政権の系譜
私の記憶にある一番古い政治家の名は、現在の首相の祖父である鳩山一郎元総理である。なぜか吉田茂元総理の名には記憶がない。もっとも鳩山内閣の成立は昭和29年(1954年)12月10日とあるから、私はまだ小学の1年生だ。無理からぬことである。史実でしか知らぬが、吉田氏は自由党総裁、鳩山氏は日本民主党総裁であったから、この時も政権交代であったわけだ。孫から孫へは因縁であろうか。
2年後鳩山内閣は退陣しているが、健康上の理由であったように記憶する。第二次鳩山内閣の昭和30年の11月に、自由党と民主党が合併(保守合同)した。ここが自由民主党政権のスタートとなる。この前月に日本社会党が成立しており、いわゆる55年体制が始まったわけだ。鳩山内閣退陣後石橋湛山内閣が誕生。ただ、やはり健康上の理由から僅か2カ月間の内閣であった。そして60年安保の大騒動のうちに退陣した岸信介氏の登場の記憶は鮮明である。「地方遊説に来た時に、本物の岸信介であります」のように演説されたのが印象深い。
そして私の中学時代の内閣総理大臣が、最も好きな政治家である池田勇人氏である。この頃はすでに家にテレビがあったから、「総理と語る」という報道番組で松下幸之助氏と対談する池田総理の記憶は爽やかである。党利党略私利私欲でなく、真に国民を思い国を想う総理の姿がそこにあったように思う。松下幸之助氏はその後松下政経塾を創設したことは周知の通りである。所得倍増計画によって国民を豊かにする明確なビジョン。一方電化による主婦の家庭内労働からの解放。それぞれの立場で、戦後日本の復興を確かなものにした功績は図りしれない。
1964年東京オリンピックを花道に池田総理は退陣されたけれど、その死後、秘書であった伊藤昌哉氏になる「池田勇人その生と死」*7)は名著である。最近の小泉純一郎元首相の秘書官飯島勲氏の「小泉官邸秘録」*8)もあるけれど、優れた政治家には優れた秘書官がいるものだ。そして優れた政治家は「秘書に任せておりました。知らぬことで驚いています。」みたいな発言はけっしてされないものだ。
続く佐藤政権の時代は、浅間山荘事件に象徴される過激派が跋扈した時代。また各地に公害問題が噴出した時代であった。高度経済成長の歪が、企業活動にも多くの青年の心にも歪を与えた時代だったかも知れない。その頃の左翼思想の尻尾を現在の指導者層は未だ持っているように見受ける。多くの矛盾を包含しながらも、札幌五輪や小笠原諸島返還を実現し、1972年悲願の沖縄返還を花道に退陣した佐藤政権は長寿であった。しかし、そのことが後継総裁選出に影を落とした。後継と目された福田赳夫氏を抑えて、この間に力を蓄えた田中角栄氏が政権を奪取したのだ。
ここらに自由民主党政権凋落の種が撒かれた気がする。今太閤とさえ言われた田中元総理の力量は確かに優れたものであったろうけれど、その政治手法はオリジナルであるから評価に値するけれど、その後継と目される政治家が似たような手法を用いた場合、それはただ薄汚れた風景に見えるものでしかない。
*7)(株)至誠堂 昭和41年12月初版
*8)日本経済新聞社 2006年12月初版
私の記憶にある一番古い政治家の名は、現在の首相の祖父である鳩山一郎元総理である。なぜか吉田茂元総理の名には記憶がない。もっとも鳩山内閣の成立は昭和29年(1954年)12月10日とあるから、私はまだ小学の1年生だ。無理からぬことである。史実でしか知らぬが、吉田氏は自由党総裁、鳩山氏は日本民主党総裁であったから、この時も政権交代であったわけだ。孫から孫へは因縁であろうか。
2年後鳩山内閣は退陣しているが、健康上の理由であったように記憶する。第二次鳩山内閣の昭和30年の11月に、自由党と民主党が合併(保守合同)した。ここが自由民主党政権のスタートとなる。この前月に日本社会党が成立しており、いわゆる55年体制が始まったわけだ。鳩山内閣退陣後石橋湛山内閣が誕生。ただ、やはり健康上の理由から僅か2カ月間の内閣であった。そして60年安保の大騒動のうちに退陣した岸信介氏の登場の記憶は鮮明である。「地方遊説に来た時に、本物の岸信介であります」のように演説されたのが印象深い。
そして私の中学時代の内閣総理大臣が、最も好きな政治家である池田勇人氏である。この頃はすでに家にテレビがあったから、「総理と語る」という報道番組で松下幸之助氏と対談する池田総理の記憶は爽やかである。党利党略私利私欲でなく、真に国民を思い国を想う総理の姿がそこにあったように思う。松下幸之助氏はその後松下政経塾を創設したことは周知の通りである。所得倍増計画によって国民を豊かにする明確なビジョン。一方電化による主婦の家庭内労働からの解放。それぞれの立場で、戦後日本の復興を確かなものにした功績は図りしれない。
1964年東京オリンピックを花道に池田総理は退陣されたけれど、その死後、秘書であった伊藤昌哉氏になる「池田勇人その生と死」*7)は名著である。最近の小泉純一郎元首相の秘書官飯島勲氏の「小泉官邸秘録」*8)もあるけれど、優れた政治家には優れた秘書官がいるものだ。そして優れた政治家は「秘書に任せておりました。知らぬことで驚いています。」みたいな発言はけっしてされないものだ。
続く佐藤政権の時代は、浅間山荘事件に象徴される過激派が跋扈した時代。また各地に公害問題が噴出した時代であった。高度経済成長の歪が、企業活動にも多くの青年の心にも歪を与えた時代だったかも知れない。その頃の左翼思想の尻尾を現在の指導者層は未だ持っているように見受ける。多くの矛盾を包含しながらも、札幌五輪や小笠原諸島返還を実現し、1972年悲願の沖縄返還を花道に退陣した佐藤政権は長寿であった。しかし、そのことが後継総裁選出に影を落とした。後継と目された福田赳夫氏を抑えて、この間に力を蓄えた田中角栄氏が政権を奪取したのだ。
ここらに自由民主党政権凋落の種が撒かれた気がする。今太閤とさえ言われた田中元総理の力量は確かに優れたものであったろうけれど、その政治手法はオリジナルであるから評価に値するけれど、その後継と目される政治家が似たような手法を用いた場合、それはただ薄汚れた風景に見えるものでしかない。
*7)(株)至誠堂 昭和41年12月初版
*8)日本経済新聞社 2006年12月初版