中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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この国の風景10

2009年11月28日 | Weblog
政権の系譜

 私の記憶にある一番古い政治家の名は、現在の首相の祖父である鳩山一郎元総理である。なぜか吉田茂元総理の名には記憶がない。もっとも鳩山内閣の成立は昭和29年(1954年)12月10日とあるから、私はまだ小学の1年生だ。無理からぬことである。史実でしか知らぬが、吉田氏は自由党総裁、鳩山氏は日本民主党総裁であったから、この時も政権交代であったわけだ。孫から孫へは因縁であろうか。

2年後鳩山内閣は退陣しているが、健康上の理由であったように記憶する。第二次鳩山内閣の昭和30年の11月に、自由党と民主党が合併(保守合同)した。ここが自由民主党政権のスタートとなる。この前月に日本社会党が成立しており、いわゆる55年体制が始まったわけだ。鳩山内閣退陣後石橋湛山内閣が誕生。ただ、やはり健康上の理由から僅か2カ月間の内閣であった。そして60年安保の大騒動のうちに退陣した岸信介氏の登場の記憶は鮮明である。「地方遊説に来た時に、本物の岸信介であります」のように演説されたのが印象深い。

そして私の中学時代の内閣総理大臣が、最も好きな政治家である池田勇人氏である。この頃はすでに家にテレビがあったから、「総理と語る」という報道番組で松下幸之助氏と対談する池田総理の記憶は爽やかである。党利党略私利私欲でなく、真に国民を思い国を想う総理の姿がそこにあったように思う。松下幸之助氏はその後松下政経塾を創設したことは周知の通りである。所得倍増計画によって国民を豊かにする明確なビジョン。一方電化による主婦の家庭内労働からの解放。それぞれの立場で、戦後日本の復興を確かなものにした功績は図りしれない。

 1964年東京オリンピックを花道に池田総理は退陣されたけれど、その死後、秘書であった伊藤昌哉氏になる「池田勇人その生と死」*7)は名著である。最近の小泉純一郎元首相の秘書官飯島勲氏の「小泉官邸秘録」*8)もあるけれど、優れた政治家には優れた秘書官がいるものだ。そして優れた政治家は「秘書に任せておりました。知らぬことで驚いています。」みたいな発言はけっしてされないものだ。

 続く佐藤政権の時代は、浅間山荘事件に象徴される過激派が跋扈した時代。また各地に公害問題が噴出した時代であった。高度経済成長の歪が、企業活動にも多くの青年の心にも歪を与えた時代だったかも知れない。その頃の左翼思想の尻尾を現在の指導者層は未だ持っているように見受ける。多くの矛盾を包含しながらも、札幌五輪や小笠原諸島返還を実現し、1972年悲願の沖縄返還を花道に退陣した佐藤政権は長寿であった。しかし、そのことが後継総裁選出に影を落とした。後継と目された福田赳夫氏を抑えて、この間に力を蓄えた田中角栄氏が政権を奪取したのだ。

 ここらに自由民主党政権凋落の種が撒かれた気がする。今太閤とさえ言われた田中元総理の力量は確かに優れたものであったろうけれど、その政治手法はオリジナルであるから評価に値するけれど、その後継と目される政治家が似たような手法を用いた場合、それはただ薄汚れた風景に見えるものでしかない。


 *7)(株)至誠堂 昭和41年12月初版
 *8)日本経済新聞社 2006年12月初版

この国の風景9

2009年11月25日 | Weblog
朱子学の作用

 現政権に言わせれば、今回の政権交代は明治維新に擬えて「平成維新」だそうな。司馬先生の“この国のかたち”第2話「朱子学の作用」によれば、『日本の近代の出発点である太政官政府を成立させたのは明治維新なのだが、革命思想として貧弱というほかはない。スローガンは尊王攘夷でしかない。外圧に対するいわば悲鳴のようなもので、フランス革命のように、人類のすべてに通じる理想のようなものはない』。とあるから、スローガンは単なる「政権交代」でしかなかった現政権と似ていなくもない。

 さらに屈辱的な“開国”をした幕府をゆさぶり、これを倒すために尊王攘夷と言ったけれど、『当時、長州の書生の身から大官になった井上馨のもとに古い知り合いがやってきて、「御前、いつ攘夷はおとりやめという勅諚が出ました」というと、井上はそれをいうな、という表現で、噛みつくように、「あのときは、ああでなきゃいかんかったのだ」といったといわれる』。とある。国会の強硬採決も官房機密費も、野党時代にさんざん追及しておきながら、立場が変わればほっかむりである。昔の発言をあっさりと「撤回」というのも多い。麻生首相時代にはブレルブレルの大合唱で追及していたけれど、現政権の方がはるかにぶれているところも、“維新”の故なのかもしれない。

 「チェンジ」で華々しくデビューしたオバマ大統領でさえ、第二次大戦後新任大統領4番目の早さで支持率が50%を下回ったらしいけれど、その原因は米国内の経済の低迷にある。失業率は10%を超えたとある。株価の低迷やデフレ傾向が一段と深化している日本経済はより深刻だけれど、素人集団の現政権には打つ手が見いだせない。馬鹿もの扱いにされた官僚も、「政治家主導でどうぞ」とお手並み拝見状態ではなかろうか。

 最も問題なのは、与党民主党議員が、政権より党を向いて指示を待っている風景に見えることだ。首相より党幹事長が偉いなどというのは、共産党独裁政治体制の国家のようでさえある。もっともそういう政党を選んだのは国民であり、すべては有権者の責任に帰する。

 『尊王攘夷は、13,4世紀ごろの輸入思想である。中国史の特殊事情から生まれた。宋(960~1279)という、対異民族問題のために終始悪戦苦闘した漢民族王朝下での所産で、特殊な状況で醸し出された一種の危険思想であり、本来普遍性はもたないものだが、それが新思想(宋学)として13世紀の日本に来た。以後本場の中国において、有名な朱子によって大成され朱子学となる。ところで、新輸入による宋学における夷などは、日本には存在しない。そこで、知恵のある者が、坂東で成立した大小の農場主たちの政権(鎌倉幕府)をもって、強引に「夷(えびす)」としたのである。それが南北朝の大乱をおこすにいたる。

 ・・・要するに、宋学の亡霊のようなものが、古爆弾でも爆発したように、封建制度の壁をぶちこわしてしまった。もっとも、それによってひらかれた景色が、滑稽なことに近代だった。この矛盾が、その頃もその後もつづき、いまもどこかにある』。そして現代にビジョンなき政権交代を生んだ。


 『 』内は、文春文庫/司馬遼太郎「この国のかたち一」第2話「朱子学の作用」からの引用ですが、エッセーの構成上編集していることをお断りします。

この国の風景8

2009年11月22日 | Weblog
婚活

 勿論「結婚活動」のこと。従来年頃の男女に、時にうるさがられるほどに普通に行われていた近所のおばさんとか親戚の伯母さんなどからのお見合い話がすっかり影を潜めた関係上、この言葉が発生して来たものであろう。若い男女へのお見合い話が激減したことは、ここ数十年で最も変化したこの国の風景のひとつかも知れないと思う。

 以前から、合コンという名の集団お見合いみたいなものが盛んだったようだけれど、こちらは大勢で何となく楽しげだけれど、「婚活」と聞くと深刻で、しかも孤独の戦いのようで暗いイメージになってしまう。しかも相手の人柄よりもその人の持つ社会的経済的な価値を優先する活動のようでもあり、いい言葉とは言えないように思う。

 この頃は、中年男性のまじめな「婚活」に便乗して、複数の男性からお金を巻き上げたあげくに殺害したのではないかと思われる毒婦の事件が起こっているけれど、カマキリの世界にも似た風景でさえある。

 それにしても、この国では少子化対策なるものが、選挙のマニフェストに利用され、あげくに公開事業仕訳なる大道芸を思いつき、あくまで選挙対策のイメージ戦略を展開している政権政党があるけれど、最大の無駄である「子供手当」を筆頭に「高速道路無料化」や「高校授業料の無料化」などこそカットすれば、将来への夢である科学技術費用などをチマチマと削る必要などありはしまいに。

 「子供手当」は少子化対策の目玉のようにも言われているけれど、確かに現在子供を持っている層は選挙の票田として魅力的であろうけれど、少子化の根本のところを捉えている施策などではない。すなわち「婚活」という言葉に代表されるように、男女共に結婚年齢が上昇し、かつ結婚率が低下していることこそ少子化の大きな要因である。それなら若い男女が結婚できる社会環境に整備しようとする施策こそが真の少子化対策となるべきである。

 (社)中小企業診断協会東京支部が今年11月に発行した「地域中小企業政策提言集」に診断士である佐々木幸治氏の論文「中小企業従業員の婚活支援と夫婦への所得増加支援で少子化を抑制せよ」がある。この中で氏は、年収と未婚率の相関図を示しているが、30歳代で年収が700万円以上では10~30%の未婚率に対して、100万円未満の者は、未婚率が80%程度に急騰する。年収300万円未満の30歳代は50%以上が結婚していない。

 社会環境の整備と言ったけれど、結局は世界に高い技術で貢献できる産業構造を維持高進し、すべての日本人が豊かになることである。そのためには国民一人一人が国からの給付金などに頼るのではなく、自らの力で生活を向上させようとする活力ある社会を作ることに尽きる。

 結婚したからそのまま幸せになるともいえはしないけれど、結婚を望む人々がそれぞれに家庭を持てることこそが、国の安寧につながり豊かな風景を醸し出してくれるものと思う。

この国の風景7

2009年11月19日 | Weblog
天皇の国

天皇陛下の即位20年を祝う政府主催の記念祝典が12日に国立劇場などで行われた。私は皇居での祝典のご様子を少しテレビで拝見した程度だけれど、両陛下が楽しそうにされていることが嬉しかった。昭和初期の20年間は私にとっては史実でしかないけれど、戦争に塗(まみ)れたものであった。日本は存亡の危機に瀕した。しかしいろいろあっても平成のこの20年は、平和ボケといわれるほどに国民は安寧を享受した。これに勝る幸せもないのだけれど、人間の欲望は果てしなく、また平和ボケの証左として国体を曖昧にする現政権党の台頭を許した。

祝典の一方で、都内でも天皇制に反対するデモ行進もあったようで、こちらはテレビでチラリと報道されていたに過ぎなかったけれど、そのようなデモがあることを私は初めて知った。私の認識では、共産党が天皇制を否定している以外明確に天皇制を否定している団体等はないように思っていたし、市民ベースでまとまった行動をするような勢力があることを知らなかった。

もっとも、昔「日本人とユダヤ人」*5)で学んだ「全員一致の審決は無効」のごとく、何につけても否定や反対する人は居るもので、その意見を封じる法律や空気がある状況での審決なら問題である。その点、この日本で天皇陛下のご即位を祝う日に、その反対運動が行われることは、その点に関してはこの国の健全さを物語っているのかも知れない。

天皇制廃止論者の中心的論拠は、人間の平等に反するということと思われる。皇室に生まれることで、生まれながらに国民の税金で厚遇を保証されることへの不平等感と、反面籠の鳥のごとく自由を制限されることへの同情論も入り混じっている。これらの意見は一見正当とも思える。それらの意見に論理的に明確に反論することは至難とさえ思う。

ただ、私はこの国のそして皇室の歴史の重みを思う。日本人のわれわれの先輩が営々と築いてきたこの崇高なる文化と伝統を、たかだか昨日今日生まれてきた現存世代が、その一世代の理屈などで覆していいものではけっしてなかろうと思う。天皇そして皇室を敬う心とその制度は日本人の血肉に深く入り込んだDNAであり理屈ではない。それを廃止論という論理で否定することは刀で空気を切ることにも似ている。

祝典の翌日オバマ大統領が来日した。駆け足の訪日となったけれど、両陛下とも昼食を挟み1時間半程度懇談されたと報道されていた。国の経済力でも軍事力でも先の大戦の勝者でもなく、米国大統領オバマ氏も素の人間として陛下にお会いすることを光栄に感じ、自然な礼を尽くす。それは、理屈ではなく「私」を超越した人への畏敬ではなかろうか。大統領は、鵺(ぬえ)のような政治家などに会いたくはなく、陛下にお会いしたいために日本に来られたのだと思う。

陛下の祝典に招かれた北野たけし(ビートたけし)氏は、その後のテレビ*6)に出演の折、祝典で美智子皇后陛下からお声を掛けられた時の心境として、「咄嗟に、この人のためなら死んでもいいと思った」と言っていたけれど、恐らく大袈裟でもシャレでもなく、美智子妃の日々のお覚悟が、国民への温かいお心が感性豊かな人にそのような想いを抱かされるものであろう。日本は天皇陛下のおられる世界で最も幸せな風景を持つ国ではなかろうか。


*5)イザヤ・ベンダサン著 山本書店1970年5月初版
*6)地上デジタル5チャンネル「TVタックル」

この国の風景6

2009年11月16日 | Weblog
この土地の風景

 私の住まいする千葉県市原市は、2007年には工業製品出荷額が5兆円を超えて、日本第2の工業都市だそうな。臨海部の工場群は確かに壮大で、その地は昭和30年代に遠浅の海岸を埋め立てたものだ。臨海部に青柳という地名が残るけれど、別名バカ貝と呼ばれた貝の名で、埋め立てられる前は遠浅の砂地で相当の水揚げを誇っていたとのことである。貝たちは、埋め立てされた時は逃げる暇もなく死んでいったのであろう。だから近くにこの貝の慰霊碑がある。

 市原市は海岸から内陸の養老渓谷まで奥まって、千葉県のほぼ中央部に位置するけれど、市の中央を東京湾に注ぐ養老川が流れており、その流域には豊かな農地が広がり、現在は幸水や豊水といった梨の名産地でもある。また特産のイチヂクは東京市場で他地方のイチヂクを制して一番高値で取引されると、地元の農家の青年から聞いた。勿論野菜や米作も盛んで、臨海部に近いJR内房線の五井駅から姉ヶ崎駅間の沿線でさえ豊かな緑に包まれた風景が望める。

 市原市はゴルフ場が多いことでも知られる。市の面積に占めるゴルフ場面積の割合が日本一と聞いたが、ゴルフをやらない私には縁が薄く真偽のほどは確認していない。ただ、私の住居の近くにも姉崎、立野と2つのカントリークラブがある。特に姉崎カントリーは、昔は東京読売ジャイアンツが忘年ゴルフか何かでよく利用していたと聞く、東京でも有名なカントリークラブであるらしい。

ここからの話は、私がこの地の工場勤めの折に工場有志で原稿を持ち寄った「葉脈」(1984年12月刊)という文集の中の榊由之氏の作品*3)を引用に近い形で参考にして綴る。

『その姉崎カントリーの大地主である切替家は、元々この地の豪族立野家であった。1180年、以仁(もろひと)王の命令を受けて挙兵した頼朝は石稿山の戦いに敗れ、主従7人で真鶴岬から小舟で現在の千葉県安房郡鋸南町*4)に上陸した。この地の豪族の支援を得て再起をはかった頼朝は、精鋭三百騎で北上し、現在の市原市立野に辿り着き、立野長右衛門宅に数日間滞在し兵をさらに強化する。出陣の際に頼朝が旗竿を気分一新と新品に取り換えたが、この由来から頼朝は後に立野家に「切替」の姓を与え、更に恩賞として、日の出から日没まで、牛を歩かせて出来た境内の土地を与えた。』

市原市を海沿いに下るお隣は袖ケ浦市であり、アクアライン、海ほたるにつながる木更津市がある。

『大和朝廷の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)は東郡の蝦夷征伐のため、相模の走水(はしりみず)から上総国へ渡ろうとした。軍船が海の真ん中に来た時、大嵐となり船は沈没寸前となる。この時、日本武尊の妃である弟橘姫(おとたちばなひめ)が、「海神の怒りをなだめ申さん」と海に飛び込み、夫の苦難を救った。ようやくのことで上総に着いた日本武尊は、亡き弟橘姫を偲んで、海原をみつめて去ろうとしなかった。「君不去(君去らず)」が後に「木更津」の地名となった。また、後に弟橘姫の袖が近くの海岸に流れ着いたことから、その地は「袖ケ浦」と呼ばれるようになった。』

*3)市原市とその周辺の古代からの逸話を紹介するもので、文集の中で秀逸の作品であり、すべてを紹介したいくらいであるが、エッセーの構成上、その一部のみ参考に編集させていただいたことをお断りします。
*4)鋸南町は、日本一の大仏(石像)を擁する日本寺やその展望の良さで有名な鋸山がある。

この国の風景5

2009年11月13日 | Weblog
女子大生殺害事件

 政権が友愛を標榜して曖昧な政治主導を意気込んでいるけれど、巷では友愛とは程遠い事件が頻発している。千葉大学の4年生所謂女子大生が、自宅マンションで殺害され放火された事件が10月22日。10月26日から行方不明となっていた島根県立大学1年生のやはり女子大生の切断された頭部が広島県の山中で見つかったのが11月6日。どちらも稀にみる残虐な事件で、特に島根県の女子大生の事件は、宮部みゆき氏の「模倣犯」を思わせる事件発覚の状況である。また埼玉県の女性による結婚詐欺事件は、当該女性を巡る複数の男性が過去に不審な死に方をしているところから、こちらは連続殺人事件への嫌疑がかかっている。同様の事件が鳥取県でも発生しているけれど、どこかで飛行機が落ちると連続して墜落事故が起きることと共通して、類似の事件・事故は続くものだ。

 また今年は、オーム真理教の信者によって引き起こされた弁護士一家殺害事件から20年。オーム真理教の事件では宗教団体ということで警察も腰が引けて、あらゆる悪が尽くされた揚句でなければその正体を暴くことが出来ず、多くの犠牲者を出したことは記憶に新しい。

 近年マスコミの力はものすごく、警察権力に対する過度の警戒によるマスコミからの批判は、警察捜査を萎縮させ事件の拡大を招くこともあるように思う。確かに足利事件のようなことになっては困るのだけれど、ストーカー事件などでは被害女性が襲われてからでは遅かろう。

 巷間話をすれば、スーパーのレジのおばさんも「日本は甘いよねえ」というけれど、意外と政治家や知識階級の人々の中に死刑廃止論を真剣に論じる人が居て首を傾げてしまう。「裸の王様」の話はよくできた話で、多少ものの分かっていると思い込んでいる連中が、そのものズバリの単純な話を高尚に考えて盲目になることが多いものだ。

 外国人参政権などもそうだ。日本に住んで参政権を得たいなら、帰化すればいいことで、帰化を封じているわけでもないにも関わらず、日本人になるのはいやで参政権だけは寄こせというのはあまりに得手勝手というものだと思うけれど、いかにも大尽ぶってこれを制度化しようとする現政権などはまさに裸の王様に取り巻きが、「見事なお衣装です」と言っている集団の風景にしか見えはしない。

 それにしても島根の当該大学の人口6万人の街から学生の姿が消えたと新聞報道にあったけれど、このような犯人を捕まえても死刑廃止論者は余命を全うさせようというのであろうか。

この国の風景4

2009年11月10日 | Weblog
キューバ危機

 1962年10月の出来事だから、この事実を直接ニュース等で聴いて覚えている方は、すでに50歳代以上の年配となる。私は中学3年生だったから、詳細は兎も角よく覚えている。キューバ革命後、米国に敵対されたカストロは当時のソ連に近づく。そして米国からの攻撃に備えて、核弾頭の装備できるソ連製ミサイルをキューバに配備する。この事実を知った当時の米国大統領J.F.ケネディーはキューバ近海の海上を封鎖し、ソ連のキューバへの輸送船を臨検する旨通告した。ソ連の首相はフルシチョフ。この時、彼の譲歩がなければ世界は第三次世界大戦という未曽有の核戦争に突入したであろうとされる大事件であった。

 1年後、ケネディーは暗殺されたが、フルシチョフもその後失脚した。フルシチョフが亡くなった時、ソ連の新聞にはある年金生活者が死亡した程度の扱いだったことが、日本でも報じられていた記憶がある。

 なぜ、いま頃「キューバ危機」を持ち出したか。現在の沖縄の米軍基地問題に揺れる日本の風景を地球の裏側の出来事から、また歴史の彼方から眺めてみようとしている。なぜなら現在の中国を当時の米国の立場と捉え、現在の米国を当時のソ連に置き換えてみると、現在の中国には沖縄は当時の米国にとってのキューバ島にも見えているのではないかと思うからである。

 勿論ここまでに至る事情は全く異なるものであるけれど、当時の米国がキューバのミサイル基地をして、喉元に匕首を突きつけられたように感じたと近い軍事的戦略上の意味が、中国にとっての沖縄にはあろう。沖縄の人々を煽ってでも、国家感の薄い民主党政権さえも動員して、中国には沖縄の米軍基地を縮小させたい。あわよくば近い将来全面撤退させたいのはやまやまであろう。私には現在の沖縄を巡る風景がそのように映って仕方がない。

 中国の経済的軍事的膨張が、米ソの冷戦時代にも増して日米にとって沖縄の軍事的価値を高めている。沖縄県民の民意を無視していいわけはないが、鳩山政権の曖昧さが住民の基地への反発を増大させた。軍事基地などどこでも嫌われるのは当たり前だけれど、その地理的条件において沖縄に代わりうる所は地球上にないのも現実である。

 民主国家にあって、現地住民は本交渉においては絶対的優位にあるけれど、「基地など要らぬ」という住民の発言は当然だけれど、所詮大局的見地からの発言などではない。基地を撤収させたのちの県民の経済的自立の方策でさえ考えてはいないのではないか。そこに折り合いをつけるのが政治力である。

 党内でさえ掌握できず権限を持てない総理が、この国の運命を左右している風景はこれから来る木枯らしの季節にも見える。

この国の風景3

2009年11月07日 | Weblog
JIN-仁-

 この10月から始まったTBSの日曜劇場「JIN-仁―」は面白い。視聴率も17%台と好調のようだ。物語の発想がいい。勿論「戦国自衛隊」とかタイムスリップものは過去にもあるけれど、ひところ「算術」といわれた医術の人間愛を、科学の進歩の面から際立たせているところがいい。

 知らなかったけれど、原作は漫画とのこと。私も大人になってからでも「柔道一直線」、「ドラゴンボール」、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」、「龍」や「ヒカルの碁」など熱心に読んだ。古くは「巨人の星」などテレビに釘付けで観た。今年20作目で終えるという映画「釣りバカ日誌」もこれまでの19編すべて観た。もっとも原作本は読んでいない。そういえば日本アカデミー賞映画「三丁目の夕日」も原作は漫画だった。ともすれば軽視されがちな漫画であるけれど、漫画家の豊かな創造性は素晴らしい。

 「JIN―仁―」では、江戸時代の江戸の風景と現代の東京が入れ替わりで映されて、150年の時の流れを印象づける。神田川はあのように流れていたのかと思う。今も神田川が流れるJR中央線御茶の水駅の風景は好きだ。コンクリートジャングルとかいうけれど、東京は江戸時代の庭園も残し、張り巡らされた地下鉄など鉄道網の充実によって利便性抜群の素晴らしい都市となっている。金沢や仙台などもそうだけれど、江戸時代に城下町として栄えた都市は概して街並みが美しく、その伝統が今も随所に残り文化の香りが高い。

 それにしても、自分が江戸時代にタイムスリップした時に、一体何が出来るかと考えると心さびしくなる。テレビもパソコンも観ることや使うことは出来ても作ることは元より、その原理も説明できない。当時の人々に伝えるべき何物もないことが寂しい。だから脳外科医の南方仁が際立つ。勿論現実にはノミで頭がい骨を砕いて施術するなど、設備の整った病院でこそ可能なことで、医師の腕だけではどうにもならないことも多いと思うけれど、そこが物語の楽しさである。

 すでに江戸時代を見知っている人はこの世にはいない。しかし、その風景はこの国の原風景ではなかろうかと思う。かの時代の人間性溢れた豊かな文化があってその後のこの国の文明の発達があった。戦後の人々の並々ならぬ努力があってこの国はここまで来た。経済発展などなくて良いと思う人もおろうが、経済発展なくして科学の進歩もなく、都合良く人の苦しみを救う医術のみ進歩する道はないことを「JIN-仁-」は教えている。

この国の風景2

2009年11月04日 | Weblog
この国のかたち

 「この国のかたち」は勿論司馬遼太郎先生の文芸春秋の巻頭エッセーのタイトルで、後に単行本となり、文庫化されて今も書店の棚を飾っている。文芸春秋の巻頭エッセーは田中美知太郎先生の時代から読みついでいるので、司馬先生のものも毎月必ず読んでいた筈であるが、今回あらためて文庫本を読んでほとんど覚えていないことに愕然とした。というより、「こんなに難しかったかな」というのが正直な感想である。

 司馬先生のエッセーのタイトルを自分のエッセーのタイトルにも転用するところが、いかにも身の程知らずではあるけれど、先生のエッセーのように自分もこの国を見つめ直してみようと思ったのだ。しかしながら「かたち」を捉えるためには、この国を三次元で捉える必要がある。そんな教養も文章力もない。

司馬先生の作品に「空海の風景」という小説があった。「風景」とされた司馬先生の想いは、その小説の“あとがき”にあるように『空海は私には遠い存在であったし、その遠さは、彼がかつて地球上の住人だったということすら時に感じがたいほどの距離感である』に込められているのではないかと思う。司馬先生にしてしかり、凡夫凡庸のわが身が、何かを少しでも捉えようとするなら、せいぜい二次元の「風景」がよかろう。その想いでこの語彙も借用することに決めた。そして出来たのが、「この国の風景」という今回のわがエッセーのタイトルである。

司馬先生の「この国かたち」の第1話はそのまま「この国のかたち」。『日本人は大陸から儒教や仏教を取り入れながら、ひとびとのすべてが思想化されてしまったというような歴史をついにもたなかった。これは幸運といえるのではあるまいか。そのくせ、思想へのあこがれがある。思想とは本来、血肉となって社会化されるべきものである。日本にあってはそれは好まれない。そのくせに思想書を読むのが大好きなのである。こういう奇妙な  得手勝手な  民族が、もしこの島々以外にも地球上に存在するなら、ぜひ訪ねて行って、その在りようを知りたい。』とある。

自由経済を標榜しても、所詮市場原理主義などは日本人の血肉にはそぐわない。それを目指した政治家などありはしない。為にする批判によって、新政権の政策を正当化することがこの国を危うくさせている。「ほんとうの優しさをもつことのできる人は、しっかりした心構えのある人きりだ。優しそうに見える人は、通常、弱さだけしかもっていない人だ。そしてその弱さは、わけなく気むづかしさになり変わる」(ラ・ロシェフコオ)*2)。この“人”を“政党”と読み替えて、この国の風景を眺めてみる必要があるのではないか。


*2)堀英彦「人生旅行」大和出版販売(株)昭和48年5月初版から引用

この国の風景1

2009年11月01日 | Weblog
沈まぬ太陽

 息子が学んだ大学の学園祭に一度だけ行ったことがある。もう10年も昔の話だ。当日は当時の内閣総理大臣であったか総理退任後であったか記憶が定かでないが、橋本竜太郎氏のご講演があり、会場に出向いてみるとすでに人で溢れていて入れそうになかった。その日は別の会場でもう一つの講演があったため、そちらに切り替えた。それが今映画化で話題となっている山崎豊子氏「沈まぬ太陽」の主人公恩地元のモデルとされる小倉寛太郎氏のご講演であった。

 「沈まぬ太陽」が単行本になっているのが1999年だから、当時まだ一般に大きく知られていたわけではなかったようで、事実講演会場に集まった聴衆も多いとは言えなかった。

この時のご講演では、学生に向かい「大学は理系に進むべきだ。医者は小説家になれるが、小説家は医者になれない」、理系は実習・実験を必要とし、それは独学では難しいから大学などを活用すべきだというもので、妙にその部分だけが印象に残っている。しかし、これを機に私は「沈まぬ太陽」全5巻を早速に購入して読んだけれど、この講演との出会いがこの小説との出会いとなった。

それにしても、日本航空が深刻な経営不振で国が支援して再建せねばならないこととなり、諸々の事情から困難と言われた映画化が実現した今日。小倉氏のご講演がこの時期であれば、会場は聴衆で埋まったであろうことを思う。

たとえ事実を基にしたといえ、単に「小説」とした場合、それは作家の創作であり事実ではありえない。そんなことは分っていても「沈まぬ太陽」には、当時日航サイドからは大きな反発があり、関係者間で相当論争があったようだ。

しかし、そもそも真実とは正義とは何であろうか。現在の日本を眺めてみても、100年に1度といわれる世界的大不況の最中に、これまで政権を担ったこともない政党に政権を委ねる政権交代という暴挙は、黒船にうろたえた幕末の混乱とも共通するこの国の有り様なのかもしれない。

鳩山首相は、所信表明演説の後の代表質問にかなり強気の答弁をしているけれど、小泉改革批判などは真に検証して評価しているとは思えない。われわれ一個人が政治に対する印象として論じるならば、それは仕方のない仕業であろうけれど、一国の総理の立場から国会でモノ申す場合、単なる感覚論であってはなるまいに。しかし、小泉批判は郵政民営化を代表として、その内閣時代から自民党内にも渦巻いており、単なる感覚論が現野党である自民党内に対しても説得力があるところに妙がある。

このような風景を私は角福戦争の延長戦とみる。小沢氏、鳩山氏元々は自民党田中派であり、福田氏直系の小泉氏とは対極にあった。当時から福田氏は金権政治的な田中氏に批判的であった。事実田中元首相が、同士を札束で釣っていた話は、浜田幸一氏*1)のたびたびのテレビ等での発言が裏付けている。鳩山氏は自分のお金ではなく、国のお金を餌に人心を買った。そんな政治が正義であろう筈はない。まさに「沈まぬ金権政治」である。

  *1)木更津市で浜田幸一氏のご講演を聴いたことがある。その著作も数冊購入して読んでいる。私は好きな政治家のお一人だ。