿でも幾たび*3)も述べてきた私の予想そのままに、日本の政治が地に落ちている。世界第6位の領海面積を持つ我が国の、その安全を守る海上保安庁の予算が高々1800億円余りと聞く*4)。尖閣周辺の日本漁民の安全操業は守れるのか。一方、子供手当にいくら出すの。農家戸別所得補償、高校無償化や高速道路無料化でいくらかかるの。比較してそれらバラマキ予算の無駄遣いがいかに多いか分かるというものだ。公立高校無償化なら私立校に行っている生徒にも補償すべきだと国民の欲望はエスカレートする。この財政赤字の中、外国人にもせっせと子供手当をプレゼントする。何のために。それで国の少子化対策と言えるのか。

 それら選挙対策だけで適切な運用さえ放棄した、後は野となれ式の政権交代の無責任さは、外交問題に如実に顕在化し、日米同盟のゆらぎが周辺ならずもの国家の増長を促し、日本の領土の侵食化を現実化させている。

 総理はじめ各大臣に、日本のトップとしての風格や威厳が感じられない。国会では自党の若手に、相変わらず事業仕訳など持ち出すヨイショの質問をさせて喜んでいる。先の民主党代表選挙がいい例で、あれだけ国民が嫌悪する小沢氏に国会議員のほぼ半数が投票した。その見識が疑われるのは当然だけど、当選された現総理の力量のなさを、身近にいる同じ政党の国会議員は良く知っていたという証左でもある。

 要するに、子供手当や高速道路無料化という全く財源の裏づけのない、効果も曖昧なマニュフェストと面白おかしく囃し立てるだけの無責任なマスコミの誘導による綱領さえ無い政党への政権交代は、末代に禍根を残すことになるのではないか。記録よりも記憶に残さねばならない痛恨事である。

 記録に返って、白鵬関の連勝記録などは、何といってもあの双葉山の69連勝記録の更新が今場所に懸っている。大相撲界に「雨降って地固まる」の比喩は適切でないかもしれないけれど、この九州場所は、久方ぶりに大相撲の土俵が注目され続けるのではないか。






*2) 賞金王、最優秀選手賞、Unisysポイントランキング賞、平均ストローク賞、平均パット賞、バーディ率賞、ゴルフ記者賞、MIP賞、特別賞の9つ byWikipedia
*3)★診断士のひとり言2(政権交代)、10(憂国):平成21年6月4日、28日。★中小企業白書を読む2(経済情勢とマニフェスト):平成21年8月4日。 ★閑話つれづれパートⅡその1,2,3(政権交代で日が落ちて上、中、下)、その11,12(マニュフェストの怪上、下)、14(知の衰退下):平成21年9月1日、4日、7日、10月1日、4日、10日。★この国の風景16(民主党)、18(年賀状):平成21年12月16日、22日。
*4)10月3日放送、フジテレビ報道2001での前原大臣の発言から
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日々是好日1

2010年11月01日 | Weblog
映画

 会社に入った頃といえばもう半世紀近く前の話だけれど、同期の友人が「ウエスト・サイド物語」*1)を7回も観た、と話していたのに驚いた記憶がある。DVDもビデオもない時代、繰り返し映画館に通うしかなく、映画ファンというものはそんなものかと脱帽したものだ。趣味は映画鑑賞ですという人の多くは、それに近い経験者ではないかと思う。私なども映画は好きだけれど、その意味で趣味といえるほどのものでは到底ない。

 それでも映画の素晴らしさや凄さは分かる気がする。何といっても例えば小説や絵画なら一人の天才で成せるけれど、映画は一人の天才といわれる監督や俳優や女優だけでは絶対に制作できない。企画、脚本にはじまり、キャスティング、大道具、小道具にメークから照明、撮影、録音、編集まで、相当多くのスタッフ、職人との合作となる。多額の資金も必要となる。私など単なる聞きかじりで書いているけれど、その意味からも映画製作は一大プロジェクトに思える。しかし、だからこそ映画作りのリーダーたる監督の力量が問われることも確かであろう。

 黒沢明監督の偉大さについては、本場ハリウッドにさえ大きな影響を与えたことで、今さら述べるまでもないけれど、代表作のひとつ「赤ひげ」の撮影で、診療室の薬棚の引き出しはシーンとして一度も開けられることはなかったにも関わらず、すべての棚に当時を偲ぶ薬包を入れて置かせたというエピソードを聞くと、その究極の感性の表現に驚かされる。

 映画に限らないけれど、芸術は世界共通に価値観を共有し語り合えるものであろう。音楽や絵画と異なり小説や詩は訳者が要るし、映画も字幕か吹き替えが必要であるけれど、やはりいいものは国境を越えて多くの人が喝采を贈る。

 2008年の「おくりびと」などもいい例で、アカデミー外国語映画賞を始め多くの外国映画賞を受賞した。私は評判に誘われてだいぶん後になって観たのだけれど、思った以上にいい映画だった。素晴らしかった。河原で拾った石を通じた父子の感性のつながりを軸に、死者を丁重に送り出すけじめとしての儀式(納棺)の美しさから人生を見つめる。楽団のチェロ奏者であった主人公の求職に、その雰囲気から履歴書など見もしないで採用を決める社長に、人間の陶冶された感性の素晴らしさをみせる。

 実は最近私は、セットで買った洋画のDVDに嵌まっている。1930年代から60年代の作品。ハリウッド黄金時代であろうか。映像は古いけれど、デジタル変換されており、不快感はない。中でも西部劇はいい。私が高校生ころにテレビでよく放映されていた西部劇。「ボナンザ」、「幌馬車隊」、「アニーよ銃を取れ」、「拳銃無宿」など毎週楽しみに見たものだけれど、その懐かしさもある。当時は映画館で西部劇を観ることはなかったから、銀幕のスター中のスターといえるジョンウェインやゲーリー・クーパーの素晴らしさは評判しか記憶になかった。

 定番の壮大な開拓時代の米国西部の大平原、インディアン、居酒屋、雑貨屋、保安官事務所、駅馬車、開通したての鉄道とその駅舎、教会に牛追い、決闘、銃撃戦と出し物は同じで、勧善懲悪のマンネリズムと思われるが、どっこいエスプリの効いた会話あり、ロマンあり、何より主人公の男らしさに生きるという価値観。そこがいい。政権党の政治屋さん達のああ言えばこう言うだけの信念や気概、教養の乏しさに辟易としている昨今、絶好の清涼剤である。

 「映画ってほんとうにいいものですね」。水野さんや淀川さんの気持ちが少し分かる気のする今日この頃である。
 



*1)ミュージカル、1961年ユナイテッド・アーティスツ配給 アカデミー賞10部門獲得
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